セフレガイル その2
一日のルーティンの内、最も重要なのは何か。自宅のリビングにて、ソファーにどっかりと腰掛けた少年......比企谷八幡は胡乱に思いを巡らせる。口から出るのは惰性じみた定番となりつつある言葉であるのだが、別段哲学や現代社会に対する問題意識があるという訳ではなく、単なる習慣に過ぎない。
この世の真理を問いたいとか大仰な事ではなく、ただ単に
『朝飯何食った?』
と訊くような気安さから来るものだ。答えの解っている質問に対して返ってくる答えもやはり同じものとなるだろう事は想像に難くないが、それでも問わずにはいられないのだ。
「あー......まじ眠ぃー......。」
手元の端末画面をタップすれば、無機質な時刻表示が目に入る。
ネットから提供された標準時間は間違いなく正確なのに、それが不快感を呈しているのは一つしか理由が無い......普通ならまだ夢の中に居るべき時間に意識を覚醒させられているからだ。
灯りも点けずにぼさぁっとしていると、直ぐにも睡魔が意識を蝕むのが感じられるようで、雑念を押し退けるように足に力を入れて発起した。
昨晩のうちに揃えておいた地味な色合いのジャージに袖を通し、鏡の前に立つとそこには眠たげな目をした冴えない男が一人佇んでいる。顔は身だしなみとしての最低限を繕ってあるが、人目を気にして日和るほど見た目に拘りは無い。
よし、と鏡に写る自分に対して小さく頷くと、比企谷八幡は玄関から外気へと身を躍らせたのだった......。
朝露の降りた木々の葉から、夏の匂いが漂う早朝の事。
総武近郊から少し離れた所にある、トーラス型の真新しい建築物──巨大な県立競技場の赤茶けた人工フィールドに整然と並んだ白線に沿うように走り続ける人影があった。老朽化した居住地の跡目として数年前に竣工したばかりのこの施設は陸上競技場の他にも大型体育館やプールが併設されており、大規模な公式大会にも使用できる程の設備を有している。また広大な敷地を利用した公園としても開放されて休日ともなれば家族連れが多く訪れる場所でもあるのだ。
特にイベントの無い時期は競技場の施設が一部解放されている事もあり、週末を迎えた人々が時間の経過と共に集まってきていた。
そんな施設の中で、青みがかった艶やかな髪を靡かせながら疾駆する長身の少女。
しなやかで強靭な引き締められた体躯を曝け出し、汗に濡れた瑞々しい肌を陽光が煌めかせる様は一幅の芸術品のようだった。
細腕に巻かれたスマートウォッチの液晶を時折見やりながら、走行ペースを調整しているらしい彼女は傍目からは大して消耗もしていないように見える。
軽快に走り続ける様子は後方から追いかけていた少年にとってはかなり速く、徐々に距離が開いていく。
男女の体力差から言って追い抜こうと思えばそれも可能だと思っていたけれど、長時間走り続けられるスタミナは圧倒的に少女に分があった。
半周近く差をつけたあたりで同伴者の不在に気付いた彼女は、遅々とした走りの相方が追い付くのをゆったりと待ってから「ごめん、速かったね」と謝れば、今度は少年の真横に付けるようなペースで走り出していた。
「意外と体力無いんだね、あんた」
「......悪かったな、普段あんま運動とかしねーからな」
運動神経は其処まで悪くない方だと思っていたけれど、それは平均的高校生から逸脱しないものであって、運動量のまるっきり違うアスリート志向には太刀打ちできないと痛感していた。
かれこれ三〇分ものあいだ高強度の運動に付き合わされた後、休憩所のベンチに崩れ落ちた少年とは対照的に、傍らに在る人物はあくまで涼しげに己の火照った身体を労っている。
ぴったりと張り付くように薄いトレーニングウェアは競技用規格みたいに被覆面積が少なく、そのままでは殆ど裸体と変わらないのだが、川崎はスポーツブラとスパッツを穿いており、辛うじて面積を増やしているような有り様だった。
しかし、炎天下で動き続ける事で発生する熱は張り出した柔肉の裏側に蓄積していたようで、汗で濡れたブラは重く変色して肌に張り付き、スパッツは深く食い込んで肉感的な尻の輪郭を克明に浮き上がらせている。
濡れた髪を手櫛で荒く搔き上げながらスポーツドリンクで水分補給をする姿は、まるで事後のようにも見えてしまうのだ。
そんな扇情的な姿態を曝け出した美少女がすぐ傍らに居るのだから......健全な思春期男子である比企谷八幡には目の毒だった。
「あちぃ」
「うん、暑いね......」
気怠そうに同意した彼女はそのまま隣に腰掛けるなり、胸元に指を掛けると、すっとその手を下げていく。
白い肌に浮き出た鎖骨の溝をなぞり降り、カップ部を強引に広げて熱気を外に放出させようと曝け出された重たそうな果実がゆさゆさと揺れ、その豊満な膨らみに翻弄される少年にとっては眼福であると同時に拷問にも等しい時間だった。
「......なんか出てるよ」
「え?」
衝撃的な光景を目に焼き付けている最中、突然指摘を受けた比企谷が慌てて顔を擦れば確かにぬるりと滑った感触がある......が、それは血ではなかったようだ。
どうやら興奮のあまり分泌された鼻水らしいと気付いた瞬間、妙に居た堪れない気分になった。
「あ......いや......」
気恥ずかしさと申し訳なさが相俟ったような反応は、気の置けない間柄であるにも拘らず、まるで初体験前後の童貞のようであり......そんな反応をする自分を客観視した彼は益々気まずくなってしまった。
「ふふ......何慌ててんのさ」
川崎はカラカラと声を立てて笑い、揺れる白い胸元がやけに淫靡に映る。
しっとりと濡れて輝きを増したような髪からは、爽やかな香りが匂ってくる。
先程まで運動をしていただけに濃密な女の香りに敏感になった嗅覚でもって現実を認識すると......もう駄目だった。
◇◇◇
何故態々休みの日にこんな場所まで来ているかと言えば、それは単に相方が望んだからだとしか説明出来ない。
運動は大して苦手でもなかったけれど、時間を費やしてまで体力錬成やらチームプレー意識の醸成なんてのが目的ではない。
だから、己を叱咤して早朝に異性と二人で競技場まで足を運ぶなんて事は、全く以て本意ではないのだ......と言い訳めいた事を考える。
想定外だったのは、川崎沙希という美貌の女子高生の内面には妙に気合いの入ったストイックさが同居していた事だ。一つの目標に対して徹底的に、貪欲に邁進する姿勢はなんだか見慣れてしまったような気もするが、色々と近しい関係故に距離感が迷走してしまう......果たしてまだぼっちと言えるかは疑問だ。
最初に出会った時の印象は、いろいろとデカい女だった......と思う。
......誰だ?
──あたしは川崎。川崎沙希。その様子だと覚えて無さそうだね。まぁいいや。それで、あんたの名前は?
......比企谷だ
辛うじて絞り出した返事をして、死んだ魚のような目と揶揄される眼球でその女子高生を見やる。川崎と名乗った少女は、鋭さの残る微笑を浮かべていた。
──ふぅん。あんたが噂のヒキタニくんか
......え?何それ。俺の事なの?
──あんた以外誰が居るっていうんだよ。この変態
変態?俺が?まぁ気持ち悪い奴だとは自覚しているけど。
......そうか。言いたきゃ言えばいい。それよりも俺なんかとはもう話さない方が良いぞ。お前まで低くみられるから
彼女の顔を見るには机に寝そべった姿勢だと首を上まで反らさねばならない。しかし、制服を押し上げる胸の膨らみが大きすぎて、つい見入ってしまった。
──はぁ?別に良いじゃん。どう思われようが関係ないし
......俺は迷惑だ。静かにしてくれ
それだけ言うと、再び机に突っ伏す。この学級には、いや学校全体には生徒のグループや上下関係が無数に存在しそれが一つのおおきなピラミッド階層を構築している。上に行くほど偉くて、下に行くほど酷い扱いの分かり易いもの。
その中でも比企谷八幡は全てから蔑まれ疎まれる嫌な奴という認識だ。
これでも中学生の時よりはマシだと断言できる。自分に関わったせいでそいつが評価を下げて欲しくないし、責任だってとれないからだ。
其処らの路傍の石よりもどうでもいい存在。
それが自分だった。
──分かったよ。話しかけないから安心しな
......ああ
......。
ブブブ...ブブ...
何処か、遠くで電子音が鳴っている......。携帯電話ではなく目覚まし時計の音かと一瞬思うものの、自宅にあるそれとは明らかに違う響きをしている気がした。
起きなければならないと、急速に浮上する意識の中で理解すると同時にゆっくりと瞼を開く。
「......知らない天井だ」
......言おうと思って出た言葉では無いけれど、状況によってはぴたりと合致するような台詞でもあるのだろう。
事実、それは見慣れた自室のものでは無くて色がついていたし、何だか形状も微妙に違うような......と。
其処まで考えて、浮かんだ疑念を解消するべく真横を見た。
果たして隣に裸の女が穏やかに寝息を立てていれば、あっという間に謎は氷解していた。
「......そうだ、昨日は川崎の家に泊まったんだった」
改めて周囲を見回せば、カーテンの隙間から差し込む陽光は既に朝を迎えていると告げており、寝台の横に置かれた電波時計に目をやれば時刻は午前六時を少し過ぎた所を示していた。
せっかくの休日だろうと昼間まで寝過ごす事の多い自分にしたら随分早い時間に起きたことになる。
これはこれで貴重な経験かも知れないと思いつつ身体を起こすと筋肉痛とは違う種類の痛みが全身を襲って顔を顰めさせた。
昨晩に味わった快楽の数々を思い出せば苦笑を禁じ得ないものではあったが。
薄手のタオルケットを申し訳程度に掛けられたその下は、当然一糸纏わぬ男子高校生の裸体が存在しているだけだった。
「......」
なんとなしにシーツに手を添えて見れば、さらさらとした肌触りの中にじっとりと湿った箇所とぬめりのある液体が飛び散った痕跡を見つけてしまった。
別に悪い事では無いと思うのだが、女性とは性的快感でこんなにも体液を分泌するのか、川崎が特別濡れ易いのかは分からないままだ......けれど気に入った相手との性行為で気持ち良くなれているなら嬉しくはある。
少なくとも自分だけ気持ちよくなって終わりという事にはならないだろうし。
ぽふ、と再び横たわると、天井を眺めつつ考える。
夏休みに入って早二週間程が経過しているが、最近は生活サイクルが固定化されてきた気がする。
川崎と会って、勉強して、セックスをする。
川崎と会って、筋トレやマラソン擬きに付き合わされて、セックスをする。
はたまたどちらかの家に泊まり込みで、日がな一日セックスに明け暮れる。
毎日何処かで互いの粘膜を擦り合わせて肉の悦楽に溺れているのだ。これを爛れてると言わずしてなんと言うのか。
脳裏には、人口増加を推進する出生対策庁の公告が思い出される。
『──先のパンデミックにより、我が国の男性人口は著しく減少しました。その為現在国内の婚姻率及び出産率は共に低迷しています。ついては国民各位におかれましては、特に生殖機能に問題が無いと判断された適齢期の男女には引き続き積極的な性交活動を行って頂きますよう......』
もう耳にタコができる程に聴かされたフレーズではあるのだけれど、行政からの注意喚起に従わないのは犯罪だという法律があるため一応守っておく必要がある。
妊娠・出産に向いている健康な若年女性に対して圧倒的に少ない適正男性数は一見釣り合っていないように思えるが、寧ろ人口増加効率から言えば女が多いほうが有利らしい。一度妊娠すれば出産まで孕む事はない以上、誰かを妊娠させたらまだ妊娠していない女性と次々に子作りに励む事が推奨されていたりする訳だ。
なんとも動物的で即物的な繁殖計画だけど世の中そんなもんなのだろう。
現時点の国力を維持し発展させ続けて行くためには必要なシステムなのかもしれない。
そんな事を考えていると、横あいからの視線を感じた。
顔を向けなくて分かる程度に慣れ切った感覚に身を任せれば、影が覆い被さってきたのが分かった。
頬に軽く掌を当てられて温もりを感じる。それから優しく撫でられてしまえば目を開けざるを得ないというものだ。
至近距離に迫る整った顔貌は、冷たさを滲ませる瞳に反して表情自体は柔らかいもので慈しみさえ感じられた。
「じゃ、ヤろっか」
その手の挨拶にしては余りにも情緒に欠ける誘い文句だったが、応じる自分も大概だなと思ったりした。