自分の記憶を信用できない。
飛び降り自殺において生存例が報告されていない建物の高さの下限は地上14階建である……という話を聞いたことがある。自殺の方法を調べていた時にネットのどこかで見かけたのだ。……けれど俺はその後日いくら検索してみても、同じ情報を見つけだすことが出来なかった。本当にそんな情報が実在しているのか? その情報は正しいのか? そもそも「14階」といっても振れ幅があるのではないか? ……疑わしい点は数多あって、真実は何も分からない。
同じようなことが幾度となく起こっている。海外の俳優の出身を調べてみれば、数ヶ月前に調べた際の記憶と、今現在検索すると現れる情報が一つも噛み合わなかったり。冷蔵庫の中の賞味期限が近い食べ物が具体的にいつまで保つのかを確認しようと手に取ってみれば、そもそも賞味期限の記載自体がどこにも見当たらなかったり。……では俺はいったい何を見たのか? この記憶はなんだ? と思わされることが多い。
だから俺は、自分の記憶が信用できない。
しかしそうは言っても、自宅アパートの玄関前で肩をたたかれて振り返った時、俺は「いくらなんでもその記憶違いはあり得ないだろう」と思った。いや、過去すべての記憶違いだって、俺に言わせればそもそもあり得ない話なのだけれど。
そこに立っていたのは女だった。黒い長髪の、深夜だからと上下ジャージで外を出歩いている若い女。階段を上り廊下を行きポケットの中の鍵を漁り、今まさに帰宅せんとする俺の肩をたたいたのは、間違いなく彼女だった。
あつらえたかのように整った顔をしたその美女は、俺に向かって微笑む。
「こんばんは」
「……こんばんは」
白々しい挨拶を返しながら、俺は死を予感した。
目の前の女の名前は知らない。その他の素性も何も知らない。ただ一つだけ、はっきりと覚えていることがある。
俺はつい数十分前に、この女を強姦した。
ここから数駅離れた場所に、団地に面した雑木林がある。その近くを通りがかった彼女を木々の影に紛れて押し倒し、悲鳴を上げられる前に顔の形が変わるほどの死に物狂いで殴りつけ、「抵抗したら殺す」と脅してレイプした。……はずだった。
だけど、目の前にいる彼女は綺麗な顔をしている。腫れて開かなくなった瞼も、折れて歪んだ鼻も、あちこち切れた唇も、すべてが元に戻っている。その上あの時と違って、余裕げな微笑みまで浮かべている。
……人違いだろうか? 暗くてよく顔を覚えていなかったのかもしれない。同じ髪型、背丈、服装の、別の女が今ここにいるのかもしれない。……なんて、我ながら信じられもしない仮説が頭をよぎる。
一方で俺は彼女の顔を見た瞬間に、心の片隅でもうすでに、たった一つの最もらしい結論にたどり着いていた。
俺がレイプした女はサキュバスだったのだ。下腹部の淫紋以外に人間と見た目が変わらない怪物との遭遇を、俺は暗闇の中で見落としたのだと思う。彼女のヘソのまわりがどんな風だったのか、思い出そうとしても思い出せなかったから。
サキュバスとは不死身の女……異種族である。実際に見たことはなかったが、聞いた知識が正しければ、彼女らは工業機械でミンチにされたとしても平然と元通りの姿に蘇るはず。そんなおそるべき存在が相手だったのだとすれば、強姦被害の際に負った大怪我など今は治っていて当然だ。現にこうして目の前に彼女が現れた以上、答えはそれしか考えられなかった。
ただ、そうだとすれば一つ分からないことがある。
サキュバスは単に不死身なだけではなく、強力無比な力も有している。つい最近、山で熊に遭遇したサキュバスが素手でそれを伸したというニュースを見た。……だからもし、俺がレイプの標的として選んだ相手が偶然サキュバスだったというなら、そもそも暴力でマウントを取れたこと自体がおかしいのである。相手はいくらでも力で俺を押しのけられたはず。大人しく殴られてやる理由もなければ、彼女らの力の源である魔力が偶然足りていなかったということもあり得ない。サキュバスの魔力は他人の性欲から精製される。強姦魔と接触したのなら、その時点ですでに魔力は確保できているはずなのだ。
なぜ、彼女は抵抗しなかったのか。
なぜ、彼女は今俺の目の前にいるのか。
復讐の二文字が脳裏をよぎる。ここまで俺を尾けてきた理由が、その復讐方法の中にあるのだろうか。具体的にそれが何なのかは想像すら出来ずに、俺は立ち尽くす。
女は、俺の両手を取った。ドキリともしなかったし、抵抗しようとも思わなかった。そんなことは無意味だと思ったのだ。きっと実際に痛みに襲われるまでは、俺は彼女に関することの全てに意味を見出せないのだろうとも思った。
そしてその痛みとやらは、ついぞやって来なかった。彼女に握られた俺の両手は、ゆっくりと、彼女自身の首に添えられていく。
抵抗したら殺すと言ったあの時、俺は同じように彼女の首を絞めていたことを思い出す。
「よければ二回戦とか、どう?」
「……は?」
「あんな場所じゃ、落ち着いて出来なかったでしょ? 部屋の中でゆっくりレイプしてほしいな」
「…………わかった」
「やった」
どういう罠なのか分からなかったが、自分にはどうしようもないということだけは直感で分かる。俺に彼女を拒否する権利などあるはずがない。
そうして俺は、得体の知れない怪物を部屋に招き入れた。女を家に入れたのはそれが初めてだった。
自室でレイプされた人は、もうそこでは眠れなくなってしまうのだという。だからその女が俺の家まで尾けてきたのは、何かそういう形での、より深い傷を刻み込むような復讐を果たすための手段なのかと思っていた。けれどその予想はハズレた。
二回戦は、本当に行われた。そしてそれ以外のことは、ほとんど何も行われなかった。人外の膂力によっていつでも復讐され得る立場の俺は、ただ相手の言いなりになってセックスをした。
引っ張られる形で体勢を崩されたから、ベッドではなく床でそれを始めた。脱がせてみれば、たしかに彼女の下腹部には淫紋が浮き出ていた。首絞め好き? と聞かれたから、好きだと答えて首を絞めた。レイプした時みたいに殴ってと言われたから、一発だけ顔を殴った。手加減しないでと言われたから、もう一発強めに殴った。口の中が切れたのか、彼女は無造作に横を向くと、唾と一緒に少量の血を床に吐き捨てた。
問題が起きたのは、その流れで「お腹も殴っていいよ」と言われた時のこと。俺が「それは一回目の時にはしなかった」と答えると、女がキョトンとした顔をする。
「え、したよ」
「あ?」
「された。殴られた」
「いつ?」
「抵抗したら殺すって言われたあと」
「……抵抗されなかったから、それ以上の暴力は振るってない。レイプ以外は」
「いや、お腹殴られたって。何回も」
「…………本気で言ってるのか? 間違いなく?」
「うん、間違いない。だって私が殴られてる箇所を手で守ろうとしたら、乱暴に払い除けられたのを覚えてる。すごく怖かった」
「…………そうか」
まったく、一切、そんなことは記憶になかった。
暴力は、あくまでも抵抗の意思を削ぐためにしたことのはずだった。首絞めは好きか嫌いかでいえば好きだが、マストかと言われればまったく違う。腹パンだってそうだ。だから命の保証と引き換えに抵抗をやめた相手に対して、単なるレイプ以上の負担を強いるに足るほどのモチベーションが、俺にはない。
けれど、では「絶対にやっていないと」断言できるのかというと、怪しい。殴った記憶は一切ない。ないが、俺は自分の記憶を信用できない。特にレイプなんてこちらも初犯だ、気が動転していなかったといえば嘘になる。そしてそうであるならば、事実が記憶に即していなくても不思議ではない。……ただしそれは相手も同じだけれど。
とはいえ俺には、大罪を犯しておいて、それよりも小さな罪の是非で裁判でもあるまいに争うだけの気力が、すでに無かった。
「……悪かった」
「え?」
「抵抗しなかったのに殴られて、怖かっただろ。言う通りにしても殺されるかもしれないって」
「え……。いや、うん。サキュバスだから、べつに大丈夫だけど。死なないし」
「そうか……」
その会話によって、元々盛り上がるはずもなかった場が決定的に白けた。向こうもそれを感じ取ったのか体を起こし、魔力を用いて怪我を治す。……空気に晒された己の股間の物だけが、しぶとく出番を主張し続けていた。
女が、俺の体を抱きしめる。自分を痛めつけた男のことを、愛おしそうに。
「ごめんね。責めるような言い方してごめん。本当は怖くなんてなかったよ。大丈夫だからね」
「……大丈夫ではないだろ」
「大丈夫だよ。私は全然平気なの」
彼女は俺が「わかった」と言うまで抱擁をやめなかった。
体を離して向き合ってみると、妙な間が二人の間に流れる。彼女の方が、まるでその居心地の悪さの原因を突き止めたような顔をして、
「そういえばお互い名乗ってもなかったね」
と言った。
名乗ることも許さずに暴力を振るい、名乗ることもせずに立ち去ったのは俺だ。そういえばも何もない。
だから、それが彼女の狙いなのかと思った。理屈と常識をすっ飛ばして愛想よく振るまうことで、俺から何らかの情報を聞き出すこと。それが復讐に必要なステップなのかもしれないと。
しかし仮にそうだったところで、やはり俺に拒否権はない。
「トート」
「え?」
「名前。透明の透に北斗七星の斗で、
「ああ、これはご丁寧に。私は、トマネル・ナザレア。ネルって呼んで」
「ネル……ね」
それが、俺が踏みにじった相手の名前。相手が不死身だろうと何だろうと、俺のやったこと自体は変わらない。
名乗りあってセックスをすればみんな友達……なんてことがあるわけもなく、いたたまれない空気は流れ続ける。その中でネルは、緊張に固まる子どもを見た時のように、フッとやわらかく笑った。
「ネルはどうして俺を尾けてきたんだろう。って思ってるでしょ」
「え。……まぁ」
「だよね。でもそれを説明するとちょっと長くなるんだけど、聞く?」
「……聞く」
俺に選択権があるのか? と、誘導尋問を受けているような気分がした。
こちらが頷くと、ネルは「お尻痛くなっちゃうよ」とベッドに座ることを促してきた。この部屋は男の一人暮らしに相応しいワンルームで、必要性を感じたことがないせいで椅子やクッションの類を用意していない。一人用の小さなベッドだけが、長話を聞くのに適した場所になっている。
ネルは隣には座らなかった。半殺しにされるほど殴られても何事もなかったかのように蘇る彼女は、固い床の上にいくら座っていても平気なのだろう。必然的にベッドの高さの分だけ、俺は彼女を見下ろす形になる。
ネルは、ピロートークのような甘い和やかさをまといながら、自分の過去の話を始めた。
「昔、友達だと思ってた男の子からレイプされたことがあってね」
「…………」
「その子、私のことサキュバスだって知ってたんだよ。だからびっくりしちゃって。なんで普通に「ヤらせて」って言わないんだろうって。それか言えなかったにしても、なんで暴力で解決できると思ったんだろうって。私が本気で抵抗すればどうなるのかなんて明らかなのに」
「……抵抗したのか?」
「ううん、してない。可哀想だったから」
「かわいそう?」
「うん。その子はね、透斗くんと同じで、突然私のことを殴りつけてきたの。何度も何度も本気で、私、最初は自分がレイプされるんだってことが分からなかった。その子……
「…………」
俺は想像する。友達だと思っていた相手から突然、殺意に満ちた拳を何度も振り下ろされたら、きっと不死身だろうと「驚く」じゃ済まずにトラウマになる。……そのトラウマを持った人物が夜道で突然襲われて、命乞いをする暇もなく何度も何度も殴られたら、その心の傷はどこまで深くなってしまうのだろう。
……つまり俺が聞かされているのは、主文なのだ。復讐に至る理由を……被告が犯した罪を詳細に説明する、死刑宣告の事前にある時間。それが今この瞬間で、俺の命は秒読みの段階に入っているのだと感じた。
俺は復讐される自分が、ネルと同じ暴力に晒されることを想像する。……いや、想像しようとした。けれどそれは上手くいかない。出産に伴うという激痛を男は一生理解できないことと同じように、人は「まだ体験したことのない痛み」を正しく想像することが出来ないから。
痛みを知らない加害者に向けて、ネルは話を続ける。
「それで、わけもわからずボコボコにされたあとで、思い切り首を絞められた。透斗くんみたいに優しくじゃないよ? 本当に殺す気の絞め方だった。で、死んじゃうよって腕をタップする私に向かって、彼は言ったの。「抵抗したら殺すぞ」って」
「……なるほど」
「私、頭悪いからさ。その時はまだ意味が分からなかったんだよね。いや殺そうとしてるじゃんって思って」
「俺に脅された時もそう思ったと」
「え、いやいや! 頭悪くても学習はするから、ちゃんと違うって分かってるよ。実際、遥逢くんも私を殺さなかったし。ただ酸欠で頭がガンガン痛むまで首を絞めたあと、動かなくなった私の服を脱がせ始めただけで」
「…………」
さしてショックではなさそうな言い草だった。ネルの話しぶりからは常に、いわゆる被害者意識が抜け落ちている。
「それで、あーレイプしたかったんだーってやっと理解して、されるがままになって、遥逢くんが満足するまで待ってた」
「……で、そのあとどうなった?」
「うん。終わったあと、私が起き上がって「満足した?」って聞くと、遥逢くん、魂が抜けたみたいな顔をしてた。待ちぼうけをくらった人みたいな」
「はぁ」
魂が抜けた……というのは、気の抜けた顔だったという認識で間違いないだろうか? だとすればその遥逢という男は、自分がレイプした相手が平然と起き上がってきても、そこまで驚きはしなかったということになる。……相手が不死身かつ性行為に抵抗のないサキュバスだと初めから知っていれば、そんな反応にもなるものなのだろうか。
と、考えた矢先に。
「透斗くんもさっき似たような顔してたよ。遥逢くんよりはもうちょっと、最初はドキッとした感じだったけど」
と付け加えられた。俺の場合は復讐に対する諦念が、傍から見ればそのような表情の変化として表れたのかもしれない。
……ということはつまり、ネルから見た俺はデジャブの塊であるということになる。いや、違う、そんな言葉では生ぬるい。ネルから見た俺は、トラウマその物であるはずだ。
なのに、彼女の語りには悲壮さも憎悪の類もない。俺はそれをどう受け止めていいのか分からなかった。死刑判決の主文を聞くつもりが、いつの間にか雑談が始まっていたような感覚におそわれる。
「で、とにかく遥逢くんが元気なさそうだったから、とりあえず抱きしめてみたの。私なりにその一瞬でいろいろ考えたんだよ。なんでそんな顔するんだろうって。……考えてそれで、「怒ってないよ」って言ってみた。今までいっぱい我慢させてごめんね、遥逢くんとセックスできて嬉しいよって。…………そしたらどうなったと思う?」
「さぁ……? どうなったんだ」
「うん。遥逢くん、急に泣き出しちゃってね。ごめん……って何度も謝られた。いいんだよー怒ってないよーって、抱きしめながら頭を撫でてあげたら、遥逢くんも私のことをいっぱい抱きしめ返してくれた。それで仲直りできたの」
「……なるほど」
そこまで聞いて、ネルの話の意図がようやく分かった気がした。
優しい素振りで、寛容と正しさを身にまとい、しかし同時に大きな強制力を持った人間が、確かに時々そういうことをするのだと俺は知っている。彼女は俺に「誘導」をしているのだ。正しさへと屈服させる誘導を。
「それで、俺にも謝ってほしいってことか」
「え」
反省の欠片もない素振りで図星を突かれて、ネルは一瞬固まった。きっと次の瞬間には、この期に及んで不遜な物言いをする俺への怒りが抑えられなくなるのだろうと思った。俺は自分が痛みに弱いと知りながら、それを上手く想像することが出来ず、命拾いを願って許しを乞う気にはなれなかったのだ。
けれど実際のところ、ネルの調子は一切崩れなかった。
「いやいや! ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないの。私が言いたいのはね、私が頑張れば、きっと透斗くんとも仲良くできるはずってこと」
「……仲良く?」
「そう、仲良く。……無理そう? 私、なんでもするし、透斗くんのこと全部受け入れてあげられると思うけど」
「……それはちょっと意味が分からないな」
「意味って?」
「なんであんた……ネルが、俺と仲良くしたがるんだ」
そう当然の疑問を投げかけると、ネルは「わ、名前呼んでくれたね!」と手をたたき、パッと華やぐように喜んで見せた。
「仲良くしたい理由ならちゃんとあるよ?」
「どんな?」
「……あんまり気持ちのいい理由ではないけど」
「復讐、報復か」
「違うよ。でも、聞いたら嫌な気持ちになると思う。聞かずに私と仲良くするって手もあるけど」
「いや、聞く」
理由や意図が分からないというのは、敵意を向けられることよりもある意味恐ろしいから。詳細を聞けるというなら聞いておきたい。ネルが嘘をつかない保証などどこにもないのだと分かってはいても、気休めになる。
……この時点で俺は、このトマネル・ナザレアというサキュバスとの付き合いが長くなることを、半ば確信的に予感していた。
「……その、遥逢くんとはもう縁を切られちゃって。だから透斗くんは私にとって、遥逢くんの良い代わりなの。こんな運命的なこと、そうそうないと思って……」
「……なるほど」
縁を切られたとは、具体的に何なのか。レイプした相手から全てを受け入れられた男が、その相手を捨てる理由とは何だったのか。そんな物がこの世に存在し得るのか。……そもそも縁を切ったのは本当に男の方からだったのか?
疑問は尽きず、強烈に嫌な予感もする。仮に万が一、全てを受け入れてくれるという話が本当だったとしても、それでもネルは俺の前に降って現れた女神などではない気がした。
しかしそうであっても、俺にははなから拒否権がない。今日の帰り道で彼女から尾行されていることに、俺はまったくこれっぽっちも気が付かなかったくらいだから。そんな調子では、逃げようにも逃げられるはずがない。
選び得る返事は、一つしかなかった。
「……もし、ネルがその遥逢ってやつの代わりとして、本当に俺のことを許してくれるなら。それはぜひ、喜んで代わりになりたいよ」
こちらがそう言うと、ネルはまた、パッと華やいだ顔をする。
「よかった! これからよろしくね、透斗くん」
その日から俺は、彼女と生活を共にするようになった。
本人の談を信じるのであれば、遥逢とネルの縁は、やはり遥逢の方から一方的に切られて終わったらしい。そのことについて、ネルはこう考察している。
「きっと、私が遥逢くんを幸せにしてあげられなかったせいなの。だから今度こそ、透斗くんのことは幸せにしてあげたいんだ。……透斗くんがどんな時に幸せを感じるのか、おしえて?」
そう言われて返事を考える俺は、まずは遥逢とネルの生活ぶりを詳しく知らなければならなかった。
全てを受け入れられたらしい遥逢は、それでもずっと不幸そうにしていたのか? ネルいわく、答えはノー。途中まではちゃんと幸せそうにしていたらしい。
幸せそうとは具体的にどういう風だったか? 真っ当な恋人同士らしい生活をしていたのか? ネルいわく、答えはノー。どうも恋人らしくはなかったらしい。ではどんな生活をしていたのかと聞くと、遥逢くんの望みをできる限り叶える生活をしていたのだという。
……ではその「望み」には二度目以降のレイプも含まれていたのか? ネルいわく、答えはノー。エッチはたくさん求められたけれど、全てがお互いの同意を得てから始まる和姦だったのだという。
ただ一つだけ……と、ネルが付け足す。
「遥逢くんはハメ撮りが好きで、いつもエッチが終わるたびに言ってた。もし俺から逃げたりしたら、この動画をばら撒くからなって」
「……なぁそれって和姦なのか? 脅しだろ」
「でも同意の上だったし」
「エッチの最中に暴力を振るわれたことは?」
「しょっちゅう。首絞め腹パンは当たり前だった」
「……それって和姦なのか?」
「同意の上だったからね」
動画をばら撒くという脅しを除けば、確かに同意の上のプレイとして成立しなくはない話だけれども。ネルの言う「幸せな生活」が客観的に見てどういう物だったのかということを、本人の談だけで実際の雰囲気ごと正確に想像するのはおよそ不可能であるように思えた。
俺が遥逢とやらの代わりだというなら当然、「ネルと俺の生活」は「ネルと遥逢の生活」を大方なぞることになるのだろう。質問を重ねて、俺はその詳細を想像する。心の準備をする。
空が白み始めた初日の深夜に、上下ジャージのサキュバスと二人きりの部屋で。俺はいよいよもって今後の生活のあり方を、主導権を握る本人に確認してみた。
「それで仲良くするっていうのは、具体的にはどうすればいいんだ」
「透斗くんはどうしたい?」
「俺はなんでもいいよ」
選べる立場でもないし、と内心で付け加える。
ネルはべつに、投げやりな返答に気を悪くするということもなかった。
「そんなこと言ったら、私ずっとここにいるけど」
「ずっと? 同居ってことか?」
「うん。専業主婦になる」
「……金は?」
「貯金があるから」
「そうか」
羨ましいことだ。……あるいは、ネルも俺と似たような状況にあるのかもしれない。
「俺は働いてないから、基本一日家にいるぞ」
「え、お金は?」
「死んだ親の金を食い潰してる」
「……そうなんだ」
ネルが初めて深刻そうな顔を見せる。俺はそれを鼻で笑った。そこでそんな顔をするということは、遥逢とやらは俺と違って、最低限のところは立派な人間だったんだなと。
「私がお金入れようか」
「ん?」
「仕事探すよ」
「どうして?」
「その方が、透斗くんが幸せになれたりしない……?」
「…………どうだろうな」
まさかそんな提案が飛んでくるとは思わなかったが。
親の遺産は決して多くない。こじんまりとした生活をしていても何年もつことやら。それを思えば、遥逢とやらの幸せな生活の再演の一環と称して、ヒモに甘んじることも悪くはない。……というか、夢みたいな話ではある。
しかし、何かがおかしい。遥逢がヒモではなかったなら、なぜその代わりの俺がヒモになることを提案されるのか。ネルには別の思惑があるのかもしれない。たとえば、
「俺が家にいると不都合か? どこかへ遊びに出かけてほしいだとか」
「そんな! そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「なら、話はひとまず保留にさせてくれ。今はまだ困窮してはいないし、金のやり取りをするには、俺はまだあんた……いや、ネルのことを知らなさすぎる」
「ふふ」
名前を呼ぶと、ネルは機嫌が良くなる。遥逢にもよく呼ばれていたのだろうか? ひょっとすると声も似ているだとか。
分かった、じゃあお金のやり取りはひとまず無しね。ネルはそう言ってあっさり引き下がった。そしてその代わりとばかりに聞いてくる。
「じゃあ透斗くんは、私が何をしたら幸せになれる?」
はぐらかし損ねた最初の質問に立ち返る、一見すると哲学的な問いだった。ヒモになれれば幸せかもと答えればその通りになれてしまうような状況では、問答に高尚さなど存在しようがないけれど。
しかし実際のところ俺は、自分の幸せの条件をよく知らない。旨い物を食ったり面白いゲームで遊んだり、顔のいい女を抱いたりすればその時だけは幸せになれた気がするけれど、事が過ぎてしまえばその幸せは己の中に留まってはくれない。いつでも胸を張って「自分は幸せだ」と言い切るための条件が、俺には分からないのだ。
しかしその一方で、不幸の条件はよく知っている。もちろんそれを避ける方法も。
「そうだな。一人暮らしだから、家事全般をやってくれるとだいぶ助かる。サキュバスなんだからムラついた時には相手してほしいし、あとは単純に、美人でいつでも愛想のいい女が家にいれば、気分がいいだろうな」
「全部できるよ」
「そうかな」
俺が言ったことは言葉ほど簡単なことではない。たとえば愛想の良さとは機嫌の良さだけれど、一切の例外なく常に機嫌の良い人物などは実在しない。それと同じように、一つ一つは軽い負担でも、日々積み重なるそれは果てしなく大きなストレスになる。人が不幸になる道筋とはそういうものなのだ。
ネルは遥逢との生活の中で、それを学ばなかったのだろうか?
「遥逢は、たとえばセックスをしたあと、ネルのことを労ってくれたのか? ありがとうって」
「うん」
「俺がそれを真似るのは、仲良しの条件か?」
「え? どういうこと?」
「家事をしたり、セックスしたり、常に愛想よくしてるネルのことを見て、いつもありがとうって言うことが条件なのかって聞いてるんだ」
「……うん? その「条件」っていうのがよく分からないんだけど」
「ネルは今、全部できるって言っただろ。それは労いがなくても同じなのかって」
「あ、うん。大丈夫。毎日のことだから、ありがとうを言い飽きちゃうってこともあるだろうし」
まるで実際に言い飽きた人間を見たことがあるかのような物言いをする。そしてその直後にネルは、寛容ながらも意地の悪い笑みを浮かべた。
「それとも透斗くんって、もしかして結構なドSなの? 私のこと、奴隷みたいに扱いたい?」
それでも構わない……と言外に豪語されていた。まるで、そんな扱いも実際にされたことがあるかのように。
遥逢はセックスのたびにネルを殴っていたのだという。そんなことをする男はサディストで確定だろうが、彼女が俺の質問をドSという風に解釈したということは……。
「遥逢はそうしてたのか?」
「え? ううん。遥逢くんとは、普段は仲良しなお友達って感じだった。エッチの時は奴隷プレイ? みたいなこともよくしたけど」
「なら俺もそれに習った方がいいだろ」
「そんなことないよ。透斗くんは透斗くんだもん」
かぶりを振ったネルが、寛容ながら真剣な顔をする。
「確かに、遥逢くんの代わり扱いはしちゃうけどさ。それでもちゃんと、透斗くんのことは透斗くんのこととして考えたいの。ダメかな……?」
「ダメってことはないが」
「よかった。……大丈夫だよ、透斗くんは自分らしくしてくれてればいいの」
透斗は透斗らしく……すなわち別人は別人らしく。そうした上でなお、俺は遥逢の代用足り得るのだとネルはなぜか断言する。まぁ、もし仮に彼女の中で一番大きな意味を持つ要素が「自分を特定の方法でレイプした相手と接すること」だというなら、あとはオマケだと考えることにも納得できるけれど。
ともかくそういうわけで、核心的なところがよく分からないうちに、翌朝以降の今後一切全ての家事がネルに押し付けられることがいつの間にか決まっていた。ついでに彼女は、俺が求めればいつでも性処理に応じなければならないし、一瞬たりとも機嫌を悪くしてはいけないということも決まった。いや、正確には「いけない」ということはないが、そうしなければ「透斗くんを幸せにする」という彼女自身の目標が損なわれることになる。……らしい。
そして実際のところ、彼女はそれを完璧に実践した。
放り投げられた石から惰性の勢いが消えて停止するように、今後の生活について話をつけ終えた俺は、ネルを部屋に置いたままという異常な状況にも関わらず泥のように眠った。そして翌日の昼前に目覚めると、窓からの日差しに目を細めている間に女の声で「朝ご飯食べる?」と聞こえてくる。
そういったことが当たり前になって、数日が過ぎた。
サキュバスは魔力さえあれば疲れることがない。不死身らしく常にベストコンディションを維持する。従って馬車馬のように働かされ続けても心を病むということがないから、てきぱき動き回りながらネルはいつでも機嫌がよかった。
自宅であるワンルームは当然狭い。そもそも二人以上での生活は想定されていないように思う。そんな場所に自分に対して友好的な上機嫌の美女が居て、常に視界にチラついているとなると、男としてはまぁ催す物がある。しかもその美女は単に友好的で性行為に抵抗がないというだけの美女ではなく、自分が一度強姦して、それを許された相手なのだ。視界に入って、性に結びつかないわけがない。
また、ネルに関する性との結びつきは、それだけにも留まらなかった。
初日の昼頃に、ネルは着替えについて俺に聞いた。透斗くんはもっと可愛い服が好き? ジャージじゃ味気ない? 俺が「なんでもいい」と答えると、彼女は続けて奇妙なことを言う。
「じゃあ透斗くん。これと同じジャージをもう数着「欲しい」って思って」
「……は?」
「着替えは必要だけど、取りに帰るのも面倒だから。透斗くんが欲しいって思ってくれれば、今ここにそれをポンって出せるの」
「……なんの話だ?」
「魔法の話」
聞けば、サキュバスには不死身性のような種族共通の特徴の他に、各々が様々な性質の「固有の魔法」を持っているのだという。そしてネルの魔法は「近くにいる他人が望んだ物品を生み出す」という力を持っているらしい。俺が望みさえすれば着替えが出てくる一方で、魔法の持ち主本人の意思ではハンカチ一つ呼び出せない。けれど逆に俺が望みさえすれば、その魔法は非生物的な物ならなんでも……たとえば核ミサイルでも生み出せてしまうらしい。
ただ、その一見すると万能の願望機じみた魔法には、一つ致命的な欠点があるのだという。……その魔法によって生み出された物は、誰が望んだ物であるかに関わらず、この世の誰か一人にでも「消えてほしい」と思われた瞬間に消えてしまう。だから仮に核ミサイルを生み出したとしても、それが着弾することはまずあり得ないという話だけれど、日常生活においてそれが意味するところはつまり……。
「だから透斗くんが望めば、いつでも私のことを裸に出来るんだよ」
そう言ってネルは、自分の尊厳をさらに多く俺に譲渡した。本物の着替えを取りに帰れば、いつ裸に剥かれるか分からない状況に立つ必要もないはずなのに。服どころか下着まで、彼女は魔法によって生み出した。
しかしまぁ、彼女が俺に尊厳を譲渡するのはそれが初めてというわけでもない。性暴力を許し、俺のかわりに家事の全てを務め、それを彼女自身の望みであるということにして、裸になるかどうかに関わらず頻繁な性処理も役目として負う。そんなことがまかり通っている時点で、他のことはいろいろと誤差扱いになるのかもしれない。
初めてネルの魔法を見た日、彼女はわざわざ俺の前で着替えを始めた。狭い家の中では、更衣室になる場所なんてトイレか風呂くらいしかないけれど、だからといって手を伸ばせば触れられる距離で脱ぎ始めるというのは、明らかな挑発だった。
「したい?」
下着まで脱ぎながら、ネルはどこか得意げに問いかけてくる。
サキュバスは近くにいる人間の性欲を察知できる性質を持つと聞いたことがある。ということは、彼女は答えが分かった上であえて問いかけて来ているのだ。恐れ知らずというかなんというか、捉え方に困るけれども……。
……しかしそうだ。それを思えば彼女はあの夜、雑木林の傍を歩いている時、自身に迫り来る性欲の塊を察知していたはず。なのに彼女は不意打ちを受ける形で暴力を振るわれ、そのまま強姦された。いったいなぜ未然にそれを防げなかったのか? もとい、防がなかったのか?
そんな疑問の答えにたどり着くよりも先に、俺はネルのことを押し倒していた。こちらの背後にベッドがあったせいで、彼女の背中はまた冷たく固い床につく。
「……遥逢にレイプされた時はどんなシチュエーションだった?」
「ん、今と似てた。一緒にゲームしてたら、突然床に押し倒されたの」
「相手の性欲がパンク寸前だったことくらい、サキュバスなら分かっただろ」
「分かんないよ」
「どうして」
「レイプされてみて分かったんだけどね。一線を超えちゃう人とそれ以外の人って、性欲の大きさ的には差がないの」
両手を押さえつけられたまま、ネルは自身に覆いかぶさる男に向かって淡々と語る。その気になればマウントポジションを逆転させることなど造作もないだろうに、細い腕にはぴくりとも力がこもらない。
「遥逢くんと同じくらいの性欲を抱えて、普通の「いい人」として生活してる人はたくさんいる。透斗くんの性欲だってそうだよ。昨日の夜、特別ムラムラしてた? ……遥逢くんは私をレイプした日でもそれ以外でも、いつも同じくらい大きな性欲を持ってた」
「…………怖くないのか? それは」
「怖くないよ。サキュバスなんだから」
サキュバスだから怖くない。……その言葉の表すところが「なんなりと抵抗できるから」でないことは、ネルのこれまでの振る舞いから明らかだった。
しかし、ではなぜ怖くないのか? 俺なら怖い。傷が治っても、痛みを感じなくても。誰かから突然襲われるかもしれないと常に警戒しながら生活することは、どう考えても恐ろしい。だからネルの考えていることが分からないのだ。
今自分の押し倒している相手が何を考えているのか。今自分のしていることは相手にとってどんな意味を持つことなのか。……それが分からないから、加害者になるにしても不気味さを感じてしまう。
「……しないの?」
石像のように動けなくなった俺を、不思議そうな目が見上げてくる。さっきまで湧いていたムラついた気持ちは、消えるとまではいかなくても、どこか宙を一人歩きしているかのようだった。
俺はその一人歩きにケリをつけるために、ズボンのポケットからスマホを取り出す。カメラを起動して、組み伏せられたネルの顔に向ける。
「遥逢が撮ったなら俺も撮っていいか?」
「うん。いいよ」
「……遥逢が脅したなら俺も脅すぞ」
今から弱みを作られようとしている相手が、慈愛の様相でにやりと笑う。
「それで透斗くんが幸せになれるなら、いいよ」
「……あぁ、なれるよ」
幸せになるコツが、不幸を避けることだとするのなら。家事を押しつけるように、性欲を押しつけるように、責任も他人に押しつけてしまうのが良い。
俺は遥逢の行動をなぞる。そいつが自分と同類の「不問にされただけの犯罪者」であるのを良いことに、遥逢の面影をなぞろうとするネルに話を合わせるという口実で、俺の行動の責任を、遥逢とネルの二人に押しつける。
録画開始の音が、崖際の最後の一歩を跳ねる鈴のように鳴った。
亡き親の財産を食い潰すばかりの生活には物が少ない。あるいは、あったとしても貧乏臭い。
ワンルームの自室にはテーブルがない。引越しの時に使ったダンボールをその代用としている。長時間ベッドの外に座ることを想定していないため椅子もない。カーペットの類もない。両親が健在だった頃、実家では馬鹿の一つ覚えのように常にテレビが点いていて、それを見ながら育った俺にとってテレビとレコーダーは生活のマストだった。だから仕方なくそれらだけは購入したけれど、テレビ台は背もたれが無く固い素材の、リサイクルショップで買った折りたたみ式の椅子で代用している。レコーダーを床に直置きしていいのか分からなかったので、それももう一つの同じ椅子の上に乗せた。
ネルはそういった環境に文句を言わず、眉をひそめることもなかった。むしろ狭い調理場で夕飯を作りながら、彼女は言う。
「透斗くんって自炊するんだね」
ベッドに寝転がりソシャゲで遊びながら、相手の方も見ずに答える。
「気が向いた時だけな」
「えらいね」
「もうネルに投げたけど」
「いいんだよ。私を捕まえたのは透斗くんなんだから」
「捕まえた……」
それが真っ当な交際を意味していれば、確かに胸を張れたのかもしれないけれど。
俺が今働いていないのは、両親の遺産にかまけて仕事を辞めたから……ではない。元々から俺は社会的に自立出来ていなかった。それゆえ自分には家事手伝いとして、家庭レベルの料理・調理に触れた経験が若干ながらある。その経験は、一人暮らしを初めてから申し訳程度の自炊に活きた。それが購入した小さな冷蔵庫や諸々の調理器具の値段に見合う恩恵なのかと問われれば、甚だ怪しいところだけれど。
ともかく今は……というかこれからは、それらの扱いも全てネルが担当することになる。俺が次に包丁を握ることがあるとすれば、気の変わった彼女が煙のように消えた時か、己の腹に復讐の刃を突き立てられて、思わず抵抗した時くらいだろう。
夕飯は中華だった。といってもそれは、スーパーで売っているレトルトじみた合わせ調味料を用いた簡易的な物。もっと言えば、その調味料は元々家に置いてあった物でもある。材料までは揃っていなかったが、それは俺が望むことによって、ネルの魔法から生み出された。
ダンボール箱一つの上に二人分の食事は乗せられない。ネルはまな板を流し場に退かして、空いたスペースに自分の分を置いて立ち食いをした。
「旨いんだけど、作っておいてもらって悪いんだが」
と俺が話しだすと、彼女は喉に物が詰まったような顔をする。
「完成した料理を魔法で出すっていうのは無理なのか?」
「あ、なんだ、よかったぁ。何か失敗したかと」
「無駄な手間をかけたなら、広義の意味では失敗かもしれん」
「んー、まぁ出来るね、魔法で。テーブルとかも透斗くんが望みさえすれば出せるし」
コップに水道水を注ぎ、それをがぶがぶ飲みながら、ネルは続ける。
「でも面白みがなくない? たとえば洗濯は、魔法で新品の服を出し続ければ必要なくなるし」
「いや、聞いてた通りの説明だと、その服は誰かに「消えろ」と思われた瞬間に消えるだろ」
「誰もそんなこと思わないでしょ」
「そういう問題じゃない」
そもそもロクに外に出ないのだから他人にも会うまいと言われれば、なかなか反論が難しくはあるけれども。そこは心の問題である。
しかしまぁ、労う労わないの問答を経た上で考えてみれば、たしかにネルの魔法を用いれば「労うまでもない成果」はいくつも日常的に得られるようになるのだとは思う。そしてそれが魔法の使い手本人が思う「透斗くんの幸せ」に当てはまるのかといえば、怪しい点があることも分からないではない。
ネルはおそらく、自らの手で俺を幸せにしたいのだ。自分を強姦するようなどうしようもない男を自分の手で幸せにすることで、類似した過去の失敗を濯ぐ。そのためには、労われる必要はないが、「客観的に見て労われるに足る成果」は必要なのかもしれない。
「……まぁでも、自分のために働く女の姿を寝転がりながら見るのは、気分がいいか」
俺がそう結論を口にすると、ネルは満足そうに目を細める。
「そうでしょ。それに、いつでもその女を襲っていいんだからね」
「……あぁそういう話だったな」
ネルの台詞に、にわかに沸き立つ己の性欲を感じながら、同時に「揚げ物をしている最中に服でも消してやろうか」とも思った。ネルの余裕は、単なる油断であるように見えるから。不意をつけば彼女の機嫌の良さはあっさり崩れるかもしれない。
食事が終わり、ネルが皿を片付けて洗い、ネルの沸かした風呂に俺が入り終えたあと、手持ち無沙汰そうにテレビを眺めていた彼女の肩をたたく。振り返った彼女はサキュバスといえども「わっ」と声を上げた。
風呂上がりの俺はまだ服を着ていなかった。一歩一歩近づいてくる性欲の塊をネルは背中越しにも察知していたはずだけれど、なるほど本当に警戒の対象として扱われていないらしい。裸の男が勃起している様を眼前にして初めて、自分の立たされている状況を自覚するような有様だ。
「口でしてくれ」
「うん」
命令への服従に、躊躇も迷いも困惑もなかった。大きく口を開けたネルが、一応は清められたそれを一息に口に含む。テレビではバラエティ番組が見飽きたCMに移っていた。
スマホはベッドの上にある。何を言われるまでもなく喉の奥の方まで受け入れようとしている最中のネルの頭を軽くたたき、俺は命令する。
「ベッドの上のスマホ、魔法で取って」
「ん……」
すると、こちらの腰を掴んでいた手が片方はなれて、すぐにスマホが手渡される。
……が、俺のスマホは相変わらずベッドの上にあった。
渡されたスマホは、見た目だけなら俺の私物にそっくりだ。中を確認してみればデータ類までそのまま同じで、WiFi無しでもインターネットに繋がる。どういう理屈なのかは分からないが、オリジナルと完全に同様の使い方をできるコピーが生成されたようだった。
ネルの魔法は、相手が望んだ物を「生み出す」。逆に言えば、元々ある物を移動させることによって「運び出す」ことは出来ないということか。……しかし俺は一応、彼女に「ベッドの上のスマホを取れ」と頼んだはずだった。
口での奉仕を継続しながらでは、その頼みは聞き入れられない。渡された複製品のスマホからは、ネルなりの優先順位が垣間見えた。
意図とは違う結果を出力されたことに俺が不満を感じていると捉えたのか、奉仕のために塞がれた不自由な口でネルは言う。
「ごえんあさい」
「…………」
彼女は自身の魔法の性質を、すでに正確に言葉にして説明していた。曲解したのは俺の方だ。
だけど俺は謝らない。幸せのコツは、他人に責任を押しつけることだから。
その謝罪には答えず、あるいは報復のように。俺は空いた片手でネルの頭を押さえつけて、チンポを根元まで無理やり押し込む。
「んぐっ……」
ネルは目を閉じて、それをおとなしく受け入れた。大して驚きもしていない様子で、ロクに嘔吐きもしなかった。
俺は複製されたスマホのカメラを立ち上げ、録画ボタンを押しながら、彼女の過去に思いを馳せる。
遥逢にも、同じようなことをさせられていたのだろうか……?
俺はベッドに移動したあと、精液を飲み込んだばかりのネルに口での掃除を命じながら、二台のスマホを見比べる。
今さっき撮った録画のデータは、オリジナルのスマホには入っていなかった。つまり二台のスマホは完全なコピーの関係にこそあっても、お互いが超常的な力で連動しているわけではないらしい。「物を生み出す」ところまでが魔法で、その後のことに魔法的な現象は存在しないのだろう。
十数分の動画をスマホ間で転送するのは少なからず手間だ。俺はアフターケア的な奉仕に集中しているネルに聞く。
「ネルの魔法は、物を生み出す魔法って言ってたな」
「ふぁい」
「データは「物」に含まれるか?」
「ぇあ、うん」
「コピーのスマホで撮った動画のデータを、オリジナルのスマホの中にも生み出すことは?」
「……できるけど」
口を離したネルが、不安そうに告げる。
「その動画は、誰かが「消えろ」と思ったら消えるけど、いい……?」
「…………」
ハメ撮り映像で脅されたことのある女が言うことは一味違う。べつに俺としては、そのような理由で動画が消える分には一向に構わないのだけれど。
しかしそれはそれとして、ネルの魔法についていくつかの疑問が浮かぶ。俺はそれを片っ端から質問してみる。
「コピーのスマホ内のデータを正規の方法で抜き出したら、そのデータは消える心配がないのか?」
「……いや、消える」
説教を受けているかのように、ネルの答え方は弱々しい。
「ってことは、コピーのスマホで録画した時点で、もうどうしようもないわけだ」
「……ごめん」
「消えろと思えば消えるというが、そう思うのはネル自身でもいいのか?」
「…………うん。でも私は思わないよ、そんなこと」
「そうか」
ハメ撮り映像なんて消えてしまって構わない。というか、叶うことならば本来は、全ての映像は「映された本人が望んだ場合即座にこの世から消えるべき」であるはず。その点で言えばネルの魔法は理想的である。
けれどそれとは別に、俺には懸念していることがあった。俺とネルの生活について約束されたことは三つあったはずだ。一つは家事を押しつける、一つは性欲を押しつける、一つは不機嫌になることを許さない。
……それらは本当に確固たる約束なのだろうか?
「お゛え゛っ……!?」
突然頭を押さえつけられたネルが軽く嘔吐く。射精に導くための奉仕中ならまだしも、掃除中にイラマされることは想定していなかったのかもしれない。あるいは単純に、まだ会話の途中だと思っていたからなのか。とにかく彼女は油断していたようだ。
半勃ちの物で彼女の喉を塞いだまま、俺はわざと理不尽なことを言いつける。
「俺はスマホを取れと言ったんだ。コピーを渡せとは言ってない」
「う゛……、う゛ぅ……」
「二度とこんな勝手なことをするな。分かったか?」
「んぇ゛っ」
無抵抗なネルの頭をなおも股間に押し当てる。手のひらから不思議と、頷いているような感触が伝わってきた。
「そのまま朝までしゃぶってろ。約束通りなら、そういうのも有りなはずだろ?」
「う゛ぇ゛……。……あぃ」
伏せた顔を前髪が隠していたけれど、声から察するにネルは軽く泣いていたように思う。けれどそれは生理反応の範疇で、従順である分には「不機嫌」とはいえない。
俺はそのまま目を閉じる。部屋の明かりがつけっぱなしで眩しいから、布団を頭まで被った。視界がなくなっても、ネルが言いつけを守っているかどうかは感触で分かる。
そして俺はそのまま、本当に眠りに落ちた。自分はそういうことが出来る人間なのだと知った。強姦を実行した時にも、焦燥感と興奮の中で似たようなことを思ったものだ。
翌朝目が覚めると、ネルは言いつけ通りまだフェラチオを続けていた。
本当に一晩中続けていたのかどうかは、眠ってしまった俺には分からない。カーテン越しの朝日が部屋に差し込んでいても、不必要な照明は点けっぱなしになっていたけれど、それだけでは何も分からない。
顔に被った布団を退けると、空気の冷たさで自身が裸であることを自覚する。オナニー中に下半身裸で気絶するように寝落ちした経験はあっても、全裸で寝起きしたのはこれが初めてだった。
体を起こしてネルの肩をたたいても、彼女は奉仕をやめなかった。俺が「もうやめていいぞ」と言って初めて、その口を離す。
いくらサキュバスといえども限界があるものなのか、ネルはそれなりに憔悴した顔をしていた。本当に言いつけ通りにしていたなら、彼女は一睡もしていないのだ。体は不死身でも心に来るものがあるのかもしれない。
「お、おはよう、透斗くん」
「おはよう。ちゃんと続けてたんだな」
「あ、うん。約束だから……」
言いつつ、俯くように目を伏せるネル。「不機嫌」の定義は考えてみれば曖昧で、今の彼女が約束に違反しているのかどうかは見方によるところが大きい。
ただ、次の彼女の一言で、俺はその「見方」を大きく変えさせられることになる。
「あ、あのね透斗くん。その、朝になるまでの間に思い出したんだけど。……ちょっと言い忘れてたことがあって」
上目遣いで、許しを乞うように。ネルがぽつぽつと白状する。
「その、透斗くん一人の性欲だと、私が生きていくには足りないっていうか…………足りなくて。それでその、定期的に他の人の性欲ももらわなきゃいけなくって。そうすると定期的に家を空けることになるっていうか……」
「ここに別の男を呼ぶのは?」
「え?」
ネルは豆鉄砲をくらったような顔をした。
「俺一人で足りないなら、他の男をここに呼ぶのは? それなら家を空けなくてもいい」
「え、あ、うん。透斗くんがそれでいいなら、私は大丈夫だよ」
「…………いや、あんまりよくない」
狭い家の中に知らない男を入れるのは気が進まない。 それが生活の標準になるのならなおさらだ。俺は基本的に他人を好かない。家に呼べばいいというのは、正直なところただのカマかけだった。
こちらが許可を出せば、ネルは本気でここをヤリ部屋にする。リアクションからその確信を得てしまえば、焦らされるのは俺の方だった。
「俺は一人が好きなんだ。エロい女は例外ってだけで」
「えっと、じゃあ……」
「いいよ、好きに外へ行けば。監禁してるわけじゃないし、家事には買い物も含むつもりだしな」
「よ、よかったぁ……。じゃあ、ルールを決めるね」
「ルール?」
「うん。だってそうじゃないと、たとえば私が一日中帰ってこなかったら、透斗くん困るでしょう?」
「……まぁそれはそうだ」
大前提として家に居てくれないことには、家事も性処理も出来やしない。それらが出来なければ約束違反になる。けれど不機嫌の定義が曖昧であることと同じように、「家事をした」や「性処理をした」の定義も考えてみれば曖昧である。ルールを決める必要があるのは確かにその通りだった。
そして話し合いの結果、たった一つのシンプルなルールが生活の中に追加される。ネルは一日に六時間以上の外出をしないこと。それが、俺たちの間に交わされた四つめの約束になった。
話がまとまると、ピョンと跳ねるようにネルがベッドから降りる。
「じゃあルールも決まったし、朝ごはん作るね! なにか食べたいものある?」
快い声と笑顔でそう振り返る彼女を見て、俺は確信した。
つい数分前まで彼女の顔に浮かんでいた憔悴は、不眠不休で働かされたことによるものでもなければ、性奴隷扱いで尊厳を踏みにじられたことによるものでもない。ただ彼女は、外出や他の男との関係性についての話をし忘れていて、それをきっかけに俺との関係が決裂することを恐れていたのだ。おそらくは何時間も前にそのことに思い至り、朝まで口での奉仕を続けながら、ずっとその不安に苛まれていたのだろう。だからその不安から解放されると同時に彼女は、これまで通りのいっそ不気味な元気と上機嫌を取り戻した。
なるほどそういうことなら、その憔悴は明らかに不機嫌ではない。彼女は完璧に約束を守っている。まるで金で買われた女が、奪われることのない最後の矜恃としてそうするように、なぜか俺に向かって「完璧」を演じ続けている。弱みを握られているのは、むしろ俺の方だというのに。
ネルと遥逢との間にあった失敗とはなんだったのだろう? なぜ遥逢はネルを捨てたのだろう? なぜネルはそれを自分の落ち度だと感じて、そのリベンジを頑なに果たそうとしているのだろう?
何かがおかしいのは明らかだった。俺の知らない何かがネルの中にあって、それが彼女の「謎の完璧主義」の原動力になっている。そしてその原動力が今は、自分を強姦した上に性奴隷扱いまでして夜通し働かせ続けた男に向けて、朝食を作ろうという方向へ働いている。
「朝は、トーストでいい。電子レンジも何もないんだ、出来たものを魔法で出してくれ」
「電子レンジでもトースターでも魔法で出せるけど」
「……じゃあまぁなんでもいいよ」
ネルはにこりと笑った。俺は服を着て、カーテンを開けた。
ネルとの生活は、ものの数日でルーティンと化した。
彼女が家事をしている間、俺はスマホで適当に遊んだり、テレビを見たりしている。食事をする時は録画したアニメやバラエティ番組を二人で見る。角度的に台所からはテレビが見づらかったから、魔法で二人用のサイズのテーブルを生み出した。ついでに座布団も。
二日に一回程度のペースでネルは他の男に会いに行く。家での彼女の行動を注意深く観察していると、スマホを用いて結構な頻度で誰かと文章のやり取りをしていることが分かる。使っているアプリはその時々によって様々で、詳しい内容までは見れなかったものの、連絡相手の何割か(または全てか?)が「食糧」であることは間違いない。
ネルは、よく笑う女だった。アニメでギャグシーンが入ったり、お笑い系のバラエティを見ていると、彼女は頻繁に声を上げて笑う。そしてその横で、俺も同じように笑う。
家族亡き今、この世の誰が聞いても意外に思うだろうけれど、俺は元々よく笑うタイプなのだ。そしてそれは、何の罪もない女を強姦した前後でも同じだった。ネルを強姦するに至る日の朝だって、俺は録画した番組を見ながら笑っていたのだ。
性犯罪に手を染めたあとでもなお俺が普段通りに笑っていられるのは、その被害者がピンピンした素振りで上機嫌に、隣でのんきに笑ってくれているおかげだろうか? ……いや、確かめる術はないが、きっと違う。もしネルがここへ来ていなくても、俺は今頃のんきに笑っていたはず。
ネルの言う通り、性犯罪を実行に移す最後のきっかけは性欲じゃない。俺はあの日、そもそも強姦の実行を目当てに深夜の外出をしたわけではなかった。目的は全く別のところにあった。ただその帰り道に、たまたま人目につきづらい場所を通りがかったタイミングで、たまたま無防備な女が一人きりで歩いていたから。……そういう機会が訪れた時に、自分を律する心が正常に機能しないようであれば、そのまま衝動に身を任せようとは前々から決めていた。
けれど本当なら、それを実行するべきではなかったのだと思う。道徳に反するからではなく、人を取り返しがつかないほどに傷つけてしまうからでもなく。ただ単純に、俺はまだそれを実行するべき段階にはなかったから。
自暴自棄で強姦をするなら、何を見ても笑えなくなってからにするべきだった。
ネルとテレビを見ていると、つくづくそれを実感する。他人と笑えるほど余力のある人間に、自暴自棄になる資格などあるはずがない。
ネルに強いる性処理のタイミングは不定期で、方法は毎度思いつきだった。おそらく相手の都合に合わせているのだろう、ネルが外出するタイミングはいつも不定期で、必然的に俺との交わりもその間を縫うような形になる。方法については大体のことをしたように思う。セックスとフェラはもちろん、胸も後ろの穴も、手も髪も全て使った。殴りながら犯す日もあれば、キスをしながら抱き合う日もあった。
共通しているのは、その全てを録画したこと。すべてコピーではなくオリジナルのスマホで撮影したから、ただ念じるだけで映像を消すことはできない。ネルの弱みは瞬く間に増えていった。
けれど俺は彼女との生活を重ねるうちに、こちらの視点から「弱み」として見えている物が、実際にその通りであるかは分からないのだということを理解することになる。
ある朝、ベランダへ洗濯物を運んでいる最中のネルに性処理を迫ったところ、「これ干し終わるまで待って」と返されたことがあった。確かに洗濯物は放っておくとすぐにシワになるし、二人分の洗濯物を干すために要する時間などそう長くはない。俺は内心で舌打ちをしながらも、表面上の態度としては素直に彼女の作業が終わるのを待ったつもりだった。
俺はその頃にはもう、何度か抱いたネルのことを少なからず理解しているつもりでいた。普通にセックスをすればあんあん派手に喘ぐけれど、暴力を振るうと痛みを食いしばるようなうめき声を出す程度で静かになること。アナルセックスを提案すると一瞬だけ表情を凍りつかせ、その後に乗り気なフリをすること。中出ししたあと抜くフリをしてもう一度突きこむと「ぎゃうッ!」と悦びには程遠い声を出すこと。一度それをして以来、彼女は最後の最後まで結合部を見ながら警戒を怠らないようになったこと。
要するにネルの本心としては、普通の恋人同士がするようなセックスだけが好みで、それ以外はサキュバスの力で耐えているに過ぎない。そしてサキュバス特有の力は不意打ちに弱いものらしい。……と、俺はそう思っていた。
けれどその日、洗濯物を干し終えた彼女を抱き終えたあと、本人から言われた。面白半分に腹を殴りながら犯した後のことだった。
「透斗くんって優しいんだね」
「はぁ?」
「待って、って言ったら待ってくれるんだもん」
俺は行為中のネルを振り返る。セックスの最中、彼女は殴られても、抜かずの二回戦を始められても、一度も「待って」とは言わなかった。……たぶん、おそらく、言っていない。
だからそれで俺は、彼女が洗濯物の話をしているのだと気づく。
「洗濯のことか? そりゃシワになるからな」
「アイロンかければいいでしょ?」
「……何が言いたいんだ?」
「もっと自分のしたいことを優先してもいいんだよってこと」
事後のベッドの上で、ネルが俺の両手を取る。そしてその手を躊躇いなく自身の首元に持っていく。
彼女の首を絞めるような格好になり、デジャブを感じた。
「こうやって、今すぐやらなきゃ殺すぞ……とか言ってさ」
「…………」
その発言に、俺は不可解を感じた。
俺は俺のしたいことを例外なく優先していい。……と、ネルが言うのはおかしい。なぜなら、もし本当にそう思うのであれば、彼女は黙って洗濯物を放っぽり出して、その場ですぐに性処理に移ればよかったからだ。「待って」と言った本人が今度は「待たなくていい」と言うのはおかしい。そこには何か別の意図がある。
そこまで考えて、俺は気づいた。
ネルは処女ではない。愛のあるセックスしか知らない温室育ちでもない。彼女は友達だと思っていた男からレイプされ、それを許したあとも定期的に体を求められてはそれに応じていた女だ。首絞め腹パンは当たり前、抱かれる様を録画されては「逃げればばら撒く」と脅されていた彼女が、はたして俺の性処理で「不意打ち」を受けるだろうか?
苦痛は魔力で和らげられるはず。気の進まないプレイがあったとしても、よく似た男との経験を持つ彼女なら、それが提案されることを事前に予想できるはず。俺にされていることのほとんどは遥逢にもされていたはずで、彼女がいちいち全てに一喜一憂することには違和感がある。
その違和感に気づいた俺は、半ば確信する。ネルが「待って」と言ったのは、俺にそれを跳ね除けさせるためだったのではないか。経験豊富な彼女は、それが「遥逢のような男の幸せ」に繋がると信じているのではないか。
つまり、彼女のしていることは……。
「……ネルは、嫌がるフリをしてるのか」
「えっ?」
「本当は大して痛くなくて、アナルでするのも嫌じゃなくて、不意打ちを不意打ちとも思ってないのに、そうじゃないフリをしてるのか? ……そうした方が俺みたいなサディストが喜ぶと思って」
「……あはは」
ネルは困り顔で笑った。
「透斗くん、鋭いね」
「遥逢にはバレなかったのか?」
「ううん。でも、バレても喜んでもらえたから」
そう言って彼女は恥ずかしそうに笑う。隠されていた怪物的な余裕が、水面下から浮上した瞬間だった。
その時になって、俺は初日の夜に……ネルと出会った日に彼女から言われたことを思い出す。
記憶にないけれど、俺はネルを雑木林の中で強姦した時、抵抗をやめた彼女の腹を何度も殴ったらしい。身を守ろうとして伸ばされた彼女の手を乱暴に振り払ったらしい。彼女はそれがとても怖かったのだという。
……怖かった? こんな怪物が? その程度のことで?
俺は本人に聞いてみた。強姦の時に抵抗をやめたのに殴られたことはそんなに怖かったのか? それが怖かったなら、約束を盾に抵抗を禁止された今も同じくらいの恐怖を感じているのか?
すると、彼女はまた恥ずかしそうに笑う。
「本気の抵抗はうざいけど、ささやかな抵抗はあった方が楽しいでしょ? 怖かったって言われた方が興奮しない?」
俺は唖然とするしかなかった。
その物言いの方が、俺の機嫌をとるために発された演技なのではないかと疑った。けれど動機と行動は、両方ともが演技では理屈が成り立たない。動機が嘘なら嫌がる様は本気であるはずで、嫌がる様が演技なら動機も嘘ではあり得なくなる。……それとも彼女は即興の出まかせを言っているのだろうか? 強姦魔を追いかけてきて同棲を始めるようなイカれた女が今さら?
ネルは俺が思っているよりもさらに狂った、思っていたよりも強かな女らしい。それを知って、俺は本格的に彼女の限界を試したくなった。
服を着ながら、照れ顔のネルに向けて言う。
「そういうことをされると、ネルの嫌そうな反応は全部演技だと思うしかなくなるな」
「うんっ。そう思ってくれていいよ」
「いいかどうかはこれから確かめる」
「へ?」
まだ裸のままのネルの手を引いてベッドから降りる。ベランダの窓際まで彼女を連れていくと、外にはまだ乾いていない洗濯物と、その隙間からの青空が見えた。
クレセント錠を外し、引き戸のような窓を大きく開くと、吹き込んできた風にネルがたじろぐ。
「え、えっ……?」
「外は嫌か?」
「いや、あっ、ううん嫌じゃないけど。バレちゃわない……?」
「ネルが静かにしてればな」
そう言って俺は彼女をベランダに突き出す。
この部屋は二階にあって、落下防止の手すりは格子状ではなく壁状ではあるものの、周囲からの視線を遮るにしてはあまりにも低すぎる。ネルは咄嗟にその場にしゃがみ込んだ。
その隙に俺は、すばやく窓を閉めて鍵をかけた。
勢いよく閉じられた音に反応してネルがこちらを振り返る。擬似的な野外セックス程度のことを想定していたのか、あるいはそれすら演技なのか。素っ裸の彼女の顔には「信じられない」と書いてあった。
声がどの程度窓の向こう側へ伝わるのか分からなかったから、スマホの画面に文章を用意してネルに見せる。
『そこでオナニーしろ』
画面を見たネルは、ギュッと唇を引き結んだ。
言う通りにしなければ鍵は開かないと察したのだろう。彼女はすぐに脚をM字に開き、部屋の中へ見せつけるように自慰を始める。
……俺はそれを確認し次第、彼女に背を向ける。
ドンドンドン……とすぐに窓を叩く音がした。俺はまたスマホに文字を打ち込み、途方に暮れるように座り込んだネルへそれを見せる。
『うるさい。通報される。幸せになれない』
……その時俺は初めて、彼女の表情に絶望がにじむところを見た。
しばらく眺めていると、おろおろとベランダと部屋の中、それから俺の顔を見回したネルが、自ら脚を開いて自慰を再開する。それを確認した俺は、またしても彼女に背を向けた。そしてそのままベッドに戻って寝転がり、スマホでソシャゲのデイリークエストを消化しにかかる。
もう窓を叩く音は聞こえてこなかった。ネルは従順だ。従順でないことが、イコールで不機嫌を表すと思っているかのように。
けれどそんな彼女にも、これはさすがに効くかもしれない。ベランダに裸で放置されて見向きもされなくなることがはたして「性処理」に含まれるのかは我ながら怪しい。被害者であるネル自身も今頃は、あまりの仕打ちにグツグツと怒りを積もらせているのではないか。そのようにして彼女は、自分が口にしている内容と自分の思い描いていることが一致していないことを実感するのではないか。
俺が再び窓の外に目を向けるまでの間に、間違いなく三十分以上の時が経過した。窓を叩く音は一度も鳴らなかった。すすり泣く声が聞こえてこないことが、ガラスの防音性によることなのかどうかは、いざ目を向けて見るまでは分からなかった。
……いざベランダの方を見てみると、ネルは汚れた地面に長い黒髪をぶちまけるようにして、ミイラのような格好で腕を折りたたみ、長すぎた足を三角に折り曲げて、なんと昼寝をしていた。近づいて見てみると口元から涎が垂れていて、おそらくは本当に眠っていることが察せられる。
鍵を外し窓を開けて、彼女の肩をゆさぶる。
「おい、起きろ」
「んあっ、ごめん」
ネルの眠りは野生の動物のように浅かった。すぐにはっきりとした意識で目覚めて、大きなあくびをしたあとに口元を手でぬぐう。
「……どんな気分だった?」
「ん? ひ、寂しかった」
「今、暇って言おうとした?」
「非常に寂しかったって言おうとした」
全裸でベランダに放り出した女と漫才をすることになるとは思わなかった。
砂埃を落としてから部屋の中に戻ったネルは服を着ながら、何でもない雑談の一環のような口ぶりで言う。
「裸で追い出されるのは、遥逢くんにもされたことなかったな」
「俺は遥逢じゃないからな」
「分かってるよぉ」
そして彼女は、暇を持て余す昼下がりの主婦のように、テレビのリモコンに手を伸ばす。映ったお昼の情報番組では、この世に虐待を受けている人間など一人もいないというような明るさで、地方の激安スーパーを紹介するロケが展開されていた。
ネルはベッドに腰かけて、焚き火を眺めるみたいにそれを視聴し始める。俺もその隣に座った。
それから、どうにかして言葉を絞り出し、俺は言い訳を始める。サキュバスであるネルは気づいているだろうから。あれだけの仕打ちを強いられたにも関わらず、俺の性欲が凪のように静まり返っていることを。
「ネルの限界を試したかった」
「限界?」
テレビの方を向いたままの俺の視界の片隅で、ネルがこちらを振り向いたのが分かった。
「強姦されても平気な女が、何をされても平気とは限らない。ネルはなんでもドンと来いって雰囲気を出すけど、実際になんでも平気だとは限らない。……だから限界を知りたかった」
「どうして?」
顔を見なくても、声だけでキョトンとした様子が伝わってくる。
「平気じゃなかったら、透斗くんは何か困るの?」
「家政婦と性奴隷を同時に失う」
「失わないよ。約束したでしょ」
「約束には「機嫌よく」があるだろ。そこを守れなくなった奴は、他も守れなくなる」
「……なるほど」
一理あるな、と思ってくれたらしい。ネルはそれ以上反論してこなかった。
けれど彼女は、こうも付け足す。
「それで、私の限界を試す方法は、他にはどんな物があるの?」
「…………特に思いついてない」
「なら、大丈夫だね」
その一言で会話は締めくくられた。
俺は頑なにテレビだけを見ていた。いろいろな物から目を逸らすために。罪悪感や、ネルの中にある不可解さ、不気味さ。彼女に頼らないことを選ぶことはできない、自分の甘えだとか。本当にいろいろな物から目を逸らすために。
声音から察して、ネルはきっと笑っていた。彼女はいつでも機嫌がいい。昼寝している姿だって、首から上だけを見ればとても心地よさそうだった。
だけど俺にはなぜだか、この生活が長く続くとは思えなかった。俺は遥逢ではないのに、遥逢と似た結末を迎えてしまうような気がした。
ある日曜日のことだった。
その日は午後一番にネルが出かけていった。それまでの午前中は、いつもと何ら変わらない日々が過ぎていた。
けれど午後になってから、俺は家で一人で居るうちに、ある悲劇に遭遇してしまった。
テレビが壊れたのだ。何をどうしても、画面が暗闇しか映さなくなった。音は通常通りに出るけれど画面に何も映らない。地上波をそのまま見ようとしても録画した番組を見ようとしても、テレビ本体や繋がれたレコーダーの再起動を試してみたり、配線を繋ぎ直してみてもダメだった。ネットで解決法を探してみても、出てきた策はすべて効果を成さなかった。
家電類の寿命は早ければ五年程度だとどこかで聞いたことがある気がする。俺が一人暮らしを初めてからはちょうどそのくらいの期間が経っていた。一応は新品で買ったとはいえ、元々大いに値段をケチって選んだ物だ。五年と少しで寿命が来たのだと言われれば、まぁ納得せざるを得なかった。
これが正真正銘に天涯孤独の状況であれば、俺は痛い出費とライフワークとの急な二択に直面して取り乱していたかもしれない。しかし実際のところは、幸いにもネルの存在がある。俺には彼女の魔法がある。換えのテレビを望めば、それはその場で手に入るだろう。帰宅した彼女に頼むだけで無料かつ迅速に命拾いができる。
テレビは生活の一部と化している物とはいえ、片時も手放せないわけではない。スマホさえあれば、長くとも六時間で帰るネルを待つには十分な精神的余裕が確保できる。それにネルはなんやかんやと今までに、時間ギリギリまで出かけるようなことはなかった。彼女との生活を初めてから二週間が経ったか、あるいはそれ以上が経っているように思う。俺は、ネルがいつまでも自分の傍にいるとは漠然と思えない一方で、まさか来たる「終わり」が今日になるだろうとも思っていなかった。
歯車が狂い始めたのは、彼女の帰宅が外出から五時間と五十五分経った頃になったせいだと言っては、いくらなんでも責任転嫁が過ぎるだろうか。
夕方に帰ったネルは、玄関で開口一番に叫んだ。
「ねぇ今日めっちゃ面白いもの撮れたんだけど!」
その顔は赤く、近づけば酒のにおいがした。
ネルが撮れたという「面白いもの」は、ラブホテルの一室で複数人の男に囲まれた彼女が、全員から順々に嘔吐を伴うイラマチオを強いられている映像だった。スマホを取り出して「透斗くん汚い系平気だよね?」と呂律の怪しい様子で言いながら、ネルはそれをすこぶる上機嫌に見せつけてきた。
仰向けにされてベッドの端から頭だけを下げ、顔から髪の根元まで余すことなく吐瀉物まみれにされたネルの姿が、手のひらサイズの画面の中に見える。そこでの彼女はしきりに「聞いてない。聞いてない」と繰り返していたけれど、男たちはその言葉を無視して彼女の鼻をつまみ、無理やり口を開けさせては拷問を強いていた。
上着も脱がないまま玄関で動画を立ち見しながら、酒くさいネルが隣で得意げに語る。
いわく、今日会う予定は一人だけだったこと。ハードなプレイをする予定はなかったこと。元々親交のあった相手だから信用していたこと。休日であることも相まって、羽振りのいい相手と昼間から居酒屋に行って飲み食いしたこと。そして酔っ払って機嫌よくホテルに入ってみれば、知らない男複数人が待ち構えていたこと。
「見てこれ、ほら、何も知らずにいっぱい食べるネルちゃん」
ネルのスマホの動画フォルダにはいくつものサムネが羅列されていた。そのうちの一つがタップされると、唐揚げを丸々一個頬張ったかと思えば、一息にチューハイのグラス半分以上を飲み干すネルの姿が映っていた。すでに酔いが回っているようで、顔は今と同じくらいに赤く、軽薄な男の声で聞こえる「ネルちゃん飲みすぎじゃね?」という声に「大丈夫だよ〜奢りでしょ?」と爆笑しながら答えていた。
元々、ネルが別の男とセックスをしに出かけた際、そのハメ撮りを持ち帰ること自体は珍しくない。面白いプレイに遭遇すれば彼女はそれを撮影し持ち帰る。頼んでもいないのになぜそうするのかと問うた日には、「マンネリ化対策」という答えが返ってきた。要するに彼女はこう言っているわけだ。「透斗くんもこれと同じことをしていいよ」。
俺はネルのことを少しばかり知ったつもりでいる。彼女はきっと本当に騙されたのだろう。けれど、トマネル・ナザレアという不死身の女は、騙されたショックで頭が真っ白になるような初心な人物でもなければ、か弱い人間でもない。抵抗しようと思えば出来たはずで、逃げようと思えば逃げられたはずだ。たとえ部屋の鍵を外からかけられたとしても、扉ごとそれを壊せるのがサキュバスという生き物なのだから。
なのに彼女は、おとなしく拷問じみたプレイに晒されることを選んだ。「聞いてない」と叫んでいるのは真実の表明であると同時に、場を盛り上げるための演技でもある。満腹と泥酔を突かれて嘔吐しているのもわざとだ。ネルはそれを楽しんでいる。だからその動画を俺に見せた理由に、傷心やSOSの意味合いは全く含まれていない。
動画の中で、居酒屋の時と同じ声の男が「ネルちゃんこういうの好きでしょ」と看破していた。俺はその男が悪意をもってネルを騙したのかどうかすら怪しいと考えている。いや正確には、悪意は確かにあったのかもしれないが、それと同時に純粋なサプライズでもあったのではないだろうか。ネルが本気で傷つくはずがないと、顔も名前も知らぬ男だって、俺と同じことを考えていたのではないか。凄惨な映像を見ていても、そう思う。
いくつもあるサムネイルのうちの後半の方で、ネルはボロボロになった姿で床に正座しながら泣いていた。彼女の前には五〜六個のコンビニ弁当と十数本の酒缶が置かれていて、「全部食べないと帰れないよ」という声が画面外から聞こえる。最終的には男の集団によって力ずくでそれらの一部がネルの口に押し込まれては、同じプレイで再び吐かされることの繰り返しだった。
そんな客観的に見れば地獄としか言いようがない体験を経て、今彼女は、俺の隣でへらへらと笑っている。どう、すごいでしょ? と。
……俺は、テレビが壊れたことを言い出せなかった。魔法で新品を出してほしいと頼むことができなかった。ネルが傷ついていないことを分かっていてもなお、上機嫌の本人にその映像を見せられて、「こんなものはどうでもいいんだ」とばかりに別の話へ移ることはできなかった。その話をするのはべつに今すぐでなくても、あと数十分後や数時間後であっても全然構わないと判断して、五時間近く待ち望んでいたはずの喉までせり上がった頼み事を飲み込んでしまった。
それがよくなかったのだと思う。自分の大切な物が壊れたのなら、そのことを出来るだけすぐに話すべきだったのだと思う。
痛みを緩和することや怪我を治すことと同じで、サキュバスは魔力を用いればアルコールにも強くなる。ネルが酔っ払っているのはわざとだった。ひとしきり今日の出来事を語り終えて満足した彼女はスッと素面に戻り、じゃあお夕飯作るね、と台所に立つ。
しばらくしたのち食卓の上では、魔法で生み出されたカセットコンロに、魔法で生み出された土鍋が乗せられていた。中には肉や魚や野菜といった、これもまた魔法で生み出された具材が出汁に浸かりぎっしり詰まっている。つまり今晩は鍋にしようという段取りだった。すでに具材は茹で上がっていて、カセットコンロはそれを冷まさないためにある。
取り皿、箸、プラスチックのコップ、ペットボトルの麦茶を用意して、いただきますと二人で手を合わせる。俺はまだテレビが壊れた件を話せていなかった。新品を魔法で取り出せたところで、配線の繋ぎ直し等の作業は人力で行うことになる。料理の手を止めさせてまで話しても意味がないと思ってのことだった。
その作業は、食後に行えばいい。ということはタイミングを失わないように、テレビの件を話すのは今がベストだ。そう考えて、俺は空の取り皿の前で箸も持たずに口を開きかける。……その時だった。
片手に箸を持ったネルがよいしょと膝を浮かせ、もう片方の手でテレビのリモコンを取った。鍋を皿によそうよりも先に、彼女はテレビの電源を点けたのである。
当然、映るのはただの暗闇。聴き慣れたCMソングとナレーションが聞こえてくるにも関わらず、画面は一向に何も映さない。
あれ? とネルがリモコンを何度もいじる。ザッピングしていることや録画済み番組の欄に行こうとしていることが音だけで分かった。昼間に俺が辿ったルートと同じことを、無駄だと俺には分かりきっていることを、彼女はしきりに試し続けている。
そして彼女はその末に、俺の顔を見ることなく、暗闇の液晶に向かってこう言った。
「え、うそ。壊れた……?」
その台詞を聞いた瞬間。
鍋の熱気にあてられて、俺の中で何かがプツンと切れた。
それはきっと堪忍袋の緒だった。俺はずっと、ずっと我慢していたのだ。
気づいた時には、手元にあった麦茶入りのコップをネルの頭に投げつけていた。「きゃっ」と悲鳴が上がって、驚いた顔の彼女がこちらを見る。髪も顔も、ひっくり返ったコップの中身に濡れていた。
……そこから先のことを、俺は正確には覚えていない。
立ち上がった自分が見下ろした先に、「え、なになに……? えっ……?」と、困惑と恐怖に震える声のネルが居たことは覚えている。彼女の髪を引っ掴んだことと、部屋に響いた悲鳴と、自分が何か大声を出したことも覚えている。
それ以外のことは何も覚えていなかった。自分が何を言ったのか。おそらく暴力を振るったのであろうが、具体的にどんな暴力を振るったのか。ネルが具体的にどんな反応を見せていたのか。どれくらいの時間そうしていて、何をきっかけに我に返ったのか。俺は何も覚えていない。
我に返った時には、嵐が通ったかのように部屋が荒れていた。鍋がひっくり返って中身は床にぶちまけられ、テレビのリモコンからは電池やそれを押さえる蓋、小さなネジや折れて壊れた部品が飛び散っていた。きっと力任せに床にでも叩きつけられて破損したのだと思う。
だけど一番重大なのは、ネルの姿だった。彼女は長い黒髪を乱れさせ、いつも家着にしているジャージは胸元のファスナーが壊れていた。服はそこかしこが濡れ、手の甲など肌の一部が血肉のように真っ赤に腫れて、頬の片方には青黒いアザが大きく浮いている。唇も切れて、鼻から流れている血はまだ完全には止まっていない。
床の上には血痕もあった。女の長い髪も不自然な量がちぎれて落ちていた。ネルは尻もちをついた姿勢で肩で息をしながら、人喰いの化け物を見るような目でこちらを見ている。
具体的には何も覚えていないけれど、彼女に暴力を振るったことだけは覚えている。悲鳴が上がっていたような気がする。やめてと言われたような気もする。でも俺はそれらの全てを、頭のどこかで「でもネルが言うことだから」と捉えていた。騙されて複数人の男から延々と嘔吐を強いられてもへらへらしているような女のことだから、悲鳴も命乞いも、話半分に聞いておけば大丈夫なのだと。
真っ暗な画面のテレビから、親孝行をしようというニュアンスのCMの音声だけが聞こえてくる。俺は膝立ちの状態で、自分自身もネルと同じように肩で息をしていることを自覚した。
なぜ? と自問しても上手く答えられないけれど。ただ、つまりは、カッとしたのだ。カチンときたのだ。今日帰宅してからのネルの行動の全てが、あの一瞬のタイミングの俺には許せなかった。
強姦された時のネルも今と同じ顔をしていたのだろうか。そういえば俺は、それも覚えていない。
「…………ごめん」
罪に釣り合わない、存在しないにも等しい、ヘドロにまぶした塵のような謝罪が口をついて出た。
その瞬間に、暖かいものに体を包み込まれる。やわらかな感触が体の前面に密着して、細い腕が二本、崖下への落下を食い止めるかのように必死に背中に回る。
荒い呼吸が耳元で聞こえる。俺はネルに抱きしめられていた。
「大丈夫っ。大丈夫だからね。透斗くん悪くないから。大丈夫だからね……」
そうであってくれなければ困るのだという風に、お互いに向かって言い聞かせているかのように、ネルはそれから何度も「大丈夫、大丈夫」と繰り返してくれた。
我も忘れてネルに暴力を振るったはずなのに。それは洒落にならないほどひどい物であったはずなのに。強姦を許してくれた相手は、これも許してくれるというのだろうか。……そんなことがあってもいいのだろうか?
脳裏には、仏の顔も三度までという言葉が浮かぶ。俺は自分の罪の数を覚えていない。
ネルは潜在的に俺を許していないのではないか。いつか何かの拍子に、本当は一回目から腸が煮えくり返っていたのだと明かしながら、彼女の忍耐もプツリと切れるのではないか。抱きしめられて背中をさすられながら、俺は何の返事もできずにそんなことを考える。
けれど、もっとよく考えてみれば、ネルは仏ではないということを思い出す。ネルは怪物なのだ。俺は少なからず彼女のことを知った気になっている。突然の暴力に怯えた目をした理由も、それなのに次の瞬間には俺を許してくれた理由も、分かったような気がしてしまう。
一晩中の奉仕を強いた時、彼女は見るからに憔悴していた。けれど蓋を開けてみればその憔悴は、体力的な物でもなければ尊厳についた傷から来るものでもなく、ただ俺との関係性に支障が出ることを不安に思ってのものだった。
なら数秒前に見たネルの怯えた顔も、暴力に怯えていたわけではないのではないか。彼女は俺との関係性が決裂することに怯えていたのではないか。俺には、何も悪いことをしていない彼女が突然理不尽な暴力を振るわれた上で、混乱に飲まれることなく瞬時にその不安にたどり着いた理由までを察せられる気がする。
もしかすると遥逢との決別は、今の俺と同じようなシチュエーションで起こったことなのではないか。ネルは、デジャブに怯えていたのではないか。だから必死に俺のことを抱きしめて、俺に都合のいいことを言っているのではないか。
そうだとすれば、仏の顔は三度でも、怪物の優しさはその数倍程度の回数ではきっと尽きないはず。……俺はまだネルとやり直すことができるはず。
頭で考える分には、そうなのだけれど。
「……なんで俺がキレたと思う?」
吹っ切れたあとの、更地に立つような己の思考を見渡しながら、俺は恥を知らない質問をする。
ネルの返事は、途端に怯えを取り戻して震えた。
「わ、わかん、分かんない……」
彼女は、再び殴られる可能性に怯えているわけではない。きっとそうではない。ただ、おそらく彼女は同じように「分からない」という理由で、遠ざかる遥逢の手を掴み損ねたのだ。
しかし、もしも彼女が「相手のことをもっと理解していれば違う未来があったはず」と考えているなら、その見立ては正しくない。俺は一つ一つ、あてにならない記憶を辿っていくような気で答える。
「テレビが壊れたことには、ネルが出かけたあとすぐに気づいた。帰ってきたら魔法で新品を出してもらおうと思った。でも、いざ帰ってきたネルは、なんだかそういう話をする雰囲気じゃなかった。俺は、あとでもいいかと思った」
「……うん」
「そしたらネルが飯の時に、俺が切り出すよりも先にテレビが壊れていることに気づいた。今初めて、自分で気づいたかのように驚いてた。というか実際その通りなのは分かる。でも俺はそれが許せなかった。ずっと話すタイミングを伺ってたのに、主導権を奪われた気がして、自分の配慮を無下にされた気がして」
「ご、ごめんっ。ごめんね……? 知らなかった、気づけなかった。ごめんなさい私が悪い」
「いや、ネルは悪くないよ」
俺の腕はだらりとぶら下がったまま、ネルを抱きしめ返せずにいる。俺が抱きしめてやれば、彼女は安心してくれるのだろうか。
ネルの怪我はすべて、今すぐにでも治るだろう。壊れたテレビは新品に替えられる。ぶちまけた鍋だってそうだ、片付けをする必要すらない。魔法で出たものは願えば消え、願えば現れる。……火傷をするくらいなら俺がキレ始めた瞬間にでも消せばよかったのに。
ネルの心さえ無敵の怪物のままであってくれれば、この場に取り返しがつかない物など一つもない。不審に思った近所の住人に通報されていたとしても、何一つ証拠が残らずネルが俺の味方をしてくれるのなら、大事にはなりようがない。嵐の過ぎた部屋の中で、あらゆる物が、まだやり直せる可能性を示している。
なのにどうしてこうも、俺一人だけが、芯から腐っていてどうしようもないのだろう。何に怯えているわけでもないはずなのに、続く自分の言葉は被害者以上に震えていた。
「だってさ……。だって、そんなことでキレるなんて、意味分かんないだろ。そうなんだよ、壊れたんだよ、新品出してくれ、でいいだろ。なんでキレるんだよそこで。意味分かんねぇよ。全然分かんねぇだろそんなの。自分でも分かんねぇよ……」
身勝手にも、泣きたい気持ちにはなったけれど。神様が許さなかったからか、涙は出なかった。
完成した状態の料理を魔法で出せるという話は、当たり前だけど本当だった。全ての怪我を治したネルは、部屋の片付けを終えたあと、まだ一口も食べていなかった鍋を、時を巻き戻すかのように再度出現させた。
俺たちがそれを食べ始めたのは、新しいテレビの配線作業を終えたあとのことだった。安物の折りたたみ式の椅子の上に、以前とまったく同じ型のテレビが乗せられる。これまた新品になったリモコンを持って、ネルは「点けていい?」と子どものように輝く目をして言った。
液晶の中に黒以外の色が戻った。「よかった」という声を二人して歓声のように上げて、録画された番組のリストを開く。暗中模索の痕跡として、まだちゃんと見ていないいくつもの番組からNEWの文字が消えていた。
いただきます、と手を合わせる。強姦に手を染めたあとでもテレビを見れば笑えたみたいに、一線を超えたDVに手を染めたあとでも鍋は旨くて、熱かった。
その日の夜は、珍しくネルの方からセックスを迫ってきた。俺はそれに応じる途中で、今自分のしていることがいわゆる「仲直りのエッチ」であることに気づく。が、それに気づいた時にはすでに、ネルの首を絞めている最中だった。
力をゆるめて、苦しいか? と聞くと、苦しいの好きと返ってくる。痛いのは好きか? と聞くと、痛いのも好きと返ってくる。突然されるのは怖いか? と聞くと、怖いのも好きと返ってくる。ご機嫌取りのようでいて、全てが嘘とも断じきれない言葉の数々。どこまでそれに甘えていいのかは、破綻してみるまで分からない。
サキュバスは望まない妊娠を絶対にしない。意思その物によって確実な避妊を行える。だから俺はこれまでと同じように、その日もネルの中で好きに果てた。そして余韻に浸る中で、唐突に自分自身のことを理解した。自分がキレた理由が、今さら分かったのだ。
テレビは俺の生活になくてはならないものだった。たとえ新品の入手が約束されていたとしても、それまでの間をスマホで十分に繋ぐことが出来たとしても、俺は嫌だったのだ。生活の一部が一時的にでも壊れるということが、それ単体でただなんとなく……ものすごく嫌だった。
俺がしたことは、単なる八つ当たりだった。ネル相手ならそれをしてもいいだろうと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
ふと、今それをネル本人に話せば、彼女はそれを「信頼」として解釈してくれる気がした。けれど彼女の解釈は極論この話に関係ない。誰がなんと言おうと、俺の内心にあった物は信頼などではなく、侮りであったはずだから。
仲直りのエッチは、行為を終えてしまえばそれで終わりというものではなかった。一人用のベッドに敷き詰められるようにして隣で寝転んだネルが、いつにも増して優しい、子どもをあやすような声で言う。
「ねぇ透斗くん。何かほしいものとか、してほしいこととかない? 私にできることなら、いつでもなんでもするよ」
「ありがとう。……でも思いつかないな」
「そっかぁ」
それきりネルは黙って、そのうち寝息を立て始める。いつもは魔法で出した布団を床に敷いて、彼女はそちらで眠るのだけれど、今日ばかりはそういう気分になれないようだった。
すぴすぴと鳴る彼女の寝息を、一時間聞いても二時間聞いても、俺は眠ることができなかった。
信用に値しない自分の記憶が、ネルにした仕打ちを今にも忘れようとしていることを感じる。出会いのきっかけが強姦だったこと、八つ当たりの暴力で大怪我を負わせたこと。そして本人がいつも笑顔であるから見逃しかけるけれど、普段からネルに事実上の奴隷扱いを強いていること。これら全てが、まるで遠い過去の笑い話であるかのように、実態を忘れ始めている。八つ当たりをしたのはつい数時間前のことなのに。俺の拳は、彼女を殴りつけた感触を覚えていない。
起きたまま夢を見ているような感覚がする。ずっとそうだ。ネルと知り合ってからの生活の全ては、この世で最も生々しく映る夢のように感じる。あるいはそこへ至るまでの俺の人生その物だってそうかもしれない。一歩一歩自分の足で歩いて、確かに現実を踏みしめてここまで来たのだという実感が、俺にはまるでない。いつの間にか終わる夏休みみたいに、いつの間にか迎える成人式みたいに、歩みの実感という物がないまま、俺は取り返しがつかないことをし続けていて、今はそれを許す怪物が、なぜか隣で眠っている。
夢といえば、両親の死もそうだった。いざいなくなってみれば、家族がいた生活というものは、振り返ることしかできない夢のような物として俺の記憶に残った。夢と過去の違いが、俺には正確には分からない。不可解な記憶の齟齬は、夢と記憶の取り違えなのではないかと思うことがある。それを否定するのは悪魔の証明だから、妙な感覚ばかりが増えていく。
……ネルは痛いのも苦しいのも怖いのも好きだと言った。では、迷惑なのはどうだろう? 草木も眠るような真夜中に、起きたまま夢を見る俺は、隣で眠るネルの体をゆさぶる。
サキュバスは魔力さえあれば不眠不休でも元気に動き回ることが出来る。クズ男どもの玩具にされ尽くしたあとの彼女なら、魔力には困っていないはずだと考えた。
そして実際、熟睡しているように見えたネルは、野生動物のように一瞬で目を覚ました。その様は、ベランダに締め出された時のそれとそっくりだった。
「どうしたの……?」
あくびをしながら問いかけられて、俺は彼女に頼み事をする。大の大人が深夜に叩き起こしてするにしては、ずいぶんと理不尽な頼み事を。
「してほしいことを思い出した」
「なぁに」
「ネルは、車の免許は持ってるか?」
「あるけど」
「よかった」
小さな安堵の息を吐き、俺は言う。
「ドライブに連れて行ってほしい。今すぐに」
シートベルトを締めるカチャッという音を聞いて、久しぶりに車に乗ったという実感が湧く。実感と実際は別物だ。それはバスでは得られない感覚だから。
どんな車がいいとかある? そう聞かれたから、俺は黒のステップワゴンがいいと答えた。父親の乗っている車がそれだったから。手ぶらの二人で乗るにしては後部座席の広さが完全に持て余されていたけれど、それで全然構わなかった。
車も、ガソリンも、それどころか道すらも、望めば魔法で手に入る。それらは全て「物」だから。窓の外に見えるビルも、月と星も、魔法が用意してくれる。それらは全て「物」だから。ネルの魔法は「物」ならなんでも用意する。
この世に実在しない物は生み出せないんだけどね、たとえば、どこでもドアとか。そう言いながらネルは、狭いアパートの一室に、存在しないはずの扉を生み出した。それが彼女の魔法の唯一の例外らしい。魔法によって生み出された実在する物同士を繋ぐなら、その方法はどこでもドア的であってもいいのだと。
扉を抜けた先は、どこかの知らない駐車場だった。そこにガソリンの減らないステップワゴンが現れて、ネルは運転席に、俺は助手席に乗り込む。行きたい場所はある? と聞かれたから、「高速道路」と答えた。ネルは少しだけ笑った。
「世界その物を作れるとは知らなかった」
しばらく走ってから、夜景というにはあまりにも近い夜の街を見ながら、俺は感嘆を口にする。そこにはガラス張りのビルが多く建っていた。
ネルの魔法の説明を聞いてすぐに、世界その物のコピーを作れるのではと発想する人はそう多くないだろう。コピー世界の高速道路は当然いくら走っても無料になる。世界の創造は、真っ当なドライブよりもずいぶんと安上がりな物だった。
「生き物は無理だから、味気ないけどね」
とネルは言う。彼女は運転手らしく常に前を見たままで、メーターを見ると速度は80km前後を維持している。
たしかに、コピーされた世界には動物どころか植物さえ存在していないようだった。長い支柱の列に支えられた道路の上から、時々垣間見える街道を見下ろすと、街路樹が並んでいるべき場所にまで歩道のタイルが敷き詰められている。きっと朝になっても鳥は飛ばず、スクランブル交差点はいつまでも無人のままなのだろう。
俺は、今走っている場所が東京であることを知っている。この先にそろそろ川が見下ろせることまで知っている。けれども、ここが具体的に何という地名の場所なのかまでは知らない。ついぞ知る必要がなかったのだ。東京は俺にとって、単なる通り道の一部にしか過ぎなかったから。
「両親の実家が大阪にあったんだ」
助手席に座っていると、無理を聞いてもらっている立場として、何かしら話さなくてはならないような気がしてくる。それが今の俺にはちょうどいい。
「新幹線代が高すぎるからって、毎年の盆と正月には車で帰省してた。この道はその時に通った覚えがある」
「えぇ、東京大阪間を? 年二回も車で?」
「そう」
「人間にはしんどいでしょ」
「あぁ。俺にも、父がなぜそれをやりおおせたのか分からない」
サキュバスと違って、人間は何をどうしても不眠不休では働けない。その上人間には深刻に進行する老いがある。道中のサービスエリアで仮眠を取ったところで、計画の段階からして難があることは明らかであるはずだった。……けれど父はその生活を、祖父母が亡くなるその年までやりおおせたのである。
夜のドライブとは、俺にとって帰省の象徴だった。高速道路の上を走るとなればなおさらで、俺は今ネルに頼むことで、過去をなぞっている。突然そうしたくなったから。
過去をなぞれば、夢と記憶の区別が完璧につけられるようになるのだろうか。正直、そこに期待はしていない。ただ俺は、壊れたテレビを買い換えるように、自分の一部と化した何かを取り戻したかったのだ。
東京のおそらく中心付近であろう場所に建つ高いビルは、身をかがめなければ、車内からでは頂点を見上げることすら叶わない。それらの幅広で煌びやかな塔は確実に、地上14階の高さを超えている。
……俺は、過去に破らなかった沈黙を今破ることにした。
「ドライブの最中、父とはほとんど話をしなかった」
「長すぎるもんね、旅が」
「あぁ。でも俺は昔から不登校だったから、将来を心配した父が時々、話し合いの機会を設けてくれたんだ。いくつかある人生の節目に、二人で釣りへ行ったりしてな。これから先どうするんだ、みたいな話をするんだよ」
「へぇ。いいお父さんだったんだね」
「さぁ、どうだろう。俺はそこでも大したことを話さなかった。俺が大したことを話さなくても、父は息子が不登校だっていうだけでいっぱいいっぱいの様子でなぁ。そんな手一杯の相手に、より深いところを話そうとする人なんてどこにもいないんだよ。たぶん」
「なるほど。まぁお父さんにも、親だからこそっていうのがあったんだろうね。たぶん」
ネルの相槌には、適当な物言いをしているようで、どことなく自負が漂っていた。自分は手一杯ではないと。親ではないからこそ、余裕たっぷりな自分には何を話してくれても構わないのだ……と、そんな自負が。
実際、だから俺は彼女を叩き起こして運転を頼んだのだと思う。夜中に人を叩き起こして「俺をドライブに連れて行け」とせがんだのは、物心つくかつかないかギリギリなほど昔の、文字通り右も左も分からないようなガキの頃以来だった。
よく父に言われたものだ。お前は夜泣きがひどかった、でもドライブに連れて行くと決まって泣き止んだ……と。つまりネルの言う通り、俺の父は良い父親だったのだと思う。良い父親は帰省を欠かしたこともなければ、事故を起こしたこともなかった。
だけど俺は、そんな父とロクに話さなかった。俺の記憶が消えているわけでなければ、本当に、重要なことは何一つとして話さなかったように思う。
「でも、おかしな話だろ。わざわざ釣りに行かなくたって、話すなら年二回も往復であるドライブ中に話せばいい。俺は助手席にいて、朝型の母は決まって後ろで寝ていたんだから。話す機会はいくらでもあった。節目といわずに毎年毎年、何時間でも」
「寝てたって、いつ起きるとも知れないからでしょ。二人きりじゃないから」
「俺はそんなこと気にしてなかった。釣りへ行こうとドライブへ行こうと、大したことを話さなかったのは俺だ」
コピーの世界の高速道路にも、形式ばかりの料金所が定期的に現れる。ETC式のそれを抜けるたびに、車は停車寸前まで減速する。どの料金所にも係員の類はいるわけがなく、何をしても咎める者は理論上存在しようがないけれど、それでも俺たちは律儀にその都度ゲートが開く一瞬を待った。
次第に視界を駆け抜けていくビルの数が減り、郊外の街並みが代わりに広がっていく。無人の世界であるにも関わらず、住宅街らしきまばらな色の小さな明かりの密集地帯や、商業施設の連なるひときわ明るい大通りを見下ろしていると、自分の知らない場所に、自分の人生と同じくらいの規模で無数の「生活」があることを思い知らされる。たとえそれが空っぽのコピーであっても、感じ方は変わらなかった。
もう少し先へ行けば、海沿いに巨大な工場地帯が現れる。夜景として一級の眺めであるそれはライトの色がオレンジで、それを見るたび俺はいつも思っていた。どこかに一つ、小さな火事が紛れ込んでいたとしても、自分はそれに気づかないだろう。そして仮に気づいたとしても、それをどうでもいいことだと思うだろう。
自分は夜景と火事の区別をつける気もない人間だから、女を強姦することだって出来てしまったのかもしれない。
「ところで、いつまで走る?」
トンネルの中を走り抜けつつ、ネルが俺に聞いた。放っておけばどこまででも行ってしまうぞ、という風に。
身勝手な俺は、その問いの答えを初めから決めていた。
「悪いけど、俺が寝落ちするまで」
「あはっ。いいよ?」
ネルの吹き出すような笑いには、不思議と軽蔑の意図が少しも感じられなかった。不死身の生物は、運転手の気も知らないで同乗者がのんきに眠ることに対して寛容なのかもしれない。
帰省の道のりで、俺が寝落ちしなかった試しはない。だからこそ、父が毎度の道のりを無事故で走りきることが信じられなかった。運転手は集中と緊張で眠くならないものだからと言われればそれまでだけれど、そんな理由で人がいつまで起きていられるなら、あんなに高い頻度で事故渋滞は起こらないだろう。
父と自分の間には、おそらく決定的に体力の差があった。そしてその差が、お互いの人生にどういう影響をもたらす物だったのか。俺は未だに認識出来ていない。誤差程度の影響だったとは、とても思えないのに。
父が、家族が運転手を残して眠ることに苦言を呈したことは、ただの一度もなかった。しかしだからといって、それが俺の意気地の無さを拭うわけではない。俺は未だに車の免許を取得していない。
自分の手に余る馬力で走る物を、自分の手で動かすことが怖いから。ついでに勉強も嫌いで、理不尽だと語り草の教習所の筆記テストを、笑い話としか捉えていない経験者たちの能天気な性格も嫌いだ。父に運転で楽をさせてやりたいと心から思えたことは、一度もなかった。
「あのさ、透斗くん。答えたくなかったら全然いいんだけど」
他に走っている車は一台もない無人の道路を駆け抜けながら、ネルは言う。
「私たちが出会った日。透斗くんはなんであんな時間に、あんな場所にいたの?」
それは、俺としばらく暮らしを共にした彼女なら当然抱くだろう疑問だった。俺は引きこもりで、必要に駆られなければ外になど出ないのだから。
自宅から数駅離れた場所にある、商業地区とは離れた区画。引きこもりがそんな場所に行く理由などおよそ思いつかない。ネルの疑問はもっともで、俺はまるで癖のように、ひとまずはこう答える。
「帰り道だったんだよ。べつに、団地や雑木林に用があったわけじゃない」
「何の帰り道?」
すかさず聞かれる。父親が生きていた頃の俺なら、すでに当たり障りのない嘘……いや、嘘とまではいかないが核心的ではない内容の答えを考えていただろう。
ちょうどその頃、窓の外には例の工場地帯が見えた。一つの街のようであるそれが、今日もオレンジ色の光の海の中にある。いくつか建った煙突からは白い煙が昇っている。
俺は、ネルの自負に乗ってみることにした。
「14階建以上の建物を探してた。誰でも入れるようなやつを」
「へぇ。なんでまたそんな、謎にピンポイントな物を」
「飛び降り自殺の生存例は13階までだとネットで見たことがあるんだ。ソースを出せと言われても、今となっては見つけられないが」
「…………そうなの?」
車内の空気が、明らかに変わった。
子どもの頃、帰省の道中で。父と母が何か重要な書類を持ち帰る予定だったのだけれど、それを車に積んだかどうかの記憶がはっきりしなくなるという事態に陥ったことがある。さっきまで平和な雑談をしていた両親が突然深刻そうな声で焦り始めて、車内の雰囲気が、まるでホラー映画の見せ場の直前のように急激に冷えだしたことを、トラウマのようによく覚えている。両親が焦り始めた頃にはもう静岡まで来ていたのだ。
結局、幸いにも書類はちゃんと積まれていた。子どもの頃の俺はトラウマを植え付けられた苛立ちと共に、そんなに大事な物ならチェックリストを作るだとか、もっとまともな方法で管理してくれよと憤った覚えがある。……近い将来の自分が、激しくなる一方の物忘れと記憶の齟齬に苛まれることになるだなんて、想像もしていなかった。
ネルは今、俺のそんなトラウマを掘り返した。
俺たち二人の乗った車は、大きな橋を渡って海を超える。きっと父と話していた時も、俺は今のようになることを恐れていたのだ。
けれどもう、一度踏みきったものは止められなかった。
「そう。でも探してみると、誰でも入れる14階建以上の建物は意外とない。オートロックのマンションだったり、企業のビルだったりしてな。それで結局諦めて帰ったんだよ。……その道すがらにたまたまネルがいて、襲えそうだと思ったから襲った」
「初犯だった?」
「……だったら?」
「いや、そうだろうなと思ったけど。襲えそうとか分かるんだなって」
「……まぁ襲えなくても、逃げられさえすればよかったのかもな」
人が性犯罪に手を染める理由の最後の一歩は性欲ではない。俺はあの時、必ずしも強姦を成功させる必要はなかった。
ネルは常に両手でしっかりとハンドルを握っている。時々片手になる父とは対照的だった。それに彼女は父と違って煙草を吸わない。だから運転席の窓が開けられることも、そこから冷たい風が吹き込むこともない。……それに母は運転ができなかったから、女性がハンドルを握るところを助手席から眺めたのは、案外これが初めてだったかもしれない。
「飲み物もらえるか」
「はい」
俺が頼むと、ネルはハンドルから片手を離して、虚空から現れたペットボトル飲料を手渡してくれる。ちらりとそのラベルを見た彼女が、一瞬なんともいえない表情をした。初めて見る物だったのかもしれない。
俺が望んだ物はココナッツウォーターだった。すでに販売は終了した物だけれど、ネルの魔法にそれは関係ないらしい。
キリリと未開封品の開く音を立てながら蓋を開けて一口飲むと、懐かしい味がした。父と釣りに行った時もこれを飲んでいたのだ。
「透斗くんさ」
少し沈んだ声のネルが言う。
「なんで死にたいの?」
それはまた、この上なくはぐらかしたくなるような問いだった。
不登校時代の俺に、父は聞いた。なぜ学校に行きたくないのかと。学校の何がそんなに嫌なのかと。クラスに嫌な奴がいるのか、勉強についていけないのか、運動が苦手なのか、集団生活が苦手なのか。早口ではなくとも、手当り次第に聞かれた。
俺はそれを今でも恨んでいる。初めてそれを聞かれた時、俺は小学生だった。小学生に自分の気持ちが上手く言語化できるはずがない。それも不登校に至るような複雑な物はまず無理だ。
父は、俺の中に複雑な物があるとは考えなかったのだろうか。父は、その「なぜ?」を自分で考えてみなかったのだろうか。自分こそが、必死になって考えるべきだとは思わなかったのだろうか。
……いや、さすがに俺も今では分かっている。必死になって考えた上でなお分からなかったからこそ、本人に聞く他になくなったのだろう。なぜ学校に行きたくなかったのか? 俺は、今でもその明確な答えを見つけられていない。
けれど俺は、八つ当たりだけは上手くなってしまった。そしてネルはそれを許してくれる。……おそらくは許してくれるはず。そう見込んだ。だから、ここで答えをはぐらかしては、何のために彼女をドライブへ駆り出したのかが分からなくなる。
俺は過去をなぞる。失った物を……あるいは拾い損ねた物を、取り戻すために。
「見てりゃ分かるだろ。親の遺産はそんなに多くない。それが尽きたあとの俺はどうすればいい? 死ぬしかない」
「じゃあ今は、考えが変わったってこと?」
「なぜ?」
「お金が必要なら、私が貢いであげる。貯金もあるし、働くのも嫌いじゃないし。魔法でだいぶ節約もできるから」
「できると思うか? 俺が老衰で死ぬまで、それをずっと」
「できるでしょ。透斗くんは私のできるところしか見てないはず」
「……まぁネルは無敵だから、そうだろうけど」
ホルダーに立てかけておいたココナッツウォーターを再び飲む。喉が渇いていたわけじゃなかったけれど、それはたとえば父の煙草のように、今の俺には必要な物だった。
父は俺と話し合いをする時にも煙草を吸う。彼が束の間の禁煙をするのは、半径数メートルを禁煙スペースに囲まれてどうしようもなくなった時か、人混みの中にいる時だけだった。説教をする時だって、常に煙草の煙が
「ネルは無敵でも、俺の方が無敵じゃない」
「透斗くんはいいんだよ、そのままで。私が合わせるから」
「無理だよ」
「どうして? 出来てるでしょ、ずっと」
「でもいつか無理になる」
「ならないよ」
「ネルじゃなくて俺がなるんだよ。見てればなんとなく分かるだろ?」
「…………」
ネルはずっとハンドルを両手で握り、前方を見続けている。彼女の運転が下手だとは少しも思わなかった。余裕がないとも思わない。だけど彼女はそれでも、一瞬たりとも俺の顔を見ずにいる。
この場の表情は、俺だけが盗み見ることができる物だった。ネルは、僅かに苦々しい顔をする。
「……ごめん、分かんない」
「なんでだ? ネルは、俺にレイプされただろ。DVも受けた。当然のように毎日働かされて、玩具にされて、ご機嫌取りまでさせられてる」
「それは全然平気だよ。楽しいし」
「そっちが楽しくても、そういうことをする男っていうのはクズなんだよ」
「それでもいい」
「いや良くない。そういうのは必ずどこかで破綻する」
「どうして? 私たち二人だけのことなんだから、誰も文句は言わない、邪魔しない。寿命が続く限りずっと続けられるよ」
「……理論上はそうなんだけどな。現実がそうだとは、俺には思えない」
「どうして思えないの」
「知らねぇよ」
なぜ? と聞かれて言葉に出来ることばかりではない。何年経っても考え続けているけれど、それでも分からないことはある。けれど理由が分からずとも、事実として俺は不登校児だった。ならば理由が分からずとも、破綻しそうなものが破綻することはあり得るだろう。
俺は、ついぞ父に突きつけられなかった現実を、ネルに八つ当たりで突きつける。
「なんでか分からないけどそうなっちまうことっていうのがあるんだよ。それは誰にも止められないし、見た感じなんとなくやばい物っていうのは実際にやばいんだ。なんで誰もそれが分からないんだ? 俺の両親は最後まで、俺が社会的に自立することを信じて死んでいったよ」
俺がそう口にした頃、車はトンネルの中にいた。そのトンネルはどこまでも長く、行けども行けども終わりが見えなかった。
数分かけてようやくその長いトンネルを抜けると、前方にはすでに次のトンネルの入口が見えている。それは人類が山を切り開いた叡智の結晶だけれども、俺はどうにもそういう道のことを好きになれずにいる。中のライトのチカチカする感じが苦手だからだろうか。
黙ってしまったネルに向かって、今度はこちらから話を振る。
「そっちこそ、あの時あそこで何してたんだ」
「え……?」
「あんな時間に、コンビニにでも行こうとしてたのか?」
「……ううん。私は、犬のことを思い出してた」
「犬?」
「そう、ココっていうの。飼ってた柴犬。あの道が散歩コースだった」
「いつも深夜に行ってたのか」
「そうだよ」
柴犬くらいの中型犬で、何かあった時に飼い主を守りきれるものだろうか……と一瞬考えたけれど、もしネルがあの時犬を連れていれば、それがチワワであろうと俺は素通りしただろうし、何よりネルはそもそも無敵のサキュバスだった。
一人で散歩コースを歩き、犬のことを思い出す。……ということは、そのココという犬を飼っていたというのは、ずいぶんと昔の話なのだろう。それとも俺は、家族を失った直後の、傷心の真っ只中だった女を襲ったのだろうか。
答え合わせは、続く会話の先にある。
「遥逢くんも私と同じで動物好きだった。彼とはココの写真や動画を上げてたSNSで知り合ったの」
「へぇ。じゃあ、遥逢も動物を飼ってたのか」
「ううん、そういうわけじゃなかった。動物は好きだけど、飼うのは自分には荷が重いって。それで遥逢くんは、近所の野良猫に餌をあげてるような人だった」
「まぁまぁダメなんじゃないかそれ」
「世間的にはね。でも猫たちからしてみれば、他の人間よりずっとありがたい存在だったんじゃないかな」
「……そういうことをした結果野良猫の数が増えて、最終的に不幸な末路をたどる子の数は増えてしまうと聞くが」
「それは、遥逢くんがいなかったら飢えて死んでたかもしれない親猫にとっては、関係ない話だよ」
「……なるほど」
ネルの理屈は、おそらく倫理的に大いに問題がある。俺はあまり動物に興味がなく、真剣に考えたこともなかったから分からないけれど。
けれどもまぁ、まさに自分が「ネルがいなければ野垂れ死んでいた人」であるのだから、その理屈を否定することも俺にはできなかった。
「まぁ、保健所の人に正式に怒られてからは、餌やりもやめちゃったんだけどね」
俺の勘違いでなければ、そう語るネルはどこか寂しそうな目をしていた。
窓の外に見える風景には緑が……もとい、夜の闇に当てられて空洞のように真っ黒く広がる山や木々が目立ち始める。この先しばらく景色は変わり映えせず、飽きと眠気が車内の人間を襲うことになるだろう。……しかし今は、ネルだけではなく俺の目までもが冴えていた。
彼女の話は続く。
「遥逢くん、言ってた。ずっと同じ場所に住んでて、保健所が怒りに来たのなんて初めてだって。きっと最近ここらへ引っ越してきた人が通報したんだって」
「ほう」
「小さな声で、吐き捨てるみたいに言ってたよ。猫に餌をやれなくなるのと、その新しく来た誰かが死ぬのと。自分には、後者の方がずっとどうでもいいのにって」
「……遥逢は危ないやつだったのか?」
「どうだろう? 私をレイプしたことと、性癖がドSだったこと以外には、大人しい子だったと思うけど」
「あ、そう……」
俺はさっき言ったばかりだ。やばそうに見えるものは、理屈をすっ飛ばして実際にやばいのだと。一方で、遥逢の人格を非難する権利が俺にはないことも、また確かなのだけれど。
猫の餌やりを非難するくらいなら死んでくれた方が助かる。……というその考えは、高速道路から見下ろした夜景と火事の区別をつける気がない俺に似ている。ある種の人間から見た「他人」とは、どこまでいってもそういう物なのかもしれない。
その手の人間から、地獄の底まで続くような害を受けてきたはずのネルは、大して感情を揺さぶられている素振りもなく、続きを語る。
「それで、ココは寿命で死んじゃって。長生きできてよかったなとは思いつつ、やっぱりちょっと寂しいから、遥逢くんに頼ろうと思ったら、今度は遥逢くんからも捨てられちゃって。それでなんとなく、散歩コースを歩いてたの。思い出に浸りたくなって」
「……で、レイプされたと」
「そう〜。だからね、透斗くんも遥逢くんも、ココが出会わせてくれたんだよ。運命だよね、こういうの」
「……運命ねぇ」
自分のせいで主人が二度も強姦されたと言われては、ココが浮かばれないにも程があるけれど。それとも犬は主人が喜んでいれば、あらゆる理屈を端に避けて自分も一緒に喜べるタイプなのだろうか。
つらいのは自分だけではない。批判されることが多いその言葉は、何はともあれどうしようもなく事実である。ネルの境遇を聞けば、それを実感せざるを得なかった。俺はやはり、傷心の女をレイプしていたのだ。
しかし、傷心でなければ彼女はあの時あの場所を歩かなかった。彼女が傷心でなければ、俺は野垂れ死ぬばかりだった。壊れたテレビは壊れっぱなしだったかもしれない。……それについてをどう考えればいいのか、俺には判断しかねる。
と、そこまで考えてふと気づいた。ネルが言う通り、遥逢と俺はそこかしこが似ている。けれど一つだけ、二人の男の間には決定的な違いがある。
遥逢は傷心の女を襲ったわけではない。遥逢は見ず知らずの女から許されたわけではない。……であるならば、俺から見える世界と遥逢から見える世界は、ネルに関する話題に限っても大きく違ったのではないか。
そう考えて初めて、初歩的な疑問がいくつも浮かんでくる。
「なぁ、素朴な疑問なんだが」
「なに?」
「なんでネルはレイプされる前に、自分から遥逢の性欲を解消しにかからなかったんだ?」
ネルの方から先手を打って迫っていれば、SMプレイに付き合わされることはあってもレイプされることはなかったはず。なぜ性に抵抗のないサキュバスである彼女は、遥逢の性欲を泳がせ続けたのか?
その答えは、同じ時を共にした者にしか分からない、なんとも繊細な物だった。
「あー。だって遥逢くん、そういうの見栄張りそうなタイプだったから」
「見栄?」
「べつにそういうことしたくて一緒にいるわけじゃないですけど、みたいな」
「……あー。そういうタイプなのか」
性欲を察知してくる相手にそんな見栄を張って何になると理屈の上では思うけれど、相手がサキュバスだと知った上で暴力に訴える男の話なのだということを思えば妙に納得できる。そして、誘えば見栄を張り、待てば殴る蹴るのレイプに至る人格だということは、やはり遥逢は擁護のしようがなくやばい男だったのだということがこれではっきりした。
が、疑問はまだある。
「ネルは遥逢と出会う前からSMとか、そういうのが好きだったのか?」
「うん、好きだったよ。でもSMのなんたるかは、遥逢くんに教えてもらって初めて理解できたと思う」
「なんたるかって?」
「Sの男の子からすると、嫌がらない相手とやっても面白くないってこと」
「……遥逢がそう言ったのか?」
「言ってないけど、態度に出てた」
「なるほど」
レイプしたことを許してもらった上でなおそういったことを態度に出さずにはいられなかったとは、なかなかに業の深さを感じる話だ。人のことを言えた立場ではないけれど……。
と、俺が内心で自戒し始めた頃。ネルが続けて言った。
「うん。遥逢くんが、毎回決まってハメ撮りをネタに脅してくるからさ。私ちょっと飽きちゃって、言ったことがあるの。絶対逃げないって約束するし、逃げなくても、動画をばら撒きたければ好きにしていいよ、怒らないよって。……そしたら遥逢くんすごい顔してて、あっ、よく分かんないけど言っちゃいけないこと言っちゃったんだ……って分かって」
「へぇ。すごい顔ってどんな」
「絶句……。って感じ」
「…………絶句か」
「うん」
「遥逢のそういう顔を見たのは、それが初めてだったのか?」
「そうだよ。だから「やべっ」て思った」
「なるほど……」
そこまで聞くと、話の印象が大きく変わった。
おそらく俺も、初めてアパートの自室の前でネルの顔を見た時は「絶句」の顔をしていただろう。けれどネルは、ハメ撮りのばら撒きを許可した時に初めてその表情を見たのだという。……つまり遥逢のレイプを許したその時には、絶句の表情を見てはいなかったということになる。
そうであるなら、遥逢は何に絶句したのだろう? 友達であったはずの女を何度も殴りつけレイプして、それを許された時にすら絶句しなかった男は、ハメ撮りの件ではなぜ絶句したのか……? 遥逢は、ネルの怪物ぶりにただ驚いたというわけではないのではないか。
遥逢の思考に思いを馳せると、同じ穴のムジナだからだろうか、俺は瞬く間にそれを理解できた気がした。もし自分が、レイプする前からネルと仲が良かったら。自分は何を考えていたか?
俺が遥逢の立場だったらこう考えていただろう。これまで仲良くしてきた経緯があったからこそ、ギリギリのところでレイプを許してもらえたのだと。これが赤の他人だったら一瞬で裁かれて終わりだったのだろうと。……だけど遥逢はそう考えなかった。そう考えていたら、何よりも友好度を重要視するはずだから。逃がすまいと考えるならなおさら、脅しなんて悪手を選ぶはずがない。
遥逢は自分が許された理由を友情によるものだとは考えなかった。だからこそハメ撮りによる脅しでネルを自身に縛りつけようとした。そうだとすると、その脅しがまったく通用していないことを思い知らされた瞬間の彼の心境は察するに余りある。ネルはそれを絶句と呼んだが、より正確にいうならそれは絶望だったのだろう。
遥逢は、性的嗜好としてネルに「嫌がること」を望んだわけではない。なのにネルは、未だにそのことを理解していない。その後の遥逢が嗜好としてもそれを望んだせいで話がややこしくなったのだろうか。それともネルには、本当に根本的にそれが理解できないのだろうか。
遥逢という男は擁護のしようもないクズだけれど、それでも俺は彼にその一点でのみ同情してしまった。シンパシーを感じたとすら言えるかもしれない。ネルは俺の「俺の方がいつか破綻する気がする」という漠然とした不安のことだって、まったく理解してくれないのだから。
……しかしそれはともかく、そこまで話が分かれば、残す疑問はあと一つのみになる。
「なぁ、それでこれは、答えたくなければ答えたくないでいいことなんだが」
「なになに」
「結局、遥逢と別れた理由ってなんだったんだ……? 何も教えてもらえずに一方的にって感じだったのか?」
脅してまでネルを繋ぎ止めようとしていた遥逢が彼女との関係を自ら切ったという話は、やはり何度考えても釈然としないところがある。ここまで詳しく聞き込んでみれば、俺だっていよいよそこに強い興味を持ってしまう。何せ俺は、同じ轍を踏みたくはないから。
……けれどそれを聞いた瞬間、それまで上機嫌だったネルの目にスッと影が落ちた。場の空気が深刻さに冷える感覚とはまた違った、禁句に触れてしまったようなプレッシャーが肌を刺す。
まさか、その問いがネルの唯一の逆鱗だったのだろうか。答えたくないならそれでもいいと前置きをしてもなお許されないほどの、レイプよりも遥かに重い禁忌だったのだろうか。……俺は自分の表情がみるみるうちに強ばっていくことを自覚する。
ネルはいつもより低い声で、やはり前を見たまま言った。
「一つだけ約束してくれるなら教えてあげる」
「……どんな?」
「絶対破らないって誓える?」
「聞いてみなけりゃ分からないだろ、それは」
「……そうだよね」
独りごちて、彼女は飲みかけのココナッツウォーターに手を伸ばす。一瞬だけハンドルから両手を離し、蓋を開け、一口飲む。
そういえば彼女の魔法は「他人の望んだ物」しか出すことができないのだ……ということを、俺はそれを見て思い出した。自分の望む物は、ジュース一本たりとも生み出すことができないのだと。
栄養としては全く役に立たないのに、サキュバスは付き合いで人間と同じ食事をする。ネルだっていつもそうしてきた。なのに俺は今日、彼女の分の飲み物を出すことすら考えつかなかった。
喉を潤した彼女は、簡潔に言う。
「遥逢くんは自殺したよ」
タイヤが路面を踏みにじる音が、一瞬だけ異様に大きく聞こえた気がした。
「透斗くんはしないって、約束して。それで絶対に破らないで。お願い……」
ネルの瞳に落ちていた影はいつの間にか消え失せて、かわりにその瞳は、今にも悔いがこぼれおちそうなほどに潤んでいた。
愛犬を失い、友人を失い、寂しくて彼女は深夜の散歩に出たのだという。痛い、苦しい、怖い、迷惑。それら全てをものともしない怪物にも、ただ一つだけ弱点があるということだ。ネルにとって「寂しい」は、きっと耐え難い物なのだろう。
俺は、自分の問うたことの残酷さを自覚した。なぜ遥逢がネルを見限ったのかだと? そんなこと、遥逢本人以外に分かるはずがない。残された者はただ、「自分が幸せにできなかったせいだ」と悔やむことしかできない。
遥逢は自殺した。……俺はなぜその可能性に自力で思い至ることが出来なかったのだろう。察せてもよかったはずだ。14階建を探した俺なら、気づいて然るべきだった。言われてみればこんなにしっくり来る答えは他にないというのに。
「…………努力する」
「ありがとう」
約束してという要求への、あまりにも頼りない答えを、それでもネルは受け入れてくれた。受け入れなければ俺が死んでしまうとでも思ったのかもしれない。
どんなにひどい扱いを受けたって文句を言わないこともそうだ。ネルの優しさの原動力は全てそこに結びついているのかもしれない。俺は知らぬ間に人質をとっていたのかもしれない。ネルから見れば亡き友人の生き写しである、俺自身という人質を。
……そこまで分かった上で、俺はネルに強く約束することが出来なかった。いや、きっと俺は自殺しない。直感としてそれは分かる。確信しているとすら言っていい。俺にそんな胆力はないのだから。
けれど、ものの弾みということもある。俺がネルをレイプ出来てしまったように、何かが噛み合ってしまうということはあり得る。だから強く約束することはできない。
俺はあの日、適当な女をレイプすることで、自分の逃げ道を潰そうとした。完全犯罪を企てる能などなく、罪を償う覚悟もなく、ただ逮捕されることに怯えるだけの日々に陥れば、その勢いで自殺できるかもしれないと考えた。14階建以上の建物を探すことよりも、そちらの方が望みがあると思っていた。
擁護しようがないのは俺も同じだ。そんな理由でネルをレイプした男が、どうして「絶対に自殺しない」と言い切れるだろう。俺はすでに一度、弾みで道を踏み外しているのに。
……それからしばらくの間、車内には一言の会話もない時間が流れた。ネルが時々こちらをチラと確認する様子を見て、黙っているのではなく眠っているのではないかと疑われていることを意識する。
目を閉じればきっと眠れた。けれどそうしたくなかった。鉛のような心を抱えて、俺はコピーされた世界を当てもなく運ばれていく。
沈黙の中で、自分の記憶にまつわることをずっと考えていた。14階建と自殺に関する話のソースが見つからないこと。俳優の出身が初めに調べた時とまったく違っていたこと。賞味期限の日付を勘違いするどころか表示その物が見当たらなかったこと。
自転車置き場のロックを解除するべく確認した番号を、精算機まで歩く間に忘れたこと。旨かったなぁと振り返ったウニの味が、よく考えてみれば夢の中で食べた物だったこと。たった一行程度の指示を確かに理解して「分かりました」と言った直後に、その内容の全てを忘れ去ったこと。念入りに確認したはずの場所から、無かったはずの忘れ物が発見されたこと。友達に昔の思い出を話すたびに「そんなことあったっけ」と言われること。家族の語る思い出話に「そんなことあったっけ」としか返せないことが何度もあったこと。
一つ一つは、そんなに珍しいことでもない。一発で「それはおかしい」と断言されるようなことは一つもない。勘違い、見落とし、ド忘れ、意識の違い。すべてに何かしらの自然な理由が見つけられる。……けれど俺はこの問題を、もはやそういった自然な段階にはないと捉えている。しかしなぜそう思うのかと問われれば、明確には答えられない。見ればなんとなく分かるだろう……としか言えないのだ。
あぁ、かつての帰省の道中も、同じように鬱屈とした心のまま車に揺られていたような気がする。その記憶すら、自信をもって確かだと言える物ではないけれど。
自分の人生は先細るばかりで、豊かな体験は過去にばかりある。なのにその過去を振り返る記憶力が信用に値しないとは、いったいどういうことなのか。俺は今、過去をなぞっているつもりだけれど、それは本当に出来ていることなのだろうか。本当は存在しない物を懐かしみ、本当は存在しない物を恨み、夢と夢の間を渡り歩いているに等しい行いをしている可能性はないのだろうか? 全てを忘れ、勘違いし、見落とすような男が、どうして正確に過去を振り返ることが出来るのかと疑問に思う方が、むしろ自然だろう。
「ところで透斗くん」
「おぉ?」
何の脈絡もなく突然、ネルの方から声をかけてきた。俺の過去と記憶に関する思考は、それで強制的に打ち切られる。
「この魔法で作った世界はね、私たちだけの秘密基地なの」
「……はぁ」
「あんまり多く人を入れると、どこかでいざこざが起こるでしょ? そして誰か一人がこの世界のことを嫌いになった途端に、全てが消滅する」
「あぁ。それはまぁたしかに」
「消えたら元の世界に戻るだけだから、特に危険ってわけじゃないんだけどね。それでも基本的には、秘密基地でしかないと思うの」
「なるほど」
実在する物なら何でも生み出せる……とだけ聞けば、ネルの魔法は世界をひっくり返す力を持った物に思える。けれど実際の性質はあまりにも脆く、ただ彼女とその友人が引きこもって遊ぶ程度のことにしか使えない。……そんなこじんまりとした無限のロマンを、彼女は遥逢とも楽しんでいたのだろうか。
無意識にそう考えた俺の思考を読んだかのように、ネルは続ける。
「でもね遥逢くんは、秘密基地には来なかった。彼は一度もそれを望まなかったから」
「そうなのか」
「うん。秘密基地の中に、猫はいないから」
「……なるほど」
死んでほしい他人がいないかわりに、猫もいない。雑草一本すら生えない「物だけの世界」を、遥逢は所望しなかった。
「だから透斗くんがそれを望んでくれて、ちょっと嬉しかった」
「それはよかった」
「うん。……それでね、もし嫌じゃなければ、一つお願いがあるんだけど。いいかな……?」
「どんな?」
ティーカップのマークが描かれた小さな看板が前方に見える。サービスエリアまで残り2kmの表示だった。
たった一行の願いを口にするために、ネルは少し照れた声になる。
「その……。この世界の中で、透斗くんとエッチしてみたいなって」
「……それはつまり、元の世界では出来ないような内容で?」
「そう! だってこんなに広い世界に私たちは、正真正銘の二人きりなんだよ?」
「……まぁな」
雑草一本生えない「物だけの世界」には、確かに邪魔する者がいない。どこで何をしようとも。ネルがどれだけ必死に、誰か助けてと叫ぼうとも。ここには誰もいないのだから。
俺の思考は一瞬だけ、そんなシチュエーションならではの面白いプレイとはなんだろう? という方向に染まりきった。そしてその問いの結論を出した直後に、ネルの思惑に気づいてしまう。
長い沈黙の先で、どうして彼女は突然俺を誘惑したのか。ネルの原動力がどこから生まれているのかを考えれば、自ずと答えが見えてくる。
おそらく、ネルが最後に見た遥逢の内からは、性欲が感じ取れなかったのだろう。だから彼女はエロスと程遠い思考の海に飲まれた俺を見て、「最後に見た遥逢と同じ状態」を避けようとしたのだ。
それを察してしまった俺の頭の中に、性欲はどの程度残っていただろう? 我ながら測りかねるけれど、何はともあれ「努力する」と約束した通り、俺は思いついたことを口にする。
「次のサービスエリアに入ってくれ」
「うん。わかった」
「そこの駐車場のど真ん中に降りて、裸にして、バックで犯す」
「おお、いいね」
「……物足りないか?」
「うーん。せっかく外だし、レイプする時みたいにしてもいいよ?」
「あぁ。なら、そうする。……ネル、クッションをくれ」
「え? はい」
ギリギリ片手で持てるサイズの、ふかふかのクッションが一つ手渡される。彼女は俺がそれを座席に敷くとでも思っただろうか? また「一つ」しか出してくれないんだ……と思っただろうか?
今の俺には性欲の濃さではなく、悪意の濃さでしか、ネルに全力を伝えられない。手渡されたクッションをぽふぽふ叩きながら、俺は彼女に告げる。
「アスファルトの上でバックでレイプする時、俺はこれを使うけど、ネルには使わせない。手のひらや膝が擦りむけて血が出ても、俺が満足するまで終わらせない」
「……あはは!」
相変わらず悪意の欠片もない笑い声が、車内に響いた。車は本流の道を逸れて、たどり着いたサービスエリアへの細い通路へと入っていく。
「透斗くんって、遥逢くんより面白いかも」
すこぶる上機嫌に、ネルはそう言った。まるで未亡人から、亡き夫を寝取ったかのような気分がした。
けれどその言葉は、人間基準では賞賛を意味しない。サキュバスであるネルとしては褒めたつもりなのかもしれないが、人間の価値観から聞いたそれは、こういうことを意味する。
遥逢の方が、透斗よりはまだマシな人間だった。
クッションを抱えたまま、俺は答えのない疑問に直面する。……本当に、どうして遥逢は死んでしまったのだろう?
死ぬべきなのは、どう考えても俺の方なのに。