侯爵令嬢物語【完結】〜羞恥と快楽の果てに令嬢と女騎士の姉妹が選んだ甘美な隷従 作:ドン・ドナシアン
昼下がりの陽光が、白磁のテーブルを柔らかく照らしていた。
場所は、学園本棟の西側に併設された「
中庭に面したこの一角は、魔道植栽によって香りと気温が保たれており、いつ訪れても四季の花が咲いていた。
店内の椅子はすべて緋色のビロードで覆われ、手すりや脚部には繊細な銀細工があしらわれている。
床には防音の魔道絨毯が敷かれ、客たちの笑い声は控えめな音楽のように静かに空間に溶けていた。
けれど、いまはどうでもいい。
セリーヌは、喫茶室の最奥──蔦のからまる柱の陰の、半ば目立たぬ一卓にいた。クロエはそのすぐ隣、右肩が触れそうなほどの距離に腰かけている。
正面ではない。向き合ってもいない。主従としては不自然な位置だった。けれど、ふたりにとっては、いまのこの距離こそがちょうどよかった。
セリーヌの両手は、膝の上で前手に縛られていた。手首ではなく、親指だけが交差され、細く硬い革紐で厳かに結ばれている。その結び目から、一本の極細の銀糸が伸びていた。糸は制服のスカートの下をたどり、太腿の奥へ。その先は、クリトリスに佩かれた《レコル》へ繋がっている。
淫具と、指が、繋がれていた。
動けば──引かれる。指をほんの少しでも動かせば、糸がぴんと張って、銀糸がスカートの裾を持ち上げながら、レコルが敏感な突起を容赦なく引き絞る仕組みになっていた。
つまり──。
手を動かせば、クリトリスが引き絞られるとともに、スカートがめくれて、下着のない股間が露わになる。
考えただけで、喉の奥が焼けつくように熱くなるような意地悪な仕掛け。だから、セリーヌはひとつも動けなかった。ただ、黙って、クロエの手を待つしかなかった。
フォークの先に盛られた仔牛のロースト。香草と果実酒の香りが、ほのかに鼻腔をくすぐる。その香りだけでも胸が満たされそうだった。けれど、もっと強く満たされたのは、クロエの指だった。
その指が時折、唇にふと触れた瞬間、心のどこかが、きゅっと鳴った。声にはならない。でも、確かに鳴った。そして、セリーヌは、思った。
──動けないのは、罰じゃない。
動かせないこの手があるから、クロエが食べさせてくれる。
羞恥で濡れた奥に、そんな甘さが染み込んでいた。
「……あーん、して」
言葉にした瞬間、自分でもひどく幼く思えた。けれど、その響きが、なんだかくすぐったくて、やめられなかった。
クロエが、わずかに眉を寄せた。
「もう、さっきからずっと“あーん”しか仰ってませんけれど……」
その声には、呆れと、それに混じった微かな笑みがあった。叱られているわけでも、拒まれているわけでもない。ただ、少しだけ困ったような、そんな響き。
「だって……手が使えないの、仕方ないでしょ……?」
小声で返しながら、セリーヌはクロエの肩にもたれかけた。ほんの数日前なら……いや、さっきまでなら、決してできなかった仕草。
けれど、もう、迷いはなかった。
クロエの肩は、あたたかくて、細くて、でも確かだった。
なにかが壊れたのかもしれない。
クロエにくっつきたくて仕方がない。
でも、それでもいい。
「……ずるいですよ、お嬢様は」
「なにが……?」
「甘えるときだけ、そんな顔をなさるんですから」
そう言いながらも、クロエはフォークををすっと持ち上げた。
仔牛のローストをひと口、綺麗に切り分けて、セリーヌの唇の前へ差し出す。
セリーヌは、その動作の一つひとつに見惚れながら、そっと口を開けた。
舌に乗せられた温かな肉が、じゅわりと香草の香りを広げる。
けれど──味よりも先に、頬に触れたクロエの吐息の方が、ずっと記憶に残った。
「……クロエのこと、もっと知りたいわ」
「食べながら訊くことですか、それは」
「だめ?」
「だめではありませんけれど……少しだけ、面倒です」
「でも、わたしは、いましか訊けないと思ったの」
「……どうしてですか?」
「わたし……、きっと、このあと……また調教で泣いちゃうから……」
クロエの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。そして、すぐに、なにもなかったようにスプーンを置いた。そのまま、ナプキンを取って、セリーヌの口元をそっと拭う。
「では──いまのうちに、できる限り、お答えしましょう」
その声には、もう呆れはなかった。ただ、静かで、やさしい温度だけがあった。
「あの中庭に出る前……。他の令嬢たちと、縁談の話をしてたでしょう?」
その一言に、クロエのまぶたがわずかに伏せられた。
肩がごく微かに揺れる。
──戸惑っている。
セリーヌは、すぐにそれを察した。
クロエはひと呼吸置いてから、静かに口を開いた。
「……下級貴族のご令嬢には、どうしても早くに縁談が決まることが多いのです。実家の家計や、兄弟の後継ぎの問題で……。それに、領地を支える婚姻というのは──」
「そういうの、訊いてるんじゃないの」
声を遮るように、セリーヌは静かに言った。
怒ってはいない。けれど、退かなかった。
クロエの瞳が、かすかに揺れる。
その視線は、一瞬だけ遠くを見るように彷徨い、そして再びセリーヌに戻ってきた。
「……クロエ。わたし、誤魔化されるのは嫌いよ」
クロエは、言葉を失ったように唇を閉じた。
答えようとしているのはわかる。
けれど、簡単には口にできないことなのだということも、セリーヌには伝わっていた。
それでも、訊きたかった。
この数日、身体だけでなく、心のどこかが、確かに変わり始めていた。
自分が「知ろう」とすること。
知りたいという欲……。
それが、ただの従順とは違う行為なのだということ──。
それに……欲望は、ヴェールスだけの特権……。
けれど──そのときだった。
風の向こうから、かすかな足音が迫ってきた。
昼餉のひとときに不釣り合いな、慌ただしい気配が、蔦の奥からまっすぐにこちらへ向かってくる。
クロエがわずかに身じろぎし、セリーヌも自然と顔を上げた。
この席は、喫茶室の最奥。蔦と木立に囲まれ、他の客から完全に死角になっている。偶然、足を踏み入れるには不自然すぎた。
「ヴァランティーヌ侯爵令嬢……。お会いになりたいと申し出られる方が……」
言い切るより早く、彼の背後からもうひとつの足音が割り込んできた。
影が、躊躇なくその肩を押しのける。給仕係は小さくたたらを踏み、目を見開いたまま黙り込んだ。
そのまま、押しのけた男は当然のようにテーブルの前に進み出た。研修生であることを示す深い紺の制服。整えられた外套。胸元の銀のブローチが陽を受けて鈍く光っていた。日傘の下の空間に、靴音だけが割り込んでくる。
ルネ=ベルモント──。
セリーヌの現在の婚約者。セリーヌよりも三歳上の十九歳で、侯爵である父の命によって決まった相手であり、すでに“魔合わせ”も終えている。けれど、彼に対して特別な情はない。ただ従うべき存在として在る──それだけの関係だった。
だが、調教の只中にあるいまの自分を、この男に見られること。それが、羞恥とは別の、不快の波を生む。
セリーヌは両手を重ね、膝の上でそっと指の束ね目を隠した。
クロエが無言で立ち上がる。何も言わず、静かにセリーヌの背後に立つ。日傘の影の中に、守るように身を寄せた。
一方で、給仕係はまだ戸惑ったまま、その場に立ち尽くしていた。セリーヌは小さく視線を送る。ほんの一瞬、眉を動かすだけ。
給仕係はその合図を受け取ると、軽く頭を下げ、静かにその場を後にした。
「セリーヌ、話がある。……クロエ、席を外せ」
抑えた声だったが、語尾にはためらいも問いかけもなかった。命令だった。
クロエは動かなかった。セリーヌの背後に控えたままだ。譲らぬ意志を背中越しに感じた。
「……わたしは、あなたの家人ではありません」
その声には、怒りもなく、感情の波もなかった。けれど、揺るぎもしなかった。
「ああっ?」
「あなた様のご命令に従う義務は、わたしにはございません。必要があれば──お嬢様を通して、お申しつけくださいませ」
「黙れっ──」
鋭い声が飛んだ。喫茶室の空気が、いっとき凍りつく。
セリーヌの身体に、反射のように強張りが走った。
けれど同時に、背中の奥から、言葉にならない感情がじわりと湧き上がる。混乱とも羞恥とも違う、なにかが崩れはじめていた。
「……クロエに、命令なさらないでください」
言葉が唇を越えたとき、わずかな戸惑いが残ったが、声は震えていなかった。視線は、真っ直ぐにルネをとらえていた。
ルネは一瞬、目を見開いたまま沈黙した。口答えされたという事実が、思考のなかに沈み込むまでに時間が必要なのか、わずかの間ぽかんとしていた。
思えば、それまで一度も、彼に対して反論を口にしたことはなかった。
他家に嫁ぐ立場とは、そういうものだと教えられていたからだ。けれど、いまこの場で──クロエに向けられた命令だけは、堪え難く、不快だった。
舌打ちが、短く、乾いた音で響く。
「……どうやら、伯爵家に入る前に、婚前の指導が必要なようだな」
感情を押し殺したような、あるいはもう興味も失ったような声音だった。
「……まあいい。躾ける時間は、まだある……。とにかく、セリーヌ、クロエを下がらせろ」
声音に選択の余地はなかった。命令だった。
視線が揺れた。反射のように、胸の奥で「従わなければ」という感覚が浮かぶ。貴族令嬢として、婚約者の命に逆らうことなどありえない。そう教えられてきた。それは、もはや習慣のようなものだった。
だが、その瞬間──乳首に装着された《レコル》が、ぴくりと反応した。
刺激はわずかだった。だが、あまりにも鋭く、芯をつくような振動が、乳腺の奥を震わせた。
セリーヌは、とっさに息を殺す。脚の奥に熱が浮かぶのを感じながら、それを顔に出さぬよう、必死に呼吸を整える。
唇を結び、視線を伏せることなく、耐える。
なにもなかったように振る舞うしかなかった。ルネの前で、反応など見せられない。
だが、その刺激が思い出させていたのは、羞恥ではなかった。
いま、自分がどちらの命に従うべきか──その答えだった。命じる立場にない自分が、クロエに「下がれ」と命じるなど、ありえない。そう定められている。それは、掟であり、誓約であり──なによりも、自分の現在そのものだった。
「……クロエは、下がりません」
かすかに熱を帯びた声が、空間に放たれた。
その一言が空気を裂いたとき、《レコル》の振動がふいに止んだ。
それと同時に、セリーヌの背に添えられていたクロエの手がそっと触れ方を変える。
熱を与えるような接触ではなかった。ただ、そこに“在る”ということを伝える、静かなぬくもりだった。
張りつめていたものが、少しだけほどけていく。従順を捨てたのではない。従うべき相手が、変わっただけ──そんな確信が、どこかにあった。
膝の上で重ねていた指が自然に力を抜いた。
「いいだろう。醜聞になれ。──おまえの、な」
言葉の意味よりも、語調の汚さが胸に刺さった。
「……まあいい。だったら、お前は黙って聞いてろ。だが、ここで聞いたことは他言無用だ。いいな、クロエ──」
短く吐き捨てるように言いながら、ルネの視線がセリーヌの脚へ落ちる。
また、クロエに命令……。
不快感が大きくなるが、いまは黙った。
「──まずは、そのスカートだ。それは、なんだ。答えろ」
詰問の声音に、脚の奥が固くなった。
あのときの声が、耳の底でよみがえる。
目隠しをされ、立たされたまま、足元から聞こえてきた平民の少女たちの言葉。
──軽くて、動きやすくて、涼しい。
──セリーヌ様が着てくれて、嬉しかった。
羞恥の只中で届いたその声だけが、なぜか胸の奥に残っていた。
「……平民の生徒たちが、この制服をいいものだと言っていました。軽くて、涼しくて、動きやすいと。わたくし、実際に着てみて、それが本当だとわかりました。知らなかったことが、少し……恥ずかしかったのです」
「気持ちを知って、なにになる。お前は家を背負う身だ。貴族が同情で服を選ぶなど、聞いたことがない」
「服を選んだのではありません。見えなかったものに、触れてみたかっただけです」
「それが見えたとして、どうする? 平民と貴族の間には、生まれながらの断絶がある。埋まらんものだ」
「埋めようとは思っていません。ただ、知らないままに背を向けるのは、もっと怖かったんです」
「──呆れたな。お前がはいているその制服は、あの忌々しいレヴィニア財団が撒いた毒だ。下賤な商人が、貴族社会を腐らせようとしているだけだ」
「腐らせるのではなく、見えるようにしたのかもしれません。彼女たちは、その服で学園に通うのに助かる、嬉しいと──そう言っていました」
「黙れ。平民に学問など不要だ。身の程も守れぬ者どもに知識を与えても、傲慢を育てるだけだ」
「必要かどうかは、与える側が決めることではないと思います。学びたいと願う人に、道を塞ぐ理由は、どこにもありません」
「貴族の誇りも、家の名も──すべて放り出して、平民に膝をつく気か。そんな娘を誰が娶る」
「わたくしは、膝をついたつもりはありません。ただ、初めて、見ることを選んだだけです」
その一言に、空気が張りつめた。
ルネの顔が歪む。怒気が、露骨に滲んだ。
「──貴様……」
セリーヌの椅子のすぐ脇まで踏み込むと、ルネはその場に立ち尽くす。見下ろすというよりも、横合いから支配する位置──。背筋を伸ばして座っているセリーヌの横に立ち、顔をわずかに傾けながら、吐き捨てるように言葉を落とす。
セリーヌは、正面を向いたまま、ゆっくりと顔だけを動かして彼を見上げている。
その視線が触れた刹那、ルネの右手がわずかに浮いた。
全身が緊張する。
その動きは、剣呑な気配をまとっていた。
──来る。
そう思ったときには、クロエが動いていた。
なにも言わず、セリーヌの椅子の傍らに滑り出て、ルネとの間に立つ。
その姿は小さく、細い。だが、どこにも怯えはなかった。
ルネの瞳が、ほんの一瞬、細められた。
そして、ルネとクロエが束の間、近距離で向かい合う。
だが彼はなお、手を下ろさなかった。
セリーヌの横に立ったまま、クロエ越しに、視線だけで彼女を見下ろしていた。
「……ちっ」
舌打ちのあと、ルネは立ったままの位置から、やっと一歩離れた。
セリーヌの視界の端を回り込むようにして、テーブルの向かい側──彼女と正対する位置にある椅子へと移動し、乱暴に腰を落とす。
椅子が軋む。足を組み、肘を背もたれに預けたまま、あくまで上から目線の態度は崩さない。
「──お前は知らんだろうがな。レヴィニア財団は、そもそも貴族の許可なく魔道具をばら撒いたんだ。王命も認可も無視して、教団をうまくだましてな。そして、勝手に平民に便利を押しつけた」
「……わたくしは、財団の仕組みまでは知りません。でも、あの魔道具で救われた人がいたとは、聞いています」
「平民どもが勝手に救われた気になってるだけだ。あれは秩序を壊す毒だ。──下層の欲望を煽り立て、貴族の支配を嘲るために作られた道具だ」
「……本当に、そうなんでしょうか」
その問いは、ためらいを含んでいた。
けれど、口にせずにはいられなかった。
「当然だ。連中は身の程を知らぬ。金で技術を買い、民を囲い、国の仕組みを崩す……そんなもの、国家への反逆と同じだ」
「……」
セリーヌの胸に、わずかな揺らぎが生まれていた。
財団について、ほとんど何も知らない。
けれど、いま目の前のこの男の叫びが、すべて正しいとは思えなかった。
ルネの言葉に、セリーヌは返せなかった。
その沈黙を、ルネは納得の証と受け取ったらしかった。
わずかに身を起こし、吐き捨てるようだった声音が、唐突に和らぐ。
「──まあ、無理もないな。お前がそれを理解するには、まだ早すぎる」
そして、思い出したように視線をずらした。
クロエの方へ。
「……お前、自分の女主人がどこに通っているか、知っているのか」
セリーヌの喉が、ぴくりと動いた。
クロエは、それを待たずに淡々と答える。
「アクロディア経済学寮だと、侯爵閣下より伺っております」
その声音に、戸惑いはなかった。
セリーヌは、心の中で小さく首を傾げた。
「それを信じてるのか? 呆れたな。専任侍女のくせに、同行もしないのか。呑気なものだな」
「わたしは、命令に従っているのみです」
クロエとの応酬を切り上げるように、ルネの視線がセリーヌに戻った。
その目には、わずかな柔らかさが混じっていた。
けれど、それは理解でも共感でもなく、導いてやろうという色合いだった。
「セリーヌ、お前がまともな状況ではないことくらいは、察しがついている」
「……」
「だから、まずは相談しろ。なにをされたのか。どういう経緯で、こうなったのか。正直に打ち明けろ。俺は、お前を責めない」
「……」
「たしかに、お前にはいま醜聞がついてまわっている。だが、それでも俺は──見捨てはしない」
「……」
「お前がすべてを話すなら、俺が助けてやる。お前の傷も、名誉も、家の名も──すべて、取り戻させてやる」
「……助けていただかなくてはならない理由が、わたくしにはわかりません」
ルネの顔が、ぴくりと引きつった。
抑え込んでいたものが、じわじわと浮かび上がる。
「そうやって、まだ強がるつもりか。そんな態度で、誰が庇ってやるというんだ」
「……」
「いい加減にしろ、セリーヌ。いまなら、俺が引き取ってやる。すべて帳消しにしてやる。だから──もう、戻ってこい」
「必要ありません」
「意地を張るな。そういえば、教室で失禁までしたらしいな。あの館の調教では、小便もさせてもらえないか?」
すると、ルネが馬鹿にしたように笑った。
「なっ」
セリーヌは絶句した。
あの学園初日のことを言っているのだと思った。
それはともかく、“館”? もしかして、ドミエンヌの館のことを知っているのか?
「と、とにかく、わたしのことは放っておいてください」
セリーヌはきっぱりと言った。
ルネの顔がまた憤怒の色に染まっていく。
「もういい。無理矢理に連れて行く」
椅子が、大きく軋んだ。
ルネが立ち上がる。
テーブルを回り込み、セリーヌの真横に迫る。
その腕が、セリーヌの肩へと伸びかけた──そのときだった。
「お待ちください」
間に入るように、クロエの身体が滑り込んだ。
静かな声だったが、遮るには十分な強さがあった。
「そこをどけ。お前が知らぬだけだ。このセリーヌは、学園にいるとき以外は、退廃の館といわれる場所で夜な夜な、男たちに凌辱されておるのだ。脅迫されてな。そこから救い出すだけだ」
「なにかの誤解でしょう。お嬢様が宿泊しておられるのは、先程申しました“アクロディア経済学寮”です。お嬢様の身柄については、侯爵閣下のご承知のもと、命じられたものと聞いております」
「だから、どうした。いずれにせよ、婚約者の俺が連れ帰るのが、なにが不都合か──。セリーヌは一度連れ帰る。話はそれからだ」
「正式な手続きのないご同行は、すべて拉致と見なされます」
「は?」
「ここは皇太子殿下の管轄される王立学園です。個人の判断での連れ出しは、その規定に抵触します」
「俺は婚約者だぞ」
「つまりは、まだ他人です」
「……お前、なに様のつもりだ」
「ただの侍女です」
「随分とよく喋る。王家の名を口にするからには、それなりの覚悟があってのことか」
「わたしは、命じられた役目を果たしているだけです」
「──そうか。ま、いまの王国は、誰が主導しているか、立場をわきまえた方がいい」
ルネは、吐き捨てるように言った。
「意味がわかりませんが?」
「次代を担うにふさわしいのは、真に伝統を重んじる方だということだ。次代を担うべきなのは第二王子殿下だ。すでに門閥貴族の意見は合致している。学園だろうとなんだろうと、皇太子の威光など意味はない」
「それを判断なさるのは、臣下ではありません」
クロエは変わらぬ口調で返す。
けれど、セリーヌにはわかった。空気が、確実に冷えていく。
「もういい。お前と議論する必要はない。セリーヌ、行くぞ。いいから、従え。お前のためだ」
ルネがクロエ越しにセリーヌを見る。
セリーヌは首を横に振る。
「行きません。もうお帰りください」
すると、またもや大きなルネの舌打ち。
思わず、身体が竦む。
でも、勇気を振り絞って、ルネを睨む。
「──まったく、侯爵家もだめだな。上の姉たちはともかく、下の二人は……教育が甘かったらしい」
そのとき、クロエがすっと、ルネの耳元に唇を寄せたのが見えた。
「……お嬢様は、あなたとの“魔合わせ”が、痛くて不快だったとおっしゃっていました」
その声は小さかった。
けれど、セリーヌの耳には──その響きのすべてが、確かな侮蔑として届いた。
「……なに?」
「……だから──寝取られるのですよ」
──え、と、声が出そうになった。セリーヌは一瞬、理解が追いつかなかった。……そんなことを、クロエが口にするなんて──。
クロエのその言葉は、まるで別人の口から出たように感じられた。
あまりにも直接的で、容赦がなかった。
止めなければ──そう思ったが、思うよりも早く。
叩きつけられるような音が響いた。
クロエの身体が吹き飛ばされて倒れる。
ルネの手が、彼女の頬を打ち据えていた。
次の瞬間──。
耳をつんざくような高音が、空気を裂いた。
警報音──。
魔道の封刻が組み込まれた非常警戒用のそれだった。
クロエが、いつの間にか懐から取り出していた装置に、静かに指を置いていた。
騒然とする喫茶の奥。
さきほど給仕に現れた少年が、慌てて数名の学園警備員を伴って駆け込んできた。
「この令息が──いきなり、彼女を殴るのを、見ました」
息を切らしながら、少年が指を差す。
指先の先、ルネ=ベルモントは、片手をだらりと下げたまま、不快げに顔を歪めていた。
「……なにを、勝手なことを──」
言い終わるより早く、警備兵のひとりが無言でルネの腕を取った。
もう一人が、規定に基づく出頭命令の簡易符を展開し始める。
セリーヌの胸に、緊張が走った──が。
「……大袈裟にしなくて、結構です」
クロエが、警備員に助けられながら、ゆっくりと頬に手を添えたまま立ちあがった。
「……わたしが、彼を怒らせるようなことを申しました。わたしの責任です」
静かな声だった。
けれど、その場の空気を凍らせるには、十分だった。
警備員がルネの腕を放した。
ルネは、その場にしばし立ち尽くした。
その顔には怒りと屈辱、そしてなによりも──侮蔑され、制止されたという色が浮かんでいた。
しかし、彼はなにも言わなかった。
唇の端を噛みしめるようにして、踵を返す。
誰にも触れず、誰も振り返らせず、喫茶の奥から、無言で去っていった。
喫茶の一角では、さきほどの騒ぎが嘘のように静けさを取り戻しつつあった。けれど、セリ―ヌの胸には、まだ波のようなざわめきが残っていた。
目の前にいるクロエの頬は、薄く青紫に腫れていた。
警報音の余韻が引いても、その痕跡は鮮やかに残ったままだ。
セリ―ヌは、そっと口を開いた。
「クロエ、大丈夫……? どうして、あんな言い方を……わざわざ怒らせるようなこと……」
声が、かすかに震えた。
クロエは、そんなセリ―ヌを見つめながら、いつものように淡々と答えた。
「──あのままでは、お嬢様は強引に連れて行かれていたかもしれません。ああするしか、止める術がありませんでした」
その声音は、どこまでも冷静だった。
そこへ、さきほどの給仕係の少年が戻ってくる。
手には冷やしたタオルと小瓶が握られていた。
「ありがとうございます。──今日の午後は、お嬢様は休みます。すぐに館に戻ります。待機している馭者に、連絡を」
クロエが静かに言うと、少年は無言で頷き、そのまま駆けていった。
セリ―ヌは、その後ろ姿を見送りながら、ぽつりと疑念を口にした。
「……クロエ。いまの彼、まさか……?」
「はい。あの給仕係は、ルシアン様の指示で配置された者です。学園内には、他にもお嬢様の安全を守るために、複数の手の者が潜んでいます」
セリ―ヌは、言葉を失った。
まるで、見えない手のひらの上にいたような気分だった。
「──ルネ様が、ドミエンヌのことをどこまで把握していたのか不明ですが、少なくとも、その気配を感じさせる言動がありました。早急に報告の必要があります」
そう言いながら、クロエはゆるりと立ち上がった。
セリ―ヌもその後に続く。
両手は、いまだ親指を革紐で縛られたまま。
制服の裾から伸びる銀糸が、歩みのたびにぴんと張り、脚の奥を震わせる。
馬車止めに向かう道すがら、セリ―ヌはふと、思い出したように口を開いた。
「──ルネ様が言ってた第二王子を中心とした門閥貴族の動き……。本当にあるの?」
「ええ。確かに、そうした派閥は存在しています。ただ──現実には、皇太子殿下はすでに病弱な国王陛下の政務をほとんど引き継がれており、政権基盤は盤石です。貴族だけの支配社会など、いまさら再構築するのは不可能でしょう」
セリ―ヌは、小さく肩を落とした。
「……わたし、なにも知らなかったのね……」
「……気にすることはありません。でも、これから知ることは大事かもしれませんね」
「うん……。だから、もっと勉強したい。平民のこと、王室や貴族のこと、魔道具や経済や流通のこと──ただ言われたままじゃなくて、自分の頭で考えて、判断できるようになりたい」
セリーヌは言った。
すると、歩きながら、横でクロエが静かに頷く。
「それなら、ドミエンヌの蔵書庫が最適です。あそこには、学園のような貴族に都合のよい書物だけでなく、現実に即した書が多数あります」
「……あの館に、そんなものがあるの?」
「“アクロディア経済塾”というのは、表向きの名目です。ですが、皇太子殿下のご推薦により、お嬢様は正式に短期間の修学をしていることになっております」
セリ―ヌは、目を瞬かせた。
「──そんな……。本当に、そこまで……」
馬車止めには、既に一台の黒馬車が待機していた。
扉を開けた従僕が、無言で一礼する。
セリ―ヌは、スカートの裾を押さえながら乗り込む。
糸が引かれるたび、奥の疼きが刺激を訴える。けれど──その疼きすら、もう恐れるべきものではなかった。
クロエが後に続き、ぴたりとセリ―ヌの隣に腰を下ろす。
セリーヌは、いつものように、一画だけ色の薄い中央の席に……。
意図的に馬車の振動が淫らな刺激に変わるように細工された場所……。
スカートを拡げて……。
脚と座席のあいだに、スカートを挟まない……。手を使わずに、それをするのは難しかったけど、なんとかやり遂げる。
そして、扉が閉まったとき、学園の空には、白く穏やかな昼の光が、まだしっかりと残っていた。
そして、馬車が走り出す。
座席の下から伝わる淫らな振動に、セリーヌはたちまちに悶え声をあげた。
《ご感想・高い評価をいただけますと、次の執筆の力になります。どうか応援よろしくお願いいたします。》
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