「....んん....」
(....柔らかい....落ち着く....ずっとここにいたい....)
路地裏の暗闇の中、ひどく安穏な気持ちで、アスカロンは目覚めた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。何か、柔らかいものが頭を支えているし....誰かに、優しく撫でられている。だからこそ、ここが自宅でない事だけは分かった。
(....こんなに心地良い目覚めなんて....一度もなかった....ここは、何処だ....?)
情報を求め、休みたがっている瞳を無理矢理に稼働させ、視線を動かす。黒のスーツに覆われた太腿、お腹、胸。そして、ギミーシェルターの顔。
「おはようございます、アスカロン様」
「あ....」
膝枕。寝起きの脳が現状を把握する。
(....頭を支えているのは、ギミーの太腿....撫でているのも、ギミー....この甘い香りは、自慰の時に溢れたギミーの──)
思考が終着するよりも早く、アスカロンは柔らかな太腿から飛び起き、今まで膝枕をされていた相手を睨み付ける。それは、ギミーシェルターへの反発か。それとも、このままでは"戻れなくなる"と直感したのか....
「ギミーシェルター!お前っ....!」
謗ろうとした。怒ろうとした。何か、反抗する理由を立てなければならないと。けれど、それをする理由はどこにも見つからない。
「お前....」
口から溢れるのは、敵意の残骸だけ。そんなアスカロンの手を取り、ギミーシェルターは悪魔のように囁く。
「大丈夫、私はあなたの味方。忠実な、あなたの下僕です」
一般市民の仕事場として知られる外壁区。その下層と見做される領域は最も退廃的であるが、決して経済的に劣っている訳ではない。個人商店、カジノ、娼館、酒場などが入り乱れ、数多の繁華街に中小企業と零細教団がひしめき合う混沌の世界。そこには信じられないほどの利得が眠っている。無論、その利得を手にする者もまた、存在する。
「いやはや、キミほどのハンターが受けてくれたのなら安心だ!」
利得を得た者の一人、辺りの繁華街の顔役として知られる男が、ギミーシェルターの肩を叩く。
「ええ、ご安心下さい。このギミーシェルター、あなた様のお悩み事を完璧に解決してみせます!」
アスカロンから今までの事件の発生地点を共有されたギミーシェルター。彼女は事件現場に向かうでもなく、被害者に話を聞くでもなく、依頼人である顔役に会いに来ていた。地下に建てられた彼の拠点はそれなりに警備も厳重だ。しかしギミーシェルターが引き留められる事は一度も無い。
「失礼、今はこの程度の土産しか用意出来ないが....」
「まさか!このような施しを頂けるとは、正に恐悦至極でございます!」
形式と本題。二人の上位者は凄まじい速度で会話を展開していく。だが、あれこれと二人で話し合い、明らかな賄賂を受け取るその様子を不満げに眺める者も居た。アスカロンだ。
「....おい、依頼を受けたのはあくまでも私だぞ」
我慢出来ず、二人の会話に口を挟む。彼女は怒っていた。下僕だ、なんて言った癖に主導権を取られている事にも、顔役の男が自分を一瞥もしない事にも。それに、ギミーはここに来てから一向に構ってくれない。
「当然ですとも!私はあくまでもアスカロン様の代理人として任を熟しているだけに過ぎません」
「おや、そうなのか....」
ようやく、顔役の男はアスカロンの存在を意識し、分析する。しかし名前を聞いた事も、熟練のハンターに特有の油断ならない気配を纏っている様子もない。
(ふむ....)
体のいい肉壁か、肉壺。彼はそう結論付ける。
「まぁ、期待しているよ。頑張ってくれたまえ」
「....」
「....さて!それでは、我々はこの辺りでお暇させて頂きます。ささ、アスカロン様、こちらへ──」
ギミーシェルターは明らかな態度の違いにより機嫌を悪くしたアスカロンの背中を押し、退出を促した。
「ん....」
地上に戻る為のエレベーター。二人きりの空間で、アスカロンはギミーシェルターに身を預け、頭を撫でられていた。
(....別に....このくらい、普通だ。ただ、ギミーを壁として使ってるだけ....)
彼女は虚像の服を身に纏っている。いつでも柔らかな肢体を味わえるし、肌からは良い香りがする。勝手に愛撫までしてくれるというのだから、壁として使う分には適当だ。別に絆されている訳ではない。そう結論付けて、そもそも今の自分は不機嫌なのだと自らの心に言い聞かせる。
「お前、賄賂の為だけにこんな所に来たのか?」
「まさか、あの方は様々な情報を提供して下さいましたとも」
「....ほとんど雑談をしてるように見えたが」
「彼によれば、依頼の報酬はこの付近に縄張りを持つ全ての勢力が出し合い、負担しているとの事でした。貴重な情報でしょう?」
「....そう、か?」
「....ふむ、アスカロン様にとってはそろそろこのエレベーターが地上に着く事の方が重要かもしれませんね?」
「っ....」
アスカロンは"壁に寄り掛かる"事を止め、服を軽く整える。二人きりならば、別に良い。しかし、他の誰かが居る場所で彼女を"壁"にするというのは....
「....そ、そんな事より。次は、どうする気だ?」
今までの話題を切り上げ、焦り気味に問い掛ける。それは、完全に主導権を相手に委ねた言葉だったが、焦った思考がその結論に辿り着く事はない。
「先ずは、聞き込みを。この街において、完全な意味で人の目から逃れる事は不可能ですから」
「....なに、暴行犯の話が聞きたい?お前ら、奴を討伐する気か。ふむ....」
「警備員なんて職に就いている以上、俺の1日は決まりきってる。辺りを見回って、治安を乱す原因があれば叩き潰す。それだけだ」
「あの日も、そのつもりだった。ただ、代わり映えのない日常の中で、油断してたんだろう。横から突進され、そのまま腕を噛み千切られた。
「きっと犯人は粗製のナノウェアで狂った人狼だろうよ。あんな無茶苦茶が出来るのはそのくらいのものだ」
「なぁに?私を襲った犯人の特徴を教えて欲しいの?」
「うぅん、私は後ろから押し倒されちゃったから、姿は見ていないの。ああ、でも、凄い男性器だったわねぇ....♡」
「私ってばサキュバスの、それも娼婦よ?けれど、あの時は激しさのあまり気絶しちゃったわぁ♡射精時間もすっごく長かったしぃ....♡」
「お金は払ってくれなかったけど、あんなに気持ち良いセックスをしてくれるなら、ねぇ?」
「ところで....あなた達も、私のカラダ、買ってみる?お安くしておくわよぉ」
「まぁ、腕なんて組んじゃって、仲良しねぇ♡私は勿論三人でスるのでも──」
「あら、だめ?ざぁんねん」
「ああ、例の暴行犯。店じまいでゴミ出しをしてる時に見ましたよ。四つん這いで、目が光ってて、ちょうど巨大な犬みたいな姿でした。妖精か、はたまた神の部類かもしれません」
「....そういえば、この辺りに妖精に詳しい方が居ましたね。チェンジリングの...."スキャット"でしたか。宜しければ紹介しますが、如何でしょう」
「....少しばかり、危険かもしれませんが」
「むむむ....」
聞き込みの道中、アスカロンは傍目にも考えごとをしているのだとあからさまに分かるように唸り、そして外面と何ら変わりなく思考を回していた。それは治安の悪い繁華街において無防備とも言える行動だったが....隣で笑みを浮かべている黒髪のフィクサーが警戒を解かない以上、"危険"にはなり得ない。
「お悩みですか?でしたらこのギミーシェルターにお任せ下さい!」
「うるさい」
溜息を吐く。短い付き合いながら、アスカロンはギミーシェルターのわざとらしい態度が、実際にわざとであろう事を理解していた。故に彼女もまた、露骨に負の感情を表明する。
「そもそもこれはお前にとっても問題だ。聞き込みの結果が合わないんだぞ?神だか妖精だか人狼だか知らないが、分かった事と言えばどうも犬らしい姿をしている事と、後は....まぁ....」
「異常な男性器と射精時間、ですね」
「....」
言い淀んでしまった言葉を引継ぐように、ギミーシェルターがそう続ける。
「ただ、齟齬については特に問題ありません。恐らく、チェンジリングであるスキャット様が私達に有益な情報を提供して下さるでしょう」
「チェンジリング....妖精と融合した人間だったか」
「ええ、名に縛られ成長が不可能な妖精と、力を持たない人間が至る
「妥協点、随分悪しざまに言うな。一般人であっても私達のようなハンター並の力を得る事の出来る手段なのだろう?」
「能力、技術、肉体。そこまでは良いでしょう。しかしチェンジリングは自我すらをも妖精と融合させた存在。意志が弱ければ妖精に乗っ取られ、抵抗したとしても妖精の衝動、歪んだ思考が時折溢れ出す。ですが、完全に克服してしまったら....融合を了承したほどの仲の妖精が犠牲になる」
「それは....」
「力を得る為だけにチェンジリングになるというのは、私に言わせれば愚の骨頂です。力を得る方法など、この都市には幾らでもあるのですから」
「....」
アスカロンは、黙り込む。反論が出来ないからというのは、そうだ。しかしそれ以上に....
(....ギミーのやつ....今までで一番、"本気"だったような気がする....)
喧騒から遠く離れた繁華街の裏路地。暗闇に支配されている筈の領域。しかし、二人を待っていたのは旧き時代を想起させる橙色の光と、幻想的な音楽だった。
「....」
故に、アスカロンが感嘆するのも、必然と言えよう。だが、ギミーシェルターは耳元で囁く。
「あまり引き込まれ過ぎないように」
「....あ、ああ」
端的だが真剣な警告に気を引き締める。冷めた目で見れば、懐古趣味とも言える世界。それは、時代に置いて行かれた美しさのみを集めた、この世には存在しない虚像だ。
そんな世界の中心で、青年がギターを引いている。
「....美しいお嬢様方。此処に来た、という事は僕に何か用でもあるのかい?」
テレビ、レンガ、鉄骨。錆び付いたゴミの山の上で微笑むスキャットは、俗世から切り離されたような美しさと、猫の耳を持ち合わせていた。
(....たぶん、あれは自前なんだろうな)
アスカロンは、直感的にそう感じる。
「その通りでございます!我々、この辺りで起こっている連続暴行事件について調べている者なのですが....証言は食い違い、情報も不十分!手詰まりの中、スキャット様であれば光明を与えて下さるのではと考え参上した次第でして!」
「....まぁ、なんだ。もしも知っている事があれば教えて欲しい」
「ふむ....」
スキャットはギターを下ろし、ただの一跳ねで二人の前に辿り着く。幻想を失った世界は、物悲しく沈黙する。
「勿論、同族の頼みとあらば、喜んで協力しよう」
「感謝致します、スキャット様」
(....同族?)
アスカロンはその言葉に疑問を持つ。スキャットの同族、それはつまり、チェンジリングの事だろう。しかし、アスカロンは当然チェンジリングではない。
(....ギミーのやつが....チェンジリング?あんなに否定していたのに?)
(....けれど....だからこそ過去があるのかもしれない....美しくない記憶....世界にすら切り捨てられた断片....)
彼女は調子のいい会話を繰り広げているそいつを見て、考え込む。瞳に入り込む橙には気づかないまま。
その間も、問答は続く。
「僕自体はその犯人に遭った事はない。しかし最近、この辺りのゴブリンの姿が見えなくなったんだ」
「なるほど、脅威に反応してゴブリン達が逃走したという事でしょうか?」
「その通り。恐らく、彼らより強力で邪悪な妖精が現れているんだ。ゴブリンマーケットの為にも、脅威を取り除けばまた帰ってくるだろうけど....ああ、君達にとってはそちらの方が不利益かな?」
ゴブリン、典型的な悪戯妖精である"彼女ら"は暴力をこそ好まないが、性的なものを含む様々な悪戯を行う。堕天特区における盗難事件の大半を引き起す、人間からすれば厄介な存在だ。しかし、ギミーシェルターはこれを否定する。
「まさか!寧ろ私にとってはとても喜ばしい兆候です」
「....それは、妖精としての言葉ではないね。彼女らの虜になっている訳でもない。人間として、ゴブリンを歓迎する?」
「親愛なる隣人が帰ってくるのです。歓迎しない人間は居ない、そうでしょう?」
「....」
猫の瞳が、自分を見つめる漆黒を見つめ返す。しかし、その先に何かを得る事は出来ない。
「....まぁいいや。僕が言える事はこれでおしまい」
スキャットは興味を失ったように視線を外し、残骸の頂上に飛び移る。猫のように丸まり寝息を立てるその姿は、交渉の終了を意味していた。
「それでは行きましょうか、アスカロン様」
「....えっ?わ、分かった....」
ハッと我に返ったアスカロンが、緩慢に頷く。橙に染まっていた瞳が、少しずつ碧色の輝きを取り戻す。
「でも、行くって、何処へ?」
「しっかりして下さい。我々は必要な情報を集め終えました。そろそろ潮時でしょう?」
「ああ....そうか、事件の....」
「ええ、現地調査の時間です」
ギミーシェルターは橙に侵食されて迷う腕を掴み、足早にその場を立ち去った。