竜と見間違うほどの、おおきな毒蛇の死骸が、集落跡のはずれで発見された。頭部には杭が刺さっており、黒い鱗には赤い模様が入っていて、腐った大地に流れる血の川のようであった。大蛇は、サタンの使いと噂されたが、毒こそあれど、無害で、愚鈍で、人を傷つける脳などなかったといわれている。
あれは、先週の話だった。深夜、街の外れの家で火が出て、そこの家の子供がとり残されてしまったという。「先生、どうか、力をお貸しください」と呼ばれたものの、着いたころには黒煙が獣の唸り声のようにごうごう上がっていて、火柱は天にのぼるほどだった。母親が私にしがみつき、大声で泣く。
私は「先生しかどうにもできないだろう」という目線をいくつも受け、意を決して身につけていたマントで口を覆い、家に入ろうした。すると、あとがつきそうなほど強い力で肩を掴まれた。そこには、長身の男が立っていた。血のように赤い毛を長く伸ばしていて、右目を隠していた。もしかしたら、元は麻袋だったような布切れを身につけていて、それから、エジプトの奴隷にも見えた。筋肉質で、腕や足は太い。緑色の目をしていて、皮膚の病気なのか、呪いなのか、魚や蛇のような鱗状のものが頬に張り付いていた。表情もなく、冷たい印象を持たせる男だった。
「ぼくが行きます」
そう言って、止める間もなく家に入っていくと、あっという間に煤だらけの子供を抱えて戻ってきた。男の皮膚は黒く焼けてしまっていたが、特に気にするようなそぶりもなく、誰かしらが持ってきた水を頭から一度浴びただけで、母親の感謝の言葉なんて気にもせず、どこかへ去ってしまった。
街の人々が日常に戻った豪雨の夜、家の扉を叩かれ、私は何の警戒もせず、扉を開けた。仕事の話か、誰かが急ぎで手紙を書いて欲しいと訪ねてきたのだろうと思った。
そこには、火事の時に出会った男が立っていた。いかにも、困り果てた様子で、眉を下げて、体を縮こませていた。昼間は暖かくとも、夜は冷える。質素とも言うこともできないような、腰巻きだけの服装で、勿論体はずぶ濡れだった。
「すみません。こんばんは。そこの小屋はあなたのものですか? よければ、何日か、雨を凌ぐのに使わせてもらえませんか」
「小屋とは言わず、とにかく、うちに入りなさい」
よくよく見ると、体を細かく震わせている。ここ数日は野宿をしていたのだろう。ほかに荷物などなく、身一つだ。
男を招き入れて、敷物の上に座らせ、温かいヤギのミルクを木のカップに淹れてやると、男はおそるおそる受け取り、一気に喉に流し込んだ。体を拭いてやっていると、妻が私のマントを持ってきて、男に被せた。男には小さいが、座っている背中を覆うのにはじゅうぶんだった。
「ああ、ああ、ありがとうございます。おかげで温まりました。寒いのがどうも、苦手で。凍え死ぬところでした」
皮膚の病は頬だけではなく、腕や足、背中は一面が鱗に覆われていた。赤毛も珍しい。体格がよく、そのおかげで逃げ出せてこれたのだろう。労働というよりは、見せ物の奴隷だったのだろう、と、私は考えを巡らせていた。
「先日はどうも、ありがとう。私のほうこそ感謝しなければならない。私ではあの子供を助けられたかどうか……」
炎の海の中に飛び込んでいったはずが、どこにも火傷のあとがなく、つややかに光る鱗が並んでいる。黒瑠璃にも思う美しさだった。私は彼の体を見て、おや、とこぼしてしまう。
「やけどや、怪我はしなかったのか?」
男は、自分の腕を前に広げて、見せつけるようにした。暖かいものを飲んで安心したのか、おだやかに笑みを見せる。
「したと思いますが、ぼく、体の治りがずいぶん良くて。もうなんともないんですよ」
「おや、そうかい。もう少し飲むかね」
「いただいてもいいんですか?」
「遠慮なんてしなくていいのだよ。夕飯はもう?」
「とってきたばかりです」
カップを受け取り、またミルクを注いで渡すと、男の腹が、ぐ、と、蠢いたような気がした。その動きは、袋に入れられた山羊の蹄がもがいているものに似ていたような気がした。まさか、この男が蛇に似た鱗を持っているからといって、そんなわけがない。人間なのだから。
「君、名前は? どこから来たんだ?」
不気味な妄想をやめ、気を取り直して、声をかけた。
「ぼくは、ゲフェンといいます。どこから、か、すみません。あまり言いたくはありません。前の仕事をとりあげられて、次の仕事のために砂漠を移動していました。ちょうどこの街に着いた時に火が上がっていたのを見て、いてもたってもいられなくなって」
「なんて幸運だったのだろう。きみをこの街に送った主に感謝せねばならない」
「えっ! ああ、そうですね……」
なぜか男は目を丸くして、カップを強く握り直した。男はゲフェン(ぶどう)と名乗ったが、名前が似合っていない。赤毛はぶどうというよりは、血に似た色だ。
「ぼくは、あなたのことを他の人から聞きました。この街で困ったら『先生』のもとを訪ねるとよいと聞きました。それで、その、小屋の話なのですが、しばらくこの街に居たいので、貸してもらえないでしょうか? 何か、対価が必要なら、近くに昔の仕事で作ったぶどう酒を埋めているんです。それを……」
「いい、いい。あんなぼろ小屋でいいなら、好きに使ってくれ。たしか、数年前にも同じように誰かが借りにきて、出て行ったきりだから、生活品もある程度残っているんじゃないか?」
そう答えると、妻が、奥の部屋から顔を出してきた。
「まあ。あなた、あの小屋の掃除をすると言って何日経ったんだか、まだやっていなかったんですか?」
「ぼくがやりますよ。ただで住まわせてもらうわけですし、それくらいはさせてください」
妻はくすくす笑うと、小屋の鍵を持って、ゲフェンに握らせた。
「困ったらいつでも来てください。雨があがるまでは居てちょうだいね。余っている毛布を持ってくるわ」
ゲフェンは妻の背中を目で追っている。
「綺麗な人ですね」
「私にはもったいないほどよくできた妻だよ」
「そうか──そうですよね。妹さんなのかと思いました。雰囲気が似ていたので」
「結婚して長いからね。似てきたのだろう」
「そうでしたか」
ひとつ、ふたつ、沈黙が流れた。ゲフェンはわざと私から目を逸らして、「あの」と切り出した。
「ぼくも先生のことを先生と呼んでもいいですか」
「いいが、もう呼んでいるじゃないか」
不思議なことを聞くものだ。ゲフェンは髪で隠れていない左の前髪を耳にかけ、じっと窓の外を見た。落雷もあり、槍が降るような雨はまだまだ止みそうにない。
「皆さんが、先生と呼ぶので。先生としか呼べなかったんです。でも、ぼくはよそ者ですから、いいのかなと」
名前で呼ばれなくなったのはいつからだろう。『あなた』『先生』と呼ばれて、もう二十年は経つ。毎日書き仕事で自分の名前を使うが、浮いて飛んでいってしまいそうな存在感だ。
「何も、気にすることはない。それに、今日からよそ者ではないのだろう?」
「ありがとうございます」
ゲフェンの鱗がオイルランプに照らされて、輝く夕焼け色になっている。これを聞くか私は悩んでいたが、ついに口に出すことにした。これが人々にうつるものではなさそうだが、治らない傷というわけでもないらしい。
「その……、肌のそれは生まれつきかね」
「はい。きょうだいでぼくだけ。不便なものです。今日なんかの雨の日は凍えて動けません。不気味ですから、怖がられてしまいますし。平気ですか? ぼくの姿は……」
「最初は驚いたがね」
それ以上何も言わなかった。きっと、この姿のせいでいくつも傷ついてきただろう。何も言わないのが一番傷つけなくてすむと判断し、わざと表情をつくり、笑うと、ゲフェンも同じように返す。彼は何度このやりとりをしてきたのだろう?
妻が毛布を抱えて戻ってきて、ゲフェンはそれを受け取った。
「毛布で眠るのなんて、何年振りでしょう」
ゲフェンは毛布に頬を寄せ、うっとりと目を細めた。人間というより、動物のように見えた。そうだろうとも、身一つならば、獣と蛇を恐れながら、ぼろ木に背中を預けるか、砂地に横になるしかなかったに違いない。
「この街に居ると言うが、仕事で?」
「この先で会う予定の相手がいるんです。ですが、到着が遅れているようです。聞いたところ、途中で崖崩れがあったとか」
そんなことがあれば、私にも話が来るはずだ。やはり、言えないような複雑な事情があるらしい。
「大所帯なので、数ヶ月はかかると見越して。雨が降らなければ、ぼくは外でも良かったんですけれど」
「余裕があるのなら、数ヶ月とは言わず、せっかくだ、もう少しいなさい」
「どうなるでしょうか。ぜひそうしたいところです」
「話はこれくらいにしておこうか。ゆっくり休みなさい。私たちも眠ることにするよ」
「はい、ありがとうございます」
妻と寝室に戻ろうとすると、妻が振り返って、ふっと息を呑んだ。横顔をよく見ると、唇が震え、大粒の汗が吹き出して止まらない。
「体が悪いのか?」
妻は首を横に振ろうとして、びく、と首を動かした。うまく動かないようで、ゆっくりとこちらを向いた。
「いえ。なぜでしょう、急に、なんだか……」
どうもはっきりとしない。額に手を当てるが、体温は高くなく、むしろ冷たかった。
「──あたしの気のせいですわ」
そう答え、俯いた。
翌日の朝、ゲフェンと共に、思いつく限りの掃除道具を持って、小屋に向かった。木屑やほこりが目立つものの、私の記憶と変わらない様子だった。前に貸していた老人は丁寧な人物だったのだろう、小屋の片隅に瓶や食器が布の上に置かれていて、椅子がひとつ、ポツンと置いてあった。今日からじゅうぶん、ここで生活ができるだろう。
ゲフェンは早速作業を始めたので、邪魔にならぬよう、早々に立ち去った。すると、すぐに、羊飼いの息子と偶然出会った。
「ああ、先生。このへんに子羊を見ませんでしたか」
「いや、見なかったね。どうかしたかな」
「一匹か、二匹か、とにかく、少し足りないんです。いくつ数えても……。見つけないと父さんに怒られてしまうんです」
羊飼いの息子は今にも泣きそうな顔をしていた。歳は十か、それくらいだったはずだ。まだ子供の彼に、厳しい父の叱責は堪えるだろう。なんとかしてやりたいが、いないものを持ってくることはできなかった。
「見つけたら必ず捕まえておくよ。他の人にも声をかけてみなさい」
「はい、先生。それじゃあ……」
肩を落として去っていく背中を見送ったあと、私は嫌な妄想をしたことを思い出した。蹄が動くということは、まだ生きているということだ。ゲフェンは大男ではあるが、子羊をまるまる一匹飲み込めるほどではない。それに、仮にもそれが本当だったとして、羊飼いの息子が責められることは止められない。
私はうちに戻り、朝食をとった。
あの大雨の日から一週間ほど経ったか、仕事への行き帰りのうちにゲフェンの姿をたまに見ることがあった。子供と話していることが多いように思えた。やはり、あの姿は、興味を引くのだろう。彼はどうして、あの姿の割には、打ち解けて、うまくやっているように見えた。
子羊はとうとう見つからなかったようだった。雷があったから、それに驚いて逃げてしまったのだろうと慰めた。
「先生。どうも、久しく会いましたね」
お互い帰る途中だったのか、ゲフェンが声をかけてきた。
「今日、ちょうど、訪ねるつもりだったのです」
「おや、そうか」
ゲフェンは大きな袋を抱えていた。蹄のことをまた思い出すが、その袋は動いていなかった。
「何か足りないものでも?」
そう聞くと、「いえ」と、ゲフェンは言った。
「いい子山羊の肉が手に入ったので、お礼にと」
「そんなにしなくともよいのだよ。だが、そうなら、妻にすぐ煮てもらおう。一緒にどうかね」
「いいんですか」
私は、子山羊の肉なら安心だ、と思った。いなくなったのは子羊だ。ゲフェンは「ぶどう酒を持っていくので、後から追いかけますので」と言い、小屋に入って行った。私はその言われた通りに、先に帰り、妻にゲフェンが来ることを伝えた。
「ゲフェン……、彼が?」
「そうだが、何か」
妻の表情は暗い。薬を噛んだような顔で、唇を噛んでいた。
「彼、あまりいい噂を聞かなくて。夜な夜な出歩いて家をまわっているとか、子供に妙な入れ知恵をしているとか。それで、回った家のお婆さんが、ふたりも、姿を見て驚いて、寝込んで起き上がれなくなったというんです。あの赤い毛はよく抜けて、いたところに必ず有るんです。それが不気味で」
「偶然だよ。それに、彼は子供に好かれるたちなのだろう。毛なんて、きみもたくさん抜けるじゃないか? ほら、そこのすみにもあるだろう」
妻は扉を叩く音を聞いて、息を吐くと、明るく目を開いた。
「今開けますわ」
妻が扉を開けると、そこには満面の笑みを浮かべたゲフェンが立っていた。
「先生、奥さん、本当にいいですか」
「気になさらないで。ありがたくいただきます。ゆっくり座ってお待ちになって」
「はい」
ゲフェンから袋を受け取り、妻は引っ込んでいった。ここにいたくない、という気を薄く感じ取ったが、ゲフェンはそうでもないらしく、まだ大変に嬉しそうにしていた。
私は妻に少しの憤りを感じていた。ただの噂を信じ込み、彼が火の中に飛び込んで子供を助けたことを忘れている。姿が他の人とどれだけ違おうとも、彼の魂は善良なものであることはあきらかであった。
床に敷いた布に座ったゲフェンの右のすねに、切り傷があるのを見つけて、私は尋ねた。
「おや、怪我はすぐに治るのではなかったのかね」
「これはついさっき、ナイフを落としてしまって、そこまで痛くなかったので、こんなになっているなんて気付きませんでした」
私は亜麻布を戸棚から持ってきて、巻いてやった。そうしながら、また嘘をついたな、と、思った。だが、陥れようとつく嘘ではなく、心配させないための嘘なので、とやかく言わなかった。
「ありがとうございます、でも、一日すれば治るものですよ」
「傷に砂でも入ったらいけないだろう。一日でもそうしておきなさい」
傷は黒い鱗を切り裂いていた。獣の爪でも牙でも、うっかりでもない、誰か、悪意を持った誰かが、彼の足を狙ったに違いなかった。深い傷に見えるが、もう血は止まっている。
「なかなか、皆さん手厳しいですね。ぼくの故郷では、嫌味を言われるくらいですむんですが」
ゲフェンは苦笑いして、私の言葉を待たずに続けた。
「子供は、ぼくが物珍しいのか、近寄ってくるんです。子供にワインを持たせて、肉と交換してもらいました。どうしたらうまくいくでしょうか、先生」
「なんてことだ。皆あの火事のことを覚えていないはずはない」
「暗かったですし、煙でよく見えなかったんでしょう。でも、だからといって、それで良くしてもらおうとは思っていなかったんです。ふつうにやりとりしてもらえれば、それで。ぼくの姿が恐ろしいのはわかりますが、べつにうつるものでもありませんから、見慣れてもらえませんかねえ」
ゲフェンの物言いは軽く、重い悩みではないことを伝えていた。もしかしたら彼の長い髪は、一面鱗に包まれた背中を隠すためのものだったのだろうと思った。
「きみは素晴らしい人間だ。早く誤解が解けるといいのだが。私から皆に言っておこう」
「先生、そこまでされなくともいいんです。そのうちですよ。新しい土地に慣れなくて、ちょっと弱音を吐きたかっただけなのです。先生と奥さんは優しくしてくださるから」
落ち着かないようで、髪を手で遊ばせていた。彼の手元をじっくり見るのは初めてだった。指の間に、水かきのような肉の膜が(人よりも)ぶあつくあった。爪は黒く、曲がっていたが、まわりを傷つけぬようにか丸く切ってあった。
「先生は──、ほんとうに優しいひとなのですね。ぼくなんかを相手していていいのですか」
「なぜそう思うのかね」
「ぼくに優しくしても良いことなんてありませんもの。それならその時間を、他の人にあてたほうが良いですから」
「隣人は、自分自身のように愛すべきだ。まあ、きみは本当に隣人ではあるが。きみもそう考えて行動することがあるだろう。同じことだよ」
「ぼくはね、先生の言うような、素晴らしいひとではありません。人の真似事が、すこしうまいだけ。欲でしか動けない、姿だけではない、醜い心を持っているんです。誰かに認めてもらいたくて、誰かと少し仲良くなりたくて、先生のように、ただただ、親切な気持ちで、人と接することなんてないんです。さっき、良くしてもらおうと思っていなかったと言いましたが、うその見栄っ張りです。ほんとうは、寂しくてたまらないのです。拒絶されるのが悲しくてたまらないのです」
ゲフェンはまた、外を見ていた。夕日が差し込んで、頬に当たって、黒い鱗がいくつもの色を作っていた。その瞬間、瞬きするだけの時間、ゲフェンの顔が蛇に見えた気がした。大きな口を開けて、冷たい牙をぎらつかせて、ゆっくりと子山羊を飲み込む巨大な蛇を想像した。
(私は、この男が恐ろしいのだろうか。妻も、他の住人も、これを見たのか)
すぐに横顔は、愛らしい、愛嬌のある、やや中性的な、青年の顔に戻っていた。垂れ目ぎみで、顔だけならば、危害を加えるような印象を持たせなかった。
「そうだとしても、きみの行動は正しいものだ。胸を張りなさい。誰もきみを糾弾できない」
「たまに思うんです。ぼく以外の人が、みんな、ぼくより鱗が多かったら──、ぼくは半人前として、また外されることになるんでしょうか」
どう答えてやれば傷つけないのかわからなかった。彼はまた笑っていたから、私を意地悪な質問でいじめている。彼の想像より酷いことを言ってしまってはならない、と、私は『先生』の自覚を強く持った。
「残念ながら、そうなってしまうことが多いだろう。しかし、そのような土地は見捨ててしまうといい。どこか別の場所に、好い人がいるから、それを見つける旅にでるといい。きみは人から好かれる性質だから、それを見極める好い人が必ずいるに違いないよ。ここは良い場所だし、私はきみに出て行ってほしくはないが、きみはまだ若いしな」
「ぼくは好い人に、もう出会っている気がします」
「おや、誰だろう。年頃の娘は何人かいるが、そのうちの一人かな」
ゲフェンは、好い人という表現を勘違いしていたかもしれなかった。「あっ」という顔をして、「ええと」とごまかした。
「ぼく、変なことを」
「わかっているとも」
もし、そうだったとしても、ここは主の見ておられる下だから、本当のことを言うわけにはいかない。摂理に逆らってはならなかった。ゲフェンは咳払いをして、話を変えた。
「先生は、文字を書くのですね」
「ああ、そうだよ」
「ぼくに教えていただけないですか。ここにいるうちの数ヶ月で覚えるかわかりませんけれど。ぼく、若く見えますが、物覚えは良くなくて。でも、手紙の一つでも書かないと、今の仕事も不安なものですから」
文字を書くのは、この街では私だけだと思う。誰かにそう聞いたのだろう。文字が使えれば、この姿でも、書記の仕事ができるかもしれない。
「そうなら、日曜日以外の夜、うちに来なさい。食事をした後、少し勉強をしよう。やる気のある生徒は久しぶりだ」
夜彷徨いていると言うから、予定で埋めてしまえばいいだろうと思い、この提案をした。ゲフェンは身を乗り出して、息を巻いた。
「そんなに、それに食事もなんて、ほんとうにいいんですか。先生はぼくの思った優しさの上をいくので、おどろきますよ」
「私も、夕飯の話し相手が増えて嬉しいのでね」
ゲフェンの隆起した腕の筋肉が目に入った。鱗のない素肌はずいぶん白い。元々はずっと遠くの異国人なのだろうか、だとしても、日に焼けないなんてあり得るのだろうか。顔も体も、髪を耳や指にかける仕草も、性別も、何もかもちぐはぐして、切って貼ったような異様さを、目の前にずっと置いていると感じてくる。確かに、これが夜中に訪れてきたら、驚いて腰が上がらないこともあるだろう。
「何か、お手伝いはできないでしょうか。力仕事なら任せてください。ぼく、いくら動いても疲れないんです。大きな瓶だって片手で持って、頭にも乗せますよ。水もミルクも一滴だってこぼしません。昔は酒運びもしていました。ただ、その、片目しか見えないので、裁縫や、細かい作業はできないんですが」
「それで隠しているのか」
「見苦しいので」
ゲフェンの表情は、喜んでみたり悲しんでみたり、子供みたいにころころと変わる。初めて見たときに感じた冷たい印象とは裏腹に、風の吹いた砂地もおどろくほどだ。
「それなら、石工をやったらどうかな。ちょうど、火事で、あそこの家がなくなってしまったから。私がそうしておくから、明後日から行きなさい」
「ああ、それはいいですね。ぜひ、そうします。お代はいただかないからと伝えてください。それから、ぼくのことを怖がらないでいいことも──、お願いします」
「終わったらうちにきて、食事をして、勉強をすればいいね。何もかもが、ちょうどいい」
「はい」
しくまれているみたいだった。いや、これが、彼に与えられた使命というものだろう。人はそれぞれそのようなものを持って産まれてくるものだから。
話がひと段落ついたとき、外から大きな音、何かが崩れるような音がしたので、二人で見に行った。そうすると、そこには、荷運びしていたロバが四頭倒れていて、主人と思われる男が困ったように頭を掻いている。
「どうされましたか」
私が声をかける。ゲフェンは彼を怖がらせないようにか、身を縮こめて、私の背中に隠れるようにしていた。
「どうしたも何も、この通りです。さっきまでふつうに歩いていたロバが倒れて動かないのですよ」
ロバのまつ毛は震えていて、どうやら頭を打ったみたいになっているらしい。子供が石でも投げつけて、運悪く当たったりしたのかと思い周りを見渡すが、私たちと同じように、大きな音に驚いて出てきた人しかいなかった。
「あの、ぼくが、いいですか」
ゲフェンがおそるおそる後ろから出てきて、ロバの頭を抱えた。男はゲフェンの姿に驚き、目を丸くした後、ゲフェンの手を叩いた。
「なんだ、お前は! うちのロバに触らんでくれ」
「えっ、でも、それじゃあこのまま動かないですよ」
ゲフェンはロバの頭を膝に置き直して、手のひらで目元を撫でたあと、ロバの上半身を思い切り引っ張り上げた。岩ほど重いだろうロバの体が持ち上がり、ロバは自分で下半身を起こした。周りから感嘆の声が立ち上った。
主人が驚いて動けないのをいいことに、残りの三頭も立ち上がらせた。
「あ、ありがとう……。さっきは悪かったね。ほら、行くぞ」
「いえ。ぼくこそ、おどろかせてすみませんでした。お気をつけて」
ロバを連れて去っていく主人が小指ほどの大きさになるのを待ち、ゲフェンはばつが悪そうにして、腕を組む。
「ゲフェン、きみは、ほんとうにすごいのだね。感心するよ」
私がそう声をかけるが、気分は良くないようだった。
「ぼくは、少しの期待も許されないでしょうか?」
「そんなことはないさ。だが、しないほうがよいのかも、しれないね。少なくとも、今は」
騒ぎが終わったと見立てて引っ込んでいく人々を背に、自分たちも家に戻ると、あたたかく煮立った肉のスープとパンが並んでいた。
「何にもない日にお肉なんて、いいのかしらと思ったけれど」
そう妻が呟いたが、私は否定した。
「今日から彼は、うちの息子になるのだから」
ゲフェンは恥ずかしそうにして、両手で髪を掴んでいた。
私はゲフェンが訪ねてくる前に、とっておきの羊皮紙で文字の表を作った。そして妻と三人で食事をとったあと、家の前に出た。ランプを持ち、ゲフェンに木の枝を握らせた。発音をしながら、ひとつずつ、十回書いて、次の文字にいくというやり方をした。子供ならこれを何日かやれば覚えるものだが、ゲフェンは大人で、本人の言う通りに物覚えが悪い。三文字前を忘れてしまうと言う有様だったが、太陽が落ちるころにはすべての文字を一旦書くことに成功した。
「自分から言い出したことですが、なかなか、大変ですね。頭が硬くなっていて、どうにも……」
「ゲフェン、きみは、いったいいくつになるんだ?」
「さあ、いくつでしょう。もう数えていないので。でも、見た目よりは老けていますよ」
今の彼は十代の後半ごろに見えるから、三十代にならないくらいだろうか。でも、それよりずっと上、私より年上なのかもしれない。仕草や言葉は幼っぽいが、そう思わせる雰囲気があった。
「今日はもう終わりにしようか。一杯飲んで帰りなさい。これを」
そう言って、文字の表を渡し、家に入った。居間では妻が新しい冬用のマントを作っていた。ゲフェンのぼろ切れのような服装を見てか、妻は声をかけてきた。
「そろそろ、その格好では冷えるでしょう。ゲフェン、これは、あなたのものにしましょうかね。こっちに立って、大きさを見せて」
ゲフェンは言われた通りに、妻のそばに立った。妻が立ち上がって手を伸ばして、ぎりぎり、ゲフェンの肩に届いた。その姿を見て、なんて愛らしいふたりなのだろうと思った。ゲフェンは妻と近いからか緊張して、腕をぴんと伸ばしていた。採寸の間に、いつもの木のカップにぶどう酒を注いで、終わるのを待っていた。
「これでいいわ──、ほんとうに大きいのね。あなたの二倍は必要だわ」
「おや、そんなにかい。小柄なつもりはないんだけれどね」
私はゲフェンにカップを手渡した。
「先生、奥さん、ありがとうございます」
ミルクを飲んだ時とは違って、少しずつ飲んでいた。ゲフェンが持ってきたぶどう酒は、香りがよく、甘くて美味い。今まで飲んだものの中で、間違いなく一番のものだった。今から外に出て大きな声で自慢してまわりたい気持ちさえあったが、彼のためにはならないと思い、ぐっと我慢した。
「ぼくは、ずっとこうやって生きていたいです。いつか離れないといけないなんて」
本当にそう思ってくれているなら、どれだけいいだろう。私は、どうにかこの青年の希望になってやりたいと、(あさましいとさえ思うが)優しい言葉をいくつも選んでいた。そして──できるなら、そばに置いてやりたいとも。彼の良い場所がないなら、私が作ってやればいい、私たちには息子も娘もなく、もしいたとしたら、二十代くらいだから、いいじゃないかと思った。彼が嫁を見つけるまでのそれくらい、かまわないだろう。
「まだまだ先の話だ。それに、その仕事が終わったら戻ってくればいい」
「使われるものというのは、あまり人扱いされないものです、特にぼくのようなものだと。誰かに雇っていただけるだけで奇跡です」
「そうか、よければ、きみの昔の話でも聞かせてくれ」
故郷を追い出されたからここでこうしているのか、少し気になった。ゲフェンの顔は少し曇ったが、顎に手を当て、「そうですね」と言ったので、始めてくれるようだった。
頬の鱗を人差し指の爪で掻きながら、ゲフェンは話し始めた。
「ぼくにはきょうだいが居ます、妹と弟の三人で同じ仕事をしていました。ですが、妹は人とつがうようになりまして、弟は軍にいくようになったんです」
妙な表現を使うなと思ったが、ゲフェンの祖国ではそう言うのかもしれないとして、そこを疑るのはやめておいた。
「ぼくはこれでも、昔は、弟のように軍にいたのです。しかし、片目が見えなくなったので、やめさせられてしまったんです」
「目は、病で?」
傷なら、すぐに治る体質だと言っていたし、火傷も切り傷も見たところ、それは本当のようだったので、そう聞いた。
「いえ──なんというか──呪いのようなもの──でしょうか。殴られて潰されてしまったのを、どうしてだか、これだけ治らないんです」
「不思議なことはいくらでもあるものだね」
「ええ、本当に。若い頃のぼくは、どれだけ槍に突かれても死なないし、どれだけ矢にうたれてもすぐに傷が塞がりましたから、敵なんていないのだと思っていました。ぼくひとりでなんとかなる場合なら、の、話ですが」
そのような兵士がいたとしたら、どれほど脅威だっただろう。もしかしたら、ゲフェンは、アテネや、そのあたりの出身なのだろうか。彼が鎧を着て大きな槍を担いでいる姿は、想像にたやすい。
「戦はひとりひとりのものではないからね」
そう返すと、ゲフェンは頷いた。
「先生も、奥さんも、どうかお気をつけください。良き行いをしていても、隣人に呪われることがいくらでもあります。これは、運命だったのでしょう。ですが、運命の先に、このような幸福があるのなら、これも悪くはないと思います」
「まあ、あなた。とても素敵なことを言うのね」
妻はそう言った。女というものは恐ろしいところがある。ゲフェンを家に招くことすら嫌がっている様子だった彼女が、目をうっとりさせてゲフェンの話を聞いている、そのような演技をしている。私は女のそういうところがたまに嫌になる。
「昔の話だと、それくらいしか、話はないですねえ。あとはほんとうに、たいしたことのない毎日です。酒を作って、運んで、その繰り返しだけです」
「そんなことはないさ。きみが軍人だったなんて。力自慢で、優しくて勇気があるのは、そのためだったのだね」
「死なないからやっただけです。死なないなら矢の雨が降る中に、落とした縫い針を取りに行っても構わないでしょう?」
「でも、痛むのだろう」
「多少は。でも、死ぬほどではありませんから」
ゲフェンは笑い混じりにそう言った。悲しくも苦しくもない、それが当たり前にこれまで生きてきたのだから、笑うしかないのだ。
「話してくれてありがとう。きみのことが分かって良かった」
「もう少し面白い話ができればよかったのですけれど。ぼくなんて、見た目が醜いだけで。話して愉快なことは、何も。つまらない人生です」
「文字を覚えるのだろう。書物も読めるし、いい仕事にも就けるようになるぞ。あまり悲観するんじゃない」
「はい。これから良くなると感じています。先生、本当に……、ありがとうございます」
ゲフェンの手の中にある木のカップは、子供用に作られたみたいに小さく見える。顔に近づけると、小さい顔に大きな手が重なって、ちぐはぐな印象がさらに強くなる。ゲフェンはカップを妻に手渡すと、絨毯の上から立ち上がった。
「帰りますね。そろそろ、お邪魔でしょうから。明日から、石工に行けばいいんですよね?」
「話はついているよ。暖かくして休みなさい」
扉を開けて、帰るゲフェンを見送り、扉を閉じた。後ろを振り返ると、カップを握りしめた妻が、魂を奪われたみたいなぼんやりとした表情で立ち尽くしていた。
「やはり、調子が悪いんじゃないか。しばらく無理せず、休んでいなさい」
「いえ、もう寒くなりますわ。急いであげないと。立ちくらみがしただけです」
妻の背中に触れると、異様に冷たかった。私は妻を寝床に押し込み、居間に横になった。ゲフェンが来てから、妻の調子が悪そうだ。きっと噂を信じすぎて、不安になっているだけに違いないが。何度か食事を共にすれば、誤解も解けるだろう。
ゲフェンが砂を踏む音が遠くなっていく。なんとなく、あの後ろ姿は今どうなっているだろう、と、窓を覗き込んだ。もう暗く、周りに人はいない。もし彼が人でないのなら、油断しているかもしれないと思った。
赤い髪が夜風に揺れて、血が撒き散らされていくみたいだった。黒い鱗に覆われた背中が見えた。背格好はまったく変わらなかった。手があり足があった。尾も羽もなく、角もない。鱗があるだけの、ただの人だった──。
乾いた強風が吹いて、屋根を攫ってしまいそうな朝だった。砂が大きく舞い上がるところを、ゲフェンの大きな体は全く気にしない。その後ろを、子供達が面白がってか、壁にしてついていっていた。
やはり、彼は子供に好かれるたちなのだと一安心した。さて、私はこの中を仕事に出なければならない。私もあの行列についていってしまおうかなどと考えて、笑みがこぼれた。
夕方には風はおさまって、扉を開けて待っていると、ゲフェンが手を振って走り出した。
「先生!」
全力で結構な距離を走ったはずなのに、ひとつも息は切れていなかった。汗は流石にかいていて、赤い髪がべたべたと顔に張り付いているのを拳で拭っていた。
「わざわざ外で待っていてくれたんですか」
「楽しみで待ち切れなかっただけだよ」
「先生にも、そういう、子供っぽいところがあるんですね?」
ゲフェンはいたずらっぽく笑った。どうしてだか、彼と居ると、妻に感じるのとは違う安心感を覚える。水に浸かって浮いているような、何かに包まれているような。胸の奥、心の臓を触られているような気分になって、心地が良い。私は、彼に、生命として圧倒的に負けている。強靭な力と勇気を持っている彼に、『先生』と呼ばれて、そばに置いておくのが気持ちが良くて仕方がないのか。自分で考察してみるが、私は私にはすぐに正直ではなかった。
「先生? すみません、気に障りましたか」
ぼうっと立ち尽くしていた私に、ゲフェンは体を屈めて、手をいじっていた。落ち着かない時、今もまたそうしている。
「いいや、少し考え事を。立ち話もなんだ、夕飯もできているから、中に」
「はい」と答えて、まだ手をもたつかせながら、家の中に入った。食卓には、いつもと同じ、ゲフェンを初めて迎えた時よりは質素な、パンとレンズ豆のスープがあった。
「石工の仕事は、どうだったかね」
そうゲフェンに話しかけると、なんだか気まずそうにしていて、それから言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。
「役に立てて良かったです。ぼくは力があるし、疲れないので、思っていたよりずっと早く作業が進みましたと。石工の作業が終わったら、大工もやりますよ」
「それは、頼もしいな。流石、元軍人だね。軍には、どれくらい居たんだい?」
「えっ。どれくらいでしょう。でも、長いのは確かです。弟がぼくの少し後に行きましたから……、ざっと、五年くらいでしょうかね」
「片目が見えなくてもそれだけ力があるなら、軍に居ても活躍できそうだが」
私がそう言うと、ゲフェンは、唇を噛んで、私から目を逸らした。
「ぼくも居られるのなら、居たかったんです。でも、視界の半分がないのは、とても重い……。殺されなくとも、殺せない兵はいらない……、と」
「私は、そうは思わないがね。他の国から来たのだろう。文官になるのもいいが、この国で力を使ってみる道もあるよ」
「そもそもぼくが軍にいたのは、力があるからではありません。その、ある方の、その下で働きたかったからそうしていました。その方が文官をと言うならぼくは勉強して文官になったと思います。商人をと言うなら、羊飼いをと言うなら、ぼくはそうしていました。軍人をと言ったので、ぼくはそうして、力があったので長く居て、居心地が良かったのです」
「そうか。今の仕事もその方が?」
「はい──、直接そうではないのですが、あの方の力になることをしているつもりです」
話しているゲフェンの顔はうっとりとして、恋をした乙女のようだった。この強い生命を誑かしている邪悪な女王が、どこかにいるのだ。私だけが心の頼りなのではなかったことに、すこし落胆した。その邪悪な女王がいる限りは、私はゲフェンの本当の父にはなれないことを示していた。きみを捨ててしまうような者のことなど忘れなさいと言いかけて、必死で水と一緒に飲み込んだ。
「早く迎えが来るといいな」
そう答えるのが精一杯だった。しかしゲフェンは、私の目をしっかり見つめて、こう言った。
「でも、正直、ぼくは、揺らいでいるのです」
「なぜだい?」
私は、重くなった胸が軽くなるのを感じていた。さあ、早く、私が期待している言葉を吐くがいい。そればかりだった。
「ぼくは望んでくれる人の下にいつも居ました。最近はその『人』を探して砂漠を彷徨っていた気がします。ぼくはその方のために生きていたはずなのに、軍をやめさせられましたから。あの方がぼくを見限るのなら、ぼくがあの方を見限ってもいいのではないかと」
顔が緩むのを抑えられているか心配だった。口を手で覆って、見えないようにした。
「でも……、いいのかね。人生を捧げてきたのだろう」
「先生と奥さんが、優しくしてくださるから……」
ゲフェンの口の中がちらと見えた。舌が人より細くて、先が割れている。尖って長い歯が、おぞましく、唾液で光っていた。話を聞いていた妻ののどが大きく動いたのを見た。
「あたし、すこし席を外します。二人でお話ししたほうがよさそうだから。縫い物をしていますわ」
そうして妻は、食器を持っていくと、台所から戻ってこなかった。ゲフェンは相変わらず、妻の背中をじっと見つめていた。
ゲフェンは強い生物だが、完璧ではない。少しだが、油断したな、と、思った。これは人の姿をとっている『何か』だ。何なのかはわからない。だが、善良な『何か』だ。拒絶は、しなくてよい。
「すみません。ぼくはなんだか、先生に出会ってから変です」
「きみのような人には私も初めて出会ったから、私も変になっているみたいだ。でも、そんなことはない。初めて同士だ、仕方ないじゃないか?」
安心していた。ゲフェンを下に置ける、この男を私は完全に懐柔している。これが牙を剥いていたら、どうなっていただろう。人でない『何か』が姿をあらわしたら、それこそこの街ごと血塗れになってしまうのではないか。
私は深く息を吐いて、緊張を解いた。
「少ししゃべりすぎました。こんなつもりじゃなかったのに」
「きみのことが知れて、私はうれしいよ」
「……先生、そろそろ勉強しませんか?」
「それもそうだ。どれくらい覚えたか見てやろう」
そう言って外に出た。昨日、帰ってから練習していたようで、十文字は覚えていた。ただし、それは教えた文字の順番通りではなかった。『先生』と自分の名前を覚えたようだった。その選び方に、学ぶことの意欲を感じて、私はひどく嬉しかった。
ゲフェンは日曜日以外の日、火事になった家に向かい、石工をして、ついでに家具も作って帰ってきていると家族から聞いた。しかし、一週間ほどして、残った重い石を運んだら、「もう来なくてよい」と言い渡された。
流行り病なのか、街の体の弱い人々が起き上がれなくなって、とうとう子供と老婆が一人ずつ亡くなった。老婆は火事になった家の三軒となりの家で、子供は家事になった家だった。ゲフェンが火事から助けた娘だった。助けたうちの妻も寝込みがちになって、ゲフェンのマントを完成させると、二日眠り込んでしまった。
この街に二十年以上住んで、このようなことはまったくなかった。いくら体が弱いとはいえ、急に倒れて亡くなる人が続けて出ることはなかった。私は居間の絨毯に落ちた赤い毛を、指でつまんで持ち上げた。
彼が何かしたようには思えない。ただ、『いるだけでそうなってしまう』のなら、誰が悪いのだろう? もしかしたら、治らないという右目があやしい。あの目が呪いを導いているのかもしれない。
では、なぜ、一番接しているはずの私は何も起きないのだろう。彼の手に触れて、上から文字を書いたこともある。毎日食事をとって、毎日過ごしているのに、私の体はおかしくならない。
妻が起き上がれないので、今日の食事は私が用意し、勉強も終えた。ゲフェンは表を見ながらなら、簡単な文章を書けるようになった。ゲフェンは一度家に戻ると、パピルス紙の手紙を私に渡した。ふるえて蛇が這ったような字で、『先生、奥さん、ありがとう』とあった。私は砂埃が目に入ったと嘘をついた。
そうしていると、妻が、ゲフェンのマントを持って起き上がってきた。青い織物で作って、金の刺繍が入ったものだった。同じ色の飾り帯も作っていた。青はめずらしい色だから、これを売ればしばらく飯が食えるほどの出来だ。王宮に持って行っても見劣りしない。妻は刺繍を楽しく、得意としているから、体調が悪くとも続けることができていた。
「奥さん、無理をなさらないで」
ゲフェンはそう言って、妻の震える体を気遣った。私も、「横になっていなさい」と言ったが、妻は聞かなかった。
「ゲフェン、これを持って行って。あたしから渡したかったの」
「こんなに良いもの。ぼくにはもったいないです」
青い織物は、妻が嫁入りの時に持ってきたもののひとつだったように思う。
「いいの。あなた、文官になるんでしょう。なら、これくらいは持っていないと。さあ、着けて見せて」
青いマントは、ゲフェンの大きな体を足首まで覆い隠すことができた。これならば、髪で頬を隠せば、人を驚かせることはないかもしれない。飾り帯をつけるとまとまって、邪魔にならなくて良い。
「でも、受け取れません……」
「困ったら売りなさい。そのためにも持っていってね。もしかしたら、それで命を繋ぐかもしれないから」
よくできた妻だ、と、そう思うことは何度もあった。もともとは、健康で、精神が安定しており、働き者だ。何者かが、この妻を呪っているのなら、許すことはできない。
ゲフェンは妻の手を握ろうとして、やめた。
「すみません。ありがとうございます。持っていきます。ぼく、かならず文官になりますから」
「ええ、頑張って。応援しているから」
そう言った妻はふらつき、転びそうになったが、ゲフェンが体を支えた。私がそうすべきだと思う前に、ゲフェンは動いていた。生命においての強者の動きを見せつけられて、私の肌は震えていた。
「ありがとう。あたし、戻ります。まだ勉強されるの?」
ゲフェンが妻から離れたので、私は妻の体を支えた。
「いえ、今日は、もう」
「きみにもこれを見せよう。奥さんありがとう、とある」
妻は文字を読まないが、文字が文字であることはわかる。私は懐から手紙を取り出すと、妻は顔を輝かせた。
「これ、あなたが?」
「まだまだ、慣れませんけど。ある程度書けるようになったんです」
「まあ、すごい。すぐじゃない? あたしもやろうと思ったんだけれど、諦めてしまったの。こんな女に文字はいらないですしね」
私は、何か嫌な予感がして、妻をゲフェンから離すようにして家に戻した。
「ぼく、もう帰りますね。また、よろしくお願いします」
「ああ、おやすみ」
ゲフェンの言葉を背で受けて、扉を閉めた。妻の息が荒く、体が冷たい。なぜ、冷たくなるのかわからなかった。普通の病なら、熱が出るはずだから、呪いの類いだろうと予想した。何のために妻を狙うのかわからない。家の財産が目的なら、妻ではなく私を狙った方がよいはずだ。
「私が変わってやりたい」
妻を寝床に入れ、そう声をかけると妻は首を横に振った。
「暖かいものを飲むといいよ」
私は台所に向かい、ミルクを温めて妻に持っていったが、その時には妻は寝息を立てて眠っていた。妻の指には、赤い毛が絡まっていた。
私はその代わりにミルクを飲んで、思考を巡らせていたが、妻の体調不良について、やはり、はっきりとした答えは出なかった。
すぐに眠れる気がしなかったので、そのまま過ごしていると、家の外から何か巨大なものがゆっくり這いずるような音が聞こえてきた。もしかして、これなのかもしれない、と、思い、それを見なければならないと意を決して、オイルランプを持って扉を開けた。
そこには、水瓶が転がってあって、その奥に横たわった何かがあった。照らしてみると、黒い鱗が水面のように広がっている。ゲフェンの背中だった。周りには血と這いずり回った跡があった。
なぜ? そればかりだった。気を失っているのかと思ったが、肩を叩いてみると、ゲフェンは起き上がった。
「う、先生、ですか。どうも、すみません。夜中にうるさくしてしまって」
「これは、いったいどういうことかね?」
私は、ゲフェンが怪我をしてもすぐ治るということを知っていたので、体の心配はしなかった。背中に黒い血がついていた。これは時間が経った傷だろうか。腕や腹は赤いので、そこまで時間が経っていないのだろう。オオカミに襲われたにしては、傷つけられ過ぎている。間違いなく人の手によって行われたものだった。
「えっと、これは、ぼくを狙ったものですから、先生は心配ありませんよ。みなさんの迷惑になるので、夜中に水を汲むことにしてるんです。その時に少し……」
「待っていなさい」
私は、前にしてやったように、亜麻布を持ってきて、手当をしてやろうと思った。その間に、息を殺して人の気配を探したが、何もなかった。
「誰かと争ったのかね」
「娘が死んだのはぼくのせいだと。ぼくは何もしていないのですが……。他でもない、ぼくが、その子を助けたのに、どうして殺さないとならないのでしょう?」
傷に亜麻布を巻いてやる。ゲフェンの息が頬に当たった。恐ろしく冷たく、妻の体温を思い出した。
「先生、ありがとうございます」
「いや。きみは抵抗しなかったのか」
「だって、軍人でもない、ふつうの人にそのようなことをしたら……。どうなるかわからないですから」
「……きみはその怒りを全て受けたのか」
「ぼくはこのために産まれてきたのだと信じています。傷がすぐ治るのは、しかし痛むのは、このためであると。ぼくが痛みで叫ぶことで誰かの心を癒すことができるのなら、喜んでそうします。僕の心が痛もうとも、その喜びが勝りますから」
もし、そのような仕組みを作ったのが、われわれの上にある主ならば、なんと残酷だろう。しかし、彼は、あきらかに、私たちと同じくして作られたものではない。そのことに安心を覚えた。
「もう平気です。いつもお世話になりっぱなしですね。また肉を持っていきますよ。奥さんにも元気になってほしいですし、ぜひ、マントのお礼をしたいんです」
「その気持ちは嬉しいが、気にしなくともよい。そうしたら、妻はまめだから、お礼のお礼をして、ずっと終わらなくなるじゃないか」
ゲフェンは手についた血を巻いた亜麻布で拭った。黒い爪が赤く染まっている。全身、傷だらけで、生きているのが嘘みたいだ。驚くと同時に、襲撃の残虐さを想像できた。
「そうしてもいいじゃないですか。ぼくはもう、良い関係を終わりにしたくないんです。だから、何か、贈らせてください」
「では、高価なものはやめなさい」
「はい。先生。特別ならまだしも、何度もは贈られるほうも困りますよね。それでは、ぼくは行きますから」
ゲフェンは転がっている水瓶を担ぐと、鼻歌まじりに歩いて去っていった。もう痛みも感じないらしい。
あの善良な青年を痛めつける人間がこの街にいるだなんて、思いたくはないが、娘を亡くした怒りをぶつける先があそこだというのも、わかる。血の海の中に赤い毛がいくつも浮いている。私はゲフェンの居たところに水を撒いて、血を洗い流した。
やはり何かがおかしくて、おかしくしているのはあの男だという気がしてならない。でも、そうだとして、私はあの子が息子のようでかわいいので、追い出してやりたくない。何処からも拒絶されて流れ着いたのがここだと言うのなら、これで最後にしてやりたいという思いがあった。
日曜日の夜は、静かだ。妻は調子が良いようで、朝起き上がって家事をすると、また新しいマントに刺繍をしていた。夜の祈りを済ませて、そろそろ寝ることにしようかと思ったころ、どうも、ゲフェンのいる小屋のほうが騒がしかった。妻がひどく恐ろしがったので、様子を見に行くと、窓から明かりが漏れていた。
何人かの男の声、木の板に肉をぶつけるような音、ぼたぼたと液体がこぼれる音が聞き取れた。窓に近づいて、そこにかけてある布をそっとめくり、覗いてみた。
五人ほどの男が、何かに群がっている。鈍い音が聞こえたあと、違いなく、ゲフェンの叫び声が聞こえた。そのあと、水の音、笑い声が聞こえてくる。血と酒の匂いがする。
ああ、おそらく、これは昨日受けていたような襲撃だ。まさかこんなに、拷問じみたものだとは思わなかった。そして、驚いたことに、数人の男が半裸であり、ただ暴行を受けているのかと思いきや、性的なものも含まれていた。叫びや呻きの中に、艶めかしいようなものも混じっていた。
「こんなことをして、主が、見ておられますよ!」
ゲフェンが叫ぶが、誰かが「悪魔のくせに信仰心があるのか」と言った。
「ぼ、ぼくは、悪魔なんかじゃ……。う、うぁっ、やめ、やめてっ、嫌っ、それは、どうか、どうか、ゆるしてっ」
ゲフェンは体格がいいから、押さえつけるのは三人がかりだ。一人の男の性器が、ゲフェンの体の中に飲み込まれていくのが見えた。
「お前なんて、恐ろしくもなんともない、淫乱で弱い悪魔だ。人間に組み敷かれて、犯されて、惨たらしい姿を晒すためだけに生まれてきたんだ」
「あ、ご、ごめんなさ、いっ、ごめんなさいっ」
「うちの家内が死んだのは、お前のせいだ、お前が来たから死んだんだ」
「違っ……、ちが、いますっ、から、っ……。だから、こんなことは、もう、よしてください……」
胸がぎりぎり痛んで、押さえつけた。なんだ、これは? 何が起きているのだ? 私は何を見て、何故何もできないでいるのだ? こんなことが現実に起きていて、なぜ、私は止めないのだ? 自分の息子のように想った友人が、暴行を受けているのに?
「だ、だれか」
口を大きく開けて呼吸している。先が割れた舌を引き攣らせ、長い牙が姿を現した。
「誰もお前なんて見てないんだよ。助けになんか来ない」
うねる腰が、地を這いずる蛇に見える。あの大男なら、三人くらい、振り払えるのではないか。だとしたら、あれは、望んでやっているか、言うことをきかされているのではないか。
ゲフェンの片手にナイフが突き立てられて、カラスのような声をあげた。
「っ、うぁ、い、痛っ、痛いっ」
「死なないくせに」
次は、喉目掛けて、つるぎが突き刺さった。目を見開き、黒い血が溢れてくる。床に串刺しにされ、暴れる力も失われていくだろう。石柱のように太い足が震えていた。
「が……っ、はっ、かふ……、ふっ……」
それでもなお、ゲフェンの目の光は失われておらず、助けを求めて、天に向かって、片手を伸ばしている。本当に、空から助けが来ることを信じているようだった。その様子を、男たちは声をあげて笑っていた。彼らには、ゲフェンが、何に見えているというのだ?
ゲフェンの性器が半勃ちになっていて、ぼた、ぼた、と、精が漏れ出していることに気付いた。なぜか、わからなかった。彼はこの行為に快楽を感じているのか? だとしたら、何もできない私が救われる。あれは、いくつもの律法に逆らう悪魔的行為ではあるが、まったく見なかったふりをして、明日も明後日も変わらず接すればいい。起きたことの記憶はなくならないだろうが、三日もすれば、痛みの記憶は消えてしまうはずだ。
腹の上に血だまりができて、その上を白い精が流れている。心なしか、表情も、何かを期待しているようだった。喉を潰されて声はうまく出ないらしく、声というより、口で空気を噛み、飲んでいる音だった。
私は、小屋の外壁にうずくまって、歯を食いしばっていた。助けを求める仕草が、頭にこびりついて離れない。快楽を感じていても、あれは望んだ行為ではないに違いない。どんな音よりも、自分の胸の音が大きい。踏みつけられているような痛み、息苦しさ。彼はもっと苦しいはずだ。
「は……っ、は、はっ、は……」
ゲフェンの腕から力が抜けて、されるがままになっていった。その腕に斧が振り下ろされて、完全に切断された。ゲフェンは口から泡を吹き、がくがく腰を震わせて、射精した。私の唇の端から胃液が吹き出して、服を汚した。助けを求める声も腕も潰されて、彼はいつ終わるか知れない暴行を受け続けるしかない。
少しずつ冷静になってきて、あの状態の男五人に対して、私は、何もできないという答えにたどり着いた。私に今できるのは、あの男たちがうちになだれ込んでこないことを祈り、妻を守り、妻を襲うのなら身代わりになるしかない。ゲフェンは死なないが、妻は死んでしまうのだから。
だから、私はここで男が出てきて、どこへ行くのか見張らなければならない。うちへ向かうのなら、全力で止めなければならない。
ゲフェンは時々体を震わせて、暴行を受けるたびに低く唸り、血を噴き出していた。髪を引っ張られたり、傷口をえぐられたり、皮膚を焼かれたりしている。その間も性的な暴行は止まらなかった。一人が終わったら違う一人が交わった。三人終わったところで男たちは正気に戻ったようになって、傷を負ったゲフェンを置いて、散り散りに去っていった。誰も目の前を歩いていかなかったことに安心し、地面にへたり込んだ。
「……先生……」
私を呼ぶ声がする。思わず向かいそうになったが、隠れていたことを気付かれたくなかったので、しばらくそのままでいた。
「たすけて先生……」
微かだったが。確かにそう聞こえた。私はそれを聞いて、逃げ出した。
次の日、ゲフェンは夕食に遅れてきた。もしかしたらと思っていたが、変わらずに食事をした。
「奥さん、先生、これを」
食事を終えた後、小さな麻袋から、腕輪が二つ出てきた。
「呪いよけの腕輪なんです。よければこれを」
「まあ、いいの?」
妻は最近機嫌がいい。喜んで受け取ると、私につけて見せた。
「見て、素敵だわ。ゲフェン、あなた、見たてがいいのね」
私は何をどうすればいいのか、てんでわからなかった。昨日の悪魔的行為が頭から離れず、眠れなくて、ぼんやりとしていた。受け取って身につけると、体がぞっとして震えてくる。
「これでも足りないくらいですけれど、マントのお礼です」
「ありがとう」と、なんとかそれだけ言った。胸がむかむかして、食事を喉に通すのにも時間がかかった。
「先生、勉強に行きましょうか」
「そうだな、そうしようか」
あまりに様子が変わらないゲフェンが恐ろしかった。外に出ると、いきなりゲフェンが私の手を取った。
「先生、今日は少し話があって。勉強の時間、話を聞いてもらってもいいですか」
「いいよ。どうしたのかな」
胸が痛い。我ながら、私は表情を隠すのが上手いと思う。この男にどれだけ心を揺さぶられたかわからないが、察されたことはないはずだ。ゲフェンに連れられて小屋にやってきた。小屋は掃除されていたが、床には血が染み付いていた。
「実は、昨日、ここで、買った山羊をと殺していたんです。だから、小屋を汚してしまって。掃除はしたんですけれど、このようになってしまって……」
これは、『そういうことだからね』と言い訳をしている気がした。誰かに昨日騒がしかったがと言われたら、ここで山羊をと殺していたからだ、と、答えるように言われてる気がした。
「ああ、そんなことか。気にしないよ。綺麗なことはいいことだが、汚れても、物置きにするだけだからね」
「すみません」
「話はそれだけではないのだろう?」
そうでなければ、勉強しても良かっただろう。そうでない大きな理由があるからだった。
「昨日、ぼくが痛みで叫ぶことで誰かの心を癒すことができるのなら、喜んでそうしますと、そう言ったと思うんですが、そう思えなくなってしまったんです」
「きっかけはあるのかね」
私は、ゲフェンの全身を見回した。傷は残っていない。切断されたはずの腕は、何度見ても繋がっている。何一つも、昨日の惨状を思い起こすことは、体に残っていなかった。
「あります。その、別の街からわざわざぼくを追いかけてきた人がいたようで。その人がぼくのことを傷つけたんです。なぜか……、耐えられないと思って……、いつもなら何とも思わないのに、むしろ、望んでいたのに。先生助けてって思ったんです。傷はもうなんともないんです、でも、ずっと気持ち悪くて」
当たり前だ、あのようなことがあった。私はそれを知らないふりする。どうか、どうか許してほしいと願った。
「きみが、きみの人生を大切に思うようになった証ではないのかな」
こんな、適当な事を言うしかない。情けなさすぎて、涙が出そうなほどだ。
「そうなんでしょうか。それって、いいことなんでしょうか。前のままなら、今日だって何もせずに寝て起きて、それだけだったのに、眠れなかったんです。ぼくはどんどん変になっていきます……」
「いいことだよ。きみは自分を蔑ろにしすぎる。それでは、騙されて、他の者にいいようにされてしまう」
「でも、つらいです。平気なふりは、まだできますが、これがもう何度も起きるなら、ぼくはもう生きていられません。こわいんです……」
ゲフェンはまた私の手を握り、肩に手を乗せ、寄せてくる。冷たい鱗が触れて、あたたかい人肌が触れる。私は動けないでいた。『何か』が、命を狙って首を舐めているかのように思えた。
「ぼくの先生、どうか、あなたの神、どうか、お赦しください」
ゲフェンの胸に耳が当たるが、そこからは何も音は聞こえなかった。それよりも、自分の胸の後の方が大きかったので、そう思ったのかもしれない。しばらく、そうしていた。一刻、一刻と、時間は過ぎ去っていった。それ以上のことを、彼はしなかった。もし、本当に悪魔なら、私の柔らかい首筋に牙を立ててしまえば終わりだった。
「先生と話していると、不思議な気持ちになります。先生、ぼくは、何に見えますか?」
手を離して、一歩下がった。不思議なことに、ゲフェンの体表からは、鱗が消えていた。体格の良い、中性的な顔をした美青年がそこにあった。頭には輪があって、それが輝き、その輝きで目が、頭が、焼き切れそうになった。背からは黒い翼が生えていた。
「きみは、一体、『何』なのだ?」
「先生が望むように。ぼくはそう決めました。なんだか、一目惚れをしていたようです。ぼくは、最初に会ったその時から、あなたに惹かれてたまらない」
「でも、いけない。それは主の下で許されることではない。きみの国では違うかもしれないが──」
彼の緑の目、縦に長い瞳孔が、不安を視線で伝えてくる。好奇心で、髪をかきわけて、隠れている右目を見ると、そこには怪我をしたような跡があり、目が潰れているようだ。瞼の皮膚を伸ばして縫い付けられている。眼球があるべき膨らみが無かった。
「あっ、先生、それは……。だめです、恥ずかしい……。触らないで、ぼく、勘違いをしてしまう。触れられなくなったら、勘違いに、気付いてしまいます……」
「少し落ち着きなさい。きみは、今、すこしばかり興奮しているようだ。ゆっくり呼吸しなさい」
「わかりました、先生、でも、ぼく、息が苦しくて……。先生に、ぼくの気持ちを、わかって欲しくて、いてもたってもいられず、わけがわからなくなって……」
「私は、なんでもない、ただの男だ。君をおかしくさせる力なんて、ひとつもないのだから」
人差し指で、瞼の傷跡をなぞった。石のような硬い感触がする。私は、彼が期待しているようなことはしない。主を、妻を、先生と呼び慕ってくれる住人を裏切ってしまう。ゲフェンは慰めを必要としているし、そうだと主張もしているが、これ以上のことは、私はしてやれない。
少し落ち着いたのか、言われた通りにゆっくりと呼吸し、おだやかな表情に戻っていった。きっと、きちんと言葉にしてしまえば大罪になることだから、ぼかして表現するしかなかった。彼の中で、どのような感情であるかは整理されている。私は男で、妻がいるのだ。
「この、目の呪いは、どうあっても解けないのかね」
「──実は、呪いではありません。奇跡をもったひとに殴られて、元に戻らないんです」
「奇跡?」
「もう、昔のことですから、忘れてしまいました。先生は、ぼくのこと忘れないでいてくれますよね?」
「こんな変わり者、忘れる方がむずかしい」
「そうですよね」
いつのまにか光は消えて、翼もなくなり、体表に鱗が戻って、いつもの姿になっていた。気のせいだったのかもしれなかった。あまりに驚いて、幻覚を見たのだろうとして、納得した。
「先生、どこまで見ましたか?」
「何を」とは、言えなかった。全身が凍りついて、舌が下顎に貼り付いて動かなくなった。瞬きができなくなって、眼球が乾き出したころ、私は考えをまとめて、声を絞り出した。
「と殺をかい?」
「はい」と言った、ゲフェンの目は、さっきとうってかわって、冷徹であった。
「小屋が騒がしかったので、妻に言われて、様子を見にいったよ。でも、終わっていたのかな。それらしい音は聞こえなかった」
「周りに人は居なかったですか?」
「三人か、それくらいが、小屋から出ていったのを見た。手伝ってもらっていたのか」
「いえ……。山羊をと殺したのはほんとうなんです。ただ、強盗に入られました。山羊の肉と奥さんのマントを持って行かれたんです」
「そうか。きみの身代わりになれたのなら、それ以上のことはないさ」
「死なない命の身代わりに、何の意味がありましょう。ぼくに命など無いにも等しいのです」
お互い嘘をついていて、お互いにそれがばれている、と、思った。探り合うような会話で、ゲフェンは、いつもの、少し甘えたような声と態度ではなかった。自分が死人だとでもいうのか。彼は死体のように冷たくて、そして、人肌のように暖かいというのに。
「先生、ぼくの、真の名を聞いてくれますか。これから先、困った時、恐ろしい目に遭った時、唱えてください。呪文のように。そうしたらね、ぼくは、どこからだって助けにきます。ぼくは、あなたの、人生の、奴隷になりたい……」
ゲフェンは大きく腕を開いた。もし、私が若い娘であったなら、そこに飛び込んでしまいそうだった。
「きみは、前に仕えていた方にも、それを?」
「はい。あの方は、毎日ぼくの真の名を口にしました」
「いまは、だめだ。その方と、縁を切ってからになさい」
私は、この男の全てを手にして、元に戻らなくしたかった。今のままでは、戻ってしまうと思った。ゲフェンは驚いた顔をしたあと、大きく頷いた。
「わかりました。必ず、そうします。あなたのために。あなたの神のために」
「今夜のことは、誰にも言ってはならない」
念の為にそう言った。このようなやりとりがあったことは、誰にも知られてはならない。私の人生において、最も隠さなければならないこととなった。ゲフェンは小さく「はい」と言った。
「話はこれで終わりです。すみません。困りますよね。いつ離れてしまうかわからないですから、どうしても伝えておきたくて」
「いいや。私は、きみを、息子のように想っているよ。きみの気持ちはわかった。だが、まだ、それだけにしておきなさい。この長い一生を急ぐことはないだろう。ゆっくり考えなさい」
そう言っておきながら、私は、きっと彼は正直で純真だから、どうせここに戻ってくるだろうと思いなおして、わざとらしく余裕を見せていた。私が本気なら、旅に出て、主の見ておられないところへ行かないといけなかったところだ。
「はい。では、また、明日。楽しみにしています、先生」
「ああ。気をつけて。では」
私は小屋を出て、自宅へと戻ろうとすると、自宅の前に妻が立っていて、憔悴した様子だった。
「どうしたのかね。危ないから、家の中へお入り」
そう声をかけると、妻が駆け出して、私に抱きついてくる。
「あなた、無事でしたか」
ゲフェンを襲う者たちは居なかったが、治安が悪くなっているのに変わりはない。山羊のと殺はうそだが、マントは本当に盗まれたかもしれなかった。私は泣き出した妻を宥めて、家に戻った。
「何かあったのか。話してごらん」
「あなた、どうか、おねがいですから、あの悪魔と付き合うのは、もうおやめになって」
真っ青な顔に、髪が貼り付いていた。
「悪魔? 悪魔とは? ゲフェンのことか?」
「そう、そうです」
私は怒りを露わにしそうになったが、なんとか、抑えた。あの善良な男を、くだらない噂話にして、言いふらし、信じている妻に、怒鳴ってしまいそうになった。彼が良くないことを呼び込んでいる気がするのはわかるが、彼の行動は称賛されるべきだのに。「おまえは、あの子がどれだけ苦しんでいるか、知っているくせに、悪魔と呼ぶのか」と、喉から出かかった。
私は失望した。妻は私と同じ想いでいると思ったのに。一緒に食事をし、話をしたのに、それでもわかってもらえなかった。あれほど優しくて、心の清らかな青年は、世界のどこを探してもいないだろう。
妻は冗談や、嫉妬でそう言っているのではなく、本気でそう思っている。演技だとしたら、たいしたものだ。
「人に化けていたんです。さっき、家を出る時、おそろしい蛇の悪魔に姿を変えたんです。追いかけたかったけれど、恐ろしくて、動けなくて……」
「疲れているんだ。さっきまで話していたが、もちろん、彼は悪魔ではないよ。そんなこと、あるわけがないだろう。夜中まで針仕事をするからだよ。しばらくやめておきなさい」
「でも……」
私はだんだん苛立ってきた。自分を落ち着かせるために、水を飲んで、大きく息を吐いた。妻は不安でたまらないらしく、部屋を彷徨いている。大粒の汗が絶え間なく流れている。この様子は、前にもあった。蛇の悪魔に見えたことが、私にもあったが、あまりに一瞬すぎて、気のせいだと思ったが、それを私が信じてしまっては、あの子があまりに救われない。
「だって、本当だったんですもの。何度も気のせいだと思った。でも、今日はずっとそうだったんです。大きな蛇の悪魔に、確かになったんですもの」
家を飛び出そうとする妻の腕を引いて止めた。
「私が、見てこよう。それでいいね?」
そう言って妻を家に押し込めた。また、外に出ると、街の中心のほうから足音がしてきたので、また誰かがゲフェンの元に来たのかと思った。近付いてくるそれは、旅人だった。杖とランプを持ち、汚れた服を着て、少しの荷物を背負って歩いていた。
旅人は、旅人として、特におかしい様子はなかった。歳は三十代ごろで、髭をたくわえていた。黙って通り過ぎ去っていくかと思いきや、私の元にやってきて、「こんばんは」と挨拶をしてきたので、「どうも」と返した。そうして何も起きず歩いていったので、私は再び小屋に戻ろうとして、扉を叩き、返事を待たずに開けた。
「先生? どうされました? やっぱり、ぼくの名を──」
「危ない!」
ゲフェンが立ち上がって迎えたところを、後ろから強い風が吹いて、ゲフェンが倒れた。何事かと思い振り返ると、ついさっきすれ違った旅人が立っていた。大きな、黒い槍を手にしていた。その傍らに、黄金色に輝く、翼を持った、御使いがついていた。夜中にもかかわらず眩しく感じるほどで、美しい波のような髪を持っていた。御使いというものを見たのは初めてであったが、私は、本能で、これが主の使いであることを理解できた。
私が何か言うのを待たずに、旅人は倒れたゲフェンの胸に槍を振りかぶって地面に深く串刺しにし、動けないようにしてしまった。
ゲフェンは立ちあがろうともがいたが、御使いが足で頭を押さえつけた。
「悪魔の言葉を聞いてはいけない。あなたのような知識のある人を狙っていた」
御使いがそう言った。神の国からきたものであろうと、説得力がある姿をしている。ゆったりとした、白い、汚れのない衣服、人を飛ばすには頼りないが、それでも大きな白い翼、高くて細い鼻と、つややかな唇、真っ白な肌は、まったく、性別を感じさせなかった。さっき見た、鱗のないゲフェンとよく似ていると思った。
「この悪魔を殺すことは、本来、できません。これでも、元々は偉大な天使だったのです。間違いを犯し、追放されました。人を拐かし、眷族としようとしていたのです。信仰があれば、強い力を持って、主に反逆できると思っていたのでしょう」
落ち着いた青年の声がする。彼はなんという御使いなのだろう……。足元では、ゲフェンが、地面に爪を立てて苦しそうに呻き声を漏らしていた。
「ほんとうに、危ないところでしたよ。この街に悪魔が住み着いたという話を聞いて、これでも急いでやってきたのですが……。しばらく休養された方がいい。ひどい顔色です」
旅人がそう言って、唖然としている私に手を伸ばしてくる。掴む気にはなれなかった。ゲフェンは、彼はどうなる?
「彼は、悪魔ではありません。心優しく、親切な、ただの、男ですよ」
御使いの神性に負けそうになりながらも、なんとか、言葉を差し出した。
御使いが、空中を一回転する。水の中で泳いでいるように見えた。私の頬を掠めるくらい、ぴったりと横に飛んで、耳元で言葉を紡ぐ。
「あなたにはそう見えているのですね? だから、この悪魔はあなたに近づいたのです。知識があるから、死をどのように考えているのか、ただ恐ろしいわけではないと知っていたから、人語をあやつる心優しい青年に見えていたのです。そうでもない人間には、恐ろしい大蛇の悪魔に見えたでしょう。死を表した姿です。力のない女に見立て、暴行して、身内の死に折り合いをつけるため。そう見えることがあるとも聞いています」
「彼を痛めつけるのはやめてください。私の友人だ。この街から出ていけば文句はないのですね?」
「わたしは、追い出すためではなく、殺すために、この地に来ました。この槍は主から賜った奇跡の槍です。悪魔の体を貫くためのものです。体はずっと残りますから、街から離れたところに運ばねばなりません」
止めることはできないと、諦めた。啓示を受けた彼らが、ゲフェンを悪魔だと言うのなら、それこそ、『本当』に、主が見ている。この甘えたが、大天使だったとは。もしかしたら、君の頭を踏み潰していたこの御使いよりも上位の存在だったのかもしれない。
「それを見届けさせてはくれませんか。手が必要なら手伝います。彼は悪魔でも、友人でしたから。それに、彼の体を置いておくのに丁度いい、街外れにある洞窟も知っています」
「では、そこへ案内をしてください」
御使いが手を掲げると、ゲフェンの体が輝き、浮き上がった。槍を掴んで抜き取ると、たくさんの血が音を立てて落ちていった。ゲフェンは肩で息をしていたが、まもなく、止まった。そこに再び、旅人が、槍を突き刺した。恐怖が張り付いた表情があわれで、瞼を落とし、こわばった顔の筋肉を解くように、顔に触れた。
「もし、ほんとうに、あなた、大丈夫ですか? お気持ちお察しします。きっと、よき関係であったのでしょう。誰もあなたを責めません。知らなかったのですから。悪魔も、あなたのような者と、最後に交流できて、幸せだったはず。あなたが、罪悪感など、もつ必要はありませんからね」
旅人が、私の背中をさすった。暖かくて硬い、人の手だ。気分が悪い。吐いてしまいそうだ。もし、ゲフェンと私の立場が逆だったならば、彼はなんとしてでも止めてくれただろう。自分が処刑台に連れていかれるような、足取りの重さだった。力の抜けた彼の体を、愛おしく思う。私は、死を、どのように認識していたのだろう……。
「なんともありませんよ。たくさん驚きはしましたが、今は落ち着いてきました。ところで、この悪魔の名を、ご存知なのですか?」
私は旅人に話しかけたつもりだが、少し先を飛んでいた御使いが振り返った。
「この悪魔は、大天使サマエルの成れの果てです。あまり、こちらでは、名を知るものはいませんが。死を司る天使でした。この槍も、もともとは、これの持ち物です。主から愛されていたのにもかかわらず、今では、力を失い、砂漠を彷徨い、乾いた死骸を喰らって消す程度のことしかできないのです」
「悪い天使だったのですか?」
御使いは、前を向き直した。しばらく悩んで、そのまま話し出す。
「悪くはありませんでした。真面目に仕事をしますし、おだやかな気質です。ただ、少し好奇心が強く、人と仲が良かった」
「そうですか。私の思っていた通りでした」
そして、しばらく黙って歩き続け、街のはずれの岩場の洞窟までやってきた。人が二十人ほど入る広さで、上には隙間がいくつかあるので、雨の日は少しこぼれてくるが、日の光が差し、星も少し見える。私が若い頃に見つけた場所だ。よく、ここで、砂キツネを飼っていたものだ。ここなら彼も、寂しくないだろう。
御使いが彼の遺体を仰向けに下ろし、潰れているほうの目に向かって槍を下ろした。指が少し動いた気もする。傷だらけの胸と腹をなでてみると、体の表面はもうすっかり冷たい。
「この槍を抜いてはいけません。元々は大天使の身体です。何千年もの時を耐えるでしょう。じわじわと傷が癒えて、起き上がれば、災いのもとになりかねない。この槍は、悪魔の体を殺し続けるためのものです」
広げられた手のひらには、さっき男たちにつけられた傷があった。塞がってはいたが、新しい肉の色が目立っていた。そこに、旅人が、杭を打ちつけ、両手両足を動けないようにしてしまった。じっと傷口を見ていると、杭を飲み込むように塞がっていった。
「燃えてしまえばいいのですが。遺灰から起き上がるかもしれません。遺灰をすべて回収するのは不可能です。痛々しい姿ですが、こうするしかありません」
旅人は祈り、道具をまとめて立ち上がった。御使いは私の頭上に飛び上がった。
「主は見ておられる」
そう言うと、御使いは、消えてしまった。
「──それでは、私も、行きますね。お元気で。あなたに祝福がありますように」
旅人は振り返らず、しっかりとした足跡を砂の地に残し、どこへ向かうのか、もう決めているらしい。
私は、彼のそばに座り、腰を縛っていた青い飾り帯を、形見にするため抜き取った。血が染み付いていて、もう使い物にはならない。槍を抜いてしまえば、また、すぐに、先生、と、呼びかけてくるのだろうか。彼はひとつも私を責めないで、くしゃくしゃに笑って、喜んでくれるだろうか。
今から、君のために、私にできることは、ここで生を終え、神の国で彼を探すことしかないだろうか。
「こんなになってまでも、君は、名を呼べば、私を助けに来てくれるのか?」
御使いが口にした名前は、本当に、私に授けられた呪文なのか。
震える手で、槍を握ると、まるで生きているかのように脈打っていた。これが、動いていないゲフェンの心臓なのだと思った。
「サマエル、私を赦してくれるか。全てを見聞きし、おまえの全部を見捨てた私のことを」
そう語りかけるが、あたりまえに、ぴくりとも動かない。御使いの言ったことが本当ならば、彼は今この瞬間に、死を何度も経験しているところなのだ。
知っていたのだろう、わかっていたのだろう、何もかも、すべて。
槍を抜くと、大きな緑の目が開いた。何事もなかったかのように、息を吸って、吐いた。その時、街の方から恐ろしい地揺れのような音がして、空気が熱くなった。洞窟を抜けてみると、赤い炎が天まで伸びていた。世界が終わっていくような、美しい光景だ。妻が、友が、教え子が、燃えている。誰の顔も、黒く塗りつぶされたようになって、もう、思い出せなくなっていた。
「先生」
振り返ると、ゲフェンが起き上がっていた。杭は手のひらに刺さったまま、地面からは解き放たれていた。大きな手で杭を抜いて、捨てていく。私の体から力が抜けていって、とうとう倒れて、頭しか上がらなくなってしまった。
「先生、ぼくを助けてくれたのですね。何もかもを犠牲にしたのですね。なんてことをしてくれたのですか? ぼくは、このままでもいいって、諦められていたのに」
声が出ない。口を開いても、空気が抜けていく音しかしなかった。
「ねえ、ぼくの手を握る手が、なくなってしまったじゃないですか? もう、お話もできないし、先生、あなたの知恵も、知識も、すぐに失われていくのですよ。先生のせいで、先生が主の意思に逆らったから、天から星といかづちが落ちてきたのです。街のみんなも、瞬きする間に、のどを焼かれて、叫び声すらあげられないまま、骨も残らず、屑になって消えていくのですよ」
自分の姿を見ると、体には、ゲフェンの黒い鱗と同じものが、びっしりとこびりついていた。全身が、鱗に覆われ、手足を動かそうとしても動けなかった。
「でもね、先生、これでぼくとずっと一緒にいられますね。もう、邪魔するものも、しがらみも、何にもありませんね。先生がそう思ってくれていたなんて。ぼく、とても嬉しいのです」
ゲフェンの体にぴったりくっつくと、お互いが冷たくて、気持ちいい。私の顔に、ゲフェンの大きな顔が近づいて、私は、その鼻の頭に口をつけた。
「こんなに可愛くなってしまって。きっと、この小さな頭では、もう何も考えられないでしょうね。可哀想に」
洞窟に戻るゲフェンを追った。目線は低い。彼の足首とふくらはぎで、視界がいっぱいになる。
「先生、ぼくはね、いつも、あなたのような人を誘惑して、いくつも人を殺してきたんです。今のぼくには力がありません。だから、こうして、人を誑かして、自分の力のように主の力を使って、悪人の街を焼くのです。サマエルという悪魔は主と同じ力を使えるんだって、示すのですよ。そうしたら、そのうち、力が戻ってきますから。最後には、ぼくと、先生と、もっとたくさんの哀れで無害で愚鈍な蛇と、楽園でなかよく永遠に暮らすのです。ねえ、肉をお腹いっぱい食べて、ぶどう酒を浴びるほどに飲んで、わけがわからなくなるまで、セックスするのです。先生もそうしたいですよねえ……?」
大きな声で笑っている。心の悲しみや苦しみからは、もう解き放たれている。そこまで思考が行きつかない。たくさん肉を食べて、ぶどう酒を啜って、セックスがしたい。それだけだ。
「心優しい青年を糾弾した街を、主がお許しにならなかった。主のお言葉であるところの、御使いと預言者の言葉を守らず、悪魔を解き放った先生が、醜い大蛇に変えられた。事実はそれだけです。ぼくは、堕とされていても、信仰を失ったわけではありませんから。主は、ぼくをも利用しているのでしょうね」
頭を撫でられて、心地よさを表現するために、目を細めようとしても、瞼がないので、できなかった。醜いと言われても、心は動かない。私には、心が、もう、ない。声が聞こえるという事実しか、ない。
「実はね、先生のこと、そんなに好きじゃないですよ。先生は、ぼくに、愛されていると思ってくれていたのですね。好きでいてくれたのですね。先生は、家族に、奥さんに、街の人たちに、うんと愛されて生きてきたのですね。だから、それが当たり前なんですね。愛されたら、愛してくれるのですね。あ、ねえ、先生、火が綺麗ですよ。たくさんの魂が煙に乗っているのが見えますね。ああ、でも、見えるのはぼくだけでしょうか……?」
遠くからでも火花が見える気がする。洞窟の入り口が真っ赤に染められている。事実だけしかわからず、予想も想像もできなくなっていく。半分眠っているような感覚だ。
「先生と夢見るのも、悪くなかったかもしれませんね。たくさん嘘をついてごめんなさい。嘘を信じてくれてありがとう、先生。きっと、楽園で、また会えますからね」
なんと言ったのかね、と、いつものように返したくとも、首を傾げることでしか、相手に伝える方法はわからなかった。
「……せんせい?」
それが私を示す音の並びなのは理解していた。それだけしか、もう、わからないのだが、それだけは老いても、死ぬ寸前まで、覚えていられる気がする。
「縺ュ縺医? √≠縺ェ縺溘? 縲∬? 蛻?? 縺薙→繧偵? ∫音蛻・縺? 縺ィ諤昴▲縺ヲ縺? ∪縺励◆繧医? 縲ょ捉繧翫h繧翫>縺? 腸蠅? 〒閧イ縺」縺ヲ縲∵枚蟄励? 隱ュ縺ソ譖ク縺阪′縺ァ縺阪k縺九i縲∵? 縺ョ遏・諱オ繧偵←繧薙←繧鍋炊隗」縺吶k縺薙→縺後〒縺阪∪縺励◆繧医? 縲ゅ>縺セ繧ゅ? √◎縺?? 昴▲縺ヲ縺? k縺九b縺励l縺セ縺帙s縺ュ縲」
いかづちがいくつも落ちて、池をひっくり返したような雨が降る。体を丸めて温めようとしても、体温が上がらない。
「縺ァ繧ゅ? 縲、先生、縺ゅ↑縺溘↑繧薙°縲∝? 辟カ縲√⊂縺上↓豈斐∋縺溘i迚ケ蛻・縺倥c縺ェ縺?? 縲ゅ%縺ョ荳也阜縺ォ縲√↑繧薙↓繧ょスア髻ソ繧剃ク弱∴繧峨l縺ェ縺?? ∵ュエ蜿イ譖ク縺ォ繧ょ錐蜑阪′谿九i縺ェ縺? ュ伜惠縺ェ繧薙〒縺吶h縲ゅ◎繧薙↑縺ゅ↑縺溘′縲√⊂縺上→遏・繧雁粋縺」縺ヲ縲√⊂縺上? 諱舌m縺励&繧剃シ昴∴繧玖寐縺ィ縺励※逕溘″繧峨l繧九h縺? ↓縺ェ繧九s縺ァ縺吶h縲り憶縺九▲縺溘〒縺吶?」
硬い音と、衝撃が頭に伝わってくる。痛い、痛みが全身を走り、危険から逃げなければならない、と、その考えで支配される。暴れても、頭部が何かに固定され、この場から去ることができない。
(痛い! 痛い、痛い! やめてくれ!)
ゲフェンが歯を見せている。
「縺茨シ滉ス包シ菴輔°險? 縺」縺ヲ繧九s縺ァ縺吶°? 溘#繧√s縺ェ縺輔>縲√⊂縺上↓縺ッ陋?? 險? 闡峨? 繧上°繧翫°縺ュ縺セ縺」
(やめろ! 死んでしまう! 何が起きているのだ? 今すぐこの苦しみから解き放ってくれ、サマエル!)
「蜿ッ蜩? 諠ウ縺ェ先生。菴輔b縺九b螟ア縺」縺ヲ縲∝多縺セ縺ァ螟ア縺? %縺ィ縺ォ縺ェ繧九↑繧薙※縲ゅ%繧薙↑莠コ逕溘? ∬ェー縺梧悍繧薙□縺ョ縺ァ縺励g縺?? ゅ″縺」縺ィ縺ゅ↑縺溘? 讌ス蝨偵↓縺ェ繧薙※陦後¢縺セ縺帙s縺ュ縲ゅ⊂縺上→縲√◎縺薙〒縺セ縺溘? ∽シ壹∴繧九→縺?>縺ァ縺吶? 縲」
体の先が冷えて、動かないのは、寒さのせいではない。もう痛みもない。痛みから逃れた先にあるのは、死だけである。私は、死から逃れるためだけに生きていた。
「……ね、せんせい?」
預言者が、乾いた大蛇の亡骸を見つけ、大きく息を吐いた。彼が、見せしめに焼かれた街を見るのは、二度目だった。悪魔に恐れを抱かせるために、子供が眠る前に聞かせる話になったのは、それから、およそ二百年後のことであった。