次の日、僕のほとんど稼働していないケータイに1通のメールが久々に届いていた。誰から来たかを確認したくもなくそのままカバンの底にケータイを滑り落として、形の整った灰で出来た人形みたいな自分の身体を崩れないように職場にそっと運んだ。すべての難しい解答を解き終えた解放感は悪くも良くもなく、昨晩不意に笑ったそれ以上の感慨も出て来ないまま、ただただ変に無風の時間が流れていた。仕事が手に着かないこともなく、僕の放心した仕事っぷりに対してもスタッフの誰からもなんのコメントもなく、淡々と時は過ぎいつの間にか昼休みになった。
昼休みにメールを確認した。それはなぜか佐伯陸からだった。
佐伯陸からまだ覚えられていることは当たり前だとも思うが、もう忘れているのかもしれないという軽い期待は軽く裏切られた。でも、そう思うくらい久々のメールだった。例のリミットのせいで彼が自死などしていたら早々に幸村さんから連絡が入るだろうが、月一の「うちに来て一緒に寝て下さいな」的な強引な約束もしばらく途絶えていたので、僕という流行期間が終わったのだろうというくらいの認識ですっかり思い出すこともなく(思い出さないほうがよいので)、彼からのメールが来ないことに安心しきっていた。ドクター清水が昨日、その名前を出すまでは。
名前を聞いたのは予告のようなものだったのか。昨日から今朝にかけての掻き混ぜられ過ぎて元の形など全くわからなくなった自分の感情の中でそのメールを見ることの意味はよくわからなった。よくわからなかったが、ほぼ機械的に僕は何も書いていない件名をクリックしていた。すると彼のメールとは思えないような行数の文面が画面を埋めていた。
『Dear 裕さま(・∀・)
お久しぶりです。どうしてますか?
浩輔とは仲良くやってますか?
僕は先週、亡くなった彼との仕事を終えました。未来はほぼ白紙状態です。大学の授業も終わりました。やることなくなっちゃったよ〜どうするボク(-_-;)って感じです。
ほんとはこれが終わったら僕も彼の後を追ってあっちの国に行こうかな〜って思ってたんですが、いざ終わってみるとそんな気力もなくってそんな自分にちょっと笑っちゃいますww
これが自由ってやつなのかな?
僕にはまだわかんないです。
吹っ切れたかどうかもわかりませんし。
終わった日の夜はベッドで泣いてました。
そのまま寝ちゃったけどね(´・ω・`)
しばらく仕事の大詰めで忙しすぎて、裕さんに合う暇もメールする暇もありませんでしたが、目的もなにもなくなってみると、裕さんに会いたくなりました。
言っとくけど恋じゃないからね(`・ω・´)キリッ
裕さんにはいまだに魔が差すスキはないでーす。
今度の休みはヒマですか?
裕さんの部屋に遊びに行ってもいいですか?
面白い話もあるしぃ〜♪
今度はボクが凸するぞ(*´Д`)
では返信下さい!!!!』
読み終わってそのまま携帯を閉じた。今の僕には、たった一文字の返信をする気力もなかった。無視する以外に術がない。すべてが遠かった。だが、このタイミングで佐伯陸が生きてることがわかり、死にそうにもないこともわかったので結果オーライ、良しとするか、という気にはなった。この期に及んでも他人の心配をしてるんだなぁと、自分でも少し意外だったが、よく考えてみれば、僕は佳彦に起こされて以来、他人の心配ばかりしているということを思い出した。人が死なないようにすることに人生の半分以上のパワーを傾注しているような気がする。
しかし、再びドクター清水の顔が脳裏をかすめると、なにもかもどうでもいい気持ちと虚脱感が一瞬で意識を支配した。もともとなにもかもがどうでもいい人間なのに頑張りすぎたんだ。と、僕は自分に労りの言葉をかけた。できっこない社会生活を、普通に送っているふりをするのはもう終わりでいい…もうすぐそれから解放されるのかも知れない。
不思議なことに、「死なないで欲しい」という、普通の人たちに対するいつもの願いが、ドクター清水に対して僕の心からすでにもう消えていた。あの夜、いつもの「あなたが死ぬから僕に近づかないでくれ」という忠告が一切の効力を失い、しかも僕の動機ごとその意味すら消失してしまってから。それは彼が、今まで出会った全ての人の中で唯一、僕が死んでいることを、僕の望みを、僕が失ったものを、僕の呪いを理解してしまっていたからだ。あの凄惨なリベンジポルノの中で、狂気の告白の戦慄の中で、僕はそれを上回る衝撃を与えられた。僕がこの世で最も期待していなかったそれを。
いつの間にか、なにも考えられなくなる。それほどの衝撃だったのだ。衝撃の連打。パンチドランカーだ、今の僕は。小島さんも寺岡さんも幸村さんも佐伯陸も境教授も、母にも、僕の守らねばならない肖像画のすべてにこの衝撃は亀裂を入れた。そんなこと今まで一度もなかった。すごいことだと思った。すごい…清水先生…あなたって。あんなに最悪で狂ってるのに、たった一晩で僕をリセットしてしまうなんて。
すると、あの惨劇とも言える彼との記憶がリフレインし始めた。なぜか僕の心臓はふたたび発作のように動悸を始めた。
(僕は、動いている屍体を初めて見た…君は生きているのに死んでいた…誰もそう言わなくても僕にはわかった。永遠に腐らない屍体みたいに、君は生きながらにして死んでいた! 有り得ないだろう!? だがその少年は実在した。そしてその少年に一瞬で恋に落ちた)
あまりの心臓の苦しさと、昼休みだということをかすかに思い出して、僕はその記憶を遮断しようとした。しかしそれは儚い抵抗だった。
(説明なんか要らない。僕にはモニター越しにでもはっきりわかった。君が生者の世界には馴染まない身体と心を持ってるって。そして君は弄ばれた…あの男に)
止まらない。
(理由なんか知らない。ただ僕は君のことがわかった。それはきっと僕がどうしようもないほど、屍体を愛してるからなんだと思うよ…)
屍体を、愛してるから。
僕の内側から押しとどめることの出来ない圧力が掛かって、心臓が押し潰されそうになった。胸元を掴み、前かがみで耐えながら短い呼吸を繰り返す。どうしたんだ? 弄ばれたんだろ? 致命傷の殴打を何発も撃ちこまれて一夜でボロボロにされたんだろ? 震えが止まらないほどの恥辱を与えられて逃げ道も塞がれて、言いなりにされたんだろ!?
ぼくは、なにを。
気がつくと、僕は白い部屋に横たわっていた。寝ているのは多分ベッドだろう。見たことがある部屋だが、モウロウとしていてすぐにここがどこだか理解できなかった。徐々に焦点が合ってくると、どうも病室らしい。ああ、この景色は大学の医務室だったなぁ…と思い出す。しかし、なぜこんなことに? 考えられるとしたら…そうだな…
たぶんこれはきっと頸動脈洞過敏症候群の発作だろうな、と思いついた。動悸が止まらなくて胸元をシャツごと握ってて、うつむいたままハァハァ呼吸して息苦しかったのが意識が飛ぶ前の最後の記憶だ。苦しくて自分で無意識に絞めたのかも知れない。気を失っている僕を、スタッフの誰かが気がついて運んでくれたのだろう。
起き上がろうとして身体に力を入れた途端、ズキッと額に鈍い痛みが走った。ベッドに肘をついて半分身体を起こしたまま痛みの元に手をやると、なにやら額にガーゼらしきなにかが貼り付いている。もしや倒れる際にどこかに額を打ち付けたのか?
「あ、起きた起きた」
カーテンの向こうから田中さんが顔を出した。
「あ、どうも…すみません」
「どう? 大丈夫?」
「えっと…まぁ…とりあえず起きれました」
「うん、良かった。起きたら頭の検査だけ今日中にしたほうが良いって、医務室の先生から言われてるんだけどね。先生は今、昼ご飯食べに行っちゃってる。すぐ戻るって」
「どこかぶつけたんでしょうか、僕」
「え? 覚えてないの?」
「ええ。目が覚めたら額が痛いので、絆創膏のようなものも貼ってあるし、倒れるときにどこかにぶつけたのかな、と」
「けっこう大きい音したんだよ。ゴツッ…てさ」
「はぁ」
僕の倒れるときに田中さんが部屋にいたらしい。
「ゴツッ、っていった後に、ドサッて大きなものが落ちる音がしたから振り向いたんだよね。そしたら岡本くんだったというね。デスクの角にぶつけたみたいだよ」
「ああ、そうだったんですか」
「頭ぶつけたから気を失ったんじゃないと思うけどね。気を失ったから倒れてぶつけたんで覚えてないんだろうなぁ」
「すみません。運んでもらったんですね」
「あの担架でね。ごめん、それしかなかったんでさ」
「ステンのあれですか」
「うん。君、軽くて良かったよ。僕と菅平さんで問題なくいけた」
いわゆるステンレスの遺体用担架というやつだ。滅多にないすごくそそるシュチュエーションだったようだ。意識がなくて残念に思った。
「ところで、例のあれかい? あの君の取説に書いてあった…なんだっけ? 頸動脈反応? だったっけ」
「頸動脈洞過敏症候群です」
「ああ、それそれ」
「多分。ちょっと息苦しくて襟のあたりを掴んでいたみたいです。自分でやっちゃったらしいんで…すみません」
「今日、調子悪いの? なんか朝から上の空っていうか。気が抜けてたみたいだったけど」
田中さんにまで放心していることを見抜かれていた自分が不甲斐なかったが、まぁ仕方ない。それくらいの出来事だったのはわかりすぎるくらいわかっている。
「昨日、残業だったんで。来客が重なってて遅くなったから、消耗したみたいです」
「あ、そう。でもあんな岡本くんの様子は、私が知ってる限りじゃ初めてなんだけど」
「解剖だったらいくら忙しくてもまぁ…平気なんですが。接待はホント苦手で」
「まぁね。知ってるけどさ」
思ったよりも田中さんは僕の職務態度についてよく見ているようだった。田中さんとは職務上の話以外しないし、特に僕に興味があるような風を見せてはいなかった。他のスタッフともあまりおしゃべりをしているのも見かけないし、淡々とした菅平さんを無口で温厚なおじさんにした、というくらいの雰囲気の人だった。
「上の空でしたか。今後気をつけます」
「いやいや、具合悪いんだったら仕方ないしね。息苦しいのって初めて?」
「いえ、何度かあると思います」
「でもさ、別の病気の前兆かも知れないから、ちゃんと検査してもらったほうが良いかもよ。とにかくMRI行こうか。放射線科の窓口には先生から連絡が行ってるって。起きたら連れて行ってって言われてるから」
「ああ、はい。わかりました」
「じゃあ、歩ける?」
「立ってみます」
ベッドから下りて歩いたが、あまりふらつきもないのを見た田中さんは、そのまま僕を放射線科の窓口まで付き添ってくれた。放射線科、という言葉が彼を思い出させた。また少し苦しくなる。そのまま検査になった。結果は異常なし、だった。そう、写るはずもない。壊れてるのはメンタルの方だから。
放射線科から僕を医務室に連れ帰った田中さんは、先生に血液やら尿やら心電図を取られている間も、まるで小学生に付き添う保護者のように僕の後ろで様子を見ていた。
「あの…僕、大丈夫そうなんで、仕事戻って頂いていいんですが」
尿を取ってトイレから帰ってきた僕が田中さんにそう言うと、田中さんは「堺先生に岡本くんに付き添ってって言われてるから」と言って、そのまま見守り続行となった。診察も検査も一通り終わり、入院はしなくていいという判断になった。結果を医務室から堺教授に電話すると、とりあえず今日は早退して家でゆっくりしなさいと言われた。どこまでも甘やかされてる。それどころか田中さんは、僕を家まで送っていくと言った。
「それはちょっと過保護では?」
「心配なんだよ、岡本くんが。道で倒れて車にでも轢かれたら元も子もないでしょ?」
最悪の事態が想定されていた。まぁ、そういうものは最悪を基準にするのが合理的だとは思うが。
「いや、それはないと思いますが」
「自転車は乗れそう?」
「はい。多分問題ないと思いますよ」
「私も自転車通勤だから、自転車で後から付いて行くだけだしさ。家について自分の家のドアから入ったと確認して、堺先生に報告できるからね。岡本くんって家、ここの近所でしょ? せいぜい行き帰りで10分なんだから」
「ええ、まぁ」
「じゃあ、そういうことで」
押し切られるままに僕は田中さんに自転車で送ってもらうことになった。特にフラフラすることもなく、いつもの道をいつものタイムでマンションの駐輪場に辿り着いた。一緒にエレベーターに乗り、本当にドアの前まで田中さんは僕を送り届けていた。
「ちゃんと休んでよ」
「はい。すみません、こんなところまで送ってもらって」
「いいんだよ。人生ね、いつ何どき何が起こるかわからないんだから」
「まぁそうですが」
「昨日まで元気だった若者が今日冷たくなってるなんて、よくあることだしさ」
「まぁ…そうです」
「びっくりしたんだよ。だって何もなくて倒れるわけないじゃない? じゃ、また明日ね」
「はい。ありがとうございました」
そっとドアを閉じた。
田中さんに見送ってもらった。なにか決定的な変質した時間がこれから待っていて、その最後のはなむけに穏やかな田中さんの良識に溢れたごく普通の丁寧な見送りを受けたような気にすらなった。そこにはもう帰れない。だから田中さんは送ってくれたのだろう。妄想にしても妄想でなくてもそんな時間を僕にくれたような気がした。
水を飲み、ベッドに座ってしばらくぼーっとしたあと、歯を磨いて着替えてベッドに潜り込んだ。まだ昼下がりの3時過ぎだったが、意識を無くしたくて寝ることにした。
不意になにかの音で目が覚めると、ケータイが鳴っていた。今が何時かもわからないが、職場からだろうと思い、手探りでケータイを掴むとそのまま応答した。
「はい、岡本です」
「裕さん! ボクです! 陸です! ドア開けてくれませんかぁ?」
「は? 誰?」
寝起きの頭では内容がよくわからない。
「ボクですよぉ! 佐伯陸です。今ね、裕さんちのドアの前にいるの。開けてくれません?」
「え? 佐伯くん? なんで居るの?」
呼んだ覚えも約束した覚えもない。
「メール読んでくれました? 昨日の夜送ったのにちっとも返信くれないんだもん」
ああ、そうか。佐伯陸がアポ無しでいきなり凸してきたっていうのか。ようやく僕は事態を認識した。
「なんで来たの? 約束もなにもしてないでしょ?」
「返信来なかったから、直接交渉に来ました」
「寝てたんだけど」
「聞きましたよ〜。裕さん確保しようって職場に寄ったら、倒れて早退したって。大丈夫ですか?」
「知ってたら静かに放っておきなよ」
「イヤです。お見舞いに来ました」
ドンドンとドアを叩く音がした。今、何時だろうか? 近隣住民に迷惑な時間ではないのか?
「入れてくださいよぉ!」
「今、何時?」
「6時過ぎですけど」
ドンドンと諦めること無くドアを叩く音が続く。夜中じゃなくて良かったが、ドアをドンドンされるのはいつの時間でも近隣住民には不審だ。
「あーもー、わかったから! ドンドン叩かないの!」
「やったぁ!」
ケータイを切り、ベッドから抜けだしてメガネを掛け、ドアの鍵を開けた。その途端、ガチャっと勝手にノブが廻って、佐伯陸がドアから顔を出した。
「お久しぶりでっす!」
「生きてたんだね」
「おかげさまで〜。お邪魔します♪」
僕の了解もなく佐伯陸は既に玄関に入っていた。
《おひさしぶりです》
全国180人くらいの先鋭的な読者の皆さまご無沙汰しておりました! 病気と怪我をこよなく愛する暗黒作家の架空線です♪
先日、出勤中に駅のホームでよそ見して歩いてたら鉄柱に額をぶつけ、まぶたは切るわ内出血して片目がパンダになるわという、マンガのような事件がありまして、未だに眉毛の上が痛い架空線です。いやぁ、よそ見はいけませんね、よそ見は!
さて、ぼーっと歩いて負傷したにも関わらず、最近少しづつ体調が良くなってまいりました。するとどうでしょう。書く気力が自然に湧いてきたではありませんか。本日は本当に久しぶりの僕止め更新でござりました。清々しさすらあります。
闘病中にも関わらず(闘病中だから、かもですが)、フリーランサーを始めてから、まぁ気持ちに余裕はないわ体調は更に低調だわおまけになぜか忙しいわで、ここに戻ってくるまで実に10ヶ月弱の月日が必要だったわけです。前回の更新は9月末でしたからね。生きていくのに無駄か無駄でないかと言われれば、“素人物書きの猟奇エロ小説”など所詮無駄の成せる業というもので、そんなことしているヒマなど病弱な個人事業者の住む大人の世界には存在しない!というのが病弱な個人事業者の(ほぼ全人類の)強迫観念だったわけですが、最近、カレー沢薫のマンガやら文章を読んで、「全ての物事は無駄」と言い切る潔さに、自分の本質を思い出しました。素晴らしい。誰しも、これは役に立つ、これは無駄、というラベルを貼り分けながら生きているのかも知れませんが、このラベルを燃やしてしまえというのが私の基本姿勢であった。いやぁ、大人ぶっていると本質を忘れるよね。これが大人になるってことなんでしょうねぇ。いい経験でした。
最近、東京喰種が完結しましたが、最終巻を読んでいて同じような対話を見つけ、石田スイ氏に更に親近感が湧いた架空線でございました。全てのラベルを燃やした後は解放感は一瞬で過ぎ去り、虚無とか荒涼感との殺伐たる戦いがしばらく続くのですが、そしてそれもまた昇華される日が来るということだけは確かです。
では、今後もそれなりに更新できますよう、私も他力本願ながら神仏に祈っております。皆さまの健康と幸せも一緒にお祈りさせて頂きます。ご閲覧ありがとうございます!