戦国に転生した現代少女・茶々。信長の姪として迎えられ、運命に抗いながらも忠実な小姓・蘭丸との奇妙な絆を育んでいくかもしれない。



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転生した→秀吉と結婚したくない→せや、信長助けたろ


茶々になったので

「夢は、終わらない」

 目が覚めたとき、私はまだ、女だった。

 ──そうか、死にきれなかったのか。

 頬を撫でるのは火の粉の匂い。瞼の裏に焼き付いているのは炎に呑まれる天守閣。

 嘘みたいに美しかった。あれが世界の終わりに見えたんだ。

「おい」

 ざらついた声が私を呼ぶ。あれは──父だったか。あるいは鬼か、魔か。

 だが私は知っている。この声の主が誰よりも人間らしい獣であることを。

 織田信長。

 日本を呑み込んだ、暴君。

 歴史の教科書で見た彼の顔は、どこか作り物めいていた。

 悪名も名声も、焼け焦げたパピルスのように掴みどころがなく、つるりと指を滑らせる。

 でもいま私の目の前にいる彼は違う。生きている。血が通っている。

 理屈じゃなく、この男に触れてはいけないと、肌が警告する。

「茶々と申すか。面白い目をしておるな。まるで──諦めを知った死人の目だ」

 私は口を開く。

「──あんたこそ、死に損ないの狐みたいな面だな」

 どこか他人事みたいに、私は応えた。

 心は冷たい水の底に沈んでいて、何もかもがどうでもよかった。

 私は再び、茶々として生きている。

 でも本当の私は──

 ──平成を生き、令和で死んだ、ただの女の子だった。

 名前も顔も全部、置いてきた。

 そしてまた生き延びてしまった。

 望みもしないこの時代で、私は、豊臣秀吉の側室として、歴史の端に括られる運命だった。

 ──冗談じゃない。誰が、そんなものに縛られてやるか。

 運命の幕は、音もなく開いた。

 命よりも重い業火が、また私を焦がそうとしている。

 そして私は、冷めた目で世界を見下ろしていた。

「やれやれ。まだ、終わらせてくれねぇらしいな──このクソみたいな夢は」

 

 

 

 正座が辛い。着物が重い。

 膝裏に汗が滲んでいる。首の後ろがかゆい。

 ──まるで罰ゲームだ。

 いや冗談じゃなくて、これほんとに前世の業を贖う地獄なんじゃねーかと思ってる。

 だってさ、何がどうなってこうなった?

 気づけば戦国時代の、しかもよりによって浅井長政の娘ってどういう因果?

 現代での記憶は、ところどころ抜け落ちてるけど──死んだことは覚えてる。

 あの病室の妙に白い天井。酸素マスク越しに聞いた母さんの泣き声。

 目の前が黒くなって、次に開けたらこのザマだ。

「……ふざけんなよ、マジで」

 呟いた声は、誰にも届かない。

 いや、そもそも聞こえてたら怒鳴られてる。だってここ、信長の御前なんだから。

「茶々。前へ」

 天正七年。安土城に私はいた。

 声がかかる。重々しい、儀式の声。

 私はとりあえず立ち上がった。くたびれた人形みたいに。

 目の前にいるのが織田信長。

 うん、あの信長。歴史の教科書で見たより、ずっと痩せてて、目つきが鋭い。

 魂にガソリンぶっかけて生きてるタイプ。たぶん、いま火種も点いてる。

「……ふん。よう見れば、なかなかの器量じゃな。つまらん眼をしておるが、それも良し」

「誉め言葉には聞こえねえな。叔父上も言い方考えたほうがいいぜ」

「なに、女は睨んでおるぐらいがよい。媚びを売るばかりの猫よりもな。──のう、茶々」

「……猫は好きだけどな。私は違うけど」

 にやりと笑う信長。やっぱりこの人、狂ってる。でも芯がある。

 歴史で見た英雄ってのは、もっと神々しくて、人の理解を超えた存在だと思ってたけど──この男は生々しくて、刺々しい。

 それでも、私は確かに思った。

 ──この人に、賭けてみてもいいかもしれない。

 そう思った自分に、心底呆れながら。

 

 

 

 

 あのとき、空が割れたような気がした。

 織田信長という怪物に面と向かった直後、私の前に現れたのは──もう一人の、違うベクトルの怪物だった。

「いやいや、これはこれは……姫様にお目にかかれるとは! ははっ、これは運命、いえ奇跡ですな!」

 引きつった笑顔。

 媚びた声。

 見え透いた計算と薄っぺらい愛嬌。

 そして──

「猿だな」

 私は思わず口にしていた。

「え……?」

「……喋る猿。踊る猿。媚びて、笑って、手を擦って。──腹の底が見えるほど、うるさい」

 凍りつく空気。

 何人かの家臣が顔を引きつらせ、信長だけが愉快そうに「はっはっは」と笑った。

「どうじゃ、秀吉。これがうちの茶々よ。毒気と風格が同居しとる。気に入ったか?」

「……いやはや、こりゃ参った。さすがは信長公の御眼鏡に適うお方で、お市様の御息女。実に聡明でいらっしゃる」

 秀吉はそう言ったけれど、目が笑っていなかった。

 むしろ──舐めるように、値踏みするように、あの下卑た目は私の全身をじろじろと見ていた。

 気持ちが悪い。

「女だからって、手籠めにすれば従うと思うなよ」

 秀吉の側室にはならない。信長さえ生きていれば、茶々が秀吉の側室におちる人生も回避できたはずだ。運命は変えられる。

「……え?」

「言葉にしなくても、そういう目をしてる。──現代でなら、即ブロック案件だな」

 誰も意味が分かっていなかった。

 いいんだ。分からせるつもりもない。

「この女、只者ではありませぬな……信長公、いずれ大成いたしましょうぞ」

 この女呼びか。くそが。

「ほう、婿にでも取るか?」

 後半は、信長から私への問いかけ。即答だった。

「それだけは絶対に御免こうむる」 

 笑い声。

 ざわめき。

 冷えた視線と、煮えたぎる憎悪。

 その日から、秀吉という存在は、私の中で明確な敵に分類された。

 ──何もかもが気に入らない。

 その手も、声も、佇まいも。

 なにより、私の未来を汚す匂いがするのが許せなかった。

 私は死にきれなかった。

 だからこそ、もう誰にも私の物語を上書きさせない。

 たとえ相手が豊臣秀吉だろうと。

 

 

 

 

 たぶん私が転生して一番最初に理解したのは──

 この世界の秩序には、線があるということだった。

 どれだけ戦が起きようが、どれだけ命が踏み潰されようが、身分というやつはそう簡単に壊れたりしない。

 秀吉──木下藤吉郎は、武家の出じゃない。

 元百姓だか足軽だか、下賤な出で、信長に拾われてここまで来た男。

 けれどいまや織田家の重臣として誰もが頭を下げる。

 ──それでも私は絶対に頭を下げる気になれなかった。

「婿にでも取るか?」

 そう言われたとき、即座に否定したのは、感情じゃない。理屈だった。

 私が浅井長政の娘で、母は織田信長の妹。

 つまり、こっちは由緒正しき貴種ってやつだ。

 一方で秀吉は──野心溢れる成り上がり。

 血の重さも、家の格も、何もかもが違う。

 そもそも年齢だって、親ほど離れてる。

 顔がどうとかだけじゃない。

 ありえないんだ。最初から。

「この私がよりによって……秀吉と混じるとか、冗談が過ぎる」

 心の中で、モノローグの私が吐き捨てた。

 ああ、人ってこういう時は、自然と本音が出るんだなと気づく。

 秀吉の目は軽く、どこまでも庶民的だった。

 私の身にまとう血の層や、教養や、美学を──なにも見ていなかった。

「この男とは、同じ風呂に入る水すら違う」

 ──私は、静かに線を引いた。

 感情ではなく秩序で。

 対等であることすらありえない、そう刻み込んだ。

 だからこの時代で、私が戦う理由は明確だった。

 歴史を変える。理由は大それたことじゃない。

 ただ、自分を安売りしないため。

 誰かの都合で、誰かの側室になんてなりたくない。

 ──私は、私の価値を、私自身で証明する。

「……くだらねえ。誰の夢だよ、こんな筋書き」

 どこかで嗤い声がした。

 もしかすると、それは私自身だったのかもしれない。

 

 

 

 縁側で干からびていたら、少年がやってきた。

「茶々様。……お茶をどうぞ」

 静かな声。

 物腰柔らかく、背筋も伸びていて、清潔感のかたまりみたいな少年だった。

 ──誰だこいつ。

「私に毒でも盛る気か? 叔父上ならやりかねねぇな」

「そんな……滅相もない」

 少年は小さく首を振って、湯呑を差し出した。

 手の所作が妙に綺麗で──たぶん、育ちじゃなくて、訓練の賜物だ。

つまりこの子は、「誰かの手足」として仕込まれてる。

「……おまえ、名前は」

「森蘭丸と申します」

 森──蘭丸。

 ああ、知ってる。知識として。

 歴史のどこかに出てくる、信長の小姓。

 本能寺の変で、主君と共に死ぬ忠義の化身。

 ──馬鹿だな、と思った。

 どうせ焼け死ぬ未来しかないのに、今から懸命に忠義を積んでる。

 滑稽で、哀れで、でもどこか眩しかった。

「私のこと、様付けするな。肩がこそばゆい。姫て呼べ」

「……かしこまりまりました」

「……おまえ、年上だろ」

「……はい。僕は、十四です」

 十四。今の茶々姫からしたら年上確定。

 っていうかその歳で、もう主君の側仕えって……この時代の労働基準、どうなってんだよ。

「んで? 叔父上に命じられたか、私の監視でも」

「いえ。……信長様は何も仰っていません。私は、ただ……気になっただけで」

「……は?」

「貴女は、皆と少し違うから。目の奥が……少し、寂しそうで」

 カタ、と湯呑が揺れた。

 なんだこの子。

 ほんとに十四か? 怖いわ。

 ていうか、何その目。真っすぐすぎて、刺さる。

「やめろ。私は誰とも馴れ合わねえ。そういうの、性に合わねぇんだよ」

「はい。でも、それでも、何かあれば声をかけてください。……姫様」

「……様は付けるなって言ってんだろ」

 蘭丸は小さく笑った。

 柔らかく、でも芯がある笑みだった。

 ──この子、嫌いになれないかもしれない。

 嫌な予感がした。

 それはつまり、私がまた誰かを気にしてしまうってことだから。

「……めんどくせぇな」

 思わず呟いた言葉に、蘭丸は何も言わなかった。

 ただ風に揺れる障子の向こうで、椿がひとつ散った。

 

 

 

 蘭丸はよく働いている。

 言われたことは三秒で飲み込んで、一秒で動く。

 それでいて出しゃばらない。驕らない。

 何より──こちらを見上げる目が、まっすぐすぎる。

 ああ、なるほど。

「これは……楽しいわ」

 思わず、私はぽつりと呟いていた。

 十四歳。

 無垢で、素直で、ちょっとだけ生意気。

 でも根は従順で、命じれば黙って従う。

 善悪も理非もまだ確立していない、未完成の器。

 ──つまり、染めがいがある。

 たとえば言葉の端に毒を混ぜてみる。

 たとえば所作を一つ一つ矯正してみる。

 たとえば意味もなく目を細めて笑ってみせる。

「はい、姫様……いや、様」

「……誰が様だバカ。姫と様が入れ替わってるぞ」

「す、すみません……」

 しょんぼりと項垂れる。その癖が実に良い。

 傷ついた子犬か、耳の垂れたウサギのような眼をする。

 ──なんだこのご褒美みたいな反応は。

 私は口の端だけで笑った。

 誰にも見せないように、こっそりと。

 人間は嫌いだ。自分も嫌いだ。

 それでもこの手の中でぬくもりを感じるのは嫌じゃない。

「おまえ、……私の言うことしか信じんなよ」

「……え?」

「信長様に命じられたとか言って、私に隠れて勝手なことしたら、許さねえからな。従え。命令だ」

 信長の小姓に無茶振りだと分かっている。

「……はい。姫──茶々様に従います」

 しかし頷いた蘭丸の顔を、私はまじまじと見た。

 肌は透き通ってて、声はまだ変わりきっていない。

 人と獣の間で揺れている境界線の年齢。

 どこまでが本能で、どこまでが理性か。本人もたぶん理解していない。

 そういう曖昧さがたまらなく良い。

「……ふっ。ホント、かわいく育てがいあるわ」

 つい、素が出た。

 女の声。女の言い方。

 しまった、と思った時にはもう遅い。

 蘭丸がきょとんとこっちを見ていた。

「い、今のは、その──気の迷いだ。忘れろ。黙れ。聞かなかったことにしろ」

「……ええと、はい」

 頷く彼の顔は、どこか嬉しそうだった。

 やべぇ。

 この感じ、……やべぇな。

 私、人間嫌いのはずだったのに。

 こんなチョロいウサギ一匹に、足を引っかけられかけてる。

「ちっ……もう、しばらく口きいてやんね」

「え、そ、それは……っ」

 ぷいと顔をそらしてやる。

 案の定、オロオロしてる。かわいい。

 ──私は最悪な女だ。

 でもそういう自分を、今はちょっとだけ肯定してやってもいい気がしていた。

 熱が、こもっていた。

 指先に、喉の奥に、腹の底に──じんわりと広がる疼き。

 これはたぶん、生きている証ってやつ。

 それとも抑えつけられていた何かが軋みながら動き出した音か。

 

 

 

 蘭丸は、今日も私の背後にぴたりと控えていた。

 何も言わない。何も求めない。

 ただ黙って従う。

 それがいい。

 それがたまらない。

「なあ、蘭丸」

「はい」

「おまえさ──私のこと、どう思ってんの?」

「……?」

「女として見たこと、あるか?」

 一瞬で硬直する気配。笑えるほど分かりやすい。

「……い、いえ、そういうのは……」

「そっか。ないか。まあ、そりゃそうだよな」

 着物の襟を、すこしだけゆるめる。

 わざと、うなじを晒すように。

 背筋に蘭丸の視線が刺さるのを感じて、喉の奥がくすぐったくなる。

 ──ああ、これは楽しい。

「なあ、見てもいいぞ。ほら、こっち見ろよ」

「……っ、で、でも──」

「でもじゃねえ。命令だ」

 視線が逸らせないって顔してる。

 呼吸が乱れてる。耳まで赤い。

 でも絶対に手は出してこない。

 この子はそういう子だ。

 越えてこないって、もう分かってる。

 だからこそ私はこのゲームを楽しめる。

「なあ、蘭丸。おまえ、もしかして──私のこと、好きなんじゃね?」

「ち、ちがっ……そんな……!」

「ふーん、じゃあ嫌いか。残念」

「……いえっ、それも……」

「そっか。じゃあどっちでもいいわ。私、おまえのこと好きでも嫌いでもないし」

 ひどい。

 いじわる。

 最低な女。

 でも、私にはこれが必要だった。

 自分からは絶対に触れられない場所を、向こうからも絶対に届かない距離で、ぬるく温める。

 ──それが、今の私の唯一の処刑台。

 退屈と孤独を殺す、娯楽。

「……なあ蘭丸。おまえがそのうち大人になったら、さ──」

「……なったら?」

「そんときゃ、ちゃんと抱けよ。責任取れ」

「……!」

 はっと息を呑む音が確かに聞こえた。

 顔も声も、真っ赤だ。

 私は、喉の奥で笑った。

 ──かわいい。

 ホント、かわいすぎて罪悪感が湧くほどだ。

 でも、これはゲームだ。

 真に受けるなよ。

 そのラインを越えた瞬間、すべてが壊れるって分かってるから。

「……じゃ、夢見るなよ、ウサギ」

 あくまで私は檻の中で遊んでいるだけ。

 鍵を持つのは私。

 牙は隠してるけど忘れるな。

 私を撫でていいのは、手を汚す覚悟がある奴だけだ。

「おい、こっち来いよ」

 そう言った私の声に、蘭丸は一瞬だけ躊躇した。

 その逡巡が愛しかった。

 従順すぎて面白くないのもつまらない。

 でもためらいながらも抗えない――その絶妙なバランスが今の彼の美徳だった。

「……はい」

 畳の軋み。

 足音。

 一歩、また一歩。

 私は膝立ちのまま、彼を正面に呼び寄せた。

 視線が合わないように、わざと見下ろす角度で。

「おまえさ。今日もよく働いたな」

「い、いえ、そんな……」

「黙れ」

 静かに言って、左手でその顎をすくった。

 少年の顔が驚きと緊張でこわばっている。

 耳まで赤い。目を泳がせて逃げ道を探している。

 ──いいぞ。

 その感じがたまらなく可愛い。

「……ご褒美、やるよ」

 私は体をすこしだけ傾けて、その額にふわりと唇を落とした。

 一瞬の沈黙。

 音すら凍りついたような真空の感覚。

 口づけは一秒に満たなかった。

 でも彼の全身がびくりと震えたのが、指先から伝わってきた。

 ──ああ、やってしまった。

 罪悪感? 皆無だ。

 これは支配でも、恋でもない。

 ただ、こちら側の遊びだ。

 彼の中で、この瞬間が一生刻まれるのを、私は知っていた。

 自分が彼に与えてしまった呪いの重さも、わかっていた。

 それでも――

「私はおまえの主じゃねぇ。……でもおまえは私のもんだ」

 そう言いきった私の声は、思いのほか優しかった。

 ──なんだよ。

 私って、やっぱり女の子じゃん。

「……はい。僕は……あなたのものです、姫」

 よくできました、とでも言いたくなった。

 けれど言葉は飲み込んだ。

 もう少しだけ冷たくていたかったから。

「ん。……じゃ、下がれ。調子に乗るなよ、ウサギ」

 背を向けると、蘭丸は畳に手をついて深々と頭を下げた。

 その姿は、忠誠ではなく──きっと何かを誓った者の背中だった。

 私はそれを嬉しいとも怖いとも思わなかった。

 ただただ、面白いと思った。そう。これは楽しいゲーム。

 歯車を狂わせる遊戯。

 火遊びにしては、燃えすぎる予感がする。

 

 

 

 部屋に灯りはなく、ただ月の光だけが畳の輪郭をなぞっていた。

 障子の向こうでは虫が鳴いている。夏の終わりの、粘つくような夜。

「なあ、蘭丸。おまえ、主に忠誠を誓うって、どういう意味か知ってるか?」

「……はい」

 即答。

 けれどそのはいは、内容に対してではなく呼ばれたことへの返事だった。

 かわいい。

 従順で素直で、でも未完成。

 だからこそ──試したくなる。

「なら、証明してみろ」

 私は裾をたくし上げ、白く滑らかな足を彼の前へ差し出す。

 爪先の冷たさと月の光が、まるで儀式のようだった。

「……その足を?」

「ああ。私はおまえの主だ。だったら──その足先に、口づけるのは当然だろ?」

 沈黙。

 でも彼は逃げなかった。

 蘭丸は静かに身をかがめ、震える指で私の足首を支え──そして、ぺたり。

 熱を帯びた舌が、私の足の指に触れた。

 ぬるりと這う感触。

 礼儀でも情でもない。それは盲目的な忠誠。

 言葉にならない想いを行為に変えた、最も原始的な崇拝。

 私は目を閉じた。

 くすぐったい。

 心の奥がひどく熱い。

 でもこれは愛じゃない。

 服従だ。洗脳でもない、本能的な従属。

「……いい子だ、蘭丸」

 まるで猫を撫でるように頭に手を乗せると、彼の肩が小さく震えた。

 それは快楽ではない。

 痛みでもない。

 ただ、存在を赦されたことへの反応だった。

「おまえは、この世界でただ一人、私の足元に跪いていい存在だ。……誇れ」

「……はい」

 声が、涙に濡れていた。

 ──ああ。

 これはもうゲームじゃない。

 私はとっくに、この子を踏みにじっている。

 それでも、やめられなかった。

「……この地獄が、心地いいなんて思うなよ、ウサギ」

 そう呟いて私は足を引いた。

 でも彼の唇は、まだそこにあった温度を、ずっと忘れないだろう。

 それが、支配という名の口づけ。

 

 

 

「なあ、茶々──」

 ある日、信長に呼ばれた陪食の席で、織田信長は不意にそう口を開いた。

 膳に焼き魚の香りが漂っていた。

「おまえと兎の話、なかなか……いい趣味しておるな」

 その一言で、部屋の空気が一瞬止まった。

 空気を読まないことで定評のある織田信長が、ここぞとばかりに空気を読んできた瞬間だった。

「……は?」

 思わず、茶を吹きそうになった。

 蘭丸は隣で固まっている。というより、石像と化している。

「なにって、おまえと蘭丸のことよ。ええ感じじゃな。絵になるわ。目の保養になる。いやぁ……よきかな、年下の姫と忠犬。わしも昔、そういうの……いや、やめておこう」

「や、やめろよ……っ、そういうのはちげぇから!」

 言葉が裏返った。

 ひさしぶりに私は叫びそうになるのを堪えた。

「ちげぇったらちげぇ! あいつは、そういうんじゃねえし、私も──私もっ……!」

 言葉が続かない。

 なんだこの感じ。

 体が熱い。顔が熱い。

 これは──

「……照れておるのか、おまえ」

 信長がにやりと笑った。

 一気に火が点いた。

「照れてねぇ!! 誰がっ、あんなウサギごときに!」

「兎……。蘭丸、兎扱いされとるぞ、おまえ」

「は、はい……あの……嬉しいです……」

 なんでだよ!

 おかしいだろ!

 ちゃぶ台があったらひっくり返したくなった。

 過去最悪レベルで自分が人間らしいと感じてしまった瞬間だった。

 その場で共に陪食していた家族の濃姫や織田信忠、母上や妹たち、それに重臣たち──柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、滝川一益、佐久間信盛、細川忠興、明智光秀。

 みんな誰一人としてツッコまない。

ただ、生暖かい目で茶々と蘭丸を見ていた。

「殿、蘭丸も男ですからなあ。若い姫様にあの忠誠……なにか通じるものがあるのでは」

「うむうむ。わしらが口出すのも野暮というもんよ」

「年頃の娘が好きなようにするのを見守るのが、家臣の務めですな」

 ──なんだこいつら。お前らまで乗るなよ!

「う、うるせぇ!!」

 何かを叫びたかったが、言葉にならなかった。

 蘭丸が、そっと肩を寄せてきた。

「姫。……大丈夫です。僕は、どんな形でも、姫のものですから」

「だあああああああああああああっ!!」

 部屋に響いた絶叫。

 誰もが微笑ましく笑っていた。

 ただ一人、当人を除いて。

 ──ちくしょう。こんなはずじゃなかったのに。

 でも、これはこれで悪くない気もした。

 地獄は続く。ただし、ちょっと甘い蜜の味がする。

 

 

 

 習慣というのは、恐ろしい。

 最初は一度きりの戯れだった。

 ただの遊びであり、主従のごっこ遊びだった。

 だが二度目があり、三度目があり──

 気づけば、あれは蘭丸の日課になっていた。

「……ん」

 今日も畳の上に正座した蘭丸が、私の足に唇を寄せている。

 ゆっくりと丁寧に。

 一本ずつ、まるで神聖な儀式のように、指先を舌でなぞる。

「……よく飽きねぇな、おまえも」

「姫が一日を始めるには、これが必要ですから」

 平然と言い切る蘭丸。

 やばい。

 この子、どんどん完成に近づいてる。

「……どうしてもやめろって言うなら……」

 悲しそうな顔をされると仏心か母性か何かが擽られる。

「別にいいけど? 私は別に困らねぇし」

 否定はしなかった。

「よかった。じゃあ、今日も──失礼します」

 唇が触れてきて、ぺろり。ちゅ、と。

 舐めるたび、蘭丸の眉間が幸福で蕩けている。

 やばい。

 主従というより、宗教。

 そんな光景を、襖の向こうから誰かが見ていた。

「──あら」

 ぱらりと開いた襖の隙間から、見慣れた顔が覗いた。

「……叔母上……!?」

「茶々? それに……蘭丸? なにしてるの?」

 おまえは何も見てない! って叫びたくなった。

「な、なんでもねぇ! これはその、医術の一環で!」

「医術?」

「うん、足のツボ刺激的なやつ! 信長式、禅的、足指マッサージ!」

 蘭丸が黙ってるのが辛い。

 頼む、適当に同調してくれ!

「……茶々?」

 今度は背後から母上の声。

 最悪だ。

 女系親族が、よりによって二人揃って……妹たちが居ないだけまだマシか。

「ねえ茶々。あれ、あなたが命じてるの? それとも……」

「ちが──っ、ちがうって! どっちでもねえし、そんな変な目で見るな!!」

「……いいじゃない、可愛い家臣が忠義を尽くしてるだけでしょ?」

「そうそう。何より楽しそうだし。ね、蘭丸?」

「は、はい……臣下として、ただ、己の務めを……」

 周囲の目線が、極限まで生ぬるい。もはや誰も止めようとすらしない。

 異常が恒常になってしまった瞬間だった。

「……私は間違ってねぇよな?」

 母上に確認する。

「うん、好きにしなさいな。どうせ兄上も黙認してるし。むしろ気に入ってるわよね、こういうの」

 こういうの。蘭丸は、足元に舌を這わせている。

「やめろ、その言い方……っ!」

 ぴく、と蘭丸の舌が震えた。

 おい、なんで反応してんだおまえ!!

 私は顔を伏せた。

 恥ずかしさで耳まで熱い。

 ──なのに、足先だけは、やけに冷静に次の一舐めを待っていた。

 主導権を握ってるはずなのに、

 どこかで私まで堕ちている。

 ──だがそれも悪くなかった。

 

 

 

 その日、空気は澱んでいた。

 茶々の足元には、いつものように蘭丸が跪き、静かに指を舐めていた。

「……っ、おまえなぁ……」

「姫を愛するのは、ここですから」

 意味がわからない。

 でも儀式は日課だった。

 それを壊したのは、誰でもない──あの男だった。

「やあやあ、お市様、濃姫様、そして信長公。今日も麗しゅうございますなあ! さてさて……これはなんとも」

 満面の笑顔、見てはいけない顔芸、

 背後から忍び寄る猿──秀吉が現れた。

「これはこれは、姫様のご足労、いや、ご足指。いやあ、羨ましい……」

 あ、やばい。と思った。

 たぶん全員が。

「……わしにも、是非ひと舐めさせていただければ!」

「は?」

「……は?」

「…………」

 時が止まった。

 信長の箸が宙で止まり、柴田勝家の眉がぴくりと跳ねた。

 濃姫が沈黙し、お市が茶を吹いた。

「いや、なにを言ってるの、あんた」

「……姫様の美しさに、忠義と憧憬が高まりましてな。若造ができるなら、拙者にも」

「殺す」

 静かに。

 凍てついた声で、私は言った。

「おまえが私の足に触れたら、私はその場で噛み千切る。噛み千切って、喉に突っ込んで殺す。分かったか?」

「……えっ」

 ドン引きする猿。

「……猿よ。おまえのは忠義じゃない。業だ。わしでも止めるぞ、さすがにそれは」

 信長が首を振った。

「見てられねえ。絵面が汚すぎる」

「姫様と蘭丸はいいとして、猿がやったら事件だからな……」

「うん。蘭丸は浄化された忠誠だけど、あんたは汗と下心と不敬が混ざってて無理」

 母上も口が悪い。

「出直してこい、木下」

 皆が口々に言った。

 生暖かさを通り越して、衛生的な危機感を感じていた。

「ち、違いますぞ、これは……わしはただ……っ!」

「やめとけ。どんな言い訳しても、世が世なら打ち首もんだぞ?」

「蘭丸が許されるのはな、顔と性格と純度の問題だ。おまえには、ない」

「ぐっ……信長公まで……!」

 秀吉がしゅんと縮んだ。

 たぶん人生で一番視覚的に拒絶された瞬間だったに違いない。

「……もう、マジで来んな。次やったら、私、戦国初の姦通猿討伐やるからな」

「は、はい……」

 秀吉は床を這うように去っていった。

 部屋には再び静寂が戻る。

「……ったく、空気壊すにも程がある」

「大丈夫です、姫。僕、誰にも舐めさせませんから」

「……当然だ。おまえは私専属の足担当だからな」

「光栄です……」

 誰もツッコまなかった。

 ツッコミが死ぬほど虚しくなるレベルで、事態は成立していた。

 ──地獄にも秩序はある。

 問題は、そこに猿の席がないってことだ。




足舐めろ→ペロペロ
あれれ?

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