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アビゲイルは脱衣所で服を脱いでいた。
ここはフォート88。彼女に与えられた個室のシャワールームだ。
彼女はその後、半月かけてフォート88まで辿り着いた。元アースピントであることが確認できてすぐに、彼女への対応は見違えるようになった。
途中、ジェヴォーダンの隠れ家を経由し、装備を調えることができたのは幸運だった。まるで別れた後も、ジェヴォーダンの庇護下にあるような、そんな不思議な繋がりと安心感すら覚えたほどだ。
今後、彼女はこれまでの出来事の報告を求められるだろう。
エイリアンの拠点から生き延びて帰ってきた人物。
人類がこれを放っておくはずがない。
「はぁ……」
アビゲイルは脱出後、フォートに戻るつもりはなかった。
どこか遠くへと逃げて、ひっそり生きるつもりだった。
ジェヴォーダンに語った夢は、本心だった。
しかし、そんな彼女の考えを変えさせたのは、やはりジェヴォーダンという存在だった。
ジェヴォーダンは――
人間だ。それは間違いない。
結局、直接は聞けなかった。
そうだと答えなければならない、その気持ちを想像すると聞くに聞けなかった。どうしても聞くのが恐ろしかった。
だから彼女は会話の中でその人物像を探り続けた。
推理の材料はもう十分、手元にある。すなわち――
モールス信号を扱える人物である。軍人か、それに近い職業だろう。
自然の中で生きる
エコーチームの施設を襲撃した時の手際からして、かつて、名の知られた
会話の内容や話題から、どこかのフォートに所属していたと考えられる。あのエイリアンの街は元はフォート89だ。ここフォート88は間違いなく
記憶喪失だと言っていたが、その記憶の切れ方に
はたして本当に記憶がないのかは、微妙なところだ。
大部分の記憶を失って、わずかに覚えている。というよりは、むしろ、大部分の記憶が残っていて、わずかに記憶が欠けている。そんな状態が近いだろうとアビゲイルは考えていた。
その推測を補強するのが、一度だけ、なぜ言葉が話せるのかと聞いた時に、ジェヴォーダンが話を修正した時の不自然さだ。
あの時、ジェヴォーダンはアビゲイルに嘘をついた。嘘をついてまで、自分の素性を隠したのだ。彼女の鋭い観察眼はそれを見逃さなかった。
ジェヴォーダンは、記憶喪失なんかではない。
自分のことを覚えているに違いない。
でもそれを隠した。何故?
それを支え続けたのは、自由への渇望?
ジェヴォーダンは自由になって何をしたかったのか?
あの秘密の拠点に溜め込まれた、過剰とも言える量の武器や装置は、何に使うつもりだったのか――。
――ジェヴォーダンはフォート89の防衛戦に参加し、その時にK.I.A.(戦死)扱いになったフォート89、あるいはフォート88所属の斥候部隊か、特殊部隊で、
これだけ絞れたら、見つけられるはず。
ところがだ。
フォート89防衛戦に参加した兵士の情報はおろか、その戦いの記録のほとんどが抹消されており、アビゲイルが調査してもなにも情報が出てこない。
アビゲイルの、ジェヴォーダンの正体を探る
「――聞いて回るしかない、か……」
資料を漁るのではなく、当時の関係者に聞いて回る。
それは、隠蔽された都合の悪い情報を暴こうとしている存在を触れ回る、自殺行為だ――。
彼女は鏡に映った自分の裸体を見た。
滑らかな曲線が描く、白く均整の取れた女体。
そこに垂れかかる長い金髪。
全て、あの獣に征服された。
口も、ヴァギナも、アナルは……許してもらえたが、それでも舌は何度か入れられた。手のひらに、指。つま先から
魂まで串刺しにされ、自分の女性の最も奥深きところまで汚し尽くされた。
何度も何度も、心が塗り替えられるほど注ぎ込まれた。
あの苛烈で
「はぁ……」
アビゲイルは頭を掻いて、化粧ポーチを引き出しから取り出した。
普段使う物とは違う、一回り大きなものだ。
ビーッと、ジップを引く。
もそもそと中から顔を出したのは、一匹の蜘蛛。
全身に毛が生えたタランチュラと呼ばれる蜘蛛を、一回り小さくしたサイズだ。背筋に一本のストライプが走っているのが特徴的。
彼は、ニブロというらしい。
誰かから聞いたわけでもない。この蜘蛛が、自分でそう名乗った。
ニブロがコツコツと洗面台を叩いた。
――アネゴ、ゴハン、チョウダイ。
アビゲイルが用意していた肉の切れ端をニブロの口に持って行くと、彼は両前足をバンザイして謝意を示し、むしゃむしゃとそれにかぶり付いた。
ニブロはモールス信号を使いこなす、とんでもない蜘蛛だった。
そしてニブロ曰く、自分は元々タイターニアの
それを聞いた瞬間、彼女の頭をよぎる映像があった。
ジェヴォーダンに貫かれながら見せられた口の中。そこから、こちらを覗いていた蜘蛛だ。
アビゲイルに、自分の生存にはライバルがいるのだと理解させ、同時に
ある意味、彼女はニブロに助けられたとも言える。あの時、全力でジェヴォーダンの
ニブロ――タイターニアから与えられた特別な蜘蛛。
ジェヴォーダンのファミリア。
だから、スキルと呼ばれるエイリアン特有の能力の形で、その技術の一部を受け継いでいるらしい。それだからモールスを扱えるということだ。
あくまでも受け継いでいるのはスキルであり、記憶は共有していない。離れた場所からジェヴォーダンと連絡を付けることも、できない。
でも、近くに行けばジェヴォーダンの正確な位置が分かるし、身体をくっつけていればその考えも分かるそうだ。
ニブロは、あの独房から脱出する時に、アビゲイルの背中にくっついてきた。
彼女がそれに気付いたのは、ジェヴォーダンの隠れ拠点に着いた時だった。
薄暗い洞穴の中、天井から落ちるスポットライトの中央に突如としてバンザイポーズで現れた一匹の蜘蛛。そのまま光の領域の中でカツカツと床を叩き、くるくると愛嬌のあるダンスを披露し始めた珍妙なタランチュラ。
アビゲイルには、すぐにその蜘蛛が会話を求めているのが分かった。
あの拠点に染みついた、自分とジェヴォーダンの
――ニブロはどうして私についてきたの?
アビゲイルの疑問は、ニブロ自身にも分からないらしい。
あの時、ジェヴォーダンの身体に飛びついていれば良かったものの、ニブロはアビゲイルの背中に飛びついた。
アビゲイルは、それがジェヴォーダンの意思だと直感した。
ジェヴォーダンは心のどこかで自分に助けを求めている。
それは思い上がりかも知れない。
でも、そう信じる。
ジェヴォーダンは、愛憎が渦巻く人の世に身を置いてはいけないのだ。
もっと自然の中に溶け込んで暮らせれば、野生動物のように、自然の大きな流れの中で穏やかに生活できるはず。
ジェヴォーダンとの短い同棲で理解したのはそれだった。
拠点で暮らすジェヴォーダンの背中は、山で暮らす穏やかな人の背中だった。
他にも知れば知るほどジェヴォーダンという存在の中には、人としての道徳心が深く根を張っていることが、はっきりと知れた。
ジェヴォーダンへの同情が、いつしか信頼に変わっていったのも、その行動の端々に人間の輝きを見たからだ。
だがそれも危うい。
幾度となく壊れかけたジェヴォーダンの思考の
もう一度ジェヴォーダンと会わなくては――。
それまでに正体を知っておきたい。
もしかしたら、それがジェヴォーダンを人間に戻すヒントになるのかも。
美女と野獣のように、真実の愛が、ジェヴォーダンの呪いを解いてくれるとは考えていない。ただ自分だけがその人間性を支えてあげられる。その確信はあった。
ジェヴォーダンの人間性を壊させてはいけない。
アビゲイルが両手を洗面台につき、鏡に映る自分を睨み付けた。溜息と共にあの女の名前を吐き出す。
「タイターニア……」
巨虫を従える
息を吹き返した彼女の目には、男を利用する女特有の、うすら寒い色が浮かんでいた。
それと同時に、男を愛する熱っぽい女の顔も垣間見えた。
タイターニアについて、アビゲイルはほとんど何も情報を持っていなかった。昔どこかのフォートが支配の力を持つエイリアンに落とされたという話も、アースピントの間で囁き継がれる噂でしかない。
だかしかし、フォートに帰還する旅の途中、ニブロが(ちょっと得意げに)聞かせてくれた波瀾万丈なおつかい冒険活劇が、一人旅を続ける彼女に小さな癒やしと共に、極めて興味深く、同時に貴重な情報の数々をもたらしてくれた。
ニブロの話は尊敬していた先輩の不幸な圧死事件から始まる。
ジェヴォーダンの口の中とっても怖かった事件、および、あの時はお楽しみでしたね事件の後、ニブロは単独で異界門を越え、ミフォーシスを旅し、向こうで巨虫の残党を仕切っていた〈インセプチュア・ヴェントリコサス〉という大蜘蛛を探し出して
そんな長旅の末、帰還途中のこと。
空腹でヘロヘロだったニブロは森の中でとんでもなく濃い血の匂いを嗅ぎつけた。飢餓が引き起こした蜃気楼の類いだろうか。
お腹が空いて死にそうだったニブロは自分もおこぼれが欲しくなって、ちょっと肉を残して欲しいという願いを胸に、ぴょーんと飛び付いたのだが、どういうわけか〈
そんな功績を讃えて栄光の名ニブロを拝命。
ニブロはタイターニアへの報告をおろそかにし、お肉屋さんへの転属を勝手に決め、ジェヴォーダンに可愛がられるようになる。おねだりするたびに、お肉たっぷり。ニブロは新たなボスの元、出世街道に乗った。
順風満帆な日々を過ごすニブロだったが、次いでお肉屋さんにやって来たのは後輩の銀蝶たち。幼虫状態の銀蝶など恐るるに足らず。肉は分けてやらん。ふんぞり返って先輩風を吹かせていたニブロだったが、彼らが携えてきたメッセージに慄然となった。
ビッグボスの
こうしてニブロはタイターニアの命令に従い、ジェヴォーダンの自爆装置に関する情報収集のため、銀蝶たちと共同戦線を張ることになった。
しかし直接的な部下(部下ができるのは初めてだったらしい)になるはずだった銀蝶は、成虫を目前に、無残にもエルフ男トゥルヤルに殺されてしまう。
飛び散る体液。スローモーションになる視界。耳に聞こえてくる悲劇的なミュージック。あまりの悔しさにニブロはしばらく抜け毛に悩まされることになる。あまつさえタイターニアにまで毒牙にかけた、あの
弟分の死に、やさぐれた日々を送っていたニブロ。彼の足下には無数の酒瓶が転がっている。そんな折、残った三匹の銀蝶による地道な諜報活動が、ついに制御装置の情報保管場所を探り当てた。
それに聞いたニブロは手にした酒瓶をかなぐり捨てて立ち上がった。
自分がやらなければ。あの銀蝶くんの死が無駄になってしまう。
ニブロは決然と夜の街を駆けた。
途中、恐るべき野良猫たちとの
薄暗い路地に舞い散る、輝ける銀の鱗粉(吸い込むとヤバい)。混乱する現場。全身から血を吹いてボトボトと落ちてくるコウモリども。ニブロも鱗粉に巻き込まれかけて死ぬ物狂いで逃げ惑った。
しかしニブロは
ところが、そこに待っていたのは大量のコオロギ達。先んじて施設に潜伏していた彼らは〈ファイアー・グリロイデア〉、言うなればヤクザだ。
アポも無しにシマに侵入してきた、いけすかない蜘蛛を取り囲むコオロギ・ヤクザたち。しかし長い睨み合いの末、ニブロが語ってみせた、このミッションにかける熱い情熱がヤクザたちの心を動かした。ヤクザは仲間の仇討ちストーリーに弱い。お礼参りじゃあ!
まんまと彼らの助力を得たニブロ。その最後の挑戦が、ついに隠されたジェヴォーダンの自爆装置の秘密を暴き出したのだ。
最終的にゲットした重要そうな呪文はコオロギ達に託された。頼む、これで銀蝶の仇を。まかせておけ。それは忘れるはずもない、アビゲイルもよく知る呪文だ。
こうしてインポッシブルなミッションから無事生還した
本が一冊書けそうなボリュームのハードクライム・アクションだった。
アビゲイルは、控えめに言ってニブロのことが好きになった。
――そんなこと私に喋っていいの? タイターニアに怒られない?
――ヤバイ、ヤバイ、ヒミツ、ナイショ、ヤバイ、ショケイ。
こうして震え上がったニブロの立場は危うくなったが、おかげで事情は詳しく知れた。
あの女がジェヴォーダンを助け続けたのは間違いない。
でもなんのために?
――なんにせよ、タイターニア一人にジェヴォーダンを任せるのは危険だ。
あの女の導く先には暗い未来――破滅しかない。
自分の中にある女の勘がそう告げている。
もう一度、ジェヴォーダンと会わなくては。
会って、確認しなければならないことがある――。
強い胸騒ぎを覚え、心臓を押さえた。
アビゲイルはニブロに情報収集の任を与えて部屋から放ち、自分はシャワールームに入った。
キュッと蛇口をひねる。
顔に降りかかった冷たい水に身体が跳ね、すぐにじんわりと温かいお湯に変わっていく。降り注ぐ熱が安堵となって染み渡る。
顔に掛かる液体の感覚。全身に滴り落ちる熱い感覚。目を閉じてそれらの感覚に集中すると、鼻腔の奥に
「はぁ……」
今はただ、毎晩こうして一人で記憶を辿る時間だけが、彼女の安らぎだった。
凶暴な野獣に荒々しく心の奥底まで犯される、めくるめく官能の記憶。
「ジェヴォーダン……」
悪いことをするとジェヴォーダンが来るぞ。
それは幼少の頃、自分が過ごした孤児院でお決まりだった
年一回のお祭りで、どれだけ恐ろしいジェヴォーダンを演じられるのかが、孤児院内でのステータスでもあった。みんな、こぞって空想のジェヴォーダンを思い思いに表現していた。
「はぁ……」
生き別れた妹が、ジェヴォーダンの真似が得意だった。
記憶の底に沈めて封印していた、辛い幼少期の日々の記憶の中で、生き生きとジェヴォーダンの雄叫びを上げる小さな女の子。
守りきれなかった宝物。
ジェヴォーダンが夜空に上げた、あの猛々しくも寂しげな雄叫びが、そんな胸の詰まる記憶を呼び覚ましたのだ。
ジェヴォーダンの声。
リディアを通じて聞いた声音は、少年兵の声のようでもあり、ハスキーな女性兵の声のようでもあった。リディアという女性を
でも改めて思い返してみると、どことなく――。
アビゲイルは、いやいやと首を振って、ゾッとしない自分の妄想の糸を絶った。
もう一度会わなければ。
会って、確認しなければらないことがある――。
「ジェヴォーダン……」
切なげに獣を呼ぶ女の声。
彼女の細い指が、するすると濡れた身体を這い下りていき、茂みの奥に消えた。
「……ん、ぁぁ……」
シャワーの水音に、いかがわしい音が混じった。
(第一部了)