サラは脚を開き、座台に腰掛ける皇帝の前に、黙して床に腰をおろしている。
語りが始まってから三夜──。
だが、淫紋を刻まれてからは十日が過ぎていた。
一度の愛撫もなく、自慰すら禁じられたまま、疼きに耐え続けた肉体。
その股間からは、いまや絶え間なく、淫らな雫が床に滲みつづけていた。
「十日もそのままとは、辛かろうな……語り奴婢よ」
皇帝は盃を傾けながら、視線を落とす。
その先には、濡れ光るサラの股間──淫紋の疼きに染まり、愛液を垂れ流す女の象徴。
サラは羞恥の視線に耐え、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「……はい、辛うございます」
「淫紋を刻まれながら、誰にも触れられぬ。女には酷なことと聞く。自慰は禁止しておいたが……下女たちが身体を拭こうとすれば、烈しく悶えよがるという話だ」
「……申し訳、ございません……」
かすかな声でサラは詫びる。だが、股を閉じることは許されていない。
「では──やめるか? 語りを。私が今宵、満足させてやろう」
盃を置き、皇帝は淡々と続ける。
「一夜限りでも、私の精を受けた女となれば、粗略にはできまい。檻の代わりに部屋を与え、食事も相応のものを取らせよう。──だが、代わりに妹は辱めを受ける。よいか?」
サラの指がかすかに震えた。
だが、顔を上げることなく、静かに言った。
「……いえ。語らせてください」
「そうか。私の情けはいらぬか……。ならば、語るのだな……。確か──羚羊になった妻を連れた、老人の懺悔だったか」
「はい。今宵は、その続きです。地母神の聖域を汚し、獣化の呪術による罰を受けた女商人リーナ──。その前に現れた三人の老人と老女のうち、第一の老人の物語です」
「そうであったな。──では語れ、第三夜を」
皇帝が眼で合図を送る。
サラの横に据えられた香炉に、火が灯された。
二刻──。香が尽きるまでのあいだ、語りが続けば、妹はまた一日、生き永らえる。
その儀式は、今宵も始まる。
「……では、第三夜を。語らせていただきます」
焚火の向こうで、老人はゆっくりと語り続けていた。
その声は低く、乾いていて、遠い昔に置き去りにした時間を掘り返すようだった。
「……ミリアとのあいだに、男の子が生まれた。よく笑う、聡い子だった。わしが旅から戻ると、父の荷をほどいてくれた。ミリアと、その子と、三人の暮らしは穏やかだった」
ナジムは、膝の上で手を重ねながら火を見つめていた。
「三人?」
リーナは首を傾げた、
アーリアは──? と訊ねそうになり、子が生まれてからは、アーリアとは疎遠になっていったと話したナジムの言葉を思い出す。
それは、辛かっただろうな。
リーナは、少しだけアーリアに同情してしまった。
「わしはミリアを第二夫人に迎えた。彼女は子を育て、家を整え、商売の帳もつけてくれた。本当に感謝していた。……心から、大切にしていたのだ」
語る言葉は平易だったが、そのたびに火の影が男の顔を鈍く揺らしていた。
長く胸にしまっていた後悔の熱が、そこにあった。
「……だが、本妻のアーリアとは、次第に口も交わさなくなっていった。十四年。わしは家庭の中で、彼女の存在を薄めてしまった」
老人のナジムは、長い息を吐く。
「その年も、商いで遠方へ出た。数か月の旅から戻ると──ミリアは、病で亡くなったと知らされた」
静かな火音だけが、男の声の合間に差し込む。
「息子は旅に出たそうだ。置き手紙があった。
“母上の死を忘れられぬゆえ、しばらく国を離れます”と」
ナジムは視線を落とす。
その目の奥には、書き残された文字のひとつひとつを、何度も反芻してきた気配があった。
「わしは……それを信じた。ミリアの墓に詣で、彼女のために祈り、息子の無事を祈り……それだけを続ける日々だった」
そこまで語ると、男は少しだけ間を置いた。
焚火の端がはぜ、火の粉が闇に吸い込まれていく。
「だが……後になって、わしは知ることになった……。ミリアも、子も、生きていたのだ。……牛の姿にされて、小屋に繋がれていたと」
「ほう、牛だと?」
地母神が笑う。
ナジムの語り口は変わらず穏やかだったが、声の底に張りつめた痛みが混じっていた。
「アーリアが、旅の術師から宝珠を手に入れたらしい。獣化の魔術──それも、使い切りの“昇華宝珠”。使えば、痕跡も残らぬ術だ。嫉妬と怒りが、彼女をそうさせたのだろう。……わしは、何も知らなかった」
火が揺れるたびに、男の影が背後の地面に大きくうごめいた。
「……牛となったミリアは、小屋に繋がれていた。息子もまた、言葉を奪われた獣の姿に変えられ──母の隣にいた。わしは……その小屋の前を、幾度となく通っていた。だが、彼女たちがそこにいるとは、思いもしなかった」
男は拳を握りかけて、また力を抜いた。
「さらに……あとになって聞いた。アーリアは夜な夜な小屋に通い、牛になったミリアを鞭で打ち、焼きごてで折檻していたと。“夫の心を奪った報い”として、夜ごと怒りをぶつけていたと……」
静かな声だった。
だが、語る言葉よりも、それを「知らずにいたこと」への悔いが、火の匂いとともに漂っていた。
──ある晩のことだった……と老人のナジムは言った。
「わしの家に、突然に夜に隣の里から牛飼いの娘が訪ねてきたのです。年若く、しかし芯の強そうな娘で──ひとりの術師を伴っておりました」
その娘は、ナジムの息子と恋仲であったという。
ナジムは、そんな相手がいたことすら知らなかった。
息子はまだ幼く、恋など早いとすら思っていたのだ。
「娘は言いました。“彼を探す手がかりが、ようやく見つかった”と。“この術師が、この家に呪術の痕を感じる”と、そう言ったのです」
ナジムは驚きながらも、真っ向から否定した。
──息子は旅に出た、と。置き手紙もある。母の死がつらく、心を癒すまで帰らぬと記されていたのだ。
だが、娘は即座に首を振った。
「そんなはずがありません。彼は、いなくなった翌朝に、また会う約束をしていたのです。黙って姿を消すような子ではない。……何かが起きたとしか思えません」
その目は涙を含みながらも、確かな確信に満ちていた。
ナジムはしばらく返す言葉を失っていた。
確かに──息子がいなくなった日の翌日、彼に予定はあったか。誰かに会うはずではなかったか。
そのことに、一度でも思い至ったことがあったか。
「娘の話に導かれるように、わしは──術師に頼むことにしました。その夜は、妙に静かで、家の中はやけに空気が重く……わしは、あることに気づいたのです」
──アーリアの姿が、また、ない。
「そういえば、夜になると、彼女はいつも同じような時間にいなくなる。ですが、わしはそれを気にも留めていなかった。……もう、夫婦としての関わりは、ほとんどなくなっておりましたから」
術師は、手にした小さな香炉に火を入れ、言霊を唱えた。
香の煙は夜気に揺れ、やがて彼の指が、ある方向を静かに示した。
「術師が呪術の気配を追って向かった先は──牛小屋でした」
そのとき、ナジムはなにも言わなかった。
だが胸のうちに、名状しがたい寒気が走ったのだという。
「近づくにつれて、何かの音が聞こえてきました。……乾いた音と、低いうめき。わしは扉を押し、灯を掲げ、そして……見てしまったのです」
小屋の中にいたのは、アーリアだった。
腰巻ひとつの姿で、乱れた髪を振り乱し、手に持った鞭を振り上げていた。
鞭の先にあるのは──一頭の牛。
痩せこけた身体には傷痕が浮かび、鼻から血を流していた。
その横にもう一頭、身体を小さく縮めるように立ちすくむ若い牛がいた。
「アーリアは、狂ったように鞭を振っていました。しかも……泣いていたのです。『おまえさえいなければ』、『あの人は、わたしを見ていたはずだ』、『わたしのものだったのに』……そう叫びながら、何度も、何度も……。泣きながら……」
その言葉は、呪詛ではなく、慟哭だった。
怒りでもなく、悔恨でもなかった。
ただ、どうしようもなく壊れてしまった女の、ひとつの結末だった。
「わしは──立ち尽くしていました。そこにいたのが、ミリアだとは、すぐには理解できなかった。ですが……アーリアが振るう鞭に、“お前”と呼ばれていたものが、誰であるかを、次第に知ることとなったのです」
扉を開けた瞬間、鼻をつく獣の臭気と、焦げた毛皮の残り香が漂った。
手にした灯の明かりが、小屋の内部を照らし出す。
中央には、乱れた髪と裸足の女──アーリアがいた。
腰布一枚の姿で、鞭を握りしめ、痩せこけた雌牛の背に何度もそれを打ちつけていた。
「お前のせいで──。お前のせいで、あの人はわたしから離れた──。お前のせいだああ──」
アーリアは狂っているようだった。
いや、実際に、もう狂っていたのだろう。
雌牛の背には幾筋もの裂傷が浮かび、鼻孔から血が滴っていた。
その身体が、明かりの方を向いた。
そして──目が合った。
雌牛は、哀しげに、喉を震わせるように小さく啼いた。
その横には、鼻輪で繋がれた若い雄牛がいた。
顔をあげ、鼻を鳴らしながら明かりの方へと身体を伸ばす。
首を絞られるような声で、なにかを訴えるように、切なく啼いた。
その瞬間、ナジムの全身に戦慄が走った。
雌牛がミリアであり、雄牛が息子であることを──直感で悟った。
重苦しい空気の中で、鞭の音がまた小屋に響いた。
アーリアの腕の動きは狂気じみていた。
それでも、その顔には、涙が流れていた。
「お前さえいなければ……あの人は……わたしを……」
鞭を振り下ろすたび、震えるような嗚咽が混ざっていた。
そのとき、背後から風を切る音が走った。
「やめなさい──」
牛飼いの娘が、アーリアの手から鞭を奪い取っていた。
そしてそのまま、腕を振りぬき、迷いなくアーリアの頬を打ち据えた。
「きゃあああ──」
乾いた音が、牛小屋に響きわたった。
アーリアの身体が揺れ、鞭を失った腕がぶらりと垂れ下がる。
打たれた頬を押さえるでもなく、目を見開いたまま、動かずに立ち尽くしていた。
「……なにをする。やめろ──」
ナジムは慌てて、アーリアに駆け寄った。
そこには、かつて気丈で美しかった妻の面影は、もはや残っていなかった。
アーリアは、ナジムを見つめる。
それから、鞭を振っていた雌牛──ミリアを見つめる。
また、ナジムを見て、そして、もう一度ミリアを見る。
その繰り返しを、何度か続けたあと──。
ようやく、アーリアの目に、かすかな正気の色が戻ってきた。
「術師さん、すぐに解呪して──」
沈黙が落ちた牛小屋に、娘の鋭い声が響いた。
術師は驚いたようにまばたきし、一瞬だけ躊躇を見せた。
だがすぐに、ナジムのほうを向く。
「……よいのですか?」
そして、低く問う。
「やってくれ。今すぐに」
ナジムは、何も迷わずにうなずいた。
術師は頷き、香炉をかざしながら数歩前へ出た。
まじないの言葉が低く、響くように唱えられる。
術師の手から溢れ出すかのように、微かな白光が広がっていく。
次の瞬間──
牛たちの身体が、柔らかな白い光に包まれた。
小屋の隅々まで光が満ち、闇と血の匂いをかき消すように空気が変わった。
光の中で形が揺らぎ、そして収束する。
そこには、裸のまま崩れ落ちるように座り込む女──全裸のミリアと、同じく力なく膝をついた若い息子の姿があった。やはり全裸だ。
ミリアは俯き、息子は腕で顔を覆って震えていた。
ふたりとも声を出さず、ただ震え、涙を流していた。
その光景を、アーリアは呆然と見つめていた。
頬を打たれた片手は中途半端に上がったまま、顔は愕然としたまま凍りついていた。
だが、動いたのは、ミリアだった。
地面に投げ捨てられた鞭に目をやり、それをぱっと拾い上げた。
そして次の瞬間──。
「このう、糞ったれがああ──」
ミリアは鞭を振り上げ、怒号とともにアーリアに鞭を叩きつけた。
乾いた音が、連続して響く。
「やめて、やめて──」
アーリアは身を縮めて逃れようとするが、ミリアは容赦なく鞭を振るった。
裸身のミリアが鞭を振り上げるたびに、肩と乳が跳ね、汗に濡れた肌が赤く揺れた。
鞭を叩きつけるその身体は、怒りに震えながらも、どこか陶酔にも似た熱を帯びていた。
そこへ──息子も動いた。
「よくもやってくれたな──」
アーリアの脇腹に足を蹴りつけた。
「ぎゃあああ」
アーリアの身体が弾け飛び、小屋の端まで転がる。
しなだれた身体が転がるたびに、腰巻がずれ、白い尻があらわになった。
恥も痛みも、もはや識別できぬような呻きが、その喉から漏れていた。
「──やめんか」
ナジムの怒声が、空気を切り裂いた。
ミリアの手が止まった。息子の足も、地に沈んだ。
鞭が、ぽとりと地面に落ちる。
ミリアの肩が震えていた。息子は目を伏せたまま、拳を握っていた。
その沈黙のなかで、アーリアが崩れ落ちた。
泣き声が、湿った土の上に落ちる。
「──うわあああああ──お願い……お願いだから……捨てないで……お願い……捨てないで……」
四つん這いになったアーリアは、ナジムの足元に縋りついた。
ひたすら泣きじゃくり、顔を泥にこすりつけるようにして、しがみついてくる。
「捨てないで……ねえ、お願い……わたしを捨てないで……あなたを失いたくないの……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
その声は、悲鳴と懇願とが混ざった、裂けるような泣き声だった。
アーリアは、なおも泣きじゃくりながらナジムの足にしがみついていた。
その肩が、小刻みに震え──次の瞬間、白い光が、再び小屋の中に差した。
ナジムが目を見張る。
アーリアの身体が、今度は逆の意味で変わりはじめていた。
その肌が淡い光に包まれ、体表がうっすらと毛羽立ち、骨格が不自然な角度で変形していく。
「──なっ?」
まず、四肢が変わった。
指先が細長く引き延ばされ、ひづめのような形へと変貌する。
腕も脚も、しなやかな線を描き、獣の脚へと歪んでいく。
続いて、背筋がのけぞり、肩から腰にかけて筋肉が蠢くように盛り上がった。
尻からは毛並みに覆われた尾が伸び、次第に尻尾の形を成していく。
しなやかな四肢は羚羊に変わり、裸身の腰からはふさふさとした尾が伸びていた。
乳房はそのままに、尻には毛並みが走り、身体の線だけはどこか艶やかだった。
「どういうことだ──?」
ナジムは術師の方を振り返って叫んだ。
アーリアの肩越しに見えるその顔は、何かを確信していたような複雑な表情だった。
術師は静かに、重い口を開く。
「……呪術を破るとき、因果が深く刻まれていると、“呪返し”が起きます。この変化は……その報いです。──彼女は宝珠を使ってます。その呪術を解くと、呪いは逆に戻るのです」
アーリアの顔に、混乱と恐怖が浮かんでいた。
人間の顔のまま、悲鳴をあげる──だが、それはもう人の声ではなかった。
「……ギィイ……ギャ、ギィィ──」
響いたのは、獣の鳴き声だった。
高く、かすれ、切ない音が、荒れた小屋の壁にこだました。
アーリアの両耳には、羚羊のような長耳が浮かび、額の皮膚には、小さな角が浮かび上がってきていた。
顔と胴体と腰は人間のままなのに、全身は獣だ。
その異形は、まさに半獣半人──。
言葉は、もう発せられなかった。
叫ぼうとしても、喉から漏れるのは、か細く悲しげな獣の声ばかりだった。
ナジムは、ただ立ち尽くしていた。
目の前で起きている変化が、現実だと認識するまでに、時間がかかった。
焚火の光が静かに揺れる。
しばらくして──リーナが、口を開いた。
「……それで、どうしたのさ?」
問いは、飾り気のないものだった。だが、火の色に照らされた顔には、戸惑いと微かな疲労が滲んでいた。
ナジムは焚火を見たまま、応じる。
「わしは、財産も家も息子に譲り、アーリアだけを連れて旅に出た。置いておけば、いつか殺されるか、折檻されるのが目に見えていたからな」
語る声は穏やかだったが、決して軽くはなかった。
「わずかな路銀だけ持って、土地を離れた。あの術師が“獣化の首輪”というものを持っていてな。それを買った。それを嵌めてやれば、完全に獣の姿になる。連れていても、ただの羚羊と見なされる。旅の道中では便利だった」
リーナは黙って聞いていた。
罪を負った者が獣となり、贖罪を背負った者が主となる。
歪んだ関係は、静かに定着していたように思えた。
「……風の噂で聞いた。息子は、あの娘と夫婦になったらしい。わしらは故郷へは戻らんかった。小さな商いをしながらふたりで旅を続けた。それから、数十年。こいつはなぜかちっとも変わらんが、わしは老いた。それと、ミリアは、数年前に病で死んだと。だが、不幸ではなかったようだ」
ナジムの言葉は、最後だけほんの少しだけ柔らかかった。
そのとき──焚火の向こうで、地母神がくすりと笑った。
「そうか。不幸ではなかった、か……」
その声音には、どこか試すような色が含まれていた。
焚火の灰がふっと舞い上がる。
地母神は目を細めたまま、思案するように声を重ねる。
「だが、わたくしにはまだ聞いていない話があるな」
「聞いてない話……ですか?」
ナジムが地母神を見る。
「その女──呪いを受けて獣となった女を、ただ連れて歩いているだけではあるまい」
リーナは目を瞬させた。
ナジムはわずかに笑んだ。
「まあ、旅の夜には他に愉しみもない。罪滅ぼしのつもりで、たっぷり可愛がっておる」
その返答に、地母神が明らかに愉悦を含んだ嗤いをこぼした。
「ふふ。そうか。やはりな。──ならば、見せてみよ」
声の調子は変わらず穏やかだったが、そこにあったのは神への供物を求める意思だった。
「罪を負い、肉を獣に変えられた女が、どのように悦ぶのか。贖いと悦びが交わる夜を、この場に捧げよ」
地母神の目が焚火越しにナジムを射抜く。
「見せれば、礼として望みのひとつ──わずかばかりだが、叶えてやらぬでもない」
沈黙。
やがて、ナジムが立ち上がった。
「承知した。ならば、ありがたく」
その背に、揺れる影が長く伸びていく。
片隅にうずくまっていたアーリア──獣の身体に変えられた女が、気配を察して耳を震わせる。
「さあ、神よ。これが、わしらの贖いの夜の姿だ」
──ふと、香の匂いが薄れた。
香炉の煙はほとんど絶え、ほのかに焦げた香木の残り香だけが空気に漂っていた。
サラはゆっくりと口を閉ざし、頭を垂れる。
長く続いた語りが、ようやく終わったことを告げる仕草だった。
二刻が過ぎていた。
ちょうど定められた語りの時が、尽きたのである。
静かな広間に、皇帝エスクラウディオの笑い声が響いた。
「なんだ、それからが佳境ではないか。まさか、今宵はここで終わりだとは思わなんだぞ」
その声に、サラはわずかに顔を上げた。
唇に浮かんだのは、かすかな微笑だった。
「……陛下の仰る通り。ですが、今宵の香は尽きました。続きは、また明晩にて」
「ふむ。つまり、明日は──」
皇帝は顎に指を添え、愉しげに片眉を上げる。
「獣になった女が、その身を贖いのために差し出す場面、というわけだな。それは是非とも、お前の口から聞かねばならんな」
サラは深く頭を垂れた。
広間に、再び静寂が戻る。
香は尽き、夜は更けていく。
その沈黙のなかで、第三夜は──幕を閉じた。