ご依頼は http://skeb.jp/@freege_affected か、 http://twpf.jp/freege_affected からどうぞ。pixivリクエスト https://www.pixiv.net/request/plans/7443 も通常に戻しました。 ※pixiv、ハーメルンとくるっぷに転載しています。
エピグラフに採ったアンドレ・ドーテルの言葉は個人的にうなずきにくいのですが、【推しの子】の世界観に限ればありそうだと思います。星野アイが「大部分想像の産物」であるからこそ、アイを個人的に知らない黒川あかねさんでも想像によって再現(再生産?)しえた、と考えます。
また同作は星野家の物語だからか、アイやルビーやアクアに脳を焼かれた人の出番が多めですが、黒川さんや有馬さんに焼かれた人だってあちらの世界に相当いると思います。作中で省略されてるだけで。
前日談はことし6月に投稿した 【推しの子】黒川あかねさんが昔うっかり濡れ場でイカされてしまったウワサ https://syosetu.org/novel/347001/1.html ですが、どちらも単独でも読める話にしました。
私たちが個人的に知っている人々さえ、そのひとりひとりが大部分想像の産物ではないでしょうか。
――アンドレ・ドーテル(ジャン=ルイ・ド・ランビュール編、岩崎力訳『作家の仕事部屋』のインタビューより)
私に言わせれば、いっさいのフィクションは信じられるものでなければならないのです。
――エルヴェ・バザン(同上)
※
「それにしても、あかねさんが濡れ場なんてできたんだろうか?」
“彼”は一人部屋でモニタを前にして、つい出てしまった独り言が、ひどくバカバカしいと感じた。
できただろう、と思っていた。できてほしくなかった、とも少しだけ思っていた。
『お金にも、何にも、困ってるようには見えないけどね』
『さほどおかしくないと思いますよ?』
『世も末だな、なんて言うとオジサン臭すぎるか』
『お得意さんの中にも、女の人にそれなり以上にモテそうな人が珍しくないからおかしくない……って意味で言ったんですよ~』
『ははは、それなり以上とは』
彼が見ているモニタの中で、女優・黒川あかねが紺色のブレザー、深い赤のリボンタイ、白いシャツにチェックの膝丈プリーツスカートと、ありふれた女子高生らしい着こなしで映って、中年男性とやりとりしていた。紡ぐ声が少し上ずっていた。
とは言え、作品の視聴者として彼が評価する限り、あかねの演技はひいき目抜きで自然と思えた。
あかねが演じる女子高生は、主役でこそないが、脇役中では出番が多くストーリーを動かす重要な役どころらしかった。劇中で“あなた”と呼んだ中年俳優が演じる男性役――さる業界の有力者、という設定である――をだまして、素人の女子高生を買春したスキャンダルを作ってマスコミに売り飛ばして、復讐――あかねの慕う先輩役が、その有力者にもてあそばれ傷つけられた、という前フリのシーンもあった――行き掛けの駄賃に一儲けしよう、と目論む役どころだった。
あかねが演じているのは、素人売春しながら憎き相手をだまして社会的に抹殺しようとしている女子高生である。その展開に沿った上ずり具合だ、と彼は感じていた。
強いて言えば、このハニートラップで仇敵をうまくはめられる、とあかね役の女子高生が素朴に信じすぎている気がしたが、これは脚本家や演出家の意向かと思った。彼があかねに注ぐ視線に、無自覚なダブルスタンダードが見え隠れしていた。
「素人の目ならどうとでもごまかせるかもしれないけどさ、少し前のみたいに」
彼の思考が、“できた”と“できてほしくなかった”の狭間に再び滑り落ちた。
彼がモニタに映している映像は、動画サイトが製作・独占配信するVOD(ビデオ・オンデマンド)向けのオリジナル作品であった。それゆえ公開直後から彼が自室に一人きりで鑑賞できる。
その少し前の作品(こちらは従来通り映画館で上映された)であかねの濡れ場が良くも悪くも評判を呼んでいた。その評判が使えると評価されたのか、VODの宣伝映像でも女子高生姿のあかねのシーンがうるさいほどリピートされていた。
宣伝に使うためきわどいシーンにしなければならなかったのか、台本の時点でそうだったのか、実際にきわどいのか、どうとでもごまかしているのか、彼には判断しがたい。精査するつもりもない。スタッフロールにIC(インティマシー・コーディネーター)などそういう配慮に関わる肩書きがいるかぐらい確かめておこうか、という程度であった。
そもそも、彼の知る役者・黒川あかねは、演劇ならともかく映像作品における演技については関心が薄かった。彼とあかねがまだ直に会話していた数年前のある雑談を思い出した。動画配信サービスだけで視聴できる映像は映画と呼べるか、と話題に出た。確か大物映画監督のあいだでも見解が割れている、という記事を誰かが読んだのがきっかけで、例えばスティーブン・スピルバーグの説なら映画というなら映画館という専用の空間で上演されるべき、対してマーティン・スコセッシの説なら映像内容が映画的作法とドラマツルギーに則っていればネット配信のみの放映でも映画に含むべき、などと……そういう議論をあかねは端で聞いているだけで、自分の意見をほとんど明らかにしなかった。
「ララライもいつのまにかこういうのに人を出すようになったんだ、って話だよ。前は姫川さんぐらいだったでしょ」
また彼は無意識に独り言をこぼした。こんどは自嘲しなかった。
彼が見聞きした限り、黒川あかねが演技を覚えた劇団ララライに――むしろ、他の劇団も含めた演劇畑の全体にもおおざっぱに――映画やテレビドラマに出る俳優たちは自分たちと世界が違う、という雰囲気がうっすら漂っていた。それが時折、卑屈に近い謙遜として態度に漏れるところも知っていた。数年前、ララライで長く活躍してからテレビドラマに進出して知名度を高めた某ベテラン俳優から「芸能人って、どうしても華やかなテレビの世界にいる人、というイメージがあって……演劇だとどうしてもアングラというか、内輪というか」「芸能人健保だから保険証に芸能人って書かれてるんだが、それ病院の受付で見られるといまだにちょっと恥ずかしい」と聞いたことを覚えている。
「まぁ、あかねさんはこういう演技が得意だったけど……」
モニタの劇中では、あかねが演じる女子高生がちらりと隠しカメラ・マイクを確認していた。仇敵の男性と何度か会って油断させていて、いよいよ決定的な弱みを握りにいく、との狙いをわかりやすいシャレードで視聴者に印象づける。
「……濡れ場うんぬんじゃないとまでは言わないけど、それはそれとして、復讐って目的意識がはっきりしている役で、それがストーリーを動かす装置として作中でもはっきり出てきて、観客にしっかり印象付けて理解してもらいやすくするための役の、演技が……」
彼の記憶によるなら、劇中で重大なことを観客に察せさせる演技をするので、うっかりすると説明臭くなるから大根には任せられない、という役こそ、女優・黒川あかねの本領だった。
「……役のキャラがブレると、途端にグダグダになっちゃってたから……って言って、生意気だよ~ってつねられたっけ」
その本領を、彼はほんの数年前に、同じ稽古場で何度も目の当たりにしていた。
「いまは変わっちゃったかもしれないけど、あかねさん、変な役者だったし」
※
『同じ年ごろだから見てやれ、黒川』
『え……えっ? 私が……ですか?』
彼は黒川あかねより1学年下で、出会った当時は中学生だった。金田一団長からすれば“同じ年ごろ”で、彼からすれば“半”学年ぐらいお姉さんに感じられた。
『ララライの、黒川あかね……さん、って、あなた……ですね、顔が、うん』
『顔以外は違うって言いたいのかな?』
『間違いない、黒川は素だとぜんぜん演技ができない』
『あ、やっぱり』
『こら~っ!』
彼が父母とともに劇団ララライへ入団のあいさつに赴いたとき、あいさつとして菓子折りを持参していた。その菓子の小袋一つをあかねが勧められて口にして、顔で(あんまり好みじゃなかったなぁ)と漏らしつつ「ぉ、おいしいですね」と言ったようすを見ていて、彼は劇団ララライのホープと聞く黒川あかねと同一人物かどうか半分本気で疑っていた。
『というわけで、頼まれてくれ』
『へぇ~、金田一団長ったら……自分の劇団で、年ごろの男女をくっつけておいて安心できるんですか』
『……お前たち“は”だいじょうぶだ、といま信じられるようになった』
『その信頼、ちょっともてあそびたいですね』
『おい』
彼の記憶の中にいるかつてのあかねと、彼の目前の映像でハニートラップを仕掛ける女子高生役のあかねが重なったりズレたりする。どちらも彼がいま座っているこの自室から、甲乙つけがたいほど隔絶しつつ、度しがたいほど彼を揺るがす。
『制服のままでしたいな』
『えぇ……クリーニング代も出してくださいよ』
『……おぉ、いいお値段するクリーニング屋さんだね、教えてよ、こんど使ってみる』
『いっそ新しく仕立て直して、請求書を送りつけるのもありかな~』
『交際費で落としたらいいって言うのかい』
あかねが演じる女子高生役とその敵役が、服も脱がずにおなじみのような体でベッドに身を横たえる。軽口が途切れ途切れになり、キスがしだいに深くなっていく。
モニタの視界が急に薄暗く狭くなる。音声もこもる。シーンとして、あかね役が仕掛けたカメラ、マイクからのような映像を挟む趣向に編集したらしかった。
「……やっぱり変わっちゃったかな、あかねさん。女優として、守備範囲が広がったと言うべきだけど」
彼はこんどは意識的に独り言ちた。自分に言い聞かせるため、との自覚は薄かった。
『スタンツとか、即興ってしょうじき苦手意識あるかな』
『あかねさんって時間をかけるもんね』
入団直後に彼があかねの演技力に対して抱いた疑問は、稽古を重ねるうちに氷解した。あかねは役をもらった直後こそ素のようにぎこちないが、その立ち遅れを補ってあまりある分析力や、演出・脚本の意図を細かく聞いて汲もうとする姿勢があった。稽古1回ごとにどんどん完成度を上げた。その過程を一度見れば、役者・黒川あかねの証明としてじゅうぶんだった。
『……作りこみきれなかったところは、自分の素で穴埋めしなきゃいけないもん』
『あかねさんの素ってけっこうじゃない。素敵だし』
『なぁに口説いてるの? 君も団長の古傷をいじりたいクチかな』
『団長の古傷?』
『……とにかく、素は、困る』
『それじゃあ、これからあかねさんが売れて、イメージキャラとかコマーシャルとかのお仕事来たらどうするの? ああいう宣伝って、言わば黒川あかね役を演じることになるでしょ』
『捕らぬ狸の……めぼしい案件は不知火さんとかが持っていくでしょ』
『意識低ぅ……』
『レベル相応だよ……そういうのはあちらさんの需要がずっとずっと上だよ、演劇ならともかく』
また金田一団長が“同じ年ごろだから”だけではない理由で、彼のメンターのような役をあかねにやらせていることも理解できてきた。
あかねは演劇関係を除くとララライではっきり浮いていた。女子“御三家”の一角と称される名門私立中学に在学し高校までエスカレーターという彼女の学校や家庭での生活は、芸能界全体でなら珍しくないが――「うちの学校、親とか家族ぐるみのお付き合いが薄いんだって。俳優さんの奥さんとか女優さんとかってボスママを気取ったりグループから担ぎ上げられたりしやすくって、前にあぉ……こほんっ、近くの私学でトラブルが大きくなって大ゲンカの週刊誌沙汰になって……その轍を踏まないようにって話って聞いてる」――アングラ演劇の空気を残すララライでは珍しかった。看板役者の姫川を筆頭に、演劇以外に構っていられないとのポーズを取る人間が多かった。それが弊衣破帽のバンカラじみた気取りとも、本当に演劇以外てんでダメなのだとも、彼には解釈できた。そういった底をそうそう明かさないのが役者であり、その意味でも役なし演技が不得手なあかねはララライで異質だった。
『不知火さんは確かにすごいけど、卑屈なこと言わないほうがいいよ、その気がなくても……これだからお嬢様のお遊びとかってとられちゃいそう』
『……いまのオウンゴールじゃない?』
『うかうかしてられないよ、うちは内部進学でけっこう振り落とされるんだ、小から中のとき全体の2割落とされた』
『うわぁ国立みたい……振り落とすときもくじ引きする?』
『しないよ、あと国立でくじ引きするのも確か入学試験だけだよ』
金田一団長は、(男子校ではあるが)いわゆる名門私立に在学している彼とあかねなら学校生活の話などを通してなじみやすいだろう、と期待していたらしかった。2人は主に目立たないところで学校のグチを言い合って距離を縮めていった。
『あかねさんはちゃんと勉強してるの? 得意科目は?』
『得意なのは……礼法かな……あ、あるんだよ~うちの学校にはっ! きれいに見えるように立つとか座るとか、小笠原流の先生が来て……私はいつもほめられるんだよ、『完全に演劇のおかげだよね』とも言われるけど」
2人のあいだでは、学校生活で生じたストレスをグチにしたり笑い飛ばしたりが、グチの体を装った有名私学の自慢と取られるかも、と危惧せずに済んだ。
『君こそ勉強をぶん投げて麻雀にうつつを抜かしてない?』
『……な、なんでそこで麻雀が』
『うちのお父さんが言ってたの。男子校でグレる原因の定番が麻雀だって。それだけ伝統的に麻雀中毒が多いし、それがいったん廃れたかと思ったら最近麻雀やる女の子が増えてきて盛り返し気味とか』
『修学旅行のときはやってないよ』
『ほとんどやってるじゃない~っ!?』
『ぴちゃ、れぢゅ、れぢゅ……ん、く、ん、んっう……!』
彼の記憶から次元を隔てて、画面ではあかねの女子高生役と敵役とのディープキス。仕掛けたカメラからの視界、マイクからの音声という演出で、直前までより不明瞭になる。観客に与える情報に欠落を作って、観客の想像力にそれを埋めさせる。古代ギリシアから使われている演出の“作法”である。そのくせ2人の表情が、隠し撮りとして無理がありそうなほど近く捉えられている。情感たっぷりにしたいときは画面に被写体を近く、突き放したい時は離れて撮る。これも映像よりはるか昔からのセオリーに沿っている。
「ここまですれば……どうとでもごまかせる、のか、な」
敵役は女子高生の制服を着せたままのあかね役と交わりたいらしいが、ベッドでもそもそするうちに彼女の紺色の制服が着崩れて下着がちらちら見えているのは許容範囲とするらしい。黒の大人びた下着が、白くきめ細かくつるつるで触ったら溶けてしまいそうな乳房やお尻を覆っている。成熟して柔らかそうにも、未熟で乳臭そうにも見える。見る角度によって色合いを変えるある種の蝶の翅を彼は連想する。すると意識が飛躍して、あかね役が白々しく弱々しく抵抗して敵役の興をそそろうとする媚びが、蜘蛛の巣に捕まえられた蝶のばたばたもがいているさまにも感じられてくる。
映像のフレームに入っているのは、ほとんどがあかね役である。映えるあかねのほうを主に映すのは、画作りの観点で理に適っている。いっぽう、もし劇中の設定に従ってこれをマスコミに売り飛ばすとしたら、もっと敵役がしっかりはっきり映っている必要があるだろう。劇中では、敵役が業界の有力者であり、あかね役が無名の素人女子高生であるから――あかね役の策略が不発に終わる暗示だろうか――と、ふと彼が思いつく。
『興奮しちゃった……入れたいな』
『ほんとに着たままですかぁ』
『……パンツだけ脱いで』
『私は着替えどうしたらいいんですか……用意してある? うわぁ』
彼の想像力は――想像が妄想となってしまうほど飛躍する力が――観客の中でも飛び抜けていた。この映画の観客としてはほかの誰よりも遠くまで飛躍してしまう、としても過言ではなかった。黒川あかねと数年前まで同じ板を踏んでいた、という思い出のせいで、彼自身どうにも止められず飛んで浮いてしまっていた。
『この業界、やっぱりおかしいから気をつけろよ』
2人が出会ってから1年以上が過ぎて、彼が中学3年、黒川あかねが高校1年となっていたころのある日だった。
劇団ララライの看板役者となりつつあった姫川大輝が、彼に“やっぱり”にアクセントをつけてボソリと聞かせた。
『……それ、姫川さんどういう……』
『あとは黒川に教えてもらえ』
『え、話それで終わりですか?』
『え、ちょっと、私にって……丸投げですか!? キラーパスですか!』
『……お前のときに言われたことまだ引きずってるんだ、俺は』
『僕、どういう話かますますわからなくなってきたんですけど』
『……姫川さんって言うことはもっともですけど、これで夜のお店に入り浸ってなかったらもっと説得力があるのになぁ、とも思いますので』
彼もララライに入団してから“業界”のおかしさをなんとなく嗅ぎつけていたが、さして気にしてはいなかった。
おかしなことがありふれていて山ほどある。
人材が全体的に供給過多で、前時代的な商慣行がまかり通っている。演者も制作側も6次、7次といった多重請負がざらにある。それゆえ契約関係が複雑、契約内容が不明瞭であることも相まって、複雑怪奇な構造に陥っている。そうした構造から、いろいろなしわ寄せが末端に近づくほど増えていく。例えばレッスン料や交通費、宣伝写真の費用などが自己負担にされたり、重いチケットノルマを課せられたり、作品の放送などで支払われるべき著作隣接権を無償で譲渡させられたり、事務所の移籍を明に暗に妨害されたり、一言でまとめればパワハラの温床となっている。
これらはなんと戦前から続いているらしかった。例えば、大正時代に少女歌劇が流行したころ、演じる少女やスタッフたちがストライキを起こした。口約束がまかり通り、一つ一つの仕事について細かく書面で取り決める習慣がなく、興行側が過酷なスケジュールを出演者やスタッフに押しつけていたのが積み重なったことが主な原因という。
さらに業界人の大半が、社会経験のない10代から業界に入り、出会う大人も大半が業界人というケースが続く。大正から昭和、平成を過ぎて令和となっても、業界にまかり通るおかしな状況に気づくきっかけが少なく、それを変えようとするマインドも育たない。こんな旧弊も、芸能界と持ちつ持たれつのマスコミがそれなりに隠蔽してくれる。
『夜のお店にハマると金があっという間に飛ぶぞ、ってお話ですか?』
『それ、芸能界に限った話に聞こえないんですが』
『……黒川ぁ、頼むわ』
『はぁ、売れ筋の人間は他人へ何か頼むのにためらいがないですよね~……売れてれば、立場があれば、ムチャな言い分でも通る……業界の悪習そのものじゃありません?』
繰り返すが、彼はそれらの旧弊をさして気にしていなかった。
1年と少し前の彼は、エンターテインメント業界全体にぼんやりと興味を持っていて、たまたま親の知人にララライへの伝手があったという偶然に乗ってララライにやってきた。伝手を使ったという行き掛りがあって、1年以上はそれなりにまじめに活動していた。そのあいだに知った旧弊を、これも社会の不条理かと割り切れる程度に業界に幻滅した。
いっぽうで、姫川大輝や黒川あかねのような才能や名声のある人間のそばは、彼らに張り合おうとしない限り心地よかった。自分もほんの少し特別な人間に近づいた気分に浸れた。
『じゃあ、こんどの……空けといてね、ここ』
『あかねさん?』
『サシで演技のレッスンつけてあげる、異議はないよね?』
『そりゃあもう! ……ララライの黒川あかねが、そんな誘いをしていいんですか』
“彼らに張り合おうとしない限り”に加えて、もう一つ留保が必要である、と彼は教えられることになった。
『いいかどうかじゃ、ないんだよ……ときどき、ね』
彼ら“ムチャな言い分”を通せる人間から、目をつけられ搾取されていない限り……という留保を、良心的な範囲で、しかし露悪的な行為で教えられた。
『……入れるところ、見なくていいんですか?』
『見たら君が恥ずかしがる』
『恥ずかしがらせたいくせに。小学生男子ですか』
映像は、ベッドに横たわる敵役の俳優と、その腰に制服姿のまま馬乗りにまたがるあかね役を映している。
『……んんっ……! ホント、好きなんですね、制服……』
『いやいや、中味の人間のほうが大事だよ。服は人に着てもらったり人からマネキンに着せてもらわなきゃ立てないでしょ、人に聞き流された情報が無意味になっちゃうみたいに』
『変わったたとえですね』
『業界の古い格言でさ……あ』
男のセリフ――流れから浮いたもののたとえが引っかかる――スキャンダルを売り飛ばそうとする思惑が外れるという暗示だろうか、と深読みしかける。
『ん、んっ』
『乳首、勃ってる? やっぱり中味が大事だねぇ』
彼は男にまたがるあかねの演技に、自分の記憶を重ねてしまう。
一度だけ、あかねの部屋で、あかねに強引にのしかかられ激しく動揺させられたことがある。涼しげな印象を与える端正な顔立ち。対してほんのりあどけなく可愛らしい色合いを添えるボブカット。制服のままでも察せられる女性らしい曲線。
そこまでは映像とアングル違いでほとんど同じ姿の被写体。
『フェザータッチは、優しげなようで、そうでもないよ? ぎゅ~って強引にされるよりも、君の神経をかき乱される感じ、するでしょう?』
桃のような甘ったるい吐息と汗。指先がくすぐってくる感触。
『……あかねさん、こういうこと、よくするの?』
『それは……ふふ、たまには、と言ったら?』
彼があかねに馬乗りにされたのは、彼女の自宅の私室だった。彼の背はベッドではなく薄いカーペットごしのフローリングに押しつけられ、肩甲骨や腰が硬いカーペットとぐりぐりこすれてた強張り具合の覚えもある。そのせいで夢ではなく現実だと確信できた。
彼がそのとき一度だけ見たあかねの部屋は、すっきり整頓されているようで少し奇妙だった。棚の本やDVDが規則正しく並んでいる中、ごっそり何冊か、何本かと抜かれたすき間があって、その空白を埋めるようにブックスタンドや小物が並べられていた。壁に照明焼けしていない長方形の空白があって、大判のポスターを直前になって剥がしたような痕跡を思わせた。
何か見せたくない品物があったらしかった。
『はっ……あっ、はぁっ……』
『君、制服で抱かれるの、まんざらでもないんじゃない……被服費のことは置いておいて』
『……じゃなきゃ、そう何度も、こうしてませんって』
『いじらしい言い方してくれるね、もう』
劇中で、敵役があかね役にいやらしい声音と質問を投げて煽っている。あかね役も受け止めてやっている。
映像はあいかわらず制服を着たままのあかねの肉体をメインに据えたショットだった。彼は撮影・編集でカットされたその背景に、自分の記憶にあるあかねの部屋を投影しかける。まったく関係ない背景どうしを、あかねの姿と声だけで強引に結びつけてしまう。
『きょうは脱がさないまま、君をあそこまでドロドロにしてあげたいね』
『む……ここで笑いを取りにいかないでくださいよ』
あかね役が、敵役への嫌悪感でうっかり顔を引きつらせる。けれどハニートラップを成功させるまで嫌悪感を表に出せず、どうにか抑える。おかしな言い草で笑わされかけた、との体裁を作りごまかす。
『あっ……!』
制服のまま下着だけを脱がしておく、という敵役の趣向は、ショーツだけでなくブラジャーにも及んでいるらしかった。ショーツの色に合わせたなら白いシャツに透けて見えているべきブラジャーが映っていない。そういえば、男の手で揉まれてそれとわかりにくいが、胸のラインもノーブラのように見える。男の指先でこすられているらしき乳首も浮き上がっているように見せている。
露骨に映さなくても露骨にわかる。
『ふ、んん……っ』
彼が追憶とモニタのあいだに浮き沈みしているうちにも、あかねが敵役のねっとりとした責めを受け続けていた。まだ初見でありエンドロールまで鑑賞していない彼でも、これがストーリー上の機能から考えると過剰な濡れ場である、と察せられる。宣伝映像に使うことになった都合で、撮影・編集であっさりと済ませる扱いができなかったのか。宣伝でいかにも主要なシーンのように扱われて、本編を見てみたら画的に宣伝へ使いやすいだけでストーリー上はさほど重要ではなかった、というパターンはよくある。
しかしこんなに濡れ場を濃厚にしたせいで、ゾーニングが18歳以上になってしまったのではないか。
彼は危うく視聴者として弾かれるところだった。VODのゾーニングは映倫なのだろうか、と一瞬だけ考えた。
『ふんん……っ』
男に馬乗りになってまたぐあかねの太ももが、プリーツスカートごしにわかるほど、むず痒そうにさわさわと動いている。腹部や肩、頭の先も、着崩れたジャケットやシャツからうかがえる。敵役の手が離れても、微弱なフェザータッチが彼女の肌のうちに残ってわだかまっているように見える。
『いい顔になってきたね、そろそろ……君から入れてよ』
『……もう、恥ずかしいなぁ』
カメラが切り替わって、いったん引いた構図で挿入を見せる。もちろんペニスとヴァギナを直に映せないので、スカートや太ももに隠しつつ、視聴者に察してもらう画となる。
『姫川さんが言った……この業界、やっぱりおかしいってのは、ね』
『あ、あかね、さんっ……その、あた、って……』
『……女も男も、ちょっと容姿が良ければ、ちょっと相手が気まぐれを起こせば……その相手がちょっと“ムチャな言い分”を通せる人間だったら……おかしい、があっさり通っちゃうことなんだよ』
あかねは自室で彼を押し倒したが、服を開けさせたりも、まして愛撫や挿入もしなかった。
『……あかねさんとこのマネージャーさんとか?』
『他人事みたいに言う』
1歳年下の後輩劇団員に釘を刺すためだけにあかねがここまでするのか、と彼はいまでも思っている。あかねは彼に向かって楽しそうに先輩風を吹かせるのが常だったが、それでも。
『きみも、私とじゃなかったら取り返しのつかないことになってたよ。私やきみより前にそうなっちゃった人、ごまんといるよ……金田一さんとかの受け売りだけど、怖いよね』
劇団ララライの大失敗とも言うべきカミキヒカル関係の1件を、彼はうっすら聞き知った。そのあともなお疑問が残って、あかねをただの憧れの先輩として見られなくなってきた。
「……そこまでやるふしが、あかねさんは……ないでも、なかったか」
それから彼はいつ劇団ララライを卒業するか考え始めた。
『前にさ、四谷怪談を翻案した脚本で、私がお岩さん役をやることになってさ』
『……いまじゃないよね、前の話だよね』
『気色悪かった?』
『鬼気迫るっていうか……イタコさんみたいだったね』
『ふせんがお札みたいに見えた? ……恐山行ったら今でも会えるのかな、イタコさん』
彼が劇団ララライを卒業する腹を決めたきっかけは、あかねが一人で役作りをしているところをまともに見たことだった。
狭い個室に籠もって、役やその元となる設定資料、そのほかあかねが図書館やネットなどで調べて情報を集めて作ったノートから役のカギとなりそうなところをふせんに書き出して、壁を半ば占領するようにべたべた貼り付けて、役とは別のものに取り憑かれたようにぶつぶつとつぶやく。
やっている手段は役者の世界では普通だった。しかしあかねは、程度が役者の世界の感覚でも普通ではなかった。のちに星野アクアから『お前の普通は普通じゃない』と言われる片鱗を、その日に彼は目の当たりにしていた。
『お岩さんゆかりの土地に、お寺と神社があって……神社のほうだったかな、お岩さんが生まれた田宮家の子孫がやってるの』
『あ、お岩さんの話、まだ続くんだ』
『そこの神職さんがね……四谷怪談がらみでよく祟りがある、って言うけど絶対ないと思うよ……と言ったんだけど、さ』
『うん』
『その舌の根も乾かないうちに……田宮家とのお見合いを断ろうとしたら、お風呂の床が崩れてケガをしちゃったから、お見合いを断りきれなくなって……って続けて』
『言ってることとやってることが矛盾してるね』
『うんうん、祟りなんてあるわけないじゃん、って思えるんだろうね……端から見てられる立場のうちなら』
彼が話しかけた一瞬で、あかねは取り憑かれたような役作りから、演技のできなさそうな素に戻っていた。貼りつけられたふせんや、彼女の周りに獺祭のように散乱した資料はそのままだった。彼がこの場を後にしたらすぐ役作りに戻れるのだろうか、邪魔をしてはいけないんじゃないか、と足を引きかける。
役作りの邪魔をしてはいけない、という言い訳を思いついて、あかねから離れる。あかねに着いていけそうもない自身の弱さから目をそらそうとしているのでは、とも彼は考えが及ぶ。引くのも進むのも思うに任せず、にっちもさっちもいかなくなった。
『演技も、ちょっと似てると思うよ。端から見てる立場なら、そんなに入れ込まなくても……って、私でも思う、ホントだよ?』
あかねが続ける――『役に感情を作って没入していけ、ってのはスタニスラフスキーのお題目だしね、ほかの……例えば歌舞伎とかだと、泣かせる場面を演じて自分でも悲しくなってるのは未熟者だ、なんて言うし』――などと、くすくす笑って言葉を濁す。
彼のそこの記憶は、その前後より少しあいまいだった。
『私がやってたこれは、強いてたとえるならイタコが近いかな、役の子に頼みこんでる……口寄せの儀式みたいなイメージ。私があなたについて教えて、って聞いて、それから私についてきて、舞台が終わるまでだけでも……って、頼んでるんだ』
『へぇ、お岩さんにもそうやって?』
『それは……いまほどみっちりやってなかったころの話でさ、ごめんね、話が行ったり来たりで』
あかねが彼に語る口調は、ふだんより歯切れが悪かった。同じ劇団の同年代と言えど、一人での“役作り”を見られるのは決まりが悪かったのか。
『役に入りこんでるとき……例えば恋愛モノなら、恋人役の人、かなり好きになってる』
『役に舞台までついてきてもらってるだけじゃなくて、もう役に憑かれてない?』
『そこまでなる人もいるらしいね……ありもしないはずの感情が、本当のもののようにあるぐらい』
『それじゃあ……』
『そのぐらい、がどうしても必要なときがあるんだよ、舞台では……わかってもらえるかな?』
極端な話、もしあかねのやり方だけでじゅうぶんに役作りができるなら、それができる知識や想像力のある人は、台本などの資料を読み込むだけで劇を味わえてしまう。極論すれば、上演がそういった能力のない人向けの行為でしかなくなる。演劇を上演する意義が揺らぐ。
『もちろんこれだけじゃだめ……こうやって、一人でやるやり方だと、どうしても私だけの知識や想像力にとどまっちゃう……でもね、不思議なもので、こうしてると、お岩さんとか役の人と仲良くなって、だんだん教えてもらえてる感じがするの』
『……稽古で、他の人と解釈違いが起きるとたいへんそうだね』
『ふふ、それはそう、やっかいファンになっちゃってるかも……まぁ、いまのところどうにかなってるけど……』
それはそれとして、そのとき彼が見せられたあかねの、はにかんだ表情や仕草や口振りや匂いは、彼女からすれば、単にふだん見せない舞台裏のようなところを見られた気恥ずかしさが漏れただけだったのかもしれない。
『……まぁ、びっくりしたよ。あかねさんが、あかねさんじゃなくなっていく、みたいで』
『恐山行ったら今でも会えるのかな、イタコさん。巫女さんみたいにバイトとかあるのかな』
彼にはそれだけで済まなかった。
このまま女優を続けるあかねをそばで見て、あかねがあかねでなくなってしまうかもしれない、というところまで付き合う気になれなかった。
『……きみも卒業かぁ、おめでとう』
『学校みたいに言うね』
『きみがこの先えらくなっても、私たちのこと覚えててくれるとうれしいな』
『……あかねさんこそ』
『うちの舞台初日とか、私か誰かが賞をもらったときとかにお花を用意してくれたらぜったい忘れない、名前つきだし』
『ほかの人のお花と比べられちゃいそうでプレッシャーだなぁ……それに、あかねさんだと年賀状みたいな勢いで用意しなきゃならなさそう』
『調子の良いことを~っ』
彼は、あかねの煽情的な場面で宣伝するVODの配信開始初日に、劇団へ胡蝶蘭を送ろうとした。
結局断念していた。
学生の財布に厳しい値段だったから、と彼自身に言い聞かせるのにちょうどよい理由ならばあった。
『はは、よく濡れてる……しっかり踏ん張ってくれよ』
『あなたこそ、人間一人ぶんの体重が腰にかかってるって忘れないでくださいね』
『君の体重なんて羽根のように軽いから』
『それ錯覚ですよ』
映画の中の騎乗位が続いている。セーラー服姿のあかね役が、彼の上にまたがってくすぐったそうに腰を揺する。見ているだけの彼の背筋が泡立つ。
あかねの瞳がかすかに潤みを帯び始めている。頬を赤らめ、視線を小さく彷徨わせる。解像度を落とされた映像で感じ取れないはずの変化が、彼の意識にだけ襲いかかってくる。
『あっ、あっ……はぁっ、あ……』
やがて敵役も腰を使いだす。あかね役の制服をわざとクシャクシャにするように、年甲斐もなく高ぶった欲望をむしろ見せびらかすように、執拗にあかねの肉体をかき乱す。追憶にずるずる沈潜していたはずの彼が、気づけば食い入るように画面を見つめている。その女としてとろけた表情が、役者としてのそれではなくあかね自身のものとして感じられる。自分があかねに欲情している、といやおうなく思い知らされる。一時停止をかけようとしてためらう。
『どう、気持ちよくなってきた?』
『っ……それ、ほかの人にも、聞いてるんですよね』
『こんなに真剣に聞いたことはないよ』
体位を変えて、両手や舌も使ってあかねの肉体に迫る。あかねもいよいよ精神的に余裕を失ってきたのか、あえぎ声をますます高ぶらせる。
「……ぁはは、けっこう、きつい、かも」
再生デバイスを引っつかむようにして、ついに一時停止をかけてしまう。
あかねと敵役の姿が、非現実に凍りつく。ちょうど敵役の興奮もあらわな表情が目につく。あかね役の復讐なんか思考の一片にもありません、と無言で雄弁に語っている――彼があかねの濡れ場を見てこんなにもだえ苦しんでいるのに、彼の苦しみからあかねが受ける影響は無に等しいし、おそらく想像もしない――どこかその構造に似ていた。
止めていられなくなって、また再生。
『いい顔だ、可愛いよ』
泣いたように目を潤ませ、頬を赤らめ、おそらく無理に抑えた嬌声がしゃくりあげるように漏れる。額や頬に張りつく汗が、凄惨でありながら色気を振りまく。匂いまで届けてきそうに思える。
あかねのそんな表情を見たことがなかった。
『んっ……!』
『くっ……なか、が……また、これはすごいねっ……!』
彼とてセックスの知識はもちろん持っている。しかし見知った人間がそれを演じて、それに欲情させられることは未経験だった。
彼はあかねに欲情している。その自覚が、彼の中に大きな重石として居座ったまま動かなくなる。たんったんっと汗と肌のぶつかったり、シーツがこすれたり、くちゅりと粘ついた水音が代わる代わる響く。
『ああ、あっ……はっ、あ、あっ……!』
あかね役がハニートラップにかけようとしている以上、彼女が相手を悦ばせるために演技するのは自然なことだ。そういう演技をする役どころの演技である、と演技が二重構造になっている。敵役を自然にだましつつ観客には演技を見透かしてもらう、という瀬戸際をあかねがひらひら渡っている。
その喘ぎや、肌や、手足や目の震えが、演技以上の熱を帯びているように思えてしまう。
『ぇふ、ぇう、あ、うっ……!』
『……最高だよ、きみは……こんなにいい女、いままで……』
敵役が、あかねのかなり深い部分に挿入したまま、腰をとどめる。それからあかねの細い腰を両手で抑え、腰で細かく円を描くようにぐりぐりと何周も動かす。
『っ……っっうぅー……ぅ……! そ、ぇ……ッ!?』
あかねの声が細く甘くなる。あかねの腰も控えめにくねっている。彼も操られるように無意識に股間の勃起に触れる。甘いうめき声が、どこか彼の名前を呼んでいるように聞こえてきて、そんなはずはないとわかっていながらも胸が締め付けられる。ある瞬間、あかねの全身がピンとこわばって不規則に痙攣する。それと同期して、敵役の腰や手や胴体がぎゅううっと固くしまる。モニタに閉じこめられた顔がどんどん紅潮していく。手が強くシーツを握りしめたり引っ掻いたりして、体じゅうで快感をいなそうと戦っているように見える。やがてその動きも弱り、握りしめた指先までほどける。
彼はその絶頂の瞬間、自分も一緒に達したかのような錯覚に陥る。
「……ふ、ぅ……っ……」
いろいろ思うところはあっても、記憶の中のあかねとハニートラップを仕掛ける女子高生を演じるあかねとの区別をつけられる、と彼は思いこんでいた。前者は現実で、後者はフィクションではないか、とも思いこんでいた。
しかしいま、あかねの濡れ場を見て彼をかりたてる欲情と罪悪感は、あかねに実際に押し倒され犯されるふりをされたときに比肩していた。自分の見てきたあかねは、ひょっとするとすべて演技だったのではないか。
「……これで、興奮してるのかね、見た人、は……」
彼にはまだ、あかねと劇団ララライで並んで稽古場を踏んでいたころのささやかな優越感が残っていた。セックスしてはいけないけどどうしてもセックスしたい女を思い浮かべるとき、ほんの少しでも――例えば、後先のリスクを無視さえすれば1回ぐらいは――セックスできる可能性があるときと、そうでないときでは、興奮も苦悶も段違いとなる。彼はあった側であり“ある”ままの気分である。
『ぁ……だ、めぇ……も……っお、っ……!』
シークバーを少し戻す。濡れ場の始めのほうにシーンが戻される。けれど彼の興奮で歪んだフィルタごしに、もっと過激になったシーンとしてリバイバルされて映る。
くしゃくしゃのスカートごしに、あかねの、細くしなやかな腰回りと太ももが浮き上がってみる。敵役の男根がぱんっぱんっと激しくぶつかる。さっきまでは演技だ、これから本気を味わわせてやるんだ、と言わんばかりの勢いであかねを揺する。
『や、やめっ……や、あ……あっ!』
あかねの濡れ場を見て興奮する自分がいる、という感覚と向き合うのが苦しい。彼はあかねに欲情している自分を認められない。
けれど、あかねが、どろりと濁った目で濁った嬌声をあげてみっともなく絶頂を迎えるのを彼は見ている。目を離せない。泣きそうな声と表情で彼が興奮しているのがわかったかのように――ありえないと理解していても――画面の中のあかねが絶頂にのけぞって、彼のいるほうに顔を向けて涙をこぼす。
『は、ぁっあ、あ……そんなに可愛くされると、オジサンも、調子に乗ってしまいそうだ……!』
『も、もう……ぅうぁっあ……ぅ、ッあ……!』
敵役も情けない声を絞り出しながら、あかねに腰をぶつける。あかねのいちばん奥で果てようとしている。あかねががくがくと脚を震わせながら、悩ましく眉や口元を歪めて絶頂を堪えようとしている。とっくに全身が汗びっしょりで、あかねがいつのまにかジャケットを脱がされていた。白いシャツから彼女の素肌の色が透けてまぶしく映っている。どう見ても届かない他人の痴態を眺めて興奮する。彼とてアダルトビデオで経験済みのはずの状況が、このあかねの濡れ場を前にして、いまの肉体どころかずっと前の記憶まで興奮でどうにかなってしまうように恐ろしい。
『ん、ダメ、んっ、はぅ、んっ……んぅうっ……れぅ、んぐっ、こく……はふ、む……!』
『あああ……はっはッ……トロけてしまいそう、だ……!』
気づけば、あかねが敵役の一物を抜かれ、こんどはそれでくちびるをこじ開けられ喉奥までくわえさせられている――そういう演出である、と彼は必死で自分に言い聞かせなければならなくなっている――あかねも敵役も濡れ場に突き動かされ翻弄されている。セックスという行為とその主体がひっくり返って、映像のあかねと敵役の男性も怪物に憑かれたように感じられてくる。
『────ッ!! ひ、ッ……んぅ……!』
セックスの興奮に憑かれたあかねが、敵役の精液を一滴残らず吸い出すような、白くて細い喉を震わせる。また彼の興奮を駆りたてる。
『はぷっ、んはぁ、あんっ……ちゅるぢゅ、んふ、ちゅ……!』
『は、ァ……く、ぐう、う……っ!』
敵役が、同じ男の彼から見て間違いなく果てた、と確信できるほど呻き、震える。それをあかねが受け止め、あごを手でぬぐうマネをする。得意げで痛々しく、強がりのように笑う。
『……きれいにしてあげましょうか?』
『また、興奮させるようなことを』
『お元気ですねぇ』
あかねがとがらせて見せたくちびるが、えくぼと白い歯列が、また一物を押しつけられ歪まされる。あかねの顔と声であかねの演技をしてもらえるなら、それだけでフェラチオはセックスに勝るとも劣らない性行為となるのだろう。
『うっ、うくっ、ふーっ、ふーっ……ら、乱暴に、しちゃ、いや、です……っ』
『ごめん、でも、収まりが……!』
フェラチオはセックスより空気が混ざりやすい。それを反映してか、ぶちゅ、ぐちゅ、と泡立つ水音が目立つ。劇中の設定に合わせて分解能の低いマイクで撮られたらしきそれが、ハイファイよりも荒々しく彼をかき乱す。あかねがみだらに男根を迎え入れて味わっていることまでリアルに聞き取ってしまう。肉を伝って口蓋のシワまで責める一物を感じ取ってしまう。彼の陰茎がますます疼き、まったく萎える気配がない。
「……いや、もういいだろ、どんだけ尺とってるんだよ、ねぇ」
あかねを汚したいという欲望が、彼の頭と股間でむなしく膨れあがる。不毛だと自覚している。それだけでは現実に戻れない。もはや手探りせず自分のペニスをズボンとパンツから解放ししごく。
「はあ、はあ、はあ、はあっ……」
可能なら自分の精液で汚したかった。もう射精してしまっているかのように射精管が熱くなっている。彼は、あかねが他の男に犯されているところを想像して自慰をするどころか、あかねを妄想の濡れ場の共演相手として使ったことがほとんどなかった。そのあかねがいま敵役の一物をくわえている。
あかねの口と舌はどんな感触だろう、と彼は初めて思ってしまう。
彼の想像の中で、あかねの口はあかね自身よりもいやらしく敵役に吸いつき、舌は敵役の一物をからめ取りながら裏筋をくすぐっている。あの口にくわえられたら、いまどれだけ不毛とわかっていても満たされるに決まっている。その妄想のさなかで、あかねは敵役の一物を口から離すどころか、ずるずるとお行儀悪く吸い立てて反撃さえしている。あかねがまた敵役を見上げ、彼の陰茎が爆発寸前で激しく脈打つ。熱に浮かされて幻惑された彼は、かろうじて無意識でティッシュを何枚か乱暴に引き出し亀頭に押し当てる。
「……く……ぅッ……ぁ、ぅ……ッ」
彼の手と下着にはべっとりと生ぬるく不快に粘っこいものがこびりついた。射精しても、あかねへの欲望はまとわりついて収まらない。映像が再生されっぱなしで濡れ場から先に進んでいこうが、あかねの痴態が彼のそこにあるまま、彼を煽り続けている。
「……くそっ……!」
フェラチオが、あかねを汚す演出として効果てきめんだった。彼は絶望しながらまた自らを慰める。射精後の気だるさと裏腹に陰茎は萎えてくれず、欲望もいったん湧き上がると、不安か何かのようにとどまるところを知らない。
彼が見ないようにしていたはずのものが暴かれてしまった。
『……まだ、時間ありますよ?』
『若いってすごいね』
『あらら、とうとう自分がオジサンだと認めるんですか』
『ああ、若さがすごいんじゃなくて、きみがすごいんだ』
『褒めてるつもりなら取り消したほうがいいですよ』
敵役が再びあかねを押し倒し、正常位で犯し始めている。彼が感じている“尺”の長さは、実際の映像データ上だとずっと短いらしい。
『んひぅ……!? く、んやっ、ああっ……にゃっ、やめっ……!』
あかねの甘い悲鳴が、彼を耳から入りこんで犯す。彼はあいかわらず、あかねの濡れ場に興奮している自分を認められない。それでいて、やはり、あかねが他の男とセックスしているシーンから意識を遠ざけることもできない。
あかねを妄想の中で汚して自慰をする。その罪悪感と自己嫌悪でますます興奮する。このループから彼が抜け出せないうちに、あかねが敵役に組み敷かれてまた犯され始める。
彼は、自分があかねをどう見なしているかを足元から自覚させられる。犯される女。演技派で売っているが結局どこもかしこも汚されている女。いつもキスや愛撫では調子良く誘ってくるくせに本番になるとダメになる女。彼が手を出したらすぐ股を開いてくれるいやらしい女。他の男とセックスして感じて喘いでいるところを見せつけてくるいやらしい女……床で地団駄を踏んで追い払おうとしても妄想が見えない泥のようにびちゃびちゃ弾けて、彼自身も汚れていく錯覚に絡みつかれる。
『あっ、だっ……お、お、く、や、め……ぁ、あ……ッ!』
あかねが、他の男に犯されて喘いでいる。次元を隔てた映像が、現実以上に彼の脳に突き刺さり、わけもわからない興奮と悔恨の刃で切り刻んでくる。痛みに反発するように興奮が増大する。あかねの生々しい汗が勝手に記憶から漏れてくる。ララライの稽古では、たまに汗だくになるほど――「運動部みたいな気分だね?」――体を動かして、そこで彼はあかねの汗を嗅いでいた。あかねの首筋から流れ落ちる汗に、密かによからぬ欲望を抱いていた。
『んくっ……!? も、ぉ……こら、お、音、立てちゃ……っ』
あかねが敵役と体を重ねるのは、あかねの女優としての演技で、これがただ宣伝の都合で作劇の都合よりも過激にさせられただけの濡れ場で、それ以上のことはすべて彼の妄想である。そのはずなのに、あかねが敵役とのセックスに反応して声を漏らし、その反応が彼にも快感として伝わる――日本の演劇の黎明時代では、舞台上であくどい金貸しが若い娘をおどしている場面のとき、観客の一人がたまりかねて舞台に怒鳴りこんできたという逸話があって――彼はもうそれを他人事に思えない。
『は、ひっ、あう、んっ……そんな顔して……まだ、余裕ですよ……? こういうときの女を、信用しちゃあいけませんって……』
『ははは……いきなり可愛らしくならないで、びっくりしちゃう』
あかね役はまだ虚勢を張ってセックスに耐えている。本当に言い逃れのできない弱みをつかもう、という執念を描写しているつもりか。それが次第に腰砕けになっていき、顔から余裕が失せていく。快楽と没入を示す淫靡な硬直に包まれ、あかねの目が虚ろになる。
『はーっ、はーっ……あ、ア……んはっ……!』
あかねが男を食べている。あかね役のハニートラップとして自分をエサとしてむさぼらせているだけではない。そう思いたくなくてもそう感じざるを得ない。
あかねから先輩風の余波のように何度か良いようにあしらわれ、からかわれた経験のある彼だから感じられたニュアンスかもしれない。男に組み敷かれながら、一物で突かれてよがり狂わされているようで、逆にあかねが男を組み敷いているかのようにも見える。
あかねが腰を浮かせてくねらせる。シャツやスカートをまとったままでも、むしろそれがいい飾りとでも言わんばかりに、カメラごしの曲線美を躍らせ誇示する。
「……あぁ、もう」
もし彼ほど黒川あかねを特別視していない少年であったなら――界隈の若いホープとして評価されているけど少し面識を得てみると割と先輩風を吹かせたがる気の良いお姉さんぐらいの認識であったなら――この映像を目にしてもっとあっさりと彼女をオナニーのオカズとして扱い、とっくにさっぱりと気持ちよくなっていた。
しかし彼が抱いてしまっていたあかねへの感情はもっと深刻だった。恋心で片付けるには淡く、憧れで片付けるには近くにすぎた。この期に及んで、彼は現実のあかねまで役に重なるようにもてあそばれているのでは、と心配していた。欲情が強くなるほど、心配も意地を張るように背伸びした。黒川あかねのそばにいて特別な気分になっていた残りかすが彼を苛んでいた。それに気づかず通り過ぎるには、彼は自己省察がうますぎた。
「だ、め……だ……ぅ、も、ぅ……イク……!」
妄想であかねが腰を振るたびに、彼のモノにまた興奮が作用し、ひとりでに激しく打ち震える。まったく自分で弄らなくてもよくなってしまう。額からも脂汗が垂れてくる。あかねがまた絶頂にのけぞって、現実らしい甘ったるく生臭い匂いを嗅ぐ。すっかりあかねの演技に侵食されている。しかし侵食しているあかねがそれに気づくことはない。彼にそれを告げるつもりはない。
あかねの体が痙攣しているようすを見る。男の体に跨がったり、組み敷かれたり、むさぼられて鳴かされるあかねの姿が見えている。彼の先走りがティッシュを濡らし指からこぼれ垂れて落ちる。あかねの汗だくの肌とどちらがぬらぬらしているだろうか。あかねの悲鳴と、知らない男の声と、結合部がたてる淫靡な音だけが聞こえる。興奮しているはずの彼自身と吐息や拍動が意識から消失している。
こうして映像の濡れ場を見ていても、あかねが何をされたのかはっきりとわからない。その余白で想像力を煽る。あかねがどういうセックスをしているか、どうしてほしいと思っているのか。それぞれ都合のいいように想像をふくらませる。
「僕からこういう感想を伝えられたら……あかねさんは、女優冥利でしてやったり! みたいな反応になる、のかな……」
射精を繰り返して、亀頭がひりついて彼自身の手で触れるのも辛いほど敏感になっている。ティッシュをゴミ箱に片付けて手を洗う。それでも落ち着かない。
「……はは、やめておけって、セクハラとか思われたら、台無しだから……」
映像で、隠し撮りしているはずのフレームごしに、敵役がちらりと正面からの目線を投げていた。画面がフェードアウトして濡れ場が本当に終わった。敵役が隠し撮りを察している、という暗示らしかった。
のろのろと手が動いて再生を停止した。
「いまは変わっちゃったかもしれないけど、あかねさんは……」
モニタの電源も落とした。座っているだけでも息苦しく、床にごろりと横たわった。
その先の展開を鑑賞するための気力は、彼から永遠に失われたかのように湧いてこなかった。
(おしまい)