侯爵令嬢物語【完結】〜羞恥と快楽の果てに令嬢と女騎士の姉妹が選んだ甘美な隷従 作:ドン・ドナシアン
──空気が、ひどく静かだった。
ここは、ドミエンヌの館の中二階。盟主であるルシアンの私室。
魔道で外界と隔絶された、この館で最も沈黙を許されている場所。
壁際には天井まで届く書棚が並び、その向かいには、銀の装飾が施された燭台が二本、わずかに揺れていた。
天窓はなく、灯りは抑えられ、色のない影が床に落ちている。
装飾は最小限で、豪奢でも冷淡でもない。ただ、すべてが整えられすぎていた。
中央の椅子に、ルシアンがいた。
その左右の脇に、クロエとソニアが腰掛けていて、ソニアの横には、マダム・ルーゼニアの姿がある。マダム・ルーゼニアは、ほとんど身じろぎもせず、場の沈黙と呼吸を同じにしているように見えた。
セリーヌは、椅子は与えられずに立っている。
でも、なぜか落ち着かない。
いまのセリーヌの身体には、レコルはあるがほかの淫具も、拘束もない。媚薬を染み込ませた布もない。
そして、レコルはずっと沈黙を守ったままだ
着せられているのは、薄桃と緑のチェック柄の、少女らしいワンピース一枚。胸元には白のリボン。袖口には小さなレース。靴は、柔らかな室内履き。
ワンピースの下には、なにも身につけていない。
もっとも、レコルは刺激がなくても常に弱い疼きをセリーヌに与え、クリトリスは疼くし、苛まれている乳首の先が布越し尖っているのが、自分でもわかる。
だから、顔を上げられなかった。クロエやルーゼニアの視線が気になるのではない。
……ルシアンに、見られるのが、恥ずかしいのだ。
──でも、それだけじゃない。
責められていない、という事実が、いまのセリーヌには、なにより異常だった。
今日は二日ぶりだが、ここに来るときは、いつだって、なにかがされる前提で呼ばれていた。一日二度、大抵は抱かれる。朝に。夜に。
自分が「そういう場所」に呼ばれていることに、疑問を持たなくなっていた。
でも、いまは──なにもされていない。
それが、気持ち悪いくらいに、落ち着かなかった。
セリーヌは、自分の感覚を疑った。
なにもされていないことに、違和感を覚えるなんて……。
……自分は、どこまで淫らになっているのだろう。
こんな風に思ってしまう自分が、どうしようもなく気持ち悪かった。
報告は、もう終わっている。
クロエが簡潔に、けれど正確に今日の出来事を述べた。
セリーヌも、いくつかの質問に答えた。誰が何を言ったか。なにをされたか。どう感じたか。
それを話しているあいだは、羞恥は消えていた。
「なるほど……」
ルシアンが、息をひとつ吐いた。
「連れて行かれなくてよかったな。……あとが面倒になるところだった」
ルシアンの淡々とした言葉に、クロエがかすかに頭を下げる。
「本当……。連れに来たのが、ルネで助かったわね。クロエの機転で追い払えたけど、これが侯爵自身なら、引き渡さない理由がないもの」
ソニアだ。
マダム・ルーゼニアは、首をわずかに動かしただけ。
「とりあえず、クロエは残ってもらおう。セリーヌ、貴方は下がっていい」
その一言で、場の空気が変わった。
「……嫌です」
言葉が出たとき、自分でも驚いた。だが、気がつくとそう答えていた。
声は震えていなかった。
むしろ、真っ直ぐだった。
「なんだって?」
ルシアンの眼が不快そうに細められる。
でも、たじろがない。
「……嫌です」
もう一度言った。
言わずにはいられなかった。
「……まあいい。言いたいことを言え。理由はなんだ?」
ルシアンが嘆息する。
セリーヌは、意を決して口を開いた。
「わたしは、いままで、命じられて従ってきました。でも……それが、なにを意味しているのか、知らないままでいたくありません。わたし、いまの自分がわからないんです」
わかっていた。言葉が足りないことも、説得になっていないことも。
それでも、黙って下がることだけは──どうしても、できなかった。
「……だから、どうした?」
ルシアンが、低く呟いた。
「だから、わたしも知りたいんです」
「……なぜ教えなきゃならない? それに、自分がわからない? そんなもの、今さら知ってどうする。……感情で交渉が通ると思っているのか? 情報が欲しければ対価を準備しろ。価値のないものを主張されても、僕には扱いようがない」
彼の声は冷ややかだったが、怒りではなかった。ただ、見限ったような響き。
その言葉は、セリーヌの胸を鋭く貫いた。
けれど、逃げなかった。──ただ、ほんの少し、言葉の調子を変えた。
「……だったら、教えてください。対価になるような価値を見つけます」
セリーヌは、懸命に抑えた声で言った。命令ではない。ただ、願いだった。
ソニアが、片眉をわずかに吊り上げた。
「先に教えろ、ってこと? 上から目線ね……さすがにお貴族様」
その言い方に、セリーヌは肩をすくめるように小さく身じろいだ。
とにかく、必死に頭を巡らせる。
なにか交渉材料はないか……。
「わたしの父から、手紙が届いていませんか? ……ルネ様ですら動いたのだから、父が黙っているはずがないんです。理由はわかりません。でも、わたしの身柄を取り戻そうとしているのではないかと……。そう思えてなりません」
ルシアンの唇が、ほんのわずかに動いた。
「──ほう」
その一言には、驚きよりも、意外な収穫を見つけた者の響きがあった。
セリーヌは、一拍だけ間を置いてから続けた。
「でしたら、わたしが書きます。……自分の意思でここにいると。誘拐でも脅迫でもないと。わたしの字で、わたしの言葉で」
ソニアが、口元を緩め、少しだけ面白がるような目をした。
「あら、驚いた。……あんた、ここにいたいの?」
その声音は柔らかく、意地悪さはなく、ただ意外な展開に小さな愉しみを見出しているようだった。
ルシアンは、それでもしばらく何も言わなかった。
ただ──呆気にとられたように、セリーヌを見ていた。
すると、不意に、静かな声が割って入った。
「確かに来てますね。セリーヌ嬢にも、クロエにも。このドミエンヌを誘拐犯の拠点のように罵倒してきています。ご自分ではっきりとドミエンヌの館で研修と許可したのをお忘れのようです。即刻の身柄の引き渡しを求めてますね」
それは、マダム・ルーゼニアだった。
背筋を正して、淡々と──だが、どこか冷笑すら滲ませるような声音だった。ドミエンヌの尊厳を口にする彼女の言葉には、感情よりも形式があった。
その割り込みに、ルシアンはほんの一瞬、表情を曇らせた。
だが、怒るでも止めるでもなく、短く息をつく。
「……確かに、来ているな」
ルシアンはそう呟いてから、ソニアに顎をしゃくった。ソニアが小さく頷き、一度立ちあがって壁際の棚のひとつを開ける。戻ってきたときに机に置かれたのは、封蝋されたままの手紙──四通。それぞれに魔道紋章が刻まれている。
「全部で四通だ。一通は、侯爵から貴方宛て。残りの三通はクロエ宛てだな」
ルシアンが、わずかに言葉を濁した。
「……内容は、すべて写しにしてある」
そう言って、彼は机上にさらに横の台から紙を置いた。そこには、四通すべての内容が記されていた。封蝋は破られていない。だが、そこに記された言葉は、おそらく中身なのだろう。
どういう方法なのかはわからないが──封を解かずに手紙の中身を把握できる手段が、ルシアンたちの手にあるということだ。魔道による封印が絶対であるはずの高位貴族の書簡ですら、漏洩していたという事実が、彼女の背筋をひやりとさせた。
とりあえず、セリーヌは、自分の分の写しに目を凝らす。
すぐに屋敷に戻れという、父らしい命令の文書だった。写しのはずだが、筆跡まで父のもので間違いない。
一方で、クロエは写しを読む様子もなく、一瞥しただけでテーブルに戻した。
「しかし、彼らが宛先にしたドミエンヌの館などというものは、どこにも存在しない」
ルシアンの声が、思考を遮った。
「……書類上、存在するのは、アクロディア経済塾だ。この書簡は今日届いたもので、これから配送不能となり、数日後に宛先不明で戻る予定だった。貴方がここに自らの意思でいると明言してくれるなら──交渉材料に使えるかどうかはわからないが、書簡は書いてもらおう」
静かにそう言ってから、ルシアンは手をひとつ挙げた。
「座れ、セリーヌ。話を聞いていい」
セリーヌは息をのんだ。拒絶されると思っていた。まさか、こうして交渉の場に入れてもらえるとは──。
ただ、その驚きに浸る暇はなかった。ルシアンが示したのは、自分がこれからなにを差し出すかを決める席だ。
用意されていたソファの前に立ち、セリーヌはスカートの裾を指先で持ち上げた。下着は穿いていない。布越しに素肌が触れるのを避けるようにして、そっと腰を下ろす。緊張のあまり、座面に重さを預けるまでに数秒がかかった。
その様子を見ながら、ソニアが笑う。
「素直じゃないのね、ルシアン。こういう純粋な娘、好きでしょ?」
沈黙がひととき場を包んだ。
セリーヌは、じっとルシアンを見つめていた。けれど彼は、ソファにもたれかかるようにして、斜め向かいのクロエを見た。
「説明してやれ、クロエ」
ルシアンが言った。クロエは一礼し、静かに口を開いた。
「ここ、ドミエンヌの館は……快楽と支配の館であるとともに、一部の上級貴族が疑似的な支配と従属の世界を体験するために利用する、私的なサロンです」
淡々とした語り口だったが、その語彙のひとつひとつが、セリーヌの耳に鈍く響いた。
ルシアンが、肩を軽くすくめる。
「まあ、それは半分だ。顧客の大半が、上級貴族であるのは事実だけどな。本物に手を出すわけにもいかない彼らは、安全な舞台装置を欲しがる。ここは、そのためにある。もっとも、そうやって軽い気持ちでやってきた上級夫人を完璧な牝に堕とす。まあ、そういう遊び場だ」
そこで、割って入るように別の声がした。
「いいえ、遊び場などではありません。ここは、規律と服従を学ぶ調律施設です」
マダム・ルーゼニアの声だった。淡々とした響きの中に、鋼のような断固たる確信があった。
セリーヌは、思わずそちらを見た。ルーゼニアは、揺らぐことのない視線で前を見据え、何かを断罪するように姿勢を伸ばしていた。
ルシアンは、それを止めなかった。ただ、すっと視線を戻し、言葉を継いだ。
「……で、話を戻そう。貴方の家──ヴァランティーヌ侯爵家は、純血派に属している。貴方の父上はアクロディア経済塾がドミエンヌの館のことだという認識どころか、ドミエンヌの館そのものの噂も耳にしたことはなかったようだが、上級貴族のかなりはドミエンヌの館そのものの存在自体は公然の秘密として黙認していた。だが、最近になって、一部の者たちがレヴィニア財団の関連施設であることに気づいた」
セリーヌは、一瞬、意味がわからなかった。財団の名が出たとき、彼女の思考は止まりかけた。
さらにルシアンが続ける。
「連中にとっては、平民に魔道具を提供するような存在は、秩序を脅かす罪悪だ。だが直接叩ける材料がなかった。……それで、ここを使おうとしている」
「つまり、お嬢様ひとり、助け出したことにすればいいのよ。哀れな犠牲者って看板つけて、新聞にでも載せれば、そりゃあ大衆は泣くわね。財団は悪の巣窟、救い出した侯爵様は正義の味方ってわけ」
ソニアが口を挟む。
セリーヌは、胸の奥で何かがひっくり返るような感覚を覚えた。自分が、政治のための素材になる可能性など、これまで考えたこともなかった。
「そうやって財団を潰し、魔道具の流通を貴族の手に戻す。それが連中の狙いだ。……貴方の父の書簡は、貴方の救出と称して、実のところ、この館の正体を暴露する引き金として使われようとしている」
ルシアンはそう結ぶと、卓の上の書簡の写しに視線を落とした。
セリーヌは、深く息を吸った。けれど、その空気すら重く感じた。
レヴィニア財団──その名は、彼女にとっては教本の中のような存在だった。
平民に魔道具を普及させた革新的な商会。国家よりも強大とも噂される巨大な経済連合。まさか、その名と、この場所が繋がるとは思っていなかった。
──だとすれば、この館の主であるルシアンは、いったい……。
セリーヌは、そっとルシアンを見た。彼の目は、冷たく、澄んでいた。
レヴィニア財団の総帥は秘匿されている──それくらいの知識はセリーヌにもある。
心の奥で、ある言葉が形になりかけた。
──まさか、ルシアンが──?
セリーヌは、その問いを呑み込んだ。けれど、胸の奥で、否応なく形を持ちはじめていた。
ドミエンヌの館がレヴィニア財団の施設であるなら、その主である彼が──。
もしかして、彼が総帥……?
理屈としては、その可能性は高い。
けれど、信じるには重すぎた。
事実と直感が噛み合わず、思考がつまずいていく。
「……でも、どうして、いまになって……?」
セリーヌがそう尋ねると、ソニアが頬杖を解きながら言った。
「報告が上がったのよ、ほんの最近。貴女の姉──ジャンヌ。王軍騎士団の将校よね。彼女が動いたのよ」
その名前を聞いた瞬間、心臓が一度だけ、強く脈を打った。
ソニアが続ける。
「彼女は財団の資金経路や魔道具の供与記録を洗ってたみたい。で、その一部がこの館に繋がってたってわけ。建物の所有権も、中継を使った財団系列企業だった。届け出名はアクロディア経済塾で、法的にはなんの問題もない。でも、ジャンヌは見逃さなかったのね。彼女、そういうのにかけては本当に真面目だから」
──お姉様が?
王軍に在籍するジャンヌは、いつも正義のために戦っていた。セリーヌにとっては誇りであり、時に雲の上の人でもあった。その姉が、よりによってこの館を──自分を取り巻く世界を──暴こうとしていた。
記憶のなかで、ひとつの言葉が甦った。
──敵ではない。ただ、不快だ。
初めてルシアンのもとに引き出された夜。ジャンヌの名前が出たとき、彼はそう言った。
いまなら、その意味がよくわかる。
ジャンヌは、正義によってすべてを暴き、均していく人だ。その正しさが、ルシアンのような存在にとっては脅威なのだ。
「連中──つまり純血派は、ずっと財団を敵視してたのよ。でも、財団ってのは表向き不正はなく優秀で、なにより庶民に人気があるから、なかなか攻撃できなかった。でも、ドミエンヌをネタにすれば話は別。『貴族令嬢を監禁している退廃の館』なら、さすがに庶民も黙ってない」
ソニアの声は軽い。けれど、その内容は耳の奥に鋼のように残った。
「ドミエンヌの館──そんなものは存在しない。届け出上は経済塾。教育施設扱い。許認可も通ってる。違法ではない。けれど、連中は正義の告発の皮を被って攻めてくる」
セリーヌは、椅子の肘掛けをそっと握った。新聞の見出しが浮かぶ──侯爵令嬢、陵辱される。レヴィニア財団、秘密の監禁施設。上級貴族の令嬢が悪の犠牲者の象徴にされる。
──わたしが、晒される。
──ジャンヌ姉様が、それを……。
それは正義なのか。それとも暴走なのか。答えは出ないまま、セリーヌは自分の名と家がどこかで使われていく光景を想像して、喉の奥をひりつかせた。
「……話は、以上だ」
ルシアンがそう締めくくった瞬間、場の空気が静かに緩んだ。だが、セリーヌの中では、ひとつの違和感が消えずに残っていた。
──クロエ。
視線の隅に、彼女の前に置かれた書簡が映っていた。封蝋はすでに見覚えのある紋章で彩られている。たしか──三通。父、ヴァランティーヌ侯、そして……。
セリーヌは、胸の奥がざわつくのを感じた。たしか、クロエにはかつて婚姻の話があった。加虐趣味の商会長と妾として結ばれる予定だったと聞いた。だが、それは男爵家の救済と引き換えに、ルシアンが断ち切ったはずではなかったか。
……違うの?
セリーヌの身体が自然と動いていた。クロエの前にある三通の書簡のうち、一通──白銀の封蝋に巻き蔓を模した意匠が浮かぶものを手に取った。
メルキオール=グリュンデル──。
その名が、文字ではなく、輪郭として目の奥に刻まれる。
隣でソニアが軽く笑った。
「まあ。他人の手紙を覗き見るなんて、らしくないじゃない?」
けれど、セリーヌはやめなかった。写しがすでに置かれていたから、中身を読むのは容易だった。
──婚約準備のため、ただちに実家へ戻り、グリュンデル家の商家屋敷へ移動すること。同行者は許されず、旅装も不要。身ひとつで。また、婚礼に先立つ誓約のため、所定の書面に署名せよ。──
そういう内容だった。
書簡の差出人は、グリュンデル家当主。別の封筒には、ヴァランティーヌ侯。もう一通には、クロエの父、レナン男爵の筆跡があった。
──三通。三人の男が、それぞれの言葉で、彼女をひとつの場所へ送り込もうとしている。
しかも、グリュンデル家当主からの、まるで物の移送を指示するかのような、失礼な内容。これだけでも、クロエの扱いがどういうものなのかが知れる。
セリーヌは顔を上げた。ルシアンを、そして、クロエを見た。
「どういうことなんですか? この婚姻は破談になったはずじゃ……クロエは、救われたはずじゃなかったんですか?」
「……それは、契約には含まれていない。貴女は十日間、ドミエンヌに滞在する契約を結んだが、その十日が過ぎれば、貴女は去ることができる。クロエとの契約は、その時点で終わることになっている」
セリーヌは、小さく息を吸った。爪が掌に軽く食い込むほど、手を強く握る。
「だったら、十日後もここに残ります」
静かな声だった。けれど、そこには揺るぎのない意志があった。
ルシアンは、ほんのわずかに眉を寄せた。それは、怒りでも驚きでもない。ただ、ごく短い間の、沈黙のゆらぎだった。
「それは、新たな契約だ。そして──ただの侯爵令嬢でしかない貴女がここに残ることが、僕にとってなんの交渉材料になる?」
「素直じゃないわね、ルシアン。それでいいじゃないの。ここにいたいって、言ってるのに」
ソニアが、椅子の背に腕をかけたまま、肩をすくめた。
「お嬢様の人生です。お嬢様はご自分のことだけをお考えになり、お決め下さい」
すると、クロエが静かに言った。
その声はいつものように落ち着いていた。けれど、セリーヌには、どこか遠ざかっていくような距離感があった。
「妙に他人行儀じゃない?」
ソニアが、わずかに肩を揺らした。
クロエは目を伏せたまま、ソニアの言葉を無視して言葉を続ける。
「どういう結論をなさろうとも……ルシアン様は必ず、セリーヌ様を保護なさいます。わたしについては、なんの問題もありません」
セリーヌは、クロエを見つめた。伏せられたまつ毛の下に、沈黙の意志が見えた気がした。
「……だったら、ルシアン様。クロエの婚約を止めてください。なんとかして欲しいんです。」
声の調子は抑えていたが、強く、切実だった。
「僕に利益のない契約はしない」
ルシアンは、冷ややかに言い放つと視線を逸らした。
「いい加減にしなさいよ、ルシアン」
ソニアは背もたれに肘をかけたまま、呆れ顔で吐き捨てた。
「……では、訊きます。クロエとルシアン様の契約って、なんなんですか」
セリーヌは、唇を引き結び、まっすぐに見据えた。
「それを告げることは、契約違反になる」
ルシアンはそれ以上言葉を加えず、無表情で応じた。
「クロエ、あなたからなら、言えるはずでしょう」
セリーヌの声に、微かな期待が混じった。
けれど、クロエはわずかに睫毛を伏せたまま、何も言わなかった。表情のない横顔が、沈黙の意志を語っていた。
胸の内に、焦燥と苛立ちが沈んでいく。問いかけが、空虚に吸い込まれていく感覚だけが残った。
空気が沈んでいた。そのとき、不意に、その沈黙を破ったのは、マダム・ルーゼニアだった。
「お館様とクロエの契約内容は、十日間のドミエンヌの館の調教後は、セリーヌ嬢の選択の内容に関わらず、お館様がセリーヌ嬢の生活を保証すること……。これに対し、クロエは十日間のセリーヌ嬢の調教を全力で務めること。ただし、セリーヌ嬢にルシアン様以外の人物との性交はさせない。……まあ、こんなものだったでしょうか」
その声は静かで、淡々としていた。
部屋の空気が、瞬時に変わった。
「ルーゼニア──。その内容をセリーヌに開示しないことも、契約の条件だったんだ。勝手な真似をするな」
ルシアンの声が鋭くなった。
怒気を帯びた声に、セリーヌは思わず背筋を伸ばした。
「まあ、そうでしたのですか。失礼しました。年を取ると耳が遠くて」
それだけ言うと、再び口を閉じた。顔には感情らしきものは一切浮かんでいなかった。
セリーヌは言葉を失った。胸の奥に冷たいものが流れ込んでいくのを感じた。けれど、すぐに唇を噛み、意を決して顔を上げた。
「ルシアン様。お願いがあります」
声は震えていなかった。立ち上がるような決意が、そこにはあった。
「……なんだ?」
「この館にある蔵書に触れる許可をください。わたしは知識を得たい。そうして、ルシアン様に、交渉できるだけのものを呈示します」
ひと息、言葉を整えたあと、さらに続けた。
「蔵書?」
「はい。その代わり、もしルシアン様が、それに応じるだけの価値があると判断されたなら……クロエを守ってください。その条件で、わたしと契約を結んでください」
その場の空気が凍りついたようだった。
クロエが、大きく目を見開いた。まるで、息を呑んだまま固まってしまったかのように、言葉を失っていた。
ソニアも、ルシアンも、そしてマダム・ルーゼニアですら──。いや、彼女だけは変わらなかった。わずかな瞬きもなく、石像のように佇んでいた。
「面白い」
ルシアンは口元をわずかに緩め、頬杖を外して椅子に背を預けた。
「いずれにしても、貴方との契約はまだ半分残っている。泣こうが喚こうが、それまではここにいてもらうし、調教も受けてもらう。それまでに、僕が満足できる契約内容を呈示できれば、僕の全能力を使って、クロエの面倒もみよう」
ルシアンが少しばかり愉しげな響きを混ぜて、淡々と続けた。
「そこまでしてもらうわけにはいきません。わたしは……十日間の思い出があれば、十分だったのです」
クロエは肩を落とし、伏し目がちに言葉を返した。
「でも、当初は、その十日でセリーヌ嬢に嫌われる予定だったのでは? あなたの目論見が現実と合致しているとは思えませんが」
ルーゼニアはわずかに顎を引き、無感情な声音で割り込んだ。
「いい加減にしてよ。揉めてる理由が皆無だわ。いいから条件を呑めばいいでしょう、ルシアン。セリーヌは十日後もここにいると応じたし、クロエの婚約を潰すくらい、あなたなら簡単でしょ」
ソニアはため息をつきながら腕を組み、脚を組み替えた。
「珍しく、意見が一致しましたね、ソニア」
ルーゼニアは表情を崩さないまま、静かに補った。
「これは……僕の矜恃だ」
だが、ルシアンは一拍置いてから、低く吐き出すように言った。
「絶対に、納得できるものを準備します」
一方で、セリーヌは胸の奥から声を押し出し、力強く告げた。
「わかった。それが納得のできる条件だったら考える。蔵書も好きなだけ読むといい。場所は、クロエが案内すればいい。ただし──ひとつだけ、条件がある」
ルシアンは少しだけ姿勢を崩し、指先を組み直した。
「……なんでしょう?」
セリーヌは眉を上げ、緊張した面持ちで問い返した。
「今日から、クロエだけでなく、僕の調教も受けてもらう。その代わりに、貴方が欲しがっている知識を僕が提供しよう。調教で満足できたら、そのご褒美にね」
ルシアンの言葉に、セリーヌはまずはクロエを見た。
クロエは苦笑するような表情で小さく頷く。
セリーヌはそれを確認してから、ルシアンに向き直った。
「わかりました」
「商談成立だな。じゃあ、まずは、僕の脚のあいだに跪け」
ルシアンの声は、淡々としていた。
セリーヌはひとつ深呼吸し、静かに進み出て、ルシアンの膝と膝のあいだに膝をついた。
床は滑らかで、冷たさはなかった。けれど、その場所に跪いたことで、自分が捧げる側であることを、改めて意識させられる。
「両手を背に回して。親指を重ねろ」
命令は、ごく短かった。
セリーヌはためらわず、両腕を背中に回した。左右の親指には、指輪を嵌めさせられていて、親指同士を重ねると、すぐに、金属が吸い寄せられるような感触が生じた。
目では見えなかったが指先に伝わる硬さと、ぴたりと動かなくなった感覚が拘束の成立を知らせていた。
指は、もう離れなかった。少し力を入れてもびくともしない。
セリーヌは、そのまま胸を張るように背筋を伸ばし、黙って待った。後ろ手にされた状態が、自分の身体の前面をむき出しにし、ルシアンの前にさらしているという事実が、意識の内側でじわじわと羞恥を広げていく。
「その姿、実にいい。従順で美しい」
ルシアンの言葉は、讃えるようでいて、支配の確認のようにも響いた。
「口でやれ。手は使うな。僕のものを外に出すんだ。そこからするんだ」
ズボンの前を緩める動作が、セリーヌの目の前で行われた。布地がずらされると、下着越しの張り詰めた形が露わになる。
セリーヌは、ルシアンが求めることを理解した。
「……はい」
セリーヌはかすかに口を開き、顔をゆっくりと前に傾ける。
下着の布地に唇を触れさせると、熱が間近に感じられた。咥え込むようにしてそっと引き下ろす。抑え込まれた硬さが布の裏から伝わってくる。唇にかかる張力に、ほんのわずかだけ目を伏せた。
セリーヌは、口元にそっと布地を咥えたまま、息を整えていた。これからなにが始まるのか、自分でもわかっている。けれど、逃げる選択肢はなかった。
なんとか、下着を口でずらすことができた。
ルシアンのものを眼の前で見る。すでに固くなっている。
セリーヌは思わず息を呑む。
ええっと……確か、最初は口づけから……。
先端にそっと、自分の唇を触れさせる。最初は触れるだけ。次は吸い付くように。
そして、口を開けて、全部を包み込む。
思ったよりも大きい……。
一生懸命に口を開ける。
「この頑固者はセリーヌに任せて、三人で一杯やりましょうか」
ソニアの声が、不意に後ろから聞こえた。
セリーヌは振り返ることはできなかった。けれど、気配でわかった。ソニアが、いつもの調子で軽く肩をすくめているのだろうということが。
「……わかりました」
クロエの声は低く、小さく。それでもはっきりと、そう返ってきた。
足音がわずかに動く。静かに歩く音が二つ、続いて一つ。
ルーゼニアは、なにも言わなかった。ただ、気配だけが確かに遠ざかっていく。
セリーヌの背後で、扉が静かに閉まった。
部屋の空気が、急に重たく変わった気がした。いまや、この部屋には、ルシアンとセリーヌ、ふたりきりだった。
そういえば、クロエまでいなくなり、純粋にふたりきりなのは初めてだった。
「ん……っ」
その瞬間、レコルが、わずかに震えた。
乳首に埋め込まれた器具が、呼吸に合わせるように、微細に粘膜をなぞる。
胸の奥から湧き上がってくるような、じんわりとした疼きが広がっていった。
少し遅れて、股間のレコルも──。
「僕より先に達したら、不合格だよ。そしたら、今日の勉強会は中止。そのかわりに──罰が待ってる」
ルシアンの声は、どこか楽しげで、けれどそれは慈悲とはまるで無縁の響きだった。
セリーヌは頷くこともできず、ただ奉仕を続けた。
両手は背後で拘束されたまま。自然と、身体の前面に感覚が集まっていく。
舌と唇で触れた感触。鼻にかかる匂い。
刺激と羞恥が絡み合い、じわじわと意識の輪郭を曇らせる。
セリーヌは、ただ必死に、クロエに教えられた記憶を手繰っていた。
上目遣いでルシアンの目を見る。
反応を探す。
気持ちよさそうな場所を、慎重に、丁寧に探る。
けれど、レコルの刺激は、じわじわとセリーヌを追い詰めていく。
喉の奥に甘い波がせり上がるたび、心のどこかで「もうだめ」と叫んでいた。
それでも、セリーヌは動きを止めなかった。
クロエとの練習を思い出し、必死に舌と唇を動かし続けた。
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