侯爵令嬢物語【完結】〜羞恥と快楽の果てに令嬢と女騎士の姉妹が選んだ甘美な隷従 作:ドン・ドナシアン
第一騎士隊の軍営内の隊長仮眠室の通信具が密かに震えた。
ヴェルナー=レグニエは、時刻を確認した。
──第五時刻三十分。
起床予定時刻より一刻も早い。
魔堂通信具の呼び出しは音ではなかった。魔力の揺らぎ。けれど、それは確実に、目を覚まさせる質量を伴わせる。
ヴェルナーは上体を起こして、壁際の魔道受信具を見た。
浮かぶ識別コード──“7319”。
魔導封印階層“C”。上級認証。発信者:ティエリ=ド・ベルモント。
血管がひとつ脈打った。
慌てて寝台の脇にある起動印へ手を伸ばす。魔力の接触に応じて、通信具の中心核がかすかに明滅した。
「……第一騎士隊長、ヴェルナー=レグニエであります」
呼吸を整え、声を整える暇もなかった。
だが──通信の向こうから返ってきたのは、重く、しわがれたような、喉の奥で圧縮された声だった。
「聞こえるか……ヴェルナー」
低い。だが、濁っていなかった。むしろ、鋼のように冷たかった。
「……閣下。はい、受信しております。いかがなさいましたか。まだ──」
「時間を口にするな」
一言で、空気が凍った。
間があった。だが、それは威圧ではなかった。単純に、考える余地が与えられていなかった。
「ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌを、今朝中に移送しろ」
「……移送、でありますか?」
「馬車はすでにそちらへ向かっている。すぐに門に着くはずだ。すでに到着しているかもしれん。すぐに営門に連絡をしておけ。まさかとは思うが、ドミエンヌの移送馬車を営門の外で待たせて目立たせるような間抜けなことをするなよ」
ヴェルナーは一瞬、沈黙した。
──なにしろ、ジャンヌの引き渡しは、第六日程の後半の予定だ。まだ観察段階で必要な数値の蒐集は未了。
まだ、あれは……。
「聞いておるのか、ヴェルナー」
「聞いております、おそれながら、しかし、それは契約と……」
「契約などという言葉を口にするな。三日だ、ヴェルナー。わしは“三日で素材を仕上げる”と報告を受けていた」
「……はい……ですが、現時点では──」
「では聞こう。あの女は、まだ“跳ねる”のか?」
「……跳ねる、とは……」
「逃げ出す可能性があるか、ということだ。あれは、すでに制御下にあると報告されていた。君の手で、“動けぬ状態”にされていたはずだ」
ヴェルナーの喉が微かに動いた。
魔核《スピナ=グラティス》のことを言っているのだろう。
「はい。首の基底部、うなじの魔核埋設によって、現在は制御済です。神経伝達は部分遮断されており、感覚増幅は維持されたまま、運動系は封じられています。逃走は……不可能です」
「逃亡したとして、追跡は可能なのか?」
「もちろんです。王都内であれば、遠隔操作も可能です。最悪、処分することも……」
「ならば、なんの問題があるのだ、ヴェルナー?」
ベルモンド伯の口調は、口調は優しげだったが、明らかな苛立ちの響きがあった。
ヴェルナーは、背に冷たいものを感じた。
「移送そのものに……問題は……」
「ならば、すぐに移送しろ。競りの日付が変わった。今日の夜だ。まさか、真っ昼間からギルドの移送馬車を駐屯地に乗り付けろと言っているわけではないだろうな。あれは、今回の競りの目玉だ。すぐに運べ」
「しかし、あの魔核は快楽と苦痛、双方に対する感受を増幅する構造です。長時間の外的刺激前には慎重な──」
「黙れ──」
「えっ」
「黙れと言った。それは君の専門分野だ。だが、仕上がったのなら移送しろ。それだけだ」
声は静かだった。だが、思考の隙間がなかった。
「……承知いたしました」
「よろしい。移送後の復命は必要ない。……任務を果たせ」
次の瞬間、魔道通信具の魔光が、音もなく消えた。
魔光が消えてから、数秒。
ヴェルナーは、まだ受信具の前から動けなかった。
指先が震えている──。それに気づいて、初めて、全身が冷えていたことを知った。
背筋に汗が残っていた。枕元の温度計が示す値は常と変わらぬのに、室温だけが下がったようだった。
──移送。
言葉が頭の中で幾度も反響する。
第六日程の予定。それが、今朝中。
しかも、あの女を──。
ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌ。
いまだに、名には抵抗を示す。
だが、それ以外の部分では──すでに“ほとんど”完成している。
フェルミア因子の分泌は、既定値の八倍。
しかも持続性が高く、変動域も小さい。
苦痛刺激に対する快感反応は、第二段階移行後、臨界値を越えたまま下がらない。
──“苦痛を、快楽として受け入れる”。
その機能は、すでに彼女の中で構造化されている。
精神反応にも明確な変調が出ている。
名前を呼ばれない限り、自己同一性に対する応答は希薄だ。
時折、自然に“リディア”という名に反応する。
──まるで、最初からそう呼ばれてきたかのように。
だが、改めて問えば、違う。
「名前は」と訊けば、目を見開き、喉の奥から叫ぶ。
──ジャンヌだ、と。
凍りついたような瞳で、爪が割れても拳を握り締めて、そう吐き出す。
その姿は、まるで常軌を逸した狂人のようでさえある。
あれが、いまのジャンヌだ。
おそらく、抵抗の最後の鍵はそこにある。
──“ジャンヌ”という名。それだけが、彼女を繋ぎ止めている。
ならば、落とすべきはそこだ。
彼女が、初めて「自分はリディアだ」と言ったとき──
そのときこそ、加工は完成する。
ヴェルナーは、ゆっくりと息を吸い、目を閉じた。
あと一歩なのだ。
フェルミア因子、皮膚感応、快楽刺激。
どれも揃っている。
──だが、自分が欲しいのは“名を折ること”だ。
名を砕く。誇りを消す。
それを成し遂げてこそ、これは“作品”になる。
そして、ヴェルナーは思念から我に返った。
ヴェルナーは肩を震わせると、制服の上着を乱雑に羽織り、部屋を出る。
──とりあえず、移送の準備を急がねば。
歩きながら、腰の通話具に指を当てる。魔力を流すと、すぐに小隊本部の受付が応答した。
「第一騎士隊長ヴェルナー。至急、営門に報せろ。《蒼印第十二章・南門通過令》を掲げた馬車が到着次第、即時通過を許可する。時刻は問わない。検査も不要だ」
『……は、承知いたしました』
「繰り返せ」
『《蒼印第十二章・南門通過令》──時間外通過、即時許可、検査なし。到着次第、通過処理。──承知しました』
「よろしい」
通信を切ろうとした、その時だった。
『……隊長。申し上げます。いま、南東外柵沿いの倉庫群──第二棟より火災の報告が入りました。煙が確認されております。現地部隊が初動対応に入っています』
「……またか」
舌の奥で唾を潰すように吐いた。
──昨日もだ。第二騎士隊と第五歩兵駐屯地との境界で、ほぼ同様の出火。
外部者の侵入可能性すらあったはずだ。
それを受けて、すでに警備増強と巡回再配置を命じていた。
にもかかわらず──これだ。
「駐屯地内の防衛は、現地常駐が基本だ。警備隊には再確認を徹底させろ。手順はすべて共有されているはずだ。……計画通りに対応しろ」
『は、指示の内容を、現地に伝達いたします』
「……私を、煩わせるな」
通信は、短く断たれた。
ヴェルナーは歩きながら、制服の襟元をきつく引き締めた。
いま、対処すべきは──たった一つ。
ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌ。
観察数値は未了。だが、移送は決まってしまった。
ならば、その前に。
──“名前”を折る。それだけだ。
足音が、石階を沈ませるように響いた。
階下へ続く螺旋階段。
地熱の影響で空気はわずかに湿っていたが、温度は制御されている。
魔道換気炉が稼働している証拠だった。
──秩序は、まだ保たれている。だが……。
ヴェルナーは、眉をひそめた。
地下二層──収容牢へ入る扉の前に、見慣れた四名のうち、ひとりの姿しかなかった。室内に二名、扉の外に二名──。昨夜の作業が終わるときに指示をしたのがその態勢なのだ。
扉脇に立っていた兵士が、こちらに気づき慌てて直立する。
「隊長、失礼いたします。……交代要員が、先ほどの火災報で現場補助に……」
「この区画の警備は四名配置が原則だ。配置表の指示を破ったということか?」
「……いえ、衛門警備隊より、臨時応援の指示が……」
「私の署名は通っていない。上申経路も経ていないな?」
兵士の顔色がさっと引いた。
「報告は後回しで構わん。……私はこれより、処置に入る。余計な干渉はするな」
そう言い残すと、ヴェルナーは扉に手をかけた。
冷えた鋼の感触を、皮膚が認識するより先に、思考のほうが処置手順を始めていた。
魔道錠が静かに開く。
青白い魔光燈の脈動が、収容室の空気を鈍く染めていた。
室内にはジャンヌと見張りの兵のふたり……。
ジャンヌは中央だ。
室内にいた兵がすぐに敬礼をする。
「報告はいい。すぐに今日の処置に入る」
ジャンヌの両手首は頭上で固定され、足首も軽く開かれている。
首筋からうなじのラインには、制御魔核《スピナ=グラティス》の淡い光が、わずかに脈打っていた。
ヴェルナーは無言で机に歩み寄ると、観測水晶盤に手を伸ばし、最新の生体数値を呼び出した。
──フェルミア因子、基準値の八・二倍。
苦痛受容領域、活性。
快感受容領域、過剰反応。
直近刺激比率:苦痛四・快楽六での持続反応値、高位安定。
目を細め、ヴェルナーはスピナの調整盤に指を滑らせた。
設定を変更する。
比率値【苦痛:三 快楽:七】
しかも、──連続刺激、時間制限なしの予定……。
この比率での連続運用は、正常な神経構造ではまず耐えられない。
反応因子の閾値が破綻する可能性が高く、脳の損耗──。
すなわち、白痴化のリスクが“かなりの高確率で”予測される。
それでも──構わない。
もう移送が決まってしまった。
ならば、自分が為すべきは、観察ではなく、“証明”だ。
名を折る。
ジャンヌという名前が、自らの口から否定されたとき──。
この素材は、加工済となる。
“ジャンヌじゃない。私はリディアだ”
そのひと言を聞ければ、それでいい。
ヴェルナーは、最初の魔導起動符に指を添えた。
けれど──そのときだった。
吊るされたジャンヌの身体が、わずかに動いた。
──違う。動いたのではない。震えていた。
肩が揺れている。
呼吸が、早い。
肺が限界ぎりぎりまで開いては潰れ、潰れては開いていた。
全身は汗に濡れ、肌は薄く紅潮していた。
股間からは、尽きることのない愛液が、重力に従って床へと滴り続けている。
滴音が、静かな牢の空気に打ちつけるように響いていた。
だが──それでも、目は死んでいなかった。
うなだれていた顔が、ゆっくりと上がる。
その瞳が、ヴェルナーを見据えていた。
血走っていた。
焦点はやや揺れている。だが、それでも、確かに──見ていた。
ヴェルナーを、睨んでいた。
そして、唇が微かに動いた。
「……や、やあ……」
口角が、ほんのわずかだけ、吊り上がった。
「……そんな顔して、今朝はずいぶん……急ぎ足じゃないか……隊長」
その言葉に、ヴェルナーの指が一瞬、止まった。
淡い皮肉。
意識は朦朧としているはずだ。
それでも、この女は言葉を選ぶ余力を残していた。
──まだ、残っている。
ジャンヌという“自己”が、名と共に、そこに。
だが──それでいい。
いまこそ、その“芯”を折る。
ヴェルナーは視線を逸らし、淡々と起動符に指を置いた。
スピナを室内にいる兵から受け取る。
核部が微かに震え、握り手にある淡い光が小さな魔道盤上に広がる。
比率設定:苦痛三、快楽七。
出力設定:最大許容値の第五段階。
誤作動遮断:解除。
まずは、スピナをジャンヌの脇腹に押し当てる。
「うわあああああっ」
ジャンヌの身体が、それだけで過激に反応する。だが、まだ作動前だ。しかし、それだけでこの過剰反応。
それは恐怖か。拒絶か、屈服か……。
視線の端で、床に落ち続ける愛液の滴が、まだ続いていることを確認する。
すでに、恐怖だけで身体が反応している。
スピナ、起動──。警棒のような神経棒の根元にある起動スイッチを押す。
最初の刺激が、ジャンヌの脊髄を走った。
スピナが作動した。
その瞬間、空気が跳ねたように震えた。
「──あ、ああああああっ……」
ジャンヌの身体が、吊られたまま跳ね上がる。
脊髄が脈動し、筋肉が暴発的に収縮した。
肺が震え、喉が悲鳴を漏らし、
開かれた口から、掠れた声が、火花のように弾けて飛んだ。
「や……やめ……っ、あっ、く、ああ……」
汗と涙と、唾液と……
あらゆるものが同時に溢れた。
身体は崩れているのに、名だけは崩れない。
ヴェルナーはスピナを握ったまま、その様を冷静に観察していた。
だが、確かに──限界だった。
太腿が震え、肘が痙攣し、首が背に反る。
下腹部からは、耐えきれずに放たれた熱液が床を打った。
もはや制御も理性もない。
──それでも、目が死なない。
血走り、涙で濡れたままの瞳が、まだ──まだ、こちらを見ていた。
「……ジャンヌ……だ……わたしは……っ……」
叫びにもならない言葉。
それはもはや祈りであり、呪いでもあった。
そして。
「えっ?」
刹那。
なにかが“違う”感触を伝えた。
ヴェルナーは、わずかに眉を寄せ、胸に視線を落とした。
そこには──銀の刃が、あった。
胸の中央から、まっすぐに突き出ていた。
自身の血が、脈打つように噴き出し、床を濡らす。
手にしていたスピナが床に落ちる。
理解が、遅れた。
「な……ん、だ……」
喉の奥に鉄の味が広がる。
言葉が、途切れる。
その直後、壁際にいた兵の喉元からも、鮮血が音を立てて噴き出した。
兵が、倒れる。
倒れた拍子に、目が合った。
だが、その目には──すでに焦点はなかった。
なにかが起きた。
だが、ヴェルナーには、もはや認識できなかった。
「……なん、だ……これは……」
膝が抜けた。
世界が横に回転した。
自分の手が床を探るが、もう力はこもらない。
最後に見たのは、吊られたジャンヌの瞳だった。
死にかけの女と、死にゆく男が、交差するように視線を重ねた──。
その瞬間、すべてが、途切れた。
──あれが、自分の声だということに、気づくのに時間がかかった。
喉の奥から噴き出していた。
怒鳴るでも、叫ぶでもない。
ただ、振り絞られた獣のような声だった。
息が合わない。肺がうまく開かない。
肋骨が擦れる。熱い。全身が燃えているように痛い。
でも、それよりも、ひどいのは──下。
なにかが流れている。
水のような、それでいて違う、どろりとした感覚。
脚の付け根を抜けて、床に滴っている。
自分が、それを止められない。
いや、これは記憶だ。
実際には、そばにいる兵はひとり。
いまは、日付の変わる時間なのか、ジャンヌは拘束されているだけ。
放置の状態。
幻覚を感じるのは多分、昨日くらいから。
ヴェルナーの拷問で苦しんでる。泣き叫んでいる。
でも、それをもうひとりの自分が観劇でも眺めるように冷静に見ている……。
そんな感覚……。
現実のジャンヌの腕は、幻覚と同じように吊られていた。
背中が引き攣り、肩の感覚はほとんど残っていない。
でも、意識は──まだある。
まだ、落ちていない。
ヴェルナーが、いた。
あの男の顔が見えた。
飢えた実験獣のような、歪んだ目。
でも、実際にいるのか。それとも、また幻覚か。
まあいい。
いずれにしても、あれに名前を奪われるわけにはいかなかった。
「……や、やあ……」
唇が割れていた。
でも、笑った。無理やり、吊り上げた。
本物のつもりで話しかける。
「……そんな顔して、今朝はずいぶん……急ぎ足じゃないか……隊長」
自分でもなにを言っているのかわからなかった。
ただ、そう言えば、“私”でいられる気がした。
起動音が聞こえた。
低い、金属の唸り。皮膚が、先にそれを聞いた。
──くる。
次の瞬間、脇腹になにかが触れた。
「うわあああああっ」
声が、遅れて出た。
脳が後から悲鳴を上げた。
まだ、作動はされてない。しかし、恐怖がジャンヌに悲鳴をあげさせる。口を閉じることはできなかった。
「……ならば、始めようか」
ヴェルナーの冷徹な言葉。
今度こそ、来る──。
次の瞬間……。
神経が、なにかの針で逆撫でされたように弾けた。
「──あ、ああああああっ……」
全身の感覚が、爆発していた。
快楽なのか、苦痛なのか、わからない。
でも、なにかが“裂けて”いく。
「や……やめ……っ、あっ、く、ああ……」
腰が砕けるように震えた。
尿意がこみ上げ、次いで、なにかが抜け落ちる。
恥も、理性も、崩れた。
すべての穴という穴が、開いてしまう。
でも、それでも──言うしかなかった。
「……ジャンヌ……だ……わたしは……っ……」
喉は潰れていた。
涙も、唾液も、もう息すら奪われていた。
それでも──ジャンヌは、名を言った。
ジャンヌ──。
それが、ジャンヌの砦だった。
崩れかけて、擦り切れても、最後まで抱えていたもの。
たとえこの先、なにを奪われようと──そこだけは譲れなかった。
──ジャンヌだ、と。
視界の端で、ヴェルナーがなにかを言おうとした。
そのときだった。
目の前にあった男の胸から、銀の刃が突き出た。
現実味がなかった。
赤い霧が、弧を描いて飛んだ。
彼の目が、自分を見た。
でも、そこに理解はなかった。
「……なんだ……?」
そう言ったように見えた。
次の瞬間、男の身体が崩れ、音もなく倒れた。
横で見張っていた兵士の首からも、血が音を立てて流れた。
誰も、説明しなかった。
誰も、言葉を発さなかった。
ただ、あの異様な沈黙の中──。
吊られたままの自分が、ひとり、呼吸をしていた。
ヴェルナーの身体は血の上に崩れたまま。ぴくりともしない。
それを見た瞬間、意識の奥に張り詰めていたなにかが、ぷつりと切れた気がした。
なにが起きたのか、理解はできなかった。
だが──目の前の男が、死んだことだけはわかった。
たったいままで、ジャンヌの脇腹に押し当てられていた《スピナ》も、床の血溜まりの中に転がっている。
それだけは、確かだった。
人の姿が出現した。ふたりが首輪のようなものを外したように見えた。
足音が、近づく。
視界が霞んで、誰の姿か判然としなかった。
けれど、濃い金の髪が揺れ、輪郭がようやく輪郭を持ちはじめた。
──知っている顔だった。
「……ソニア……?」
自分の声が、掠れていた。喉の奥が切れているように痛む。
女は、こちらを見て、ふっと笑った。
「随分と色っぽい格好ね、ジャンヌ。……遊んであげたいけど、迎えの馬車が外に待ってるの。死んでるこいつらのことに気づかれる前に、駐屯地を出ないと」
淡々とした声。だが、裏打ちされた実行力があった。
そのあいだに、もう一人の男が、ヴェルナーの死体を探っていた。
──顔は見えなかった。けれど、身のこなしが異様に静かだった。
すぐに、鍵が見つかったらしい。
金属音がひとつ。拘束具の錠が外され、両手が自由になる。
けれど──
身体は、動かなかった。
膝が抜けていた。
肩がぶら下がっているようだった。
背中を支える力が、どこにも残っていなかった。
床にそのまましゃがみ込む。
「……どういう、こと……なの……?」
誰に聞いたのかわからない。
でも、そう呟いていた。
大きな布を身体にかけられた。そのまま、両肩を誰かに担がれる。
両側から腕が差し込まれ、ゆっくりと持ち上げられた。
しばらく、狭い廊下のようなところを歩き、開けた部屋に出た。
意識が半ば沈んでいた。けれど、見えた。
営舎の隊舎。
──死体が、あちこちに転がっていた。
部屋の壁に、座ったままの兵士。
扉の前で、首を斬られた男。
叫びも、音も、どこにもなかった。
部屋の外の廊下にも、同じような騎士の死体がある。
外に出る。
黒い馬車が、隊舎裏門に横付けされていた。
扉が開き、ソニアと男──それに、自分。
三人が乗り込む。
ソニアが合図を出すと、馬車が動き出した。馭者がどうなっているのかはわからない。
しばらく、誰も口をきかなかった。
ただ、車輪が石畳を叩く音だけが、淡く響いていた。
そして。
駐屯地の営門を、馬車が越えた。扉の小窓からの景色で見えたのだ。
音もなく、ただ──通った。停止もなし。点検もなし。
その瞬間、背後で門が閉じる音が、なにかの終わりのように響いた。
男がこちらを見た。
布が一枚、首にかけられる。
「遠隔信号を無効にする。魔核については、ここでは外せないが……技師と医師を待機させてる。簡単な処置で終わる」
その声に、ようやく目を凝らす。
真っ直ぐな眼差し。
深くて、底の読めない瞳。
「……あなた、誰……なんだい?」
声になっていたか、わからなかった。
けれど、男は微かに笑った。
「ルシアン=モントレフォール。君を迎えに来た者だ」
そして、わざとらしい口調で言った。
「──貴方は、僕に誘拐された。ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌ。ヴァランティーヌ侯爵家が僕との政略結婚の契約を破棄したうえに、金銭支援を踏み倒した報復としてね」