「夢は、終わらない」
目が覚めたとき、私はまだ、女だった。
──そうか、死にきれなかったのか。
頬を撫でるのは火の粉の匂い。瞼の裏に焼き付いているのは炎に呑まれる天守閣。
嘘みたいに美しかった。あれが世界の終わりに見えたんだ。
「おい」
ざらついた声が私を呼ぶ。あれは──父だったか。あるいは鬼か、魔か。
だが私は知っている。この声の主が誰よりも人間らしい獣であることを。
織田信長。
日本を呑み込んだ、暴君。
歴史の教科書で見た彼の顔は、どこか作り物めいていた。
悪名も名声も、焼け焦げたパピルスのように掴みどころがなく、つるりと指を滑らせる。
でもいま私の目の前にいる彼は違う。生きている。血が通っている。
理屈じゃなく、この男に触れてはいけないと、肌が警告する。
「茶々と申すか。面白い目をしておるな。まるで──諦めを知った死人の目だ」
私は口を開く。
「──あんたこそ、死に損ないの狐みたいな面だな」
どこか他人事みたいに、私は応えた。
心は冷たい水の底に沈んでいて、何もかもがどうでもよかった。
私は再び、茶々として生きている。
でも本当の私は──
──平成を生き、令和で死んだ、ただの女の子だった。
名前も顔も全部、置いてきた。
そしてまた生き延びてしまった。
望みもしないこの時代で、私は、豊臣秀吉の側室として、歴史の端に括られる運命だった。
──冗談じゃない。誰が、そんなものに縛られてやるか。
運命の幕は、音もなく開いた。
命よりも重い業火が、また私を焦がそうとしている。
そして私は、冷めた目で世界を見下ろしていた。
「やれやれ。まだ、終わらせてくれねぇらしいな──このクソみたいな夢は」
正座が辛い。着物が重い。
膝裏に汗が滲んでいる。首の後ろがかゆい。
──まるで罰ゲームだ。
いや冗談じゃなくて、これほんとに前世の業を贖う地獄なんじゃねーかと思ってる。
だってさ、何がどうなってこうなった?
気づけば戦国時代の、しかもよりによって浅井長政の娘ってどういう因果?
現代での記憶は、ところどころ抜け落ちてるけど──死んだことは覚えてる。
あの病室の妙に白い天井。酸素マスク越しに聞いた母さんの泣き声。
目の前が黒くなって、次に開けたらこのザマだ。
「……ふざけんなよ、マジで」
呟いた声は、誰にも届かない。
いや、そもそも聞こえてたら怒鳴られてる。だってここ、信長の御前なんだから。
「茶々。前へ」
天正七年。安土城に私はいた。
声がかかる。重々しい、儀式の声。
私はとりあえず立ち上がった。くたびれた人形みたいに。
目の前にいるのが織田信長。
うん、あの信長。歴史の教科書で見たより、ずっと痩せてて、目つきが鋭い。
魂にガソリンぶっかけて生きてるタイプ。たぶん、いま火種も点いてる。
「……ふん。よう見れば、なかなかの器量じゃな。つまらん眼をしておるが、それも良し」
「誉め言葉には聞こえねえな。叔父上も言い方考えたほうがいいぜ」
「なに、女は睨んでおるぐらいがよい。媚びを売るばかりの猫よりもな。──のう、茶々」
「……猫は好きだけどな。私は違うけど」
にやりと笑う信長。やっぱりこの人、狂ってる。でも芯がある。
歴史で見た英雄ってのは、もっと神々しくて、人の理解を超えた存在だと思ってたけど──この男は生々しくて、刺々しい。
それでも、私は確かに思った。
──この人に、賭けてみてもいいかもしれない。
そう思った自分に、心底呆れながら。
あのとき、空が割れたような気がした。
織田信長という怪物に面と向かった直後、私の前に現れたのは──もう一人の、違うベクトルの怪物だった。
「いやいや、これはこれは……姫様にお目にかかれるとは! ははっ、これは運命、いえ奇跡ですな!」
引きつった笑顔。
媚びた声。
見え透いた計算と薄っぺらい愛嬌。
そして──
「猿だな」
私は思わず口にしていた。
「え……?」
「……喋る猿。踊る猿。媚びて、笑って、手を擦って。──腹の底が見えるほど、うるさい」
凍りつく空気。
何人かの家臣が顔を引きつらせ、信長だけが愉快そうに「はっはっは」と笑った。
「どうじゃ、秀吉。これがうちの茶々よ。毒気と風格が同居しとる。気に入ったか?」
「……いやはや、こりゃ参った。さすがは信長公の御眼鏡に適うお方で、お市様の御息女。実に聡明でいらっしゃる」
秀吉はそう言ったけれど、目が笑っていなかった。
むしろ──舐めるように、値踏みするように、あの下卑た目は私の全身をじろじろと見ていた。
気持ちが悪い。
「女だからって、手籠めにすれば従うと思うなよ」
秀吉の側室にはならない。信長さえ生きていれば、茶々が秀吉の側室におちる人生も回避できたはずだ。運命は変えられる。
「……え?」
「言葉にしなくても、そういう目をしてる。──現代でなら、即ブロック案件だな」
誰も意味が分かっていなかった。
いいんだ。分からせるつもりもない。
「この女、只者ではありませぬな……信長公、いずれ大成いたしましょうぞ」
この女呼びか。くそが。
「ほう、婿にでも取るか?」
後半は、信長から私への問いかけ。即答だった。
「それだけは絶対に御免こうむる」
笑い声。
ざわめき。
冷えた視線と、煮えたぎる憎悪。
その日から、秀吉という存在は、私の中で明確な敵に分類された。
──何もかもが気に入らない。
その手も、声も、佇まいも。
なにより、私の未来を汚す匂いがするのが許せなかった。
私は死にきれなかった。
だからこそ、もう誰にも私の物語を上書きさせない。
たとえ相手が豊臣秀吉だろうと。
たぶん私が転生して一番最初に理解したのは──
この世界の秩序には、線があるということだった。
どれだけ戦が起きようが、どれだけ命が踏み潰されようが、身分というやつはそう簡単に壊れたりしない。
秀吉──木下藤吉郎は、武家の出じゃない。
元百姓だか足軽だか、下賤な出で、信長に拾われてここまで来た男。
けれどいまや織田家の重臣として誰もが頭を下げる。
──それでも私は絶対に頭を下げる気になれなかった。
「婿にでも取るか?」
そう言われたとき、即座に否定したのは、感情じゃない。理屈だった。
私が浅井長政の娘で、母は織田信長の妹。
つまり、こっちは由緒正しき貴種ってやつだ。
一方で秀吉は──野心溢れる成り上がり。
血の重さも、家の格も、何もかもが違う。
そもそも年齢だって、親ほど離れてる。
顔がどうとかだけじゃない。
ありえないんだ。最初から。
「この私がよりによって……秀吉と混じるとか、冗談が過ぎる」
心の中で、モノローグの私が吐き捨てた。
ああ、人ってこういう時は、自然と本音が出るんだなと気づく。
秀吉の目は軽く、どこまでも庶民的だった。
私の身にまとう血の層や、教養や、美学を──なにも見ていなかった。
「この男とは、同じ風呂に入る水すら違う」
──私は、静かに線を引いた。
感情ではなく秩序で。
対等であることすらありえない、そう刻み込んだ。
だからこの時代で、私が戦う理由は明確だった。
歴史を変える。理由は大それたことじゃない。
ただ、自分を安売りしないため。
誰かの都合で、誰かの側室になんてなりたくない。
──私は、私の価値を、私自身で証明する。
「……くだらねえ。誰の夢だよ、こんな筋書き」
どこかで嗤い声がした。
もしかすると、それは私自身だったのかもしれない。
縁側で干からびていたら、少年がやってきた。
「茶々様。……お茶をどうぞ」
静かな声。
物腰柔らかく、背筋も伸びていて、清潔感のかたまりみたいな少年だった。
──誰だこいつ。
「私に毒でも盛る気か? 叔父上ならやりかねねぇな」
「そんな……滅相もない」
少年は小さく首を振って、湯呑を差し出した。
手の所作が妙に綺麗で──たぶん、育ちじゃなくて、訓練の賜物だ。
つまりこの子は、「誰かの手足」として仕込まれてる。
「……おまえ、名前は」
「森蘭丸と申します」
森──蘭丸。
ああ、知ってる。知識として。
歴史のどこかに出てくる、信長の小姓。
本能寺の変で、主君と共に死ぬ忠義の化身。
──馬鹿だな、と思った。
どうせ焼け死ぬ未来しかないのに、今から懸命に忠義を積んでる。
滑稽で、哀れで、でもどこか眩しかった。
「私のこと、様付けするな。肩がこそばゆい。姫て呼べ」
「……かしこまりまりました」
「……おまえ、年上だろ」
「……はい。僕は、十四です」
十四。今の茶々姫からしたら年上確定。
っていうかその歳で、もう主君の側仕えって……この時代の労働基準、どうなってんだよ。
「んで? 叔父上に命じられたか、私の監視でも」
「いえ。……信長様は何も仰っていません。私は、ただ……気になっただけで」
「……は?」
「貴女は、皆と少し違うから。目の奥が……少し、寂しそうで」
カタ、と湯呑が揺れた。
なんだこの子。
ほんとに十四か? 怖いわ。
ていうか、何その目。真っすぐすぎて、刺さる。
「やめろ。私は誰とも馴れ合わねえ。そういうの、性に合わねぇんだよ」
「はい。でも、それでも、何かあれば声をかけてください。……姫様」
「……様は付けるなって言ってんだろ」
蘭丸は小さく笑った。
柔らかく、でも芯がある笑みだった。
──この子、嫌いになれないかもしれない。
嫌な予感がした。
それはつまり、私がまた誰かを気にしてしまうってことだから。
「……めんどくせぇな」
思わず呟いた言葉に、蘭丸は何も言わなかった。
ただ風に揺れる障子の向こうで、椿がひとつ散った。
蘭丸はよく働いている。
言われたことは三秒で飲み込んで、一秒で動く。
それでいて出しゃばらない。驕らない。
何より──こちらを見上げる目が、まっすぐすぎる。
ああ、なるほど。
「これは……楽しいわ」
思わず、私はぽつりと呟いていた。
十四歳。
無垢で、素直で、ちょっとだけ生意気。
でも根は従順で、命じれば黙って従う。
善悪も理非もまだ確立していない、未完成の器。
──つまり、染めがいがある。
たとえば言葉の端に毒を混ぜてみる。
たとえば所作を一つ一つ矯正してみる。
たとえば意味もなく目を細めて笑ってみせる。
「はい、姫様……いや、様」
「……誰が様だバカ。姫と様が入れ替わってるぞ」
「す、すみません……」
しょんぼりと項垂れる。その癖が実に良い。
傷ついた子犬か、耳の垂れたウサギのような眼をする。
──なんだこのご褒美みたいな反応は。
私は口の端だけで笑った。
誰にも見せないように、こっそりと。
人間は嫌いだ。自分も嫌いだ。
それでもこの手の中でぬくもりを感じるのは嫌じゃない。
「おまえ、……私の言うことしか信じんなよ」
「……え?」
「信長様に命じられたとか言って、私に隠れて勝手なことしたら、許さねえからな。従え。命令だ」
信長の小姓に無茶振りだと分かっている。
「……はい。姫──茶々様に従います」
しかし頷いた蘭丸の顔を、私はまじまじと見た。
肌は透き通ってて、声はまだ変わりきっていない。
人と獣の間で揺れている境界線の年齢。
どこまでが本能で、どこまでが理性か。本人もたぶん理解していない。
そういう曖昧さがたまらなく良い。
「……ふっ。ホント、かわいく育てがいあるわ」
つい、素が出た。
女の声。女の言い方。
しまった、と思った時にはもう遅い。
蘭丸がきょとんとこっちを見ていた。
「い、今のは、その──気の迷いだ。忘れろ。黙れ。聞かなかったことにしろ」
「……ええと、はい」
頷く彼の顔は、どこか嬉しそうだった。
やべぇ。
この感じ、……やべぇな。
私、人間嫌いのはずだったのに。
こんなチョロいウサギ一匹に、足を引っかけられかけてる。
「ちっ……もう、しばらく口きいてやんね」
「え、そ、それは……っ」
ぷいと顔をそらしてやる。
案の定、オロオロしてる。かわいい。
──私は最悪な女だ。
でもそういう自分を、今はちょっとだけ肯定してやってもいい気がしていた。
熱が、こもっていた。
指先に、喉の奥に、腹の底に──じんわりと広がる疼き。
これはたぶん、生きている証ってやつ。
それとも抑えつけられていた何かが軋みながら動き出した音か。
蘭丸は、今日も私の背後にぴたりと控えていた。
何も言わない。何も求めない。
ただ黙って従う。
それがいい。
それがたまらない。
「なあ、蘭丸」
「はい」
「おまえさ──私のこと、どう思ってんの?」
「……?」
「女として見たこと、あるか?」
一瞬で硬直する気配。笑えるほど分かりやすい。
「……い、いえ、そういうのは……」
「そっか。ないか。まあ、そりゃそうだよな」
着物の襟を、すこしだけゆるめる。
わざと、うなじを晒すように。
背筋に蘭丸の視線が刺さるのを感じて、喉の奥がくすぐったくなる。
──ああ、これは楽しい。
「なあ、見てもいいぞ。ほら、こっち見ろよ」
「……っ、で、でも──」
「でもじゃねえ。命令だ」
視線が逸らせないって顔してる。
呼吸が乱れてる。耳まで赤い。
でも絶対に手は出してこない。
この子はそういう子だ。
越えてこないって、もう分かってる。
だからこそ私はこのゲームを楽しめる。
「なあ、蘭丸。おまえ、もしかして──私のこと、好きなんじゃね?」
「ち、ちがっ……そんな……!」
「ふーん、じゃあ嫌いか。残念」
「……いえっ、それも……」
「そっか。じゃあどっちでもいいわ。私、おまえのこと好きでも嫌いでもないし」
ひどい。
いじわる。
最低な女。
でも、私にはこれが必要だった。
自分からは絶対に触れられない場所を、向こうからも絶対に届かない距離で、ぬるく温める。
──それが、今の私の唯一の処刑台。
退屈と孤独を殺す、娯楽。
「……なあ蘭丸。おまえがそのうち大人になったら、さ──」
「……なったら?」
「そんときゃ、ちゃんと抱けよ。責任取れ」
「……!」
はっと息を呑む音が確かに聞こえた。
顔も声も、真っ赤だ。
私は、喉の奥で笑った。
──かわいい。
ホント、かわいすぎて罪悪感が湧くほどだ。
でも、これはゲームだ。
真に受けるなよ。
そのラインを越えた瞬間、すべてが壊れるって分かってるから。
「……じゃ、夢見るなよ、ウサギ」
あくまで私は檻の中で遊んでいるだけ。
鍵を持つのは私。
牙は隠してるけど忘れるな。
私を撫でていいのは、手を汚す覚悟がある奴だけだ。
「おい、こっち来いよ」
そう言った私の声に、蘭丸は一瞬だけ躊躇した。
その逡巡が愛しかった。
従順すぎて面白くないのもつまらない。
でもためらいながらも抗えない――その絶妙なバランスが今の彼の美徳だった。
「……はい」
畳の軋み。
足音。
一歩、また一歩。
私は膝立ちのまま、彼を正面に呼び寄せた。
視線が合わないように、わざと見下ろす角度で。
「おまえさ。今日もよく働いたな」
「い、いえ、そんな……」
「黙れ」
静かに言って、左手でその顎をすくった。
少年の顔が驚きと緊張でこわばっている。
耳まで赤い。目を泳がせて逃げ道を探している。
──いいぞ。
その感じがたまらなく可愛い。
「……ご褒美、やるよ」
私は体をすこしだけ傾けて、その額にふわりと唇を落とした。
一瞬の沈黙。
音すら凍りついたような真空の感覚。
口づけは一秒に満たなかった。
でも彼の全身がびくりと震えたのが、指先から伝わってきた。
──ああ、やってしまった。
罪悪感? 皆無だ。
これは支配でも、恋でもない。
ただ、こちら側の遊びだ。
彼の中で、この瞬間が一生刻まれるのを、私は知っていた。
自分が彼に与えてしまった呪いの重さも、わかっていた。
それでも――
「私はおまえの主じゃねぇ。……でもおまえは私のもんだ」
そう言いきった私の声は、思いのほか優しかった。
──なんだよ。
私って、やっぱり女の子じゃん。
「……はい。僕は……あなたのものです、姫」
よくできました、とでも言いたくなった。
けれど言葉は飲み込んだ。
もう少しだけ冷たくていたかったから。
「ん。……じゃ、下がれ。調子に乗るなよ、ウサギ」
背を向けると、蘭丸は畳に手をついて深々と頭を下げた。
その姿は、忠誠ではなく──きっと何かを誓った者の背中だった。
私はそれを嬉しいとも怖いとも思わなかった。
ただただ、面白いと思った。そう。これは楽しいゲーム。
歯車を狂わせる遊戯。
火遊びにしては、燃えすぎる予感がする。
部屋に灯りはなく、ただ月の光だけが畳の輪郭をなぞっていた。
障子の向こうでは虫が鳴いている。夏の終わりの、粘つくような夜。
「なあ、蘭丸。おまえ、主に忠誠を誓うって、どういう意味か知ってるか?」
「……はい」
即答。
けれどそのはいは、内容に対してではなく呼ばれたことへの返事だった。
かわいい。
従順で素直で、でも未完成。
だからこそ──試したくなる。
「なら、証明してみろ」
私は裾をたくし上げ、白く滑らかな足を彼の前へ差し出す。
爪先の冷たさと月の光が、まるで儀式のようだった。
「……その足を?」
「ああ。私はおまえの主だ。だったら──その足先に、口づけるのは当然だろ?」
沈黙。
でも彼は逃げなかった。
蘭丸は静かに身をかがめ、震える指で私の足首を支え──そして、ぺたり。
熱を帯びた舌が、私の足の指に触れた。
ぬるりと這う感触。
礼儀でも情でもない。それは盲目的な忠誠。
言葉にならない想いを行為に変えた、最も原始的な崇拝。
私は目を閉じた。
くすぐったい。
心の奥がひどく熱い。
でもこれは愛じゃない。
服従だ。洗脳でもない、本能的な従属。
「……いい子だ、蘭丸」
まるで猫を撫でるように頭に手を乗せると、彼の肩が小さく震えた。
それは快楽ではない。
痛みでもない。
ただ、存在を赦されたことへの反応だった。
「おまえは、この世界でただ一人、私の足元に跪いていい存在だ。……誇れ」
「……はい」
声が、涙に濡れていた。
──ああ。
これはもうゲームじゃない。
私はとっくに、この子を踏みにじっている。
それでも、やめられなかった。
「……この地獄が、心地いいなんて思うなよ、ウサギ」
そう呟いて私は足を引いた。
でも彼の唇は、まだそこにあった温度を、ずっと忘れないだろう。
それが、支配という名の口づけ。
「なあ、茶々──」
ある日、信長に呼ばれた陪食の席で、織田信長は不意にそう口を開いた。
膳に焼き魚の香りが漂っていた。
「おまえと兎の話、なかなか……いい趣味しておるな」
その一言で、部屋の空気が一瞬止まった。
空気を読まないことで定評のある織田信長が、ここぞとばかりに空気を読んできた瞬間だった。
「……は?」
思わず、茶を吹きそうになった。
蘭丸は隣で固まっている。というより、石像と化している。
「なにって、おまえと蘭丸のことよ。ええ感じじゃな。絵になるわ。目の保養になる。いやぁ……よきかな、年下の姫と忠犬。わしも昔、そういうの……いや、やめておこう」
「や、やめろよ……っ、そういうのはちげぇから!」
言葉が裏返った。
ひさしぶりに私は叫びそうになるのを堪えた。
「ちげぇったらちげぇ! あいつは、そういうんじゃねえし、私も──私もっ……!」
言葉が続かない。
なんだこの感じ。
体が熱い。顔が熱い。
これは──
「……照れておるのか、おまえ」
信長がにやりと笑った。
一気に火が点いた。
「照れてねぇ!! 誰がっ、あんなウサギごときに!」
「兎……。蘭丸、兎扱いされとるぞ、おまえ」
「は、はい……あの……嬉しいです……」
なんでだよ!
おかしいだろ!
ちゃぶ台があったらひっくり返したくなった。
過去最悪レベルで自分が人間らしいと感じてしまった瞬間だった。
その場で共に陪食していた家族の濃姫や織田信忠、母上や妹たち、それに重臣たち──柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、滝川一益、佐久間信盛、細川忠興、明智光秀。
みんな誰一人としてツッコまない。
ただ、生暖かい目で茶々と蘭丸を見ていた。
「殿、蘭丸も男ですからなあ。若い姫様にあの忠誠……なにか通じるものがあるのでは」
「うむうむ。わしらが口出すのも野暮というもんよ」
「年頃の娘が好きなようにするのを見守るのが、家臣の務めですな」
──なんだこいつら。お前らまで乗るなよ!
「う、うるせぇ!!」
何かを叫びたかったが、言葉にならなかった。
蘭丸が、そっと肩を寄せてきた。
「姫。……大丈夫です。僕は、どんな形でも、姫のものですから」
「だあああああああああああああっ!!」
部屋に響いた絶叫。
誰もが微笑ましく笑っていた。
ただ一人、当人を除いて。
──ちくしょう。こんなはずじゃなかったのに。
でも、これはこれで悪くない気もした。
地獄は続く。ただし、ちょっと甘い蜜の味がする。
習慣というのは、恐ろしい。
最初は一度きりの戯れだった。
ただの遊びであり、主従のごっこ遊びだった。
だが二度目があり、三度目があり──
気づけば、あれは蘭丸の日課になっていた。
「……ん」
今日も畳の上に正座した蘭丸が、私の足に唇を寄せている。
ゆっくりと丁寧に。
一本ずつ、まるで神聖な儀式のように、指先を舌でなぞる。
「……よく飽きねぇな、おまえも」
「姫が一日を始めるには、これが必要ですから」
平然と言い切る蘭丸。
やばい。
この子、どんどん完成に近づいてる。
「……どうしてもやめろって言うなら……」
悲しそうな顔をされると仏心か母性か何かが擽られる。
「別にいいけど? 私は別に困らねぇし」
否定はしなかった。
「よかった。じゃあ、今日も──失礼します」
唇が触れてきて、ぺろり。ちゅ、と。
舐めるたび、蘭丸の眉間が幸福で蕩けている。
やばい。
主従というより、宗教。
そんな光景を、襖の向こうから誰かが見ていた。
「──あら」
ぱらりと開いた襖の隙間から、見慣れた顔が覗いた。
「……叔母上……!?」
「茶々? それに……蘭丸? なにしてるの?」
おまえは何も見てない! って叫びたくなった。
「な、なんでもねぇ! これはその、医術の一環で!」
「医術?」
「うん、足のツボ刺激的なやつ! 信長式、禅的、足指マッサージ!」
蘭丸が黙ってるのが辛い。
頼む、適当に同調してくれ!
「……茶々?」
今度は背後から母上の声。
最悪だ。
女系親族が、よりによって二人揃って……妹たちが居ないだけまだマシか。
「ねえ茶々。あれ、あなたが命じてるの? それとも……」
「ちが──っ、ちがうって! どっちでもねえし、そんな変な目で見るな!!」
「……いいじゃない、可愛い家臣が忠義を尽くしてるだけでしょ?」
「そうそう。何より楽しそうだし。ね、蘭丸?」
「は、はい……臣下として、ただ、己の務めを……」
周囲の目線が、極限まで生ぬるい。もはや誰も止めようとすらしない。
異常が恒常になってしまった瞬間だった。
「……私は間違ってねぇよな?」
母上に確認する。
「うん、好きにしなさいな。どうせ兄上も黙認してるし。むしろ気に入ってるわよね、こういうの」
こういうの。蘭丸は、足元に舌を這わせている。
「やめろ、その言い方……っ!」
ぴく、と蘭丸の舌が震えた。
おい、なんで反応してんだおまえ!!
私は顔を伏せた。
恥ずかしさで耳まで熱い。
──なのに、足先だけは、やけに冷静に次の一舐めを待っていた。
主導権を握ってるはずなのに、
どこかで私まで堕ちている。
──だがそれも悪くなかった。
その日、空気は澱んでいた。
茶々の足元には、いつものように蘭丸が跪き、静かに指を舐めていた。
「……っ、おまえなぁ……」
「姫を愛するのは、ここですから」
意味がわからない。
でも儀式は日課だった。
それを壊したのは、誰でもない──あの男だった。
「やあやあ、お市様、濃姫様、そして信長公。今日も麗しゅうございますなあ! さてさて……これはなんとも」
満面の笑顔、見てはいけない顔芸、
背後から忍び寄る猿──秀吉が現れた。
「これはこれは、姫様のご足労、いや、ご足指。いやあ、羨ましい……」
あ、やばい。と思った。
たぶん全員が。
「……わしにも、是非ひと舐めさせていただければ!」
「は?」
「……は?」
「…………」
時が止まった。
信長の箸が宙で止まり、柴田勝家の眉がぴくりと跳ねた。
濃姫が沈黙し、お市が茶を吹いた。
「いや、なにを言ってるの、あんた」
「……姫様の美しさに、忠義と憧憬が高まりましてな。若造ができるなら、拙者にも」
「殺す」
静かに。
凍てついた声で、私は言った。
「おまえが私の足に触れたら、私はその場で噛み千切る。噛み千切って、喉に突っ込んで殺す。分かったか?」
「……えっ」
ドン引きする猿。
「……猿よ。おまえのは忠義じゃない。業だ。わしでも止めるぞ、さすがにそれは」
信長が首を振った。
「見てられねえ。絵面が汚すぎる」
「姫様と蘭丸はいいとして、猿がやったら事件だからな……」
「うん。蘭丸は浄化された忠誠だけど、あんたは汗と下心と不敬が混ざってて無理」
母上も口が悪い。
「出直してこい、木下」
皆が口々に言った。
生暖かさを通り越して、衛生的な危機感を感じていた。
「ち、違いますぞ、これは……わしはただ……っ!」
「やめとけ。どんな言い訳しても、世が世なら打ち首もんだぞ?」
「蘭丸が許されるのはな、顔と性格と純度の問題だ。おまえには、ない」
「ぐっ……信長公まで……!」
秀吉がしゅんと縮んだ。
たぶん人生で一番視覚的に拒絶された瞬間だったに違いない。
「……もう、マジで来んな。次やったら、私、戦国初の姦通猿討伐やるからな」
「は、はい……」
秀吉は床を這うように去っていった。
部屋には再び静寂が戻る。
「……ったく、空気壊すにも程がある」
「大丈夫です、姫。僕、誰にも舐めさせませんから」
「……当然だ。おまえは私専属の足担当だからな」
「光栄です……」
誰もツッコまなかった。
ツッコミが死ぬほど虚しくなるレベルで、事態は成立していた。
──地獄にも秩序はある。
問題は、そこに猿の席がないってことだ。
足舐めろ→ペロペロ
あれれ?