紬ぐ所以は見果てぬ愛を 作:ドットワリー
「ただいま帰りましたよ、人間さん」
がちゃりと、とあるマンションの二階に位置する部屋にて玄関扉の無造作に開かれる音が聞こえてくる。
無骨な茶色いトランク──持ち主の小さな体格にはやや不釣り合いなサイズだ──をまず先に置くゴトンという物音が続き、それから居間の引き戸がガラリと開け放たれた。
そこから覗く少女の顔を、ソファでのんびりと寝転んでいた男は一応確認する。
まるで
夏の太陽がアスファルトの街並みに照り付け、空気も陽炎に揺らめく昼下がり。中身のぎっしり詰め込まれたトランクを持ってそんな中を歩いてきたにしては汗の一つも流していない少女の名前は──
作業服兼演目用の衣装として本来は華風の黒子装束を好んで着用する彼女だが、現在は黒い長袖と手袋で露出しないように素肌を覆いつつ、レースを多めにあしらったスキニーな洋服に身を包んでいた。
「まったく、土曜日とはいえまた昼間からゴロゴロと……え? 何とも思ってないくせに”手持ち無沙汰だし折角だから”で文句を言うな?
いかに相手が家主だからとて、そんな遠慮をしてさしあげるような女に私が見えておりましたか?」
やれやれと腰に手を当てて見下ろしてくる影紬はいわゆる居候という身分だったはずだが。少女の姿で鼻持ちならない態度を取ってくるその様子に、男は無言で腕を組みながら慣れ親しんだソファに座り直した。
「こちらに来てから私は幸いにも有意義な時間を過ごせていますが……それに引き換えあなたと来たら。最初の頃のように矢鱈と緊張感溢れる顔で注目してきてくれた方がまだ見ていて面白いでしょうに」
両手の手袋をスマートに外して折り畳み、衣服のポケットに入れた影紬は我が物顔で台所の方に向かっていく。
趣味に合わないながらも
影紬は、自我を持つ魔性のからくり人形だ。
故にこの新しい服装は指や腕の関節を隠すための物でもある。といっても、細かい指の関節部や表情機構に一切の違和感が無い滑らかな造形を有する影紬にとっては必須というわけでもない、万が一に備えた措置ということになるのだが。
今までは単に物珍しい人形の魔物として見られただけだろうが、ここでは道ゆく人々に露見すればちょっとした大騒ぎにすらなりかねない。それは男にとっても、そして厳密な理由は違えど影紬にとっても本意ではないことなのである。
少し前、この部屋に訪れた二人のことを男は思い出す。影紬を追いかけてきたのだという二人の内、片方の紫髪の少年は何やら飄々と口答えをする影紬としばし言い争いをした後、言い負かされてしまったのか項垂れながらとぼとぼ歩いてきた。そして、いきなり現れた影紬が男に迷惑をかけている事を平謝りして、時々様子を見に来ることを約束してきたのだ。
もう片方の少女……というか一対の巨大なバケモノみたいな眼を侍らせた少女のような何か……は無言でこちらを見つめた後、影紬の頭に埋め込まれた爆弾を起爆させる合言葉をこっそり教えてくれた。
わざわざ言われなくても男は影紬や彼らのことなら知っていた。とはいえ信じ難いような非日常の中に叩き込まれてしまったという焦りは変わらないので、最初の方は戦々恐々とした毎日を過ごしていたのだが……人間慣れると怖いもので、というか男が特別危機感を欠いているだけなのか、今ではすっかりこの状況に慣れてしまったのであった。
「台所で何をしているかですって? よくぞ聞いてくれましたね、新機能の試験的運用というやつです」
人形である影紬がキッチンで湯を沸かし始め、何のつもりだと聞けばこの返し。
常備してあったインスタントコーヒーの黒い粉末をマグに入れお湯を注ぎ、そのまま口を付けていったのだ。しかも男のマイカップを勝手に使って。
記憶が正しければ、目の前にいる存在は観賞用的な意味で好物としている寿司やジャイ◯ンシチューぐらいにしか食品に対する興味というものを持ち合わせていなかったはずだが……
「あんまり美味しくありませんね。味覚の調整がまだ不十分なのか、そもそも私が苦手な味なのか」
しかめ面になりながら、せめて香りだけでも楽しむ路線に切り替えたらしい影紬。湯気の立ち上るカップを揺らしてポット近くの丸椅子に腰掛ける彼女は肘をつきながら喋りかけてくる。
「血の流れるような演目を禁じられてしまったばかりですからね。これでも芸の幅を広げるために色々と苦労しているわけです……平和な日常、五感の模倣。理解しがたい命題であればこそ取り掛かっている間は退屈しないわけですし」
一通りカップに浮かぶ波を見終わって満足したような表情を浮かべた影紬は、立ち上がってシンクの方に歩いて行ったかと思うと黒い液体をドボドボと流し捨てていく。
フード理論でサイコパスを表現するなら満点の挙動に、流石は趣味の悪さだけを突き詰めた人形だなという皮肉を男は遠い目で思い浮かべる。力づくで止めさせられるわけがないし、文句を言おうにも一を投げれば十で返されるし、こっちから自爆の合い言葉の存在でもチラつかせようものなら直後の
「ちゃんと人工味蕾を神経回路にミスなく繋いであるはずなんですけどね、ほら」
んべ、と指で口の右側を引っ張って歩きながら作り物の舌をいきなり見せてくるのに男は目を背ける。ほんのり黒いコーヒーの色が染み付いたままの舌が無機物とは思えない艶かしい動きをしている所を極力見ていたくないのは……
こんな奴、と言って差し支えないであろう同居人の顔が
そんな事実に気付かぬタマでもないだろうに、大して気にした素振りも見せずに影紬は余裕綽々とL字ソファの斜向かい側に浅く腰掛けて脚を組む。
「家で怠惰を貪りながら人形のベロなんかを見て勝手に負けそうになっている誰かさんは、休暇を外で活動的に過ごしている私のことを見習った方が良いと思いますが」
いけしゃあしゃあとそんな事を言いつつどうせ碌でもない事をしているのだということを一緒に暮らす中でいい加減に学びつつある男だが、やる事もないので黙って聞いていることにした。
「何だか心外な視線ですね。これでも最近は”にんぎょうげきのお姉ちゃん”として近所の子供から慕われてるんですよ?」
男は少し驚いた。以前ちょっとした騒ぎがあって影紬が子供達に群がられている怪しい現場を何度か監視したことはあるのだが、ややあって何か挫折したような顔で帰ってきてたのでまだ交流が続いてるとは思わなかったのだ。
「お試しであなたに子供向けの劇を鑑賞してもらった時は”思想が滲み出てて怖い”とか”気色の悪さを隠せてない”とか散々な言われようでしたからね。耳を貸さずに揚々と実演に行き、普通に怖がられただけで帰ってきてしまったのは今にして思えど遺憾の極み……
しかしながら、幾ら高尚な芸術を解さぬ幼子とはいえお客を楽しませられないなど人形遣いの沽券に関わりますのでね。今では程度という物に合わせた愛らしい童話の劇などを構想しながらゆっくりと心を掴ませていただいております」
ふふんと鼻を高くしながら思いもよらぬ実績を語る影紬に、男は感心させられてしまう。あの影紬にそんな事ができるとは、いや、できてもやるような輩とすら思っていなかった。
やはり休暇などと自分で謳っているからには本業である狂気の所業は鳴りを潜めさせておいてくれるのだろうか……なんて考えていると。
「しかし惜しい。あの子供たちを捕まえて、お友達を生きたまま人形に作り変えてあげるショーなんかを見せてあげられたら今よりどんなにか喜んでくれるでしょうに。いわゆる一つのスペクタクルですよ」
しゅわしゅわと、頭の中から先ほどまでの感心が泡となり儚くも消え去っていった。
がばりと飛び起きた男は自分の呑気さを猛省しながら目の前の極悪人形に対して余罪の自白を迫る。未来ある幼い子供たちの尊い命を守る事ができるのは今自分しかいないのだ。
「え……前にあなたが大慌てで止めてきた例の遊びはもうやってないのか、ですって?
ああ、動力をオフにした切
いいでしょう別に、誰に迷惑をかけているのでもありませんし……
それに、動いていなければただの可愛らしいお人形さんですよ。
今にも動き出すかもしれない殺戮人形に、そうとも知らず大喜びで群がる子供たちの図……あの光景は中々のインスピレーションを与えてくれましたがね。
……いや、くだらない事をやってる自覚はあります。でも今は怖ーい神様が睨みを効かせているでしょう? それで私にとっての風情ある楽しみというものを用意するにも精々がこの程度までしか叶わないもので。ほら、分かるでしょう?
そうじゃない? もうやってないだろうなって?
はいはい、言われたからには続けてませんよ……」
一時は油断しかけたが、全く碌でもない見下げ果てた奴という認識を改める必要は今のところ皆無であるようだった。大きく息を吐きながらソファに背を預けて虚空を見上げる男に、しかし影紬はくすくすと笑う。
「それでもまあ、思ったよりはうまくやれているでしょう?」
……確かに、まだ今の所は誰も殺してはいないし、芸術作品に仕立て上げてもいない。魔界での一件を始めとする常軌を逸した所業がこの人形の本質であることを思えば極めて平和的な振る舞いが出来ているとも言えるだろう。
考えてみれば例の勇者一行と人形遣いの塔で初めて顔を合わせた時は普通に物腰柔らかく応接することができていた気がするし、常識人のフリをするのは意外と得意だったのだろうか……
「子供って良いですよねぇ、見てて飽きませんし、親御さんの教育が垣間見れる瞬間なんかはある種のドラマを感じることができて面白い。
こちらに滞在する間私も幼稚園の先生か保育士の資格でも勉強してみましょうか? 免許がいるんでしたっけ、どこで取れるか知ってます?」
世も末過ぎる発言に男は思わず半笑いを浮かべる。冗談で言っているのは理解できるにしてもどういう反応を返すのが正解かよく分からなかったのだ。
……などとデリカシーというものに割合欠けた思考に男が駆られている傍らで、何やら先程からガサゴソと物音を立てていたシルエットが台所の方から姿を現す。影紬が家賃代わりに作ってくれた家事人形の一体である。
これがなかなか優秀で、このようによく冷えたフルーツの盛り合わせをトレイに乗せて持ってきてくれるなど朝飯前だ。包丁の手品による多彩かつ品のある細工は今日も見る者の目をなかなか楽しませてくれている。
ただ今回の場合は別に男が頼んだわけでもないので……家主に一切の断りもなく影紬が命じて、食器棚と冷蔵庫の中身を漁らせて勝手に作らせただけである。
無言で腕を組みながら向けられている抗議の視線を無視して、ガラスの盛り皿を男の方にスッと差し出してきた影紬は普段よりもやや熱の込められた声色で弁を振るい始めた。
「あの物語を特等席で鑑賞していたあなたなら理解してもらえるでしょうが、我々の世界を最後の最後で救いせしめたのは、とどのつまり『親娘の愛』と呼ばれる不可思議な存在。愛──この世の何よりも尊いとされる愛という感情。こればかりは、日がな捻くれ者と後ろ指を差される私ですら否定の
気の触れたガラクタ如きが愛の何たるかを語るなど冗談にもならないのでやめてくださいね、と想像上の創世の女神が脳内で中指を立てながら罵倒を発してきたのを宥めすかしつつ男は思う。
たとえ嘘でもあの二人の絆を認めるような発言を影紬がするのは意外だった。見せつけられた現実すらあえて真逆の方向に捻じ曲げたり、あるいは恣意的な解釈を多分に含ませたりしたような表現を披露して観客の心をざわつかせるのに歪んだ美を感じるような奴だと思っていたからだ。
「その顔を見れば何を考えてるか凡そ分かりますが、まだまだ芸術に関する見識というものが浅いと言わざるを得ませんね」
フルーツ盛りから表面のイチゴだけを摘んでパクつきながら影紬は言う。うまいともまずいとも言わない表情だが本当にまともな味覚が搭載されているのか、と男は不安になった。少なくともそれ以降は皿に手を付けなかったのは確かだ。自分が勝手に用意させた癖に。
「
認知の歪みにより無秩序なるアンビバレンスを演出することができるという点では後者の創作前提も肌に合うのですが、問題は今回の題材です。三界を渡る混沌の旅路、それを締め括るは親娘の愛……あまりに複雑かつ壮大。それは後世へと永遠に語り継がれるであろう物語。四代目影紬の誇りにかけても、この戯曲に対してばかりは真摯に取り組まねばならないでしょう」
いつものように取り合わず聞き流しておくつもりでいたが、思いのほか真剣に持論を語る影紬に少しばかりの座り心地の悪さを感じた。
確かに酷い奴かもしれない。それでも人々を楽しませるための魔芸に真正面から向き合う彼女の姿を見て、ただそれを蔑ろにするだけというのも良くないのかもしれないと男は思った。
彼女らが歩んできた世界、その物語を愛しているのは男も同じだ。もしも影紬が作ろうとしている演劇が完成したなら、その時は──
「……え? 自分にも観劇させてくれないか、ですって?」
こくりと男は頷いた。
勿論それが人を傷付けるものなら別ではあるが。稀代の芸術家、影紬が心血を注いで作り上げた人形劇の舞台を是非とも楽しみに待っていたいと思う。
とは言ったものの、男の胸中では”不安”の二文字が後からじわじわと滲み出てきた。何を迂闊な事を言っているのかと想像上の創世の女神が馬鹿を見る目を向けてくる。
あっちであれほど目の敵にされているからにはやはり相応の理由があるわけで、少し一緒に過ごしただけで簡単に安請け合いなどしてしまう自分の方がおかしいのだろうか……と思い悩んだりもしてしまう。
「ふふ、そうですよ。あなたは変なんです」
とはいえ、当の本人からぬけぬけと断じられる筋合いは無いと思う。
理不尽に梯子を外すような一言に男が鼻白むが……にんまりと目を細めていた彼女は、更にその笑みを深くした。
「だから私はあなたを選んだのですから」
気が付けば。
影紬の囁き声が耳元にまで近く聞こえた。驚きで咄嗟に身を退け反らせるも、同じだけ距離を詰めるように乗り出してくる。
ただし心臓が跳ねた理由はもう一つあるだろう──女の子のような甘い芳香がふわりと鼻腔を
だがそれはどういう意味かと、男が問う前に影紬の一方的な独白は続く。
「自慢ではありませんが、私は
懺悔している、という声色ではない。己の愉楽を演出する舞台として世界そのものを使い潰さんとした女の
「敬愛すべき我が陛下の、世界を焼き尽くすばかりの覇業に微力を添えさせていただいた過去……大半が『無かったこと』になったとはいえ、記憶までもが消えゆくわけではありません。
そして加害者と被害者との間では、やはり本質的な所でどうしても反りが合わぬもの……」
それは後悔でも、反省ですらない。都合の悪い現状に対する単なる不満と、それを解消するための冴えたやり方を述べているだけに他ならなかった。
「それなのに私が欲したのは、次の作品のために
だから、私はあなたに会いに来た。あなたの立場はどこまで行っても、どこか他人事。当たり前ですよね? 加害者たる私にとっては好都合で、そして被害者にとってはいっそ冷徹なまでの温度感の違い。
だから、ほら。現にこうして、私のことを受け入れはじめているのでしょう?」
無機物で作られた両の瞳が間近で合う。からくり仕掛けの手指はそうと気が付かれないほどの自然さで、男の頬をそっと撫でたのだ。
「それが、ここに私が来た理由……の半分」
ほんの僅かな間、しかし男にとっては長い長い時間が過ぎたかと思うほどのその直後──ぱっと離れた影紬は、両手を上げてあっけらかんとした笑顔を浮かべたかと思うとこう続けた。
「だから嬉しかったんですよ。私の所業を知った上で劇を観たいなどと自分から言い始めるとは、どうやら順調に絆されてくれているようですね」
専らの観察目標としている人並みの善性を備えた上で、自分の悪性を必要以上に邪険としない小市民。確かに矛盾した理想に見えるが、それを求めた果てに影紬という人形遣いはこのような所まで行き着いてしまったのか。
男はいつの間にか自分の体が汗ばんできているのに気が付いて、落ち着こうと大きく息を吐く。そんな彼を気遣う様子もなく、いつもと同じような調子の影紬はまたしても飄々と言った。
「しかし、そうですね。そんなに私の作品が完成するのが待ち遠しいなら、少しばかり協力してもらいたいことが一つあるのでした」
滑るように男の横へと座ると──つい先ほどの焼き増しのように。影紬はずいと顔を近づけたかと思えば己の口を吊り上げるように引っ張り、その中身を見せてきた。
「味覚を始めとした人間らしい感覚の再現に取り組んでいると話したでしょう? それも言ってしまえば”愛”の研究の一環ですよ。
私は私を作り変えることで、たとえ今の私に理解し得ざる事であろうと必ずこの手を届かせてみせる。
ゆくゆくは──
違う、これは……いつも通りの雰囲気などではない。
近すぎる。
まるで木の枝に絡みつく蛇のように、体の表面に這うほどの距離で存在を感じる。妖しい表情。声と香りを、脳髄へと丹念に刷り込むように。それは今もなお近付き続けている。
「あなたも良くご存知である、完全なる機械存在にして神を孕むという目的のもと生み出されし被造物──ブリュンヒルデ。デウスエクスマキナ。
残念ながら設計資料を閲覧する機会に恵まれず、内部構造の解体観察も不思議と許可が貰えなかったものでアプローチこそ異なるものの、そこは私の才が為せる業。
つい最近、全く革新的な仕掛けをお腹の中に追加する事に成功しましてね。いえいえ、人様の卵子を代わりに育てる不出来な医療道具の真似事などではありませんよ。
ふふ、何ですその顔は? 少なくとも不可能な事ではないとあなたは知っている筈ですが?」
耳元で囁く。
破滅的な誘惑を。
「私との間に、子供を作ってみませんか?」