夜の神社は、あまりに静かだった。
新年を迎えたばかりのツツジ台。喧騒が去った参道の奥にある裏手の縁側に、俺はアカネと二人で座っていた。吐く息が白く、肌に触れる風は冷たいのに、アカネの手だけはやけに温かかった。
「静かでしょ? 人が来ないようにしてあるから」
当然だ。この世界の支配者は、彼女。神様のくせに、浴衣の帯をちょっとゆるめて、俺の肩にもたれかかってきている。肩が触れるたび、薄布越しの体温がじわりと染みてくる。
「ねえ……。こっち、向いて?」
強制はしないが、断れない。目を逸らす理由が、俺にはなかった。アカネは俺の顎に指を添えて、静かに視線を交わせてきた。
「キスって、どこからが一線だと思う?」
冗談めいて問いかける声。そのくせ目は真剣だ。答えようとしても、言葉が出ない。いや、出す必要すらないのかもしれない。
アカネの手が、そっと俺の胸元に触れた。浴衣の合わせをわずかに開く。ごく自然に、無言のまま、俺の唇に何かが近づいた気がした——
……次の瞬間、静寂。鐘の音だけが響いていた。
俺が再び意識をはっきりと取り戻したとき、アカネは隣に座り直していた。頬は赤く、浴衣の襟元が少し乱れている。
「ふふ……やっぱり、こっちの世界のほうが居心地いいよね」
まるで、何かが確かに“終わった”ことを告げるような声だった。
その日、俺は奇妙な引力に導かれるように神社を歩いていた。
正月三日目のツツジ台。人混みの中、馴染みのある顔は見えなかったはずなのに——
視線を感じて、振り返ると、彼女はそこにいた。
「やっと見つけた。あんた、ほんと“無個性”って感じで、逆に見つけやすいんだよね」
彼女は笑っていた。
挑発的に、そして無邪気に。目元には獣のような光が宿っている。
ムジナ。
赤い浴衣を着崩し、髪をラフにまとめたその姿は、まるで“正月”という言葉の対極にあった。
「つきあってよ、ちょっと。……面白いもん、用意してるんだ」
断る暇もなく、俺は腕を引かれた。
細い手首に意外な力がある。人の目がない裏道へと、彼女はためらいもなく足を踏み入れていく。
気づけば俺は、神社裏の人気のない細い石畳の路地にいた。
両脇を木の塀に囲まれ、空は狭く、空気は少し湿っていた。
「はい。これ、おみくじ。普通のじゃないよ。“恋愛運限定”ってやつ」
ムジナが差し出した紙は、手作り感満載だった。
表には赤い文字で「大胆みくじ」と書かれている。
「ほら、引いてみなよ。どうせ“凶”とか出たって、私は気にしないし」
半ば無理やり渡されたそれを開くと——
『恋愛運:体の相性……最高♡』
「ぷっ……やば、引き強すぎでしょ、あんた」
ムジナは笑いながら、俺の胸元にぐっと顔を寄せた。
瞬間、視界いっぱいに、彼女の目と唇が広がる。
「……で? どう思った?」
口元が、まるで触れるような距離にある。
彼女の浴衣はすでに帯が崩れかけていて、胸元がゆるく開いている。
視線を動かせば、鎖骨、白い肌、そしてその下。
見てはいけないのに、見えてしまう。
——いや、見せているのだ。
「ふふ……アカネや六花はさ、“ちゃんとした恋愛”をしたがるでしょ。でも私、そういうの……あんまり向いてないんだよね」
彼女の指が、俺の胸に触れた。
肌の上から撫でるように滑る指先は、やけに熱を帯びている。
「私ね、思うんだ。“好き”って、やるかやらないか、じゃないよ。どこまで近づけるか、だと思う」
ムジナの体が、俺の上に重なるように寄ってくる。
背後には塀、前には彼女。逃げ場はない。
「ん……ちょっとだけ、目、閉じて」
その言葉が命令なのか、お願いなのかも分からない。
目を閉じると、耳元で吐息がかかる。
指が首筋に回る。唇の気配が、頬に、顎に、そして——
——気が遠のく。
***
気がつくと、俺はその場に立ち尽くしていた。
ムジナは少し離れた場所で髪を束ね直していた。
その浴衣は肩が大きくはだけ、帯も結び目が緩くなっていた。
彼女の頬には、紅潮の色がほんのり残っている。
指先で首元を撫でながら、笑みを浮かべる。
「……うん、やっぱ悪くないわ。反応、ね」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
俺も問いかけることができなかった。
ただ、ムジナの残り香だけが、確かに俺の中に滲み込んでいた。
年が明けて三日目の夜、アカネから突然届いた招待状のようなメッセージは、俺のスマホの画面に淡い光をともしていた。
「今夜、あなたの部屋で、新年会をやるから準備しといてね♡
主催:アカネ・六花・ムジナより」
……俺の部屋、ってなんだ?
困惑する間もなく、気づけば部屋は別物になっていた。
畳の香り。障子。暖色の照明。床には大きなこたつ、隅には酒瓶と重箱。
まるで、和風旅館の一室のように完璧に整っている。
そう、アカネが創ったのだ。
そして時間ぴったり、三人のヒロインが一斉に現れた。
「おじゃましまーす」
浴衣姿の六花は、湯上がりのように髪を軽く結い、落ち着いた紺地に赤い小花模様。
ムジナは例のごとく着崩した鮮やかな紅の浴衣。帯は崩れ、肩口が大胆に開いている。
アカネは——清楚な白地に、あえて“透け感”のある薄布を重ねていた。
思わず視線が吸い寄せられた。
三人とも、明らかに俺の反応を確認していた。
始まった新年会は、異常なまでに和やかで、それゆえに緊張感を孕んでいた。
料理を食べさせ合い、言葉の端々に探り合い、笑いの裏には微かな牽制が混ざる。
そして——酒が入るにつれて、空気は“色”を帯びていった。
「ねえ、“お年玉”って……」
アカネが箸を置きながら、俺の横へとぴたりと寄る。
柔らかな香りが鼻先をかすめ、浴衣の袖が俺の腕に触れる。温かい。
「もらうだけじゃ、だめなんだよ? ……あげる側にも、“気持ち”が必要でしょ」
すぐに六花が反対側へ回ってくる。
無言で俺の手を取って、膝の上に乗せた。
その手は、少しだけ震えていた。だが、離そうとしなかった。
「……私も。ちゃんと受け取りたいから」
そして——ムジナが俺の膝の上に座った。
俺の太ももに、柔らかな体重がかかる。
彼女の浴衣の裾は大胆にめくれ、太ももから膝までがほとんど露出していた。
「ふふっ、こうやってるとさ、わかんなくなるね。
誰と付き合ってるか、っていうか——もう“全員”でいいんじゃない?」
膝の上にムジナ、左右には六花とアカネ。
視界いっぱいに、浴衣の隙間、白い肌、揺れる胸元、髪の匂い、熱を帯びた呼吸。
俺の身体は、どこに力を入れていいかわからないまま、熱に包まれていく。
「ねぇ……どこに触られたら、一番反応するの?」
アカネの囁きは、耳に触れる寸前で止まる。
首筋に感じる吐息だけで、身体がこわばる。
六花は手を俺の背中に回し、指先でシャツの裾を探るように触れてくる。
何かを確かめるように、だがとても優しく、柔らかい動きだった。
ムジナは、座ったまま身体をくねらせ、下腹部に触れそうな距離まで腰をずらしてきた。
唇の端に笑みを浮かべながら、俺の胸元に頬を押し当てる。
「……あんたさ、本気で誰か選ぶ気ある? それとも、こうされてるの、ただ気持ちいいだけ?」
彼女の言葉は冗談にも思えたが、目は笑っていなかった。
息が詰まる。視界がにじむ。
誰かの手が、襟元を緩める。
誰かの髪が、胸に触れる。
誰かの唇が、頬をすべるようにかすめる——
——熱の中で、記憶がふっと切れた。
***
朝。
目を覚ますと、俺は布団の中にいた。
だが、自分だけではなかった。
右側にアカネ。浴衣は乱れ、帯は緩み、胸元が大きく開いている。
左に六花。寝息を立てながら、俺の手を優しく握ったまま。
そして足元にはムジナ。俺の脚を抱きしめるようにして眠っている。
言葉が出なかった。
何が起きたのか、正確には思い出せない。
でも、何かが起きたのだという確信だけが、体に残っていた。
「……昨日のこと、さ」
先に目を覚ました六花が、小さく囁いた。
「……別に、覚えてなくてもいいよ。……でも、忘れたふり、はやめてね」
その一言が、今もまだ続いている夢から、俺を引き戻した。
その後、日常はまた始まった。
だが、あの夜の記憶だけは——誰も口に出さない。
誰も否定しない。
ただ静かに、俺たちの関係を濁らせたまま、時間だけが流れていく。