家の奥詰まりある父さんや俺の部屋とは反対側の、玄関側水回り近くにましろ母さんの部屋があるのは、その方が家事に取り掛かりやすくなるからという本人の要望による。
この家にやって来た当初はとりあえず客間に落ち着いてもらってて、父さんの部屋近くの空き部屋を片してから、そこに改めて入ってもらおうって話になっていたのだけれど、ましろ母さんは先の理由を掲げて、今の部屋に決めたんだっけ。
……今更な疑問だと思うけれど、夫婦別室ってのは判る、
でもここまで離れているのは、家事云々の他に何か理由があるのだろうか?
いや、子供の俺が踏み込んでいい話かどうか難しいんで直接聞いた事はないんだけれど、やっぱりなんかおかしいなって感じるところがある。
一緒に住むようになって五年ほど経つが、正直に言って父さんはましろ母さんの事を "
だのに籍はちゃんと入っているとか、我が親ながら、このふたりの関係はよく判らないってのが本音。
そんなちょっと希薄な夫婦らしさが、俺がましろ母さんに邪な気持ちを抱くようになった原因のひとつだと、逃げ道を作ってしまうのは卑怯だろうか?
元が古い日本家屋の我が家は、その建築様式上、扉の類が全部引き戸である。
襖に障子、木戸、雨戸。カッコ良さ気に言うとオールスライドドアだ。
玄関と裏の勝手口だけが近代的なアルミ製に換えられているけど、これは防犯上しっかりとした錠前を付けるためで、我が家で鍵が掛けられるのはこのふたつと簡単なブレードロック式のが付いてるトイレの扉だけ。
我が家唯一の女性であるましろ母さんの部屋にも錠前の類いは無い。
一応つけようかって話も上がったのだけど、母さんは "家族しかいないのだから必要がありませんよ" と笑ってそれを断った。俺と父さんに対する信頼からだろう。
……まぁ、俺はこの信頼を違う形で裏切っていた訳だけれども。
家族といってもそれぞれのプライバシーというものがある。
それを守るのには互いのマナーと共通のルールが必要。
誰かの部屋を訪ねる際は必ず声を掛ける、我が家の決まり事だ。
……襖とかはノックがし難いって現実的な理由もあるんだけどね。
慌ただしく来たけれど、決まりを守り、母さんの部屋の前で俺は一呼吸置いてから声を掛ける。
「……母さん? 俺だけど」
「――どうぞ」
打てば響くって感じで声が返る。
……船乗りに "板子一枚、下は地獄" って言葉があるけど、この時の俺の心境は "扉の向こうは地獄" てなもんで、それほどに部屋の中から伝わって来るプレッシャーは圧倒的だった。
意を決して扉を引き、
「お邪魔します……」
と、無意識に下手になりながら母さんの部屋へと足を踏み入れる。
母さんの部屋に入るのは移るのを手伝った時以来で、後ろ手で扉を閉めながらつい中を見渡してしまう。
エアコン完備の押入れあり六畳間。……ちなみに俺の部屋も同じ六畳だけど、涼をとる手段は扇風機だ、何この格差?
家具らしいものは扉付きの三段ボックスに、それと同じくらいの高さのローチェスト。カバー付きのハンガー、それと脚を折りたたんで今は壁に立てかけているミニテーブル。
シンプルで装飾のない部屋の中で、女性らしさを表わしていたのが古めかしい鏡台。
見覚えあるそれは、かつて淑恵母さんが使っていたもの。女の人には必要だろうって父さんが使うよう薦めたんだよな。
初めは遠慮していたましろ母さんだったけど、「ましろくんが使ってくれるなら
懐かしさからそれに目が留まるところだったけれど、部屋の奥側に正座しているましろ母さんの無言の圧力に押され、半畳ほど間を空けて真向かいに俺も座る。母さんに倣って勿論正座だ。
「……それで母さん、話って……」
エアコンが効き過ぎているんじゃなんかと勘違いするほどの寒気を感じつつ、恐る恐る俺が切り出すと、母さんは膝上に据えていた右腕を後ろに回すとあらかじめ用意していた何かを掴み、それを前へ持ってくると畳の上にそっと置き、ズイって感じで俺の方へと差し出した。
母さんの手の下には淡いピンクの折りたたまれた布があり、大きさやちらと見える端のレースから "ハンカチかな?" と思ったんだけど、俺の前まで送り出した後母さんが手を戻した事で
「……二度ほど使っただけで洗濯済みです。これを優介くんに差し上げます」
手をひざへと戻し、顔を伏せたまま、硬い口調でそう言って母さんが俺に渡した物。
「――っ」
「だから!」
言葉にならない声を出しかけた俺に被せて、ましろ母さんがらしくない強い声を上げて言う。
「だからもう、汚れ物なんかに手を出さないで下さいっ」
その言葉に俺は自分の足もとが崩れ、奈落へと墜ちていく幻想を見た。
バレた、バレてた。
洗濯物を漁っていた事を、下着を拝借していた事を、
血の気が引き、身体から熱がなくなってく。この場から逃げ出したくなって思わず腰が浮きかけるが、力が入らずひざが立たない。
パニくる頭であれこれと弁明を考える。
けどどんな言い訳を繕おうとも俺のした事は許されるはずもない。最終的には父さんの拳骨を何十発も喰らう覚悟を決め、先ずは母さんの気が済むまで叱責を受けようと浮きかけた腰を据え、そのまま流れるように土下座に移行して、
「ごめんなさいっ」
と、詫びた。そして伏したまま母さんの罵声を浴びようとした。
が、耳に入ってきたのは予想とは全然違うもので――。
「……えっと、その、優介くんもお年頃ですから、そういうものに興味があるのは判ります。身近に女の人が私しかいないから、私のをってのも判ります。……でも、でもですね、使用済みの下着を見られるのって、ものすごく恥ずかしい事なんですよっ。お、女の身体って、その、色々と複雑に出来てますので、男の人とは汚れ方というか、汚れる理由が、ええっと、違ってて。臭いも、あの、なにかと特徴的だったりして……。だ、だからっ。そういうものを見られちゃうのって、裸を見られるよりもずっとずっと恥ずかしいんですっ!」
雷のような怒号が降ってくるとばかり思っていたところにかかってきたのは、一応咎める言葉だったりしたのだけれど、それはどこかピントがずれているような感じで。
訳の判らなくなった俺はそっと顔を上げ、様子をうかがう。
そこには、汗を浮かべ顔を真っ赤にして、両手の指を絡ませながら、身体をもじもじとさせるましろ母さんの姿が。
あっけに取られながら下から見上げてた俺と視線が合うと、母さんは顔をいっそう赤くしながら再び片手を後ろに回し、何かが入っているミニサイズのレジ袋を俺に向かって突き出し、
「よ、汚れ物をですね、こ、こんな風に使われるとかって、は、恥ずかしすぎますよっ優介くん!」
そう言った。
伏した姿勢から体を起こし、レジ袋の中をそっと覗くと、中には見覚えある女性用下着があった。
言わずもがな。俺が昨夜お楽しみに使用した、ましろ母さんのパンツである。
事後処理をしていなかったパンツは、股座の裏地に白い体液がべっとりと付着したまま。
一部は布地を浸透し、さらに一部は乾燥して固着。そして生々しいオスの臭いを放っていた。
この憐れな布切れが
タイトルを付けるならば『欲望のいけにえ』ってところか。
「……廊下のお掃除してたら、優介くんの部屋の扉が開けっ放しだし、お布団とかも上げていなかったから、片付けていいと思って入ったんです。そしたらこれがあって……。し、下着をですね、持ち出されているのは、ひと月くらい前から洗濯する時に気がついてましたっ。……最近は洗濯籠に戻されているものに、あ、あったはずの汚れが落ちてたり、手にした時の感触が、その、変なのがあったから、どんな扱われ方しているのかって気になってましたけど……。まさか、
赤い顔をして身体をモジモジとくねらせながらの続く母さんの独白を、俺は変な汗をダラダラと流しつつ聞いていた。
「……とっても恥ずかしかったけれど、こっそりとでも返してくれるのなら、知らんぷりしていよう、見て見ぬふりしていようって思ってました。男の子にはこういう事をしたい時期がありますし、そういうのを母親に干渉されるのは煩わしいだろうって。……でも、これは、こんなの見せられたら、さすがに耐えられませんっ」
言うなり、中身が見えるようにしてたレジ袋を握りつぶすように手のひらに包むとまた後ろに隠し、ましろ母さんは姿勢を正してから、俺をきっちりと見据えて、
「だ、だからっ、もう、汚れ物に手を出さないで下さいっ。し、下着が必要なのなら、キレイな物を差しあげます、それで我慢して下さいっ」
と、まなじりにうっすらと涙を浮かべた紅い顔のまま、懇願した。
母さんにとって考えに考え抜いた結論なのだろう、それを真剣な眼差しで告げてきた。
……その、やっぱりどこかピントの合っていない言葉にあっけに取られながら、同時に俺はこの状況を改めて考える。
帰宅したら母さんに呼び出しを喰らう。
↓
オナニーするためにこっそりと下着を漁っていた事がバレた。
↓
強く叱られると思ってたけどなぜかお咎めなし?
↓
一応責められはしたけど、主な理由は恥ずかしいから。
↓
とにかく汚れ物は使わないで欲しい、代わりにキレイなのを渡す?
↓
……ダメだ、まったく訳が判らん。←今ここ。
「……あ、あのぅ、優介くん? ……やっぱり、ダメ、かな?」
現状把握しようと頭をフル回転させていたため反応の鈍い俺へと、うかがうように声をかけてくるましろ母さん。
「はい?」
「や、やっぱり使っている感じがある方がいいの? 一応使ってたものでも洗濯済みはダメなのかな……?」
何かを訊かれている事はわかったので反射的に空返事をしたんだが、どういう訳かそれを否定と受け取ったらしい母さん。またあれこれと妙な事を口にし出す。
「母さん?」
考えるのをひとまず止めて、迷走し仕掛けている母さんへと声をかける。
「そ、そうだっ。お風呂上がりに新しいの穿きますから、それを使うのはどうですか? これならほとんど汚れてないし、一応使用済みにもなりますっ。あ、いいかも!」
俺の声が耳に入らないくらい集中しておかしなアイディアを口走る母さん。
とりあえずこっちへ戻ってきてもらうために、
「母さん!」
俺はひざ立ちになって少し前に出、両手で母さんの肩をつかんで強い声で呼びかけた。
「ひゃいっ?」
喝が効いたのか、我に返るましろ母さん。
「な、なんですか優介くん?」
目をパチクリさせて真正面の俺を見る。
その視線から意識がこっちに戻っている事を確認出来たので、肩から手を放し正座し直してから問いかける。
「母さんさ、その、怒ってないの? 俺のしてた事……」
申し訳なさげに言う俺。その言葉を受け止め母さんは少しだけ考えてから、
「怒っては……うん、ないですね。……さっきも言いましたけど、年頃の男の子がそういうものに興味を示すのは自然ですし、うちには……優介くん的には残念でしょうけど対象になるの私しかいませんから、仕方ない事だと思います」
偽りの無い気持ちだというように、少し照れくさそうにちょっと苦笑いを混ぜながら、言葉にしていくましろ母さん。
ちっとも残念とか思っちゃいなかったけど、話の腰を折りそうなのと、脱線したら面倒なので口にはしなかった。
「例えば、優介くんの机の中にタレントさんがかなり際どい水着着てる本が何冊もあったり、私の胸とかお尻にじーっと視線が刺さってる時があるのも……ちょっとだけ恥ずかしかったりしますけれど当たり前だって思ってますよ」
はにかんだ笑顔でさらっとそんな事を口にする母さん。うわっ、やばっ。全部バレてるよ。
「……それでも、やっぱり汚れ物は違うんです。見られたくないって思っているものを見られるのは……正直辛いです。なにより恥ずかしい。優介くんにはキレイなとこだけ見てて欲しいですから」
そう言ってほとんど見せた事のない、少し悲しげな表情を浮かべるましろ母さん。
それが胸にぐさりと来る。
母さんにそんな顔をさせてしまった事が無性に情けなく思えて、俺は頭を勢いよく畳に叩き付け、
「母さんごめんっ。本当にごめんなさいっ、もうしないっ。絶対しない!」
って、その時湧き上がった思いを口にして、今までの行為を謝った。
その程度で許されるとは思っていなかったけど、額を畳にこすり付ける俺をやんわり制し、顔をあげさせると、
「――はい。約束ですよ」
目を合わせて母さんは優しく微笑み、俺の謝罪を受け入れてくれた。あまりのあっけなさに、申し訳なく思ってしまうほどに。
だから、つい言ってしまう。
「……母さんさ、俺に甘過ぎるよ、絶対」
わかりきっている事を、その甘さの上に胡座をかくように勝手をしている俺が。
「いいんですよ。だって私は優介くんのお母さんですからね、いくらだって甘えさせてあげます。それが母親の務めだって、私は思っていますから」
……ああ、まるで釈迦の掌の斉天大聖。ましろ母さんと俺のわかり易い関係。
だけど、その母親観はどこから来るものなのか――。
その前提はなにか間違ってるって言いたかったけれど、自分の言葉に揺ぎそうも無いこの人に言っても無駄だと思い、代わりに、
「じゃあさ、母さんも甘えればいいよ、俺に。それでつり合うとは思わないけど」
って言ってあげた。
俺の言葉を受けた母さんは、一瞬きょとんとし、それからすぐに破顔したかと思うと、正座の姿勢から飛びつくと俺の頭を抱きかかえ、
「ん~、だから優介くん大好きなんですよーっ」
なんて、とても嬉しそうに言った。
頭を胸に抱えられているので見えはしないけれど、ましろ母さんはとても嬉しそうな顔をしているのだろうなって、なんとなくわかった。
次回へ続く。