※この作品はR-18です。

侯爵令嬢物語【完結】〜羞恥と快楽の果てに令嬢と女騎士の姉妹が選んだ甘美な隷従   作:ドン・ドナシアン

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5章  主のいない奴隷館
46  アルマン=ヴァレンティーヌの落日


 ──馬の嘶きひとつ、響かなかった。

 

 アルノー=グリモンは、二階の吹き抜けから玄関ホールを見下ろしていた。

 ヴァレンティーヌ侯爵家の家宰として三十年。だが、目の前に広がる光景は、かつて一度も経験したことのないものだった。

 

 五台の黒い馬車が、門を抜けて一直線に玄関前に並んだ。馭者の姿はなかった。それでも迷いなく動き、音も立てず、当たり前のように止まった。

 

 門兵は誰も止めなかった。いや、止めるどころか、頭を下げていた。

 

 ──あちらの方が主であるかのように。

 

 扉が、ひとりでに開いた。

 いや、正確には、玄関担当の従者が無言のまま、馬車の前に立ち、扉を押し開けたのだ。誰に命じられたわけでもない。

 

「なにをしている──。許可を取ったのか──」

 

 アルノーは階上から怒鳴った。だが、その声に返答はない。扉を開いた従者は、一瞥すらせずに姿を引っ込めてしまった。

 

 第一の馬車の扉が開いた。

 そこから現れたのは、女がひとりと四人の男たち。

 そして、アルノーは、その先頭の女の姿に息を呑んでしまった。

 

 女は長身で、夜のように深い黒髪。陶器のように白く整った顔立ち。そして、あまりにも静かすぎる眼差し。だが、その美しさよりも、ここからでも感じる殺気と威圧感──。

 

 ただ立っているだけで、玄関の空気が重くなった。まるで時間が止まったかのように、空間が凍った気がした。

 

 先の女に続いて、二台目、三台目と男たちが次々と馬車から降りてくる。

 何の躊躇もなく、勝手に屋敷へと踏み込んでいった。

 あっという間に、玄関ホールは十数名の男たちで埋め尽くされた。

 

 止める者は、ただのひとりもいなかった。

 

 ──いや、誰ひとり、止めようとすらしていなかった。

 

 アルノーは慌てて階段を下りた。

 玄関ホールは、すでに制圧されていた。

 

「貴様ら、なんのつもりだ」

 

 言った瞬間、足が震えているのを自覚した。

 声は出した。言葉にもした。だが、喉奥が乾ききっていて、威圧にはなっていなかった。

 

 女が、すっとアルノーの前に出てきた。

 一歩だけ前に出て、まっすぐにアルノーを見下ろす。

 

「ルシアン=モントレフォールが、侯爵にご用件があるの。すぐに取り次いでもらえる?」

 

 その口調は、礼儀を模していたが、中身は命令だった。

 

 ルシアン=モントレフォール。

 十日前まで、四女セリーヌ嬢の婚約者だった男の名だ。もっとも、実際には約半年前から、セリーヌ嬢は、ペルモント家のルネと事実上の婚約関係にあったから十日前とは、それを単に通告しただけの日だ。

 しかし、これはどういう状況なのだ。

 

「……しかし、面会の予定は聞いておりません。突然の訪問に応じることは──」

 

「へえ」

 

 女は口元を歪め、嘲るように笑った。

 

「じゃあ勝手に進むわ。あなたが案内しないなら、こっちで探すだけのこと。屋敷中探すわよ。全ての扉という扉を蹴り開けて、片っ端からね」

 

 そのときだった。

 入口の扉が開き、そこから新たに男が歩いてきた。

 

 ──ルシアン=モントレフォールだった。

 

 ただ歩いてくるだけなのに、まるで全員の重心が揺れたような気がした。

 彼の後ろには、三人の護衛が静かに付き従っている。

 

 しかし、それはかつて婚約手続きのために数度訪れた際の、腰の低い若者の姿とはまるで違っていた。

 まるで──この屋敷のすべてを知り尽くしている者のような、支配者の歩みだった。

 

「ソニア、侯爵をすぐに呼んで来い。客間で待つ」

 

 ルシアンは、それだけ言い、当然のようにホールを横切り、一緒にやって来た三人の護衛とともに、右手の扉を自ら開いて中へ入っていった。

 ソニア?

 誰のことだと思ったが、どうやら、目の前の女のことのようだ。

 女──ソニアが頷いている。

 アルノーが唖然として動けずにいると、女がふいに腕を掴んだ。

 

「そういうことだから、案内しなさい。侯爵のところにね」

 

 その手には、拒絶を許さぬ力がこもっていた。

 引きずられるように、アルノーは階段の裏手へと連れて行かれる。

 ──書斎だ。侯爵は、いつものように、そこで書類に目を通しているはずだった。

 だが、アルノーの心中は、まったく別のことに囚われていた。

 

 さきほどの従者。門兵たち。屋敷の者の多くが、あの男──ルシアンを主として扱っていた。

 命令を待つでもなく、咎めるでもなく。あたかも、“主”の帰還を受け入れるように、当然の顔で。

 

 買収か。間者か。それとも、恐怖に支配されたのか。

 どちらにせよ、もう、この屋敷は──すでに彼のものになっている。

 アルノーは、ぞっとした。

 

 


 

 

  ──外が騒がしい。

 

 アルマン=ド・ヴァレンティーヌ侯爵は、書斎の窓をちらりと見やった。

 玄関前が少しざわついているようだが、声までは届かない。

 家宰のアルノーが出ていった気配はあった。だが、それ以上の報せはない。

 

 静かに、書類に視線を戻した。

 積み上がった文書の山。領地収支の赤字報告。借財利息の催促状。

 もはや読み慣れてしまった文面の数々。

 

 手元の硝子杯を取り、薬草液を啜った。

 これなしでは、もはや眠れぬ夜が続いていた。

 

 ──ノックがあった。

 

 侯爵が顔を上げると、扉が開いた。

 

 入ってきたのは、五人の家人たち。

 顔ぶれには見覚えがある。

 書庫管理役のルネ、物資出納長のガストン、使用人長のセルジュ、副執事のモルヴァン、そして給仕頭のブラン。

 いずれも、長年仕えてきた上級役職の者ばかりだった。

 

 だが、様子がおかしかった。

 

 彼らは誰ひとり礼を取らず、無言のまま、まっすぐに書斎へと入ってきた。

 扉を開け放ち、侯爵を囲むように位置を取った。

 背後の出口には、ふたりが立った。まるで逃げ道を塞ぐかのように。

 侯爵は眉をひそめた。

 

「……なんの真似だ。用件はなんだ」

 

 立ち上がり、声に威を込めた。

 だが、彼らは表情ひとつ動かさなかった。

 怯えも、畏れも、気まずさも、なにもない。

 その目は、あまりに無機質だった。

 

 侯爵は違和を感じた。

 だが、すぐには言葉にできない。

 忠義を尽くしていたはずの者たち。

 だが、目の前に立っているのは、その“顔を持った別の存在”のように見えた。

 

「誰の命で動いている。アルノーはどこだ。返答しろ」

 

 怒声を重ねる。

 すると、前にいたセルジュが淡々と口を開いた。

 

「ルシアン=モントレフォール様のご訪問です」

 

 その名が口にされた瞬間、侯爵は一瞬だけ呆けた。

 

 知っている名だった。

 だが、いまここで、その名を聞くとは思ってもみなかった。

 

「ルシアン……? いま、なんと言った……?」

 

 思わず聞き返していた。

 返答はなかった。

 五人はそのまま、侯爵を睨むように静止している。

 重たい沈黙が書斎を覆った。

 

 そのとき、廊下の奥で足音が鳴った。

 扉の前に、アルノー=グリモンの姿が現れた。

 その傍らに、女がひとり──見たこともない、異様な美貌の女が立っていた。

 そして、女がゆっくりと部屋に入ってきた。

 足音ひとつ立てぬ歩みで、まるで滑るように床を渡る。

 

 侯爵は、ただ目で女を追った。

 視線を逸らすことができなかった。

 冷たい水を喉に流し込まれたように、背筋がこわばる。

 

「……誰の許可で、ここへ通った」

 

 侯爵は声を絞り出すように言った。

 だが、その問いに、女は応えなかった。

 

 返答の代わりに、静かに一礼する。

 礼と呼ぶには、あまりにも形式的すぎた。

 

「ルシアン=モントレフォールの代理として、ご挨拶に伺ったわ。侯爵」

 

 口元には笑みがあった。

 けれど、声には、鋼の芯のような硬さがあった。

 

 侯爵は机の縁に手を置いたまま、身動きもできずにいた。

 その名が、またもや突き刺さってくる。

 

「……婚約は、解消されたはずだ。あれは、正式に──」

 

「貴方の手紙一枚でね」

 

 女が静かに遮った。

 

「けれど、それで関係が終わったと思ったのなら、あなた方は少しお人好し過ぎるわ」

 

 その一言が、突きつけるように響いた。

 

「どういう意味だ」

 

「ルシアンは、恩を仇で返す相手を、けして放ってはおかないわ。それは、この十日で肌に感じたんじゃないの?」

 

 女はそう言った。

 声音に刺々しさはなかったが、その言葉には冷ややかな響きがあった。

 

「ああっ?」

 

「……あとは、ご自身で彼に会って、確かめてちょうだい」

 

 何者なのか、いまだにわからない。

 だが、そのまなざし、その佇まい。

 どこかで見た記憶があればと思ったが、思い当たる顔ではなかった。

 異様に整った容貌。冷徹な空気。

 

 侯爵は、ゆっくりと立ち上がった。

 この場で命じたところで、誰も従わぬだろう。

 拒絶は──無意味だった。

 

 女が道を開いた。

 侯爵は、もはや逃げ道などないことを理解していた。

 部屋を出る。

 廊下の空気が、妙に乾いている気がした。

 

──わかっていたのだ。

 ヴァレンティーヌ侯爵家が、すでに崩れていることは。

 

 かつて、この国の全ての富は貴族のものだった。当然に市場は貴族で独占し、上級貴族が得たものを中・下級貴族に分け与え、貴族は平民を育てる。

 その秩序のもとに、国はうまく動いていたのである。

 だが、レヴァニア財団という平民組織がそれを突然に崩壊させた。

 安定的な魔晶石の精錬技術の開発に成功し、レヴァニア財閥の持つ魔晶石精錬技術でなければ、全ての魔道具は成り立たなくなった。

 富は新たなレヴァニア財閥に集中し、財閥の後押しで平民層の商会が一気に市場に進出するようになった。経済の支配が階級と切り離されたのである。

 

 しかも、変化はそれだけではなかった。

 あの財閥は、新たな精錬技術をもって、そこから作れる安定した安価な魔晶石をもとに、平民にまで魔道具を行き渡らせていったのだ。

 魔道力のある貴族でない平民が、魔道具を使うという発想は、下劣で稚拙で、危険なものに見えた。

 だが──市場は圧倒的に変わった。

 

 魔道具を平民に解放したのは気に入らないが、富を得ていくには市場を支配しているレヴァニアに歩み寄るしかなかった。

 競争は無意味だった。

 レヴァニアに対抗しようとした者は例外なく、彼らの力に踏み潰されてしまった。競争となれば、レヴァニア財閥は全く無慈悲で容赦なかった。

 多くの純血派の家々は、表では批判しながらも、裏ではレヴァニアとの取引を選んだ。

 だが、アルマンは、上級貴族としてのプライドにしがみついた。レヴァニアとは一切取引をしなかった。

 それが、すべての始まりだった。

 

 事業は失われ、財務は逼迫し、借財は膨れ、出入りの商家は離れ、食糧と物資は止まった。

 ここまで、侯爵家であり得たのは、もとからあったものが大きかったからだ。

 しかし、もうここまでだ。

 すでに侯爵家の財政は破綻している。

 屋敷は痩せ細り、召使たちの目には、かつての忠誠はない。

 ──まるで、見限られた者を見る目だ。

 

 そのとき差し出されたのが、政略結婚だった。

 平民上がりの男、モントレフォール子爵。

 下賤の成り上がり。だが、金は持っていた。

 セリーヌとの婚約は、確かに、融資を条件としたヴァランティーヌ家側からの申し出だった。しかし、そこに至るには、モントレフォール側の接近もあった。

 だが、婚約を続ける気など最初からなかった。

 血筋の矜持に、泥を塗るわけにはいかなかったのだ。

 ちょうどそのとき、ベルモント伯爵家の嫡男──ルネとの縁談が舞い込んだ。

 ティエリ=ド・ベルモント。純血派の旗頭にして、辣腕の持ち主。

 爵位では下だが、あの男に頭の上がる貴族はいない。

 

 好きにはなれなかった。

 だが、力はある。

 ベルモント伯は、ヴァレンティーヌ家の借財の一部を肩代わりする用意があると伝えてきた。

 婚姻成立後という前提で、だ。

 契約には至っていなかったが、それで十分だった。

 

 侯爵は、セリーヌとモントレフォールとの婚約を一方的に破棄した。

 融資が残っている状態だったにもかかわらず──。

 

 その瞬間から、地獄が始まった。

 出入りの業者たちからは、現金払い以外の取引は一切断られた。

 取引銀行からは即座の返済を求められた。

 寄子関係にある貴族家や、関係していた商会からの連絡は、ことごとく断たれた。

 まるで、あらかじめ仕組まれていたかのように。

 

 いったい、どうして、わずか十日でここまでのことになるのか。

 破棄したのは、婚約だ。

 金銭は返済の途上ではあったが、違約というほどのものではなかったはず。

 だが、世界は豹変した。

 

 追い討ちをかけるように、ベルモント伯からも音信が途絶えた。

 「多忙につき、しばらくは連絡を差し控えて欲しい」との通達。

 ──それが最後だった。

 いや、正確には、ジャンヌの身柄と引き換えに、資金支援の話もあった。

 だが、その一件の後、接触は禁止され、完全に連絡は途絶した。

 

 それにしても……。

 ──おかしい。

 

 歩きながら気がつかざるを得なかった。

 屋敷の空気が違っている……。

 すれ違った者たちの目に、忠誠の色はない。

 無礼を咎めるべき者たちが、ひとりとして、言葉すら発しない。

 まるで──すでに、この屋敷の“主”が、すり替わっているかのようだった。

 

 背筋が、冷えた。

 恐怖というにはあまりに遅すぎたが、それでも、いまさらながら身震いがした。

 自分は、もう“主人”ではないのかもしれない──そんな予感が、ひどく現実味を帯びていた。

 

 最上級の客間の扉の前で、見知らぬ女が振り返る。

 

「こちらよ。中には、ルシアンがいるわ。気を確かにね、侯爵」

 

 その声は落ち着いていたが、ひどく冷ややかだった。

 なぜ気を確かに、なのか。

 わからなかった。

 

 扉が、音もなく開いた。

 侯爵は、息をひとつだけ吐き、なにも言わずに、その向こうへと足を踏み出した。

 

 扉の奥、静まり返った客間のなか──。

 

 上座の長椅子に、ルシアン=モントレフォールが脚を組んで座っていた。

 光の差さぬ重厚な空間のなかで、その男はまるで闇そのもののように沈んでいた。

 なにも言わず、なにも動かず。

 それでいて、室内のすべてが、その男の意志で成り立っているようだった。

 

 侯爵は、思わず足を止めた。

 あの男が、ここで待っていた。

 誰に告げられるでもなく、招き入れられるでもなく──。

 

 ルシアンが、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に、一片の情もなかった。

 

「座れ、侯爵」

 

 低く、濁った響き。

 命令だった。

 その言葉に、胸の奥が反射的に疼いた。

 どれほど地に堕ちようとも、自分はヴァレンティーヌ家の当主である。

 頭を垂れさせられる筋合いなど、本来はないはずだった。

 だが、言葉は喉の奥で凍りついたまま、声にはならなかった。

 ルシアンのその一言に、鋼のような冷たさと、斬りつけるような鋭さがあった。

 反射的に、戦慄が背を走る。気がつくと周りにはルシアンの一言で動きそうな屈強そうな彼の兵──。それに気がつき、反射的に皮膚が粟立った。

 侯爵は、言葉を返す間もなく、立ち尽くしていた。

 

 そのとき──。

 

 傍らに立っていた女が、無言で歩みを進めた。

 肩にそっと触れる。

 けして強くない。そのはずなのに、逃れられなかった。

 

「どうぞ。お座りになって」

 

 書斎からここまで一緒に来たあの女だ。

 柔らかな声だった。だが、それは強制力を帯びていた。

 侯爵は、抗うすべを失った。

 

 静かに、椅子へと腰を下ろす。

 背筋が伸びない。どこか内臓を掴まれたような違和感が、胸の奥に残っていた。

 

 そのまま、侯爵はルシアンを見た。

 目の前の男は、かつての融資交渉のときのような親しみやすさを一切まとっていない。

 商人のように低姿勢であったのは、ただの仮面だったのだ。

 いま座っているのは、すべてを飲み込み、塵ひとつ見逃さぬ支配者。

 ──それこそが、ルシアン=モントレフォールの“本性”なのだと、侯爵は遅ればせながら悟った。

 

「──嫡男アントールに家督を譲れ。今すぐにだ」

 

 いきなりルシアンが言った。

 侯爵の指がぴくりと動いた。応接椅子に深く沈んだまま、わずかに背筋を起こす。気圧されたのか、怒りか、それとも予想していた以上に事態が深刻であることを悟ったか──言葉を吐くまでに、数拍を要した。

 

「……冗談を言うな。お前になんの関係がある──」

 

「黙れ──。貴様は署名だけすればいい。他はこちらでやる。ヴァレンティーヌ侯爵家一門と寄子家全て、レヴァニア財団の傘下に入る」

 

 冷たい声が、部屋の空気を支配する。

 だが、レヴァニア財閥だと?

 もしかして、ルシアンのモントレフォール商会は、あの財閥の関係なのか?

 いずれにしても、承諾できるような話ではない。

 侯爵は口を引き結んだ。

 

「い、いまここで決める話では──。家門会議の了承が──」

 

「いらん。寄子一門すべてから勧告書は取り付けてある。お前に拒む資格など最初からない。家門会議の手続きも、貴族院への届け出も、全部こちらで済ませる」

 

 ルシアンは一枚の書状を卓上に叩きつけた。上質な羊皮紙に、寄子六家の家紋と連名の署名が連なっている。

 

「──これが、“家督譲位勧告書”だ。寄子家すべての意思だ」

 

 ぞっとするような静けさが、背筋を這い上がってきた。侯爵の額にじわりと汗が滲む。

 

「ば、馬鹿を言うな。セリーヌとベルモント家との縁談がある。あれがあれば……」

 

「ああ、それも指示がある。すぐに破棄しろ。伯爵家との協議も必要ない。通告書類は用意済みだ。署名だけで済む。お前は考える必要はない。それもこっちで進める」

 

「……そう簡単にはいかんぞ」

 

「拒否すれば、この瞬間に侯爵家は破産する。八割の借金は、すでに僕が買い取っているぞ」

 

 ルシアンは、次の書類をばさりと卓上に広げた。厚みのある借用証書の束だ。数字と債権者の名が並ぶ一覧には、いずれも“債権譲渡先:モントレフォール家”と朱字で追記されていた。侯爵家を締め上げていた借財の山が、すでにレヴァニア財団の意を汲む名義に移っている──その現実が、紙面に刻まれていた。

 

「な……そんな話は──」

 

「黙れ。お前が口を開くたびに、こちらの寛容さが削がれていく。いまの話は、命令だ」

 

「命令だと──。ふざけるな──」

 

「黙れ──。人身売買組織の競りに、実の娘を出すようなひとでなしが口を開くな。さっきの話を無視すれば、明後日の新聞に、お前の名でジャンヌを売った証拠の競りのリストが一斉に掲載される。同意すれば、記事は出るが、侯爵家の名前は伏せてやる」

 

「そ、そんな馬鹿な……わしは……知らぬ……」

 

 アルマンの背に冷たいものが流れる。

 なぜ、目の前のルシアンは、その話を知っているのだ……。

 

「知らぬなら無能、知っていたなら鬼畜。それだけのことだ」

 

 ルシアンが、競りのリストをばさりと卓上に広げた。

 

「お前は、公然の秘密であるドミエンヌの実態すら知らないくらいに世間知らずだ。純血派の中でも情報を遮断され、使い捨てられる側だからだ。今回もベルモント伯に融資をちらつかされて、結果として娘を売り渡す形にされた。これはその証拠だ」

 

「──っ……それは、わしでは……そんなことは……知らぬ……」

 

「お前の認識などいらん。このリストが新聞に載る。ここで合意すれば載らない。それを想像しろ」

 

「ま、待ってくれ、話が──」

 

「どうせ、ジャンヌが行方不明ということも知らないんだろう。お前は見限られているんだ。だから、同じ純血派から情報が遮断されている。存在に意味がない。引退して消えろ。これは慈悲だぞ。しかも、あり得ないくらいの慈悲だ。お前が僕になにをしたのか理解しているのか」

 

「慈悲……だと」

 

「そうだ、いま全部に署名すれば、病気による国外静養という建前で、お前は外国に逃がしてやる」

 

「……でなければ?」

 

「急死として処理される。侯爵家は、新当主のもとに再編される。それだけの話だ。結果は同じだ。僕としてはどっちでもいい。いや、本当は殺すのが正解だと考えている。娘であるあのジャンヌの存在を人身売買で金に換えた時点で……貴様は、貴族、いや人間である資格はない」

 

「……ち、違う……」

 

「セリーヌは、我が財団の広告塔になった。侯爵令嬢である方が都合がいい。ゆえに、侯爵家だけは潰さずに残す。それが最後の温情だ。貴様を殺さないのは、一応は、セリーヌやジャンヌの生物学上の親だからだ」

 

「……」

 

「とにかく、さっさと署名して消えろ。旅費も、旅券も、荷物も手配済みだ。お前の家人が荷をまとめて馬車に載せている。すぐに乗れ。こちらの見届け人も同行する」

 

 ルシアンは背後の護衛に手を伸ばし、小さな皮袋と封筒を受け取って、無言で卓上に置いた。封筒には、王都発の国外旅券と出国証明。袋の口からこぼれ出た小粒の宝石に、侯爵の目が釘付けになる。

 金は高額紙幣と為替証書、それに精緻な細工の施された宝石類に換えられていた。侯爵は、思わず息を呑んだ。

 侯爵は、唇を噛み、長く沈黙した。

 だがやがて、諦めたように首を垂れた。

 

「……せめて、アントールとだけ、話をさせてくれ」

 

「ふん……そんな情があったか?」

 

「……いや……ない。だが、とにかく話をさせてくれ」

 

 ルシアンは肩を竦めて、ソニアに合図を送った。

 ソニアは無言で一礼し、部屋を出ていく──と思いきや、すぐに引き返してきた。

 

 その後ろから、赤い外套に身を包んだ若者──アントールが、静かに歩み入る。

 アントールは、侯爵の前には目もくれず、当然のようにルシアンの右側に立つ。

 ふたりの間に交わされる目配せすらない沈黙──。

 それは、すでに言葉を尽くした者同士の間にある、暗黙の了解の気配だった。

 アントールは、呼ばれた理由を聞きもしない。そういえば、来るのも早かった。それはもともと、そばで待機していたからか。

 つまりは、すべて了承済……。

 すると、ルシアンが懐から一通の文書を取り出し、アントールに手渡した。

 

「──リューゲン伯爵家の令嬢、マグリット=リューゲン嬢からの魔道通信文だ。お前さんとの婚約を了承だそうだ。すぐに支度をして海を渡ると騒いで、伯爵夫妻を困らせているらしい」

 

 侯爵の顔が引き攣る。リューゲン家──北のハウゼン海商公国でも有数の名門だ。

 

「──おう、そうですとも」

 

 ルシアンの目配せに、アントールが嬉々として一歩前に出た。

 

「留学中に、マグリット嬢とは親しくさせていただいておりました。おう、彼女がこちらに来るのなら、犬馬の労も厭いませんぞ」

 

 アントールは大袈裟なまでに恭しく頭を垂れ、片膝をついた。

 侯爵は、我知らず奥歯を噛みしめた。息子とされる男が、自分にではなく、他人に頭を垂れた。それが、こんなにも堪えるとは思わなかった。

 

「忠誠を誓います、ルシアン様」

 

 侯爵は、話の流れに置いてけぼりにされたまま、愕然と見つめた。リューゲン家との縁がどれほどの価値を持つか、それを想像することすらできずに、ただ黙るしかなかった。

 侯爵は、愕然として見つめた。息子とされる青年が、自分ではなく、あの若者に忠誠を誓った。

 その一挙手一投足に、思わず視線が吸いつけられてしまう。

 ──打ちのめされた、という感覚すら遅れてくる。いま感じているのは、もっと素朴な衝撃。親の顔を忘れた息子に、目の前で見放されたような、乾いた痛みだった。

 

 もう、侯爵は逆らえなかった。意志も、誇りも、言葉さえも砕かれていた。ただ、ふと──不意に、ひとつの疑念がよぎる。

 

「……おまえは、いったい、何者なのだ……。レヴァニア財団の──関係者なのか?」

 

 やっとの思いで問うた。

 ルシアンは、鼻で笑った。

 

「関係者なのかだと? それが聞きたいのか」

 

 わざとらしく肩をすくめて、淡々と告げた。

 

「財団は、僕、そのものだ」

 

 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。だが、数秒のうちに、ようやく繋がる。

 かつての名ばかりの婚約者。見下し、虚仮にし、貴族社会の末席すら与えぬと笑ったあの青年こそが──。

 レヴァニア財団の総帥──。

 いまこそ、アルマンは、誰に喧嘩を売ったのか理解した。

 

 侯爵は、まるで石に変えられたかのように、動けなくなった。

 指先が震えながらも、重い鉛のように机に手を伸ばす。

 

 ……もう何も、残されてはいなかった。

 かつて、舞踏会の夜会服を誇らしげに着こなしていた若き日の自分が、脳裏に浮かんだ。

 喝采と美酒に酔った日々は、いまや幻……。

 侯爵は、ひとつ息を吐いた。すべてを諦めた者の、静かな、だが決定的な呼吸だった。

 

 アルマン=ド・ヴァレンティーヌは、署名をするために、ペンに手を伸ばした。

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