三月に記録的な寒波がやってきて、桜の開花が遅れた。例年なら、この地域で四月に桜が満開になることは、ない。
バスに乗って駅前通りの見事な桜並木を裕也は眺めた。
東京スカイツリーが遠くにぼんやり見える最寄り駅のホームは、通勤客でそこそこ混んでいた。
隣の乗車列に並んでいるリクルートスーツを着た女性と視線が合った。ショートボブに人懐っこそうな瞳でこちらを見ている。小柄だが、胸も尻も存在感を主張して突き出している肉感的な女性だった。
幼さの残る顔立ちに不釣り合いな肉体。
多くの男性の視線を惹きつけるに違いない。現に、彼女の後ろに立つ大学生らしい男はスマホを手にしているが、視線は彼女の尻に落ちている。
見惚れてしまったことに気づき、裕也は慌ててスマホに眼を向けた。
今だに彼女の視線を感じる。ジロジロ見てしまったことで不審に思われたのかもしれない。
昨夜、娘の希美が啼いている声を聴いた。
女性にも当然性欲はあり、自分の娘も例外ではなかった。切なげな娘の声を聴いて、裕也の下腹部に微かに疼きが生じていた。
普段は自家用車で通勤しているので、若い女性を意識することはない。運転中に歩道を歩いている女性を眼にすることはあっても、それは過ぎ去っていく風景で、いちいち意識することなどない。だが、電車通勤では、生身の女性の存在感をどうしても感じてしまう。
思えば、妻が亡くなってから十五年間、女性の肌に触れることは一切なかった。
もちろん、若い頃は人並みの性欲はあったし、妻の冴子と出会った直後は狂ったようにセックスに溺れた。娘の希美が生まれてからは、性欲も落ち着き、冴子が病気になってからは、性的な交わりは控えていた。
妻亡きあとも、テレビで性的な映像を見て、下半身が疼くこともあり、年に数回はこっそり自慰で抜いたりもした。だが、四十代になってからは、そのような疼きも、さりげなく躱すことができるようになっていた。もう中年になり、性欲が枯れて来たのかもしれない。
そんなことを考えていると、通勤快速の電車が来た。すでに車内は手すりにつかまって立っている乗客でいっぱいだった。
入口付近にいると、次々に乗って来る乗客に押されてしまうので、通路側に入っていきたかったのだが、そこはすでに入り込む余地はなかった。
テレビで見た、痴漢の冤罪の恐怖を思い出し、カバンを胸にかかえ、手すりを掴もうと手をあげたが既に他の人に掴まれていた。仕方なく、中途半端に腕を上げた不安定な状態で、自分の立ち位置を探る。電車が動き出し、身体のバランスを崩しかけたが、満員の車内ではお互い身体を預けて、倒れることはなかった。
電車が駅で停車するたびに、降りる乗客のために一度ホームに出て、再び乗り込む。それを繰り返しているうちに、車内の人の圧が強くなっていた。なんとも言えない怠い空気が車内を支配している。息も自然と浅くなる。これだから、本社へ会議に行く日は気が重い。
突然、背中に当たる柔らかい肉の感触に気づき、裕也は首を曲げて後ろを見た。
乗車前に見た、肉感的な女性が背後にいた。
彼女の巨乳が背中に当たり、足には柔らかい腿の感触もあった。
満員で仕方ないとはいえ肉感的な女性とぴったり密着してしまう形になった。彼女の息が肩甲骨のあたりにかかり、そこだけ熱くなっている。
裕也の股間が強張り始めた。
(おいおい、こんな所で、こんな時に、どうしたんだ……)
裕也は自分の分身を呪った。昨夜娘の自慰の喘ぎを聴いたことで、性欲の種が下腹部に植え込まれたのに違いない。
それにしても、背中に密着している肉感的な女性は、隣の乗車口から乗り込んだはずだ。わざわざここまで移動してきたのだろうか?
そんなことを考え、停車したホームで一旦降り、再び乗り込む。乗客の位置関係が変わったはずなのに、肉感的な女性は再び裕也の背中に密着してきた。そして、眼の前には、女子高生が乗り込んできて、背を向けて立った。
ふんわりとした甘い女性の香りと、揺れるポニーテール。
(まずいな、これは……)
相変わらず手すりが掴めず、裕也は中途半端に腕を上げていた。
背中には柔らかい巨乳の感触。裕也の肉棒はさらに硬度を増していた。
その時、股間に誰かの手が触れた。
(誰だ?)
裕也は揺れる車内で下を向いた。
どうやら後ろの女性の腕が、裕也の下半身を抱え込むように巻き付いているようだ。
これだけの人の圧だ。仕方がないのかもしれない。身をよじって女性が腕を抜けるように空間を作ったが、股間に当たる手はそのままだった。
やがて、その手が、裕也の肉棒をたどり始めた。
(え、何?)
明らかに意図的な指の動きが、股間をまさぐっていた。
そして裕也の分身はさらに硬直してしまう。
肉感的な女性の指が、肉棒の形を確かめるように動いている。
血流が陰茎を急激に膨らませていった。
「……ください」
その時、裕也の前に立つ女子高生が、小さく呟いた。
「やめて……ください……!」
ポニーテールが揺れ、涙をためた女子高生が振り向き、こちらを睨んだ。
突然、左隣に立っていた若いサラリーマンが裕也の左腕をがばっ、と掴む。
「お前、痴漢かっ!」
(え、え?)
裕也は突然のことに動揺する。
「違い、ますっ!」
声が裏返ってしまった。
女子高生と若いサラリーマンが裕也を睨む。
ふたりとも敵意のこもった目つきだ。
その時、電車が停止した。
「降りろ!」
若いサラリーマンは裕也の腕を掴んで、強引に引きずるようにホームに出た。
「君も、来て!」
女子高生も同時に電車を降りた。
「ちょっと、待ってください! 私は何もしてません!」
「この人、痴漢です! 誰か駅員さんを呼んできてください!」
若いサラリーマンの呼びかけで、中年の女性が駅員を呼びに動いた。
裕也の頭の中はパニックになった。
このままでは、本当に痴漢にされてしまう。
痴漢、冤罪、有罪、九十九パーセント。そんな言葉が脳の中をぐるぐる巡り、背筋が凍った。
「私は、やってません! 電車に乗ってからずっと手を上げてました!」
裕也は思い切り叫んだつもりだったが、胸が震えて弱々しい声しか出なかった。
「嘘です! 私のお尻を触ってました!」
女子高生が、目尻に溜まった涙を飛ばす勢いで叫ぶ声が、裕也の耳を突いた
「俺も見ていたぞ!」
動揺して反論する言葉が出てこない。
足早に通り過ぎる通勤客たちの冷たい視線が裕也を刺す。
(俺の人生、終わった……)
痴漢、冤罪、有罪、九十九パーセント……視界が急激に狭まった。
「この人は、痴漢じゃ、ありません」
突然背後で声がして、裕也はゆっくりと振り返った。
背中に密着していた、肉感的なリクルートスーツの女性だった。
「私は、この男性の後ろに立ってました」
彼女は裕也の後ろにぴったりと身体を付ける。
「私の腕が巻き込まれて、男性の前に引っ張られたんです」
彼女は満員電車での状況を再現してみせた。
「その時、その女の子のお尻と男性の間に私の手が挟まっちゃったんです」
女子高生は、しばらく無言だったが、声を振り絞って叫んだ。
「嘘です! 私のお尻をいやらしく触りました!」
肉感的な女性は、女子高生にゆっくり近づくと、いきなり手の平で彼女の尻を掴んだ。
「こんなふうに?」
「きゃっ!」
いきなり女性に触られた女子高生が身をよじる。
「実際は、私の手の甲が当たってたと思うんだけど……」
女性は、女子高生の尻を、今度は手の甲で触れた。
女子高生の表情がさっ、と変わった。
「でしょ?」
肉感的な女性は、今度は若いサラリーマンに近づいた。
「私、この方の後ろにいたんですけど、ずっと手を上にあげてましたよ……あなたが女子高生の訴えでとっさに掴んだ腕は、上にあったでしょ?」
「ちっ……」
若いサラリーマンは、舌打ちをし身体を翻した。
「ちょっと、待ちなさいよ! 人を痴漢扱いして逃げるつもり!」
女性の言葉を無視して、サラリーマンは人込みの中に消えた。
茫然としている女子高生に女性は近づいた。
「あなたも、この方に言うことがあるでしょ?」
女子高生は、はっ、と我に返った。
「あの、ごめんなさい……私、勘違いして……」
女子高生が頭を下げる。
「いえ、いいんです。誤解だって、わかれば……」
裕也は安堵の息をついた。
その時、駅員がやってきたが、女性が事情を説明して、納得してもらった。
「どうも、ありがとうございました」
裕也は女性に頭を下げた。
「ホントに、助かりました。何か、お礼を……」
「いいんです、そんなこと。気にしないで下さい。それに、もう時間もないので……」
「それでは申し訳ないので……」
言いかけた言葉を裕也は飲み込んだ。
連絡先を聞こうとしたのだが、自分のような中年男が若い女性に尋ねるのは、下心と思われるのでは、と躊躇ってしまう。
「では、失礼します」
愛嬌のある笑顔で彼女は首を傾げ、ホームの奥に消えていった。
裕也は、彼女に向かって深々と頭を下げた。
緊張感から解放された裕也は、急に胃がキリキリと痛むのを感じた。