「ねぇ、スワッピングしてみない?」妻のその一言は、冷え切った夫婦関係を修復するための劇薬のはずだった。しかし、平凡な夫──健一が未知の快楽に目覚める一方で、妻が味わったのは地獄の屈辱。夫の心を取り戻すための妻の献身的な愛は、やがて夫の中に眠る獣を呼び覚まし、二人の関係を底なしの奈落へと変えていく。

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健一と美咲

 ◆◆◆

 

 ソファの右と左。

 

 俺と妻の美咲のあいだに、クッション二つぶんの空白が横たわっている。

 

 点けっぱなしのテレビが虚しい光を投げかけるリビングで、互いの視線は手元のスマホに縫い付けられたままだ。

 

 土曜の夜。

 

 かつては週末の開幕を告げる、甘く特別な時間だったはずなのに。

 

 今じゃただ過ぎ去るのを待つだけの消化試合だ。

 

 野手登板したベースボールの試合より酷い。

 

 結婚して五年。

 

 子供はいない。

 

 共働きで生活リズムが噛み合わない毎日。

 

 いつからか、それが全ての言い訳になっていた。

 

 会話が消えたことも、夜の営みが月に一度の義務になったことも。

 

 愛が消えたわけじゃない。

 

 ただ熱を失ったぬるま湯に、二人して肩まで浸かっているような息苦しさに窒息しかけているだけである。

 

 §

 

「ねぇ」

 

 不意に美咲が静寂を破った。

 

 俺はスマホの画面から目を離さないまま、「ん?」と気の抜けた声を返す。

 

「健一」

 

 今度は名前を呼ばれた。

 

 億劫に顔を上げると美咲はスマホを膝に置き、真っ直ぐな瞳で俺を見ていた。

 

 その真剣すぎる眼差しに胸の奥がざわりと揺れる。

 

 何か良くない話が始まる予感がした。

 

「スワッピング、してみない?」

 

 唐突だった。

 

 俺の脳は、その意味をすぐには飲み込めない。

 

 スワッピング……? 

 

 そのカタカナの響きはまるでゴシップ記事の中の出来事みたいに、現実味がない。

 

 俺は間の抜けた顔で数秒、ただ美咲を見つめ返した。

 

「……は? 今、なんて……?」

 

「だからスワッピング。パートナーを……交換するの」

 

 淡々と──しかし隠しきれない声の震え。

 

 美咲は言葉を繰り返した。

 

 冗談だろ、と。

 

 だが彼女の瞳は潤み、必死に何かを訴えかけていた。

 

「どうしたんだよ急に。ドッキリか何かか?」

 

「本気よ」

 

 美咲は唇をきゅっと結ぶ。

 

「このままじゃ私たち、きっとダメになる……。健一は平気なの? 最近の私たち、夫婦っていうよりただの同居人じゃない」

 

 その言葉は俺が見て見ぬふりをした不安を抉る。

 

 的確にど真ん中を。

 

 平気なわけない。

 

 触れ合うだけで燃え上がったはずの情熱は、今やどこにも見当たらない。

 

 だがその解決策がなぜスワッピングなんだ? 

 

「刺激が欲しかったの。何か……何かを変える、きっかけが……」

 

 そう言って美咲は自分のスマホを俺に差し出した。

 

 画面にはいかにも怪しげなサイト。

 

『新しい扉を開きませんか? パートナーシップの再構築をサポート』

 

 そんな耳障りのいい文句の下には、顔を隠した夫婦たちの写真と生々しいプロフィールが並んでいた。

 

『30代夫婦/マンネリ打破希望』

 

『互いを尊重し、新しい世界を見たいです』

 

 ゴクリ、と乾いた喉が鳴る。

 

 倫理観が頭の中でけたたましく警鐘を鳴らした。

 

 自分の妻を他の男に? 

 

 正気の沙汰じゃない。

 

 ──だが。

 

 心の最も下劣な部分が、抗いがたい好奇心で疼くのを俺は感じていた。

 

 美咲以外の女をこの腕に抱く……? 

 

 その想像は干上がっていたはずの体に、じわりと熱を灯すようだった。

 

「……本気か? 本当に、お前はこんなことを……」

 

「……わからない。正直すごく怖い。でも何もしないでこのまま冷めていくのは、もっと怖いの」

 

 美咲の瞳からぽろり、と涙が一筋こぼれ落ちた。

 

 その涙を見てしまうともう何も言えない。

 

 彼女もまたこのよどんだ関係に苦しみ、悩み抜いた末にこの狂った提案にたどり着くしかなかったのだ。

 

「……まずは会って話を聞くだけ。それだけでも、ダメ……かな……?」

 

 震える声で懇願する妻を前に、俺はもう「馬鹿言うな」と一蹴できなかった。

 

 このまま何もしなければ、俺たちの関係は緩やかに死んでいくだけだ。

 

 ならばこの劇薬に、一度だけ賭けてみるのも……。

 

 俺の脳裏をサイトに並んだ他の夫婦たちの、モザイクの奥の素顔への想像が渦巻く。

 

 パンドラの箱だ、と直感した。

 

 開ければ二度と元には戻れない。

 

 長い沈黙の末、俺は乾いた唇でかろうじて言葉を紡ぎ出した。

 

「……わかった。話を聞くだけだ」

 

 その一言に美咲は安堵の息を吐いた。

 

 だが俺の心の中は真逆だ。

 

 本当にそんなことをしてよいのだろうか? 

 

 そんな想いで一杯だった。

 

 ◆◆◆

 

 美咲の狂った提案から三週間後の土曜の夜。

 

 俺たちは都心のホテルのラウンジへ向かう車の中にいた。

 

 週末のきらびやかな夜景が、まるで他人事のようにフロントガラスを流れていく。

 

 その光は俺たちの心には少しも届かない。

 

「……本当に、大丈夫か?」

 

 ハンドルを握りながら尋ねると、助手席の美咲は無理に笑ってみせた。

 

 今日のために新調したらしい胸元の開いたワンピース。

 

 いつもより念入りな化粧。

 

 そのすべてが痛々しい。

 

「大丈夫よ。健一こそ、緊張してる?」

 

「当たり前だろ」

 

 会話はそれきり途切れた。

 

 サイトで約束したのは『リョウジとユキ』と名乗る夫婦。

 

 30代後半の夫と30代前半の妻。

 

 俺たちと年も近い。

 

 ここに至っても俺は内心で不安を抱え続けていた。

 

 現実が迫るにつれ罪悪感と得体の知れない恐怖が、腹の底にずしりと溜まっていく。

 

 ラウンジの奥まったソファ席にその夫婦はいた。

 

「はじめまして、リョウジです。こっちは妻のユキ」

 

 立ち上がった男は歳の割に引き締まった体で、人の良さそうな笑みを浮かべている。

 

 その隣で、「ユキです、よろしくね」と微笑んだ女は写真よりずっと華やかな美人だった。

 

 人懐っこい大きな瞳が、悪戯っぽく俺たちを見ている。

 

 ぎこちない挨拶を交わし席に着く。

 

 最初の数分、当たり障りのない世間話がテーブルの上を滑っていく。

 

「緊張しますよね、こういうのは。でも俺たちはこういう時間を経て、逆にお互いの大切さがわかったりすると思ってるんです」

 

 実に巧みだった。

 

 俺たちの罪悪感を見透かし、それを肯定する言葉をかけてくる。

 

 隣のユキさんも「そうなの! マンネリもこういうスパイスがあれば、最高の調味料になるっていうか!」と屈託なく笑う。

 

 その底抜けの明るさに、俺の警戒心は少しずつしかし確実に解かれていった。

 

 特にユキさんが俺に向ける親しげな視線には、正直かなり心拍数が上がっていた。

 

 美咲にはない積極的で妖艶な雰囲気に、下品な好奇心が鎌首をもたげる。

 

 ちらりと窺った美咲はリョウジの大人の余裕に気圧されているのか、あるいはユキの視線に気づいたのか、グラスを持つ指に力が入り顔が強張っていた。

 

 その表情に小さな罪悪感を覚える。

 

 だがユキへの興味は、それ以上に強かった。

 

 一時間ほど話しただろうか。

 

 リョウジが腕時計に目をやり、にこりと微笑んだ。

 

「実はこのままよろしければと、部屋を二つ予約してあるんです」

 

 来たか。

 

 俺はごくりと息を呑んだ。

 

「もちろん無理強いはしません。今日は顔合わせだけでも、と思ってましたから。どうしますか?」

 

 そう言いながら彼の目は「断らないですよね?」と雄弁に語っていた。

 

 断れない空気がそこには流れていた。

 

 俺は美咲に視線で問う。

 

 どうする、と。

 

 美咲は一度唇を固く結び、そして意を決したように小さく頷いた。

 

「……お願いします」

 

 俺がそう告げると、リョウジとユキは満足げに微笑み合った。

 

 フロントで二部屋ぶんのカードキーを受け取り、四人でエレベーターに乗り込む。

 

 目的の階に着きドアが開く。

 

 長い廊下を進み、隣り合った二つの部屋の前で俺たちは足を止めた。

 

 リョウジが当然のように隣に立つ美咲の腰へとゆっくりと回した。

 

「それじゃあ、健一さん。また後で」

 

 びくり、と美咲の肩が大きく震える。

 

 その硬直した表情がやけに鮮明に俺の目に焼き付いた。

 

 パンドラの箱の蓋に今、手がかけられたのだ。

 

 ◆◆◆

 

 リョウジの手が美咲の腰に回った瞬間。

 

 俺は確かに息を呑んだ。

 

 美咲の体が石のように硬直していく。

 

 助けを求めるように彼女の視線が俺を貫いた。

 

 だが俺は何も言えなかった。

 

 隣に立つユキが俺の腕にそっと自分の腕を絡め、「こっちのお部屋だね」と吐息混じりの甘い声で囁いたからだ。

 

 いや、本質はそこではない。

 

 ユキに興奮したからだ。

 

 妻ではない女を抱く事に、今、俺はとても興奮している。

 

 ユキの指先が俺のシャツの袖口を擽るように撫でる。

 

 重いドアが閉まり二人きりになると、部屋の空気は急にねっとりとした密度を増した。

 

 微かに香るユキの甘い香水。

 

 その奥の、“女”特有の芳醇な体臭に俺はいてもたってもいられない気持ちになった。

 

「夫婦でもたまには違う人にドキドキするのって、自然なことだと思うの」

 

 ソファに並んで腰を下ろすなり、ユキは俺の瞳を覗き込みながら言った。

 

 その言葉は俺が最後にしがみついていた倫理観という名の細い糸を、いとも容易く断ち切った。

 

 彼女が俺の手にそっと指を重ねてくる。

 

 俺はユキの手を無意識に強く握り返していた。

 

「健一さんも……刺激、欲しかったんでしょ?」

 

 耳元で囁かれた吐息は湿り気を帯びて、俺の理性を直接溶かしに来る。

 

 もう抗えない。

 

 そうだ、俺は刺激が欲しかった。

 

 唇が重ねられた。

 

 いや、俺から重ねた。

 

 最初は戸惑った。

 

 だが甘いワインの香りと共に大胆に絡みつく彼女の舌の感触は、美咲のそれとは全く違う熟練した相手を悦ばせるための動きだった。

 

 いつから忘れていた? 

 

 いやそもそも知らなかったのかもしれない──誰かを貪るようなこんなキスを。

 

 応えるように深く求めると、ユキは嬉しそうに喉の奥で小さく鳴いた。

 

 その声が俺の中の獣を煽る。

 

 ソファの上で気づけば俺は、彼女に押し倒されるような形になっていた。

 

 ユキは俺のシャツのボタンを一つずつ焦らすようにゆっくりと外しながら、その下の素肌に唇を這わせてきた。

 

 ゾクゾクとした悪魔的な快感が背筋を駆け上がる。

 

 思わず漏れた俺の声を聞き、ユキは「いい声……」と満足げに微笑んだ。

 

「さ、今度はあなたの番」

 

 促されるまま俺は彼女のワンピースのファスナーに手をかける。

 

 指先に触れるなめらかで柔らかな肌。

 

 心臓が跳ね上がる。

 

 ファスナーが下りていく音は、後戻りできない合図の音にも聞こえる。

 

 露わになった彼女の背中のしなやかなラインから、俺はもう目を逸らせなかった。

 

 §

 

 生まれたままの姿で、ベッドで抱き合う俺とユキ。

 

「健一さんの……ここ、好き……」

 

 ユキは俺の胸に顔を埋め、蕩けるような甘い声を漏らす。

 

 俺はその髪の匂いを吸い込みながら彼女の体のすべてを確かめるように、指を唇を這わせた。

 

 そのたびに返ってくる熱い吐息と、少しも恥じらいを含まない甘い喘ぎ声が俺の理性をさらに麻痺させていく。

 

「リョウジと違って……健一さんは優しいのね」

 

 そういいながら、ユキは俺の手を取った。

 

 何をするのだろと思っていたら──

 

「触って」

 

 導かれた先は、ユキの秘所だ。

 

 ぬめりとした感触、生暖かい肉。

 

 そこまで女性経験が豊富でない俺でも、ユキが既に“準備ができている”事はよくわかる。

 

 ゆっくりと中指を挿し込んでいくと、ユキは熱い吐息を漏らしながら、ゆっくりと腰を浮かした。

 

「あっ……!」

 

 さらに、自分の手を添えて、俺の指を強く押し込む。

 

 中指がユキの中へと吸い込まれていく。

 

「ユキさん……」

 

「あっ、んぅ……健一さん……もっと……」

 

 甘えるような声に誘われて、円を描くように中で動かしてやると、ユキは快感を逃がすように背筋を反らせて──

 

「ひぁあっ! んううっ……!!」

 

 シーツを握りしめて快感に耐える。

 

 その姿がいやに艶っぽくて──俺の下半身にさらに熱が集まるのを感じた。

 

 §

 

「軽くイッちゃった……今度は私がしてあげる」

 

 そう言ってユキは俺の下半身に顔を埋め──

 

「ぐぅ……っ!」

 

 温かな感触に声が出てしまう。

 

 ユキは巧みな舌使いで俺のモノを舐め回し、吸い上げる。

 

 そのたびに腰が跳ね上がりそうになるのを必死に堪えた。

 

「健一さん……気持ちいい?」

 

「ああ、凄く……」

 

 俺の言葉にユキは満足そうに微笑み、その笑みの妖艶さに俺は脳がびりりと痺れたような感覚を覚えた。

 

 まるで熱に浮かされているかの様だ。

 

 俺の目にはユキの肢体しか映っていない。

 

 この白い肌を貪りたい──そんな想いでいると。

 

 ユキが俺の上にまたがり、濡れた瞳で俺を見下ろしてきた。

 

 そして俺の手を取り、自身の豊かな胸へと導く。

 

 美咲より一回り大きく弾むような弾力。

 

 その柔らかさと熱を手のひらに感じた瞬間、俺の中の何かが完全に壊れる音がした。

 

「健一さんの、欲しい……挿れて、いいよね?」

 

 その囁きが合図だった。

 

 俺は体を反転させ、彼女の上に覆いかぶさる。

 

 俺だ。

 

 そう、俺が挿れるのだ。

 

 俺がこの女を犯してやる。

 

 見上げ返してくる潤んだ瞳。

 

 わずかに開かれた唇から漏れる熱く湿った吐息。

 

 俺は彼女の熱に導かれるように、ゆっくりと自分の体を沈めていった。

 

 息を呑むような圧迫感と、そのすべてを受け入れられるという未知の感覚。

 

 それはあまりにも久しぶりで、そして全く知らない種類の結合だった。

 

 彼女の中は信じられないほど熱く、俺のものを締め付けてくる。

 

 忘れていた。

 

 いや知らなかったのかもしれない。

 

 こんなにもただ純粋な快楽だけを求め、体を重ね合わせるということを。

 

 彼女の喘ぎ声が甲高く俺の名を呼ぶたびに、罪悪感は快感の熱に溶け代わりに目の前の女を完全に自分のものにしたいという、原始的な独占欲が頭をもたげた。

 

「もっと……もっと、強く……! 美咲さんより、気持ちいいって言わせて……!」

 

 その挑発的な言葉に、俺の最後の理性は焼き切れた。

 

 腰の動きを獣のように速める。

 

 思考は真っ白に塗りつぶされた。

 

 シーツを強く握りしめる彼女の指先と絡み合う肌の熱、そして部屋に響き渡る二人分の喘ぎ声だけが世界のすべてになった。

 

 体の奥から突き上げてくる衝撃と共に、俺はユキの体の中ですべてを解き放った。

 

 一瞬の浮遊感の後、彼女の上に倒れ込み荒い呼吸を繰り返す。

 

 腕の中でユキが満足げな溜息をついた。

 

「……最高だった。健一さん、すごいね。きっと奥さん、満足してるんでしょ?」

 

 その言葉は勝者への賛辞のように俺の耳に響く。

 

 俺は「あぁ……」としか返せなかった。

 

 だがもう美咲とのセックスではもう満足できないかもしれない。

 

 腕の中のユキの滑らかな肌の温もりを感じながら、そんな恐ろしい考えが何の抵抗もなく心に浮かび上がった。

 

 一度きりの過ちでは済まされない。

 

 俺は境界線を完全に、そして喜んで越えてしまったのだ。

 

 ◆◆◆

 

 重いドアが閉まり夫の健一がユキという女と隣の部屋に消えた。

 

 その瞬間、私の世界からすうっと音が消えた。

 

 心臓が氷の塊になったみたいに冷えきって、足元から崩れ落ちそうだ。

 

 腰に回されたリョウジさんの手は、ラウンジで感じた紳士的なものとはまるで違う、獲物を捕らえたかのような荒々しさがあった。

 

「さ、美咲さん。こちらへどうぞ」

 

 部屋に促され私はまるで死刑台へ向かう罪人のように、重い足を進めた。

 

 高級ホテルのスイートルーム。

 

 それが冷たく広すぎる独房に見える。

 

「何をそんなに怖がっているんですか」

 

 リョウジさんは微笑むが、その目は笑っていなかった。

 

 ラウンジでの物腰の柔らかさは影を潜め、私を値踏みするような全てを見透かしたような視線を向けてくる。

 

 私は恐怖で体が縫い付けられたように動けず、ただ入り口に立ち尽くしていた。

 

「旦那さん、とても楽しそうでしたね。ユキはああいう少し初心な感じの人が好きでね。今頃、もう始まってるんじゃないかな」

 

 その言葉は鋭いナイフのように私の胸を突き刺した。

 

 健一が、あの華やかな女の人と……? 

 

 想像しただけで心臓が嫉妬の炎で焼け付く。

 

 どうしてあんな提案をしてしまったんだろう。

 

 マンネリ打破なんてくだらない理由で、私は自ら夫を他の女に差し出してしまったのだ。

 

「後悔してますか? でも、もう遅い。これを望んだのは美咲さん、君たち夫婦なんですから」

 

 リョウジさんがソファから立ち上がり、ゆっくりと私の方へ近づいてくる。

 

 一歩また一歩と、逃げ場が奪われていく。

 

「や……やめてください……」

 

 か細く絞り出した声は情けないほどに震えていた。

 

 リョウジさんは構わず私の肩に手を置く。

 

 びくりと震える私を見下ろし、彼は歪んだ論理を耳元で囁いた。

 

「大丈夫。これは君たち夫婦のためになることなんだ。旦那さんも新しい刺激を得て、また君を求めたくなる。最高のスパイスになるんですよ」

 

 違う。

 

 こんなものはただの汚らわしい裏切りだ。

 

 健一の体に私以外の女が触れるなんて。

 

 そして私の体に、健一以外の男が──。

 

 抵抗する間もなく唇が力ずくで塞がれた。

 

 それはキスと呼べるものではない。

 

 健一の優しさとは全く違う、所有物を確認するかのような無機質で乱暴な感触。

 

 屈辱に耐えきれず涙が一筋、頬を伝った。

 

 なす術もなくベッドへと連れていかれ、ワンピースのファスナーが無遠慮に下ろされていく。

 

 肌が冷たい外気に晒されるたび、羞恥と恐怖で身がすくむ。

 

 もう抵抗する気力もなく、ただ目を固く閉じ人形のようにされるがままになっていた。

 

 行為の最中、私の意識はずっとここになかった。

 

 ただひたすらに夫の健一のことだけを考えていた。

 

 休日の朝に見るあどけない寝顔。

 

 私の手料理を「美味い」と言ってくれるあの笑顔。

 

 私を抱きしめてくれるあの温かい腕。

 

(健一……ごめんなさい……ごめんなさい……!)

 

 この体に触れていいのはあなただけなのに。

 

 健一じゃない男の熱が重みが、私を汚していく。

 

 快感などあるはずもない。

 

 そこにあるのは引き裂かれるような心の痛みと、おぞましいほどの不快感そして自分自身への激しい嫌悪だけ。

 

 一秒が一時間にも感じられる地獄の時間が過ぎていった。

 

 どれくらい経っただろう。

 

 リョウジさんが私の上から離れ、シャワーの音を立て始めた。

 

 私はベッドの隅で体を丸め、乱れたシーツをきつく握りしめる。

 

 体中に残された見知らぬ男の痕跡が耐え難いほどおぞましい。

 

 吐き気がこみ上げる。

 

 涙がもう止まらなかった。

 

 後悔、罪悪感、屈辱。

 

 それら全てを呑み込むほど健一への想いが溢れ出してくる。

 

(健一を取り返さなきゃ)

 

 隣の部屋で健一はユキという女に満足してしまったのだろうか。

 

 私とのセックスでは見せないような顔で、あの女を求めてしまったのだろうか。

 

 その最悪の想像が絶望の淵にいた私を、無理やり引きずり起こした。

 

 後悔している暇はない。

 

 泣いている場合じゃない。

 

 嫉妬と強烈な危機感が、私の心を黒く塗り替えていく。

 

(あの人の隣にいられるのは私だけ。あの人に触れていいのも、私だけなの)

 

 もう二度と健一を誰にも渡さない。

 

 この取り返しのつかない過ちを償う方法は、きっと一つしかない。

 

 ◆◆◆

 

 ホテルの長い廊下で私と健一は再び顔を合わせた。

 

 隣の部屋から出てきた彼の表情は気まずそうで、それでいて火照ったような高揚感の名残が隠しきれていない。

 

 彼の隣でユキさんは獲物を仕留めた猫のように満足げに微笑んでいる。

 

 私の隣に立つリョウジさんは、まるで仕事を終えたかのように落ち着き払っている。

 

「じゃあ、また機会があれば」

 

 二人は悪びれる様子もなくそう言い残し、エレベーターの中へと消えていった。

 

 残されたのは私と健一、そして二人分の罪悪感。

 

 ……いや、罪悪感を感じていたのは私だけだったのかもしれない。

 

 帰り道の車内は来た時とは比べ物にならないほど重く、冷たい空気が充満していた。

 

 健一は黙ってハンドルを握り、私は助手席で流れていく街の灯をぼんやりと見つめている。

 

 あの無数の光の下には、普通の幸せな夫婦がいるのだろうか。

 

 そう思うと胸が張り裂けそうだった。

 

 沈黙を破ったのは私の方だった。

 

「……ごめんなさい」

 

 か細くしかし妙に芯のある声が出た。

 

 健一が驚いたようにこちらを見る。

 

「私が、馬鹿だった。あんなこと提案するんじゃなかった……。もう二度としないから。本当に、ごめんなさい」

 

 一度口にすると堰を切ったように嗚咽が漏れた。

 

 体中に刻まれた屈辱と、健一を裏切ってしまった罪悪感でもう正気ではいられなかった。

 

「いや、美咲……俺も、同意したんだから……」

 

 健一は戸惑いながら慰めるように言った。

 

 その優しさにほんの少し救われるような気持ちになった、次の瞬間。

 

 彼は致命的な一言を続けた。

 

「でも……ユキさん、すごい人だったな。なんていうか、正直かなり楽しかったっていうか……」

 

 悪気のない、興奮の余韻を隠しきれないその言葉。

 

 その一言を聞いた瞬間、私の涙はピタリと止まった。

 

 ゆっくりと顔を上げ健一を見る。

 

 彼は少し照れたように笑い、すぐに運転に戻ってしまった。

 

 私の世界が音を立てて凍りついていく。

 

 楽しかった? 

 

 私が、あの男に汚され地獄の時間を過ごしている間、この人は他の女と心から楽しんでいたというのか。

 

 家に帰り着いても二人の間の氷は溶けなかった。

 

 健一は「先にシャワー浴びるな」と言って、どこか上の空でバスルームへ向かう。

 

 彼の頭の中にはまだユキという女の残像がちらついているのが、手に取るように分かった。

 

 リビングのソファに一人座り、私は暗闇の中で震えていた。

 

 後悔、屈辱、絶望。

 

 そしてそれら全てを焼き尽くすほどの、激しい嫉妬の炎。

 

(あの女に、健一を奪われてたまるものか)

 

 このままでは健一の心は本当に離れていってしまう。

 

 あの女の体の記憶が、私との記憶を上書きしてしまう。

 

 それだけは絶対に許せない。

 

 私は涙を乱暴に拭うと、決意を固めて立ち上がった。

 

 寝室のクローゼットを開け、その一番奥にしまい込んでいた箱を取り出す。

 

 数年前、好奇心で買ったものの、一度も袖を通したことのない黒いレースのランジェリー。

 

 バスルームで体中に残る屈辱の痕跡を、肌が赤くなるほど洗い流す。

 

 そして鏡の前に立ち、その大胆な下着を身につけた。

 

 寝室のドアをゆっくりと開ける。

 

 ベッドの上で健一がぼんやりとスマホを眺めていた。

 

 あの女と連絡を取っているのだろうか。

 

 普段なら気にならないはずなのに、怒りすら覚えてしまう。

 

 ドアの音に気づき彼が顔を上げる。

 

 そして私の姿を見て、息を呑んだ。

 

 私は心の奥底から湧き上がる恐怖と恥じらいを必死で押し殺し、作りうる限りの妖艶な笑みを浮かべた。

 

「健一……」

 

 一歩また一歩と、ベッドに近づく。

 

「まだ、寝ないよね?」

 

 それは夫を取り戻すための、私の長い長い戦いの始まりを告げる宣戦布告だった。

 

 ◆◆◆

 

 ユキとの鮮烈な記憶がまだ脳にこびりついていた。

 

 ベッドに横たわりながら俺はその甘美な残像を反芻する。

 

 罪悪感がないわけじゃない。

 

 車の中で泣きじゃくっていた美咲の姿を思い出すと胸がちくりと痛んだ。

 

 だがそれ以上に未知の快楽に溺れた高揚感が、俺の思考を心地よく麻痺させていた。

 

 あの尻。

 

 そしてあのぬるりとした──穴。

 

 またユキを抱きたい。

 

 そんなことを思いながら、SNSを見ていたその時だった。

 

 寝室のドアがゆっくりと開いた。

 

「健一……」

 

 振り返った俺は言葉を失った。

 

 そこに立っていたのは俺の知っている妻ではなかった。

 

 黒いレースがその肌に張り付く、見たこともないほど大胆なランジェリー姿。

 

 細いストラップが白い肩に食い込み、布地の少ないそれは隠すよりもむしろ体の曲線を悪魔的に強調していた。

 

 惜しげもなく晒された白い肌と、その装いのあまりの非日常感に俺の頭はフリーズする。

 

「……み、美咲? どうしたんだ、その格好」

 

 やっと絞り出した声は自分でも情けないほど上ずっていた。

 

 美咲は何も答えずただ、まっすぐに俺を見つめている。

 

 その瞳には今まで一度も見たことのない強い光が宿っていた。

 

 ギラギラとした欲の光だ。

 

 まるで獣の様だった。

 

 彼女はぎこちないモデルのような歩き方を真似て、ベッドに近づいてくる。

 

 その痛々しいほどの必死さが、かえって生々しく俺の目に映った。

 

 美咲は俺の隣にそっと腰を下ろすと、震える手を伸ばし俺の頬に触れる。

 

 ひんやりとした指先が熱を持った俺の肌をなぞった。

 

「……私じゃ、ダメ?」

 

 囁くような消え入りそうな声。

 

 その言葉と姿に俺の脳裏でユキの妖艶な笑顔がフラッシュバックする。

 

 手慣れたプロの誘惑と妻の捨て身の誘惑。

 

 二つの映像が混ざり合い俺の頭をひどく混乱させた。

 

 俺が答える前に美咲は自ら唇を寄せてきた。

 

 それはいつもの義務的なものではない。

 

 何かを確かめるような必死で、切羽詰まったキスだった。

 

 その痛切なほどの求めに一度タガが外れてしまった俺の体は、いとも簡単に反応する。

 

 気づけば俺は美咲の細い体を強く抱き寄せ、レースの布越しにその背中の感触を確かめていた。

 

 美咲は驚いたように一瞬体を強張らせたが、すぐに俺の首に腕を回してくる。

 

 彼女が俺の体を求めてくる。

 

 その仕草はどこかの雑誌ででも覚えたのだろうか、ぎこちなくしかし驚くほど献身的だった。

 

 まるで「あの女にできたことが私にできないはずがない」とでも言うように。

 

 §

 

 最初は戸惑いばかりだった俺の感情は、彼女のその必死な姿を見ているうちに徐々に変化していった。

 

 ユキとの行為は未知への冒険であり、ただ刺激的な快楽だった。

 

 だが目の前のこれは違う。

 

 これは俺の妻が俺のためだけに、必死になっている姿だ。

 

 他の男に触れられたかもしれない妻を、俺の色で俺の記憶でもう一度上書きしていく──。

 

 その倒錯した考えが浮かんだ瞬間、罪悪感を凶暴な独占欲がねじ伏せていく。

 

 そうだ。

 

 美咲は俺の妻だ。

 

 俺だけのものだ。

 

 今まで意識したことすらなかった原始的な所有欲が、体の奥からマグマのように湧き上がってくる。

 

 俺はいつしか受け身でいることをやめ、自ら美咲の体を激しく求めていた。

 

 その黒いレースを破り捨ててしまいたい衝動に駆られながら、その代わりに俺は彼女の肌の至る所にあの男の記憶を消し去るかのように、強く吸い付いた。

 

「んっ……、けんいち……」

 

 美咲が小さく喘ぐ。

 

 その声が俺の独占欲をさらに掻き立てた。

 

 美咲の乳房を力を込めて揉みしだく。

 

 これも俺のものだ。

 

 あんなリョウジとかいう男のものでは断じてない。

 

 ◆◆◆

 

 健一の愛撫がいつもより激しくて、そして熱い。

 

 それがリョウジさんに抱かれた私の体に嫉妬と所有欲を向けているのだと悟ると、罪悪感とともに奇妙な満足感が胸の奥に広がった。

 

(私の体に触れていいのは、健一だけ)

 

 そんな独占欲が私の心を少しずつ満たしていく。

 

 もっと触れてほしい。

 

 もっと奪ってほしい。

 

 他の女に夢中になっていた健一が、再び私を求めている。

 

 その事実が何よりも嬉しかった。

 

「痛いか、美咲」

 

 健一がぎゅうと私の胸を掴みながら言う。

 

 痛い、とても。

 

 でも、それが健一の私への愛情の証だと思えば、それすら快感に変わる。

 

 私は首を横に振った。

 

「大丈夫……もっと……」

 

 もっと激しくして。

 

 その言葉を飲み込んだ。

 

 健一が私に覆い被さってくる。

 

 その重みが愛おしい。

 

 健一の顔が近づいてきて、私たちは再び唇を重ねた。

 

 今度はお互いの舌を貪り合うような激しいキスだった。

 

 健一の唇が首筋へと移動し、強く吸い付いてくる。

 

 その甘い痛みが背筋を震わせた。

 

「健一……好き……」

 

 自然と口から出た言葉。

 

 健一はその言葉に応えるように、私をさらに強く抱きしめた。

 

 ◆◆◆

 

「健一……好き……」

 

 美咲の口から漏れたその言葉は、俺の心を強く揺さぶった。

 

 妻の告白に俺は理性を失った。

 

 ペニスを美咲の膣にあて、一思いに貫く。

 

「あっ……!」

 

 美咲が小さく悲鳴を上げた。

 

 その声に、俺はさらに興奮した。

 

 美咲の中は温かくて、締め付けてきて。

 

 痛むのだろう、美咲は俺の背に腕を回し、背に爪を立てている。

 

 体は震え、漏れる声も苦悶に満ちていた。

 

 だが俺はやめなかった。

 

 むしろさらに強く腰を打ち付けた。

 

「い゙ッ……たぁ……は、あぁっ!!」

 

 美咲が苦しそうに声をあげる。

 

 だが、その声さえも俺にとっては興奮材料だった。

 

 俺のものだ。

 

 俺のものなんだ。

 

 そう思った途端、俺のペニスがさらに硬くなった。

 

「健一……激し……ぃ……んん……っ!」

 

 美咲の声が苦悶から艶めいたものに変わっていく。

 

 その変化に、俺はさらに激しく腰を動かした。

 

 美咲の体を抱きしめ、深く深く突き上げる。

 

「健一……もう……だめ……!」

 

 美咲が限界を告げるように叫んだ。

 

 俺ももう限界だった。

 

 最後に腰を深く押し込むと、俺は精液を美咲の中に放った。

 

「ああっ!」

 

 美咲の体が大きく震え、俺を強く抱きしめた。

 

 その瞬間、俺の脳裏に何かがひらめいた。

 

 パンドラの箱を開けたのは美咲だ。

 

 だが、その中身を引きずり出したのは、この俺自身だ。

 

 §

 

 昂りが収まった後、美咲は俺の胸の中で声を殺して泣いていた。

 

 しかしそれは悲しみや絶望の涙ではなかった。

 

 美咲は泣きながら俺に縋り付き、抱きしめてくる。

 

 俺もまた美咲を抱きしめ返した。

 

 正直、ユキとの記憶はまだ消えてはいない。

 

 しかしそれ以上に腕の中にいる妻の存在が、圧倒的にリアルでどうしようもなく愛おしかった。

 

 多分、俺たちは大丈夫だろう。

 

 マンネリは消えてなくなり、また最初の頃のように熱く求めあえるはずだ。

 

 だが。

 

 だがしかし。

 

 俺は、自分の中で何かが決定的に変わってしまった事に気付いていた。

 

 ◆◆◆

 

 あの夜から数週間が過ぎた。

 

 美咲の献身的な「努力」は一日たりとも欠かされることはなかった。

 

 毎晩のように違うデザインのランジェリーを身にまとい、恥じらいを捨てて俺を求めてくる。

 

 おかげで俺たちの夜の生活は、スワッピング以前とは比べ物にならないほど情熱的なものに変わった。

 

 壊れかけた夫婦関係は完全に修復された。

 

 最初は本気でそう思っていた。

 

 しかし俺の中で何かが静かに、だが確実に変質し始めていた。

 

 美咲が俺のどんな我儘もどんな気まぐれも、まるでそれが当然であるかのように受け入れる。

 

 その絶対的な服従の姿勢が俺の心の奥底に眠っていた、自分でも知らなかった黒い欲望をゆっくりと揺り起こしていたのだ。

 

 その夜も美咲はシルクの艶かしいスリップ姿で、ベッドの俺に寄り添ってきた。

 

 だがその肌に触れようとした瞬間、俺の口から衝動的に意地の悪い言葉が飛び出した。

 

「……なぁ、美咲。ただそんな格好するだけじゃ、もうつまらないな」

 

 美咲の体がびくりと震えた。

 

 その瞳が傷ついたように揺らぎ、しかしすぐに怯えたような色に変わる。

 

「……じゃあ、どうすればいいの……? あなたが喜んでくれるなら、私何でもするから」

 

 その言葉。

 

 その従順な眼差し。

 

 それが俺の中の最後のタガを外した。

 

 俺はこれまで考えたことすらなかった残酷な光景を思い浮かべ、そしてそれをそのまま口にした。

 

「じゃあ……そこで四つん這いになって、こっちに来いよ。犬みたいにさ」

 

 時が止まった。

 

 美咲は信じられないものを見るような目で俺を見つめ、その顔から急速に血の気が引いていく。

 

 当然だ。

 

 そんなものは愛ではない。

 

 ただの性欲だろう──しかも歪んだ。

 

 断ってくれ。

 

 罵ってくれ。

 

 そうすれば俺もこの醜い衝動から醒めることができる。

 

 心の中でそう願った。

 

 だが美咲は数秒間の逡巡の後、ゆっくりとベッドから降りた。

 

 そして涙を流しながら震える手足を冷たいフローリングにつき、俺の命令に従ってしまったのだ。

 

 その瞬間俺の脳は、経験したことのない熱で焼かれるような興奮に包まれた。

 

 ユキとの刺激的なセックスとは全く違う。

 

 愛する妻を自分の意のままに支配するという、絶対的で抗いがたい快感。

 

 その夜のセックスはもはや愛を確かめ合う行為ではなかった。

 

 それは支配者と服従者の儀式だった。

 

 

「声が小さい。もっと鳴けよ」

 

「俺だけを見てろ。他のことは何も考えるな」

 

 

 俺は行為の最中も次々と言葉で彼女を支配した。

 

 美咲は涙を流し屈辱に身を震わせながら、その全てに必死で応えようとする。

 

 彼女が屈辱を感じれば感じるほど、俺の興奮は際限なく高まっていく。

 

 自分の中にこんな怪物がいたのか。

 

 その事実に戸惑いながらも、俺はこの甘美な支配の快感から逃れることができなかった。

 

 儀式が終わった後、美咲はベッドの隅で静かに泣いていた。

 

 だが以前のように俺を責めることはない。

 

 俺がその体に手を伸ばすと、彼女は怯えた小動物のようにすり寄り──こう囁いた。

 

「……健一が、それで満足してくれたなら、私……嬉しい」

 

 その言葉が俺の中に芽生えかけた罪悪感を完全に麻痺させた。

 

 そうだ、これも美咲が望んだことなのだ。

 

 俺を繋ぎ止めるために彼女が選んだ道なのだ。

 

 歪んだ自己正当化が俺の心を支配した。

 

 §

 

 あの夜を境に俺たちの寝室は変貌した。

 

 俺の要求は日に日にエスカレートし、やがて人には到底言えないような屈辱的な内容へと変わっていった。

 

 俺は美咲に“色々な道具”を使った。

 

 例えば定番の電マだ。

 

 あの時の美咲は本当に見物だった。

 

「やだぁっ……こんなの……やめてぇっ……お願い……!」

 

 そう叫びながら腰を引こうとした美咲を、俺は力ずくで抑え込んで責め続けた。

 

 美咲の最も敏感な部分に当て、彼女がどれほど嫌がろうと、叫ぼうと、やがては小便を漏らしてすすり泣こうとやめることはなかった。

 

 はっきりいってそんなものは性行為ではない。

 

 虐待だ。

 

 性加害だ。

 

 しかし美咲は結果的に、俺のすること全て黙って受け入れ続けた。

 

 俺たちの寝室はもはや愛を育む場所ではない。

 

 歪んだ支配と服従が繰り返される、爛れた儀式のための劇場になってしまった。

 

 そして俺はその劇場の主役を降りる方法をもう知らなかった

 

 ◆◆◆

 

 健一の要求は私の日常を侵食し、私の思考を支配した。

 

 屈辱の涙と引き換えに私は夫の熱狂的な執着を繋ぎ止めている。

 

 儀式が終わった後、私を満足げに見下ろす彼の瞳。

 

 それこそが私が「女」として彼に必要とされている証であり、この家で存在を許されるための唯一の報酬だった。

 

 その夜も儀式はいつも以上に熱を帯びていた。

 

 彼の興奮が最高潮に近づいたその時、耳元で熱い吐息と共に未知の言葉が囁かれた。

 

「美咲……後ろから、してもいいか?」

 

 一瞬にして全身の血が凍りつく。

 

 後ろって、つまり。

 

「尻だよ」

 

 私は信じられない思いで健一を見つめた。

 

「いやっ……! それだけは、絶対にいや!」

 

 自分でも驚くほど激しい拒絶の言葉が口から飛び出した。

 

 私は彼の腕から必死でもがき、涙ながらに懇願する。

 

「お願いだから……健一、それだけは、やめて……お願い……!」

 

 だってそんなものは愛じゃない。

 

 愛なんてどこにもない──ただの獣の衝動だ。

 

 私の必死の抵抗に健一は少し驚いたように動きを止めた。

 

 そしてふっと彼の纏う空気が変わった。

 

 私が予想していた怒りや失望ではなかった。

 

 彼は少し困ったように、そしてどこか諦めたように優しく微笑んだのだ。

 

「そっか。ごめんごめん、嫌だよな、そんなの。俺もどうかしてた。忘れてくれ」

 

 ひどく穏やかな口調。

 

 しかしその瞬間に彼の瞳から「女」を見る熱が、すっと消え失せるのを私は敏感に感じ取ってしまった。

 

 あれほど私を求めていた支配者のギラギラした光が消え、そこにあるのはただ穏やかで何の性的興奮も含まない、「妻」を見る目だった。

 

 その夜のセックスはそれで終わりになった。

 

 健一は私の髪を優しく撫で、「おやすみ」と言って静かに私に背を向けた。

 

 §

 

 翌日から静かで、穏やかな地獄が始まった。

 

 といっても、健一は決して冷たくはなかった。

 

 むしろ以前よりもずっと優しくなったかもしれない。

 

「おはよう、美咲」

 

「今日の味噌汁、美味いな」

 

「仕事、無理するなよ」

 

 そんな言葉が、毎日私にかけられた。

 

 だがその全ての言葉と態度から、性的な緊張感が完全に欠落していた。

 

 彼はもう私を「一人の女」として見ていない。

 

 ただの空気のような「家族」として、そこにいるのが当たり前の「妻」として見ているだけだ。

 

 夜ベッドで私が新しいランジェリーを着ていても、彼は「似合うじゃないか」と微笑むだけ。

 

 その瞳には以前のような欲望の色は一切浮かんでこない。

 

 私が誘っても「ごめん、今日は疲れてるんだ」と優しく、しかし有無を言わさぬ口調で断られる。

 

 たまに応じることがあってもそこには熱狂も支配欲もない。

 

 ただかつてのマンネリ時代よりもさらに温度の低い、優しいだけの行為が繰り返されるだけだった。

 

 この「優しさ」こそが私にとっての何よりの拷問だった。

 

 屈辱的な儀式の中で求められていた方が、遥かに「女」として見られていた。

 

 今の私は健一にとって興奮する対象ですらないのだ。

 

 その事実が鋭いナイフのように毎日私の心を切り刻んだ。

 

 数日が過ぎ私はもう限界だった。

 

 その夜健一がベッドで本を読んでいるのを横目に、私は黙ってバスルームへ向かった。

 

 鏡の前で自分の情けない顔を見つめる。

 

 そして時間をかけて丁寧に準備をした。

 

 §

 

 ベッドに戻り震える声で健一に話しかける。

 

「ね、ねえ健一……」

 

 彼は本から目を離し、「ん? どうした?」といつものように優しく振り返った。

 

 私は俯き顔を上げることができない。

 

 シーツを固く握りしめ恥と屈辱で消えてしまいそうになりながら、言葉を絞り出した。

 

「あのね……私……さっき、その……お尻を、その、綺麗にしてきたから……」

 

 声が震えて涙がこぼれ落ちる。

 

「だから……もし、まだ……あなたがしたいって、思ってくれてるなら……」

 

 言葉はそこで途切れた。

 

 長い長い沈黙。

 

 時が止まったかのようだった。

 

 やがて健一が本を置く小さな音がした。

 

 顔を上げられずにいると、彼がゆっくりとこちらに手を伸ばしてくる気配がした。

 

 穏やかだった彼の瞳が再びあのギラギラとした「女」を見る目に変わっていくのを私は感じていた。

 

 そしてその変化に恐怖と共に、どうしようもない安堵を覚えていた。

 

 §

 

 ガラスのようだった彼の瞳に、再びギラギラとした獣の光が戻ってくる。

 

 その変化に安堵したのも束の間、私はこれから起こる未知の恐怖に全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

 

 健一は無言のまま私に近づくと、私は有無を言わさず体をうつ伏せにされ、シーツに顔を押し付けられる。

 

 自ら望んだことだ。

 

 そう言い聞かせても恐怖で体は石のように硬直しきっていた。

 

 彼がベッドサイドの引き出しから取り出したのは見慣れない小さなボトル。

 

 無機質なそれを手に私の後ろに回る気配だけで、羞恥と恐怖に気が遠くなりそうだ。

 

 冷たいジェルが肌に触れた瞬間、私は「ひっ」と短い悲鳴を上げた。

 

 全身の毛が逆立つような感覚。

 

「力を抜け、美咲」

 

 頭上から降ってくる地を這うような低い声。

 

 それに従おうとしても体は意思に反してこわばり、侵入を頑なに拒もうとする。

 

「待って、健一、まって……! こわい……!」

 

「お前が望んだことだろう?」

 

 冷たい声が私の懇願を容赦なく切り捨てる。

 

 そしてついに。

 

 経験したことのない鋭い痛みと圧迫感が、体を内側から貫いた。

 

「いっ……! ぃた、いたい、いたいっ、けんいちぃっ!」

 

 裂ける。

 

 壊れる。

 

 汚される。

 

 悲鳴はすぐに嗚咽に変わった。

 

 自ら望んだことのはずなのにあまりの痛みと、自分が人間ではないただの穴として扱われているという強烈な屈辱感に涙が止めどなく溢れ出す。

 

 体をよじって逃げようとするが、大きな手で腰を押さえつけられびくともしない。

 

「やめて、お願い、むり、むりだから……!」

 

 私の必死の抵抗に健一は一度動きを止めた。

 

 抜いてくれる。

 

 その一縷の望みは次の瞬間、絶望に変わった。

 

 パァン! 

 

 乾いた鋭い音と共に、私の右の尻に焼けるような熱い痛みが走った。

 

 驚きに息を呑む私に健一は追い打ちをかけるように、耳元で荒い息と共に囁きかけた。

 

 その声は悪魔の宣告のように、私の脳に直接響いた。

 

「美咲。お前は、俺の物だよな?」

 

 その言葉。

 

 尻を打たれた衝撃。

 

 二つが私の中で激しい化学反応を起こした。

 

 痛み。

 

 屈辱。

 

 そして「俺の物」という絶対的な所有の宣言。

 

 そうだ。

 

 私はこの人の物なのだ。

 

 この人に所有されるために私はここにいる。

 

 この痛みもこの屈辱も、全ては私が彼の所有物である証なのだ。

 

 この痛みを受け入れなければ私はまたあの「優しい地獄」に戻ってしまう。

 

 彼に「女」として見てもらえなくなる。

 

 そう理解した瞬間鋭い痛みの中に、じわりと痺れるような甘い熱が混じり始めた。

 

 屈辱が快感へと反転していく。

 

 健一が再びゆっくりと腰を動かし始める。

 

 まだ痛い。

 

 けれどそれはもうただの苦痛ではなかった。

 

 健一に支配されている証。

 

 彼の所有印を私の最も恥ずかしい場所に、深く深く刻みつけられているような倒錯した喜びに変わっていた。

 

 私の「女」の部分がこの絶対的な支配に対して、これまで感じたことのないほど激しく反応していた。

 

 体の奥がきゅんと締め付けられ、熱い痺れが背筋を駆け上っていく。

 

 私の口から漏れる声が変わった。

 

 痛みの悲鳴が、嗚咽混じりの甘い喘ぎ声になる。

 

「は、い……っ、わたしは……けんいちの、もの、です……」

 

 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、私はシーツに顔を埋めて答えていた。

 

 すると健一はもう一度、今度は左の尻を強く打った。

 

「声が小さい。もっとちゃんと鳴けよ、俺の物なんだろ?」

 

「あっ……あぅ……! ごめんな、さい……! わたしは、あなたの、おもちゃです……!」

 

 もはや自分でも何を言っているのか分からなかった。

 

 ただ彼に媚びたいもっと支配されたい、という衝動だけが私を突き動かす。

 

 痛みと屈辱が深まるほど、彼のものだという実感が強くなる。

 

「もっと……もっと、あなたのものだって、教えてください……!」

 

 自らより強い支配を、より深い屈辱を求める。

 

 その言葉に応えるように健一の動きはさらに激しさを増した。

 

 内側から突き上げられるたびに痛みと快感がせめぎ合い、私の思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。

 

 私は泣きながら喘ぎながら──もう二度と元には戻れない事を知った。

 

 §

 

 翌朝私は体の軋むような痛みで目を覚ました。

 

 特に体の後ろの中心にある一点が、熱を持ったように鈍く痛む。

 

 昨夜の出来事が夢ではなかったことを証明する、生々しい感覚。

 

 ベッドから起き上がろうとして思わず「あっ……」と小さな声を漏らしてしまった。

 

「大丈夫か、美咲?」

 

 隣で身支度をしていた健一が、心配そうな顔で振り返った。

 

 その声は昨夜の獣のような支配者のものではなく、私の知っている穏やかで優しい夫の声だった。

 

 私がうまく歩けないのを察すると彼は小さく溜息をつき、「無理するな。今日は一日、俺がやるから」と言って私の肩を支えてソファまで運んでくれた。

 

 その日一日健一は本当に優しかった。

 

 朝食を作りコーヒーを淹れ、私がリモコンを取ろうとすれば先回りしてくれる。

 

 その介抱を受けながら私の頭は混乱していた。

 

 昨夜私をモノのように扱い屈辱の言葉を囁いた男と、今目の前で私のために立ち働く男がどうしても同一人物だとは思えなかった。

 

 けれどふと気づいてしまった。

 

 この優しさは昨夜私が「彼の物」になることを受け入れたことへの、ご褒美なのではないだろうか。

 

 そう思った瞬間お尻の奥で疼く痛みさえも、彼に与えられた愛おしい勲章のように感じられた。

 

 夜の絶対的な支配者と昼の優しい保護者。

 

 二つの顔を持つ健一に私はもう抗うことなどできず、これまで以上に強く深く惚れ直していくのを感じた。

 

 その日一日私は健一のそばから一歩も離れなかった。

 

 彼がキッチンに立てば痛む体を気にしながらも後ろからそっと抱きつき、その背中に頬を寄せる。

 

 彼がリビングで本を読めばその足元にクッションを置いて座り込み、子犬のように寄り添った。

 

 健一はそんな私の奇妙な行動に少し驚いた様子だったが、特に嫌な顔はせず好きにさせてくれた。

 

 その穏やかな受容が私の心をさらに彼に縛り付けていく。

 

 夜だけでなく昼も、ずっと彼に触れていたい。

 

 彼の匂いを感じていたい。

 

 所有されていたい。

 

 そんな渇望が胸の奥から絶えず湧き上がってきた。

 

 夜になり二人でソファに並んで映画を観ていた。

 

 しばらくして健一の手が、ごく自然に私の腰に回された。

 

 元々私はこういうスキンシップがあまり好きではなかった。

 

 だから以前の私なら少し緊張して体が硬くなったかもしれない。

 

 でも今の私は違った。

 

 その手を待っていたかのように私は自ら体を健一の方に預け、柔らかな胸を彼の腕にぐっと押し付ける。

 

 あからさまな誘惑の仕草。

 

 私の反応に健一は少し驚いたように動きを止め、そして確かめるように腰に回した手をゆっくりと上へと滑らせた。

 

 服の上から私の胸の膨らみに、彼の手のひらが触れる。

 

「んっ……」

 

 思わず甘い声が漏れた。

 

 嫌悪感など微塵もない。

 

 むしろ全身が喜びに打ち震える。

 

 もっと。

 

 もっと触ってほしい。

 

 もっと求められたい。

 

 私の体が雄弁にそう訴えていた。

 

 私の素直すぎる反応に健一はまた少し動きを止め、戸惑ったように私の顔を覗き込んだ。

 

 そして静かに尋ねる。

 

「なあ、美咲。こういうの……お前、前はあんまり好きじゃなかったよな?」

 

 ええ、と私は心の中で答える。

 

 でも私はもうあの頃の私ではないのだ。

 

 私は困惑する健一の顔を見上げ、そしてほんの少しだけ挑発的に微笑んでみせた。

 

「今は、好きよ」

 

 彼の瞳をじっと見つめて囁く。

 

「あなたがしてくれることなら、全部」

 

 その言葉に満足したように健一が私を抱き寄せようとするが──

 

 私は彼の胸にそっと手を置きその動きを制した。

 

 一つだけ、してもらわなければいけない事がある。

 

「ねえ、健一。あのユキさんって人……まだ、連絡とってるの?」

 

 健一の動きがぴたりと止まった。

 

 その表情に動揺がありありと浮かぶ。

 

 彼は一瞬言葉に詰まったが私の真っ直ぐな視線から逃れることはできず、やがて気まずそうに小さく頷いた。

 

 まあ予想はしていた事だ。

 

「そう。でも、もう連絡をとる必要は、ないわよね?」

 

 私と健一の視線が交わる。

 

 そして──彼ははっきりと、頷いた。

 

 その瞬間私の口元に笑みを浮かべた。

 

 勝ったのだ。

 

 あの女に。

 

「じゃあ、あなたのスマートフォンを貸して」

 

 有無を言わさぬ口調で私は手を差し出す。

 

 健一はまるで操られる人形のように、ポケットからスマートフォンを取り出し私の手に乗せた。

 

 私は手際よく連絡先のリストを開き、『ユキ』の名前を見つけ出す。

 

 そしてその画面を健一の目の前に突きつけた。

 

「消して」

 

 私が消すのではない。

 

 健一が自分から消さなければならない。

 

 健一はわずかに震える指で、画面に表示された削除ボタンを押した。

 

 彼が「はい」をタップするのを、私は満足げに見届ける。

 

 これで終わり。

 

 私はスマートフォンを彼に返すと、今度こそ自ら彼の腕の中に体を滑り込ませた。

 

 そして彼の耳元でもう一度、今度は蕩けるように甘い声で囁いた。

 

「ありがとう、健一。これでもう、私は本当にあなたのものね」

 

 健一の胸がわずかに震えた。

 

 そう、私はあなたのもの──だから私はあなたに逆らえない。

 

 でも、と私は思う。

 

 根拠のない確信があった。

 

 ──でも、あなたも私のもの。私には、逆らえない

 

 と。

 

 


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