無口な同僚の目線が気になったその日。誰にも言わなかった秘密が薬局の倉庫の中で崩れ落ちる。
「シャンプーの在庫はフローラルグリーンだけでしたっけ?」
昨日からいつもの発作が始まった。10代の頃、精神を病んでから起きるようになったそれは、すでにもう寛解して社会人になり、特に生活に支障もなくなった今でも続く、古い戦争の遺物(例えば不発弾とか忘れ去られた地雷とか)のような現象と言えた。1ヶ月に1回、軽いオーガズムがなんのキッカケもなく、何日も続くというその身体の現象は、快感と多少の焦燥感に彩られた、緩く明るい狂気に似ていた。精神を壊していた何年かはその焦燥感と欠落感による苦痛で、誰かれ構わず使い捨てのバンドエイドとか綿棒のように、顔も名前も覚えていないほど沢山の見知らぬ身体を貪った。親しい人間関係すら壊れるままにそれは自分の精神と身体を蝕みながら続いていった。だが、その罪悪感を蓄積し続けて満額になったある時、自分のしてきたことを悔い改めねばならぬような鉄槌のごとき恩寵があり、そのあとはただただ根気よく自分の中の抑圧や傷や欠落を、ひとつひとつ拾い集めて自分を再生する行為を繰り返す以外に道はなかった。
毎月の発作は変わらなかったが、それを押し殺さず暴発させずに、自分はそういう隠しようもないほどの猥褻で淫乱な人間なんだという事をなんの虚飾もなく認めた時、それはただの“最高にエロい気持ちのいい時間”と変容した。誰の身体にすがらなくとも、自分の中でそれが張りつめて解放されることを繰り返し、この発作の時期が終わるまで何もほとんど恐れることなく過ごすことすら出来た。
自分の精神と身体の故障のせいで、医療に関心があった私は、資格を取るためにとある薬局の店員としてもう随分長い間働いていた。2年前にその資格を手に入れ給料は少し上がり、責任も増えて任される仕事も少し増えた。月に1回のこんな発作の中でも、誰にもわからずにレジを打ち、品出しをし、値札を貼り、電話の応対をし、店長や同僚たちと話をしてあたかも普通に見えるように過ごすことも出来た。だが、身体の中では常にイッた直後の甘い官能が疼き続け、1日のうちに下着を2回も取り替えるようなはしたない状態があと2〜3日続く。たまに身体が戦慄くような大きな波が来ることもあるが、その時はいつも、裏の倉庫で数分息を整えれば済んだ。それで済むはずだった。昨日までは。
いつもは無口でなにを考えてるかわからない謎の年下の同僚と、また目線が重なった。そんなことが今日に限ってもう3回目になる。その同僚は7歳くらい歳下のパートの薬剤師で、週3回のシフトで出勤している。半年ほど前にこの薬局に就職してきた。その同僚と顔を合わせるのは週1か2で、寡黙な性格と出勤時間も帰宅時間も違うため、あまり個人的な情報は知らなかった。とはいうものの店舗での私語は原則禁止なので、他の同僚とも、この店ではあまり話が弾むような時間は多くはなかった。不意にまた背後から視線を感じた。何気ない素振りで振り向いたその先によぎる誰かの白衣の裾。でもこんなことは同僚がここの店に来てから初めてだった。発作の中でも普段どおりに振舞っているはずなのに、こんなことでバレるほどウブではないのだが…気にし過ぎだろうか。
お客様が棚の商品のことでレジ前の私に問い合わせてきた。このメーカーのシャンプーのこの香りは在庫にあるの? とかなんとか。これならまだ倉庫にあったはずだが。少々お待ち下さい、とお客に告げ、店の奥で品出し中のその同僚に見てきてもらおうと棚の影で戸惑いながら声を掛けた。
「えっと…◯◯のシャンプー、まだフローラルグリーンあったよね? レジ離れられないから見てきてくれますか? すみません」すると同僚は私に「それがですね…」と困ったような顔で囁いた。
「え? なにかあったの?」在庫無いのか、それとももしかしてさっきのお客、クレーマーかな。
「…は…です」
「ごめん、聞こえない」
私は耳に手を当て、小さく呟く同僚の口元に耳を寄せた。
「フッ…」
その瞬間、耳に吐息がかかった。いや、違う。息を吹きかけられたのだ。
「んっ…」
それだけで腰から下が砕けそうになった。思わず声がもれた。マズい。同僚は尚も耳元で囁いた。
「ローズしか…無いはずです」
「そ、そうだったっけ?」
バレて…る? 気が遠くなりそうなのを取り繕って、私は聞こえないように大きく息を吸い込んだ。同僚は無表情にこちらを見ている。だが明らかに、わざとだ。
「昨日まとめて買ってった方がいましたから」
同僚は顔色ひとつ変えずにそう私に告げた。
「ああ、それで…それで並んでないんだね。わかりました。ありがとう」
目眩がする。無意識に片手を額に当てながら急いでレジに戻る。お客様に対応したあと、店長にレジを替わってもらう。足に力が入らなくなっている。波が来る。
「すみません、倉庫の在庫確認してきます」
「ああ、よろしく。シャンプーなかったら発注かけるから教えてね。あと入り口の整理しといて」
「わかりました」
すでに身体の中から溢れてくるモノの感触で気が散るほどになっていた。早く倉庫に行って一息つこう。毎回のことだが、この隔離された薄暗い空間で体勢を立て直すことになる。だが今日はヤバい日だ。ふらつく勢いでドアノブを引く。倉庫の真ん中の辺りに化粧品類の棚がある。ひんやりとした暗がりで私は肩で息をついた。息が上がっている。棚の後ろの壁に片手を着いた。だんだんふらつくのが治まってくる。しかしなぜわかったんだろう? 私はそんなに無防備なのか? それともあの同僚が敏感なのか。
そのとき、後ろに人の気配がした。ハッとして振り向くと、そこに例の同僚が立っていた。
「い…いつ、入ってきたの? ドアの音しなかったけど」
「最初からいましたよ。在庫の確認で」
同僚は微笑んだ。それは確信犯みたいに。まさか、見られていた?
「辛いでしょう」
「い…いや、ちょっと昨日…寝不足で」
「なんで…寝不足なんですか?」
同僚は気配なくスッと近づいた。間を詰められたのに、なぜか視野から同僚は消えていた。
「フッ…」
耳に、吐息が…
「…っ!」
さっきと全く同じ立ち位置に同僚は立っていた。完全に故意に、同じ場所で同じ位置で、同じ所に同じような吐息が。だが私はさっき以上の感触に襲われていた。全身が粟立つ感触に耐え切れず、膝が軽く落ちた。その瞬間同僚は抵抗なく、私の腰に両手を掛けた。
「ほら、危ないですよ」
「やめ…」
だが、もう遅かった。その手が腰をつかむ感覚に私は悶えた。極限まで耐えていた性感が一気に身体の外側に吹き出すような止められない反応が私を支配した。
「んあっ…」
その右手が太ももに滑り降りていく。なにもかもわかられているように。白衣の裾を割って手が入ってくる。腿の外側から内側に手が移動して、内腿を撫で上げられると中心が先に痺れた。それを拒むように内股を閉じようとすると、同僚は不意に私を壁に押し付けた。
「うっ…」
冷酷なまでに無表情な同僚の目は私の顔を見ていない。私の股間を蔑んだ目見つめながら、内腿を撫で上げた手のひらを局部に押し込んだ。もう、服の上からでもそこが熱を持って濡れているのが分かるはずだ。なにか物として扱われているようなそんな気さえした。そのイメージが逆に私をつのらせた。なぜ私は逃げないのだろう。拒んで問い詰めてもいいのに。これがバレていることが私の抵抗を簡単に折ったのだろうか。思考を遮るように指がめり込んでくる。中から溢れたものがはしたないまでに下着の中で股間に広がっていった。力が抜けていく。股間を閉じている筋肉が震える。遅すぎる抵抗みたいに、私は片手で同僚の右手首を握った。その手もあっさり同僚の左手に剥がされて、逆に手首を掴まれて顔の横で壁に押し付けられた。同時に片方の膝で内股を割られる。右手が股間から抜かれ、その手でもう片方の手首も壁に押さえつけられた。膝頭が股間に食い込んでくる。濡れすぎた下着が音を立てるのが聞こえるんじゃないかと羞恥が走る。だが躊躇なく膝の骨が敏感な部分をこねあげてくる。下腹部に電気が走る。もうこの姿勢が耐えられない。力が抜けると、更に膝が局部を圧迫して痺れが突き上げてきた。
「も…ダメ…」
首をのけ反らせた瞬間、スッと同僚の膝が股間から抜けた。手首も離されて、私の身体は壁を伝って腰から床にズルズルと崩れ落ちた。
「あ…そん…な…」
私は茫然と同僚の顔を見上げた。冷たい目は変わらずに私を見下ろしていた。
「もっと欲しいですか? それならあなたから私のところに来るんです」
一言そう言うと、同僚は後ろも見ずにドアを開けて出ていった。私は冷たい壁にもたれながら目を閉じた。ギリギリまで高められた波が引くことはなかった。息が上がったまま終わらない性感の中で、私は声を殺して笑った。久しぶりに誰かの腕の中で壊れたくなった。蜘蛛の糸に飛び込んでいく愚かな羽虫のように。
《fin》
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