「やったね! 凸大成功でっす!」
「初めからだいたい凸しかしてないじゃない」
僕は、佐伯陸との最初の出会いを思い出しながらそう言った。
「だって、裕さんから来てくれるなんて無いじゃないですか」
「そうだけど」
「じゃあ、凸しか手がないですよねー」
そう言いながら既に佐伯陸は靴を脱いで、抜かりなく部屋に上がる準備をしている。
「断ったって上がるんでしょ?」
「わかりますぅ?」
「もういい。入れば」
「では、遠慮無く」
「君、遠慮なんて言葉知ってたんだ」
「はい。うっすらと」
佐伯陸が僕の部屋に上がって最初にやったことは、先ほど僕が抜けだして寝乱れたままのベッドにダイブすることだった。
「ヒャッホー!」
「あのね…」
「これが裕さんのベッドの匂い〜」
「やめなよ」
「結構片付いてるんですねぇ〜。部屋、キレイ。本とパソコンとベッドしか無い」
ダイブしたベッドから顔を上げて部屋を見回すと、佐伯陸はニッコリ笑って付け足した。
「この上で浩輔とイチャイチャしてるんだぁ」
「関・係・ない・だろ」
エロから離れない通常運転の佐伯陸の煽りを僕は語気だけで封殺しようとした。
「現物があると想像しちゃうなぁ…裕さんどんな風に抱かれてるんだろう〜とかぁ!」
「やめろ」
「あ、怒ってます? 裕さん」
「呆れてる」
「早っ!」
「いや、出会った日から呆れてるから。早くはない」
「じゃあ、慣れましたよね?」
「そろそろベッドから下りない?」
口先をとんがらせて不満そうな顔をわざとしながら、佐伯陸はベッドからラグの上に転がり落ちた。
「これでいいですか?」
「起きたら?」
「このラグ、毛足長くて気持ち良い〜」
「気が済んだら帰ってね」
「え〜? ダラダラ居させて下さいよぉ」
「なにそれ」
「だってボク超絶ヒマなんですもん」
「倒れて早退して寝てたって言ったよね?」
「あ、そうそう! 具合大丈夫ですか?」
「さあね」
すると佐伯陸は起き上がって正座すると、僕の顔をまじまじと見た。
「なんか抜けてますね」
「なにが?」
「生気…かな。魂とか」
「死んでるからね」
「屍体は屍体でも、前に会った時のほうがフレッシュでしたよ?」
「そろそろ腐っていく頃なんじゃないかな」
「ええ〜、もったいないですよ〜」
「君の好みで経年変化していくわけじゃない」
「でも、なんか変です」
「君の視点が変わったからじゃないか?」
「まぁね。確かに僕も白紙ですし」
「君は変わらないね」
佐伯陸はラグの上の座卓に肘をつくと、はぁ、と溜息をついた。
「死ぬのって、気力要りますよね」
「うん。あれは突き抜けたエネルギーが必要なんだよ」
「いろいろどうでも良くなっちゃった」
「いいんじゃない?」
「こういうの、自由っていうのかなぁ」
メールに書いてあったことをそのまま佐伯陸はなんのひねりもなく繰り返した。
「さあね」
「自由って虚しいですね。ボクは感情とか関係とかに囚われていたほうがマシ」
この世で本当に自由というものに放り込まれたら、自分がなにもかも決めなくてはならない。生きることについてモジベーションの低いタイプの人間には、自由は茫漠とした荒野にしか見えない。欲望の強さがその推進力であり、欲望の種類がその舵を切る。僕にもそれは荒野だ。僕は死にたい。モジベーションはそれだけ。だが自殺でなく能動的に死ぬには、荒唐無稽とも言える非常に複雑なプロセスが必要だ。
「君には欲望がいろいろあるでしょ? 困らないと思うよ。セックスでもなんでもしたいようにしたらいいんじゃない?」
「その結果がこの状況ですけどね。あはは」
佐伯陸は無邪気に笑った。
「取り敢えず、したいことしてみました」
「ああ、そう」
「裕さんのほうが重症って感じ」
「だから、なにが?」
「だって倒れたんでしょ?」
「仕事で疲れきって、おまけに寝不足でね」
「死んじゃうんですか?」
「え、なんで?」
いきなりのある意味適切な質問に、僕は面食らった。
「僕はもう死んでるんだし」
「でも、生きてる」
「これ以上何もないよ」
「一瞬たりとも、ボクの方、見てくれないもん」
「いつもそうだけど」
「そうだけど!」
佐伯陸はふくれて呟いた。
「それでも裕さんは見てくれてたの。なんやかんや言って」
そして僕の目をじっと見た。
「もう、この世にいないの?」
「どうして?」
「上の空、だから」
佐伯陸も田中さんも、僕の意識の在処について大変正確に見ているようだった。人間の観察力ってすごいな、と僕は素直に感心した。
「否定は、しない」
「屍体、じゃなくて、死刑囚みたい」
僕にはそれに返す言葉はなかった。しばらく沈黙が続いた。
「いろいろあるんだよ」
「わかるけど」
「疲れてるんだ。もう少し寝たい」
「じゃあ、一緒に裕さんのベッドで寝ます」
「…好きにしたらいい」
なぜか佐伯陸は泣きそうな顔でうつむいた。
「はい。好きにするしか、ボク出来ませんから」
僕は無言でキッチンに行き水を飲んだ。その間に佐伯陸は細身のジーンズとセーターを脱いで、長袖Tシャツとピンクのレースのビキニブリーフだけになっていた。
布団の中で背中を向けていた僕にしがみついて、佐伯陸は背中に顔を埋めていた。少しすると彼が泣いているらしいことがわかった。好きにすればいい、というのはベッドに入られたこの後に及んで変わらないので、そのまま僕は放っておいた。吸う息と吐く息の震え、鼻をすする音、喉の奥から時々聞こえる嗚咽のかけら。そんな振動が僕の背中から肺の空洞に響いた。しばらくして佐伯陸がかすれた声で僕に言った。
「なんで泣いてるのかって、訊かないんですか?」
「悲しいからだろ」
「ボクのこと、嫌い?」
「嫌いとか好きとか…わからないって」
「でも迷惑でしょ?」
「うん。それは」
「今も?」
「まあね。眠りたいから」
「ボクが泣いてると眠れない?」
「うん。背中に響く」
「泣くなんて…思わなかった」
そうなんだ、と僕は意外に思った。
「泣くつもりじゃなかった?」
「もう泣いたから。あの日に。終わったって、思ってた」
「誰かが居るから初めて出る涙ってものはある、と思う」
僕は寺岡さんの前で大泣きした夜のことを思い出しながらそう言った。また涙声になった佐伯陸が無理に笑いながら僕に言った。
「裕さんはさ、泣くと優しくなるね」
「それは錯覚だよ」
「ううん。ちょっとだけボクを見てくれる」
「ずるいな」
「わざとじゃない」
「わざとじゃなくても君は出来るから、それが」
「じゃ、ボクが、エラいんだね」
「そうかもね」
僕がそう答えると、佐伯陸は耐え切れなくなって嗚咽を漏らし、僕の背中に頭をぶつけながら口走った。
「淋しいよぉ…生きてるのって…なんでこんな淋しいの?」
「生きてるのは淋しいよ。僕と一緒に居ると、もっと淋しくなるよ」
「いや…だ…裕さん、ボクのこともっと見て? 裕さん…! ねぇ、ねえったら!!!」
あとは号泣だった。泣き声の中で涙でグシャグシャの佐伯陸の右手が僕の腕に這い、肘を越えてその先の僕の手を探しているようだった。きっとこの手を僕から握ってあげれば、佐伯陸は今は慰められるのだろう。してしまうのは簡単なはず、だった。だが簡単なはずのそれをする余力は僕には残っていないようだった。僕の手に届かない佐伯陸の指が、諦めて僕の手首を握りしめる。だが握りしめるものがあるだけでも、佐伯陸は特別扱いに等しい。もしかするとまた佐伯陸は僕の頸を絞めてくるかも知れない。この激情の中では、佐伯陸だったらそれくらいはしてしまえる。ひょっとすると無理心中までにも。確率は低いが、だが可能性はあるかも知れない。
それももう、どうでもいいな。防衛をする気力も意志もないのだとわかる。そうなったらそれでいい。清水先生はがっかりするだろうけど。佐伯陸への嫉妬で悶死するかもしれない。それは自殺ではないだろうな。
背中ではいつの間にか引き泣きになっている。佐伯陸の嗚咽が少し静かになった。だんだん意識が遠のいていく。本当に眠かったのだろう。どうでもいい…どうでも…
夜中に不意に尿意で目が覚めた。背中に誰か居る。寝ぼけていて一瞬よくわからなかったが、そういえば佐伯陸に添い寝されていたと思い出す。佐伯陸はスースー寝息を立てて眠っていた。泣き寝入りというヤツだろう。起こさないようにそっと布団から抜け出し、暗がりの中をトイレに行って用を足した。帰りにキッチンでまた水を1杯飲んだ。そのまま暗い中をベッドに静かに戻ると、佐伯陸が目を覚ましていた。
「裕さん、起きたの?」
「トイレ」
「そっか。いま何時?」
「12時くらいかな」
何事も無かったようにまた布団に入った。そしてまた佐伯陸に背中を向けて横になった。背後から囁く声がした。
「そういえば、裕さん」
「なに?」
「清水さんって警察医の人、知ってる?」
いきなり無防備なところでその名前が出た。不意を突かれたせいか、心臓がいきなり肋骨の壁を打ち始めた。
「泣いてスッキリして忘れるとこだった」
「ああ、この前、初めて会ったけど」
「もう会ったんだ。どうでした? あの人、変ですよね。なんか怪しいから裕さんにお知らせしとかなきゃと思って」
「あ、そう」
変なのは知ってるし、怪しいとかの問題では既になくなっている。しかし、こんな面倒な人にそこまで怪しいと思わせる言動をすでに曝しているとは一体どういうつもりなのだろうか? 思ったより不用意なドクター清水が意外だった。まさか、そこまで軽率なのか? それを聞くと、車の中で僕に抱きついた彼は本当に我慢出来なかったのかも知れないと思い始めた。あの夜の遭遇は周到に敷かれた罠じゃなかったのか? それとも彼は、ただ単に持っているカードが禍々しすぎるだけの無策な狂人なのか?
「裕さんのことボクに根掘り葉掘り訊いてきて。なんか口だけ丁寧なのに、情緒不安定過ぎて引いた」
「そうだね。だいたい合ってる」
「浩輔とも知り合いみたいなこと言ってた」
「そりゃ強行班だから、検死でいつも会ってるって幸村さんからも清水先生の話しは出たよ。仕事はデキる人だから、僕の司法解剖も清水先生のおかげで減ったしね。それに幸村さん、AIセンターに関わるとか言ってたから。清水先生がAIセンター構想進めてる張本人だから、当然じゃないかな」
「センター、裕さんもでしょ?」
「ああ、うん」
「あの人、裕さんのこと絶対狙ってる。ボクにはわかる」
もう遅い…と口に出そうになった。しかし、清水先生、脇が甘すぎる。佐伯陸に僕のことをどのように訊いたんだろう? 最初は理性的だったはずだ。僕に会いに来た時もそうだった。そして次第に理性が感情に凌駕されていったのだろう。彼が知らない僕の情報を佐伯陸が得意げに教え始めると。コントロール不能にも程がある。もともと幸村さんが、清水センセには裏がありそうで読めない、などと僕にコメントしている時点で、自分の気持ちや意図を隠そうという作戦が上手くいってないのは間違いないだろう。なんなんだ…あの人は。
「狙ってもその人が死ぬだけだから。心配しなくてもいいよ」
「そういうのやめて」
「事実だ」
「違うって! 裕さんのせいじゃない」
「はいはい」
佐伯陸は少し黙っていたが、いきなり僕の肩を掴んで引いた。
「な…」
「清水って人になんかされた?」
なんで理系なのにこういう鼻の利き方するのだろうか。
「会ってAIセンターの話しただけだよ。あの人に僕の余計な情報垂れ流したのは君の方でしょ?」
「ボクのほうが裕さんと仲良いんだって言いたいじゃん! 牽制です。それに内緒にしろなんて言われてないもん」
「確かにね。KYな君に口止めしなかった僕が悪い」
「だってあんな態度されたらムカつくじゃないですか! 裕さんもあの人に色々言われたでしょ? 失礼なこととかさ」
「仕事の話しただけだって。他人に興味ないの知ってるでしょ?」
「ホントに? それだけですか?」
「ああ。ただ、AIセンターの面倒さにはやられてる」
「ボクも画像解析のアルゴリズムを頼まれましたけどね」
「うん、言ってた」
「ボクにコンタクトするための口実ですよあれ」
「そうなの?」
半分はそうだろう。半分は本気かもだが。佐伯陸がまた僕の背中に顔を押し当てた。
「AIセンターだって裕さんとお近づきになるための口実だと思うよ」
「さすがにそれはない」
「裕さん、脇が甘すぎ」
先ほどの清水先生への評価がブーメランのようにこちらへ返って来た。
「メールに書いてた“面白い話”ってまさかこれのこと?」
「そうですよ。久しぶりに引っ掻き回す系の人キターッって。アドレナリン出まくり」
「君が二人目だったね、引っ掻き回す系。これで三人目ってこと?」
「二人目? 一人目は?」
「幸村さん。訊くまでもないでしょ」
「ボクはもう改心したんだもん」
「改心した人間は倒れて早退した人の家にアポ無しで泊まりに来たりしない」
「エロ封印してるじゃん!」
「君、僕の味方なの? 敵なの?」
「少なくともここでチクってる時点で味方ですよ。あのメンヘラ医者から裕さんのこと守らなきゃって、ボク臨戦態勢になっちゃった」
「僕はむしろ、君というメンヘラ数学者から僕を守ってくれる人が欲しいけどね。寝るよ」
佐伯陸は少し黙った。僕も少し枕を整えて、寝る体勢に入った。
「いつもと…全然違うじゃないですか」
ポツリと佐伯陸が呟いた。僕は黙ったまま答えなかった。
「清水って人のこと、好きなの? 裕さん」
「無駄な質問だね」
「嘘つき」
「なんでそう絡むの?」
「裕さんのほんとの心臓の音、ボク知ってるから」
佐伯陸は額をつけたまま僕の背中を拳で叩いた。
「ボクのほうが! ボクのほうが! ボクのほうが裕さんのこと知ってるのに!」
そうでもない。そうでもないよ、佐伯陸。
「あいつはダメだよ。あれは危ないから。わかってる? 裕さんわかってるの?」
知ってるよ。僕は彼に殺される。殺してくれるだろう。危ない人間しか僕を望み通りにしてくれない。
「浩輔に言うから」
いちばん厄介な選択肢を佐伯陸は告げた。
「言ってどうするの」
「なんで? 裕さんのこと浩輔が一番愛してるんだよ? 浩輔が絶対に守ってくれる」
「なにも起きてないのに?」
「嘘だ」
「何も起こしたくないなら、幸村さんを巻き込むな。迷惑だ」
「言わないつもりなの?」
「当たり前でしょ。付き合ってもないのに」
「なんで? 全然わかんない」
「余計なことしたら、その時は僕はこの街から出て行く。誰にも知られないところに」
「どうして? 裕さんが出て行くなんて間違ってる」
「引っ掻き回す味方と引っ掻き回す敵と、どっちが危ないかわかる?」
「知らないよ」
「じゃ、好きにすれば?」
もういい加減どうでも良くなってきたので、僕はこの件を収拾するのをやめた。ここまでどうでも良くなってるとは自分でも思わなかったが、その自暴自棄さ加減が時間が経つにつれて加速している気がした。佐伯陸のやり方でいくと、僕を含め何人かの大人が社会的に葬られる可能性もあるのだが、それはそれでもうどうしようもない気もしてきた。
小島さんが昔言っていた、「思いも掛けないところで望んでもいないのに、炉の中に放り込まれて溶かされて、打たれて、勝手に形を変えられていく」、それが人生だ。小島さんはそれから僕を守りたかった。僕も結局小島さんという父親の気持ちを再現していると言っていい。はっきりいってそれは過保護なんだろう。僕は今、将に炉の中にいる。ドクター清水という鍛冶屋にこれから打たれ、勝手に形を変えられていくのだ。しかし勝手に変えていくその先に、僕が本当に望んだ未来があったら? この世で生きて行くふりをするためのかりそめの目的ではなく、真の欲望がそこにあったとしたら?
(好きにすればいい)
僕は自分にそう言ってあげることが今一番必要なんじゃないのか? 社会の規範や道徳から僕の精神も肉体も欲望もズレている。生まれる前からこの世とズレ切った心と身体で、僕はあの日から苦悩の多い日々に投げ込まれた。僕はもう誰かのために生きることを諦めてもいいかも知れない。それがたとえ、僕の大切な人たちだとしても。
皆、好きにすればいい。生きていく目的を失った佐伯陸が僕を守りたかったらそうすればいい。ドクター清水も自分の好きにやっている。幸村さんなどそれの最たるものだ。どのみち、皆、自分の好きに生きているのだ、結果がどうあろうとも。僕だけ遠慮することはないだろう。
好きにすれば? のあと、佐伯陸は押し黙った。諦めるのか、それとも作戦を考えているのかは僕にはわからなかった。だが、佐伯陸には感謝せねばと思った。清水先生は案外無策かも知れないという認識が僕の中に生じた。少なくとも彼から脅されている無力感と絶望感は少し和らいだ気がした。