飯島比呂は男だ。

いや、男であった。

今はもう違う。少なくとも体は女のそれになってしまった。

しかし心だけは……そう思う比呂だが、ここ最近はそれも自信がない。



※
本作は「しょうもなおじさん、ダンジョンに行く」の登場人物、飯島比呂にフォーカスした短篇です。ただ、18禁タグは念のためといった所です。TS要素あるので注意。





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月満ちる夜

 ◆

 

 ここ最近、飯島比呂は妙な夢ばかりを見てしまう。

 

 要するに大人な夢だ。

 

 自分がとある男に抱かれて"女"として達している、そんな夢だ。

 

 そういう夢を見た翌朝は、下腹部の違和感に表情を顰めざるを得ない。

 

 濡れた下着は気持ちが悪いし、敏感になった性器に指でも触れようものならびくりと腰が引けてしまう。

 

 ちなみに、比呂は生物学的には女性だ。勿論人間の。

 

 しかし心までは女性とは言えなかった。

 

 ではいわゆるトランスジェンダーか何かなのかといえば、ある意味でそうだ。

 

 そう、比呂は元々は男だった。

 

 しかし事情があって女になってしまった。

 

 それではどんな事情があったのか? 

 

 それは比呂にも確とは分からない。

 

 ただ、何となく誰のせいでこんな体になってしまったのかは分かる。

 

 ──歳三さん

 

 比呂の頬に紅が差し、乳首が硬くなり。

 

 下腹部には強い疼きを覚え、無意識の内に指が動き。

 

 つぷりと "そこ" へ沈み込んだ。

 

 ──……脳裏に浮かぶのは "あの日の事"

 

 ・

 ・

 ・

 

 飯島比呂、四宮真衣、鶴見翔子。

 

 彼らは探索者だ。

 

 探索者はダンジョンを調査する作業員の事である。

 

 ある日を境に世界中に現れた "ダンジョン"。

 

 このダンジョンから有用な資源を回収してくるのが探索者の役目である。

 

 だがダンジョンは危険だ。

 

 異質に変化したその空間内では、人に害を為す恐ろしいモンスターや危険な環境が待ち受けている。

 

 しかし人間は順応の生物とよく言ったもので、ダンジョンが出現してからというもの凄い速度でそういった環境に適応してきた。

 

 飯島比呂、四宮真衣、鶴見翔子の三人はそんなダンジョン時代の若い探索者である。

 

 そして、三人は現在新しく出来たばかりのダンジョンを調査しているのだが、これがまた順調であった。

 

 未踏査エリアがどんどん探索補助端末のマップアプリに書き込まれていく。

 

 これは名誉と金になるデータだ。

 

 

 そして襲い掛かってくるモンスターも順調に斃せている。

 

 これまで彼等は踏破済みのダンジョンにばかり挑んでいた。

 

 もっと新しいダンジョンを、別の困難なダンジョンを、という思いはあったが、協会がこれを制限していたのだ。

 

 ダンジョン探索者協会は探索者の徒な死亡を防ぐ為、実績を基準にして探索者を甲・乙・丙・丁・戌の五つの等級に分けて管理している。

 

 そして、その等級に応じて入場出来るダンジョンを制限しているのだ。戊級で実績をあげれば丁級となり、丁級で実績をあげれば……というように。

 

 この場合、実績とは協会に納めた素材の換金総額や、もしくは未知の発見、依頼遂行件数やその成功率などがあたる。

 

 なお、1級~5級、A級~E級というようにシンプルに分ければいいじゃないかという意見もあったのだが、1級~5級だと1が最大なのか最小なのか分からなかったり、アルファベットを使用するのは英語圏のそれと被る。

 

 ダンジョン探索者協会に類する組織は諸外国にも存在しているが、それらはあくまでも別個の組織だ。

 

 系列などと思われれば沽券に関わるとして、結局甲乙式を採用した。

 

 この辺りは当然中国が採用している形式も鑑みた結果だ。

 

 中国では壹、贰、叁、肆、伍という大写表現を採用している。

 

 話が戻るが、三名は地道に実績を積み上げてきた。

 

 戌と呼ばれる最下級探索者から始まり、瞬く間に丙級まで至る。

 

 ここまで等級をあげないと雑司ヶ谷ダンジョンには挑戦ができない。

 

 協会がこのダンジョンを "丙級相当" と分類したからだ。

 

 協会専属の探索者が浅層を軽く探索し、出現するモンスターや内部環境について軽く調査をし、探索者達と同様に甲・乙・丙・丁・戌に分類をする。

 

 これはかなり雑な分類法で、後日分類等級が上昇したり下降したりすることもままある。

 

 ちなみに探索者として一端であると言われるのはこの丙級からだ。

 

 そして残念な事に探索者界隈では、丁級は "丁稚"、戌級に至ってはそのまま "犬野郎" と蔑む風潮があった。

 

 それまでの彼等には雑司ヶ谷ダンジョンに挑む資格がなかった。

 

 だが弛まぬ努力により等級を上げ、いざダンジョンに挑めば……案外にも順調に探索出来るではないか。

 

 丙級相当のダンジョンのモンスターと十分以上に戦えているという事実に彼等は自分達の確かな成長を感じ、その前途に無限の可能性を見ていた。

 

 ◆

 

 彼等の自信。

 

 これはあるいは驕りかもしれない。

 

 だが驕るだけの理由が彼等にはあった。

 

 幼馴染である彼等は、幼少の頃より三人が三人共に天才児であった。

 

 身体能力、頭の出来、共に同年代の者達を遥かに凌駕していた。

 

 その身体能力たるや中学三年生になる頃には大変異前の陸上種目各種の日本記録を塗り替える程であった。

 

 頭の出来も似たようなものだ。

 

 中学三年の秋時点には既に東京大学理科三類の合格に至る程の冴え具合を見せた。これは偏差値77を誇る日本最難関の学部だ。

 

 彼等の才は、探索者として迷宮を出入りするようになってから更に開花する事となる。

 

 低難度のダンジョンとはいえ、彼等は何度も探索を成功させてきた。モンスターとの戦闘も問題はない。

 

 野生の獣などより遥かに危険なモンスターをいとも容易く葬り去る手際はとても探索者になりたてのヒヨコには見えなかった。

 

 探索を通して、彼等はメキメキと身体能力を向上させていく。

 

 鶴見翔子に至ってはPSI能力と呼ばれる所謂サイキック……超能力を発現するに至った。

 

 大変異前には超能力など騙りか詐欺の代名詞の様に思われていたが、現在に至ってはその印象は払拭されている。

 

 そもそも人間の脳のスペックを考えれば超能力の一つや二つは出来てもおかしくないのだ。

 

 そしてモンスターの素材や、希少金属は彼等に年に見合わぬ財を齎した。

 

 正しく、この世の春だ。

 

 これはもう一種の万能感に支配されても無理からぬ事ではあった。

 

 ◆

 

 ところで、ダンジョン探索に於いては死というものは非常に身近な存在となる。五分前まで元気に仲間と話していた探索者が、十数秒後には原形を留めぬミンチ肉になってしまうというのはめずらしくはない。

 

 そんな無慈悲な死だが、ではダンジョンではどういう状況が一番危ないのだろうか? 

 

 罠にはまった時か、手ごわいモンスターに相対した時か、ダンジョン内で迷った時か。

 

 いずれも一応は正解だが、満点ではない。

 

 精神の高揚が自信ではなく過信に変わった時、ダンジョン内での危険度は極めて危うい域にまで達する。

 

 そして多くの探索者がその時に命を散らす。

 

 飯島比呂、四宮真衣、鶴見翔子の三名は友人知人や、あるいは親族の忠告を無視して雑司ヶ谷ダンジョンの未踏破エリアを探索した。自分達ならばそれが出来ると信じて。

 

 事実として薄気味悪い囁き声は鶴見翔子のサイキックにより散らされ、屍人も骨人も、墓石の怪異ですらも彼等の身体能力で蹴散らして見せた。

 

 これらのモンスターは決して容易い存在ではない。

 

 囁き声は長く聴いていれば精神に異常を来たすし、屍人は叩いても突いても斬っても体液の噴出でもって反撃をしてくる。

 

 この体液は猛悪な毒液であり、皮膚に付着でもしようものならたちまち体内に浸透する。

 

 その毒性は中南米に生息する小型のカエル、金色箒星(ゴールデンポイズンダートフロッグ)とほぼ同等だ。

 

 このカエルの毒性は非常に強い。

 

 体重に対する毒量が少ないにも関わらず、成体のカエル一匹分の毒で数十人の大人を殺すことができる。

 

 小動物などは毒をしみこませたタオルに触れるだけで死ぬ。

 

 また、骨人も並々ならぬ存在である。

 

 このダンジョンでもっとも多く出現するのがこの骨人である。

 

 見た目はそのまま人骨で、錆びた刃物や時には尖った骨で襲い掛かってくる。

 

 動きは案外に機敏で、探索者ではない一般成人男性と同程度には動ける。

 

 しかしそれだけで探索者を殺害できるはずもなく、当然種がある。

 

 この骨人というモンスターの体は "内部までみっしりと詰まった骨" で構成されているのだ。

 

 骨のモース硬度は4であり、これは鉄と同等である。

 

 骨に脆いイメージがあるのは、内部が空洞だからだ。

 

 "内部までみっしりと詰まった骨"であるなら、これはもう鉄人形の様なもので、並大抵の膂力では骨人を破壊する事は出来ない。

 

 墓石の怪異は墓石の群体とも言うべきモンスターだ。

 

 数個から数十個の大量の墓石が宙に浮き、探索者達を押しつぶそうと乱舞する。

 

 司令塔となる墓石が一体だけ存在し、これを破壊しない事には永久に襲われ続ける。

 

 墓石にしてもただの石ではない事は言うには及ばないだろう。

 

 そんな怪物共を苦戦しながらも20もそこそこの若さで蹴散らしてきたのは、まさしく彼等の才が綺羅星の如く煌めいているからだ。

 

 しかし、どんな場合であってもイレギュラーというものは存在する。何処のどの様なダンジョンでも起こり得る事だが、他と比して遥かに異常な危険性を持つモンスターが出現する事がある。

 

 この雑司ヶ谷ダンジョンにおいてのイレギュラーとは、毛玉であった。

 

 ◆

 

 雑司ヶ谷ダンジョン某所。

 

 墓石の影に三人の人影があった。

 

 彼らが件の三人の探索者なのだが、どうも様子がおかしい。

 

「しょ、翔子ぉ……しっかりしてよぅ……」

 

 四宮真衣は今にも泣きそうな声をあげた。

 

 いや、もう泣いているのかもしれない。

 

 ぽたりと零れた水滴が汗なのか涙なのか、真衣は自分でもよくわからなかった。

 

 ──私のせいだ、姉さんが止めてくれたっていうのに……

 

 彼女の膝の上には一人の少女が横たわっている。

 

 鶴見翔子。

 

 真衣の親友であった。

 

 目を瞑り、息を荒げ、口の端からは血を流している。

 

 如何にも苦しそうだが、当たり前であった。

 

 鶴見翔子の腹部は大きく朱に染まっていたからだ。

 

 読書家の彼女は所謂眼鏡女子なのだが、その大切にしているプラダのラウンドフレーム眼鏡もグラスに罅が入っている。

 

 ついでに言えば、彼女自身の命にも罅が入っていた。

 

 ・

 ・

 ・

 

「真衣! 声を出しちゃだめだっ……!」

 

 声を殺し、脂汗を滲ませながら注意を発したのは飯島比呂だ。

 

 "ヒーロー"などというこっ恥ずかしい渾名の彼ではあるが、30分ほどあれば軽自動車を素手で全損させる事が出来る程度に人間を辞めている。

 

「アイツに気付かれたら今度こそ終わりだ……」

 

 §

 

 飯島比呂が言う "アイツ" とは。

 

 墓石の陰から何かが地面を擦る音がする。

 

 衣擦れとも違うその細かい音は、例えるならば極めて細い糸だか紐だかを束ねた箒の様なもので地面を掃き清めている様な。

 

 比呂たちは "それ" と正面から対峙した。

 

 というより、相手の方から襲い掛かってきたのだ。

 

 "それ" の無音の奇襲を鶴見翔子が察知した。

 

 "それ" は一言で言うならば毛髪の怪物だった。

 

 何万何十万、いや、何百万という毛髪が球形に寄り集まった怪物だ。

 

 球形の中心部の巨大な目玉が三人を凝視しており、飯島比呂はその視線から一つの強く濃密な意思を感得する。

 

 すなわち、"お前たちを殺す" という意思を。

 

 そして交戦。

 

 だが"それ" はこれまで交戦してきたモンスターとは一線も二線も画していた。

 

 飯島比呂はダンジョン素材でつくられた槍を得物としており、四宮真衣は同じくダンジョン素材でつくられた日本刀を得物としている。鶴見翔子は後述するが、やや "特殊なモノ" を扱う。

 

 銃器の類は所持していなかった。

 

 というのも、ダンジョンのモンスターにはいまいち効果が薄いのだ。純粋に威力が足りない。

 

 では銃器もダンジョン素材を使ってつくればいいではないかと思われるかもしれないが、確かにそういった得物は販売されている。

 

 威力もそれなりにある。

 

 しかし、二つ問題がある。

 

 一つは銃本体も弾も、丙級以上のダンジョンで通用するものとなると余りに高額だという点だ。

 

 彼等三人は皆良い所のボンボンなのだが、探索者協会は他人の金で武器だの防具だのを購入することを許可していない。

 

 あくまで身の丈にあったモノを扱えという事であり、これは探索者達の練磨を目的としている。

 

 良いモノを使いたければダンジョンに沢山潜って沢山稼げということだ。

 

 いま一つは、音の問題だ。

 

 轟音が鳴り響き、周辺のモンスターにわらわらと集まられてはかなわない。

 

 ともあれ、槍と刀、そしてちょっと特殊なモノで "それ" に挑んだ三人だが、粘戦虚しく敗走するに至った。

 

 厚さ5cmの鉄板を容易くぶち抜く飯島比呂の刺突は毛髪に絡めとられてダメージを与えるに至らず、同じ様に鉄板をまるで紙の様にばらばらに斬り裂く四宮真衣の斬撃はいとも容易く弾き返された。

 

 鶴見翔子の念動が不可視の衝撃となって毛玉を打ち据えるが全く堪えた様子もない。

 

 そればかりではない、長大な毛髪が縒り合わされて、まるでドリルのような形状と化した凶器が鶴見翔子の腹を貫いたのだ。

 

 ただの毛髪の塊ではない事は明々にして白々であり、飯島比呂、四宮真衣らは重傷の鶴見翔子を連れて逃げを打つ事を決めた。

 

 戦闘に限らず、人生には無理をしなければいけない場面、しなくてもいい場面というものがある。

 

 無理をしなければいけない場面で無理ができない者の末路は破滅だし、無理をしなくていい場面で無理をする者の末路もまた破滅だ。

 

 相性が悪いと見るや逃げを打つ事を決めた三人の判断の早さは称賛されて然るべきだが、不運が一点。

 

 後にダンジョン探索者協会によって『毛羽毛現(けうけごん)』と名づけられるこのモンスターは、彼らが戦って勝つには10年早いし、一人の死者も出さずに逃げ切るには5年早い相手であったという事だ。

 

 最初の交戦時、逃げを打つ際に鶴見翔子は腹を穿たれながらも強力な念動を行使した。

 

 周辺の墓石という墓石、樹木という樹木を操作し、質量攻撃を仕掛けた。

 

 しかし鶴見翔子もこんなもので斃せるとは欠片も思ってはいない。

 

「私を置いて逃げて!」

 

 鶴見翔子は親友二人を逃がすため、この場で囮となって死ぬつもりであった。しかし、彼等はそれこそ寝小便を垂れ流していた頃からの親友同士なのだ。そんな自殺志願を聞き入れられるわけがない。

 

「そんなことを言うな!」

 

「そんな事を言わないで!」

 

 飯島比呂と四宮真衣はほぼ同時に叫んだ。

 

 見捨てろなど、死ねと言われるより辛い事だったからだ。

 

 まあ随分な話ではある。

 

 なぜなら、彼等は三人が三人とも、仲間が自ら死を選ぶ事は、殴ったり蹴ったりする物理的な暴力以上に残酷な行為だと思っているにも関わらず、まず自分が囮となって残る二人を逃がそうと思っているのだから。

 

 三人が三人とも、囮となって死ぬのは自分はOKで親友たちはNGだと本気で思っていた。

 

 結句、飯島比呂と四宮真衣は重傷を負った鶴見翔子を背負い、彼女と共に逃走しようと図る。

 

 そして、髪の怪物はほどなくして鶴見翔子による質量攻撃から復帰した。その時には既に三人は逃げおおせていた……わけはなく、無数の墓石の裏に隠れて息を潜める事になった。

 

 今の場所から出口まで数キロはあり、その距離を追いつかれずにやり過ごす事は出来そうにもない。

 

 ダンジョン内でこういう状況に陥った場合、まあ大抵は死ぬのだ。

 

 奇跡でも起きれば話は別だが。

 

 ◆

 

 飯島比呂の神経回路に不安という名の不純物が混じり、全身を巡ってゆく。そして、横目で鶴見翔子の容態を確認した時、不安は焦燥へと化学変化を起こした。

 

 鶴見翔子は遠からず死ぬだろう。

 

 全身から血の気が引き、腹部からは夥しい出血が確認できる。

 

 1秒でも早く治療を施さねばならなかった。

 

 飯島比呂の視線の先に小さい影がある。

 

 バックパックだ。

 

 奇襲の際、戦闘の邪魔になるからと路傍で放り出したその中には応急手当のキットが入っていた。

 

 是が非でも取りに行く必要がある。

 

 しかしその為には、魔物の恐らくは感知圏内であろう領域を横切らなければならない。

 

 見つかれば今度こそ殺られる。

 

 しかし彼は迷わなかった。

 

「真衣、あの木が見えるか?」

 

 飯島比呂が指す方向には何本かの枯れた木がたっていた。

 

 霊園は坂と谷を巧みに利用した起伏に富んだ地形に広がっており、墓地区画はその地形に沿って配置されている。

 

 そのため、霊園内は複雑な曲線を描く歩行路が縦横に走っており、どの区画でも比較的容易にアクセスすることが可能だ。

 

 中央部には大きな池があり、その周囲には桜やツツジなど四季折々の木々や花々が植えられ、四季の折々には墓参客の目を楽しませてくれるだろう。

 

 飯島比呂は、その中央の池付近にたっている桜の木の事を言っていた。四宮真衣は無言で頷く

 

「分かりやすいもんな。いいか? あそこまで翔子を連れていくんだ。墓石に身を隠しながら……」

 

「比呂は、どうするの?」

 

 四宮真衣が恐る恐る尋ねると、飯島比呂はニヤリと笑って言った。

 

「バックパックを取ってくる。多分アイツは追ってくるだろう。でも逃げに徹するなら俺の方が足が速い。さっきの戦闘でそれが分かったよ。アイツはきっと奇襲とか待ち伏せとかが得意なタイプだ。最初に俺たちが襲われたのも奇襲だったろ? なんで奇襲する必要があるのかなって思ってたんだ。アイツはあんなに強いのに。強い奴っていうのは大体堂々と真正面から襲ってくる。他のダンジョンでもそうだったろ? アイツが奇襲をかけて来るのは、きっと逃げられたら追いきれないからだ」

 

 飯島比呂は自信満々でそう言う。

 

 四宮真衣はじっと彼の瞳を見つめ、やがて頷いた。

 

 頷くまでの半秒程の間に、どれ程の思考が巡らされたかは察するに余りある。

 

 飯島比呂の論理はまるでチーズの様に穴だらけだ。

 

 敵が追ってくるという仮定は根拠が薄いし、たった一度の奇襲でそれが得意なタイプだと結論づけるのも早計である。

 

 強い奴が堂々と正面から来るとは限らない。

 

 強くてずる賢い奴だっているに決まっている。

 

 逃げられたら追いきれないから奇襲をする、という理屈も突っ込みに暇がないほどに穴だらけだった。

 

 そして、そんなことは飯島比呂にも四宮真衣にも分かっている。

 

 彼等はそれがどれだけか細い糸でも、それに縋りたかったのだ。

 

 ・

 ・

 ・

 

 飯島比呂は弾丸の様に墓石の陰から飛び出した。

 

 彼が全力で身体能力を行使した場合、その最高速度は時速65キロに達する。トップスピードまでかかる時間は凡そ4秒。

 

 大変異前のオリンピック陸上競技、短距離走の某金メダリストの最高速度は時速44.6キロで考えると、かつての世界を基準にすれば飯島比呂は人類最高峰の身体能力を持つと言える。

 

 同時に四宮真衣は鶴見翔子を背負ってその場を離れた。

 

 内心は忸怩たる思いで一杯だった。

 

 飯島比呂が受け持ったのは極めて危険な役割だ。

 

 自分も一緒に行く、だとか、私が代わりにいく、だとか、そんな言葉を四宮真衣は全てのみ込んだ。

 

 飯島比呂が三人の中でもっとも高い身体能力を誇る事は確かだったからだ。

 

 得物を用いた近接戦闘技術で四宮真衣は飯島比呂に勝るが、単純な身体能力ならば飯島比呂に軍配があがる。

 

 それまでふわふわと周囲を浮遊していた魔物が、ぞわりと髪の毛を逆立てる。

 

 ──来るか

 

 覚悟した飯島比呂だったが、意外にも攻撃が行われない。

 

 気付かれていないのか? と思うものの、すぐにその甘っちょろい考えを振り捨てた。

 

 髪のかたまりの奥から覗いてるではないか。

 

 不気味で大きな一つ眼が! 

 

 ・

 ・

 ・

 

 飯島比呂は素早くバックパックを拾い上げ、駆け出そうとしたが足が地面から離れない。

 

 事ここに及んで恐怖で身を強張らせる程、彼は甘い性格をしていない。で、あるならば……

 

 ──足がっ……! 

 

 そう、魔物から伸びた毛髪が飯島比呂の右足首に絡みついていたのだ。魔物の挙動がどこか鈍かったのは、自身の "網" を張り巡らせようとしていたが故だったのだ。

 

 しかしここで恐るべきは魔物の狡猾さではなく、ほかならぬ飯島比呂の腹の据わり具合であった。

 

 魔物の触手めいた毛髪が刃物を通さぬ強靭なモノであるという事を先の戦闘で理解していた彼は、事もあろうに足首を切断して自由になろうとしたのである。

 

 両の手と片脚、その三本の足があれば多少なり逃げられるだろうという肚であった。

 

 この場合の "逃げられるだろう" というのは自身が生存して逃げ切る事を意味しない。

 

 自身が足掻けば、四宮真衣が逃げる時間を多少なりとも稼げるだろう、という意味だ。

 

 足掻くためには動きを封殺されていては具合が良くない。

 

 仮令 "三本足" であろうと身体が自由であった方が逃げる時間がより多く稼げる……飯島比呂はそう考えていた。

 

 腰に佩いていた刃渡り15cmの振動刃を取り出す。

 

 魔物から素材を剥ぎ取る際に使う切れ味の鋭いナイフで、人間の肉を裂き骨を断つ事も容易に出来る。

 

「……頼むから逃げ切ってくれよ」

 

 じりじりと近づいてくる魔物を睨みつけながら、飯島比呂は自身の身の安全ではなく親友たちの身を案じ、ナイフを足首に当てた。

 

 ◆

 

 飯島比呂は足首からやや上の部分にナイフを当て、歯を食いしばって一気に刃を押し込む……事が出来なかった。

 

 何かが物凄い勢いでその場へ突っ込んできたからだ。

 

 黒いボディアーマーを着こんだ中肉中背の男、白髪混じりの短髪からするとかなりの年配だろうか? 

 

 しかしその外見はともかく、探索者であることは間違いないだろう。

 

「だめだ! ソイツはやばい! 俺はいいから、向こうに行った仲間達を連れてここを出てください! こ、このバックパックを持って……中に応急キットが入っているんだ。仲間が、仲間が危ないんだ、助けてやってほしい……俺は動けない。だから貴方に頼みたい!」

 

 飯島比呂は叫ぶ。

 

 その発言は自己犠牲の精神というより、冷徹なまでの合理的思考の発露だろう。

 

 たった一人の中年探索者が勝てる相手ではない、そう思ったのだ。

 

 それならむざむざ犠牲者をあと一人増やすより、大切な仲間達の生存率を上げるために動いてもらった方が良いというのは確かに合理的である。

 

 しかし応えはない。

 

 いや、妙な音なら聞こえた。

 

 それはグゥとかアァとかそういう呻き声の様なものだ。

 

 ──まさか既に負傷を!? 

 

 ハッとした飯島比呂は、バックパックを開いて応急キットを取り出す。応急キットは3つある。

 

 そしてそのうちの一つを取り出すと、眼前で魔物と対峙している男の背に声をかけた。

 

「怪我をしているならこれを使ってください! 応急キットです!」

 

 しかしまたもや男は応えない。

 

 それどころか──……

 

 ◆

 

 中肉中背、面構えも別に男ぶりが良いわけでもないただの中年男が比呂を背にして恐るべきモンスターと交戦している。

 

 いや、それは交戦といっていいのかどうか。

 

 比呂の目から見ても一方的な嬲り殺しであった。

 

 ただ、モンスターが中年男を嬲り殺しにしているわけではない。

 

 中年男がモンスターを嬲り殺しにしているのだ。

 

 男が地面に足を強く打ち付けるのを比呂は見た。

 

 響く轟音。

 

 地面が波打ち、モンスターへ向かって押し寄せていく。

 

 巨大な目玉に大量の毛髪が生えたような悍ましい姿のモンスターは、周辺に張り巡らせた髪の罠を衝撃波によって粉砕され、数百人の子供が一声に金切声をあげたような声で絶叫した。

 

 比呂には中年男の背しか見えない。

 

 巌の様な逞しい背だった。

 

 男とはかくあるべしというような頼もしい背だった。

 

 空気が変わる。

 

 ざわわ、ざわわと木々の葉が騒めく。

 

 痛手を負わされた事で本気になったのだろう、モンスターの怒気が波紋の様に周囲へと広がっていった。

 

 比呂はまるで不可視の細い針に全身を突き刺されたかの様な痛みを覚え、思わず腕や足を確認してしまう。

 

 鋭く研ぎ澄まされた殺意は、その放射元と比して脆弱な生命体を物理的に痛めつける事がある。そして、そういった相手と相対してしまった場合、大抵弱者の側が無惨な死を遂げるのだ。

 

 しかし比呂は運がよかった。

 

 ──『睨みつけてないで来いよ。それとも俺から行った方がいいかい?』

 

 夜の墓場にそんな声が響く。

 

 中年男の声だ。

 

 少しも動じておらず、むしろモンスターを挑発さえしていた。

 

 するとじわりじわりと広がっていた怒気が瞬時に化学変化を起こし、怒気と殺気と敵意の劇毒的混合物となって爆発した。

 

 宙空を幾本も死閃が奔る。

 

 モンスターの毛髪が束ねられ、紙縒りの様な形状と化して突き出されたのだ。

 

 次瞬、ぎゃりんと金属音が響き渡った。

 

 中年男が左脚を蹴り上げ、空手の廻し受けの様に回転させて死の黒槍を切り飛ばしてしまった。

 

 比呂はぽかんと口を開け、中年男の信じられない戦闘能力を呆然と見つめる事しか出来ない。

 

 結局、中年男とモンスターとの戦闘は数分で終わってしまった。

 

 比呂は助かった……助けられたのだ。

 

「あの、ありがとうございました……」

 

 比呂が男の背に向かって声をかける。

 

 男は振り返らない。

 

 しかし声自体は届いている様で、その肩がぴくりと動いた。

 

 一瞬の沈黙がその場を支配するが、やがて男は比呂に背を向けたまま一点を指さした。

 

 それは中央の池……枯れた桜の木だ。

 

 飯島比呂ははっとする。

 

(そうだ……翔子!)

 

 慌ててバックパックを持って駆けだそうとした飯島比呂だが、その前に男の背を見て一礼した。

 

 ・

 ・

 ・

 

 比呂は荒い息で秘部から指を離した。

 

 発散された性欲の後に残ったのは、死にたくなるような虚しさである。

 

 ダンジョンの干渉の事は比呂も知っていた。

 

 ああなりたい、こんな風になりたい、そんな願望をダンジョンは叶えてくれる。

 

 願いを胸に抱き、ダンジョンで死線を何度も潜っていくうちに、人は望みの自分へとなれるのだ。

 

 性転換だって出来る。

 

 もし、本当に自身の性別を変えたいと心のそこで思っていたならば。

 

 元は男であった飯島比呂は、あの時助けられた歳三という男に惚れてしまった。

 

 願いとして明確に表に出さないまでも、心の奥では歳三の女になりたいと思ってしまった。

 

 そして願いは叶った。

 

 女になったのだ。

 

 だが、歳三の女になったわけではない。

 

 くそ、と比呂は呻く。

 

 元々は男である彼女は、当然男性器の形を知っている。

 

 だからよりはっきりとイメージしてしまう。

 

 歳三のそれが、自身のそこへと沈み込む──……そんな妄想を。

 

 そして秘裂を滴らせる。

 

 満ちた月の美しい夜、比呂は自室で何度も何度も切なげに喘ぎ、三度達した。

 

 


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