※この作品はR-18です。

僕を止めて下さい   作:架空線

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27.檻と虜

(あとで君にプレゼントを贈るよ…待っててね、裕くん)

 

 ドクター清水はにっこり笑って僕を車から降ろした。なぜこんなにあっさり帰してくれたのか僕にはわからなかった。約束通り身体を弄ばれることもなかった。これ以上僕に負担を掛けないほうがいいと思ったのだろうか。再起不能なリンチだったという気がするけど。

 

(じゃ、またね)

 

 いつの間にか車は去り、僕は呆然と自分の大学の裏門の前に立っていた。一瞬ここはどこなんだろうとあたりを見渡すと、いつもの校舎がまるで初めて見るビルみたいに見えた。夜はもう2時を回っている。入り口は無人で、僕のふらついた足元から鳴る靴音だけが耳についた。自転車を回収する。ふらついて乗れる気がしない。それよりも風を切る自転車のスピードに気持ちが耐えられそうになかった。結局、乗らずに一歩々々自転車を押してマンションまで帰った。自転車置き場に自転車を停め、誰もいない真夜中のエントランスへ続く階段を重い足で上り始めた。

 

 いつだったか、真夜中、やめたはずのタバコをふかした大きな男がここでボロボロの僕の帰りをずっと待っていた、そんな記憶が不意に甦った。愕然とする。なぜ今それを僕は思い出すのか、あの時の倒れかかった肩の厚さとか、掴んだスーツの感触とか、苦々しい嫉妬の顔だとか、どうでもいい記憶のくせに僕がなぜここで、こんな打ちのめされて、独りで…

 霧散していく思考と記憶の断片。いきなり数段しか無い階段につまづいていた。スネをしたたかに打ち付けて、段差を跨いだ四つん這いのままうっ…と呻く。立たなければならないのかな…このままここでしばらく倒れていたい。手の力を抜いた。階段に預けた頬にひんやりとした石のタイルが僕のわずかな心地よさに貢献した。体温を奪って、視界を閉じて。耳を塞いで、生という寄生虫の言葉から僕の側頭葉を遮断して。あの人の記憶は、誰の記憶?

 

 息を殺して、心臓を止めて。

 もういいでしょ? 始まったものを終わらせて。

 

(救ってあげられる…僕は君の死を細胞ひとつひとつに戻してあげられる…性欲に汚された君の身体を漂白して冷たい静寂で満たすことができる…狂った君を自分の快楽の道具にしてる男には二度と触れさせない…君の望みを叶えてあげられるのは僕だけだよ…裕くん…)

 

 あなたは良い人でしたよ、幸村さん。でも僕は今日、本当の絶望というものを知ってしまった。どうしていいかほんとうにわからないんです。僕は死神だけど、悪魔っていうのはもっと違うんだってこと、今日知った。もう逃げられないんだってことも…

 

 

 

 暗がりの中で家のドアをバタンと閉めるとかばんがスルッと肩から玄関に落ちた。それを拾う気力はなく、靴を脱いだことも曖昧なうちに、服のままベッドに沈みこんだ。

 夜明け前の冥い自分の部屋で僕は絶望に押しつぶされて倒れていた。虫カゴの中のシデムシ、それが今の自分。捕まったのだ。逃げられない相手に囚えられてしまった。僕を陰ながら支援してくれていたと思っていた優秀な医師は、僕の捕食者だった。

 

 不意にあの動画が蘇ってくる。見せられた時と同じ、皮膚の下を虫が這いずるような感覚と嫌悪感が瞬時に湧き上がり、僕は呻きながら自分の頭を掻き毟った。そして絶望が再び頭の中を支配した。もうこれで完全に僕は彼の言いなりなのだろう。児童ポルノとして警察に訴えることは可能だ。しかしそれをやったときに彼がどこまで僕の周辺の問題を暴くことになるのかを考えると、それは現実的ではないということはわかった。

 少なくとも僕と幸村さんの関係を警察やメディアに暴露されたら…そう思うと更に絶望が倍加された。僕の関わる社会に亀裂を入れることと、僕が独り、ひっそりと自滅するのとでは、確実に僕は後者を選ぶ。これは選択の余地がない選択でもあった。清水先生の一人勝ち。いや、彼は今までの人生のすべてを僕に賭けてたんだ。それは一人勝ちでも許されるのかも知れない。

 自らの人生の全てを賭けて、僕を殺すために生きて、僕を探して彷徨してきた人。それは言うならば佳彦と全く反対の人生と言えた。それはつまり…諦めていた願いが叶うのだろうか。ポータルのありか、カギの開け方、僕はそこに行けばいい、それだけ? ああ、気が狂いそうだ。僕がはるか昔に望んだことがこんな風に現実を侵食しているなんて。

 呪いを解くよりも、僕が自分を…死を取り戻す? いや、これが呪いを解く鍵なのか? 彼は、ドクター清水は言った。 僕に帰るはずの死が戻れなくなって、周りに感染し始めるんだと。そしてそれは誰でもない、佳彦のせいなんだと……殺してくれなかった、彼の…せい…

 

 不意にあの頃の眠れない夜に悶えて苦しんで自分の手首を切ろうとした感覚が甦ってきた。懐かしい焦燥の中で、なぜか今まで一度も思い出したこともない佳彦との記憶が脳裏に映しだされていた。それはドクター清水に見せられた動画の衝撃のせいなのかもしれない。

 

 意識が戻って、身体が上下に揺れている。薄っすらと目を開けると、佳彦の顔が見え、いつものように僕は犯されている。すると僕を見た佳彦は、まるで捕まえた蝶が逃げてしまうかのような切ない目をしてまた僕の首に指を這わせて撫で回し、僕を焦らしながら呟く。

 

(ダメ…まだだよ…僕がイクまで死んでいてよ…ほらしてあげる…君のいちばん好きなこと…ほら…どうして欲しい?)

 

 僕は意地悪な佳彦の手を朦朧とした意識の中で自分で掴むと、僕の首筋に押し当て、早く落として欲しいとばかりに首を仰け反らせて差し出す。佳彦の欲望を咥えこんだ腰がひとりでにくねって浮く。僕の首に纏いつく興奮しきった佳彦の長くて白い指。意識を再び失う直前の僕の嬌声と射精に佳彦の顔が蕩けそうにほころぶ。その指は僕の首を絞めあげる時にいつも喜悦に震えていた。

 好きか嫌いかもわからない彼に首を絞められてただ犯されるだけの情景。だが、その記憶はとてつもなく甘美な、涙が出てくるような変な感傷を突き動かす何かだった。それを至福というものなのかと僕はその時初めて思った。それならこれは、極めて短く、唐突に終わる至福だった。

 

 犯されたその熱が冷めないまま自分の部屋で『Suicidium cadavere』を見ながら自慰をして、僕はカッターで性器を切り取ろうとしていた。僕は死を求める自分の性の欲望に抗えなかった。それでもあの写真集を眺めることに僕は満足していた。いままで見てきたどの屍体の写真集よりも素晴らしかったから。生の熱の嫌悪より、僕は屍体の画像を愛でることを選択していた…ほとんど全部が自殺の写真集なのに…

 

 よくよく思い返してみるとそれは変な思い出だった。驚くべきことに、僕は自殺の画像で自慰できるほどの余裕の中にいたのだ。それはまだ僕がその時期にはあの発作に飲み込まれてはいなかったということだった。

 その頃の記憶を僕は忘れたことはない。でも…なぜだろう? 当然の記憶のはずなのに、僕はまるで自分のことじゃないような、奇妙な感覚を覚えた。

 僕が確かに自殺の画像で自慰していたそのことが。

 

 毎晩発狂もせずに、ページをめくっていられた。そんなバカな…と僕は今更ながらに気がついた。自分でイクのが下手なことだけが今の僕との連続性だった。だがその自分がなぜ今の自分に成れる? それならいつから僕はあの発作に襲われるようになっ…

 

(もう僕に…君を見せないでよ)

 

 僕の身体と心が、狂おしいほどの混乱と焦燥に運ばれていったあの頃。混迷が頂点に達し、僕はどうしようもなくて思わず小島さんに電話をしたのだ。自分から誰かに助けを求めた。あれは悪夢のようだった。そうなると僕を変質させたのは『Suicidium cadavere』じゃない。それはただキッカケに過ぎない。

 答えは明白だった。だが、それを僕は今の今まで到底認めたくないだけだった。

 

(置き去りにして…行ってしまった…)

 

 自殺した誰かのリフレインが不意に頭の中に再生された。心臓がドクンと打ち、そして掴まれた。至福が永遠に去って、もう戻っては来ない。至福とは、僕へと向けられた本当の殺意。そして絶望とは、僕の人生からそれが永遠に取り去られたこと…

 

「行っちゃった…僕を置いてった……なんで…殺してくれなかったの?」

 

 ひとりでに口から溢れていた。それが僕を悪夢へ放り込んだ本当の原因なのか。僕は父への恨み言と一言一句同じ言葉で、再び佳彦をなじっていた。

 

 青いモニターが浮かび上がる薄暗いドクター清水の部屋で、彼の饒舌過ぎる狂った告白を聴きながら絶望と恥辱に頭の先まで沈められていたその時でさえ、その打ちのめされた僕とはまるで別人かと思うような、胸の奥深くの激しい渇望。その疼きは全てを塗りつぶすような絶望と嫌悪感の隙間でさえも掻き分けて、僕の意識に繰り返し繰り返し浮上しては囁いた。

 

「ほんとう…だ…清水センセ…ぼくは…殺され…たい…」

 

 気持ちを確かめるように、僕はいつの間にか呟いていた。そして僕は医者の皮をかぶった、僕を殺すためにだけ生きている頭のイカれた変質者について初めて客観的に思いを巡らせた。パニックが少しづつ冷めていく。その下から事態の本質が見えて来るような気がした。

 

 彼は、僕を、本当に殺してくれる。

 

 小島さん、寺岡さん…もうあなた達は大丈夫でしょ? 愛があるから、二人で支えあって生きていけるでしょ? ああ…そうだった…母のこと、寺岡さんにお願いしなきゃ。きっとうまく慰めてくれる。遺書は必要だ。

 ああ、もうのいいだろう。考えることにも死なない努力にももう飽きた。誰の礎にも、誰の防波堤にもなることなんかない、いや、僕は誰の防波堤にもなれやしない。時は来たのだ。死神を刈り取る死神が今宵僕に贈られた。幸村さんの顔がよぎった。今までありがとう。邪険にし続けてごめんなさい。だが、自分の一番の望みを僕は僕自身に差し出す。今度は佐伯陸が彼を慰める番だろう。

 差し出さなくても、どうせ逃げられないのだ。逃げられないとは、有り難いことだ。無駄に考える必要がない。

 

 困難極まりないジグソーパズルの最初で最後のピース。神が僕を抱きしめて微笑みかけてくれる聖しこの夜、それが今夜なのですか。骸骨の顔をした聖母ムエルテよ。自由か、死か、と僕はかつて願った。でも考えても見て下さい。死が自由なんです、僕には。

 失った至福が還ってくるのだ。

 

「あは…あはは……」

 

 僕はひとりでに笑っていた。祈りは届くんだ。人生で初めて笑った気がした。

 

 




《近況&なにか》

 ご存知と思いますが架空線です。3月以来、半年振り。ほんとうにほんとうにお久しぶりです。
 あれから色々ありました。新しい仕事で手一杯な上、内分泌不全と貧血でパフォーマンスは一向に上がらず、全く心の余裕がありませんで、当然心の余裕が無いところに創造の神は降りてこず、ひたすら仕事して寝てました。夏に入り疲労のピークには全身浮腫んでパンパンになり、健診では尿蛋白は出るわ、掛かりつけ医には再三手術を勧められるわ、腰椎ヘルニアを起こし左脚が痛くて眠れないわ、泌尿器の非細菌性炎症で頻尿でトイレばっかり通ってます。うわぁ。自分で書いてて引くわぁ。
 
 にもかかわらず書き始めたキッカケは、書いていたほうが気が紛れるという素晴らしい効果のおかげでして、あとは創造の神の使いである蜘蛛が最近何度も現れて「書けよ…書けったら!」と促すので、トビグモちゃんの恩恵で書いてるというのが実情です。冬虫夏草やハエトリグモといったメディスンの助けがあってこそ、架空線は書き手として存在を許されている感じでございます。

 では、お口に合えば幸いです。ご閲覧誠に感謝でございます。
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