「ひー、寒い……。けどやっぱ新雪の上を滑るのは気持ちいいな」
幾つものカーブを描いて颯爽と斜面を滑り降りながら、俺は1人呟いていた。毎冬観光客が押し寄せる程人気のスキー場が営まれる雪山の麓で俺は生まれ育った。両親もスキー場のインストラクターとスキーショップの経営者、といった具合で、俺も幼い頃からスキーに触れ、すぐに夢中になったのは当然とも言えるだろう。
「新しいスキー板もいい具合だし、今日は滑って滑って滑りまくるか!」
受験生が聞けば卒倒してしまいそうな台詞と共に、俺はリフトの改札に1日券をかざすと乗り場へと向かう。
「今日もよろしくお願いしまーす」
薄く髭を生やした初老の管理人さんに軽くお辞儀をすると、会釈と共に控えめに手を挙げる、何時もの挨拶が返ってきた。無愛想に見えるが実はいい人、という好例のような管理人さんは俺の座るリフトの座席の雪を今日も丁寧に払ってくれた。意外と素早く動くリフトの掃除はついついおざなりになってしまいそうだが、手を抜かない管理人さんの心遣いが、冷え切った雪山の空気の中で唯一じんわりと暖かかった。
「……とは言ったものの……やっぱ、怖いものは怖えよ……!!」
リフトが出発して斜面を登り始めると、俺は揺れと高さに思わず身震いしていた。スキー板で足を拘束しての斜面の滑降には慣れても、こればかりは慣れるのは不可能だ。子供の頃からの高所恐怖症だけでなく、スキー板にかかる風圧やリフトの継ぎ目のガタン、という音が俺の恐怖心を煽っていく。今回の斜面は上級者向けの為、この恐怖も直ぐには終わってくれない。なんとかして気を紛らわせるしか──
「あれー?にんげんさん、ひょっとしてたかいところがこわいのー?」
「は……?なんだ、誰だ……?」
恐怖から歪に笑みを浮かべていた表情筋が、飛んできた挑発的な台詞を聞くなり一瞬で虚無の顔を作る。そして浮かんでくるのは困惑。リフトに1人で乗っていたはずの俺の間近から発せられた声を出せるような人はいなかったはずだが……。
「みぎだよ、みーぎ。にんげんさんあせりすぎじゃない?くすくす」
「……んだ、鳥?鳥が喋ってる妄想するなんて、実は俺疲れてたのかな……」
「ちがうよー、もーそーなんかじゃないよ。さっきからしゃべってるのはぼく。あと、ぼくはとりなんかじゃなくてゆきのせい、すごーいせいれいなんだからね」
まったく、にんげんさんたちってじぶんのなっとくできないことをみとめよーとしないよね。と羽ばたきながらも器用に呆れた風な仕草をして、白くてふわふわの鳥──大きなシマエナガの様な、自称雪の精霊は溜息を吐いてみせた。
(黙っていればふわふわでちっこくて可愛いものを……精霊だかなんだか知らないが腹立つ性格してるな)
「……おい、お前。精霊サマだかなんだか知らんが俺に何か用でもあんのか。何しに来たんだよ」
「にんげんさん、いいしつもんだね!ぼくはね……なんと……」
そう言って耳元に近寄っては声を潜める雪の精に、気付けば俺は高所への恐怖も真冬の寒さも忘れて近寄り、続く言葉に耳を傾けようとしていた。成人済みの俺に残された童心がそうさせたのだろうか、控えめで黒い嘴から放たれる言葉を一言一句聴き逃さぬ様に──
「たかいところをこわがってるにんげんさんをわらいにきたの!」
「あ゛?」
ぶちり、と俺の頭の何処かが切れる音がした。
「にんげんさんはぼくらとちがってとべないからたかいところがこわいんだよね?ぷぷっ」
「たかいところからおちたらいたいし、しんじゃうかもしれないもんね?あはは、とべないってかわいそうだなー」
俺は幼子に笑われた程度で堪忍袋の緒が切れるほど短気ではない。が、今回に限っては話が違う。向こうは明確な悪意を持って煽りに来ているし、リフトは怖いとは言え楽しんでいたスキーを邪魔された形になる。寒さと恐怖症がもたらすストレスも加わって、俺の脳内は「いかにして生意気極まりない雪の精にやり返してやるか」でいっぱいになった。
「なあ、お前がもしも飛べなかったらの話だが……飛べなかったら高い所って、怖いか?」
「うーん、どうだろ?わかんないけどたぶん、こわいんじゃないかなー?でもまあ、ぼくがそんなきょーふをあじわうことなんてないけど──」
「怖いかどうか、試してみようぜ。雪の精さんよぉ……」
「えっ、ちょ、ちょっと!なにするの!!ねぇ!!」
すぐ近くを飛んでいた精霊の胴体を両手で抱き上げるようにして捕獲し、右腕でラグビーボールの様に抱える。
「なあ、さっきぼく"ら"って言ってたよな。って事はお前以外にも雪の精はいるはずだろ?なら、名前くらいあるだろ。教えてくれよ」
「ぼくのことをしばりながらいうことじゃないよー!!はーなーしーてー!!!」
そう、俺は遭難時に使う可能性を考えて常備している肩掛けの小物入れからロープを取り出し、雪の精を縛り上げることにした。正直無駄に長いロープの所為で小物入れというよりは小型の鞄になっているが、使う機会もこうして訪れた事だし目を瞑っておくことにする。
「ほらほら、言うなら痛くない縛り方にしてやるぞー」
「うーっ……しょ、しょうがないなー……ぼくのなまえはミケウパシっていうんだ、かっこいいだろ!……あ、そういえば、ぼくのなまえなんてきいてどうするの?」
ミケウパシ……語感が何となくアイヌ語っぽいな。こいつの見た目、シマエナガにそっくりだし何か関係ありそうだな。等と縄を結ぶ傍ら、俺はぼんやりと考えた。
「んにゃ、俺が名前を知りたかっただけだ。にしてもミケって、なんか響きが可愛いよな。猫の名前って印象があるからか?」
「ぼくのなまえとねこなんかのなまえをいっしょにしないでよ!」
「はいはい。さて、完成したぞミケくんや」
「かんせー?かんせいっていってもぼくがぐるぐるまきにされてとべないだけ……それににんげんさんがぼくをもってるからたかいとこでもこわくもなんともないよー?」
完成だとミケウパシに言ってやるが、俺が拘束した意味を十分に理解出来なかったのか、ふわふわでまんまるい体で首を傾げる。因みにくん付けなのは一人称と、名乗った時にかっこいいだろう、と自慢げだったことから何となくで判断した。間違っているとのご指摘も飛んで来なかったわけだし続行しようと思う。
「高い所を怖がらせてやろうって魂胆はバレてたか。意外と頭良いんだな」
「いがいと、はよけいじゃないかなー?それで、これでおわりなの?しょーじきひょーしぬけなんだけど──」
と、ミケウパシが言ったあたりで彼の視界は激しく揺れたことだろう。彼を縛った縄の片端は彼の右の翼の辺りで結び目の一部となっている。では、もう片方はと言うと。
「あ、そうだ精霊サマ。言い忘れてたんだけど、結構揺れるからしっかり掴まっといてくれよな?」
こちらも結び目として、リフトの安全バーに括り付けられていた。
「あれ?精霊サマ?ミケくん?ミケウパシさーん?」
しっかりとリフト側も結ばれていることを確認した俺は勢いよく手を離し、ミケウパシは投げ出されるように──否、文字通り投げ出されて宙吊りとなった。だが、先程まで生意気な態度で煽ったり突っかかってきたりと元気だった彼が急に静かになったものだから、張り合いがなくなってはつまらんと宙吊りの精霊サマを何度も繰り返し呼んで反応を──
「ぴゃあああああああ!!こわいよおおおおおおおおおおお!!!」
雪降る空の下に突然、ガクガクと激しく身震いする雪の精の余りにも情けない幼子のような涙声が響き渡った。