侯爵令嬢物語【完結】〜羞恥と快楽の果てに令嬢と女騎士の姉妹が選んだ甘美な隷従 作:ドン・ドナシアン
──香が、まだ残っている。
ティエリ=ド・ベルモントは、寝台に背を向けたまま、寝室の机の前で、その名残を鼻先でなぞっていた。
床に垂れたショールの端が、朝の風にかすかに揺れている。
紅絹の寝台には、薄く血が滲んでいた。昨晩、女に少しだけ鞭をくれてやったのだ。
そして、柔らかく鳴いたのを、平手で黙らせたときの舌の震え──あれは、なかなか素直だった。
女は、もう出て行った。
小遣いを多めに渡し、夕方までは戻るなと告げておいた。喜んでいた。
いまごろは、馴染みの宝飾店で宝石でも物色している頃だろう。
最初に抱いた夜の、あの腰の跳ね方──忘れがたい。
育ちのいい女は、折れるときの音が澄んでいる。
肌を鞭で打つたびに、奥のほうが甘く鳴るようになっていった。
──子爵家の未亡人だが、あの気の強さで、もともと伯爵家の次女ともなれば、子爵家では誰も扱いきれなかったろう。だが、自分は違う。
壊すと決めたものは、最後まで手をかける。
正妻には、そんなことはしない。
妻には安らぎと敬意を与える。
子どもたちにも、分は守らせるが、愛情は注いできた。
だが──それ以外の者には、情は不要だ。
与えるのは、忠誠と報酬、そして──従順な快楽だけでいい。
薄くなった黒茶が、やけに苦く感じた。
茶師は変えていない。だが、味がぼけていた。
──舌のせいではない。脳が濁っている。
報せが、濁っていた。
朝の鐘とともに届いた報告は、三件。
内容は、すべて違った。
“行方不明”、“通信途絶”、“収容区画封鎖”──それぞれが、別のことを語っていた。
だが、ひとつとして、真実を伝えていない。
ティエリは、椅子に腰を下ろし、冷めた盃に手を伸ばすこともせず、黙って次の音を待った。
──混乱が片付くには、時間がいる。
そして、いま来るのが“確かな音”であることを、すでに自分の耳は知っていた。
──ロシュが来るまでは、信じない。ロシュはティエリの裏の仕事の直属の部下であり、もっとも信頼をしている部下のひとりだ。
そのロシュを待つ。
それだけが、朝のあいだに決めた唯一の方針だった。
……扉が、二度、軽く叩かれた。
「入れ」
自分の声が思ったより低く響いた。
ロシュの足音は、変わらない。だが、今日は、ひと足ぶんだけ、重い。
「──確定いたしました」
視線を上げる。
「言え」
「第一騎士隊、地下第五収容区画。隊長、死亡。そのとき、営舎にいた者は全員、死亡。……ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌの身柄が、確認できておりません」
喉の奥に、黒茶の苦味が広がった。
嚥下しても、消えない。
咳払いをするほどのものではない。だが、確実に残る重さだった。
「死因は」
「ヴェルナー=レグニエ隊長は、心臓を後ろから一突き。即死です。他の者──十二名。ほぼ全員、喉を。静かで、速やかでした」
「……侵入経路は?」
「記録には、ありません。ただ──馬車が、入っています」
「馬車?」
ロシュは頷いた。その動きが、今日はやけに鈍く見える。
「黒い馬車。夜明け前に第一騎士隊の門を通過。入るときも、出るときも、隊長命令で通されております。ただ、蒼印の通行証を持っていたと」
「蒼印か……」
「間違いないようです。ただ、本物の通行証は盗まれてはいません。確認しました。おそらく、偽造だったものと……」
蒼印の営門通行証──。ティエルが差配している人身売買ギルドのドミエンヌの通行を許可する特別な通行証だ。その蒼印の通行証を持っている黒色の無印がギルドの馬車だと知っているのは、死んだヴェルナーのほかには数名しかいない。
つまりは、ジャンヌをさらった連中は、なんらかの方法で、ギルドの移送用の手段を知り、同じ馬車を準備し、同じ通行証を偽造して、堂々と騎士隊の駐屯地に潜入し、ヴェルナー以下の騎士十数名を騒がれることなく暗殺して、悠々とその馬車でジャンヌを乗せて出ていったことになる。
何者なのか……。
「……とにかく、その黒馬車が通行証で通って、全員が死んで、女がいなくなった──それが、事実だな」
「はい。それ以外の記録も証言も、いまのところ出ていません」
ティエリは、黒茶を飲もうとしてやめた。
盃の底に沈んでいた沈殿が、ほんのわずか揺れている。
「音もなく、か」
「はい。門衛も、誰も、疑問を持っておりません。地下のことは地下の指揮に従う──その通達を守っただけです。ああ、それと、馬車の通過については、死んだヴェルナー隊長の指示があったようです。止めることなく通過させよと」
「ヴェルナーの命令で通した馬車が、ヴェルナーの死体を越えて出て行った。……それで、誰もとめなかった……」
「はい。現場では、誰一人として、異常と認識しておりませんでした」
呼吸が深くなった。
咳でも、呻きでもない。
ただ、喉から肺にかけて、湿った空気が残った。
「──抜かれたな」
そう考えてはじめて、背筋に、ぬるい汗が伝った。
事実として理解はしていた。だが、“通された”のではない。“抜かれた”のだ。
軍の門を、軍の命令で、偽装された手段が通り抜け、軍の内奥を殺し尽くした。
これは、ただの拉致ではない。これは──“侵食”だ。
指先に意識を戻す。盃の縁をなぞるようにして持ち上げ、ひと口だけ含んだ。
やはり、味がなかった。
「……黒馬車の姿は?」
「屋根付きの四輪。徽章はなし。車輪の銀象嵌が、ドミエンヌの貨物車と酷似しています。門衛の証言とも一致を見ています」
「では、外形も……」
「はい。完全に“それ”と見なされていたようです。誰も疑わなかったのは、通行証だけでなく、形まで完璧に似せていたからでしょう」
そこまでやる。
そこまでやれる──何者かがいるということだ。
ギルドの運用馬車の構造を知り、蒼印通行証を偽造し、なおかつ隊長を含む十三名を無抵抗のまま斃して、痕跡すら残さない。
それが、いまジャンヌを持ち去った何者か。
──貴族か。
──教会か。
──財閥か。
──あるいは……。
名を挙げられない。
だが、狙いだけは、ぼんやりと見える。
証人を抹消するためではない。
むしろ──守ろうとしている。価値があると見ている。使えると思っている。
それだけは、間違いなく伝わってきた。
そのとき、魔道通信具が震えた。
核の縁を巡る光が、室内の空気をひときわ重くした。
ティエリは椅子に身を沈めたまま、黒茶の器に目を落とし、動かない。
ロジャーが一歩進み、接触印に手をかざす。
「──第一騎士隊副長、リュカ・カドランからの通信です。臨時指揮中とのこと」
ティエリは頷く。それが指示だった。
ロジャーが接続を承認すると、若く張った声が通信核から落ちた。
『こちら第一騎士隊副長、リュカ・カドランであります。現在、ヴェルナー=レグニエ隊長の指揮を臨時に引き継いでおります。報告が遅れました。地下第五収容区画、隊長を含む十三名──全員死亡を確認。ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌは所在不明です』
ロジャーは落ち着いた声で応じた。
「確認いたしました。続けてください」
『営門の通過記録により、黒い馬車の出入りが確認されています。入出ともに隊長命令として処理され、提示されたのは蒼印の通行証です。照合の結果、保管中の本証に異常はなく、提示されたものは偽造と断定されました。侵入経路は記録されておらず、不明です』
「了解。報告は口頭のみで。文書記録は残さぬようお願いします」
『かしこまりました。そして、もう一点、確認事項がございます。第五時刻三十分、隊長宛に魔道通信が接続されています。記録された認識符号は“C帯認識コード・7319”──内容は不明ですが、隊長はその直後、単独で地下第五区画へ向かっております。隊長から、当該コードの持ち主は閣下であると聞かされておりました……。念のためお伺いします。この通信は、閣下からのご指示で間違いないでしょうか?』
ロジャーは、ちらとティエリを見た。
ティエリは視線を返し、わずかに首を横に振った。
迷いはなかった。
ロジャーは静かに前を向いた。
「──そのような通信は、一切、行っておりません。当邸の通信具は、第五時刻三十分において使用されておりません。閣下からのご指示は、存在しません」
通信の向こうで、わずかに息が詰まる気配がした。
『……ご確認、誠にありがとうございます。失礼をお許しください。以後のご報告も、必要に応じて口頭にて申し上げます』
「そのように願います。ご苦労さまでした」
魔道通信具の核が光を沈め、室内に再び静寂が戻った。
だが、いまやその静けさは、情報の断絶ではなかった。
はっきりと、敵の手が──触れていた。
──動機が、見えない。
この女が狙われた理由も、隊を丸ごと潰した理由も、まだ形を成さない。
だが、これだけは確かだった。
やれる者の仕業だ。
門を抜き、符号を騙り、記録を残さず、人を殺し、女を奪う。
しかも、自分の名を騙って──。
こういうことをやるのは、貴族ではない。
礼も、格式も、手続きを知っている者なら、こうは動けない。
──そういうのは、あいつらだ。
平民の成り上がり。
財閥。
あの、レヴァニア。
名前もろくに知らないような薄汚れた連中が、いつの間にか王都の隅で牙を研いでいる。
総帥は秘匿されているが、ティエリには調査結果はあがっている。──ルシアン=モントレフォール──。
売官貴族。ただの一代目。
血統も、地位も、格式も──なにも持たない。
本来なら、わざわざ目を向ける必要なんてなかった。
でも、どういうわけか、彼のすることなすことが、いちいち腹立たしいのだ。
あれでいて、平民のくせに出世したばかりか、今度はあの“ドミアンヌ矯正施設”の名を掲げて、なにかを始めたという。
それは、旧王朝の時代、まだ貴族たちがいまよりずっと貴族らしかった頃に使われていた、平民を更生させるための施設の名前だった。
そして彼は、それを“再興”したらしい。けれど、中身はまるで違う。
退廃と堕落の館。
平民が上級貴族を調教するための場所だなんて、聞くだけで、どうかしてると思う。
もちろん、表向きは経済塾という名目で運営されていて、実際も、淫愛を交わすためのサロンにすぎない。
王都には似たような場所がたくさんあるし、仮に誘拐や監禁の事実があったとしても、それを証明できなければどうにもできない。
それに、あのサロンに通っている貴族の夫人や令嬢たちは、むしろ楽しんでいる節すらある。
まるで、嬉々として足を運んでいるみたいに。
男の顧客も多いようだ。彼らはそこで、女たちの擬似的支配と調教を愉しむ。だが、女を飼育する役割となる男の会員資格は厳しいらしい。爵位や金銭だけではだめで、研修も必要なようだ。
しかし、その加入の厳しさが人気も作っている。
つまりは、もうしっかりとした顧客層がついてしまっているということだ。
こちらが手を出すには、いささか難しい。
ようやく糾弾できそうな材料が見つかったのはつい最近のことだ。
ヴァレンティーヌ家の娘がその館に連れ込まれたという情報を得て、証人として確保しようとした。
でも、それも失敗に終わった。
娘の婚約者であるルネが、学園で確保を試みたものの、取り逃してしまったらしい。
退廃のサロンに対抗するために、こちらでも“真のドミアンヌ”と呼べるような施設を作ってみた。
神に選ばれた貴族たちにふさわしい、平民を弄ぶ性宴。
性奴隷の売買も含めて、貴族としての“正統な”快楽を提供する場だ。
それなりに需要はある。
だけど、それだけだ。
あちらの“偽のドミアンヌ”に通っている顧客たちを、こちらに奪えるほどの勢いはなかった。
いまのところ、どうにも打ち手が弱い。
そんな時に、今回の件が起きた。
競りにかけようとしていた一人の娘を奪われたことなんて、実のところどうでもよかった。
でも、その娘を確保する役目を任せていた第一騎士団が壊滅させられたとなれば、話は違ってくる。
どう考えても、それはあの男の“宣戦布告”のように思えてくる。
先に手を出してきたのは、こっちじゃない。向こうだ。
──なら、それでも構わない。
口に出すことはない。
ただ、手の中の黒茶の温度が、かすかにその答えを教えていた。
──やられたなら、やり返すだけだ。
もちろん、このままで済むとは思っていない。
──火の粉が、静かに揺れていた。
石組みの炉の奥で、小さな炎が薪を嘗めている。ぱちり、と音がひとつ。部屋の空気が、ゆっくりとたわんで、戻る。
ここは、王都の東、森の奥深く。地図にも載らない旧狩猟小屋──外観だけ見れば、いまにも崩れそうな山小屋だ。
けれど、それは幻影にすぎない。
外壁の周囲には、魔道遮断と撹乱結界が三重に張られている。内部は完全に改修され、診療・封印・監視・戦闘支援に至るまで、財団仕様の臨時施設として機能する隠れ処だった。
館に戻らなかったのは、念のためだ。
今回は、正面からの襲撃だった。しかも早朝とはいえ、白昼、駐屯地の中枢を突いた強襲。痕跡の残滓すら、館に持ち帰るわけにはいかない。
ジャンヌを乗せた黒馬車は、王都を出た直後で別の車両に乗り換え、使用済みの車両は処分済み。馬具の魔道刻印も焼き潰し、経路上の観測点はすべて撹乱済みだ。
ルシアンは、いまジャンヌとソニアとともに、その隠れ処の山小屋の一室にいる。
灯りは、炉の火だけ。木製の椅子に深く腰を沈め、寝台の上を見ている。
ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌ。
まだ、目を覚まさない。
だが、呼吸は安定していた。脈も正常。医師の報告では、意識は深層に沈んだままだが、回復は順調だという。
──魔核は、すでに取り除かれている。
あれは、人格を砕くための拷問具だった。逃亡を不可能にし、神経の感受領域を捻じ曲げ、命令による支配を刷り込む。
純血派の異端技術。財閥の技師によれば、旧王朝時代の残滓の可能性があるという。
遠隔操作はすでに切断されている。追跡魔紋、発火信号、共振制御、すべて潰した。
いま、ジャンヌの身体は誰の支配にも属していない。
ただ、眠っている。
「ジャンヌとは……数年来の飲み友達だったのよ……」
ソニアが口を開いた。
外套を脱ぎ、腕を組んだまま、炉の炎を見つめている。
「親しかった?」
ルシアンは、寝ているジャンヌに視線を向けたまま応じた。
「親しかった……のかな。あんまり、どういう人間なのかは知らなかった。互いに素性も訊かず、詮索もせず。ただ、たまたま同じ酒場で出会ったときだけ、同じ席で酒を飲む。そんな関係……。言葉は少なかった。でも、礼儀は崩さず、冗談も交わせて……ちゃんと、敬意があった」
「でも、友達?」
「そうね……。それでも、友達だったと思う」
ルシアンは、わずかに目を伏せた。
「……だったら、壊れてなくてよかったね、ソニア姉ちゃん……」
その一言に、ソニアは何も返さなかった。
ただ静かに、炉の炎を見つめていた。
ぱちり、と薪がひとつ爆ぜる。
ルシアンは、目の前の寝台から視線を外さなかった。
そのジャンヌの眉が、かすかに動いた。
まぶたが震え、ゆっくりと目が開く。
焦点はまだ曖昧だったが、瞳には確かな意識の気配があった。
喉がひくりと動き、唇が少しだけ開いた。
「……こ……こは……?」
舌がうまく回らないのか、音は不明瞭だった。
それでも、意味は読み取れた。問いとして、最初の言葉だった。
「王都の外だ。森の中にある、仮設の施設。いまは僕たちしかいない」
ルシアンは、椅子から身を乗り出すことなく答えた。
ジャンヌの目がこちらに向く。
まだ完全に合ってはいないが、認識しようという意志があった。
まぶたが上下して、一度だけ深く呼吸を入れる。
ソニアがジャンヌに寄っていき、寝台の横の台から吸い飲みをとってジャンヌの口に持っていく。
回復薬を薄く溶かしてある水だ。
ジャンヌは勢いよく吸い飲みから水を飲んでいたが、半分意識がないような感じだった。
ソニアが空になった吸い飲みを台に戻すと、やっと顔に生気が戻る。
だが、横のソニアの存在さえ、気がつく感じはない。
「……た……ち……?」
言葉がひとつずつ、音として成形されはじめている。
ルシアンは短く頷いた。
「僕と、ソニア。貴方を奪いに行った」
ジャンヌのまなざしが微かに揺れた。
記憶が、輪郭を探している。
「そこに……いたのが……見えた、ような……気が、する」
唇の端に、僅かな熱が戻ってきた。声が前よりも通っている。
「ああ。間違いなく、貴方のそばにいた」
ジャンヌは、しばらく黙ったまま目を閉じた。
数秒の沈黙ののち、再び目を開くと、今度はゆっくりとこちらを見た。
動きに無理はなかった。感覚を確かめるような慎重な挙動。
「……男の声がした……最後に……名を、言った……」
ルシアンは静かに応じる。
「僕だ。名前だけは伝えた」
再び、数拍の間。
ジャンヌの目が、今度ははっきりとルシアンを捉えた。
もう揺れていない。
ルシアンを見たジャンヌの目が、さらに深く焦点を結んだ。
「ルシアン=モントレフォール……って、確か名乗ったね」
声は静かだった。けれど、その端々には、かすかな笑みが乗っていた。
口元の曲線が、意図的に保たれた余裕を示していた。
とても美しい顔だと思った。妹のセリーヌは春の陽だまりのように可愛らしいが、姉のジャンヌは冬の朝日に似た凛々しさがあった。
「確かに名乗ったな」
ルシアンは応じる。
「うん……。冷徹にして、冷酷。王国法を無視して、平民に魔道具を売りさばいて荒稼ぎ。その資金で、上級貴族に淫具を流行らせて退廃させて──最後は、ドミエンヌの館っていう奴隷宮を建てて、そこに君臨するっていう……」
そこで一息ついた。
「──悪党の名と、同じだった」
視線は逸らさず、口元だけが緩んでいた。
冗談にしておくか、本気と取るかは、受け取り手次第という調子だった。
「……舌のまわる女は、回復が早いわね」
ソニアがぽつりと呟いた。
炉の前から近づいてくる気配。視線が合った。
ジャンヌは、その存在に気づき、瞬きひとつ。
「……ほんとに、いたんだね。夢じゃなかった」
「そのとき、わたしがもっと綺麗に見えたなら、夢の方がよかったかもね」
「残念、見慣れた顔だったから、夢ってごまかせなかった」
ふたりのあいだに、言葉の往復が生まれていた。
ルシアンはそれを見て、初めて姿勢をほんのわずかに崩した。
ジャンヌの目が、再びこちらを向く。
「それで──これは、どういう状況か、教えてもらえる?」
ジャンヌの声には、すでに明瞭な意識が宿っていた。
表情も、口調も、目の動きも──かつての彼女を取り戻している。
「五日前、貴方は第一騎士隊の駐屯地にある営舎牢に収容された。責任者は──隊長のヴェルナー=レグニエ」
ジャンヌのまぶたがわずかに動く。
その名を噛みしめるように反芻し、低く息を漏らした。
「ああ……最悪の相手だったね……」
「尋問の詳細は把握している。だが、いま話すべきことは別だ。貴方は、数日後──女囚として地方監獄に移送される予定だった。表向きは、ね」
「裏は?」
「人身売買組織が運営する競りの会場。そこに送られる手筈になっていた」
ジャンヌは一瞬だけ硬直し、それから目を伏せた。
「……競りに、ね。私が……」
「極秘の出品リストが財団に流れてきた。そこに、貴方の名前があった。もっとも、ジャンヌ=ヴァランティーヌではなくて、平民兵リディアとなっていたけどね」
「出品者は──ヴァレンティーヌ侯爵?」
「知ってたか」
「やっぱり……そうだったんだ……。あの人、昔からそう。自分では手を汚さない。でも、都合が悪くなると──娘ひとり、喜んで差し出す」
「侯爵単独の判断ではないはずだ。あの立場で、そこまでの連携は取れない」
「背後は……ベルモント伯爵……だよね……」
「そこまで、知っていたのか?」
さすがにルシアンも驚いた。
ジャンヌは、わずかに視線をずらしながら、肩を落とすようにして言った。
「薄々ね……。あいつは、伯爵にいいように利用されているんだ」
ルシアンは口を閉ざしたまま頷いた。
「その仮説と財団の情報は、一致している」
「やっぱりね。じゃあ、私をさらうのに、騎士隊を動かしたのはベルモント伯爵かい?」
「そういうことだ」
ジャンヌは、天井を見上げるようにしながら、ひとつ息を吐いた。
その顔には怒りも憎しみもなく、ただ冷ややかな理解があった。
「それで……どうやって私を、あの営舎牢から連れ出したんだい?」
「人身売買ギルドの移送馬車を用意した。同じ型だ。印章も偽造して、ベルモンドの声を魔道で作って、ヴェルナーに無条件で通過させるように指示した。素通りだったよ。行きも帰りもね」
「正面突破、ってこと?」
「そうだ。門番も通している。必要な者には、それなりの対応もした」
ジャンヌは、少しだけ眉をひそめた。
「驚いたね。同じ王軍の将校としては複雑だけど。それで、何人で動いたんだい?」
「陽動で動いたのは多いけど、実働は、僕とソニアのふたりだな」
「……二人?」
驚きよりも、呆れが先に立ったようだった。
ジャンヌは顔を横に向け、軽く笑いながら言った。
そして、真偽を確認するように、ソニアに視線を向けた。
「……本当よ。あたしは、無茶はやめようって言ったんだけどね。最短の手段はこれしかないって、押し通されたわ」
ソニアは肩を竦めている。
ジャンヌの眼がさらに大きく開く。
「……あなたたち、いつもそういう無茶しかしないのかい?」
「まあ、結果としては最短の道だったわね。ルシアンの言うとおり……。ついでに教えるけど、ヴェルナーを殺したのはルシアン。ほかに、駐屯地内で殺害した騎士は十二人ね。陽動でかなり、営舎から追いだしたけど、それでも残っていた連中ね」
ジャンヌは、しばらく言葉を失ったように黙った。
そして、短く笑った。
「はあ……ほんと、呆れるわ。正気じゃない」
「その通り。でも、あんたが毀れきる前に──間に合わせた」
ソニアだ。
ジャンヌの目がふっと細くなる。
しばらく、何かを噛みしめるように黙っていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「でも、ひとつだけ、引っかかってるの。どうしてあの瞬間、あなたたちが突然目の前に現れたのか……ほんとうに、空気が裂けたみたいだった」
「あれは、《シルヴァー=ノーテス》。視覚と気配を限定的に遮断する認識阻害具。うちの魔道研究部署で設計した潜入装備。正式には封印扱い」
ソニアが答えた。
「そんなもの……現場で見たこともなかったね」
「表には出ない。使える者も限られてる」
ルシアンは、口を挟む。
「そうなの……ね」
「ああ。もともとは調教用の淫具だ。露出調教に使う。誰にも認識できないが、本人には見える。露出責めに弱いヴェルース用に開発させた」
「違うわよ。潜入用の魔道具として開発したのが先よ」
ソニアが呆れたように言った。
「……あなたたちらしいね」
そう言って、ジャンヌがわずかに笑った
「……どうして、私を助けてくれたんだい?」
ジャンヌが、真顔でそう訊いた。
問いかけに迷いはなかった。答えを期待している風でもなかった。ただ、事実を確認するかのように。
ルシアンは、一拍だけ間を置いた。
「助けたつもりはない」
ルシアンは表情を変えずに答えた。
「それは……どういう意味?」
「誘拐したんだ。貴方を、僕が勝手に」
その言葉に、ジャンヌの目が細くなった。
けれど、次の瞬間、ふっと口元が緩む。
「ああ──そうだったか……」
思い出したように、どこか楽しげな声だった。
「んっ?」
「……確か、報復だって言っていたね」
「覚えていたか」
「ああ、あの時は朦朧としていたけど──あの言葉だけは、やけに耳に残った」
ジャンヌは上体を少しだけ起こし、ゆっくりと頷く。
「ああ、だから……」
「わかった。承知したよ」
ジャンヌはルシアンが言葉を紡ぎ終わる前に、あっさりと言った。
「……なにをだ?」
「私を、ドミエンヌに連れていくんだろう。セリーヌと同じように」
ソニアがわずかに息を呑んだ。
ルシアンも、言葉を失ってジャンヌの顔を見る。
ジャンヌは、穏やかな声で続けた。
「セリーヌって……。あんた、知ってたの、あたしたちのしていること」
「……結構ね。ソニアと最後に会った後、学園に潜入した。どうしてやろうかと思ったけど、まあ、あの娘も満更でもないようだし、様子を見てた……。だけど、私のことなら、助けてもらった命だ。あんたらがそうしたいというなら、承知した。だが、これだけは覚えておいてくれ……」
声のトーンは落ち着いていた。けれど、その一言ごとに、言葉は強さを帯びていく。
「なによ?」
ソニアだ。
「私は誘拐されていくわけでも、脅迫されていくわけでもない。ドミエンヌの館という場所に行くのは、私の意思だ」
「……ドミエンヌの館がどんな場所か、知っていて言っているのか?」
ルシアンは言った。
「性奴隷を育てる、調教と支配の館──だろう?」
その言葉のあと、ジャンヌは屈託のない笑い声を上げた。
快活というには静かすぎる。だが、迷いも、恐れもなかった。
「そんな場所に、自分から行こうというのか?」
ルシアンは、困惑した。
ジャンヌが笑ったまま、視線を合わせる。
「そうだね。あんたたちが連れていくって決めたなら、これも運命だ。だったら選ぶさ。あくまで、自分の意思でね」