……痕跡は、ないな。
あれだけのゴブリンの軍勢。
であるならば、それを指揮した存在がいてしかるべきだ。
具体的な数は数えられなかったけれど、ゴブリンの数はおよそ五十五はいたような気がする。
あり得ない数だ。本来ゴブリンは、十体ほどの小さな群れで生活する森の中の魔物。
それが肥大化して二十ほどの群れになることはまれにある。しかし、それ以上は行くとゴブリンたちの群れの管理能力を超えるはずだ。
本来その数になったところで、ゴブリンの群れは分裂するか、適当な数にまで減るかする。
ゴブリンには知性もある。学習能力があれば、彼らの操る言語体系だって存在している。
しかし人間ほどの家畜根性――つまり、自らを飼いならす穏やかさはない。豊かな森林で暮らしているゴブリンならばいざ知らず、この西方大陸で穏やかな生活をして生きていけるほどの森林は存在しない。なぜならばこの大陸の森林は、つい数千年前に形成された、ほんの数種の木々で構成された貧相な自然でしかないからだ。
そんな場所では、ゴブリンは狩りをして生きていくしかない。つまり、彼らの気性は荒くなるしかない。だから、彼らは平和のうちに団結することを知らない。
そんな奴らが、五十以上もの群れになって団結し、挙句の果てに、たった一つの馬車を襲う?
しかも、荒々しいとはいえ、二度に分けて攻めるという作戦まで立てて?
ありえない。この八十年の短い人生での経験ではあるが、そのような例は一度だって。
彼らの棟梁となるような変異体のゴブリンや、上位種の亜人の魔物の姿も見当たらない。
今だって、上空を飛んで魔力探知を凝らしている。しかしどこにも見当たらない。五十ものゴブリンを力で従えられるようなものが有するはずの魔力は、私の探知の範囲内にはどこにも……。
「あ」
他の奴がいたな。
馬だ。
魔力の方向を変え、自分の体をそちらの方へとゆっくりと押し出して、同時に浮遊魔法の出力をほんの少しだけ弱める。
そうすることで、目的の方向へ少しずつ向かいながら、滑空するように飛んでいける。
がささっ、と体が木々の中に突っ込んでいく。
うわっぷ。ぺっぺっ。口の中に葉っぱ入った。
地面に降り立つと、すぐ視界の向こうの、青い毛の馬が目に入る。
「おーい、二頭ともー、帰るぞ」
あー、怯えてるな。
というか私の顔覚えてないのか? それともそう言うの抜きにしてただビビってるのかな。
しょうがないか。
口に人差し指の第二関節をくわえて、息を吹く。
「ぴゅいーっ、ぴゅいっ」
はっ! とでも言うように、馬二頭が顔をびくりと上げてこちらを見てきた。
その調子その調子。
「ぴゅいぅーっ、ぴゅいっ!」
あっ、飼い主さんと同じ合図だ!
そんな感じに、二頭がとんとんっ、と木々の根を踏み越えてこちらへとやってくる。
その二頭の手綱をキャッチ。確保完了。
ふう。この二頭の馬たちが私の知る方法で調教されていてよかった。あの運転手さん、アフェティリヤ出身かと思ったけど、馬の調教法は帝国式か。調教師がまた別なのかな?
まあいいか。戻るか、馬車のところに。
×
「ライゼン、その調子だ。もうちょっとだけ押してくれ」
「う、んっ……! この馬車、結構重い……!」
「もうちょっとこっちかっ……ふっ……」
ライゼンが後ろから推し進めると同時に、馬車の横を押し、その方向を無理やり変えていく。
「よし、いったん止まって! 逆に回り込む!」
いったん馬車が路肩に入り込んだから、今度は逆から押してまっすぐにしなければ。
「ふんっ! たのむっ、ライゼン!」
「ふっ……!」
ぐぐぐっ、とライゼンの力で、馬車がゆっくりと進んでいく。
「よしっ、もう大丈夫だ! 止まって!」
「ふうっ……! 疲れたぁ……」
よし、これで路肩にまっすぐ馬車を寄せることができた。
どさっ、と音が聞こえる。
馬車の後ろを覗き込むと、ライゼンが地面にしりもちをついていた。
「威嚇でずいぶん闘気を使っちゃったか、ライゼン」
「うん……あれ、何もしてないように見えるけど、結構疲れるんだよ」
「そうじゃないと困るよ。あれだけの強力な技をノーリスクで使うだなんて」
「強力な技……別にちゃんとした技じゃないよ、あれ。ただめっちゃ怒るだけだし。でも別に怒ってるわけじゃないのに怒らなきゃいけないって結構疲れるよ……」
うーん、数十のゴブリンを一気に追い払っておいて、技じゃないとは……。
ランジュと言い、ライゼンと言い、このパーティのメンバーはみんな規格外だ。
それにそれで言えば、アンナも同じだ。彼女が使って見せた〈回復の奇跡〉は、本来人間一人が即興で使えるようなものじゃない。とても強力な〈奇跡〉の一種だ。とランジュが言っていた。
その当のアンナは、向こうでネライザさんと何やら喋っていた。
最初の方はおびえていたのを慰めるような感じだったけど、今は普通に話している。
あ、ネライザさんが笑った。アンナも、ニコニコしながら彼女の相手をしている。
傍から見ると、まるで姉妹のようだった。
というかなぜ会話ができているんだろうか。
さっきから、アンナもネライザさんも、またほかの、僕のなじみがない言語で会話をしている。
ランジュがネライザさんと話していた言葉とはまた違う響き……。
「あ、ランジュ帰って来た」
気が付いたようにライゼンが言った。
「え、ほんと?」
「あっち」
振り返ると、ランジュが街道の向こうから歩いてくるところだった。その傍らには、二頭の黒い馬を引き連れている。
「ほんとだ……でもライゼン、そこから見えなくない?」
「音」
「音かぁ……」
当然のように答えてみせてるけども……。
ライゼンのいるところからは、ちょうど馬車が隔てていて見れなくなっていた。
本当にライゼンはいろいろなものが鋭い。この気配を感じる力に今回も助けられたのだ。
ライゼンは立ち上がり、ランジュの方に駆け寄っていく。
「おーい、ランジュ! おかえりー!」
「あ、ライゼン、あ、っ、ちょ――――!?」
その途端、馬が大きな声をたてて暴れはじめた。
まさか。
ライゼンを見て、暴れだしているのか。
おそらく、あの威嚇のせいなのだろう。
ランジュが何やら指をくわえて口笛を吹き始める。
何をしているんだろうか。
「こらっ、落ち着いて! ぴゅいっ! ぴゅいいーーーっ!」
助けに行くか……?
と思ったら、馬が落ち着いた。
なんだからよくわからないが大丈夫らしい。
怯えた割にはずいぶんと聞き分けがよかった。
「運転手さん、持ってきたよ、馬」
「これはこれは、ありがとうございます!」
そこで馬車の点検を始めようとしていた運転手さんが、ランジュの方へ駆け寄っていく。
それから馬を受け取って、馬車へとつなぎとめる作業を始めた。
「馬車は大丈夫なんですか?」
「ええ、おかげさまで。多少不格好にはなりましたが、皆さんを隣町へ連れていくには十分ですよ!」
よかった。
これでようやく出発ができそうだ。
「アンナ、もう出発ができるみたいだ。馬車に乗ろう」
「あ、はい」
声をかけると、アンナはこくりとうなずいて、それからネライザさんに向かって一言二言、何かを離した。僕にはよくわからない言語で。
ランジュとライゼンが馬車に乗り込み、それからネライザさんとアンナが乗って、最後に僕が乗り込む。
それから間もなく、馬車は発進した。
「ねえ、アンナ」
馬車が動いてしばらくして、僕はアンナに聞いた。
「はい、なんでしょう?」
「ネライザさんと会話ができるのかい? あの言語のことが分からない、って言ってたと思うんだけど」
「ああ……さっきネライザさんと話していたのは、帝国語ですよ。ネライザさん、簡単ではありますけど、帝国語が話せるらしいんです」
「ああ、それでか」
僕は離せないが、帝国語は有識者たちのこの大陸での共通言語のようなものだ。
育ちのいいアンナはもちろん、ランジュも話せる。
ネライザさんも話せるとは驚きだった。僕よりも帝国領からは離れたところの出身だろうに。
「ああ、帝国語が話せるんだ」
横からランジュが会話に加わる。
「なんだ。それなら話が早かったのに」
「どういうことだい?」
「どういうことですか?」
僕とアンナの声が重なった。
「この子の出身の言語ってまあまあ文法が難しいからさ。帝国語だったら簡単だったのに。ネライザ、――――――」
ランジュが僕には理解できない音節を口から発する。
すると、ネライザさんは小さくうなずいて、何かを言った。
それを見て、ランジュが納得したように首を縦に振る。
「本当みたいだね。一体どこで習ったのか……。ますます気になって来たね。教えてくれないけど」
「一応聞いてたのか」
「うん。でもこの子、自分の出身地教えてくれないんだよね。何回も聞いたんだけど。口をつぐんじゃうんだよ。まあ、別に無理に聞き出すことでもないけど」
ふう、とランジュは息をついて、背もたれに体重を預けた。
いろいろと謎が多いな。
ネライザさんの方を見ると、彼女のまるっこくて大きな目が、僕と合った。
さっ、とそらされてしまう。まだ警戒されているのだろう。
ぎゅっとアンナにしがみついてしまった。
その頭を、アンナは笑顔でぽんぽんと撫でてやる。
言葉を理解できない、というだけでこれだけ壁ができるものか。
「帝国語、か。話せるようにならないと……」
ネライザさんと話したいから、というのもあるが。
そもそも、これから行く場所は帝国なのだ。もともとの魔王討伐のルート上でも、通らなければいけない場所だ。
僕の出身国、僕らの旅立った国は、名をアフェティリヤという。
そこで使われている言語は、エリニカ、という言葉だ。
それは帝国に支配される以前から存在していた言葉で、歴史のある言語の一つだ。
かつて帝国の支配下にあった時でも、いくつかの帝国語が流入してきただけで、互いに意思疎通ができるほどにはならなかった。
一応、帝国の中でもエリニカの言葉を話せる人は多いらしい。ので、そんなに気にすることでもないらしいのだが、できないよりかはできたほうがいいはずだ。
「でしたら勇者さま、今日からわたしがお教えしましょうか?」
「え、いいの?」
アンナはにこっと笑った。
笑顔がいつもまぶしい……。
「はい、もちろんです! 勇者さまのためですし!」
帝国につくまで、あと一週間くらいか。習得できるかどうかはわからないが、やらないよりはやったほうがいいはずだ。
それに、アンナに言葉を習えるのだ……。これ以上、いい理由はないだろう。
思わず頬が緩んでしまう。
「うん、じゃあ、お願いするよ」
「はい、任せてください!」
どうやら帝国につくまで、新しい楽しみができたようだ。