一 新しい母
俺の母、
俺が悪さをしたり、約束事を破ったりしても、落ち着いた口調でたしなめるだけで、けして声を荒げたり、叱り飛ばしたりはしなかった。
まぁ、叱り役は父さんの役割だった事もあるのだろうけれども。
穏やかな笑みを浮かべて、優しく見守ってくれていた淑恵母さんだったが、極稀に、なんとも形容しがたい色を含んだ眼差しで俺を見詰める事があった。
俺を見ているのだけれど見ていない。俺を通した向こう側の何か、いや誰かを見ていたのだろう。
その誰かを当時の俺が知る術はない。
そんな淑恵母さんだが、元々丈夫ではなかった事もあり、四十代半ばの若さで亡くなったのは、俺が八つの歳。
勿論ショックはあったが、自分がそう長くは生きられない事を悟っていたみたいだった淑恵母さんは、自分が逝ってしまってから後の事を、生前からくどいくらいに俺に説いていたので、亡くなってしまった事からの立ち直りは自分でも驚くほどに早かったっけ。
幼いなりに淑恵母さんの言いつけを守りたいって気持ちが強かったのだと、今はそう思い返せる。
淑恵母さんが亡くなってから二年が過ぎた、春の終わりのとある日曜日、
「遊びに行ってもいいが、夕方には絶対家にいるように」
と言い残し、朝からどこぞへと車で出かけて行った父さんが、言葉の通り帰って来たのはそろそろ夕方にさしかかろうかって頃。
「ただいま」の声に呼び寄せられるように、ごろごろしていただだっ広い居間から飛び出して玄関で出迎えた俺の目に映ったのは、大荷物を抱えた父さんと、その隣に立つ派手さのない清楚な白いワンピースを着た、まだ二十歳を迎えて間もないくらいに見える若い女の人。
お客さんだろうか? しかも若い女の人なんて珍しい事もあるものだ、もしかすると
「ましろくんだ。今日からお前のお母さんになる」
と、何の予備動作もなく言い放ち、抱えた大荷物、ラージサイズのトランクケースを両の腕にひとつずつ掴んだまま家の奥へ消えていく。
あまりに突然な宣言に対し反応出来ず、呆然と父さんの去った方向を見据えたまま立ち尽くしている俺の背に、柔らかくて優しげで、だけどどこか遠慮がちな声がかかる。
「
その声に振り向くと、若い女の人は俺と視線の高さが同じになるよう身をかがめて、
「ましろです。これからよろしくお願いします。仲良くして下さいね」
淡く頬を染めて微笑みながらそう言ってきた。
女の人といえば、ご近所のバァちゃんやオバちゃんたち、学校の先生といった、言ってはなんだがいくらか
この他愛のないやり取りが俺と新しい母親、ましろ母さんの始まりだった
俺の住んでたのはとある地方都市の、奥の奥の方にある古くからの農村。
町村合併で一応 "町" とはなっているが、実態は十数世帯しかない村のまんま、お隣さんちまでの距離が軽く数百メートルあって、周りは山と田んぼと畑に囲まれた、昔は日本のあちこちでよく見られたスタンダードな田舎の風景そのものである。
そんな小さい村の一番奥詰まったところに建つ我が家は、かなり大きな平屋の一軒家で昔は名主さんとかの豪農が住んでいたとかいう、由緒正しい日本家屋である。
俺が生まれた頃に住み手がいなくて売りに出されていたこの家を父さんが買い取り、改築してそのまま住み着いたのだそうだ。
元からの住人ではなかった我が家族ではあるが、人の好い隣人さんたちに暖かく迎え入れられ、今に至っている。
何でも引っ越し当時、父さんが村にとって益になるような行いをしたとか何とか。
以来、村人たちから一目置かれ『先生、先生』と呼ばれ、相談役として慕われている。
まー実際、父さんは昔教職に就いていたので『先生』と呼ばれるのはあながち間違いではなかったりするのだけれども。
淑恵母さんとはこの先生をやっていた時代に知り合ったのだそうだ。つまり教師と教え子の関係だった訳。
もっとも互いを意識し交際を始めたのは卒業後何年か経っての同窓会での再会かららしいので、特に問題になるような事はなかったとか。……在学中にそういう関係になってたりしたら大問題だよな。
どういう経緯があって結婚したのかなんて、ガキの俺には話してくれる事もなかったが、父さんと母さんの歳が二回り近くも離れている理由がこの件で納得できた。
父さんは今、近くにある割と大きな大学に是非にと招かれ、特別講師なんかをやっていて、週に二、三日ほどキャンパスへと赴き、学生さんたちのお相手を務めている。
初めてうちへやって来た時のましろ母さんを、学生さんかと思ったのはこういう事情からなのである。
十の歳、再び三人家族になった我が家。
新しい母親、ましろ母さんは働き者だった。
やって来た明くる日、彼女が最初に手をつけたのは、三人で暮らすには無駄ともいえるくらい広い家の大掃除。
淑恵母さんが亡くなって以来、日常的に使う部屋以外はほぼ放置で、荒れてた多くの部屋一つ一つを手を抜く事無く掃き磨き上げ、一週間もたたずに全部を使える状態にまで回復させてしまった。
「使う事もそんなにないし、大変だろうからざっとででいい」
と言う父さんや俺に、
「お掃除好きですから遣り甲斐があります。それに、やっぱりおうちは綺麗にしときたいじゃないですか」
なんて明るい笑顔で言い返してくるのだからこちらはそれ以上言葉を継げず、で、結局やりきってしまうのだから大したものです。
ましろ母さん、掃除だけではなく料理の腕もなかなかのモノで、この二年、手馴れていない父さんの男の手料理にインスタントや冷凍食品を使った俺の拙い調理、ご近所さんのヘルプやお裾分けやらで回っていた食事環境が一変。
定番の和食から手の込んだ洋食、食事の度に出てくるちゃんとした料理の数々、しかも美味しいときたそれらに、父さんは満足げに頷き、俺は涙を流さんばかりに喜んだものだった。
何を出しても「美味しい、美味しい」を返すだけの俺たちに、世辞を言われているだけのように感じていたらしいましろ母さんだったが、この二年の食生活の事を説明してあげたら、俺たちのとった態度にものすごく納得してくれて、
「これからも腕によりをかけて美味しいものを作ります!」
なんて握りこぶし付きで力強く宣言してたっけなぁ。
もうひとつ、問題になるかもしれないと思っていた村の人たちとの仲も、ましろ母さんの方から積極的飛び込み、その人柄の良さと働き者ぶりで、あっという間にコミュニティに溶け込み、あっさり村の住人として認められてしまった。
田舎の人たちというのは明るい働き者というだけで受け入れてしまうところがあったりするからねぇ。
俺は俺で、村に幾人かいる同年代の遊び仲間たちから「優介んちの新しい母ちゃん、若くていいな」とか、羨ましさ半分やっかみ半分でよくからかわれていたものだ。
そう言う連中の母親たちも、実のところまだ三十代半ばとかだったりするのだが、垢抜けた街育ちの娘さんと、大地とともに生きてきた女の人とでは、実際の年齢差以上に醸し出す雰囲気? そういうのが違ってくるものなので、奴等の言い分も納得できた。
ま、何よりましろ母さんを褒められて嫌な気持ちでなかったのは事実である。
俺もこの新しい母親に自分で思っていたよりも早く馴染んでいたから。
ただ、少しだけ困ってたのは、ましろ母さんが俺に構い過ぎる事。
必要以上に俺の世話を焼こうとするのには、正直閉口してた。
俺がもうちょっと年少ならばそれでも良かったのだろうけれど、十代の入り口に立っちゃった少年としては、あまり構われ過ぎるのは面倒なだけだったりするのだ。
淑恵母さんは優しかったけれど、自分の死期をうっすらと悟っていた事もあってか、過干渉はなかったので、あれやこれやと世話を焼かれるのに慣れていなかったってのもある。
おまけに相手はそれまで身近にいなかった若い女の人で、しかも極最近家族になったばかりの微妙な距離感が漂う、言うなれば "まだ余所の人" 扱いの状態なのだ、思春期に足を踏み入れようとしている男の子に、意識するなというのが無理な話。
あまり構わないでくれ。と、直接俺から告げたりしたら、ましろ母さんの事を拒絶したみたいになると思ったので、父さんの方からそれとなく言い含めてもらえないかと相談したら、
「……優介の言い分も判る。けど、しばらくはましろくんのしたい様にさせてあげなさい」
と、逆に俺の方が言い含められてしまった。
そう言った父さんの瞳には、いつか淑恵母さんが見せていたあの深い色が浮かんでいたっけ。
ましろ母さんが俺への過ぎた干渉を改めるようになったのは、彼女が来たその年の夏のある出来事がきっかけだった。
夏休みに入っていた俺は毎日のように、友人たちと野を駆け山を走り遊びまくっていた。
その日、父さんは用事で外出。俺はいつものように朝から仲間たちと遊んでた。
昼も近くなった頃、腹ごしらえしようぜと、また午後から遊ぶ約束をして一旦解散し、それぞれのうちへ。
家に帰った俺だが、いつもよりドロだらけになっていた事と汗まみれなのが不快だったので、シャワーを浴びようと思い、「ただいま」を言うのも忘れそのまま風呂場へと直行。
勢いよく脱衣所の扉を開けると、
「あ、優介くん。……お、おかえりなさい」
少しだけ焦った感じで俺を出迎えたましろ母さんの格好は下着を一枚着けてるだけで、その最後の一枚を今にも下ろそうとしているところだった。
「帰ってきてたのは足音で判ってましたけど、いきなり扉開けるからびっくりしちゃいましたよ」
照れたようにそう言いながら、
「お昼の支度してたら思いのほか汗かいちゃったからシャワー浴びようとしてたんですけど……」
なんにもなかったように下着を脱ぎ終えたましろ母さんはそこで言葉をとぎると、泥んこの俺を上から下まで見渡して、
「優介くんもシャワー浴びるつもりだったんですね。ついでですから一緒に浴びましょうか」
いい事を思いついたって感じでニコニコしながら、あまりに突然過ぎる状況に扉の前で動けなくなってた俺を捕まえて脱衣所に招き入れると、手早く服を脱がしにかかった。
「いいよ、俺は後からで。母さん先に浴びなって」
状況に流されそうになってた俺は何とか我に返り、剥かれまいと抵抗を試みたのだけれど、
「そんなに汗かいたままでいると夏風邪ひいちゃいますよ? ホラホラ、脱いでください」
オバちゃんたちよりも細い腕のどこにこれだけの力があったのかと思う意外な力強さと、流れるような手捌きで、あっさりと俺をひん剥いてしまった。
「さぁさ、シャワー浴びましょう♪」
照れくさいというか、こっ恥ずかしいというか、そんな複雑な気持ちで前を隠す俺を、とても楽しそうな笑顔のましろ母さんは風呂場へと連れ込んでった。
元が古い家なので、風呂場も十分な広さがあり、浴槽なんて大人ふたりでも楽々入れるほどだ。
そんな広い浴室のシャワーの前、風呂椅子に俺を座らせたましろ母さんは、
「熱かったら言ってねー。かけますよー」
と、やっぱりどこか楽しそうに左右に分かれた湯と水のコックを調整しながら捻り、俺へとお湯をかけはじめる。
熱過ぎず温過ぎずの湯が頭にかかる。流れていく湯が目に入らぬようにと目を瞑る俺。
手櫛で優しく髪についてる泥やら汚れやらを拭い落としながら、
「優介くん、髪伸びましたねー。夏ですし、短くした方がいいと思いますよー」
いつもより弾んだような声色でましろ母さんは髪を梳いていく。柔らかくてしなやかな指で髪と頭を弄くられているのがこそばゆくて、でも気持ちよくて、されるがままの俺。
「頭終わりましたから、次は体流しますよー。立ってくださーい」
俺の頭から手を外すと壁にかけてあったシャワーのノズルを持ち、立つ事を促してくるましろ母さん。
やっぱり、妙にテンションが高い。
「……母さんさぁ、何でそんなに楽しそうなの?」
座ったままだと無理やり立たされそうな気がしたので、しぶしぶと腰を上げながら俺が聞くと、
「優介くんとね、一緒にお風呂に入りたかったんですよ。体の流しっことかしたかったんですけど、優介くん頑なに嫌がってましたからねー」
ちょっと残念って風に答えてくる。
あ、当たり前だろっ。十になった男子が母親と風呂なんて、嫌がるに決まっているでしょうに。
「でも、シャワーですけどそれが叶いましたから、私、今とっても嬉しいんですよ」
なに言ってんだこの人って顔をする俺。
けど気にする事無く、また喜びに満ちた表情でシャワーを向けてくるましろ母さん。
俺の頭の中にいつぞやの父さんの言葉が浮かぶ。
――したい様にさせてあげなさい――
観念した俺は大きく息を吐いて、この状況を受け入れる事にした。
次回へ続く。