そこに現れた皇帝エスクラウディオの足音を、サラは顔を上げずに聞く。彼女は正座の姿勢で待っていた。
「いつもの姿勢になれ」
座台に腰をおろしたエスクラウデイオが下女の注ぐ火酒を盃に受けながら命じる。
サラは、一度姿勢を崩し、切り裂かれた巫女服の裾を尻の下に敷いて、膝を曲げて脚を大きく開いた。
──股間を晒して局部を見せつけるように……。
何度やらされても、この格好に慣れることはない。
羞恥に身体が震える。
サラが身につけているのは、神殿の巫女としての装束だ。だが、乳房の部分、股間の部分は切り取られて隠せないようになっている。着替えは毎日届けられるが、わざわざ布が切り取られているのは同じ。これもエスクラウディオの指示になのだろう。
淫紋は、皮膚の上にうっすらと浮かびあがっていた。
脈打つたびに、恥ずかしげに赤みを帯び、淫らな熱を帯びている。
肌の温度は、羞恥とともにあがっていた。
なによりも、辛いのは──股間の疼きだった。
語り奴婢として皇帝の前に身を晒す辱めも、痛みではなかった。
だが、淫紋のもたらす身体の耐えがたい性の疼きには、どうしようもなく身体が応えてしまう。なにをしていても、下腹が熱を帯び、局部は真っ赤に熟れ、愛液は垂れ続ける。
淫紋が、語りの呼吸に合わせて脈打つ。
皮膚ではなく──身体の芯が疼いていた。
淫紋を刻まれて以来、サラには自慰すら許されていない。
皇帝の命──語りは悦びとともに為せ、だが、果てることは許されぬという残酷な律──。
喘ぎも、触れることも、夢の中ですら許されぬ。
起きているときも、寝ているときも、呼吸をするように彼女の股間は飢えた牝のように濡れ、敏感に、熱く、脈を打つ。
唇を結び、語りに専心しようとするほど、膣は自らの意志に反して収縮し、愛液が溢れてしまう。
──淫紋を刻まれ、牝として悦んでいると刻みつけるように。
いまこの瞬間も、切り裂かれた衣のすき間から、冷えた石の床に尻をつけて座るその場所で、サラの割れ目は熱を孕み、愛液が糸を引いて太腿の内側を伝っていた。
耐えねばならなかった。
だが、淫紋の中心、臍の下に刻まれた封印の輪郭が、内側からふるえ、痙攣し、語らぬ部分まで疼いてしまう。
──声に出せぬ呻きが、喉で焼ける。
快楽ではない。悦びでもない。
それは、責めの苦しみだった。
熱く、湿り、腫れあがるような、牝としての器官がそこにありながら、触れられず、許されず、ただ淫紋の命じるままに疼いていく。
誰にも抱かれず、誰のものにもなれず──だが、悦びには責めぬかれる。
語り手としての顔を保ちながら、股間は獣のように熟し、滴っていた。
視界が霞み、意識のどこかが、語りではなく、疼きに飲まれそうになる。
それでも唇を動かし、声をつむぎ、姿勢を崩さず、耐えねばならない。
それが──語り奴婢として、淫紋を与えられた女の務めであった。
「いつも見ても、凄まじいほどの濡れようよ……。ふむ。淫紋を刻まれて、ここまで耐えた者は初めてだぞ。なぜ、そこまで耐える? いったい、なにを守ろうとしている?」
エスクラウディオが言った。
冷ややかな声だった。だがその眼差しは、確かにサラの股間を捉えていた。
「語り奴婢としての──勤めを果たしているのみでございます」
目を伏せたまま応じると、皇帝は低く笑った。
「ふむ……そうか。ならば、これはお前の勤めの障りにはならぬだろうな」
皇帝の声が、わずかに変わった。少しばかり、愉しむような響きを帯びる。
「ドニアから伝言があったぞ。……“この淫売。お前など姉とも思ったことはない。わたしのために我慢しているつもりなら、余計なお世話だ”……、そうだ」
サラは目を伏せたまま、微動だにしなかった。
胸の奥に、鈍い音がひとつ、波紋のように響いた。
「はい」
サラはそれだけを言った。
「ふっ、お前の努力など、なにも妹には伝わってはおらん。無駄だったな?」
「そうでございますか……。仕方ありません」
唇の端に笑みを刻み、サラは首を垂れた。
「仕方ない?」
「姉妹と言っても名ばかりで、わたくしは神殿、ドニア様は宮殿に……会うこともございませんでしたから……」
「そうなのか? もっと親しかろうと思っていたのだが」
「いいえ。ほんの──三度、お目にかかっただけにございます」
皇帝の眉がわずかに動いた。
「三回……か」
「そもそも、わたくしは王家の血を引いてはおりますが、“王女”の名乗りを許されたことはございませんでしたゆえ」
沈黙が落ちた。皇帝は、なにかを量るような目でサラを見ていた。
「ならば……なぜ、耐える?」
「お言葉のとおりにございます。淫らで、誇りなど持たぬ女にございますゆえ……どうか、御心に留め置かれることなどなきように。たとえ、かつて縁あっても、いまは遠く離れてございます。いまはただ、語りを務めるのみ──それがわたくしに許された最後の役目にございますから」
言い終えて、サラは背筋を伸ばし、顔をあげた。
こちらからは見えないが、サラの姿は、ドニアに強制的に見させられている。
サラの言葉が届きますように……。
「わからんな」
エスクラウディが不審そうな口調で呟く。
「……では──第四の夜を語ってもよろしいでしょうか」
エスクラウディオは黙したまま、しばしサラを見下ろしていた。
「……語れ」
その言葉が落ちた刹那、下女が進み出て、香炉に火を点じた。
新たな香が、白い煙となって天井へ昇っていく。広間は再び、物語の場へと変わっていった。
第四夜の語りが始まる。
──風が止んでいた。
泉の水面には、天に浮かぶ月がくっきりと映っていた。
だが、リーナの視線は、その光ではなく、火のように燃え上がる地上の一幕に奪われていた。
「さあ、神よ。これが、わしらの──贖いの夜の姿だ。」
ナズルの低い宣言とともに、アーリアは地に伏していた。
毛の混じる背と、丸く高く突き出た尻──人と獣のあわいに堕ちたその肢体は、もはや言葉を持たなかった。
けれど、鼻から漏れる声があった。
「……ヒイイ……プウウ……ヒュ、ヒュ……」
羚羊のような、それでいてどこか艶を帯びた声音だった。
ナズルが彼女の鼻輪を引き、地面に鉄杭を打ち込んで、短く繋ぎとめる。
その瞬間、彼女の啼きがわずかに高くなった。
「ヒュウウ……プウ……ヒイ……ヒィ……」
まるで、自ら繋がれる悦びを奏でているようだった。
ナズルが腰から細い棒を抜き、尾がある以外は人間の女の身体である白い尻を棒で思い切り打ち据えた。
「プッ……ヒイ……ヒィィ……ヒュ……」
棒が振り下ろされ、尻が揺れる。乾いた音が響く。
アーリアの身体がぴくりと震え、尾が揺れた。
「もう一回じゃ──」
「プヒイイイッ──ヒビィィィ──」
「もっと啼け──。悦んでいるくせに、そんな声で済むと思うなよ。ほれ、牝の証を見せてみろ──」
ナズルの罵りは粗く、野卑でさえあったが、その言葉を聞いたアーリアは、確かに尾を揺らし、さらにもう一声、啼いた。
「ヒウウ……ヒィ……プヒ……プウウウ……」
その尻がくねるように揺れ、鼻先が小刻みに震えた。
苦しみの声ではなかった。羞恥と悦びに濡れた、牝の熱を帯びた声だった。
リーナは、最初こそ目を見開いていた。
だが、すぐに理解した。
この女は、悦んでいる。
打たれるたびに、背を反らせ、尾を振り、鼻を鳴らし、男の声に反応する。
人語を失ってもなお、啼き声がすべてを語っていた。
──悦びを捧げる牝の啼き声だった。
リーナの胸がずきりと疼いた。
淫らだ、獣だ、惨めだ──そう思おうとするたびに、胸の奥が熱くなる。
尻に二度、三度と打ち下ろされるたびに、アーリアの脚のあいだから、音もなく垂れ落ちていくものがあった。
リーナは、それに気づいた瞬間、喉の奥がひたりと湿るような感覚を覚えた。
あれは──まぎれもなく、牝の濡れだった。
肌は毛に覆われ、脚の形も獣に近い。だが、腿のつけ根に残されたその裂け目だけは、女としての肉の形を正しく保っていた。
そこがいま、はっきりと濡れていた。
淡い愛液が、糸を引き、太腿の内側を伝っていく。
「ヒュウ……ヒィ……ン……ン、プウ……」
アーリアの啼き声が、息の混じる甘さを帯びてゆく。
鼻輪の揺れるたびに、身体が反応する。杭に繋がれ、逃げることもできない体勢のまま、尻は突き出され、脚はわずかに開かされている。
そしてその奥──見えてしまう場所に、雫が生まれていた。
濡れている。
恥じてはいない。
──悦んでいる。
リーナは思った。
これは、人間の声を失った雌が、それでも最も素直な場所で悦びを伝えている姿だと。
男の手に従い、男の言葉に反応し、責めに体を揺らし、そして濡れる。
その淫らな器官が、彼女にとって最後に残された語りなのだと。
「ヒイ……ヒィイイ……ン……」
啼きながら、アーリアの腰がわずかに揺れた。
濡れた肉の唇が、男の方へと押しつけるように突き出されていた。
それは──求めていた。
貫かれることを。
悦ばされることを。
あるいは、悦ばせるためだけに存在することを──。
ナズルが、腰を落とした。
アーリアの背に、獣毛にまみれた男の腹が重なる。片手で鼻輪の鎖を引き寄せ、もう一方の手で、尻の下から湿りきった割れ目をなぞった。
「……ほう、もう、こんなに濡れて……」
吐息まじりの低い声が落ちた。
アーリアの肢体が、小さく震えた。
繋がれた首をわずかに仰け反らせ、鼻先をふるわせる。鼻腔から、喉の奥から、ねっとりとした啼き声が漏れた。
「ヒィイ……ヒュウ……プゥウ……ウ、フウ……」
膣口がぐじゅりと音を立てた。ナズルの指が、開いた唇を割って奥を探る。愛液は止めどなく溢れ、太腿の内側に光を宿していた。
「もう十分じゃな。いつもとは違って、見物人もおるしな。普段よりもよう濡れとる」
ナズルが素早く下衣をおろして、腰帯をすらして男根を取り出した。歳の割りにはと言っては失礼だが、立派に勃起している。
そして、その怒張がアーリアを後ろから貫かれた。
「ブヒイイッ──。ブヒィ──ブヒヒヒヒ──」
粘膜が引き裂かれ、濡れた音が重なる。
ナズルのものが、ずぶりと根元まで押し込まれたとき、アーリアの身体が大きくのけぞった。
「ヒイイイ……ヒュウウ……ウ、ウッ……プ、ヒュゥウ……」
獣の背が弓のように反り、尾が跳ね、尻がぴくりと跳ねた。鼻輪の鎖が揺れ、杭に打ちつけられた鉄が、かすかに、きぃ、と鳴った。
アーリアは啼いていた。
人の声ではなく、だが、確かに悦びの声だった。
呼吸と一緒に、啼き声が漏れ、身体がそれに合わせて収縮した。
尻の奥が吸いつき、濡れた音が押し返すたび、肉の奥で擦れるものがあるのが、見ているリーナにも伝わった。
「どうだ……悦びたいのか……悦ばせて欲しいのか──」
ナズルの問いに、アーリアは言葉を返せなかった。
けれど、腰を打ち返すように揺らし、鼻から甘い声をふるわせた。
「プヒ……ヒュウウ……ン……フウ……フン……」
濡れた音。ぬちゅ、ぬちゅ、という律動のたび、体毛の下に隠れた肌が震える。
頬を紅潮させることもできず、まつ毛も揺れず、ただ尻が、腰が、奥の肉が、悦びの証を伝えていた。
リーナは目を離せなかった。
その姿は、淫らで、獣で、哀れで、そして──美しかった。
ぬちゅ、ぬちゅ、と音を立てて肉が擦れ合うたびに、アーリアの身体はわずかに跳ね、尻が吸いつくように締まり返していた。鼻先は地面すれすれに伏せられ、鼻輪を通じて杭に引かれている。
「ヒィ……ヒュゥウ……プウ……プヒ……ン……」
啼き声は、すでに泣き癖のついた牝のそれだった。
ナズルが腰を打ちつけるたび、彼女の脚の付け根から愛液が飛沫となって跳ね、膣口がひくりと震えながらしがみつくように収縮する。
「……神よ。お受け取りください。わたしの罪を、この牝の悦びに封じます……」
ナズルが呻くように呟いた。言葉ではなく、祈りだった。
獣の姿をした妻の背に両手を置き、腰を深くまで沈め、最奥に肉を重ねる。
そのとき、アーリアの身体が大きくのけぞった。
鼻からひときわ高い声が抜ける。
「ヒィイイ……ヒュウウ……フウ、ヒィ……ヒッ、ヒン……」
尻が痙攣するように跳ね、膣が締まり、肉を締め上げる。
溢れる愛液が精を迎えにゆくように脈打ち、太腿の毛並みが濡れに濡れて艶を帯びた。
「……いま、神の前に──出すぞ……。アーリア──。これは、わしの懺悔でもある──。すまんかった──」
ナズルの肩が震えた。腰が突き上げられ、肉が沈み、根元まで埋められる。
ぐぷっ、と濡れた音が深くまで響いたあと、彼の全身がぴくりと硬直する。
アーリアの鼻先が地に伏せられた。尻だけが上げられたまま、ぴくり、ぴくりと震え続ける。
鼻輪の鎖がわずかに揺れ、鉄杭に触れて、かすかな金属音を鳴らした。
「ヒウ……ヒュウ……プゥ……ン……」
静かな声。悦びを引きずるような、熱の余韻。
射精された精が、膣内に注がれたまま、彼女の奥に満ちていくのが、遠目にもわかるほどだった。
──リーナは、呆然としていた。
なにを見せられているのか、理解できなかった。
いや、理解できていたのだ。身体の奥が、それを受け入れていた。
濡れていた。自分の股間も、下腹も、同じように。
あれは女の悦びだった。
獣であっても、声を失っても、羞恥も、理性も、なくしても。
──女として悦ぶ、ただそれだけの存在。
なぜ、涙が滲むのかもわからなかった。
ただ、羨ましいと。美しいと。
なぜか、そう思った。
その瞬間、リーナはようやく気づいた。
──わたしは、あれを、羨んでいるのだ。
かつての妻を、あのかたちにしてまで悦ばせる男と──。牝の姿を与えられてなお悦びを忘れない、あの女と──。
鼻輪をつけ、杭につながれ、啼くだけの存在。
それを、惨めだと思えなかった。
むしろ、解き放たれているとさえ感じていた。
ナズルが、ゆっくりと腰を引いた。
愛液と精が重なった音がぬるりと空気を裂き、貫かれていた肉が外気に晒される。
「……確かに、わしはお前たちの神への奉納を見届けた──。望みを言え。叶えられることなら、叶えよう──」
泉の向こう、地母神の声が満ちてくる。
その声音には、満足の色があった。
「わしの妻を人に──」
ナズルがすかさず叫ぶ。
すると、アーリアの身体が、白い光に包まれた。
毛並みのあいだから皮膚が透け、肢体の輪郭がほのかに変化していく。
蹄だった脚が指を取り戻し、羚羊の角は消え、身体にかすかに人そのものの影が浮かびかけた──が。
光が、突然にすっと収縮していく。
変化は途中で止まり、毛と肉とが混じった半獣の姿のまま、静止した。
「えっ、どうしたことじゃ。……アーリア……?」
ナズルが、呆然と名を呼ぶ。
「獣化の呪いは、いま確かに解かれた。だが……どうやら、術を拒んだのはわたしではない。おそらく、アーリア自身の意思によるものだ」
地母神の声は、どこか驚きを含みながらも、責める色を持っていなかった。
そのとき──アーリアが口を開いた。
「……あ、ああ……あなた……」
羚羊の啼き声ではなかった。喉から漏れたのは、明瞭な女の声だった。
「おう、……言葉が……戻ったか──。よかった……本当に……」
ナズルの声音は、弱々しくも確かで震えていた。
リーナの胸が、きゅうと縮まるのを感じた。
「ずっと……、あなたに……言いたかった……。ありがとう、ごめんなさいって。わたしのために、財を捨てて、旅をしてくれて……一緒に来てくれて……ずっとそばにいてくれて……」
半獣半身の姿に戻ったアーリアがナズルにわずかに首を曲げて言った。いまだに、鼻輪が地面の杭に繋がれている。
ナズルが息を呑み、慌てて鼻輪の紐を杭から解く。
「……お前が、人に戻ることを拒んだのか?」
「うん。戻っても、しかたないと思った。この身体でも、あなたが愛してくれるなら、それでいいって思ったの。人の姿で生きていたときには、幸せなんて感じたことなかった。でも、この身体になって、あなたがいてくれて、わたしを愛してくれて……。それだけで、幸せだったの……。もしも、人に戻ったら、また悪いことをするかも……。あなたには申し訳ないけど、わたしはこの姿でいたい……」
その言葉に、ナズルはしばらく声を返さなかった。
その表情には、戸惑いと、呆れと、そして少しの安堵があった。
「……そうか。それもいいか。もう何十年もこうやって暮らしたしな。これからは、言葉も交わせるし、それでいいか……」
「毎日、あなたに謝る。だから……捨てないで。愛しているの……」
「詫びなど、いらん。毎日、わしも、死ぬまで愛をささやこう。──そして、これからも毎晩、調教してやる」
その言葉に、アーリアが鼻を震わせた。
そして、「プウウ……」と甘い啼き声が漏れる。
それはかつてよりもやわらかく、嬉しそうだった。
ふたりはゆっくりと立ち上がり、泉の前に進み出て、地母神に深く頭を下げた。
その隣でリーナも、知らぬ間に立ち上がっていた。
「……できれば、わしの奉納分で、加護に余裕があるなら──このリーナ殿を赦してやってはいただけぬか。わしとあの牝で満たされたのなら、少しくらい、余らぬかな」
ナズルの言葉に、泉の向こうの光がわずかに揺れた。
そして──ふっと、やさしい風が吹いた。
ふたりは並んで立ち、もう一度、泉のほとりへ頭を下げた。
ナズルがアーリアの鼻輪に手を添え、柔らかく撫でる。アーリアは抵抗せず、鼻先を彼の肩に寄せた。
「行こう。……アーリア」
ナズルが静かに言うと、アーリアは一声、鼻を鳴らした。
「フウ……プウウ……。はい、あなた……」
獣の啼き声と人の言葉……。それはどこか安堵を含んだ、甘い音だった。
ナズルがアーリアの首に、獣化の首輪をかける。アーリアは羚羊そのもの姿になり、ナズルはその鼻輪の紐を手に取ると、月夜の砂漠に進んでいった。
ふたり……ひとりと一匹が白砂の岸辺を歩いていく。
月明かりが影を伸ばし、彼らの背中を淡く照らす。
アーリアの足取りは蹄音を混じえ、ナズルは肩をゆっくりと揺らして歩く
その姿に、リーナはふと祈りたくなるような感情を覚えた。
──どうか、幸福であるように。
たとえ、あの形であったとしても。いや、あの形だからこそ──。
地母神もまた、ふたりの背中を見送っていた。
やがて姿が見えなくなると、静かに声を上げた。
「……さて、では、次の語りを聞こうか。お前だ、老いた女よ」
呼ばれたのは、泉のそばに佇んでいた、白い布を巻いた小柄な老婆だった。
身につけているものは上等ではないが、姿勢の品のいい老女であり、眼だけは鋭く光を宿していた。
リーナが目を細める。
「はい、地母神さま……。ネネと申します……。わたしの願いは、このお姉さまたちを赦していただくことです。どうか、お聞き届けください」
「ほう、お姉さま方……? お前の姉ということか」
「いいえ、わたしは、元は奴隷に等しい孤児です。ほんの少女の頃に、世に見捨てられ、野垂れ死に仕掛けていたのをお姉さまたちに助けられました。それ以来の恩でございます」
唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「つまり、血の繋がりはないということか?」
「はい、でも、わたしにとっては、血に繋がり以上のものがございます」
「なるほど……。で、なにがあって、この二匹は、このような姿になったのだ?」
「淫乱の罪でございます」
「淫乱?」
香がくゆるなか、老女が静かに地母神の前に進み出た。
「──では、わたくしが語らせていただきます。なにぶん、恥ずかしい話でございますが……。恩もありますし、いまも面倒を見ております、この姉さまたちのことを……。あら、いない……」
老女がきょきょろと周囲を探し出す。
リーナも、いつの間にか、老女と一緒にやって来た二匹の黒犬が姿を消していることに気がついた。
「こら──どこへ行った、この淫犬どもが──。出てきなさい──」
老女が大声をあげる。
リーナも周囲を見回す。
「……あれ?」
すると、泉から少し離れた茂みの陰から、ぬるりと黒い影がふたつ、姿を現した。
毛並みはつややかで、だがその背中はやや濡れており、肩のあたりまでしっとりと湿って光っている。
舌を出して荒い息を吐きながら、ふたりは地を這うように戻ってくる。
片方は口元をくちゅくちゅと舐めており、もう一方は、太腿の内側を気にするように脚を擦り合わせていた。
「ヒュウ……プゥ……ン……」
かすかに漏れる鼻声が、どこか甘く震えていた。
二匹のその歩き方は少し乱れていて、尾がぴくぴくと小刻みに揺れている。
──なにを、していたのだろうか。
リーナの喉奥がかすかに詰まる。
湿った毛、熱っぽい舌、啼き声の調べ、そして、わずかに濡れて光る太腿の内側──。
どこか、睦み合ったあとのような、妙な艶があった。
なによりも、匂い……。
女の蜜のような匂い……。獣ではなく、人の……。
もしかして、隠れてふたり……いや、二匹で愛し合っていた……? いや、まさか……。
「まったく……また、自分たちで勝手に始めたのね……」
老女がため息混じりに呟き、腰に差していた小枝を引き抜いた。
「……この淫乱姉妹め──。仕込んでも仕込んでも、悪い癖が抜けない──。これじゃあ、いつになったら、お姉さま方が赦されるのか……」
そして、溜息をつきながら、一匹の犬の尻を思い切り小枝で打つ。
「キャイン──」
軽く叩かれた片方の猟犬がぴたりと止まって震える。
「お前もよ──」
ぴしゃり──。
もう一匹も尻を枝で打擲する。
「キャン──」
痛みに啼き声をあげる。
ところが、最初に打たれた犬が、いつの間にかリーナの足もとに寄ってきて、鼻先でリーナの足もとを嗅ぎだした。
すると、もう一方も、尾を揺らしながらぬるりと近づき、ふとももに鼻を押しつけてくる。
「うわっ、なんだい──」
さすがに大きな猟犬だ。
二匹掛かりですり寄られると、思わず声を出してしまう。
「やめなさい──。また、お姉さま方は、綺麗な女の人を見ると、発情しちゃって──」
老女が木の棒を再び振り上げ、ぴしゃりぴしゃり二匹の尻をまたもや軽く打つ。
ぴたり、と動きが止まる。
だが、その耳はぴくりとも動かず、どこか嬉しそうに尾が振れていた。
そして、二匹が離れる。
リーナはほっとした。
だけど、なんなんだ──。
もとは人間だと、この老女が喋った気がするけど……。
「また……すみませんねえ。お見苦しいものを。このようなものでも、元は神殿の巫女でございまして……」
老女は地母神に向かって深く頭を下げた。
だがその口調には、諦めと、どこか癖になった苛立ちと、微かな誇らしさが同居していた。
「元巫女だと?」
地母神が呆れたように言った。
「このとおりでございます。元は巫女、神に仕える身──。神殿暮らしでございます。それが、淫欲に溺れてこのざまです。言葉も忘れ、名も持たず、牝犬の姿で、夜な夜なわたくしの手を煩わせております……」
老女は静かに頭を下げた。
その口調は丁寧だが、どこか、疲れと呆れと、しかし、微かに滲む情のようなものがあった。
「神殿で巫女が淫欲に堕ちたということか?」
「はあ……。お姉さまたちも、わたしも、もともとは神殿の巫女でございました。ですが、お姉さまたちは、律を三たび破り、神の怒りを買い……四度目の放埓の夜に、犬へと墜とされたのです」
リーナは、目の前で自分の脚に鼻を押し当てている獣の顔を見つめた。
たしかに、顔の輪郭は獣だった。だが、目だけは──あまりにも、人のままだった。
「本当に、油断も隙もないのです。気を許すと、こうして発情したように舐めまわし……。お許しをいただけるなら、今宵も、このふたりを縛ってでも、語らせていただきますが」
「淫乱で犬に墜ちた元巫女か。これはまた、面白そうなのが来たな」
地母神の笑い声が満ちる。
広間に立ち込めていた香の煙が、やがて細く、細く、途切れていく。
香炉の中の残り火は、わずかに赤く光り、しんとした空気の中に白い煙を残して消えていった。
──香が尽きた。語りの時間を定められている二刻が過ぎたということだ。
サラは脚を開いた格好のまま、深く頭を垂れた。
太腿を伝う冷気が、いまさらのように肌を撫でる。語りのあいだ、あまりにも熱に囚われていたことに気づく。
「ふむ……淫乱で、獣に墜ちた巫女か……。まるで──お前のようではないか?」
皇帝エスクラウディオの声が、静かに響いた。
その一言が、広間の空気をぴんと張らせた。
サラは、顔をあげなかった。
ただ、ゆるやかに息を吐き、伏せたままの姿勢で、言葉を受け止める。
「……そのように、思われるのであれば、光栄にございます」
「そうか? あの犬どもも──語りの最中、まるで悦びをもって啼いていた。お前も同じだ。語りながら、牝の体が震え、膣が濡れ、愛液を垂らしていた」
サラは眉をわずかに動かしたが、返す言葉はなかった。
「……」
その沈黙に、皇帝は声を潜めるように続けた。
「お前は、なぜ獣にならぬのだ? いっそ、犬にでもなって、悦びに啼いてみせたほうが似合っておるぞ」
「……語り奴婢は、言葉を失っては務まりませぬゆえ」
「ふっ、面白いことを申す」
盃の音が、小さく鳴った。
エスクラウディオが火酒を飲み干し、唇を舐める。
「だが──もし、獣に堕ちたとしても、お前の語りはやめぬ気がするな。牝の啼き声で、語りを続けるのではないか。悦びに震えながらな」
サラは、静かに頭を垂れたまま答える。
「そのように望まれれば──語りの形も変わるのかもしれません」
「ほう。ならば、次の夜には、その姿も見てみたくなるな……。いずれにしても、お前を淫売と罵った妹は、明日も王女として生き伸びる」
香炉から、最後の煙がふわりと漂った。
それはもう、物語の匂いではなかった。広間にはただ、夜の匂いと、女の濡れた熱の名残だけが残っていた。
「第五夜──楽しみにしているぞ、淫らなる語り奴婢よ。語りの時間は終わったが、自慰はせぬことだ。いつ、お前が音をあげるか愉しみだがな」
「……あげませぬ」
サラは、それだけを言った。