侯爵令嬢物語【完結】〜羞恥と快楽の果てに令嬢と女騎士の姉妹が選んだ甘美な隷従 作:ドン・ドナシアン
21 密やかな忠告
夜が部屋に沈んでいた。
まだ深夜ではない。
宵の空に星が滲みはじめ、王都の塔楼が影を長く落としはじめた頃だ。
しかし、この家の中では、すでに時間は止まっていた。
血の気配が壁に染み、空気の底に沈んでいる。
鉄と脂と、ぬるい肉の湿りが混ざり合って、嗅覚よりも皮膚にまとわりついてくるような感触を残していた。
家には、七人分の死体がある。
商家の主人とその妻。
十五歳の息子。
十歳の双子の娘。
それから、住み込みの家人と奉公女が一人ずつ。
喉を裂かれた男──商家の主人の死体が、広間の中央に転がっている。
声帯を断ち、腱を切って、最後に全身を刻んだ。
彼が息を引き取るまでにかかった時間は、十二分と三十秒。苦しんで死んだと、十分にわかる死に様だ。
叫び声はなかった。代わりに、部屋中に血が撒き散らされた。
他の者たちは、もっと静かに殺した。
こめかみから薄刃を通し、脳の芯をひと突き。苦しまないように。
感情はなかった。あるのは手順だけだ。
──これで、いい。
これは「処分」だ。
殺意ではなく、示威。
組織を守るための、極めて機械的な対応だった。
男は、レヴィニア財閥傘下の末端商家の主だった。
《フォルニア》──性欲抑制具と称した聖印付きの器具を扱っていた。
だが、本当の価値はそこにない。
器具に特定の魔道晶石《セレノア・ルーン》を装着することで、聖具は淫具に変わる。
教会の認可とは真逆の機能を発揮するよう設計されている。
そのルーンの流通は、“セレノア商会”という幽霊のようなダミー組織を通じて行われている。
実体のない法人、借り倉庫、空の帳簿。
誰も辿り着けないように、すべては二重三重の網のなかに沈めてある。
けれど──この男は、それを漏らした。
報酬に目がくらみ、監察官にセレノア・ムーンの集配拠点のひとつの情報を売ったのだ。
家族もろとも、殺したのは見せしめだ。
「漏らしたら、こうなる」──それを周囲に印象づける。
逃げられないとわかっていれば、次からは躊躇う。
情報を漏らせば、家族まで殺されると知っていれば、捕らえられたとしても、口を割るより先に自死を選ぶだろう。
そうすれば、情報は守られる。
ソニアは、そうやって、これまでルシアンを守ってきた。
ルシアンは、家族まで殺すのを好まない。
「必要なかったんじゃないか?」
多分、そう言う。
でも、彼の感情と組織の安全は、別の話だ。
“きれいな役目”は、あの人がやればいい。
“きたない役目”は、自分が引き受ける。
それで均衡が取れている。
ふと──感覚が告げていた。
今ごろ、ドミエンヌの館では「清めの儀」が始まる頃だ。
第一の鐘から七十七分。
毎夜決まった時刻に行われる、夜の通過儀礼。
何も知らぬ身体が“器”へと変えられていく──その始まり。
そういえば、とソニアは思い出した。
セリーヌ=ド・ヴァランティーヌ。
あの侯爵家の令嬢を、今日、館に送った。
今夜が最初の儀式か──それとも、まだ猶予が与えられているのか。
どちらでもいいが、ルシアンの性格からして、すでに始めていると考える方が自然だ。
特に関心はない。
うまくいこうが、壊れようが、それは彼の判断であって、自分の仕事ではない。
ドミエンヌの館の管理はマダム・ルーゼニア──。
清めの儀を含むセリーヌの調教はクロエの役目──。
自分は、もっと現実的で、もっと確実な部分だけを見ていればいい。
──ただ、観察はする。
ルシアンは、表向きにはセリーヌを冷淡に扱っている。
敵家の娘であるという建前を口にし、あくまで“試作品の被験体”のように語っていた。
だが、実際には──あれは特別扱いだ。
他のドミナには一切触れさせず、調教をクロエひとりに限定し、器具も選別して与えている。
強制的な統制ではなく、むしろ独占に近い管理。
それは、ルシアンが滅多に見せない執着だった。
あの人は、人に執着しない。
魔道具や商売には心血を注ぐのに、人間には無関心だ。そうなるに至る過程があったのだ。
でも──。
もし、彼が誰かを気に入ることがあるのなら。
それが、セリーヌであっても構わない。
ルシアンがソニア以外に執着する女が現れるということが、ほんの少しだけ、嬉しかった。
──もっとも、あの人が“悪人”を装っているのは、いまに始まったことではない。
冷徹で、残酷で、手段を選ばない男。
ルシアン=モントレフォールは、そういう仮面をずっと被り続けてきた。
けれど、ソニアは知っている。あの人の本質は、少し違う。
彼は──選ばなければならなかっただけだ。
善人の顔で、誰が時代を動かせる。
悪人に徹しなければ、生き残れない世界で、ただ生きただけだ。
魔道晶石の新たな精錬技術を独占し、魔道具市場そのものを塗り替えた。
魔道士の血を引く貴族たちが、長らく支配していた“文明の利器”を、平民の手に落とした。
その一点だけで、大貴族たちの権益は崩れた。
魔道を使えぬ者に“力”が渡ったのだ。貴族が貴族である理由の根幹が、静かに瓦解していった。
狙われないはずがない。
平民のためにやったことでも、貴族たちに雇われた平民がルシアンを狙い、命を奪おうとした。
信頼していた仲間に裏切られたことは、両手両足じゃあ足りない。
だが、彼はそれでも突き進んだ。
いまでは、魔道なしで扱える魔道具が、町の店先にも並ぶ。
それを支えているのは、安価で安定した魔道晶石──ルシアンが精錬技術を手中に収めて成し遂げた成果だ。
時計の針は、もう戻らない。
いまや、レヴィニア財閥が失われれば、国家そのものが揺らぐだろう。
それほどまでに、彼は“土台”を変えてしまったのだ。
たった十年足らずで……。
──けれど、そんなことを声高に語ることはない。
彼はただ、“悪人”としてふるまう。
自分のせいで誰かが恨んでも、泣いても、殺されても──黙っている。
黙って、血の滲んだ未来を支える。
そんな彼が、もし、誰かひとりの女を気にかけているのなら──。
それは、悪いことじゃない。
ソニアはそう思った。
ソニアは、床に落ちた刃拭きの布を拾い、窓の下に押し込んだ。
証拠を消す意味はない。
見る者が見れば、理由はすぐに分かる。
──これは、報復だ。裏切りに対する、確実な答え。
そういう空気を、ただ残せばそれでいい。
そして、夜はまだ終わっていなかった。
ソニアは静かに窓を開ける。
夜気がひとすじ、部屋の中に流れ込んできた。
血の匂いを少しだけ、拭っていった。
「罪」のある者を処すとき、心は静まる。だが、「罪」のない者まで手にかけた夜は──違う。
肉体の奥に、火が灯る。
その疼きは、血では冷えない。
できることなら、今すぐルシアンに心を壊してもらいたいくらいだ。
命令と快楽と、支配の疼きで。
けれど、ルシアンに抱かれるなら、せめて血の匂いが完全に消えてからにしたい。
──だから、今夜は独りで、熱を冷ます。
王都の高級商家街と中級商家街の狭間。
華美と実用が雑居する区画の、裏通りのさらに奥。
看板のない店。だが、知る者は知っている。
《グラスの墓標亭》──。
古びた木扉と、象牙彫のレリーフが目印。
魔道音楽が静かに流れ、酔客は一切いない。
羽目を外す者がいれば、軍人あがりの初老のマスターが無言で叩き出す。
現役の軍人だろうと容赦はない。
だからこそ、ソニアのような職業女でも、安心して夜を愉しめる。
そしてこの店の魔道音響もまた、ルシアンが庶民用として流通させた魔道具のひとつだった。
もともとは貴族の娯楽。それを街へ解き放ったのも、あの人。
カウンターの隅。
ソニアは、黒のドレスに深紅の外套をまとい、氷の溶ける音だけを聴いていた。
喉に焼けるような酒を流し込みながら、血に灼けた身体を、ゆっくりと冷ましていく。
──そして。
気配がすっと、隣に腰を下ろした。
「やっぱり居た。今夜は来てると思ったよ」
聞き慣れた声だった。
すらりとした長身。腰までの黒髪をリボンでいくつか束ね、白シャツに濃紺のベスト、革の乗馬ズボンに擦れた軍靴。
女の体つきと顔立ちをそのままに、所作も話し方も、まるで若い令息のような気風を纏っていた。
──ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌ。
年齢は二十二歳。女軍人にはもったいないような美貌──。もともと侯爵令嬢であるので、その若さで上級将校だ。
ソニアは、無表情のままグラスを傾け、乾いた声で応じる。
「今夜は見つかってもいい夜だったのよ」
「光栄だね。あんたにそう言われるのは、年に一度あるかないか」
ふたりの距離は近い。
だが、それは互いに詮索しないという了解のうえに築かれた距離だった。
数年来の飲み友達。
素性も立場も明かさず、ここ《グラスの墓標亭》で会ったときだけ言葉を交わす。
家族のことも、生まれのことも、一切話さない。
ただ、グラスと数杯の会話を分け合うだけの関係。
年齢は十近く離れているが、ソニアにとっては誰よりも親しい友人だ。
ソニアは知っていた。
ジャンヌが、王軍騎士団に所属していること。
侯爵家の出でありながら、家からは勘当同然に追いやられていること。
ただそれだけの関係──だったはずだった。
一年前──。
ジャンヌの妹、セリーヌとルシアンの婚約話が侯爵家から持ち込まれた。
ルシアンの表向きの顔である新興商会の資産を吸い上げるための、明らかな罠。
ルシアンは気づいていたが、あえてそれを放置し、泳がせた。
──そして数日前、侯爵家は一方的に、婚約破棄を通告してきた。
ルシアンは、準備していた報復を決めた。
そして、今日、セリーヌを、性奴隷としてドミエンヌの館に落とした。
気に入っている気配はあるが、容赦はない。
それだけではない。
ジャンヌ自身もまた、報復の対象として──名が挙がっていた。
ソニアにとって、それは複雑な話ではなかった。
ただ、そういうものだと受け入れる。
この気っ風のいい、男装の令嬢のような女騎士が、ドミエンヌの館で淫らに泣く。
それが自分の、数年来の飲み友達だったら……。
──悪くない。
まったく、悪くない。
ソニアは、そう思っていた。
「で、何があった? その目、少しだけ火を引きずってる」
ジャンヌが、何気なくグラスを傾けながら訊いた。
ソニアは、ふっと息を吐いた。
「たぶん……何もない方が、正しい夜だったのよ。でも、手が止まらなかった」
「戦場?」
「違うわ。街の中。血の、少し向こう」
「ふうん」
ジャンヌはそれ以上何も聞かず、黙って一口飲んだ。
ソニアも、黙ってそれに倣った。
──乾杯は、いらなかった。
ふたりの夜は、いつも通り、そこから始まる。
「今日は駐屯所? 剣じゃなくて、書類と格闘かしら」
ソニアの問いかけは、ほんの少しだけ意図を滲ませていた。
ジャンヌが軍人であることを、ソニアはこれまで一度も口にしなかった。
今夜、それを破った。あえて踏み込む。
ジャンヌの指がグラスの縁でわずかに止まる。
けれど、顔色は変わらず、いつもの調子で返ってきた。
「うん。最近は実戦から外れて、内勤ばかりだ。流通の照合だの記録だの、目も肩も死にそうだ」
「退屈ってこと?」
「うん。気が滅入る。だからさ──。今夜、あんたに会えたのはラッキーだった」
そう言って、ジャンヌは酒をひと口。
素直に言われると、こちらの方が少し照れる。
「……なんの調査? 気が滅入るってことは、面白くない相手か、見たくないものでも見てる?」
「──言えないよ、それは。規律違反になる。機密漏洩罪……。間違いなく死罪だな」
そう言ってから、ジャンヌはあっさりと続けた。
まるで、酒の席にだけ許された軽口のように。
「ただ……ほら、あの、“指輪の石みたいに小さな小石”、わかるかい? 正式名称は伏せるけど、高位貴族の中で出回っている教会の聖印用のやつ……。小石の流通を調べろってさ。帳簿だの。現場の数が合わないだの。動いてるのに、動いた記録がないだの。そんなことの調べばかりさ」
ソニアは、わずかに目を細めた。
──セレノア・オーブ。
その名を、ジャンヌが直接口にすることはなかった。
けれど、それが何を指しているのか、ソニアにははっきりわかった。
この女は、軍の中で、確かに“あの道具”を追っている。
そして、その先にある者──ルシアンにも、きっと手を伸ばしている。
「へえ……そいつはまた、ずいぶん高級な“石ころ拾い”をやらされてるのね」
「まったくだ。剣も握らず、馬にも乗らず、気がついたら朝から晩まで数字とにらめっこ」
「そんなに退屈なら、剣よりペンを突き立ててみれば? 誰かの机に、ぐさっと」
「冗談にしては怖いな。でも、その気が滅入るってのは嘘じゃない。あんたとこうして酒飲んでなきゃ、もう腐ってたかも」
「光栄ね。人ひとりの精神衛生を救う女だなんて、安くないわよ?」
「払えないから、代わりに喋るよ。……やっぱりさ、私は戦場の方が合ってる」
「どういう意味で? 暴れられるから?」
「いや、違う。私は、追い詰められることが好きなんだよ」
「好き、ね……。またずいぶん特殊な嗜好」
「死ぬかもしれない、って本気で思える場面。魔道銃の弾が飛び交い、あちこちで砲弾が炸裂する。全身が恐怖で震えて、それでも剣を離さずに前に進んで……そして、生き延びたときの、あの一瞬の解放感……。快感で身体が震え、頭が真っ白になる」
「──まるで、絶頂でも迎えたかのような口ぶりね」
「……似てると思う。全身が熱くて、空っぽになって、それでも頭のどこかで“ああ、生きてる”って叫んでる感じ」
「だったら男娼のいる娼館で男を抱いたほうが早いんじゃない? それとも、あんたみたいな身体と顔なら、そもそも、愛し合う相手を見つけるのは困らないでしょう」
「確かに、そうかもね。でも……私、処女なんだ」
「……は?」
「貞操に執着はないよ。ただ、ゴミでも捨てるようにってのは性に合わないだけ」
「……ちょっと意外。あんたの剣さばきからは想像できなかったわ」
「それって誉め言葉? 斬るのは得意だけど、寝るのは未経験って、面白いでしょ」
「斬るよりも先に、愛されてみたくはならない?」
「別に。むしろ──支配されるほうが、ちょっと惹かれるかもね」
「……たとえば。追い詰められて、命令に逆らえず、限界を越えて、それでも許されないような状況で……自分の意思とは無関係に、処女を奪われる。そういうのでも、いいと?」
ソニアは、グラスを転がしながら、軽く口元を歪めた。
──あくまで、試しに。
そう、ただの試し……。
どうせ、ルシアンは、ジャンヌを近いうちに、そこへ連れていく。
ならば、一度反応を見てみてもいい。
気に入っていた女友達が、今後どんな顔を見せるか。
その可能性に、少しだけ──ほんの少しだけ、興味が湧いただけ。
だが、ジャンヌの返事は、まるで準備していたように即座だった。
「──ドミエンヌのことか?」
ソニアの指が止まった。
氷が、グラスの中で音もなく沈んだ。
「……知ってたの?」
ジャンヌは、特に驚いた様子も見せず、酒をひと口だけ含んだ。
「名前だけな。詳しくは聞いちゃいない。でも、噂くらいはね。軍にいれば、耳に入る」
ソニアは黙って彼女を見つめた。
まさか、この場で名前を返されるとは思わなかった。
──二度目の驚き。
ひとつは、流通調査を口にしたあの時……。そして今、ドミエンヌの名を知っていたこと……。
この女は──思ったよりも、深いところまで踏み込んでいる。
「違法でも、関心はない?」
ソニアの声は、今度は低かった。
問いではなく、確認に近い言い方。
ジャンヌは肩をすくめて言った。
「あれは違法か? 好きものが集まっているだけだろう。まあ、個人的な関心はあるかもな。命を懸けた戦場よりマシだ。生きて帰れる可能性が高い」
その一言に、ソニアは反応できなかった。
喉まで言葉が上がってきていたはずなのに、うまく形にならない。
氷の溶けたグラスを指先で回すだけで、時間が滑り落ちていく。
ジャンヌは、そんなソニアを楽しむように眺めながら、ゆっくりとグラスを持ち上げた。
「……さて、私をそこに誘拐するか、友人?」
そう言ってジャンヌは笑みを残し、空になったグラスをカウンターに置いた。
その所作は軽やかで、しかしどこか舞台の幕引きのようでもあった。
懐から銀貨を数枚、音を立てずに並べる。
その音に、ソニアの鼓動が微かに重なった。
「これは、貸しだ」
ジャンヌは白い歯を見せて笑った。
そして──さらりと続ける。
「調査はかなり進んでいる。あなたたちが思うよりも、ずっとかもしれない。……気をつけろ、友人」
ソニアはその場で息を呑んだ。
「いずれにしても──今夜、会えてよかった。私はまた第一線だろうし。内勤にも目処がついたからな」
その言葉を最後に、ジャンヌは椅子を引いた。
立ち上がり、外套の襟を軽く直しながら、背を向けかけたその瞬間──。
ソニアの指が、咄嗟にジャンヌの手首を掴んでいた。
乾いた手の感触。
ジャンヌは振り返り、目を丸くする。
「……どうした、ソニア?」
そのきょとんとした表情に、ソニアは返す言葉を失っていた。
彼女の頭の中には、いまや重く絡み合った複数の意味が響いていた。
──ジャンヌは、わざと流したのだ。
情報を、こちらに。
“調査がかなり進んでいる”ということは、一連の追跡がすでに終盤にあるということ。
しかも、ジャンヌはドミエンヌの名前さえ出した──。セレノア・オーブの流通の元締めが、ドミエンヌの館の主人にも一致しているということまでわかっていると教えているのだ。つまり、もうルシアンに手が届いている。
ルシアンがセレノア・オーブの供給者であり、館の支配者であることも、すでに王軍が掴んだということか……。もしかしたら、レヴィニア財団の総帥であることまで……。
そして、それを、今この酒場で──ソニアに告げたということ。
ジャンヌは、ソニアがルシアンの関係者であると、見抜いていた。
それを承知で、情報を手渡してきた。
──笑いながら、何もなかったように。
ソニアの背に、冷たい汗が一筋、静かに落ちていった。
ジャンヌは外套を脱がず、そのまま椅子に腰を落とした。
あいかわらず無防備な顔をしている。
ソニアは、なにか訊ねようとしたが、言葉が出てこなかった。
思考は混線していた。迷いもあった。
──それでも、いま訊くしかない。
「……あんた自身はどう思ってるの? フォルニアや、あの退廃の館について」
ジャンヌは一度まばたきしただけで、表情を変えずにいる。
フォルニアとは、高位魔道紋を刻んだ快楽具──セレノア・オーブを組み込むことで淫具となる高位魔道淫具の総称だ。
「軍人としてなら、簡単だ。違法は違法。もし違法性があれば、調査して、捕らえる。それが任務だ。……ついでに言えば、私の仕事は捕らえるまで。裁くのは、もっと偉い誰かがやること」
「じゃあ、私人としては?」
「私人か……」
ジャンヌは目を細めた。
「軍人である私と、私人としての私を、きちんと区別できるのかどうかは分からないけど……。性風俗商売というのは、一定の需要があるんだろうし、相互に納得していれば、それ自体に問題はないと思う」
「……意外ね。あんたが、そんなふうに淡々と答えるとは」
「個人的な感想だよ。別に偽善でも道徳でもない。──そもそも今回の調査だって、正義のためというより、権力争いの材料として使われてるだけだろう?」
ソニアは、ジャンヌの口ぶりから、性風俗に寛容な貴族令嬢という輪郭が浮かび上がってくるのを感じていた。
「──上級貴族のあんたが、娼婦という職業に理解を示してるんだな」
ソニアは言った。もう一度、知っていたということを示してみた。
すると、ジャンヌはふっと笑い、視線を斜めに落とした。
──やっぱり、知ってたんだな……。そう言いたげな顔。だが、言葉にはせず。
「仕事に貴賤はなかろう。……そうじゃないか?」
「卑しい娼婦でも?」
「戦場では、上級貴族の令息が、臆面もなく卑怯なことをやる。一方で平民の兵士が、ろくに装備もないのに、主人を守るために命を張って死ぬ。そういうのを何度も見た。人間は出自で差はないよ。職業も同じだ。行動だけが人間の価値を決める……。もっとも、出自の貴賤が職業を決めるのも現実だがね」
ソニアは黙った。
そして、ジャンヌが語り終えるのを見届けてから、軽く眉を上げてみせた。
「……ずいぶんと、正義感のない物言いね」
「そうかもな。でも、もうひとつだけ言っておくよ」
ジャンヌは、言葉の調子をほんの少しだけ変えた。
そして、すぐに口を開く。
「名を出さない金持ちが、正規品ではないが、娼館の娘を対象に、ほとんど無償で高級な性病治療薬をばらまいているらしい。貧しい階級の娘が多く働く場末の娼館でも、いまでは性病の流行はほとんどないとか……」
「……へえ、物好きな分限者もいたもんね」
「かつて流行ってた性病が激減してるらしい。罹患してもすぐに治る。それくらいの高位魔道薬なんだ。認可のない違法品だがね。ああいうところで働くのは、たいてい貧しい階級の娘たちだ。……だから、ただで渡しても見返りはない。しかし、配っている。不思議なことだよな」
ソニアのグラスが、コトン、と静かにカウンターに置かれた。
その音のなかに、彼女の鼓動がにじんでいた。
ジャンヌの言葉が終わると、ソニアはふっと鼻で笑った。
その笑みの奥には、微かに滲むものがあった。
──あれは、ルシアンの“道楽”だ。
娼館にばらまかれている性病治療薬。
それは、彼が密かに流通させている──ほとんど趣味のような施しだった。
ソニアも知っていた。
自分とルシアンは、同じ孤児院の出身だ。
たまたまふたりは貴族に引き取られた。
だが、ほとんどの孤児たちは、育ったあと娼館へ流れ着く。
男でも女でも関係ない。
そして──あっという間に病に倒れ、死んでいく。
いま、その薬のおかげで、あの頃の子供たちは生き延びている。
ルシアンの“道楽”が、いまや多くの孤児院出身者の命を支えている。
それを、ジャンヌは知らないはずだと思っていた。いや、財団の首脳陣でさえ知らないだろう。
けれど、彼女は知っている……。
ジャンヌは淡々と続けた。
「多分、時代は変わるんだろうね。性病や早死の心配がないなら、風俗業って、金になる仕事になる」
ソニアは目を細めた。
「皮肉?」
「違うさ。真面目な話だよ。あと十年もすれば、娼婦は最も金を稼げる尊い職業になってるかもしれない。……大貴族の令嬢が、こぞってなりたがるようなね」
ソニアは、ふっと笑った。今度は本当に……心から……。
「……あんたは面白いわ」
そして、ふと思いついたように、グラスの底を見つめながら訊いた。
「──もしもの話だけど。あんたの可愛い妹が娼婦になるって言ったら……どうする?」
ジャンヌの妹は、セリーヌだ。
すると、ジャンヌは少しだけ、表情を固めた。
すぐには答えず、短く吐息をついてから、静かにソニアに視線を向けた。
「……それが、あの娘の自由な意思の選択なら、尊重するよ。私自身が、侯爵令嬢が選ばないような騎士をやってるんだ。不平なんて言えない」
ソニアは眼を見開いた。
「妹が娼婦になるのを容認するの?」
「それがあいつの“意思”なら、ね。……でも、あいつは“人形”だ。自分で考えることは苦手で、おそらくは父の用意した政略結婚を黙って受け入れて、子を産んで、どこにでもいる貴族夫人として生きて、死ぬ。──そんな娘だよ。まあ、素直で好きだけどね」
そこまで言って、ジャンヌは少しだけ肩をすくめた。
「……もし仮に、そんなあいつが『娼婦になりたい』って自分で決めたなら──王国一の娼婦にでもなってやれって、応援するかもしれないな」
ソニアは、何も言わずにジャンヌを見つめた。
そして、ゆっくりと頷いて言った。
「……やっぱり、あんたは面白いよ」
ソニアが最後にそう言ったとき、ジャンヌは黙って頷いた。
ふたりは、それ以上多くを語らなかった。
グラスの中の氷は静かに溶け、魔道音楽が次の旋律へと滑り出す。
夜風が扉の隙間から入り、カウンターの奥まで満ちていく。
それが、別れの合図だった。
ジャンヌは椅子を引き、外套の前を留めながら言った。
「……じゃあ、またね、ジャンヌ。どこか、正面から会える場所で」
ソニアは微笑を浮かべた。だがその目は、冷えていた。
「ああ。できれば銃口の向こうじゃないことを祈るよ、友人。私も、できれば友人は射ちたくない」
ジャンヌは振り返らず、肩越しに声だけを残した。
「祈るなら弾が外れる方を。あんた、狙いはいいけど、情には甘そうだ」
ソニアもまた、片肘をカウンターについたまま、低く返した。
「大丈夫だ。軍人として撃つときは、友情なんて忘れる」
笑いはなかった。
扉が閉まる音が、音楽の切れ目と重なって、夜が少しだけ静かになる。
ソニアは、ひとり残されたカウンターの席で、グラスの底を見つめていた。
自分は、動く。選ぶ。迷わず汚れ役も引き受ける。
……けれど──本当のところ、最後の選択だけは……どこかで、あの人に委ねたいと思っている。
間違っていない道を、ご主人様が指し示してくれることを。
信じたいのではなく、願っているのだ。甘くて、弱い願いとして。
そうしなければ、わたしがここにいる理由が、たぶん壊れてしまうから。
自分の手を使っていながら、心のどこかでは誰かに結末を託している。
その矛盾を、忠誠と呼ぶのなら──それもいい。
それが、ソニアの生き方だった。