【ネバー・フォーゲット】結束バンド”解散”後の彼女たち 作:電柱保管
天才だって信じていた。
物心がつく頃から親に習わされていたバイオリンを中学でやめると、かわってロックに傾倒しはじめた。最初は聴くだけだったが、そのうちギターを弾きだした。すぐに上達した。興味がベースに移ってからもみるみる腕をあげた。バンドを組んでからは作曲もはじめ、編曲もこなすようになった。曲も演奏も周囲の評判は上々だった。
高校生になると、バンドでライブハウスに出演しはじめた。それなりにファンもついていたと思う。曲が作れて音楽の素養もある私はほかのメンバーから一目置かれていたし、もちろんベーシストとしての実力も認めてもらっていた。下北沢界隈のバンドマンのあいだでは、山田リョウという名前はそこそこ知られていたはずだ。
私には音楽の才能がある。だからプロのミュージシャンになれる。そう思っていた。
ライブを続けていればどこかのレーベルからスカウトされるかもしれない。あるいはオリジナル音源がレコード会社のコンテストやオーディションに通るかもしれない。そう考えてバンド活動を続けていたから、高校卒業後に進学したり就職したりするつもりもなかった。
音楽の才能に恵まれた人間がプロになる。それは当然のなりゆきだと思っていた。そして才能ある者が作った音楽は、必ず世の中に広まっていく。私が作って演奏した楽曲も、きっと多くの人の心を揺さぶるに違いない。CMやタイアップに使われるかもしれない。私は何万人もの観客を動員する会場でライブをやり、大きなフェスにも参加するだろう。テレビの音楽番組に出たら、昔、金欠のあまり野草を食べていたエピソードなんかを話したらウケるんじゃないか。そんなバカなことまで考えていた。
自分には楽器の才能も、生まれ持ったセンスの良さもある。もちろん音楽やバンド活動が好きで、愛してもいる。だから私はプロのミュージシャンになる。そう信じていた。バカみたいに、信じていた。
あの子と出会うまでは。
*
SNSを開くと、バンドの公式アカウントで私の脱退が発表されていた。
「応援してくださる皆様へ」から始まる文面は、ベーシストの山田リョウが本日付けでバンドを脱退すること、その理由として、バンドとしてのさらなる成長を目指す中で山田が別の道を歩む決断に至ったこと、そして突然の報告となり申し訳なく思うとともに、バンドは当面サポートメンバーを迎えて今後も活動を続けていくことなどを如才なく伝えていた。
お知らせには私個人からの短いメッセージも付されていて、そのなかで私は、ファンへの謝罪やバンドへの感謝を語りつつ、今後もなんらかのかたちで音楽活動を続けていくつもりであると決意表明していた。内容は事前に同意したものだけど、文面を決めたのは別のメンバーだ。キーボードの女がAIに作らせたらしい。
まあ、どうでもいい。
私はスマートフォンをテーブルに伏せると、頬杖をついて短く息を吐いた。なんとなく店内を見渡す。午後五時。閑散としていた。一組目の出番は午後七時からで、開演までまだ時間がある。リハーサルもひととおり終わっているから、ステージ上にバンドはいないし、もちろん観客もいない。ライブハウスにあるまじきこの静寂な時間が、私は意外と好きだった。
「ちょっとお客さん、勝手にたそがれないでもらえます? まだ開店前なんですけど」
つんけんした声が背後から聞こえてきた。振り向くと、スタッフジャンパーを羽織った小柄な女が腰に手を当てて目の前に立っていた。
「……なんだ、虹夏か」
私は姿勢を戻して気だるげに片手を振る。星歌さんならともかく、虹夏なら怖くもなんともない。
「別にいいじゃん、私だって元店員なんだし。ていうか虹夏こそ、こんなところで油売ってないで働きなよ」
「あんたねえ……」
盛大なため息が聞こえてきた。
伊地知虹夏。ここライブハウス「STARRY」の店員で、いまは実姉であり店長でもある星歌さんを手伝って、日々のイベント業務を取り仕切っているらしい。私とは中学からの友人であり、つまりは気の置けない仲ってわけだ。
「早く来すぎちゃってさ。ほかに行くところもないし、ライブ始まるまでちょっといさせてくんない? あ、チケット代は今度払うから」
「『フラノイ』、抜けたんだって?」
虹夏は私の減らず口を無視して隣に座ってきた。私は頬杖をついたまま、おもわず顔をしかめた。
……なるほど、例のSNSを見て声をかけてきたのか。「フラノイ」というのは私が昨日まで在籍していたバンドの略称だ。フラワーノイズを略してフラノイ。
心配そうに顔をのぞきこんでくる虹夏から、私はすっと目をそらした。
「……まあね。『音楽性の違い』ってやつ?」
また虹夏のため息が聞こえた。今度はさっきよりも大きい。
「……バンド辞めるの、これで何回目?」
「七……いや、五回目くらいかな」
正直言うと、正確な数は覚えていない。最近はひとつのバンドに留まる期間も短くなっている。以前はもう少し我慢もしていたのだが、今回は半年足らずで袂を分かってしまった。
ここ数年、私はこんなふうにバンドへの加入と脱退を繰り返していた。おかげで下北沢と新宿のバンド界隈で顔見知りは増えたが、同じくらい私のことをよく思っていないやつもいると思う。この業界、根無し草みたいにいくつものバンドを渡り歩くやつはたいてい信用をなくす。やたらと所属政党を変える政治家みたいなものだ。
でも、私だって好きこのんでいくつものバンドと喧嘩別れしているわけじゃない。
「フェスのオーディションに落ちた。そのタイミングでメンバーが何人か就職決まって、ハンドのほうはこれから兼業でやっていくことにしたんだってさ。だったら私がいる意味ない」
「……そっか。もうそんな時期なんだね」
小言を言われるかと思ったら、やけにしんみりとつぶやかれてしまった。横目でうかがうと、虹夏はさみしげな、それでいてどこか清々したような、複雑な表情を浮かべてうつむいていた。フェスと聞いて、
高校時代、虹夏も私と一緒にバンド活動をしていた。フェスのオーディションにも一度だけ挑戦したことがある。十代アーティスト限定のロックフェスで、私たちはデモ審査とWeb投票を勝ち抜き、ライブ審査まで駒を進めた。しかし残念ながらファイナルステージにはあがれず、その後、私たちはバンドを解散した。
それ以降、虹夏はバンド活動をやっていない。高校卒業後は大学に進学したが、音楽サークルみたいなところには入らなかったらしい。家業のライブハウスを手伝っているという意味ではいまも音楽に関わっているものの、人前で楽器を演奏することはほぼなくなっていると思う。
いっぽう私のほうはメジャーデビューを目指していまも音楽活動を続けている。ロックフェスの一般公募オーディションはプロへの登竜門だから、毎年欠かさず参加してきた。……今年は映像審査の段階で落とされてしまったが。数千組の応募に対し出演できるのはわずか十組前後という狭き門だけあって、さすがにそううまくはいかない。
私の音楽活動がここのところ停滞していることは、当然、虹夏も承知している。だから身勝手な私の行動を強く非難もできないのだろう。
とはいえ、親友に妙な気遣いをされるのも、それはそれで気まずい。
「……まあ、そういうわけだからさ。腕利きのベーシストを募集してるバンドがあったら、紹介してくれていいよ」
だから私はわざと冗談めかして言った。まあ、いいバンドがいたら一緒にやりたいのは本心だが。
「……自分で腕利きとか言っちゃいますか」
現金な目線を送ると、虹夏がフッと頬を緩ませた。そのときだった。
「虹夏さーん、ちょっといいですかー?」
ステージのほうから声が飛んできた。虹夏と私は同時にステージのほうへ振り向く。フロアモニターの横に立った若い男がこちらへ大きく手を振っていた。
「すいませーん、ちょっと見てもらいたいんですけど」
たぶん、アルバイトのスタッフだろう。今日のライブのディレクターである虹夏になにか確認をしてもらいたいらしい。
「あっ、はーい」
ようやく自分の役目を思いだしたらしい虹夏が背の高い椅子から飛び降りる。ジャンパーの裾がはためいた。着地した拍子に、ポケットから薄い紙ケースのようなものがこぼれ落ちた。
「虹夏、なんか落としたよ——」
私は反射的に席を立って、虹夏の落とし物を拾いあげた。錠剤のシートのようだった。紙のカバーに印字された品名が目に入り、私はおもわず動きをとめた。
表情を固めた私に気づいて、虹夏も事態を察したのだろう。
「……あっ!」
虹夏は血相を変えて私に詰め寄ると、私の手から薬のシートを奪いとった。
「あ……」
「ダ、ダメッ!」
虹夏は錠剤シートを隠そうと、大あわてで胸に抱く。けれど私には、それがなにかもうわかってしまっていた。昔、一緒のバンドにいた子が同じ薬を飲んでいたのだ。
「えっ、それって、ピ——」
「ち、違う違う!」
私が口にしかけた単語をかき消すように、虹夏がぶんぶんと首を振る。
いや、違うもなにも……。
あれ、間違いなくピルだよね? 経口避妊薬ってやつだ。生理をとめて、避妊を可能にする薬である。一日一錠ずつ飲む錠剤が並んだシートや、ケースに書かれた品名に見覚えがあった。
……避妊ねえ。詮索するつもりもなかったのだが、私はつい気になって眉間に皺を寄せてしまう。
「えっ……そういうこと?」
「だ、だから、違うんだって!」
虹夏はムキになって眉をつりあげた。でもさすがにほかのスタッフの目が気になったのか、私に近づきつつ声をひそめる。
「最近ちょっと生理が重くなってきたってだけ。ホ、ホントにそういう目的で飲んでるわけじゃないから……」
「……虹夏って、そんな多いほうだったっけ?」
「だ、だからっ、最近そうなんだってば!」
怒っているのか恥ずかしがっているのか、虹夏はもう耳まで真っ赤に染まっている。
……こりゃ、あまり問いつめるのもかわいそうか。私だって別に虹夏を辱めたいわけじゃないし、そもそも男のスタッフの目もあるところで深掘りするような話題でもない。親しき仲にも礼儀ありってやつだ。
「あー……そっか。まあ、ほどほどにしときなよ」
「だ、だから——」
「虹夏さーん」
ちょっとだけ棘のある声に振り向くと、虹夏を呼んだバイトスタッフが私たちの様子を不審げにうかがっていた。用があるのになかなかやってこない上司に、いよいよしびれを切らしたらしい。
「……ああ、もう! ご、ごめん! いま行く!」
虹夏はまだなにか言いたげだったが、何度か私とステージを見くらべて、結局ステージのほうへつま先を向けた。
「ホントのホントに、なんでもないから!」
そう言い残すと、虹夏はジャンパーのポケットにピルを押しこみながらステージのほうへ駆けていった。まだ顔が真っ赤だったけど、あれでほかのスタッフから疑われないと思っているのだろうか。
私は椅子に掛けなおしてステージの様子を眺めた。会話までは聞きとれなかったけど、ステージにあがった虹夏はさっそくバイトスタッフに指示を飛ばしているようだった。頬にはまだ少し赤みが残っているようにも見えるが、仕事に励む横顔はなかなか凛々しかった。ちゃんとした大人の顔つきだ。
もう二十三歳か。虹夏も、私も。
そんなことをしみじみと思っていると、そのうちに派手な身なりの連中がフロアに出てきてステージのまわりに集まりはじめた。今日のライブに出演するバンドのメンバーだろう。開演時刻はまだ少し先だが、ディレクターの虹夏に挨拶をしにきたのかもしれない。
なかには知った顔もいくつかあった。私も挨拶にいこうかと考えたが、結局やめておいた。声をかけるかどうかは、ライブを見て決めればいい。
*
いろいろな創作活動とおなじく、いまの時代、音楽の世界でもプロとアマチュアの境界は曖昧になっている。会社員など本業を持ちつつライブに出るバンドメンバーやスタジオミュージシャンも増えているし、DTMで自作した曲をSNSでバズらせてプロ以上の収益を得る人もめずらしくなくなった。音楽で収入を得ている点では、そうした人たちだってプロのミュージシャンと呼んでいいかもしれない
ただ私の個人的な感覚としてはやはり、レコード会社と契約して自分の楽曲を広く世に問うてこそ、真のプロなのだと言いたい。いわゆるメジャーアーティストというやつだ。いまどき古い考えだと言われるかもしれないが、少なくとも私はメジャーを目標に音楽活動を続けてきた。
だけど、どれだけデモ音源をレコード会社に送ろうと、どれだけライブを重ねようと、メジャーへの道はいっこうに開けなかった。フェスのオーディションにしたって、予選通過が関の山。いくつものインディーズバンドを渡り歩き、下北沢のバンド界隈ではそれなりに顔と名前を知られるようになったけれど、言ってみれば所詮その程度の存在だ。
二十三歳。きっと一般的には大学や専門学校を卒業し、就職して働きはじめる人も多いのだろう。虹夏だって実家とはいえここ「STARRY」で働き、バイトのスタッフにてきぱきと指示を飛ばしている。立派な社会人だ。対して私は高校を卒業して実家を出たもののフリーターだかニートだかわからない状態のまま、芽の出ない音楽活動を続けている。いまだ音楽一本では食えていない。半年所属したバンドも今日やめた。
それでも私は自分の才能を諦められずにいる。
いつかプロになる——そのためにはまず、次に入るバンドを探さなければ。
今日、STARRYに顔を出したのも、じつはそれが目的だった。
店長である伊地知星歌さんの方針で、STARRYのイベントでは昔から駆け出しのインディーズバンドが多くブッキングされる。ライブに出るくらいだからもちろんたいていはメンバーが揃っているんだけど、なかにはパートが足りずサポートメンバーに頼って活動しているバンドもある。試しに組んではみたもののメンバーはまだ流動的、ということだってざらだ。そういうバンドでめぼしいところがあれば一緒に組んで活動したいと思って、探しにきたわけだ。
特に活動歴の浅いバンドほどメンバーの加入や入れ替わりが多かったりする。思えば私と虹夏が高校生のときに組んだバンドも、最初は二人だけで始めたのだった。ベースの私と、ドラムの虹夏。あとはギターボーカルを加えてライブに出ようとしていたんだけど、当日になって加入予定だった新メンバーがバックレて——。
懐かしい回想は、腹に響くバスドラムの重低音によって吹き飛ばされた。ハッとして目をあげると、ライトアップされたステージの上で一組目のバンドが演奏を始めていた。
午後七時。ライブは予定どおり幕を開けた。
だが、期待はすぐに失望に変わった。
いまステージにあがっているのは、「ファーストハニー」という四人組だ。初めて名前を耳にするバンドだった。いちおうオリジナル曲をやっているようで、曲じたいは案外悪くない。でも演奏のほうがあまりにもお粗末だった。ギターはずっとリズムがもたついているし、ドラムのキックやスネアのタイミングもずれまくっている。ベースだけはきちんと音を出せているのだが、どうも譜面どおりに黙々と弾いている印象で、悪い意味でほかのパートから浮いてしまっていた。
私を含め、ほとんどの客は演奏の下手さに興醒めしている様子だった。ところが客席の最前列のあたりだけは異様な盛りあがりを見せている。若い女の集団が、フロントマンを務めるボーカルに向けて黄色い歓声をあげているのだ。
「みんな、今日もノってくれてありがとな!」
一曲目が終わると、ボーカルの男が客席に向かって拳を突きあげた。すると最前列の女たちから「キャーッ」という金切り声が返される。まるでアイドルのコンサートみたいなノリだ。
念のため言っておくが、ボーカルの歌がいいわけではない。上手いか下手かで言えば、確実に下手だった。しかし面構えだけは上等だ。イケメンと言ってさしつかえないだろう。どうやらこのバンドには、「顔ファン」と呼ばれるビジュアル重視の客がついているようだ。演奏はいまいちでも集客力を買われてブッキングされた、ってところか。
「えー、みんなはもう知ってると思うけど、いろいろあってベースのタクヤが卒業しました。だから今日は俺らの曲を作ってくれてる林さんが急遽サポートで入ってくれて——」
MCはお決まりのメンバー紹介に入っていた。ボーカルがなにか言うたびファンの女がキャッキャッとはしゃいだ声をあげる。さすがにうすら寒くなって、私はステージから離れ、ドリンクカウンターへ足を向けた。
ドリンクチケットとカルアミルクを引き換えてもらい、ちょうど空きができたテーブル席に腰を落ちつけた。ステージでは二曲目が始まっていたけど、演奏も歌もやっぱり聴くに堪えない。一組目がこれでは、今日はきっと「ハズレ」の日なのだろう。別に誰が悪いわけじゃなく、ライブハウスも長く営業しているとこういう日はたまにある。虹夏には悪いけど、一杯飲んだら今日はもう帰ろうかな。そんなことを考えはじめたときだった。
「あの、すみません」
ふいに背後から声をかけられ、私はカップを傾ける手をとめた。振り向くと、遠慮がちにこちらをうかがう男と目が合った。
「山田リョウさんですよね、『フラワーノイズ』の」
「……もう『フラノイ』じゃないですけど」
急な声かけだったこともあり、私はほぼ条件反射で警戒の態度をとってしまった。体を斜めにして相手をすがめ見る。三十絡みとおぼしき男で、Tシャツにライトグレーのジャケット。短髪を茶色に染め、うっすらと顎髭を生やしている。身なりは少々軽めだが、ごく普通のビジネスマンに見えなくもなかった。
「これは失礼。脱退の件は存じてます。じつは僕、こういう者でして」
男は愛想のいい笑みを浮かべると、ジャケットから名刺を出して私に差しだした。
「……音楽ライター?」
「岩崎といいます。雑誌とか音楽情報サイトで記事を書かせてもらってて……『ばんらぼ』とか、ご存じですか?」
「ああ……」
聞き覚えのあるサイト名だったから、ついうなずいてしまった。昔の知り合いがそこの関係者だったのだ。至極真面目なバンド批評が載っているかと思えば、くだらないゴシップ記事でPVを稼いでいるような、変なサイトだった。まだ閉鎖されてなかったのか。
もういちど名刺に目を落とす。「岩崎タケオ」という名前を一瞥してから、私はあらためて相手をうかがう。
「えっと……取材ってこと?」
バンド脱退が発表された当日に、音楽ライターを名乗る男から声をかけられたのだ。全国的には無名のインディーズバンドの動向でも、ネット記事の穴埋めくらいにはなるのかもしれない。そう考えたのだが。
「いえ、そのお話も訊きたかったんですが、あいにく今日は取材の用意をしてなくて」
岩崎は苦笑いを浮かべる。私はおもわず眉をひそめた。取材でもなければ、どうして私に声をかけてきたんだ?
「僕、昔からリョウさんのファンなんですよ。今日は知り合いのバンドを見にきたんですけど、たまたまリョウさんを見かけて、つい。あっ、ご一緒させてもらっていいですか」
岩崎は嬉しそうに声をはずませながら、私がいるテーブルに自分のドリンクを置いた。私たちは丸いテーブルを囲んで、斜めに向かい合うような格好になる。
「そうなんだ。まあ……ありがとう」
正直、ファンと言われて悪い気はしなかった。でも浮かれていると思われるのも癪で、私は素っ気なく応えてドリンクカップに口をつけた。すると岩崎も私に合わせるようにカップを傾けてみせる。
「すみません、迷惑でしたよね? プライベートの日にファンからいきなり声かけられるとか」
「迷惑……といえば、うん、迷惑」
うまく取り繕おうかとも思ったが、結局、本音が口をついて出てしまった。こんなとき多少でも相手に気を遣えれば波風も立たないのだろうが、社交辞令のような物言いは昔からどうも苦手だった。
さすがにここまでぶっちゃけられるとは思っていなかったのか、今度は岩崎が目を丸くする。でもすぐに相好を崩し、困ったような笑顔になりながら頬をかく。
「はは……そういうところ、リョウさんらしいですね」
私はちらりと彼の顔をのぞく。
「まあ……ちょっとしゃべるくらいなら付き合ってもいいけど」
「ありがとうございます」
音楽ライターとアーティストという関係性があるとはいえ、年下の小娘にこんな居丈高な態度をとられてムスリともしない男もめずらしい。どうやら昔からの私のファンというのは本当のようだ。
なんとなく間をとる感じで、私たちはどちらからともなくドリンクを口へ運ぶ。岩崎はコーラかなにかを飲んでいた。運転の予定があるのか、あるいは下戸なのかもしれない。
「……それで? 目当てのバンドってどれ?」
私のほうから話題を振ると、岩崎はカップをテーブルに置き、ステージへ向けて軽く顎をしゃくった。
「いま出てる『ファーストハニー』です。いちおう、ライブレポートを書いてほしいなんて頼まれてるんですけどね」
しらけた横顔にやる気のなさがにじみでていた。さっき取材の用意をしてきていないと言っていたし、アリバイ作りに顔だけ出したものの、はじめから記事にするつもりがなかったのではないか。私は岩崎のことを少しだけ見直した。どうにも食えない感じはするが、耳は悪くないらしい。
「でも、今日は来た甲斐がありましたよ。リョウさんとお会いできるなんて、本当に光栄です」
私のほうへ顔を戻した岩崎がにこやかに微笑む。よくもまあ、こんな歯の浮くようなセリフをさらりと吐けるものだ。
「……そんなこと言って、結局、ナンパってこと?」
「それもいいですね。どうです? よかったらこのあと、食事でも」
まさか皮肉をそう取られるとは思わず、面食らった私は目をしばたたかせた。しかし岩崎のほうはこちらの胸中を知ってか知らずか、スマホを取りだして私に画面を見せてくる。
「ここなんてどうです? なかなか旨いイタリアンで、お酒も飲めますよ」
屈託のない口振りで、これといった含みもないように思える。でも、正気か? 私のファンだとか言っておきながら、いきなり食事に誘ってくるなんて。
この男の本心がどこにあるのか、いよいよわからなくなってきた。でも……。
「……行かない」
私は岩崎から顔をそむけ、見るでもなしにまたステージのほうへ目を馳せた。ちょうどファーストハニーがラストナンバーを終えたところで、ファンの女たちは袖に引っこむボーカルの名を未練がましく連呼していた。いっぽうでファーストハニーの演奏にしらけて壁の花になっていた観客たちの一部が、スマホをしまってそわそわとステージのほうへ移動をはじめる。次のバンドが出てくるまでに客席の最前列を陣取るつもりなのだ。ブッキングライブでは、こうしてバンドごとに最前列のファンが入れ替わる。ライブハウスの日常がそこにあった。
私は店内の喧噪を聞き流しながらスマホをいじると、そっぽを向いたまま岩崎のほうへ画面を向けた。
「……前から気になってたエスニック料理の店が三軒茶屋にあるんだけど」
*
インディーズでの音楽活動にはとかく金がかかる。楽器や機材の購入費はもちろん、練習やレコーディングのためのスタジオ代ももちろん自前だ。ライブを打つにもチケットノルマがさばけなければ自分たちの持ち出しになるし、ノベルティグッズを作れば支出はさらに増える。ネット配信だのAIだのといろいろ便利な世の中になっても、人やモノを動かすにはやはりそれだけの金が必要になる。
だから、売れないミュージシャンはいつの時代も金欠なのだ。音楽を続けながら、いかに生活をしていくか。人それぞれ事情は違えど、この命題は多くのインディーズバンドマンにとって共通の悩みだろう。
もちろん、私だってそうだ。私はよく「実家が太い」とか言われるし、情けない話、いまでも時折親から援助してもらっている。それでも真剣に音楽に打ちこもうと思うと、やはりカツカツの生活を送らざるをえない。じつは先日もずっとほしかったエフェクターをフリマサイトで衝動買いしてしまい、私の口座残高は月初のうちに三桁のデッドラインを割ってしまっていた。虹夏にチケット代のツケを頼んだのも、伊達じゃないのだ。
そろそろ近所の公園に食べられる草でも探しにいこうかと考えはじめていたところに、飯を奢ってくれるという男があらわれた。
私が岩崎の誘いに乗ったのは、ただそれだけの理由だ。
虹夏には申し訳なかったけれど、私たちはライブの終演を待たずにSTARRYを抜けだした。
三軒茶屋までタクシーで移動した。目当てのエスニック料理店は、茶沢通り近くにある雑居ビルの一階で営業していた。タイ料理とベトナム料理をメインにした創作居酒屋だ。個人経営らしく、色とりどりのアジアン雑貨が飾られた店内は目にも楽しい。岩崎がタクシーの車内で予約をとっていたから、私たちはすぐにテーブル席に案内された。
メニュー表をざっと眺め、トムヤムクンやガパオライス、生春巻きなどを注文した。初めての店ではあまり冒険はせず、定番の品で様子を見るのが私の流儀だ。
「乾杯」
向かいあって座った私たちは、さきに運ばれてきた飲み物のグラスをあわせる。私はビールだったが、岩崎はここでもソフトドリンクを頼んでいた。車で来ているわけでもなさそうだし、やはり酒が飲めないのだろうか。少しもったいない気もしたが、しばらくして出された料理を口にした岩崎は感心したようにうなずく。
「うん、おいしいですね、この店」
「……うん」
たしかに味は期待以上だった。盛りつけも洒落ているし、値段も手ごろだ。気取らない店内の雰囲気もあいまって、お酒も自然と進んだ。
初対面の男との食事で正直少し警戒もしていたのだけれど、頼んだメニューをひととおり平らげる頃には緊張もすっかりほぐれていた。
岩崎と音楽の趣味が合うのも、意外な発見だった。
「『108ツ煩悩』だと、僕はサイケ色の強い初期の曲とか好きですね」
「あ……私も。この前ライブ観に行ったら、『鮫の音』とかひさびさに演ってて、結構アガった」
岩崎は大きくうなずく。まさか、こんなところに同好の士がいたとは。私は嬉しくなって、気づけば次々にマニアックな話題を岩崎に振っていた。
いい具合にアルコールも回って、少し気も緩んでいたのだろう。
「SICK HACKのライブも、ひさしぶりに観たいな……」
「そういえばリョウさんはSICK HACKとも交流がありましたよね? ひょっとして、活動再開の話とか聴いてるんですか?」
私がポロリと漏らしたひとことに、岩崎はすかさず食いついてきた。
……しまった。テーブルを挟んでいる相手が音楽ライターだということをすっかり忘れていた。
「あ、いや……最近は連絡も全然とってないから……」
私は言葉を濁し、ぎこちなく目を泳がせる。私自身のことはともかく、あの人たちのことをあれこれ書きたてられるのは具合が悪い。
SICK HACKがベース・ボーカルの廣井きくりさんの体調不良を理由に活動を休止して、もう二年が経つ。復活を望むファンの声はいまだに根強いが、公式SNSは活動休止のお知らせを最後に一度も更新されていない。
岩崎が言ったとおり、私はSICK HACKの三人とそれなりに親しくしていた時期もある。私がもともと彼女たちのファンだったし、かつてはバンドとしても交流もあった。まだ虹夏とバンドを組んでいた頃、廣井さんがよく「STARRY」に顔を見せてくれていたのだ。彼女たちがライブをする際、こちらから挨拶に行かせてもらったこともある。
ただ最近は廣井さんともほかの二人ともなんとなく疎遠になっていた。仲がよかったといっても個人的に連絡先を交換していたわけでもないし、SICK HACKの活動休止もほかのファン同様、SNSを通じて知ったくらいだ。もちろん活動再開なんて話は、たとえ出ていたとしても私のところまではそう簡単に伝わってこないだろう。
それでも私だっていちおうバンドマンのはしくれだ。あの三人がいまなにをしているか、噂くらいなら耳に届いている。
ドラムでバンドのリーダー的存在だった岩下志麻さんは、SICK HACKの活動休止後、音楽業界を離れて職を得たという。いまはどこかの町工場みたいなところで事務職として働いているらしい。一般のファンからすると意外らしいが、彼女の人となりを知っている者からするとさもありなんと思える話だった。
いっぽうリードギターの清水イライザさんは、ビザの関係もあって母国のイギリスへ一時帰国したとされている。ただ最近になってまた日本に戻ってきたという噂もあり、年末にりんかい線の車内で姿を見かけたという目撃情報もSNSにあがっていた。だが真偽のほどはさだかでない。
いずれにせよはっきりしているのは、二人ともSICK HACKの活動休止以降は音楽活動から遠ざかっているということだ。
そして廣井さんについては……正直、あまりよくない話しか聞こえてこない。私が人づてに聞いただけでも相当センセーショナルな内容で、確実に表沙汰にはできないだろうと思ったくらいだ。ひょっとすると岩崎も噂くらいは聞いているのかもしれないが、まがりなりにも廣井さんと顔見知りである私が下手に「お墨付き」を与えるのもよくない。
気まずげに黙りこんだ私を見て、岩崎もこちらの微妙な立場を察したのかもしれない。
「そうですね、このあたりの話は、また今度ってことで」
岩崎はにこりと微笑んで話を切りあげると、注文伝票を手にさっと席を立った。
「あっ……」
「さきに出ててください」
私があとを追うよりも早く、岩崎は一人でレジカウンターへ行って財布からカードを取りだしていた。……奢ってもらう約束だ。少し躊躇したが、私は小さく会釈をして店を出た。
軒先で涼みながらスマホをのぞく。時刻はちょうど夜の十時を回ったところだった。終電までにはまだ余裕がある。
「お待たせしました」
ほどなくして岩崎も店から出てきた。左隣に並んだ岩崎を、私は横目でちらりと見あげる。
「その……ごちそうさまです」
いちおう自分も財布だけ出してみせる、なんてあざとい真似こそしなかったが、礼だけは言っておくべきだろうと思った。多少のむずがゆさを感じながら頭を下げると、隣で岩崎がフッと笑みをこぼした。
「こちらこそ、付き合ってもらってありがとうございます。それで、このあとはどうします?」
「えっ……」
私はおもわず表情をこわばらせた。
……男にご飯を奢ってもらった、そのあと。
なにもない、と高をくくっていたと言えば嘘になる。二十三歳。私だってもう子どもじゃない。
おそるおそる岩崎をうかがう。岩崎は穏やかな笑みを浮かべて私を見返していた。私はとっさに彼から顔をそむけた。
「あ、あの、ごめんなさい……私、今日はそういうつもりで来たわけじゃなくて……」
うまく言いつくろうこともできず、声が震えた。
急に情けなさがこみあげてきた。普段は無頼のロッカーみたいに気取っているくせに、男から剥きだしの欲望を向けられると結局怖気づいてしまうのだ、私は。
……ここまで来たら、やっぱり体を許すべきだろうか。乱暴にされるのでなければ、一度くらいなら——そんな考えが脳裏によぎったときだった。
「そうですね、今日のところはここでお開きにしましょうか」
おもいがけないひとことが聞こえてきて、私はハッとおもてをあげた。岩崎は左腕にはめた時計をのぞいていた。
「えっ……い、いいの?」
相手がこんなにあっさり引きさがるとは思っていなかったから、私はおもわず訊き返してしまった。すると岩崎はすっと目を細めて私を見返した。
「言ったでしょう? 今日は取材の用意がないんです」
岩崎に見つめられ、私はカアっと顔が熱くなった。これじゃまるで、私のほうが変な期待を抱いていたみたいじゃないか。
「お家、都内ですか? タクシー呼びますよ」
「……いい。電車で帰る。埼玉だし」
スマホを取りだした岩崎に背を向けると、私は駅の方角へ向かってそそくさと歩きだした。握った拳を口元にあてて、できるだけ顔を隠したけれど、たぶんもう耳まで赤くなっていたと思う。
「駅まで送ります」
追いかけてきた岩崎が私の横に並ぶ。私はつかつかと歩を進めながら無言でうなずく。ずいぶんと失礼な態度だったろうが、岩崎はなにも言ってこなかった。
田園都市線の改札前に着くと、岩崎はまたスマホを取りだした。
「今日は楽しかったです。今度またお誘いしても?」
「……まあ、別に」
私は岩崎に見送られながら改札をくぐった。渋谷行の各停に乗ると、さっそく岩崎からのメッセージが入っていた。あたりさわりのないお礼の文面だけど、どう返事しようか。渋谷に着くまでの五分間、私は手すりに寄りかかりながらそんなことをぼんやりと考えつづけた。
*
七月になった。
私は新たなバンドをまだ決められずにいた。知り合いの伝手をいくつか当たってみたが、私を欲しがるバンドは見つからなかった。頼りの虹夏も、いまのところ私に紹介できそうなバンドはなさそうだという。言葉を濁してはいたが、やはり下北沢界隈で私の評判はそんなによくないのだろう。
サポートの誘いもきていないからライブ出演もしばらくなくなり、暇が増えてお金が減った。代々木体育館のイベントで売り子をした。スポットバイトで応募した単発の仕事だ。当日までイベントの詳細を知らなかったのだが、若手の女性声優で組んだアイドルユニットのコンサートらしかった。結構人気があるのか、グッズは飛ぶように売れていた。この子たち、今度のアニソンフェスにも出るんですよ。隣でシフトに入っていた大学生の男からそんなことを教えられた。音楽業界では七月下旬頃から大型音楽フェスの開催が続く。
岩崎から食事の誘いがあったのは、そのバイトの翌日だった。寝ていたから昼過ぎまでメッセージに気づかなかったが、受信したのは朝方だったようだ。文面にはご丁寧にも、急な誘いだから断ってくれてかまわない、と添えられていた。私は行けると返して支度を始めた。
「おひさしぶりです」
岩崎とは西新宿駅の改札口で落ちあった。ダークグレーのセットアップに濃紺のシャンブレーシャツ。前に会ったときよりもやや大人びた格好だった。行き先は教えられていたから、私もそれなりに上品な服を選んでいた。
岩崎に案内されて向かったのは、公園通りの近くにある、創作和食の店だった。テーブルは完全な個室に分かれていて、前回行った店よりもあきらかに値が張りそうだった。もちろん不味いわけはなかったが、緊張もあって思ったより箸は進まなかった。
二軒目に連れていかれたのはホテルのバーだった。中央公園のそばに建つ外資系のホテルに入っている店だ。岩崎はオンザロックスを、私はショートのカクテルを何杯か口にした。そういえば今日は岩崎も飲んでいる。下戸かと思っていたけど、ふつうに飲めるんじゃないか。そう指摘すると岩崎はなぜかおかしそうに笑った。酔いが回ってきたからか、私もようやく気持ちがほぐれてきたのかもしれない。そこからは前みたいにまた好きな音楽のことを話した。
バーにいたのは一時間くらいだっただろうか。店を出ると、その足で岩崎は客室のあるフロアに下りるエレベーターへ向かった。私は黙ってついていった。
さすがに今夜は覚悟を決めていた。
「んん……」
部屋に入るなり、岩崎はいきなり私の唇を奪った。ちょっと驚きはしたものの、抵抗はしなかった。岩崎は私を抱き寄せると、するりと舌を挿し入れてきた。
しばらくたがいの舌を絡めあったあと、私たちはどちらからともなく唇を離した。唾液の糸が一筋、二人のあいだをつたう。
「……こんな部屋とってるとか、最初から連れこむつもりだったわけ?」
私が精一杯の強がりを口にすると、岩崎は不敵に微笑んだ。
「なんとなくですけど、今日はリョウさんに付き合ってもらえるかなと思って」
部屋の中央に置かれたキングサイズのベッドへ私をうながすと、岩崎は窓際のソファにジャケットを脱ぎ捨ててから自分もベッドにあがってきた。
ベッドがきしみ、男の圧が大きくなる。心臓の鼓動が速くなっていた。でもそれを知られたくなくて、私はもったいつけるかのように岩崎から身を引いた。
「……ていうかさ、この前も平気でタクシー使ってたし、結構羽振りいいよね?」
時間稼ぎのつもりで、私はわざとらしく室内の様子を見渡した。暖色の柔らかな照明に照らされた室内には品のいい調度品が並び、つきあたりには壁一面の大きな窓がついていた。ブラインドをあげれば、窓からビル街の夜景が見えそうだ。スイートではないにしても、安部屋でないことはあきらかだった。二十三の小娘を誘いこむための部屋にしては少々贅沢に思える。
「ああ、じつは僕、ライター以外にもいくつか仕事をもっているんです。いま一番大きいのは、バーの経営かな。六本木のほうで会員制の店を出してて、音楽関係で有名な人もちょくちょく来てくれてるんですよ」
「へえ……」
こともなげに正体を明かされたが、妙に腑に落ちる気もした。ただの音楽ライターでないだろうなと、以前からうすうす感じてはいたのだ。なるほど、若手の経営者と言われると、たしかにしっくりくる部分もある。
「よかったら今度、リョウさんも招待しますよ」
岩崎はどこかビジネスライクにも見える微笑を浮かべると、私の返事も待たずにまた唇を奪った。
「ン……」
肩を押されていよいよ仰向けになると、岩崎が上から覆いかぶさってきた。シーリングライトを背にして浮かびあがった彼の顔に、私は初めていやらしさを感じた。
「シャワーは大丈夫ですか?」
「……いい。そんなに汗もかいてないし」
岩崎はわずかに口元を緩めると、私の首筋に顔をうずめた。熱っぽいキスを受けながら、ただよってくる彼の匂いを嗅ぐ。私はよほどでなければ男の体臭は平気なほうだ。だからシャワーを浴びずにセックスするのも抵抗はない。処女の頃はそんなこと考えもしなかったから、これは自分でも意外に思っている。
「んっ……」
耳の後ろあたりに鼻息を吹きかけられ、私はくすぐったさに身をよじった。すると岩崎はすかさず私の胸元にふれてきた。しばらくシャツの上から胸をまさぐっていたけど、そのうちボタンに指をかけてきた。私はサスペンダーの肩紐だけ自分で外し、あとは岩崎の好きにさせた。
「リョウさん、やっぱりスタイルいいですね」
シャツの前を全部はだけさせたところで、岩崎は私を見おろした。異性の目を気にして選んだ下着をつけているのが急に恥ずかしくなり、私は顔を横にそむけた。
「……お世辞とか、引く。そっちも脱いでよ」
「もちろん」
岩崎はいったん体を起こし、シャツのボタンを外しはじめた。その隙に私も自分でシャツとトラウザーを脱いだ。ブラジャーも外し、トップレスになる。ショーツまではさすがにまだ脱げなかった。
岩崎のほうも下だけを残した格好になっていた。細身だと思っていたけれど、脱ぐと筋肉質でたくましい体つきだった。左の二の腕に小さなタトゥーが入っていた。
「……そういうの入れてるんだ」
「すみません、お嫌いですか?」
「……別に。いまどきめずらしくもないし」
「仕事柄、こういうので気を許してくれる相手もいるものでね」
岩崎は訊かれてもいない言い訳を口にすると、私が無意識に胸の前でクロスさせていた腕をそっとほどいた。続けて膨らみの先端へ口を寄せてくる。
「あッ、ン……」
やさしく乳首を舐められ、自分でも意外なほど甘い声が漏れてしまった。しびれるような刺激に体がこわばる。
「痛かったら言ってくださいね」
岩崎はそう気遣ってきたが、乳房を揉む力加減は絶妙だった。乳頭もすぐに硬くなり、そこを舌先でつつかれると快感は瞬間的に跳ねあがる。
「んんッ、あッ、ああ……」
私が感じていると確信できたのか、岩崎の手が下のほうへ伸びてきた。ショーツの裾を横にずらされ、女の割れ目を指でなぞられる。
「あっ、やっ……!」
「もう濡れてますね」
岩崎の指摘に顔がカァっと熱くなる。自分の股から小さな水音が聞こえてくるのがなんとも恥ずかしかった。
「……汚れるから脱がせて」
「じゃあ、僕も」
岩崎は私のショーツをめくりおろすと、続けて自分の下着も脱ぎ捨てた。岩崎の陰茎はすでに大きく膨らんで、まがまがしく天を突いていた。見せつけるつもりもないのだろうが、見せられている側はどうしたって目を奪われてしまう。私はおもわず生唾を飲んだ。
「僕もしてもらっていいですか?」
こちらの視線に気づいたのか、岩崎は軽く微笑みながら私と頭を逆向きにしてベッドに横臥した。そのまま私の股をのぞきこむような格好をとると、彼のペニスは私の眼前に迫ってくる。なにを求められているのかくらい、さすがにわかった。
「……口には出さないで」
「……ええ」
せめてもの注文をつけてから、私は青筋が浮かぶ肉の棒を手にとった。
「ん……」
竿の部分をひとしきり舐めてから、完全に皮の剥けた先っぽを咥えこむ。亀頭はしっかりとエラの張っており、頬張るだけでも一苦労だ。においや味は別に嫌じゃないのだが、口のなかを占領する肉の塊の存在感にはどうしたって圧倒されてしまう。私はとにかく歯をたてないようにだけ注意して、唇でペニスをしごいた。
「ああ、気持ちいいですよ」
誰かに習ったわけでもないから自信はなかったが、私のやり方は岩崎をそこそこ満足させたようだ。岩崎は自分のペニスを私に預けると、今度はこちらの股に顔をうずめてきた。そしてフェラチオのお返しとばかりに、片足を手で持ちあげながら性器に舌を這わせてくる。
「んんッ」
濡れた縦溝を丁寧に舐められ、自然と腰が震えてしまう。唐突に陰毛の具合が気になった。日常的に処理はしているけれど、剃り跡が残っていたら恥ずかしい。
「……あんまり見ないでよ」
「僕は見られても平気ですよ」
岩崎は催促するかのように私の鼻先でペニスを揺らす。羞恥心をごまかすためではないが、私は再度咥えこんだペニスを、今度は思いきって喉奥近くまで引き入れた。
「んッ、んっ!」
深く咥えこんだペニスを懸命にしゃぶりたてる。すると岩崎も小陰唇を手で広げるようにして内側を舐めてきた。男と逆さ向きになってたがいの性器を舐めあうなんて。頭のなかでその光景を思い浮かべてみると、自分がひどく卑猥な行為をしていることに気づき、不思議と体が火照ってくる。
「ふぅ……続けててくださいね」
しばらくして岩崎が陰唇から口を離した。やっと終わりなのかと思った刹那、股の付け根にこれまでと種類の違う異物感が走る。
「あっ! やっ……!」
「痛くないですか?」
膣に指を挿れられたと気づいたときにはもう、衝撃は快感に変わっていた。膣の内側を探るように指でかきまわされると、私はたまらずペニスを吐きだして身悶えてしまう。
「んああッ、や、やめ……」
「ここ、やっぱり感じますか?」
岩崎は私の抵抗を無視し、膣にさしこんだ指を小刻みに動かしはじめた。ビリビリとした悦感が瞬間的に脳天を貫く。
「ああッ、やあッ、ンンンッ!」
強い性感に突き動かされ、自分の意思とは関係なく喉から声が出てしまう。必死で口を閉ざそうとしたが、腹の底から突きあげてくるあえぎをとめることはできなかった。
「我慢しなくていいですよ。汚れても大丈夫ですから」
岩崎はあいたほうの手で私の膝を押さえた。私は脚を閉じることもできず、されるがままに膣内をいじられる。とはいえ乱暴にされている感覚はなかった。岩崎は入口からごく浅い一点に狙いを定めて指の腹で押しているようだった。それがすごく気持ちいい。
そして膣内の性感帯をこれでもかと刺激されるうちに、気持ちよさとは別の感覚もこみあげてきた。
「あああッ、な、なに? なんか……ダ、ダメ、ダメダメッ、こ、これ以上は……ハああああッ!」
目の前が真っ白になったと思った瞬間、急速に膨らんだ尿意のようなものが、それこそ水風船が割れるみたいにパンとはじけた。
「すごい、いっぱい吹いてますよ」
「はぁぁぁッ!」
自分の股からなにかが噴きだしている感覚はあったが、股に力が入らず、とめようにもとめられない。それがどのくらい続いただろうか。ハッと我に返ったときには、内股どころか膝のあたりまでびしょびしょに濡れていた。
「リョウさん、すごいですよ、ほら」
岩崎はゆっくりと身を起こすと、手首まで汁まみれになった手を私に見せてきた。たぶん私が出したものを浴びたのだろう、胸のあたりまでべっとりと濡れてしまっている。もちろんベッドのシーツもベトベトだ。
「ご、ごめん、私、も、漏らした……?」
やってしまったと思い、恥ずかしさよりも先に情けなさがこみあげてくる。まさか、エッチの最中に粗相をしてしまうなんて……。
しかし顔色を失う私を気遣うように、岩崎はにこやかに笑いかけてくる。
「大丈夫ですよ。潮吹きは初めてですか?」
「え……? あ、う、うん」
潮? おしっこじゃないのか。困惑しつつもホッとしていると、岩崎がまた私の股に顔をうずめてきた。
「あッ、んんッ」
噴きこぼれた汁をぬぐいとるかのように割れ目を舐められ、一挙に羞恥心が散らされる。クリトリスを一緒に舐められたこともあって、余韻で軽く達してしまったかもしれない。
軽く息を切らして脱力していると、岩崎がすっと私から離れた。おもてをあげると、ペニスにコンドームをかぶせる岩崎の姿が見えた。薄紫のゴム膜に覆われた男性器が妙に仰々しい。
「リョウさん、いいですよね」
「ま、待って、私が上になりたい」
岩崎に股を割られる寸前になって、私はさっと体を引いた。自分でもなぜこんなことを言いだしたのかわからなかったが、これ以上やられっぱなしになることを本能的な恐れたのかもしれない。
「へえ……それじゃあ、お願いします」
岩崎はわずかにほくそ笑むと、ベッドで仰向けになる。天を突く巨大なペニスを見て息を呑んだが、自分で申しでた以上、覚悟を決めるしかない。私は黙って彼の腰にまたがった。
騎乗位というんだったか。この体勢でまじわった経験は、正直に言うとあまりない。うまくできるか少し不安だったが、狙いを定めて慎重に腰を下ろすと、意外にもすんなりとペニスが入ってきた。
「ンッ、はぁっ……」
大きくて硬い肉の塊に膣を押し広げられ、私はおもわずおとがいをそらした。岩崎のペニスはゴムをつけていても熱した鉄のようで、挿れただけでお腹がじんと熱くなった。
「きつかったら、しばらく慣らしてもらっていいですよ」
「……いい。動く」
余裕がないと思われるのは癪だった。私は引き締まった彼の腹に手を置いて、ゆっくりと腰を前後に揺らしはじめる。
「んあッ、ンン……ッ」
声が漏れるのは恥ずかしかったが、腰はとめられない。陰毛が擦れあう音と愛液の攪拌音がまざりあう。一人でするときはいつもクリトリスを指でいじるばかりだから、太いものが膣に入っている感覚はひさしぶりだった。
「結構慣れてるじゃないですか」
岩崎は満足げに言うと、おもむろに胸へ手を伸ばしてきた。下乳を揉まれながら乳首も指ではじかれ、性感は否が応でも跳ねあがる。
「んッ、あッ、ああッ」
私は無意識のうちに腰振りを上下運動に切り替えていた。体が勝手に強い刺激を求めていたのだ。股で響く水音もいっそういやらしいものになっていた。
「膝に手をおいてもいいですよ」
岩崎が自分の両膝を起こし、大きめに股を開いた体勢をとる。私は言われたとおり彼の膝に手をのせて少し体をのけぞらせてみた。すると支えができたおかげか、たしかにさっきまでより体を動かしやすくなった。
「んああッ、あッ、あッ!」
気づけば私は髪の毛を振り乱しながら男の上で体をはずませていた。激しい運動で揺らされたベッドがギシギシと悲鳴をあげる。セックスではどちらかといえば受け身なほうだったのに、これほど積極的に男を求めているのが信じられなかった。
とはいえ主導権を握っているのは結局、岩崎のほうだった。
「んっ、はあ……」
「そろそろ交代しましょう」
さすがに私が疲れて動きをとめると、岩崎はいったん私からペニスを引き抜いた。ふつうの体勢でするつもりなのかと思ったら、岩崎はなぜかベッドを降りて私に手を差しのべてきた。
「えっ、な、なに?」
「せっかくだし、夜景でも見ませんか?」
岩崎は私をベッドから降ろすと、サイドボードにあったリモコンを手にとった。窓にかかったブラインドが静かにあがる。夜景を背負った大きな窓ガラスに、一糸まとわぬ自分たちの姿がぼんやりと映しだされた。
「ね、ねえ、ちょっと……」
「僕、ホテルの部屋から見おろす景色って、結構好きなんですよね」
岩崎は妙に子どもじみたことを言いながら、私を窓際へ連れだした。背中を押され、窓ガラスに両手をつかされる。すかさず後ろから腰を引かれ、私は立って尻をつきだした体勢になった。ペニスを挿入されたのはその直後だった。
「ひゃあ!」
こんな格好でするとは思っていなかったから、まずは驚きの声が口をついてでた。だけど抵抗は許されない。岩崎は長大なペニスを駆使して膣の奥を連続で突いてきた。
「あああンッ!」
快感が体幹を貫き、私はおもわず背筋をのけぞらせた。衝撃で膝を落としそうになったが、岩崎に腰をもたれてむりやり引っ張りあげられる。
「むかいのビル、まだ明かりがついてますね。誰かが僕たちに気づくかもしれませんよ」
「ちょっ、やだ……」
私がとっさに顔を伏せると、頭上から小さな笑い声が聞こえてきた。岩崎にからかわれたのだ。いくら窓際に立っているからといって、外から室内をのぞけるわけはない。
それでも窓際であられもない姿を晒しているという事実は、嫌でも羞恥心をかきたてる。岩崎に背後から突かれながら、私はいもしない出歯亀を警戒して、おもてを伏せつづけるしかなかった。
「リョウさん、さっきより濡れてますよ」
私の背中に覆いかぶさって耳元でささやくと、岩崎は両脇から手を入れて、垂れさがった乳房の先端を指でキュッとつまんできた。
「あああんんッ!」
電流のような快感が走り、目の前でカメラのフラッシュを焚かれたみたいに視界が真っ白になった。意識が飛んだのはほんの一瞬だったろうけど、気づけば私はガクガクと膝を震わせていた。
「あんまりカーペットを汚すのはさすがにまずいか」
岩崎はひとりごとのようにつぶやくと、体を起こして私からペニスを引き抜いた。朦朧とするなかで、ぼんやりとだが自分の足元が見えた。股の割れ目から流れだした汁が腿をつたって垂れ、カーペットに小さな染みをつくっていた。イったときにまた少し潮とやらが出てしまったのかもしれない。
「戻りましょうか」
「……うん」
もはや抵抗する気さえ失せていた。岩崎にエスコートされてベッドに戻ると、私は倒れこむようにして仰向けになる。その上に岩崎が重なった。私が股を開くと、岩崎は少しもまごつくことなく女の穴にペニスを侵入させた。
「はあぁぁン……」
「動きますよ」
岩崎はゆったりと腰を動かしながら私にくちづけし、舌を絡めてきた。情熱的なキスに体もいっそう火照ってくる。硬いペニスで膣をうがたれるのも気持ちよく、甘い快感に意識を溶かされていくようだった。岩崎の巧妙なセックスに、私はすっかり翻弄されてしまっていた。
「んああッ、んんッ、ひっ、あああ……」
「くっ、いい」
岩崎も息遣いが荒くなってきた。腰遣いも次第に激しくなり、正確だったピッチにも一瞬の乱れが生じる。
「んあああッ!」
予想外の一撃が膣の最奥に届き、私は一気にのぼりつめてしまった。セックスでこんなふうにイくなんて初めてだった。
「リョウさん、奥がいいんですね」
岩崎は私の反応を見逃さなかった。オーガズムの衝撃で浮きあがった腰をすかさずつかみ、ここぞとばかりに力強くペニスを突き入れてくる。
「あああッ! ダメ、ダメッ、つ、強い、あああああッ!」
「いいですよ、おもいっきり気持ちよくなってください!」
「んやぁぁっ! ダメッ、これ以上は……イってる! もうイってるから!」
私はイヤイヤするように首を振っても、岩崎は許してくれない。ピストンの勢いは緩むどころか増すばかり。一番奥の気持ちいい部分を連続で突きまくられ、気づけば私は悲鳴のようなあえぎ声をあげつづけていた。
「はあぁ、僕もそろそろ……最後、ゴム外して口に出してもいいですか?」
切羽詰まったような岩崎の声は耳に届いたが、言葉の正確な意味までは理解が追いつかなかった。強烈な快感に脳を焼かれ、何度も意識が飛びかけていたのだ。
「あああンンッ、な、なんでもいいから……ひンッ! は、早くイってぇッ!」
女の部分から圧迫感が消えたのはその直後だった。奇妙な解放感と喪失感で視界は真っ白に染まっていたが、熱気に満ちた存在が顔面に迫ってくる気配だけはわかった。
「くうっ!」
「んッ!」
熱いものがびしゃりと口元に降りかかった瞬間、私はおもわず肩をすくめた。ほとんど無意識のうちに舌を突きだすと、その上に新たな粘液が垂れてきた。薄く目をあけると、妖しく濡れ光る肉棒が見えた。それを岩崎がみずからしごいている。はちきれんばかりに膨らんだ先端から絞りだされる白汁を、私は間抜けに口をあけてただ受けとめるしかなかった。
*
ティッシュで自分の性器を拭き終え、もう一度ベッドに倒れこむと、私はあわててシーツを胸元まで引きあげた。口のなかに残っていた精液の味を感じて、急に恥ずかしさが襲ってきたのだ。
飲まなくていいとは言われたが、全部は吐きだせなかった。口に射精されたのも、精液を飲んだのも初めてだった。思っていたよりも苦さは感じなかったが、積極的に飲みたいと思う味ではない。
まあ、中出しされるよりはマシか——。
「……あ」
そのときふいに脳裏をよぎったのは、ピルのケースを見られてあわてる虹夏の姿だった。
ひょっとすると虹夏も最近、こういう経験をしたのではないか。たとえ中出しはされていなくても、一度でも危ない目にあったら念のため用心しておきたくなる気持ちは私にもわかる。コンドームを嫌がる男って結構いるものだ。岩崎はちゃんと外に出してくれたけど……。
「どうかしましたか?」
考えこんでいると、岩崎に声をかけられた。岩崎は一回で満足したらしく、下着を穿きなおして、ベッドの縁に掛けて電子タバコを吸っていた。
「あっ、いや、別になんでも……」
「口に出したこと、怒ってます?」
「だ、だから別にそういうんじゃ……」
たんなる冗談なのだろうが、当たらずも遠からずなことを言われてちょっと焦った。さすがにこのタイミングでピルを使う理由を考えていたとは言いにくかった。私は寝返りを打ってごまかすが、岩崎のほうは小さく笑い声をこぼしてベッドから腰をあげた。
「そういえばBocchiの夏フェス出演、昨日発表になってましたね」
一瞬にして空気が張りつめた。いや、そう感じたのはたぶん、私だけだろう。私はベッドで身を起こし、岩崎の背中を目で追った。
「……知ってたんだ」
「言ったじゃないですか、僕、リョウさんの昔からのファンだって」
岩崎は吸いおえたタバコを消し、窓際のソファに脱ぎ捨ててあったシャツへ手を伸ばした。シャンブレーのシャツの袖に腕をとおす彼の後ろ姿からが、妙に遠く感じられる。
それでも私たちの会話は不思議と噛みあっていた。ただ、あの子の名前を出しただけなのに。
私はかつてあの子——Bocchiとバンドを組んでいた。結束バンド。虹夏も一緒だった。でも私たち二人が高校を卒業する前にバンドは解散した。未確認ライオットのライブ審査で敗退したあと、あの子がレーベルにスカウトされたのだ。あの子だけが。
その後のBocchiの活躍については知ってのとおりだ。メジャーデビュー曲が配信やSNSを中心に爆発的なヒットを記録。矢継ぎ早に発表される楽曲は映画やドラマ、アニメ、ゲーム、CMなどのタイアップを次々と獲得し、Bocchiはあっというまに日本で知らない者はいないほどのトップアーティストにのぼりつめた。その勢いはメジャーデビューから三年が経ったいまも留まるところを知らず、Bocchiといえばいまや各種チャートの首位常連だ。音楽関係者からの評価もきわめて高い。作詞作曲編曲をすべて一人でこなすクリエイティビティの高さはもちろん、幅広い音域を歌いこなす歌唱力や、超絶とさえ言われるギターのテクニックも唯一無二だと絶賛されている。
そんなBocchiが、今年の八月におこなわれる大型音楽フェスに初出演する。しかも東京公演、大阪公演の両日でヘッドライナーを務めることが発表されており、これはフェス初出演のアーティストとして異例の抜擢と言われていた。Bocchiはデビュー以来いわゆる覆面アーティストとして活動し、ミュージックビデオやワンマンライブでも素顔をさらしていない。そんな彼女がどんなかたちでフェスに登場するのか。Bocchiの出演が発表されて数日は、SNSがその話題で持ち切りになるほどだった。
……皮肉なものだ。結束バンドでは仰ぎ見ることしかできなかったフェスのステージに、いまやあの子は一人であがろうとしている。……いや、一人「だから」と言うべきだろうか。きっとあの子にとっては、私たちなんて足手まといでしかなかったのだ。
だって、あの子は天才だから。
「……言っとくけど、あの子のことだったら、私はなにも知らないから。SNSのアカウントも変えたみたいだし」
私はシーツを胸に抱いたまま、岩崎の背中をじっと見つめた。ゆっくりとシャツのボタンをとめる岩崎に動じた様子はない。
Bocchiと私の関係を知って近づいてくる記者連中はこれまでにも何人かいた。メディアにいっさい素顔を出さない覆面アーティストの「正体」なんて、ゴシップ記事の格好のネタだ。たぶんあの子は中高通してもほとんど友だちなんていなかっただろうから、過去を探るならバンド活動の線をたどるしかないのだろう。私は特に狙われやすかった。あの子をのぞけば、結束バンドのメンバーで音楽活動を続けているのは、もう私だけだから。
でも神に誓って言うけど、私は一度だってそんな取材に答えたことはない。万年金欠でひもじい思いをしている身でも、かつての仲間を売るほど落ちぶれてはいないのだ。
だから、もし岩崎がBocchiのことを訊いてくるようなら、すぐにでも部屋を飛びだしてやろうと思っていた。
ところが岩崎の出方は意外なものだった。
「気を悪くしたならすみません。結束バンドのことはもちろん知ってます。でも、僕がいま興味をもっているのは、Bocchiじゃなくてリョウさんですよ」
岩崎は窓際のソファに掛けてあったジャケットに手を伸ばすと、内ポケットから革のカードケースを取りだした。名刺を引き抜いて私に差しだす。
「これって……」
受けとった名刺は、前にもらったものとデザインが違っていた。黒の紙面に白抜きの文字で印刷されていたのは、バーと思しき店名と、岩崎の名前。姓は同じだけど名が「武夫」と漢字表記になっている。肩書も「ライター」から「オーナー」に変わっていた。
「僕の店、昔のよしみで芸能事務所とかレコード会社につながりがある人も結構通ってくれているんです。興味ありません?」
岩崎がさも意味ありげに口端を持ちあげる。そういえば、六本木で会員制のバーを経営しているのだったか。
「……なに? マクラでもしろって言いたいわけ?」
私はキッと岩崎をにらみかえす。馬鹿にされていると思った。岩崎は私がいっこうに芽の出ない音楽活動を続けていることを知ったうえで、業界関係者が集まる自分の店に来いと誘っているのだ。
「そういうつもりでもないんだけどな。でもまあ、やり方はいろいろあると思います」
岩崎は小さく肩をすくめると、ふたたびタバコに火をつけた。彼の口元からうっすらと立ちのぼる蒸気が消えるのを待って、私はベッドを抜けだした。
「……シャワー浴びてくる」
私は岩崎に背を向け、一人でバスルームに足を向けた。もらった名刺は途中で拾った自分のポーチにそっとしまった。岩崎はなにも言ってこなかった。
バスルームにシャワーの水音が響いた。
私は岩崎から言われたひとことを思いだす。
やり方はいろいろある。
「……月並みだもんな」
岩崎の言葉に押しだされるようにして、ずっと心の奥底に仕舞いこんでいた本音が口からこぼれた。床を打った滴は流れとなって、排水溝に吸いこまれていく。だけど私の鬱屈は薄い水面の上にいつまでも漂っていた。
私は月並みだ。
私は自分を天才だって信じていた。あの子に出会うまでは。
楽器が弾ける。曲も作れる。でも、そんな人間は世の中にごまんといる。そのなかで
でも。それでも、私は——。
「……いろいろある、か」
やり方。岩崎の言葉が頭のなかでずっと鳴り響いていた。
プロになるために、私はこれまで自分なりに努力を重ねてきた。曲を作り、演奏の練習をし、いくつものバンドを渡り歩きながらライブを重ね、何度もオーディションに挑戦してきた。
でも、結束バンドを解散してから、もう五年だ。
あの子はもう手が届かないほど遠くまで行ってしまった。私はあの子がいる場所のとば口にさえまだ立てずにいる。ここからどれだけ必死に手を伸ばそうと、永遠に届くことはないのかもしれない。
だったら、そろそろ始めるべきだろう——凡人の悪あがきを。
天井に目をやる。丸いライトがバスルームを照らしていた。
私はぬるいシャワーを頭からかぶった。次のバンドを探すのは、しばらくやめにしようと思った。
#02 "Shine as usual" ends, and she starts playing a new tune.