セーフハウスの窓から差し込む早朝の光が眩しい。浅羽悠真は瞼を一度ぎゅっと閉じた。それから渋々薄目をひらく。隣には数刻前まで共にシーツに包まれていた女の温度が、まだ
月城さん。先に出たんだ。
悠真は隣に広がる空白の布に爪をたて、引っ掻いた。独特な布擦れの音がする。短く切った爪が摩擦で熱を持った。
昨夜、ここで共に横たわっていた彼女──月城柳は悠真を受け入れ、四肢を曲げたり伸ばしたり、背中を逸らしたりして、息の抜けるような声をこぼした。悠真も、伸ばされた手に指を絡め、動きを合わせ、彼女から与えられるぬくもりを享受し、自らも与えた。そうやって何度も何度も互いの名前を呼び合う時間を過ごした。
初めて、互いの一番深いところまで知った夜だった。
月城さんの体、きれいだったな。
都会の冷たいビル群に囲まれた一室では、カーテンの隙間から入ってくるのは星々の光ではない。街灯とネオン。闇が訪れた世界で、人々が光を忘れないように造った煌々とした光だ。それが、月の名を冠する彼女の全てを艶めかしく照らした。悠真の手によって姿を変える彼女の輪郭は青白く、薄紅色の長い髪は乱れ、風に舞う夜桜よりも儚く──。
悠真は繰り返しシーツを引っ掻いた。ここに跡はつかないが、自分の背中には彼女がつけた
次は、いつ。
会えるだろうか、二人きりで、恋人として。
数時間後には悠真もこの部屋を出て、オフィスに向かう。そして、上司という立場で背筋を伸ばして待っている彼女と顔を合わせるのだ。「今日は、遅刻しませんでしたね。良い心がけですよ。引き続きよろしくお願いします」時間通りに出勤すれば、そんな言葉をくれるのだろう。
しかし、悠真が求めているのはそうではない。
あの青白い輪郭が描いた曲線に口を添え、赤い花弁を増やしたい。絡まる桜色の髪を乱したい。自分の名を呼ぶ声が聞きたい。
僕、今、
「っ」
ぴた、とシーツを引っ掻いていた手が止まった。思い起こした夜の記憶によって、再び腹の下に熱が籠る。
どうしようか。そう思いながらも悠真の手はその熱の根源へと伸びていた。ボクサーパンツの上から硬くなった自身に触れれば、布越しからでも熱を持っているのが分かる。
これ、このままだとさぁ。
この熱を携えたまますぐに朝支度をはじめるのは難しい。だからといって柳との情事を欲の捌け口にしていいものだろうか。悠真は口の中をもごもごと動かして逡巡した。こんなことをしているうちに時間だけが過ぎて、「また遅刻ですか」とため息をつかれるのも不本意で。
月城さん、ごめん。
悠真は下着を太腿の半ばまで下ろすと頭をもたげる熱をゆるく握った。親指と人差し指で輪をつくり
「ん、っ」
空気と唾を同時に飲み下す。思い浮かべるのは一糸纏わぬ柳の姿。悠真の手によって形を変える柔く豊満な乳房。
いや、光を頼りに暴いていったのは他でもない悠真自身だ。
──僕は、べつに。
悠真にとって柳との数刻前の触れ合いが、物足りなかったわけではない。むしろ満ち足りた夜を追体験したいという願望がこうして滾るような熱に変わっている。
「ふっ、は、ぁ、っ」
親指の腹をペニスの先に添えてやわやわと揉めば敏感なそこが繰り返し刺激され、悠真もそれに合わせて息をこぼした。
月城さん、月城さんっ。
親しみ深い呼び方で柳を求める。
こうして夜伽に思いを馳せ、慰めに耽ってはいるが、悠真には一抹の懸念があった。
僕が触って、痛くなかった、ですか。
目が覚めたら訊こうとしていた質問を、胸のうちで投げかけてみた。返事など返ってくるわけでもないのに、丁寧に、いつも彼女と話すときのように。
悠真は女の取り扱いに心得がないわけではない。かといって世の男が何人の女を抱けば平均的や、一般的と呼べるのか、適当に答えるならまだしも正確な数字など知る由もない。
ただ一つ言えることは、人一倍、今までの誰よりも繊細に柳に触れたということ。
桜の薄い花弁は、指先で軽くつまむだけでも
あれは、到底、大人として人肌に慣れている様相ではなかった。
悠真の知る限り、月城柳という人間の言動は基本的にぬかりない。もし処女であれば彼女なら事前申告を怠らないはずだ。そうでないのならば、可能性として考えられるのは、性交に良い思い出がない、ということ。
紫紅の花に露をのせたように潤んだ瞳を見てしまい、悠真は一度、肌に触れるのをやめた。
嫌われたくない、裏切りたくない、ヒドいと思わないで、変わらず愛して、震えるあなたを見ても求めてしまう──こんな男だけど。そう思う一心だった。行為に及ぶ前のほんの一瞬、理性が勝ったのだ。
結局、悠真が最初に触れた箇所は、柳の長く桜色をした
「ぅっ、ん、はっ──はっ、ぁ」
ベッドに
月城さんの声、また聞きたい。本当は、もっと。僕の、こんな、ダサいヤツじゃなくて!
みっともない自身の喘ぎ声など、できることなら耳に入れたくもない。悠真は、現実逃避するように柳がどのような声をあげ、乱れていたかに集中した。
ベッドの上で喉を反らし精一杯口を開く柳は、呼吸を忘れ、溺れているようだった。悠真が蜜壺へと挿入しているときも「ぁ、あぁっ」とあられもない声で喘ぎつづけていた。それには甘い熱が、たしかにこもっていたように思えた。
柳との行為が進んでいくにつれ、大きくなっていく彼女の声に、悠真は強く欲情していた。こうして思い浮かべる今でさえ、より一段と分身が膨らむ。包んでいる手が、熱い。
「は、はっ、ぁ、ん、くっ」
悠真は再び竿を下から上へと扱きはじめた。最初にくらべ手の動きは速い。何度も往復するうちに、いつの間にか快感に引っ張られ夢中になって触っていた。もうまもなくすれば、くすぶりから始まり後ろめたさを孕んだ欲が、体外へと吐き出される。
僕の名前、またたくさん呼んで欲しい。それで、次は、次は──。
ぴくっ、と、悠真が持て余していたもう片方の手が動いた。ベッドボードに手を伸ばし、箱ティッシュから数枚、無造作にむしりとる。
しかし亀頭をすぐには抑えず、ティッシュを握り締めた手で睾丸を緩やかに慰めた。
もし叶うなら、次はこっちも触れてはくれないだろうかという欲望が淫靡で、暗いところへと悠真を引っ張っぱったのだ。
こんなことしてって、思ってるのに。
僕も、あなたの名前。
あぁ、でも。
今は、
「くっ、ふく、かちょうっ……────ッ!」
背徳感でぞくぞくと背中が震え、反対に下腹部は熱を吐き出す。どくどくと脈打つ竿に手を添え、反対の手はティッシュを掴んで先端を抑え、欲を受け止めた。抱いたあとだというのに、思ったよりも長く
結局、呼んだのは、名前ではなかった。この後に及んで役職名で呼ぶなど、と罪の意識がより一層悠真を苛む。
悠真は、はっぁ、と大きなため息をついた。そして、再び息を吸った瞬間、ゲホッ、ごほっと激しく咽せた。肩で口を抑え、なんとかして咳をおちつかせる。
「っ僕、さいあく」
独特な匂いが鼻につく。白濁で汚れたティッシュを片付けて、悠真は一人ごちた。熱は冷めた。明けきらずぼやけていた外が、賑やかさをとりもどす時間になると同時に。
「薬、飲まないと」
その前にシャワーか。不快感を伴うと知っていながらもボクサーパンツを履きなおすと、悠真はベッドから這い出た。
ふらふらと洗面台へと向かう。これから会う恋人にどんな顔を向けたら良いかを考えながら。
了