侯爵令嬢物語【完結】〜羞恥と快楽の果てに令嬢と女騎士の姉妹が選んだ甘美な隷従 作:ドン・ドナシアン
王都の広場にある鉄塔は、夜の霧に沈んでいた。
誰もいなかった。石畳の間には夕立の水たまりがまだ残っていて、灯のない空の下で銀色にくすんでいた。鐘楼の影が広場を斜めに横切っていたが、ジャンヌはそのどこにも目を向けなかった。
手紙には、ここに来いとだけ書かれていた。時刻と場所は明記されていたが、送り主の名はなかった。それでも、ジャンヌは迷わなかった。筆跡も癖も、あまりに覚えがありすぎた。
──罠なら、斬ればいい。
そう決めて、剣を帯びてここに来た。
定刻よりわずかに遅れて、ふたりの若者が現れた。少年と言ってもいい年齢だった。背の高いほうは、草色の上衣を着ており、髪は陽に焼けて少し跳ねていた。もうひとりは小柄で、くるぶしの出るような旅靴を履き、顔つきは幼かったが、動きは妙にきびきびとしていた。
年齢は多分、十四から十五。成人前だろう。
「……あんたかい? ここに立てって言われてた。南門から、レアナスの廃聖堂まで道案内しろってさ」
ジャンヌは、彼らを上から下まで一度見た。
「私は、案内を頼んでいない」
「うん。でも、そっちは俺らの知ったことじゃない。広場に来る女を案内しろって。銀貨三枚、前払い」
「妙な依頼だと思わなかったのか」
「いや、まあ、ちょっとは。でも、払われたし。何より、荷運びよりはずっと楽な仕事だったからな」
「愚かだね」
ジャンヌは声を荒げずに言った。
「え?」
「夜中に見知らぬ女を廃聖堂に連れて行くような依頼が楽な仕事に見えるなら、目か頭か、どこか悪い」
「そう言われてもさ……俺ら、ただ歩くだけだし」
小柄な少年が、遠慮がちに言った。
「そのただ歩くってのが、一番危ないんだ」
ジャンヌは黙って歩き出した。ふたりは小声で顔を見合わせたが、結局ついてきた。仕方ないというように。
城門は夜中でも開いていて、そのまま通り抜けられる。
王都の灯が遠くなり、街道の舗装が途切れてからは、夜の匂いが濃くなっていった。森の縁をまわり、三つ目の丘を越える。細道は地図にすら載っていない。
「姐さん、剣、使えるんでしょ」
背の高いほうが、ぽつりと言った。
「だから、そんな真夜中にこんなところまで来ても、怖くないの?」
小柄な方が付け足す。
「怖くないことはない。けど、それより、そこで確認したいことがあるんだ」
「誰かそこにいるの?」
「さあね」
その先は、ジャンヌも口を閉ざした。道の向こうに、黒い影が見えはじめていた。聖レアナス──廃聖堂の輪郭だった。
尖塔は崩れ、礼拝堂の天蓋は半ば抜け落ちている。月の光が石の壁にうっすらと線を描き、崩れた門柱の陰が道に伸びていた。
ジャンヌは歩みを止めた。
「……ここでいい。場所はわかった。ふたりとも、帰りな」
「え?」
高いほうの少年が振り返った。
「でも、まだ終わってないし……最後まで案内しなきゃ」
「報酬は受け取っているはずだ。これ以上関わるな」
「いや……でも……」
小柄な方が、不安げに言った。
「でも、じゃない」
「ほんとに、いい人だったんだよ。依頼くれたおじさん」
「いい人が、こんな時間に、女をひとりで廃聖堂へ向かわせると?」
ジャンヌは静かに言った。
「だって、ほんとに……優しそうだったんだ」
「どうして、そういう話に違和感を覚えない?」
「だって、言葉も穏やかで、銀貨の数え方も丁寧で……」
「……あんたたちの目にそう映るなら、それはそれで結構だ。だが、忠告だけはしておく」
「えっ?」
「次からは、そんな仕事は断ることだ。命を安く売るな。今夜だけは、何も知らなかったということで、見逃されるかもしれない」
ふたりは言葉を失い、しばらく立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと後ろを向いた。歩き出すとき、ひとりが小さく振り返った。
「……お姐さんも、気をつけて」
「私は“お姐さん”じゃない。女である前に剣を持ってる」
そう言って、ジャンヌはふたりの気配を背に受けながら、ひとり、廃聖堂の石段を登りはじめた。
一方で、ふたりの足音が、闇に呑まれて消えていく。
完全に背を向ける前、小柄なほうがちらりとこちらを見た気配があったが、ジャンヌはそれを追わなかった。追う意味も、残す義理もない。
丘の端に残された廃聖堂は、まるで月に晒された石の亡骸のように、沈黙の中で息をひそめていた。尖塔は折れ、祈りの扉は崩れ落ち、崩れかけた柱の間にだけ、かろうじて建物だったという記憶が残っている。
ジャンヌは、足を止めた。
門はすでに失われていた。代わりに蔦が縁を這い、乾いた空気の中で風のように囁いている。石段には苔がにじみ、靴底が微かに湿った音を立てた。天蓋の欠けた礼拝堂の奥、黒い闇の中に何者かの気配がある。
堂内に入った瞬間、気温が一段落ちた。
抜けた屋根からは月光が斜めに差し、崩れたステンドグラスの破片が、青や紅の斑を床に散らしていた。石壁に映る影が、不規則に揺れている。
中央に、三人の男が立っていた。
全員が顔を布で覆い、黒の外套をまとっている。祭壇跡の前にぴたりと並び、声も動きもなく、ただその場を占めていた。
「剣を預けていただきたい」
左手の男が言った。声は低く、抑えられていたが、僅かな緊張が混じっていた。
「会合の条件にしては、ずいぶんと馴れ馴れしいね」
ジャンヌは口元をゆるめ、ゆっくりと一歩踏み出した。
「大人しく従え」
中央の男がかぶせるように言った。言葉には力がなく、代わりに命令の形だけがあった。
「私は誰とも約束していない。剣を渡す理由も、信用する義理もない」
ジャンヌの声は冷たく澄んでいた。
「安全のためだ」
右手の男が低く続けた。だがその声音は、すでに抑制を失いかけていた。
ジャンヌは静かに腕を組み、彼らをひとりずつ見やった。
「安全のためってのは、どっちの?」
「口の減らぬ女だな」
右の男が小さく吐き捨てた。足元がわずかに動き、重心が戦いの構えへと寄っていく。
ジャンヌはため息をついた。
「その気なら、斬ってもいいけど?」
次の瞬間、堂内に石を踏む音が響いた。ひとつ、またひとつ──重く、一定の間を刻みながら、奥の暗がりから現れる足音。
三人の男はぴたりと動きを止めた。そして、同時に左右へ身を引き、通路をあける。
祭壇の陰から、銀縁の仮面をつけた黒衣の男が姿を現した。口元だけが露出し、他はすべて闇と布に覆われていた。
「……その仮面、趣味が悪いね」
言葉の端に棘を滲ませながら、軽く肩をすくめる。
「ふん。相変わらず、減らず口を……」
仮面の男は堂の中央をゆっくりと進んできた。歩幅、重心、空気の支配すらも──記憶に刻まれた“父”そのものだった。
男が目前に立ち止まったとき、ジャンヌは腰の剣に手をやり、鞘ごと静かに外すと、そばの柱の根へとそっと置いた。
「まあ、父親の前で剣を抜くほど、私は礼儀知らずじゃない」
仮面の奥で、侯爵の顎がわずかに動いた。それが肯定であることは、言葉よりも確かだった。
「貴様にしては殊勝な物言いよ」
侯爵は仮面の奥から、乾いた声で応じた。
ジャンヌはわずかに目を細め、視線を逸らすことなく言葉を落とした。
「……勘当された身だけどね」
「まったく、ようも、ここまで愚かに育ったものよ」
侯爵は鼻で笑った。仮面越しの声には、露骨な侮蔑と皮肉がこびりついていた。
「だが──剣を外したのは感心だ。礼節も、血の記憶も、まだ完全には抜けきってはおらぬようだな」
ジャンヌは答えなかった。
奥に向かう。
祭壇脇の扉が開き、ふたりは並んで奥の部屋へと進んだ。
そこは窓のない石造りの小部屋だった。
天井から吊るされた銀の香炉が、淡い香気を絶え間なく吐き出している。
照明は絞られ、石壁には微かに香の煙がゆらいでいた。
また、部屋の中央には、磨り減った石卓が据えられている。
ジャンヌと侯爵は、その卓を挟んで無言のまま腰を下ろす。
間を置かず、先ほど礼拝堂にいた三人のうちふたりが現れ、無言で壁際に立った。
もともと部屋にいた男女ふたりも気配を動かさずに控えていたため、狭い空間に六人が揃ったことになる。
女のほうが盆を手に進み出る。銀の脚杯に濃い液体を満たし、それを静かにジャンヌの前へ置いた。
侯爵の前には、すでに同じ杯があった。赤黒い表面に照明が鈍く反射していた。
ジャンヌはちらりとそれに目を落としたが、手は出さなかった。
ただ、杯の向こうに座る男の顔を、仮面ごと真っ直ぐに見つめていた。
「──で。こんな手間をかけてまで、何の話?」
ジャンヌは卓に片肘を置いたまま、まっすぐに侯爵を見据えた。
声には抑制された響きがあったが、退く気配は一片もなかった。
「勘当を解いてやる」
侯爵は目の前の杯に指を添えたまま、淡々と告げた。
その言葉に、情の色はまるでなかった。
「……随分と急な親心だね」
ジャンヌは小さく鼻を鳴らした。
その表情に笑みはなかった。
「なにが欲しいの?」
卓に指を滑らせながら、視線は一度も逸れなかった。
「条件はひとつ。ヴェリニエ伯爵家に嫁げ。それで帳消しにする」
「嫌だ」
言い終えるよりも早く、ジャンヌの声が遮った。
それは反射ではなく、意志だった。即答に一分の揺らぎもなかった。
「……話ぐらいは聞け」
侯爵の声音が低く沈んだ。仮面越しのまなざしが、卓をはさんでジャンヌを射抜いている。
ジャンヌはひとつだけ息を吐き、椅子に浅く腰を預けた。
「わかった。聞くだけならね」
視線は外さず、声は凪のように平らだった。
「相手はヴェリニエ伯爵家の三男。純血派に連なる家だ。名目だけの婚姻で構わん。夫婦の実体は求めぬ。お前は騎士を続ければいい。よいな」
侯爵の言葉は、条件ではなく命令に近かった。
ジャンヌは静かに頷いた。だが、そこに肯定の色はなかった。
「話は、わかったよ……」
それだけ言って杯に目を落とし、手は出さなかった。
「ならば……」
「聞くだけは、聞いたし──答えは、さっきしたとおりだ」
「……貴様」
侯爵の手が卓を叩く寸前で止まった。
仮面の奥で怒りの熱がにじみ、その場の空気をわずかに歪ませた。
「貴様に選択の自由などない。わしの命は、家長の命令だ」
その響きに、かつて覚えた威圧の重みはなかった。
懐かしさもなければ、怒りもなかった。ただ、空虚に聞こえた。
ジャンヌは卓の縁を指先でなぞりながら、わずかに視線を上げる。
「……それで従うと思ってるなら、ずいぶん呑気な話だね」
「なにっ」
「命令を使うってことは、自分の言葉じゃ動かせないって、自分で言ってるようなものだろう?」
「……家の名を背負うことが、どういう意味か忘れたか。政略結婚は貴族令嬢の務めだ。お前は領民の税で育った。義務を拒んで貴族を名乗る資格などない」
声が一段低くなった。
彼の言葉は理屈に見せかけた威圧だった。
過去に何度も聞かされた口調だったが、今の自分にはもう、別の言語のように遠かった。
ジャンヌはわずかに眉を動かした。
香の煙が目に入ったせいではなかった。
「そういう都合のいいときだけ、領民を持ち出すの、やめたほうがいい」
声は淡々としていた。
諭すでもなく、怒るでもなく。
ただ、突き放しただけだった。
「……貴様……」
侯爵の外套が音を立て、椅子が床を擦った。
彼は懐から一冊の書類束を取り出し、卓の上へ無造作に置いた。
重みを持たせた動作だったが、驚きはなかった。
「ならば、今度こそ正式に勘当とする。これが書面だ。お前の名で署名すれば、それで終わる」
ペンが銀の托に添えられた。
侯爵は続きを言わなかった。
脅しの言葉が省略されたということは、これが最後の手段だと彼自身が認めているようなものだった。
ジャンヌは無言のままペンを取った。
署名欄はすぐに見つかった。紙の手触りに、微かに湿った温度があった。
筆を走らせた。抵抗も、迷いもなかった。
最後の一画を書き終え、顔を上げた。
侯爵は仮面の奥で何も言わず、ただ、静止していた。
──唖然。
その語が、目に見えたわけではなかったが、空気に滲んでいた。
「貴族の責任を捨てるとは……」
侯爵の声が震えた。仮面の下、頬が赤黒く染まっているのがわかった。
「それはお父上では?」
ジャンヌは書類をそっと押し返した。
「なにい?」
「売るものがなくなって、娘まで手放そうとしてる。それが貴族のすることかい? ヴァランティーヌ侯爵家の血を汚してるのは──お父上のほうじゃないのか」
「どういう意味だ?」
侯爵は、一瞬だけ言葉を失ったようだった。
仮面の下の瞳が揺れる。その動きが、驚き以外の何物でもないと分かった。
「……私がなにも知らないと、思ったのかい?」
ジャンヌは言った。
「なにを言っておる……」
「……モントレフォール家を巧みに騙して財を吸い上げたつもりだったんだろう。だが、向こうの報復は容赦がなかった。数日で、息もできなくなったのは知ってる」
「──黙れ」
「そして今度は、ベルモント伯爵家から人身売買の話を持ってこられたんだな?」
言葉が室内の空気を変えた。
「……」
「婚姻の形をとってるが、実態はそれ以外の何物でもない。若い女を集めて、いったい何をするつもりなんだ」
「……貴様」
「融資を増やすから、娘を出せって言われたんだろう。だから、私を売ろうとした。だが──無駄だ」
ジャンヌの声には揺らぎがなかった。
「なんだと?」
「相手は、私を差し出しても金なんか貸しやしない。いまさら侯爵家を救っても、共倒れになるだけだ。あいつらは、いずれお父上を切る」
「そんなことはない──」
仮面の奥に怒りが溜まっていくのが見えた。
「……手を出しちゃいけない相手に、手を出した。……だったら、頭を下げて、モントレフォール子爵に報復を解いてもらうように頼め。それが唯一の生き残る道だ」
「──わしに、あんな卑しい孤児育ちの売官貴族に頭を下げろと言うのか!」
侯爵が立ち上がりかけた。
「……だって、そもそも、モントレフォール子爵をセリーヌの婚約者にしたのは、お父上だろう? あの子爵殿は、お父上が思っているよりずっと大物だ」
ジャンヌは、呆れを込めて眉をひそめた。
「うるさい──」
「だから、飲ませたかったんだろ? さっきの杯」
視線を落とすと、銀杯の液面がかすかに揺れていた。
「強い薬が入ってる。……それが、この話の証拠ってことだ」
沈黙。
背後にいた見張りの男が、すっと一歩前へ出た。
「……侯爵様。ここは、お引き取りを」
その声音には感情がなかった。ただ、命令としての区切りだった。
侯爵はジャンヌを一瞥したまま、何も言わずに身を翻した。外套の裾が揺れ、扉が静かに閉まった。
次の瞬間だった。
金属の音が重なり、部屋の空気が張り詰める。
四人──すべての影が、一斉に武器を抜いた。
剣が鞘から滑り、短剣が空気を裂いた。目に見える殺気が、部屋の温度を数度下げたようだった。
ジャンヌは一瞬の静寂の中で、立ちあがって身構える。
「……剣を取りあげられたくらいで、私が怯むとでも思ったのかい? 言っておくけど、私は強いよ」
言葉と同時に一歩踏み出した。剣の先はぶれず、目の奥に光を宿していた。
男のひとりが、肩をすくめた。
「誤解しないでくれ。この刃は、お前を傷つけるためじゃない」
ジャンヌは視線を鋭く寄せた。
「じゃあ、何のために」
「お前の服を裂くためさ」
その言葉を最後に、世界が二重に揺れた。
「えっ?」
視界が滲む。空気が波打つ。喉の奥が熱くなる。
床が遠ざかり、天井が低く沈んだ。
足元がふらついた。相手の剣先が、意識と共にぶれる。
──これは?
「生娘というのは本当なんだな。この部屋でこの香に反応してしまうのは、お前だけだ」
その男が微笑む。
しかし、ジャンヌにはその笑みが二重……いや、もう三重になってきていた……。
甘い。重い。ぬるく絡む香……。
呼吸の奥に、異物が張りついていた。
いま、生娘だけに効くって言った……?
記憶の中から、ひとつの名が浮かぶ。
《処女殺し》──。
ドミエンヌを探ったとき、断片的に目にした記録だった。
吸い込むだけで神経を麻痺させ、意識を薄くさせる古い魔香。処女にだけ強く作用するという、信用ならない代物。
信じてなどいなかった。
まさか、こんなかたちで──。
「……本当に……あったのか……」
口から漏れた声が、自分のものではないように感じられた。
膝が沈んだ。
踏ん張る意志はあった。だが、筋肉がそれを裏切った。
視界が傾く。
最後に見たのは、剣を下げてこちらに群がる影たちと、女の高笑いだった。
「処女なら儲けものだわ──。ドミエンヌに高く売れるわよ」
手を叩く音が、乾いた鼓膜の奥で反響する。
そして、湿ったハンカチで鼻と口を塞がれた。甘くぬるい香り。その濃いものが身体に吸い取らされる。
腕をつかまれて枷を嵌められる感触が、消えていく最後の意識に残った。
──甘く、重い。
目を覚ましたとき、ジャンヌはまず、呼吸そのものがひどく緩慢になっていることに気づいた。
空気が冷えていた。夜の冷たさがまだ床に残りつつも、天井の高窓から差し込む光には、どこかやわらかさがあった。直射ではなく、まだ昇りきらぬ太陽が雲を透かして届くような、そんな色だ。
──いまは、早朝。
ジャンヌは、そう判断した。夜明けの直後……。
まだ街が完全には目覚めていない時間帯……。
だが、視界がぼやけている。けれど、天井の梁だけは、はっきりと目に入った。
そこに、小さな香炉が吊るされていた。
白陶の壺型。蓋の隙間から、ほのかに煙が立っていた。高い天井に設置されているのは、意図的だ。煙は室内上層で滞留し、少しずつ降りてくる。けれど、この廃屋は、昨夜のような閉鎖的な部屋とは違っていた。壁の一部が崩れて風が通る。だから香りは、ほんの少し薄まっている。
──処女殺し。
昨夜、廃聖堂で嗅がされた香だ。甘く、粘つくような香気に混じった、薬草と樹脂の苦み。名は知っていたが、実際にその効果を味わうのは初めてだった。
手足が、濡れた外套に巻かれているように重い。だが、まったく動けないわけではなかった。多少の感覚が戻りつつある。肩をわずかに持ち上げ、首を傾ける。
視界の端に、血が見えた。
赤黒く、床を染めている。
──まさか。
身体を這わせるようにして、視線をそちらへ向けた。
ふたりの少年。
廃聖堂に向かう前に出会った、あの案内役のふたりだった。
どちらも喉を裂かれ、ずぶ濡れのように血に染まっていた。目を開いたまま、声なきまま、そこに倒れていた。
──あのとき、断っていれば。
もっと、強く追い返していれば。剣を抜いてでも、黙らせていれば……。
目を閉じてやることも、名前を呼んでやることもできなかった。
ただ、無惨に晒されたその死に、ほんのわずかでも意味があったのだと願うしかなかった。
幼さの残る顔だ。小さな肩だ。
なのに──なぜ、自分は剣を抜かなかったのか。
彼らはただ、命じられた役割をこなしただけだ。その役割の先に、死が待っていたことさえ知らずに。
ジャンヌは歯を噛んだ。
彼らはただ、報酬を受け取って案内をしただけだった。だが、その軽さが命を奪った。そして、自分は──。
──……なに……?
そして、自分自身の身体に目をやって驚愕した。
服が裂かれていた。
胸元、腹、太腿まで、ずたずたに切り裂かれている。胸を包む布は剥ぎ取られており、裂けた布地の隙間から、乳房が露わになっていた。
辛うじて股間の下着だけは残っているが、スラックスは刃物で割かれて切断されて、ただの短い布切れだ。
羞恥が、喉の奥で塊になった。
これは、騎士としての侮辱ではない。女としての人格そのものへの暴力だった。
本能的に手で羞恥の場所を隠す。
また、床に血に濡れた銀の剣が転がっていることに気がついた。
自分の剣だった。昨夜、廃聖堂のなかで「預けろ」と命じられ、しぶしぶ手放したあの私物の剣。なぜ、それがここにある。
少年たちの死体の隣に、血に染まって。
──すべてが、用意されていた……。
罠だと、はっきり悟った。
そのときだった。
外で鎧の擦れる音がした。足音。怒声。数十人の男たちが、一斉に動く音が、廊下の奥から押し寄せてきた。
扉が、打ち付けるように開いた。
整列すらしないまま、二十名を超える騎士が、部屋へと雪崩れ込んできた。
ジャンヌは、苦い笑みを浮かべる。
銀の鷲の紋章──王軍第一騎士隊。
彼らの制服は、濃紺の戦装束に銀糸をあしらった長衣が重ねられ、胸には小さな王家の徽章が縫い込まれている。肩当てと腕甲は装飾よりも機能性を重んじた作りで、剣帯には制式の長剣が収まっていた。
第一騎士隊は、王都中央区とその上層貴族街の防衛を任された、名誉と格式の部隊だ。所属できるのは、代々爵位を継ぐ家柄の子弟か、特別な推薦を得た貴族のみ。実力よりも血統が重んじられる、そういう“隊”だった。
本来であれば、王都の宮廷区や中央広場の儀仗任務が主。下町の管轄など、そもそも彼らの担当ではない。ましてや、まだ陽も昇りきらぬ早朝に、騒々しく隊を組んで突入するなど──常識では考えられなかった。
ジャンヌは、心の底で確信していた。
これは、偶然ではない。
最初から、彼らは“ここへ来るように”仕組まれていたのだ。
「……第一騎士隊にしては、ずいぶんと早起きだな。こんな下町の夜明けに、よほどのご用が?」
中央に立つ騎士隊長が、鋭く整った眉の奥から、無表情に視線を落とした。
ヴェルナー=レグニエ騎士隊長……。
面識はほとんどない。
だが、門閥貴族出身で、わざわざ城下の警備事案に自ら出動さるような男ではないということは知っている。
「通報があった。喉を裂かれた少年ふたりと、血まみれの剣。半裸の女。──どうやら殺人現場のようだ」
それだけだった。説明ではない。ただの“通告”だ。しかも、あまりにも出来すぎた材料を並べていた。
ジャンヌは、喉の奥で冷笑を噛み殺した。
この男は、自分の顔を知らぬはずがない。王軍の剣を持つ女など、数えるほどしかいないのだ。ましてや──
「この身元不明の女は、死体袋に入れて運び出せ」
目を逸らしもせず、声を荒げることもなく、それを言った。
兵のひとりが、すでに袋を手にしていた。黒い、全身を包む袋だ。足元から頭の先まで縫い目があり、死者を運搬するための、戦場用の拘束袋。
少年たちのことは誰も見ていなかった。ふたりの死体は血の海に沈んだまま、まるで初めから背景だったかのように無視されていた。
ジャンヌは、歯を食いしばった。
──逃げるか?
頭のどこかがそう囁いた。けれど、身体の弛緩はまだ戻っていない。わずかに動いた肩を、すぐに押さえつけられた。
腕が引かれ、膝を取られ、縄がきつく巻きつけられる。
そして、次の瞬間、首筋に何かが触れた。
針だ。小さな痛み。そこから、冷たいものが流れ込む感覚。
視界が、緩やかに傾いた。
遠くなっていく天井。その梁の上では、いまだに香炉がくゆっていた。
──すべてが、計画通りだったというわけか。
兵たちの手が身体を袋へと押し込めていく。肌に触れる内側の布は冷たく、重く、まるで自分の意思を吸い取るようだった。
──あの子たちは、どうなるのか。
誰も、目を向けなかった。
命を奪われ、晒され、役目を終えた駒のように、あの床に放置されたままだ。
目を閉じる前、最後に見たのは、血に濡れた少年たちの顔だった。幼いその瞳は、どこを見ていたのだろう。
助けることも、葬ることも、なにもできなかった──。
けれど、忘れはしない。
たとえ名を知らずとも、この死が、ただの“演出”で終わることを、許してはならない。
布の口がゆっくりと閉じられる。外の光が、ひと筋、狭まって──消えた。
視界がなくなり、それと同時に、ジャンヌの意識も、完全に消えた。
《ご感想・高い評価をいただけますと、次の執筆の力になります。どうか応援よろしくお願いいたします。》
また、拙作『異世界で淫魔師ハレム』がカドコミ・ニコニコ漫画でコミカライズ中です。エロチックで迫力のあるイラストで製作して頂いています。合わせて応援お願いします。