侯爵令嬢物語【完結】〜羞恥と快楽の果てに令嬢と女騎士の姉妹が選んだ甘美な隷従 作:ドン・ドナシアン
63 皇太子の怒り
王都の歓楽街の一角だった。
通りには人の往来があり、静かなざわめきがあったが、そこだけは別だった。
黒鉄の格子門が、ほとんど無言のように立っている。無骨で飾り気のない作り。けれど、その奥にあるものを知っている人間は多くない。
門の前で、足が止まる。小さな息がひとつ吐かれた。
──ソニアがここを訪れるのは、五度目になる。
だが、ルシアンと共に来たのは、初回と今回──その二度だけだった。
あとの三度は、ひとりだった。
皇太子の私的な依頼の伝言を受け取った日。
そして、その試作の淫具を渡しに来た日。
侯爵家の継承に関わる書面を届けに来た日。
いずれの日も、皇太子本人の姿はなかった。代わりに応対に出てきたのが……。
中庭の石畳を抜け、開け放たれた玄関扉の向こうに、ひとつの影が見える。
小柄な体。年齢の読み取れない顔。やわらかい声が、夜の空気にひびいた。
「ようこそ──」
言葉の終わりが、不自然に途切れた。
視線の先に、ジャンヌの姿があった。
今回の訪問には、ジャンヌも同行している。
ルシアンの指示だった。館に入ってから、彼女が外に出るのは、これが初めてのことだった。
また、出迎えは小柄な女──イリュリアが玄関に立っていた。
外見は幼く見えるが、実年齢は三十に近いと聞いている。皇太子の諜者のひとり。
この娼館では、すべて彼女が応対している。
また、今日が初めての訪問のジャンヌは、顔の上半分をハーフマスクで覆っていた。
肩で切り揃えられた髪。男装はしておらず、短いスカートから長い脚を露出していた。
かつての女騎士の印象は、ほとんど残っていない。
「……仮面?」
イリュリアの声が、少しだけ硬くなった。
「ここでは仮面は禁止なんですけど?」
視線はルシアンに向けられる。名は呼ばれない。この館では、それがルールになっている。
「この者は、必要な証人だ。おそらく、今日の用件に関係する」
ルシアンの声は低く、抑えられていた。
「あたくしの一存では……」
「安全は、僕が保証するよ」
「そんなことを言われても……」
イリュリアは、わずかに困ったような表情を見せた。
ジャンヌを見つめる時間が少しだけ続いたあと、彼女の目に変化が現れる。
口もとがわずかに開き、静かにつぶやく。
「……生きていたのね」
仮面の下。露出された顔の下半分だけで、ジャンヌの正体を見抜いたのだろう。
「おかげさまで。あと、仮面については容赦して欲しいね。すっごく不細工なんだ。こんな綺麗な女の人ばかりの場所じゃ、恥ずかしくて顔なんて出せない。人のいないところなら外すよ」
言葉には、どこか飄々とした響きがあった。
イリュリアは数秒の沈黙のあと、ふうっとひとつ息を吐く。
「……まあ、ご主人様がそうおっしゃるのなら、従うしかありませんね。どうぞ。奥は、すでに整っております」
そのまま、彼女は身を翻して歩き出す。
続いてルシアンが進み、ソニアとジャンヌがその後に続いた。
やがて、あの地下の廊下に入る。娼館は五回目だが、地下は二回目だ。
廊下の灯りは、さらに薄くなっていた。
人の気配がまったくなくなる。前回と同じ。
炎の揺らぎだけが、影を床に落としていた。音はない。歩いているはずなのに、なにひとつ響かない。
イリュリアが前に立ち、くるりと振り返った。
前と同じ。また、廊下の途中。
「ここから先は、お召し物を全部、お脱ぎいただくことになっております……。あっ、今日は、ご主人様はそのままでいいですわ。お待ちの方も服をきているますし。全裸になるのは、女性ふたりね」
ことさらに丁寧な口ぶりだった。けれど、どこか芝居めいていて、声音にはわざとらしい柔らかさが混ざっていた。
「は?」
ジャンヌがぴたりと足を止めた。
目を見開いたまま、数秒。
どうやら、ジャンヌは、なにひとつ知らされていなかったらしい。
ソニアのときと一緒だ。
「……え? どういうこと?」
声が少し上ずっている。
ジャンヌは、ルシアンの方を振り向いたが、彼は無言だった。わずかに頷いただけで、あとはなにも語らない。
次いで、ソニアを見る。
動顛しているのが丸わかりで、随分と面白い。
だが、さすがに、ソニアとジャンヌだけが全裸になるというのは恥ずかしいものがある。
しかし、ルシアンはなにも言わない。従えということだろう。
諦めて、服を脱いでいく。
「ちょっと待って。そんなの聞いてない」
一方で、ジャンヌは、明らかな動揺している。
言葉は控えめだったが、張りつめた音が混ざっていた。
肩がこわばっているのも見て取れた。不思議なことだが、他人が戸惑っていると、自分の中にあった緊張がどこかへ流れてしまう。
「いいから脱ぐのよ。ルシアンがなにも言わないでしょう。従えってことよ」
ソニアは、できるだけ淡々とした声で言ってやった。手はすでにブラウスのボタンにかかっていた。布が落ちて、順に足元を滑っていった。
一方で、ルシアンは服を着たままだった。無骨な黒衣の上着に、軽い装飾のついたブーツ。館の空気に馴染んでいながらも、統治者としての圧を纏っていた。
だが、ジャンヌはその場に立ち尽くしている。
しかし、やっと、なにかを諦めるように上着を脱ぎ、マスクを外した。髪が揺れ、白い肌があらわになる。
ジャンヌとソニアだけが、全裸になった。脱いだ服は廊下に置かれたまま。今日はルシアンは、衣服を身に着けている。
ジャンヌは腕で胸を隠し、片脚をやや前に出して、下腹部を覆うように立っていた。
頬の色は明らかに熱を帯びていた。
「ふふん……。お股がつるつるじゃないの。やっぱり、そういう仕来りなの?」
イリュリアの声には、意地の悪い好奇心が混ざっていた。目を細め、にやりと口の端を上げる。
「お前に関係ない……」
「首のチョーカーもお揃いね。ねえ、もしかして、ふたり揃って、ご主人様のお気に入り?」
「煩い──」
ジャンヌは、短くぴしゃりと返したが、声が少しだけ震えていた。
だが、ああやって揶揄いながら、ジャンヌのひととなりについて、探っているのだろう。リリュルアはそういうことをする。なにしろ、この先にいるのは、あの皇太子殿下なのだ。
「あれれ。なにも触れていないのに、もう……湿ってるように見えるけど?」
イリュリアは、あたかも珍しい玩具でも見つけたような顔で言葉を続けた。
ジャンヌがびくりと身体を震わせたかと思うと、全身を真っ赤にして、乳房を隠していた両手のうち、片手を急いで自分の股間に持っていく。
だが、今更ここまで恥ずかしがるか?
この女、本当に面白い。
ソニアは横で見ていて噴き出しそうになった。
「なんだ、お前は──? 関係ないだろう」
「えええ? まさか……見られるのが好きなの?」
「ちがう。この身体は……そういう風に、できているだけだ──。いや、関係ないと言っているだろう」
ジャンヌの言葉の端には、かなりの苛立ちが滲んでいた。
横で見ていると、こんなに愉しいものはない。
ソニアは含み笑いを耐える。
次の瞬間、イリュリアは足音もなく背後にまわり、ためらいなくジャンヌの尻へと手を伸ばした。
指先で、割れ目の線を、下から上へ。ゆっくりと撫であげるように。
「……ひいっ」
小さく、吸い込まれるような声が漏れた。
ジャンヌは跳ねるようにしゃがみ込み、肩をすぼめ、尻を押さえたまま振り向いた。
「な、なにするんだ……っ。いくら子供でも……そんな真似したら……ぶん殴るぞ──」
目尻には涙が滲んでいた。怒りと羞恥と、混乱とが、ひとつになっていた。
「あはははは。ソニアのときは反応が乏しくて、ぜんぜん面白くなかったけど。あなたは違うのね。ずいぶんと、良い声で鳴くじゃない。もしかして──こういう性分なの?」
イリュリアが肩をすくめる。
「……性分ってなんだよ。さっきから、なにを言っている──」
ジャンヌは顔を真っ赤にしながら立ち上がり、息を荒くしたまま、イリュリアを睨みつけていた。
「ジャンヌ、ここはそういうところよ。行くわよ」
ソニアは声をかけた。
「そんなに隠していると、むしろ恥ずかしいぞ。堂々としてろ」
ルシアンも笑っている。
「……うう……。なんで私たちだけが、こんな真似をさせられるんだ?」
ジャンヌは呻くように言った。ルシアンとリリュリアが平然と服を着ているのを見上げながら、顔を紅潮させ、怒気と羞恥の入り混じった声音を震わせた。
また、その顔も身体も真っ赤であり、手は胸の前と股間をしっかりと隠している。この女とは結構長い付き合いなのだが、こういう一面もあるのかと思うと愉しい。
三人は、イリュリアの先導で無言のまま廊下を進んだ。
石畳の床は冷たく、足裏にひやりとした感触が伝わってくる。
灯りは控えめで、薄暗い炎が壁際を照らしているだけだった。
曲がり角をひとつ抜けると、奥に一枚の扉が現れた。
目立たない造りだったが、異様な静けさが、その向こうに何者かがいることを告げていた。
イリュリアが立ち止まり、軽く振り返る。
「こちらです──」
扉が音もなく開かれた。
部屋の空気は、ひんやりと冷たかった。
湿度はほとんど感じられず、灯りは抑えられていた。けれど、中央に据えられた椅子の上だけは、まるで舞台のように照らされていた。
そこに、彼はいた。
レオナルド皇太子殿下──。
前回は、皇太后を椅子にして、性器も露わに全裸で笑っていたが、今日は違う。何事もなかったように、服を着て、ただ一脚の椅子に腰かけていた。
服を着た男たちと、裸にされた女たち。その場の構図は、あまりに露骨だった。秩序を語る者たちは、身を隠し、守られている。口を閉ざす女たちの羞恥は、そのまま服従の証と見なされかねなかった。
部屋に入った瞬間だった。
横で、かすかな声が上がる。
「……えっ?」
ジャンヌだった。
そのまま膝を折り、片脚をついてしゃがみ込む。なにに打たれたように。
ソニアは驚いてしまった。
その背後から、最後に入ってきたイリュリアの笑い声が響く。
「あはははっ。なにそれ。あんたって、いちいち行動が愉快ね──ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌ」
名前を姓をつけて呼ぶ声が、部屋の中に反響した。
ジャンヌは俯いたまま、顔を赤くしていた。
皇太子が、静かに首を傾けた。
ソニアの位置からでも、その表情ははっきりと読めた。
「……ジャンヌ?」
レオナルドの目が、怪訝そうに細められる。
視線が、しゃがんだままのジャンヌの身体に注がれていた。
レオナルドは、椅子に深く腰かけたまま、しばらくジャンヌを眺めていた。
その目は見下すのでもなく、探るでもなく、ただ興味を抱く者の視線だった。
「……なるほど。そういうことなのだな」
ひとりごとのような声だった。誰に向けたものかもはっきりしない。
けれど、ルシアンが応じた。わざとらしく肩をすくめる。
「なにがそういうことなのか、僕にはわからないが──彼女を見つけたのは偶然だ。半月ほど前に、王都の郊外、森の中で倒れていた。雨に濡れて意識もなかった。助けたのは、それだけの話だ」
言いながら、ルシアンは視線を皇太子に向けた。
「森で拾った、だと?」
「ああ。それから、保護している。……なぜか、僕と波長が合ってね」
淡々とした言いぶりだった。声に棘も釈明の色もない。ただ、ひとつの出来事を述べているように。
「その半月前に、王国騎士団の駐屯地を襲って、身柄を奪ったのだろう?」
「そんなことは知らん。でも、ドミエンヌで保護しているうちに、波長があった。それから、ずっとそこにいる。悪いが、ジャンヌは死んだということにしてくれ。騎士団には戻らない。だが、もしかしたら、騎士隊の襲撃について、僕を疑っているかもしれないから連れてきた」
レオナルドは息をつくように問いかけた。
「信じろと?」
「信じてもらうしかないね」
その言い方には、逆に信じてもらう意志の欠片もないように見えた。
皇太子が不快そうに鼻を鳴らす。
ルシアンの言いぶりには、最初から最後まで、釈明の色はなかった。
それが逆に、皇太子の苛立ちを煽っているように見えた。レオナルドは不快そうに鼻を鳴らし、椅子の肘掛に肘を置いた。
そのまま、ジャンヌの方へと視線が向けられる。
「ジャンヌ=ド・ヴァランティーヌ。君の口から、直接聞こう──本当に、森で拾われたのか?」
問いかけは静かだった。怒声ではない。だが、その場にいる全員の背筋が、無言の威圧で凍る。
ジャンヌはひとつ息を吸い、堂々と顔を上げた。仮面はもうない。裸のまま、視線を逸らすこともなく、皇太子を真っすぐに見返していた。
「はい。気がついたら、あの森の中にいました。……記憶は曖昧です。けれど、駐屯地で何かが起こり──誰かに助け出されたことだけは、わかっています。その相手が、誰だったのかは、私にも……わかりません」
「…………」
「けれど、私を森で拾って、助けてくれたのは、ルシアンです。それは確かです」
ルシアンはなにも言わなかった。ただ、視線を少しだけ落としている。彼にとって、これは「守られた嘘」だった。
ソニアの胸の奥に、微かな痛みと、奇妙な誇らしさが同時に差した。
レオナルドは、わずかに眉を動かしただけだった。だが、その瞳は鋭くなっていた。
「……ならば、君は、王国騎士団の騎士として──この場で王家に嘘をつくのか?」
淡々とした声。だが、その一語一語に、刃が仕込まれていた。
しかし、ジャンヌに、躊躇いの気配はない。
「嘘ではありません」
その言葉は、静かに、けれどはっきりと空間に響いた。
そして、次の瞬間──レオナルドの声が、冷気のように落ちた。
「──ならば、君のその騎士の誓いは、もう無価値だ。おのれの誇りにかけて、王家にその身を捧げると宣誓した者が、わからないと逃げ、知らないと伏せる。君の忠誠が、口先だけのものだと、今、自ら証明したのだ」
彼は、椅子に深くもたれたまま、まるで冷たい彫像のようだった。
「……ジャンヌ。王国の騎士は、ただの戦士ではない。法と秩序の体現者であり、真実を捧げる者だ。君のその沈黙は、王国そのものに刃を向けていると、理解しているか?」
ソニアは、思わず息を呑んでいた。
片膝をつくジャンヌの拳が、わずかに震えているのが見えた。だが、彼女は言い返さなかった。その代わり、黙って、顔を伏せた。
──それは、誇りなのか、それとも覚悟なのか。
皇太子は、重く沈黙した空気の中、さらに一言を重ねる。
「貴様もだ、ルシアン。王国の秩序を築く手として、我が傍にいたはずの者が──その秩序の礎である騎士団を、たとえ腐っていたとしても、力で打ち倒す。しかも、国軍の魔道警備網を無力化して、だ」
そこまで言うと、レオナルドは、椅子からゆっくりと立ち上がった。
その動作ひとつで、場の空気が張り詰める。
「もはや、黙って見逃すには深すぎる。──これは、国家の基盤に関わる、重大な背信だ」
レオナルドの言葉は、静かながら鋭く、間違いなく断罪だった。
そのときだった。不意に、ジャンヌが伏せていた顔をあげた。
しかも、挑むように、皇太子を睨みつけた。
だが、その場にいた誰もが、ジャンヌの沈黙を予期していた。
騎士として、王家に背いた女。
王国の象徴である皇太子に、その場で否を突きつけられた者が、逃げ道など選べるはずがない。
──でも、違った。
ジャンヌは、まっすぐに皇太子を見据えたまま、口を開いた。
「皇太子殿下、では、問わせて頂く。私があの第一騎士隊から救出されたのが、罪だとされるのか?」
「なに?」
「……これが、秩序の形だというのなら、そんなものに従ってきた自分を、いまは恥じたい……。お言葉を返すようですが、殿下。王国の秩序とは、なんです?」
ジャンヌの声音は低く、けれど確かな怒気を含んでいた。
ソニアは一瞬、耳を疑った。
皇太子に、正面から問い返したのだ。
ジャンヌの声は、澄んでいた。怒りに震えるのではなく、信念に支えられた冷たい静けさを帯びていた。
「私は、第一騎士隊に連行され、尋問という名の下に、複数人による暴行と拷問を受けました。彼らは私を、法に背く者として処断するつもりだった。──それは、事実ではありません」
レオナルドの眉が、わずかに動いた。
「冤罪です。証拠も、裁きもなく、ただ疑念だけで、私という人間を壊そうとした。いえ、疑念すらなかった。彼らは、私を名もなき別人に仕立てて、殺人者として闇に隠す意図で拷問をしたのです……。おそらく、それまでに、同じようなことを繰り返して……。彼らにとって名もなき平民を……。それが、秩序ですか?」
「……」
「私は、自分の正義を守る者として、恥じることはない。もし、王家がああいうものたちを秩序の担い手と呼ぶなら、私はその秩序には従えません」
はっきりと、静かに、ジャンヌは言った。
そして、片膝をついていた姿勢から、真っ直ぐに両脚で立つ。
だが、気がついたように、はっとして手で胸と股間を慌てて隠した。
ちょっと、噴き出しそうになる。
「私はもう、王国騎士ではない。けれど、私の信義は、私が選びます」
その言葉に、ソニアは唖然とするしかなかった。
こんなことを、王族に向かって言い切った人間を、今まで見たことがない。
けれどジャンヌは、一歩も引かなかった。服を着た皇太子とルシアンの前に、ジャンヌは全裸であるにもかかわらず、その背筋は伸び、まなざしは一切の怯えを見せなかった。
レオナルドは、数秒の沈黙を保った。
目を細め、ゆっくりと椅子へと腰を戻す。
「……見事だ。だが、実に危うい」
その声は、怒気を含んではいなかった。
むしろ、どこか冷ややかな賞讃さえ滲んでいた。
「信義と正義。──それは確かに、美しい。だが、国家はそれでは守れぬ。ましてや、血と責任で成り立つ王家に、それを振りかざすなら──君は、もはや、理想を語る者ではなく、体制を揺るがす者だ」
椅子に深く身を沈め、皇太子は視線をルシアンへと戻した。
「そして──それを仕掛けたのが、貴様だ、ルシアン」
声が、わずかに低くなった。
「第一騎士隊。あれは確かに腐っていた。平民を洗脳し、奴隷として売りさばいていたという噂は、我々も耳にしている」
レオナルドは目を細めた。
その視線の奥には、冷ややかな知性が潜んでいる。
「だが、貴様は、正義の執行などしていない。貴様がやったのは──軍事行動だ。王国の騎士団を、民間人が襲撃し、十三名を殺した──。しかも、我が軍の防衛魔道具を、無力化して、だ」
「証拠は?」
ルシアンの声が落ち着いて響いた。
ただ一言。けれど、その言葉に込められた意味は深かった。
挑発でもなく、否定でもない。
ただ、冷静に事実を問う者の声だった。
レオナルドは、わずかに目を伏せた。
そのまま指先を組み直し、ひとつ息をついた。
「ない」
静かに言い切った。
「ない?」
「ああ、なかった。時間をかけて調べさせたが、ついに貴様が指揮した証拠は、発見できなかった。兵士たちは全滅。警備魔道具は無力化され、記録も消滅されていた。残されたのは、ただ一人──お前が連れてきた、覚えてないと主張する女騎士……いや、元女騎士と、貴様の言葉だけだ」
レオナルドは立ち上がらない。ただ、そのまま、真っすぐにルシアンを見つめた。
「だからこそ、問い質している。──これは、罪の話ではない。責任の話だ」
レオナルドは続ける。
「第一騎士隊が腐っていたことは、知っている。だが、それを裁くのは貴様ではない。あれは王国の軍だ。王国の防衛網を無力化できる者が、王軍のほかに、この国に存在するということだ─」
目の奥が、凍りつくように冷たかった。
「──もはや、これは、秩序の危機では済まない。国防の危機だ」
ソニアは、ルシアンの横顔を見た。
この男に、怯えはない。
だが、レオナルドの言葉には、いつになく鋼の重みがあった。
「王国の魔道警備技術は、もともと旧王朝から流れた古い技術体系を基盤としている。それを無効化できる技術など、いまの王国には存在しない。──あるとすれば、それは、貴様のところだけだ」
ルシアンの前に、音もなく、告発が置かれた。
この場には、誰も剣は持たない。けれど、言葉はそれ以上の切っ先だった。
「我々は、もはや選ばねばならない。王国の存立をかけて──防衛技術の管理を、王権のもとに、取り上げるべきと判断することを」
──その瞬間、ソニアの背筋に、鋭い刃のような冷気が走った。
「ほう? つまり、僕から財閥を取り上げると?」
ルシアンが静かに言った。
しかし、ソニアにはその沈着さに潜むルシアンの怒りがわかった。
ソニアだからこそ、わかるルシアンの感情だ。
「やむを得ない。王家としての立場は、友としての感情にまさる」
「僕は孤児だ。そのことを知っているかい?」
「んっ? 知っている。だが、それがどうした?」
「つまりは、僕にとっては、寄って立つ地面がこの王国であろうと、別の国であろうと、さほどの違いはない。レヴァニア財閥は、いまや、王国内だけでなく、外国にも基盤を持つ」
ルシアンは表情を変えないまま、言葉を継ぐ。
「僕にとっては、家族以上の大事なものは、この国にはない。──意味がわかるかい、レオ?」
その言葉は、王家への忠誠を否定したのではなかった。
それ以前に、この国そのものへの帰属すら、もはや薄れていると、宣言したのだ。
レオナルドは、眉ひとつ動かさなかった。
ただ、長い沈黙のあと、口を開く。
「わかっているとも──だからこそ、いま、こうして話している」
彼は立ち上がった。
ゆっくりと、机も玉座もない空間で、ただ一人の男として、ルシアンに向き合った。
「ルシアン。貴様がこの国を去ってもかまわないというなら──それは構わぬ。だが、その前に持ち去るな」
声が低く、厳しく、けれど静かだった。
「持ち去るな、この国の安全を──。
持ち去るな、この国の未来を──。
持ち去るな、この国の技術を──」
彼は歩み寄る。足音は柔らかく、それゆえに重かった。
「いいか、ルシアン。貴様がどこに去ろうと、レヴァニア財閥がどこに広がろうと──我々は構わぬ。だが、これだけは譲れない」
言葉が、一拍だけ間を置く。
「グラフィア晶石工房。アーケイン技術院。それらを、王国の手に渡せ。──国家の防衛のために。これは懇願ではない。命令だ」
その声音には、王太子としての冷酷な決断があった。
グラフィア晶石工房とアーケイン技術院──。
それは、ルシアンが築き上げた帝国の中枢だった──。魔道晶石の限界を越えた精製と、その応用技術の頂点。いまや王家すら及ばぬ神の領域に至る知の砦。
グラフィア晶石工房──。
魔道晶石を限界まで精製し、他の追随を許さない純度を実現する、世界唯一の工房。
ここで生み出された高純度晶石が、各国の魔道産業を支え、王国の経済すら左右している。
アーケイン技術院──。
その晶石を基盤に、魔道兵装、情報遮断装置、精神干渉防壁といった次代の魔道具を開発し続ける頭脳。
その研究成果が一部、王国軍や情報局にも流れているとはいえ、技術の根幹はすべてレヴァニアの管理下にある。
「貴様の力が、いまや国の脅威となっている限り──我々は、貴様を味方とは呼べぬ」
言葉が、一拍だけ間を置く。
その名を、王太子は明瞭に告げた。
ソニアの背中に、冷たい汗がにじんだ。
グラフィア晶石工房とアーケイン技術院は、ルシアンが築き上げた技術帝国の中枢だった。魔道晶石の限界を越えた精製と、その応用技術の頂点。王国が奪えば、貴族の力は取り戻され、財閥は神の手を失う。
そして、それと引き換えに、王家はかつての力を取り戻す。
「……これらの一部を、王国の手に渡せ。──国家の防衛のために。あれは、王家が管理すべきものだ」
声が低く、けれど明確だった。
「貴様の力が、もはや国家を超えた領域に達した以上、王国は対価を求める責任がある。そして、貴様は、必要があると、貴様自身が判断した場合、その力を王国に行使するということを示してしまった。国に叛乱を起こす可能性があるとな」
そして、最後の一言は、冷酷な断絶すら滲ませていた。
「グラフィアとアーケインの一部を差し出すことで、貴様は民間人として立場を守れる。だが、それを拒むなら──王家は、貴様を国家への敵対者と見なす」
ルシアンの態度は静かだった。
まるで、凪の水面のように、波ひとつ立てない調子で。
「証拠はないのだろう? 可能性があるだけで、僕たちを叛逆者にするのか? それは、ジャンヌを冤罪で拷問した、あの騎士隊たちと──なにが違う?」
言葉の端に、わずかな嘲りが混じる。
その瞬間だった。
レオナルドが、一歩、前へと出た。
その姿に、ソニアは思わず身を強張らせた。
威圧ではない。だが、覚悟を持った者の気配が空気を震わせた。
「違うさ。決定的にな」
皇太子の声は低かった。けれど、その響きは重かった。
「第一騎士隊は、個人の悪意と怠惰に基づいて、国家の名を騙った。だが、我らは国家の意思そのものだ──。貴様の言葉は、ひとつの理屈としては正しい。だが、貴様はすでに、可能性の範囲で断罪される側なのだ」
「この国に貢献してきた僕たちを国の敵だというのか、レオ?」
「貴様は──可能性ひとつで国家を転覆させ得る存在だ」
レオナルドの眼差しが、鋭くルシアンを貫く。
「その力を誤って振るえば、千の命が消える。意図的に振るえば、王国が崩れる。それほどの力を手にしながら、責任は問うなとでも言う気か、ルシアン?」
沈黙が落ちた。
皇太子は、続けた。
「貴様が過去に何を失ったか、どれほどの絶望の中から這い上がったか──知っているつもりだ。だが、力を持った者が孤児であることに、国家は免責など与えない」
言葉が、まるで法の断を下すかのように、淡々と続く。
「……それを許せば、次に力を持った者もまた、孤児の正義を語って国を壊すだろう。それを防ぐために、我々はここに立っている。──これが、王家の責務だ」
そのときのレオナルドの目には、憎悪も怒りもなかった。
ただ、国家の柱として立つ者の孤独な覚悟があった。
「……」
「構造が問題である限り、これだけは見過ごせん……。ルシアン……。ここは折れろ。悪いようにはせん。約束する」
「断る──」
ルシアンは、それだけを口にした。
まるで天気の話でもするような調子だった。
だが、その一言は、はっきりと──王家の命令を拒絶した。
ソニアが小さく息を呑む。
それは、もはや駆け引きでも、牽制でもない。
明確な拒絶。越えてはならぬ一線を、ルシアンが踏み越えた音だった。
レオナルドは動かない。
しかし、まなざしの奥に宿る色が、確かに変わった。
光のない氷の刃──冷たく、鋭く、そして決して折れない意志。
「──そうか」
ルシアンが「断る」と口にしたとき、レオナルドはすぐには応じなかった。
まるで、その言葉の重みを受け止めるように、しばし無言のまま彼を見つめた。
そして、口を開いた。
「王家の力を──見くびるな」
その声音には、王子としての威厳も、政治家としての打算もなかった。
ただ、王家の継承者としての静かな怒気があった。
「つまり?」
レオナルドは一歩だけ、前に出た。
声は変わらず静かだったが、空気が一段重くなった。
「……ルシアン。貴様は、もはや孤児ではない。いまの貴様は、守るべきものを持っている」
「そこにいる、ジャンヌ。──そして、セリーヌ……だったな。あのヴァランティーヌ家の姉妹に加え、侍女のクロエ。レナン男爵家の娘だと聞いている」
ソニアの目が、僅かに動く。
「彼女たちだけではない。召使い、技師、家人……。お前と共にある者たちが、この国には、数多くいる。そして──お前自身とソニアが育った、あの孤児院の子供たち。彼らもまた、王家の加護のもとに暮らしている」
レオナルドは、そこではじめて声に棘を乗せた。
「お前と戦争となれば、王家は容赦しない。──冤罪で捕らえるなどとは言わん。だが、冤罪が起きる可能性がなくなるまで、獄に繋ぐことはあるかもしれんな」
空気が凍りついた。
それは、明確な恫喝だった。
「……どういうことだ?」
「貴様の力が、国家の秩序を脅かすと見なされれば──。秩序の側は、必要な代償を問わず、動く」
「皇太子ともあろうものが、三下強盗のように汚い脅迫をするのか?」
「国を守るためなら、悪人にでも、道化にもなる。それが王家というものだ。よく、考えろ。──レヴァニアの若き総帥」
その言葉を置いて、レオナルドは再び背を向けて、椅子に向かい座り直した。
選択の余地は示された。あとは──ルシアンが何を選ぶかだけだった。
また、ルシアンが考え込むように、眼を閉じた。
しばらくのあいだ、誰も何も言わなかった。
空気が重く沈む。
レオナルドとルシアンは、向かい合い、ただそこにあった。
だが、引き返せない一線は、お互いにすでに越えられたように見えた。
「……ルシアン、わかってくれ……。私は妥協している……。お前は友だ……。友と戦いたいわけじゃない。この条件を呑め……。そうすれば、王軍を襲撃したことは闇に葬る……」
そして、レオナルドが口調をやわらげて言った。
すると、ルシアンが、やっと閉じていた眼を開く。
「──上級貴族たちが、あの人身売買組織で売り買いした平民の婦女子たち……。これから王家の名のもとに、必ず救済しろ。これは懇願ではないぞ。こちら側の条件だ」
ソニアは思わず、息を呑んだ。
──まさか、ルシアンが王太子の恫喝に応じるとは。
この男が、条件付きとはいえ、屈服の意を示すなど。
だが、それはたしかに──妥協の言葉だった。
それは、誇りを捨てたという意味ではない。
けれど、ルシアンが譲った瞬間だった。
沈黙のあと、レオナルドが静かに頷いた。
「約束しよう。私の矜恃にかけてな」
「矜恃など、あてにならないものはいい。──契約してもらう」
ルシアンの声には、揺らぎはなかった。
「僕は他人の口約束など、信用しない。だが、契約なら応じる。僕は契約だけは絶対に破らない」
「お前の望むかたちで契約する」
レオナルドが即答する。
「──それと、さっき言っていたな。王国のためなら、悪人になる覚悟があると。ならば、示してもらおう。将来の歴史家たちが、平民の台頭を不当に搾取し、阻止しようとした王家として、名を遺すようにな」
ルシアンの声が、さらに低く落ちる。
「後世の歴史家?」
「ああ、財閥は解体する。だが、それは貴族院の議決として通せ。貴族院の議決は記録に残る──。歴史になる。こんな娼館の地下での話し合いなど、後世に残ることはない。だが、僕の王国を取りあげるなら、王家が歴史の悪人になる気概を見せろ」
──貴族院?
王国の立法と秩序の象徴……。
その議席のほとんどが、ルシアンが力を奪ってきた門閥貴族の手に握られている。
彼らにとって、ルシアンの存在は、体制を壊す異物でしかない。
議場に立ったその瞬間から、ルシアンは、法の名の下に排除されるのだ。
勝ち目など……ない。
そして、レオナルドは一拍の間を置き──静かに頷いた。
「わかった……。それも承知だ。だが、貴族院での話し合いとなれば……。いまのように名を隠すことはできんぞ。レヴァニア財閥総帥、ルシアン=モントレフォールとして、議会に出ろ」
「……契約ならな」
「いいのか? 忘れるな。貴族院の五分の四は門閥貴族派で占められている。残る中立派が味方しても、お前の意見が通ることなど、はじめから不可能だ。それでも、お前は歴史に名を残すために、隠していた顔と名を晒して、議場に立つのか?」
「立つ」
「よし」
そのとき、初めてレオナルドが破顔した。
「契約の条項には、以下を加える。──ひとつ、王家の提案として、グラフィアとアーケインの国有化の議案を出すが、これを否決するためには、過半数ではなく五分の四以上の特別賛成多数によってこれを否決する必要がある」
「五分の四の否決決議? そんなことは卑怯だ──」
声をあげたのは、ずっと耐えるように黙っていたジャンヌだ。
ジャンヌは敏い。
門閥貴族が大半を占める貴族院において、ルシアンの要求が通る可能性はほぼない。間違いなく、ルシアンの財閥は解体命令を受けるだろう。
しかも、王家の提案にするという。そして、必要なのは否決決議だ。
つまりは、積極的な反対だけではなく、中立でも、否決したことと同じことになる。
それを覆すのは、さすがに不可能としか思えない。
「ジャンヌ……」
ルシアンがジャンヌを制する。
そして、口を開く。
「……わかった。まだあるか?」
「ああ、──もうひとつ。契約には、議決に際して、いかなる手段においても、お互いに脅迫は使わないと書く。お前は、契約という矜恃は守る男だ。議決を薄汚い脅迫でねじ曲げるようなことはするな」
「……」
ルシアンが黙り込む。
だが、しばらくして、再び口を開く。
「承知だ……。ルシアン=モントレフォールの名にかけて、僕は議決に際して、脅迫のようなことはしない。矜恃にかけて約束する」
「ルシアンの約束なら信用できるな……。リリュリア、ここで起草しろ。いまの話し合いを書面にしろ」
レオナルドがソニアたちの後ろにいるリリュリアに指示する。
部屋の隅に控えていたイリュリアが、小さく頭を垂れて姿を消す。
その気配を見届けたあと、レオナルドがルシアンに声をかけた。
「……よかった。まだ、お前を友と呼ぶことができる」
だが、ルシアンは何も言わなかった。
微動だにせず、ただ、沈黙のまま立ち尽くしていた。