サラは、いつもの布の上で、正座をして頭をさげて待つ。
脚の奥で疼く紋が、もう限界だと脈打っているのがわかる。
部屋の扉が開く音──。
サラが頭をさげている前を布ずれの音が床に這い、皇帝エスクラウディオがやって来たのを悟る。
背筋に重たい冷気が降りてきたようだった。
皇帝の気配が前にある。
この喘ぎ声を、いま夜も笑われる……。
「結局、自慰はしなかったようだな、サラ。そう報告が入っている」
エスクラウディオが酷薄に言った。
淫紋の疼きが苦しければ、自慰をしてもよい──その赦しをもらったのは、昨夜のことだ。ただし、一度でも果てれば、ドニアの陵辱と処刑を執行する──。
それが、エスクラウディオが決めた律……。
しかし、この状態で、一度でも自慰を始めれば、たちまちに理性を失い、狂ったように快楽をむさぼる雌になるだろう。
サラはそれを自覚していた。
だから、結局、耐えた。
耐えきった。
「自制の自信がありませんでした……。だから、耐えました……」
サラは頭をさげたまま言った。
喉の奥で、浅く途切れる吐息がひどく耳障りだ。
声を整えるだけでも、指先が痺れた。
けれど、逃げることなどできない。
この身に刻まれた紋は、サラが“語り奴婢”である証──。
語りをやめれば、あの妹の命は尽きる。
「そうか。まだ、耐えるか」
エスクラウディオの声がわずかに低くなった。
「……」
「そういえば──お前の妹、ドニアを犯した。生娘だった」
エスクラウディオがついでのように口にする。
はっとしたが、声には出さない。
ぐっと唇を噛みしめる。
「……お前を許して欲しいそうだ。身体を差し出すから、姉を許せと口にしたのでな。だから、犯したが……私はなにも約束はしなかった。叛乱を起こした属国の姫として惨たらしく処刑することは変えぬし、姉に慈悲を与えるつもりもない。ドニアは無駄に操を失った。それだけのことだ」
サラは無言でいた。
喉の奥で呼吸だけが荒く、皇帝の影を睨むことすらできない。
「……お前たちがなにをしようと、なにも変わらぬ。お前は淫紋に追い詰められ、いつか妹を見捨てるだろうし、ドニアは叛乱国の末娘として相応しい最期を遂げる。それはなにも変わらぬ。お前たちは無駄な努力をしているに過ぎない。だが──お前が語り巫女であり続ける限り、処刑を送らせているだけだ。無駄な足掻きを、だ」
背筋が痺れる。
それでもサラは、静かに頭をさげたまま、声を絞り出す。
「……それでも、語ります」
「そうか。ならば、語るがいい」
サラはゆっくりと姿勢を崩し、淫液にまみれ、真っ赤に腫れた股間を布の上にさらす。
荒い息が震え、喉の奥で小さく啜り泣く声がにじむ。
「第七夜を語ります。三番目の男……。騾馬を連れた、せむしの小男の語りでございます」
身体の横の香炉の香に、火がともされた。
「はい……。お偉い方の奥様なんですが……、あっしにとっては、女神のようなお人なんです。でも、あっしと……この醜いあっしと不義をしたと、お疑われて、この姿に……」
サルマンがぼそぼそと言う。
背が低く、腰が曲がった小男。夜闇で見れば老人のように見えた男である。
この男と、どこかの偉い立場の妻が不義?
リーナはちょっとばかり首を捻る。
「……どういうことだ? まあ、とりあえず、事情を話せ」
地母神は面白がるように喉を鳴らした。
「わかりました……」
すると、サルマンがぼそぼそと語り始めた。
泉のほとりを渡る風が、獣と湿った土の匂いを運んでくる。
曲がった背の小男の肩が、虫の羽音に合わせてわずかに揺れていた。
痩せた指が握る首綱の先で、騾馬の首筋がじっと静かに震えている。
あっしは、ある小さな里の近くの山で、山仕事をしています──。
サルマンと名乗った男の声は、掠れながらも泉の水面に落ちていった。
幼い頃から背中が曲がっていて、顔には大きな痣があったのだという。
背も低く、里の中では気味悪がられて、とうとう入れてもらえなくなった。
それでも、山で罠を張って猟をすること、山菜を摘んで暮らすことだけは、里の者に許された。
ひとりだから、それでどうにか食いつないできた。
まだ幼い頃は、育ててくれた祖父が生きていたので、里の中で暮らすこともできた。
祖父の背中の陰に隠れるたび、冷たい目だけは逸れていった。
だが祖父がいなくなれば、サルマンのような者を囲う者はいなくなった。
でも、幼馴染で同じ歳の可愛らしい女の子がいた。
カレン──。
石を投げられ、老人のようだと笑われた顔に、そっと花をのせてくれた子だった。
里の子供たちの誰もが避けたあっしに、ただひとりだけ、手を伸ばしてくれた。
カレンのような子なら、きっと素晴らしい男の人と結婚するだろうと思っていた。
それは当たり前で、当たり前なのに、胸の奥に少しばかりの寂しさが刺さった。
十八のとき、カレンは里に一番近い街の大きな商家に正妻として嫁いでいった。
小さな里の娘としてはとんでもない玉の輿だった。
噂は山まで届いてきた。
それから十数年が過ぎた。
街に下りた者が持ち帰る噂の中には、カレンが元気に暮らしているという話もあったし、威張っていて性格が悪いと笑われる声もあった。
だが、あの方は優しい人だと知っていた。
あれは街の女のやっかみに違いないと、サルマンにはすぐにわかったそうだ。
優しいカレンが苦労していなければいいと思ったが、なにをしてやれるわけでもなかった。
だから、せめてもの未練で、数か月に一度は山で獲れた鹿肉を街の肉屋に卸しに行った。
山の暮らしには必要のない遠い道のりを、獣の肉を背負って……。
街の人の口から、カレンの屋敷の話を、ほんの少しでも耳にできればそれでよかった。
だが、サルマンのような醜いせむし男は、街ではすぐに目立つ。
誰が噂を広げたのか、あるときカレンの屋敷から使いが来た。
肉屋に卸すくらいなら、裏庭へ直接持って来いと。
もちろん、表の玄関をくぐることなどなかった。
濡れた裏口を抜け、湿った庭に足を踏み入れたとき、縁側に立つ影があった。
『──懐かしいわね。元気なの』
あの人は、すっかりと街の大きな商家の奥方になっていた。
三十を越えているはずだったが、あっしの目には、あのとき里で花をくれた少女のままだった。
それから年に二度か三度、裏庭に肉を持って行くたびに、縁側から、懐かしい声をかけてもらえた。
豪華な衣を着ているのに、あの人の目には、どこか小さな翳りが滲んでいた。
裕福そうではあるが、あまり幸せそうではなく、街の噂が気になった。
だが、奥方というのはそういうものなのだと、あっしにはわからなかった。
ただ一つ、あの人が変わらず故郷の者として、サルマンに声をかけてくれたことだけが、サルマンにとっては何よりの宝だった。
泉のほとりを渡る夜気が、湿った髪を撫でた。
騾馬の鼻息が、かすかに獣の音を残した。
年に数度、裏庭に山の獣の肉を卸して、屋敷の縁側から一言、二言だけ声をかけてもらう。それだけのことが、サルマンにとっては、なによりも幸せな時間だった。
一方で、街に下りる人の口から漏れる奥方の噂は、あまりいいものではなかった。淫らだの、夫の留守に男奴隷を引き入れているだの、怪しげな魔術に手を染めているだの、たちの悪い噂ばかりが届いた。
それでもサルマンには、どうすることもできなかった。
あるとき、いつものように鹿肉を背負って裏庭へ向かったサルマンは、屋敷の前に集まる人だかりに気がついた。
屋敷には兵が入り、大きな騒ぎになっていた。遠巻きに聞こえた野次馬の声は、奥方が魔術を使って主人に呪術をかけようとしたというものだった。
カレンの無事を確かめたくて、人垣をかき分け、止めようとする兵を押し避けて中庭に踏み込んだ。
中庭には、カレンが縛られて地面に座らされていた。数人の兵に肩と腕を押さえつけられ、屋敷の主人らしき男が顔を真っ赤にして呪術を掛けようとしたのだと罵り続けていた。
その横には魔術師の女が立ち、甕に溜めた水を手に呪文を唱えながらカレンに水を浴びせていた。
『これは、呪術をかけようとした酬いだ』
魔術師が嘲る声が庭に響いた。
カレンの絶叫が庭に轟き、白い首筋も腰も腕もぐにゃりと曲がり、骨の音を立てて縮んでいった。
縛っていた縄も衣も千切れて落ち、その場に残ったのは一頭の小さな騾馬だった。
サルマンは声を上げた。
『カレン──』
それだけを吐き出し、兵を突き飛ばし、槍を薙ぎ倒し、魔術師の女の顔を殴り飛ばした。
家人のひとりが、『あの男は奥様の不義の相手です』と叫び、主人が捕らえよと怒鳴った。
兵が殺到する中、サルマンは無我夢中で暴れ、気がつけば騾馬になったカレンを連れて屋敷を抜け出していた。
街を越え、誰も寄りつかない山奥に身を隠した。街にカレンを戻すこともできず、里に帰ることもできず、そのまま姿をくらまし続けた。
それでも、地母神様の噂を聞き、どうか人に戻せないかと、こうしてここに来たのだと小男は言葉を落とした。
騾馬が鼻を鳴らし、湿った土の匂いの奥に獣の息が滲んだ。
「お前、そんなに強いのかい」
思わず口をついて出た言葉だった。リーナは自分でも、唖然としていた。
サルマンはぼそりと息を吐き、小さく笑ったように見えた。
「……多分、人よりは強いと思います。山には虎もいれば大熊もいます。それくらいなら片手で倒せます」
背の低い、腰の曲がった小男がそんなことを口にするとは思わず、リーナは何を言っているのかと目を見張った。見た目には到底信じられない。
地母神の笑い声が泉の奥に響いた。
「まあいい。だが、呪術を解いてやらんでもないが、さっきまでのことを見ていたであろう。お前も供物を示せ」
地母神は面白がるように口の端を吊り上げると、目線を騾馬に落とした。
「その騾馬を犯してみせよ」
だが、サルマンが小さく首を横に振る。
「そんな恐れ多い。あっしのような男がカレンに触れるなど……」
「なんだ、愛おしむようなことを口にしていたが、動物になっては抱けんか。所詮は口だけか」
地母神の声が湿った土に沈むように冷たかった。
サルマンは、ぎこちなく息を吐いた。
「そんなことはありません。カレンに、あっしのような醜い男が手を触れるなど……やってはいけないことなんです。でも、カレンへの想いなら……伝えられます」
なにを言っているのかわからず、リーナは声が出なかった。サルマンは、ゆっくりと腰紐を解くと、ズボンと下着を足首までずらした。
「うわっ、なにをするんだい……」
思わず叫んだがサルマンは意に介さない。
曲がった背の奥で息を詰め、何も触れないのに、股間がゆっくりと脈を打って膨れ上がった。
「……カレン……カレン、カレン……カレン」
嗚咽のような声が泉の水音に滲んだ。
目の奥が泣きそうに歪んだとき、サルマンの股間から白い白濁物が勢いよく弾けた。
リーナは息を呑んだ。獣の鼻息のような吐息が、湿った土に溶けていった。
泉の奥の気配が、くぐもった水音とともに嗤った。
一度、土を揺らすような低い声がリーナの耳朶を震わせる。
リーナは息を呑んだ。
サルマンはなにも触れずに、ただ名を呼んだだけで男の証を吐き出したのだ。
信じられなかった。
思わず声が漏れた。
「……男が、何も触れずに……そんなこと、できるはずが……」
泉の奥から、地母神の声が湿った土を揺らすように響いた。
「お前の理など砂だ。あの男の芯に巣くった恐れと想いを啜り出してやっただけのこと。肉など理には従わぬ。畏れと欲が絡めば、穢れなど腸の奥からいくらでも吐かせられるのだろう」
リーナは口の奥が乾いたのを感じた。
サルマンの背は小さく震えている。
「……まあ、いずれにしても、確かに面白いものを見せてもらった。よい。願いをひとつだけ叶えてやる。言え──」
サルマンは一度息を詰め、間髪を入れずに声を振り絞った。
「……このお方を、人に……」
瞬きのあいだに、騾馬の全身が白い光に包まれた。
蹄と尻尾が溶けるように形を崩し、骨の軋む音が暗い空気に溶けた。
リーナは反射的に目を細めた。
光が消えると、そこにいたのは裸の女だった。
四十を越えているはずの肉体は、まだ女としての艶を十二分に残している。
サルマンは慌てて外套を脱ぎ、女の肩にかけようとした。
「カレン……これを……」
「このばかが──」
女──カレンは外套を跳ね飛ばした。
濡れた髪を振り乱し、サルマンを睨みつける。
「なんてことをしてくれたのよ。あんなことをして、お前はすっかりお尋ね者じゃないのよ。この馬鹿が──」
サルマンは俯いたまま、落ちた外套に触れることすらできなかった。
リーナも唖然とした。
呆気にとられたまま、カレンとサルマンを交互に見やった。
「……いい加減におしよ、カレン。さっきの話のとおりであれば、この小男がお前を冤罪で捕らえられたところを助けたんじゃないか。呪術で獣にされたのまで、全部……なにが不満なんだい」
カレンは鼻で息を鳴らした。
濡れた髪の奥の瞳が、どこか嘲るように光る。
「冤罪? 笑わせないでおくれよ。この男の話、騾馬のままでずっと聞いてたけど、あんた、かなり間違ってるよ」
サルマンは顔を上げかけたが、言葉を呑み込んだ。
「間違っているとは?」
リーナは言った。
「そもそも呪術をかけようとしたのは事実さ。あたしのあの夫は、女癖が悪くてね。愛人ばかり作って、妻のあたしをないがしろにしたんだよ。それで腹が立って、呪術を愛人ごとかけてやろうと思っただけさ」
リーナは息を詰めた。
サルマンの喉がわずかに動いた。
「でも……」
サルマンがなにかを言おうとした、しかし、それをカレンが遮る。
「性欲を持て余して男娼を屋敷に連れ込んだのも事実だよ。冤罪でもなんでもない。こんなあたしのために、あんたがあんな騒動を起こすなんて、馬鹿げてるね」
サルマンは苦しそうに俯いたまま、わずかに口を開いた。
「……そんなことは……カレンは、心の優しい女で……あんなあっしに、子供のころから……」
「馬鹿ね」
カレンの低い笑い声が、焚き火の奥で濡れた。
「そんなの、心が優しいって評判を作るためよ。あたしは子供のころから打算で動いてたんだよ。ちょっとやそっと里で可愛くたって、たかが知れてるだろう? だから、あんたみたいな醜い小僧に情を向けると噂が立てば箔がつく。利用してやったんだよ」
サルマンは言葉を失ったまま、拳を固めていた。
「……話を聞いてるとずいぶん美化してるみたいだけど、あたしはそんな女じゃないさ。悪女だよ。男娼を屋敷に連れ込んで、夫を呪おうとして逆に呪われた悪女だ。この馬鹿──」
カレンは吐き捨てるように言い、また鼻で息を鳴らした。
「本当に……なんてことをしてくれたんだろうねえ……。はあ、でも、仕方ない……。こうなったら、あんたに面倒みてもらうしない……。あの立ち回りには度肝を抜いたけど、あんた、何人の兵をなぎ倒したか覚えているの? よくも、あんなに大勢の兵に囲まれて、突破したものだよ。騾馬のあたしを連れて……」
「む、無我夢中で……」
「馬鹿──。あんなに強いなら、もっとやりようがあったでしょう。もっと出世できたかもしれないし。見てくれが悪くても、あれだけ強ければ、用心棒で雇ってくれる人もいたかもしれない。もっといい人生があったのに……」
「い、いや、あっしには、十分にいい人生で……。カレンが……一年に数回、声を掛けてくれて……幸せで」
「それが馬鹿っていうのよ。あたしが好きだったなら、そう言いなさいよ。馬鹿──」
カレンがサルマンに怒鳴る。
「い、いや、しかし……、あ、あっしみたいな、醜いせむしが……カレンになんて……」
「それが、馬鹿って言うのよ。ほら、来なさい。あたしの名前だけで射精できるなら、あたしを抱けるでしょう……。地母神さま、どうかあたしたちの供物をお受け取りください」
カレンがその場で横になり、脚を開いた。
「第七夜の……終わりでございます」
香が尽きたところで、サラは物語をやめて頭をさげる。
脚は閉じて正座になった。
「ふっ、明日の夜に会おう。妹は明日も生き延びる」
エスクラウディオが満足そうに立ちあがった。