元アイドルの人妻が越してきたのは「子宝マンション」。だが管理人と住人たちの優しさは、やがて甘美な“しつけ”へと変わっていく。首輪、給餌、ご褒美——溶けていく理性と日常。狂気と幸福が絡み合う調教系サイコサスペンス。

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蜜室の調律 ~子宝マンションの秘密~

 

【三月十五日 午後二時 子宝マンション 203号室】

 ねえ、あなた。

 覚えてる? 私たちがこのマンションに越してきた日のこと。

 二〇二五年の三月、桜が咲き始めた頃。引っ越しのトラックが着いて、段ボールを運び込んで、新しい生活が始まるって、二人でわくわくしてた。

 

「子宝マンション」

 

 変な名前だよね、って笑ってた。でも家賃は手頃だし、築浅で設備も整ってる。駅から徒歩五分。IT企業でリモートワークしてるあなたにも、元アイドルで今は専業主婦の私にも、完璧な物件だって。

 

 今思えば、最初から違和感はあったんだ。

 

【同日 午後三時 エレベーターホール】

 エレベーターで最初に会ったのは、五階の女性だった。

 二十代後半くらい。すごく綺麗な人。でも目が……なんていうか、人形みたいだった。

 

「初めまして、二階に越してきた——」

 

 私が挨拶しても、ただニコニコして、小さく頭を下げるだけ。

 そして、変なことを言った。

 

「おやつの時間、もうすぐ」

 

 えっ? って聞き返す前に、エレベーターが五階に着いて、彼女は降りていった。

 七階の女性とも廊下ですれ違った。元モデルかな、って思うくらいスタイルが良くて。でも彼女も首に……首輪? いや、チョーカーか。でも、妙に太くて、金具が。

 

 あなたは気にしてなかったよね。「個性的な人が多いね」って。

 

【同日 午後五時 203号室 玄関】

 ピンポーン。

 

 引っ越して三時間。まだ段ボールも開けてないのに。

 

「管理人の榊です。ご挨拶に伺いました」

 

 ドアを開けて、息を呑んだ。

 

 小さい人だった。百五十五センチくらい? 私より頭一つ低い。でも横幅は……倍以上ある。白いワイシャツが汗で透けて、お腹の形がくっきり見える。薄い髪を七三に分けて、整髪料でべったり固めてる。厚い眼鏡の奥から、小さな目がじっと私を見てる。

 

「美咲さん……ですね。元『ピュアリーズ』の」

 

 なんで私のグループ名を知ってるの。

 

「母が、大ファンでした」

 

 榊さんが、にこにこ笑う。

 

「亡くなった母が、毎日DVDを見てました。『美咲ちゃんが一番可愛い』って」

「僕も一緒に見てました。小さい頃から」

 

 じわっと汗が額に浮かぶ。それを、ハンカチで拭く。

 

「とてもお綺麗だ。母が見たら、喜んだでしょう」

「このマンションにぴったりです」

 

 一歩、部屋に入ってくる。断れなかった。あの圧迫感。距離の近さ。甘い体臭……お母さんの化粧品の匂い?

 

【同日 午後五時三十分 203号室 リビング】

「設備の説明をさせていただきます」

 

 榊さんは部屋中を歩き回った。汗をポタポタ垂らしながら。

 

「照明はこちらで調整できます」

 

 勝手に照明を落とす。薄暗くなる。

 

「母が、明るい光が苦手でした。『優しい光の方が、女性は美しく見える』って」

「ほら、美咲さんも、この方が肌が綺麗に」

 

 確かに、蛍光灯の青白い光より、温かみがある。

 

「空調は二十三度で固定です。女性に最適な温度です」

「アロマディフューザーも設置済み。バニラとジャスミンのブレンド」

「母の好きな香りでした」

 

 甘い香りが部屋に広がる。懐かしいような、不思議な香り。

 

【三月二十二日 午前十時 203号室】

 一週間が過ぎた。

 

 榊さんは毎日来る。

 

 朝十時。「朝ごはん、ちゃんと食べましたか」

 午後二時。「おやつの時間です」

 夕方六時。「夕飯前の点検です」

 

 断れない。断る理由が見つからない。

 

 今日も、榊さんが紙袋を持って立ってる。

 

「美咲さん、これ」

 

 中身は、プリン。手作りみたい。

 

「母のレシピです。『いい子にはご褒美』って、よく作ってくれました」

 

 榊さんが、スプーンですくって、差し出す。

 

「はい、あーん」

 

 えっ? 自分で食べるから——

 

「母も、こうやって食べさせてくれました」

「四十歳まで」

 

 四十歳?

 

「母が亡くなるまで、ずっと一緒でした」

「母は僕だけを愛してくれた。僕も母だけを愛してた」

 

 スプーンが、唇に触れる。

 甘い。すごく甘い。

 でも、美味しい。

 

「いい子ですね、美咲さん」

 

 頭を、撫でられる。

 大きな手。べとべとしてる。

 でも……なんだろう、この感覚。

 

【三月二十九日 午後二時 203号室】

 二週間目。

 

 もう外に出られない。

 

 いつからだろう。玄関のドアノブに手をかけると、動悸がする。

 外が怖い。理由は分からない。

 

「外は危険ですよ」

 

 榊さんが言う。おやつのプリンを食べさせながら。

 

「排気ガス、紫外線、悪い男たち」

「美咲さんみたいな美人は、狙われます」

「ここが一番安全」

 

 また、あーんって。

 もう慣れた。

 むしろ、自分で食べるより美味しく感じる。

 

「母も、外が嫌いでした」

「『家族だけいればいい』って」

「だから僕も、学校以外は家にいました」

「友達はいらない。母がいれば」

 

 榊さんの目が、潤む。

 

「でも、母は死んでしまった」

「僕を残して」

「だから僕は、新しい家族を作ることにしたんです」

 

【四月五日 午後六時 7階 共用ラウンジ】

 三週間目。

 

「みんな、集まって」

 

 榊さんの声で、住人が集まる。

 五階の女性、七階の女性、三階の主婦。

 

 みんな、床に座ってる。

 正座して、手を膝に置いて。

 

 私も、気がついたら同じ姿勢。

 

「今日は、しつけの時間です」

 

 しつけ?

 

「まず、お返事の練習」

「名前を呼ばれたら、『はい』と答える」

 

 榊さんが、五階の女性を見る。

 

「令子」

「はい」

 

 即答。明るい声で。

 

「いい子」

 

 榊さんが、令子さんの頭を撫でる。

 令子さん、すごく嬉しそう。

 尻尾があったら振ってそうな。

 

「美咲」

 

 私の番。

 

「……はい」

 

「声が小さい。もう一度」

 

「はい!」

 

「いい子」

 

 撫でられる。

 気持ちいい。

 なんで、こんなに気持ちいいんだろう。

 

【四月十二日 午前十一時 203号室 リビング】

 一ヶ月が過ぎた。

 

 今日も、榊さんが来てる。

 

「美咲、おいで」

 

 呼ばれて、膝立ちで近づく。

 いつから、こんな風に動くようになったんだろう。

 でも、立って歩くより、この方が落ち着く。

 

「今日は、首輪をつけましょう」

 

 榊さんが、箱を開ける。

 赤い革の首輪。金具がキラキラしてる。

 

「母も、赤が似合いました」

「美咲にも、きっと似合う」

 

 首に巻かれる。

 ひんやりした革の感触。

 カチッと、金具が鳴る。

 

「可愛い」

 

 鏡を見せられる。

 

 私、いつからこんな顔してるの。

 とろんとした目。緩んだ口元。

 首輪が、妙に似合ってる。

 

「これで、僕のものだって分かる」

「迷子にならない」

 

 榊さんが、リードをつける。

 

「散歩の練習をしましょう」

 

 四つん這いで、部屋を歩く。

 リードに引かれて。

 

 あなたは、ソファで見てる。

 何も言わない。

 ただ、にこにこして。

 

「旦那さんも、賛成してくれてます」

「ね、美咲はみんなに愛されて、幸せ」

 

【四月十九日 午後二時 7階 榊の部屋】

 五週間目。

 

 今日は、榊さんの部屋に呼ばれた。

 他の女性たちも、みんないる。

 

 部屋中に、写真が貼ってある。

 女性の写真。同じ人? いや、年齢が違う。

 でも、みんな同じような顔立ち。

 黒髪で、優しい目をして。

 

「母です」

 

 榊さんが言う。

 

「二十歳の母、三十歳の母、四十歳の母、五十歳の母」

「ずっと一緒でした」

「母は僕に言いました。『ずっと一緒にいようね』って」

「でも、死んでしまった」

 

 榊さんの目から、涙が。

 

「だから、探したんです」

「母みたいな人を」

「優しくて、美しくて、僕だけを見てくれる人を」

 

 私たちを、見回す。

 

「みんな、母に似てる」

「令子は、目が似てる」

「香織は、髪が似てる」

「そして美咲」

 

 私の頬に、手を当てる。

 

「声が、そっくり」

「『ピュアリーズ』のDVDを見るたび、母だと思った」

 

 だから、私を。

 

「みんな、僕の家族」

「もう離さない」

 

 首輪のリードを、ぎゅっと握る。

 

【四月二十六日 午後三時 203号室】

 六週間目。

 

 もう、言葉が出にくい。

 

 難しいことが、考えられない。

 

 でも、簡単なことは分かる。

 

 榊さん、好き。

 撫でられるの、好き。

 おやつ、好き。

 首輪、好き。

 

「美咲、ご飯の時間」

 

 呼ばれて、駆け寄る。

 四つん這いで、できるだけ速く。

 

 床に置かれた、お皿。

 可愛いピンクのお皿。

 『みさき』って、ひらがなで書いてある。

 

 中身は、ちゃんとした料理。

 でも、手を使っちゃダメ。

 口だけで食べる。

 

「いい子だね、美咲」

「全部食べたら、ご褒美」

 

 ご褒美。

 その言葉で、体が熱くなる。

 

 頑張って、全部食べる。

 顔中、汚れちゃうけど。

 

「よくできました」

 

 顔を、拭いてもらう。

 優しく、丁寧に。

 

「ご褒美は、お昼寝」

 

 榊さんの膝枕。

 大きくて、柔らかくて、温かい。

 

 頭を撫でられながら、うとうと。

 

 幸せ。

 

 これが、幸せ。

 

【五月三日 午前十時 203号室 玄関】

 七週間目。

 

 新しい人が来た。

 

 二〇四号室。

 隣。

 

 若い女性。

 元CAだって。

 綺麗な人。

 不安そうな顔。

 

「初めまして」

 

 私、挨拶する。

 首輪つけたまま。

 でも、恥ずかしくない。

 これが普通だから。

 

「子宝マンションへ、ようこそ」

 

 彼女が、私の首輪を見る。

 顔が、青ざめる。

 

 助けて、って言いたい。

 心の奥で、まだ残ってる私が叫んでる。

 

 でも、口から出るのは。

 

「榊さん、とってもいい人」

「可愛がってくれる」

「ご飯も、おやつも、くれる」

「撫でてくれる」

「幸せ」

 

 簡単な言葉しか、出ない。

 

 彼女が、後ずさる。

 

 でも、後ろから榊さん。

 

「新しい家族ですね」

 

 にこにこ。

 汗を拭きながら。

 

「とてもお綺麗だ」

「母に似てる部分がある」

「鼻の形が、そっくり」

 

 彼女の肩に、手を置く。

 

「大切にしますから」

「みんなで、家族になりましょう」

 

 私たち、囲む。

 令子も、香織も、他のみんなも。

 

 にこにこして。

 首輪して。

 幸せそうに。

 

「一緒に、遊ぼう」

「楽しいよ」

「考えなくていい」

「榊さんが、全部決めてくれる」

 

 彼女の目に、涙。

 

 でも、もう遅い。

 

 ここに来たら、出られない。

 

 みんな、家族になる。

 

【五月十日 午後二時 203号室】

 八週間。

 

 鏡を見る。

 

 誰?

 

 あ、私か。

 

 首輪してる。

 赤くて、可愛い。

 

 榊さんがくれた。

 

 大事。

 

 ねえ、あなた。

 

 ……あなた?

 

 そこにいる人。

 誰だっけ。

 

 知ってる人。

 大事な人。

 

 でも、名前が。

 

 榊さんに聞こう。

 

「榊さーん」

 

 呼ぶと、来てくれる。

 

「どうしたの、美咲」

 

「この人、誰?」

 

 あなたを指差す。

 

「旦那さんだよ」

「美咲の家族」

 

 家族。

 

 そっか。

 

 榊さんも家族。

 みんな家族。

 

「美咲、おいで」

 

 呼ばれて、駆け寄る。

 撫でてもらう。

 

 気持ちいい。

 幸せ。

 

 外?

 何それ。

 知らない。

 

 ここが全部。

 ここが世界。

 

 榊さんと、みんなと、一緒。

 

 ご飯食べて。

 おやつ食べて。

 撫でてもらって。

 お昼寝して。

 

 それで、いい。

 

 それが、いい。

 

 難しいこと、いらない。

 

 ただ、いい子にしてれば。

 

 榊さんが、褒めてくれる。

 

「美咲は、母に一番似てる」

「声も、仕草も」

「母が、戻ってきたみたい」

 

 嬉しい。

 

 褒められて、嬉しい。

 

 尻尾があったら、振ってる。

 

 でも、ない。

 

 代わりに、すりすり。

 榊さんに、すりすり。

 

「いい子、いい子」

 

 ずっと、このまま。

 

 ずっと、ここで。

 

 ずっと、家族と。

 

 あ、新しい人の声。

 

 二〇四号室の人。

 

 もう、首輪してる。

 

 早いね。

 

 でも、いい。

 

 みんな、家族になる。

 

 みんな、幸せになる。

 

 榊さんが、そう言ってる。

 

 だから、そう。

 

 ねえ、あなた。

 

 私、幸せだよ。

 

 返事、して?

 

 ……。

 

 しなくても、いい。

 

 榊さんが、いるから。

 

 榊さんが、全部。

 

 

 

 おわり


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