25人全員に相応の見せ場を用意したつもりですが、作劇の都合で雑に殺害されてしまうキャラクターが数人居ます。また、作中ではキャラクターのことを侮辱したり尊厳を破壊するシチュエーションや描写がありますが筆者は湊友希那をはじめとする全てのバンドリキャラクターを愛しています。この思想が理解できない場合、本作品を読むことをおすすめすることはできません。
下記のリストは作中で殺害される(死亡する)キャラクターのリストです。上から順番に殺害されます。
・死亡者リスト・
山吹沙綾
青葉モカ
羽沢つぐみ
氷川日菜
氷川紗夜
丸山彩
白鷺千聖
若宮イヴ
白金燐子
奥沢美咲
松原花音
北沢はぐみ
瀬田薫
弦巻こころ
宇田川巴
宇田川あこ
大和麻弥
美竹蘭
上原ひまり
花園たえ
市ヶ谷有咲
牛込りみ
戸山香澄
今井リサ
湊友希那
腹から鳴る地響きのような音により男は自らの空腹感を自覚した。
食べたいものはなかった。脳裡にいくつかの料理を思い浮かべても魅力だと思えなかった。料理を造ることも面倒だった。何か買うとしても億劫でやる気がでてこなかった。腹の音が再び鳴った。男を急かしているかのようだった。面倒な腹だった。我が儘な腹だった。なぜ人間には食欲などというものが備わっているのか男は不思議だった。三度目の唸り声が響いた。人間を生物学的に批判したところで空腹がどこかに消えるわけではなかった。
男はそろそろこの腹の音が周囲の誰かに聞かれてしまうのではないかと危惧した。夕暮れ時の商店街は人々で賑わっていた。そんな中でだらしなく腹の音など鳴らしていれば、すれ違いざまにくすくす嗤われてしまうような気がした。そんなこと嫌だった。故に男は周囲を眺め、最初に鮮明に映った『やまぶきベーカリー』とやらに足先を向けた。
「いらっしゃいませ!」
男は面食らった。入店すると同時に焼けた小麦粉のにおいが顔一面にぶちまけられ、男は一瞬だけ呼吸困難に陥った。溌溂とした声の主は店の奥に立っていた。カウンターにつき、店番をしているらしい若い娘だった。男はトレイもトングも持たぬまま店内をすたすたと歩いてカウンターに向かった。娘はミルクティーのような優しい色の長髪を後ろにまとめ上げ、深い青色の瞳でにこやかに佇んでいた。カウンターは広いものではなかったが狭くもなかった。男から視て左手側に巨大なレジが設置されており、その隣はレジカウンターへの入り口部分になっていた。
「何かお探しでしょうか?」
無言の男に対し娘は変わらず快活に訊ねた。店専用のものか、エプロンを着た立ち姿は清潔に整えられていた。男は娘から目を逸らし店内の窓を視た。具体的には薄らと反射する自分の姿を確認した。黒色の野球帽に黒色のマスク、黒色の長袖パーカーはチャックが全開だった。黒色のシャツに黒色のズボン、黒色のスニーカーに黒色の肩掛け鞄という出で立ちはこの店にふさわしくないような気がした。
「あの、お客様……?」
娘の声により男は現実世界に帰還した。真正面を視ると娘と目が合った。娘は男を覗き込んでいた。何か不審な客の真意をどうにか読み取ろうとしているようだった。男はその上目遣いから逃れように視線をあちこちに飛ばした。焼けた小麦粉のにおいが鼻をつき、男は咳き込みそうになったがどうにか耐えた。どこの棚にもパンしかなかった。男はなぜこの店にはパンしかないのだと疑問に思った。
「お、お客さま……?」
次の瞬間、男は右手で娘の頭部を勢いよく掴みレジに叩きつけた。ガコッ、という硬い音と娘の悲鳴が短く響いた。男は腕を持ち上げた。後頭部から唐突に生え、うねりうねりと伸びるポニーテールを鷲掴みにしてもう一度レジに激突させた。先ほどより湿り気を帯びた音が鳴り、店内壁際に血潮が散った。男は止まらなかった。何か走り出したかのように何度も何度も何度も娘の顔面をレジに叩きつけた。
適当なところで男は腕を止めた。持ち上げて視てみると、娘の顔面はすっかり変形していた。頬肉が裂け、鼻の骨が砕けて額が歪んでいた。崩れた眼窩の奥で眼球が確認できるが、左眼球は爆発したかのように弾けていた。右眼球は生きている人間ではありえない角度で上向いていた。男は左手を使って眼球を二つとも引っ張り出そうとした。しかし眼球は予想以上に奥まった位置にあり、男はどうにかほじくり出すように眼球を二つ誘い出した。
「こんにちわー」
能天気な声色に反応して男はカウンターに隠れた。声の主は店に入店する客のものだった。店番の娘を傍らに置き男はカウンターから少し顔を出して客を確認した。客は店番をしていた娘と同世代に思えた。ベージュ色の短髪で緑色の瞳を持ち、温厚そうな顔立ちだった。
「あれー? さーや、いないのー?」
とろけた声色のまま娘は店内をぐるりとうろつき、何度か「さーや」と呼びかけては納得のいかない表情をしていた。
「うーん。おかしいなー……」
娘がカウンター前までやってくると男は右腕を突き出した。素手の中には店番の娘の眼球が握られており、男はそれをカウンターに叩きつけた。音に驚いたのか娘は肩身を一瞬跳ねさせた。視線がカウンターの上に集中している間に男は身体を勢いよく持ち上げて登場した。
「な、誰……」
唖然とする娘の頬に男は平手打ちをした。パシッ、という軽い音が鳴り、娘の頬が軽く傾いた。娘は今まさに引っ叩かれた左頬を片手で覆い、「え、え……?」と困惑していた。男は娘を無視して歩き出した。このパン屋の出入り口扉に向かい、吊り下げられた札をひっくり返して鍵をかけた。札とは店の状態を示すものだった。表には『開店中』、裏には『閉店』と書かれており男が入店した際は『開店』の面を店の外に対して表示していた。男がひっくり返したことにより外に対して『閉店』を表示し、また扉の鍵をかけたことで事実上の密室が完成した。
扉を背に男は娘を視た。平和主義を具現化したような柔らかい顔つきにひびが走っていた。目元は特に恐怖心で限界に達し、声ひとつまともに発することができていなかった。男は娘に近づきながら自分の素手を視た。先ほど、店番の娘を殺害し眼球を摘出した際に両腕は血液で汚れていた。男は陳列棚からフランスパンを一本握り、右手で構えると「ま、待って……」と喉を強張らせる娘に向かって大きく振り被った。
「ごがっ!」
勢いよく空を切るフランスパンの先端部分が娘の左頬に激突した。パンはそのまま骨格を粉砕しながら娘を弾いた。男は腕を振り上げた。床に伏せる娘は頬を素手で押さえていた。熱を伴う激痛にそうすることしかできないようだった。男は娘の頭部に向かってフランスパンを振り下ろした。若々しい頭蓋を砕く感触が直接素手に伝わった。陥没した箇所から脳漿が飛び散り、血液と混ざって店内のあちこちに飛散していった。
男はフランスパンに娘の体液が染み込み、すっかり柔らかくふやけるまで何度も何度も娘の顔面を殴打した。
フランスパンで殺害した娘の名前は青葉モカというようだった。
モカは現在高校二年生で、通っている学校はあの羽丘女子学園の高等部のようだった。また店番の娘の本名は山吹沙綾だった。沙綾もモカと同様に高校二年生だったが、通っている学校は花咲川女子学園だった。
モカの殺害後、所有物を漁ったことで男はモカや沙綾などの情報を入手した。全てモカが所有していたスマートフォンから得たものだった。この商店街ではチェーン店より個人経営の店のほうが多く、『やまぶきベーカリー』もそのひとつだった。そのテの店で一人で店番をしており、さらにモカが客にしてはフランクな態度だったため『店番の娘=経営側の人間』と推測、「さーや」と呼んでいたことから名前を予想し後は連絡先一覧の検索機能で適当に入力して辿り着いた。
慣れないスマートフォン操作を終えると男は端末を全て破壊した。
男は鞄からのこぎりを取り出した。それは片手で十分に扱えるように調節されたものであり、男は右手でのこぎりを握った。モカの死体を仰向けに広げ、胸元に馬乗りになると首に刃を当て左右に激しく動かした。常に威嚇をしているかのような鋭利な刃はモカの皮膚を簡単に切り裂き、溢れ出る血を巻き込みながら肉を乱雑に処理した。のこぎりの刃が頸椎に触れると男は体重を落とした。のこぎりを握る手を力み、下向きにより意識して腕を振るった。溢れ出る血液の量が一気に増えた。それはまるで血で満たされたプールの中を必死に漕いでいるような感覚だった。ベキッ、という軽い音が鳴り、首に接続されていたモカの頭部が唐突にだらしなく脱力した。のこぎりの刃が頸椎を断ち切っていた。ここまでくれば後は折り返しだった。男はのこぎりを順調に奥まで進め、うなじに位置する皮膚をぷつりと最後に切り裂くとのこぎりを手放した。
男はモカの頭部を掴んだ。頭髪を握り込むようにし、上向きに起こすとモカの頭部は完全に持ち上がった。モカは目を閉じていた。男は左手で瞼を左右とも強引に動かした。瞳の中に光はなかった。そういう色の膜を貼り付けただけのような眼球は二つとも無事で、瞼を戻すと男はモカの生首を鞄の中に押し込んだ。やまぶきベーカリー店内をひと通り清掃し、男はあの札をひっくり返しながら退店した。店内は血飛沫ひとつ付着していなかったが、顔面が崩壊した死体がひとつ、頭部が欠損した死体がひとつ丁寧に置かれていた。
羽沢珈琲店、という名前を男は思い出していた。それは先ほどのスマートフォン操作の中で知った店だった。次はここに行こう、と男は膨れ上がった肩掛け鞄を撫でて意気込んだ。
深夜になって男は動き出した。
服装は日中と変わらない全身黒色だったが一新されていた。やまぶきベーカリーから帰宅後、真っ先にあらゆる服も帽子もマスクも男は放棄した。大きなゴミ袋に投げ入れ、そのゴミ袋をさらに黒色のゴミ袋に入れて強く縛った。他のゴミと一緒に捨てる予定だった。現在着ている衣服はすべて新品のものだった。鞄も同型の新品を使用し、中にはひと通りの道具やモカの生首が詰め込まれていた。
羽沢珈琲店の位置は事前に正確に調べておいた。
そのため男は夜道の中であっても迷うことなく建物に到着した。道具を使用し裏側から店内に入った。店内は当店真っ暗だった。照明は天井に連なっているが無視をし、男はこの闇の中で音を立てず羽沢家居住区に移動した。それは少しだけ困難な行動だった。店の位置を正確に調べた男だったが、店内構造やまさか居住区について正確に調べられるわけではなかった。そのため完全な『手探り』を強いられたが、それほど難航するものでもなかった。物音を立てぬようにだけ気を配って進入し、道具を駆使して男は羽沢つぐみの自室に入っていった。室内もまた暗闇だった。あらゆる照明が消え、光も何も入っていなかった。男は室内壁際に設置されたベッドに接近した。身長に顔を寄せると、やがて頬の触覚が新鮮な寝息を感知した。それはこの部屋の主であり、羽沢珈琲店の一人娘であるつぐみのものだった。パジャマ姿で毛布を被っており、仰向けの状態のつぐみは安らかな眠りにあった。男は鞄からモカの生首を取り出し、つぐみの枕元にプレゼントをそうするように置いてやった。「んん……」とつぐみが寝返りを打った。生首はつぐみから視て右側にあるが、つぐみはそれを感じ取ったかのように鼻先を右側に倒した。男はつぐみの肩を指で叩いた。暗闇の中で若い女子のざらついた声が響き、間もなくつぐみの瞼が開いていった。
「なに、これ……」
つぐみの頭部が枕から完全に離れた瞬間に男は室内照明を起動させた。
一瞬にして暗闇が晴れ渡り、真白い光と共に周囲の光景が浮かび上がった。勉強机やクローゼットが壁際に配置され、ベッドの上でつぐみは毛布を退かしながら『それ』を視ていた。男は室内出入り口扉の位置に立っていた。つぐみはまだ寝ぼけているらしく、この状況について上手く理解できていないようだった。
ウーンと目元を拭うつぐみの視線は徐々に手元の『それ』に集中し頬が張り詰めていった。
「え、これ――」
つぐみが幼馴染の名を叫ぶ直前に男は腕を伸ばした。左手で後ろからつぐみの口元を強く覆い、右手のナイフを首元に添えた。背後から迫る男につぐみは青ざめた顔をして取り乱した。ベッドの上で四肢を動かし逃れようとした。男はベッドに乗り上げ、つぐみの細い身体に体重を乗せながら喉元を一気に掻き切った。
鮮やかな血飛沫が大きく開かれたモカの瞳の上にもぶちまけられた。
山吹沙綾、青葉モカ、羽沢つぐみを殺害した男はそれからナリを潜めた。
三件の殺人事件はそれぞれ別の犯人による犯行としてメディアに取り上げられていた。もちろん警察組織がその線だけで捜査しているわけがなかった。男は殺人から離れた日常生活を淡々と続けた。特別なことはせず、ただ羽沢珈琲店でアルバイトをはじめた。一人娘・つぐみの死亡から二か月が経過した時点での応募であり、採用面接の際には両親と思われる人物から娘について聞かされた。もちろん男は全て知らないふりをした。テレビや新聞、インターネットを閲覧しないため事件についてわからないと答え謝罪した。だが両親らがつらつらと語る娘の話に全て肯定的な返答をした。採用はその場で決まった。
事件発覚から約半年後の現在、男は一般的なアルバイトとして厨房の仕事にもホールの仕事にもすっかり馴染んで生活はそれなりに潤っていた。
心境は何か落ち着いていた。
あの日、何か強く引き付けられてゆくように殺人を行った。あの時は一種の錯乱状態というか、そういう興奮状態にあったが現在は心身共にすっかり落ち着きを取り戻していた。しかし全て忘れたわけではなかった。淡泊に仕事を続ける中、ふと瞼を閉じるとあの日の全ての出来事が鮮明に浮かび上がってくる瞬間があった。男は恍惚としていた。たとえば仕事の最中に何か嫌な出来事があったとしても、独りきりになれる場所で優しく目を閉じあの日を想起すると精神的に安定した。あらゆる光景や行動や感想は全てよき思い出として脳裡に記憶されていた。男はショーケースの中のケーキを視て口の中を唾液でいっぱいにするようにあの日の殺人に恋焦がれていた。
チリンチリンと音が鳴り、男は現実に呼び戻された。それは羽沢珈琲店の出入り口扉が開かれる際のベルの音だった。もうとっくに聞き慣れたその音に釣られて男は顔を上げ、客がどんな相手か確認する間もなく入店の挨拶をした。相手は女性だった。男は空いている席に案内し、それからメニュー表をテーブルに置いた。女性はそれを詳しく視ることもせず「すみません」と前置きをしてから紅茶とケーキの名称を発音した。
「以上で、お願いします」
注文を素早くメモ帳に記入し、会釈してから男はその場を去った。厨房に向かい注文を読み上げる最中、先ほどの女性について脳裡で想起した。冷たい緑がかった長髪を引き連れ、物静かな態度のまま注文を読み上げる様子は美しかった。その際の声色についても詳しい抑揚がなく、その切り詰めたような態度がむしろ好ましかった。男は女性の名前について考えた。やがて女性が注文した紅茶とケーキが完成し、男はそれを持って座席に向かった。会釈をしながらケーキを置き、次に紅茶を置く寸前のところで手元が狂ったふりをして男は紅茶をこぼしてみせた。
「あっ……」
女性のぽつりとした声が最初に響いた。男は謝罪をし、すぐに清掃しますと口走り、女性に背を向けて厨房に駆け込もうとした。声がした。レジカウンターから聞こえるものだった。会計の処理をしていたつぐみの母が目を見開き、少し鋭利な声色と共に女性に駆け寄った。
「いえ、あの、大丈夫ですので……」
紗夜の縮んだ声を聞き、男は厨房に急いだ。
紗夜がケーキを完食したタイミングで男は体調不良を訴えた。
それはもちろん仮病だった。しかし一人娘を喪い、精神的疲弊からまだ立ち直れていないつぐみの母にそんなもの見抜けるわけがなかった。早退したいと申し出ると簡単に受理され、男は店の近くに潜んだ。紗夜が店から出てきたのは数分後だった。男はその後を追跡し紗夜の自宅を突き止めた。自宅の位置を完璧にメモし、紗夜が本当にこの家に住んでいることを確認した後に男は速やかにその場を去った。
夜、男は紗夜について調べてみた。インターネットを視てみると、氷川紗夜とはガールズバンドでギターを担当するギタリストであり、その技量の高さと妥協しない姿勢にプロフェッショナルの世界からも注目されている存在のようだった。さらに双子の妹がおり、氷川日菜とはアイドルグループの一員でこちらもギタリストだった。男はその情報を視た時に疑問に思った。アイドルといえば歌い踊る存在だった。それがどういう経緯でギターを演奏しているのか想像がつかなかった。
姉妹揃ってギタリストとして活動しているという点も気になった。きっと姉妹は仲がよく、ギタリストとして互いを高め合う存在なのだと勝手に結論付けた。納得したところで眠気が襲ってきたため男は横になった。
慇懃な紗夜をどのように殺害するか、男はそれだけを必死に考えて眠りの世界に落ちていった。
男は道具を使用して氷川家の玄関扉をこじ開けた。
室内は明るかった。三和土から廊下が続いており、男は音を立てぬよう素早く歩いた。リビング出入り口扉は閉まっていた。男は扉の前で腰を低くし、息を潜めた。リビングの中に誰か居た。確認するとそれは紗夜だった。学業を終え、バンドの練習も終えた紗夜は家族の誰より先に帰宅しくつろいでいるようだった。
男は道具を使わずにリビング出入り口扉ドアノブを掴んだ。ドミノを倒すように軽く押すと扉は簡単に開いた。紗夜はソファーに座ってテレビを観ていた。男は肩掛け鞄からロープを取り出した。約百センチのそれを男は両手で構えると紗夜の背後に移動した。
まさか自宅に他人が進入したなどと思わない紗夜はテレビ番組を眺め続けていた。大型犬が小さなボールを追いかけ続ける映像を流す、意味不明なテレビ番組だった。男は背後から紗夜に忍び寄り、その首元をロープで一気に絞め上げた。「ぐぎっ?!」と紗夜は尖った声を上げた。座ったまま身体を反り上げ、下半身をぐねぐねと動かした。両手で首を掻き毟り、呻き声を上げ続けた。男は紗夜に対抗するように両手を引き締めた。ロープは長い髪を巻き込んで食い込んだ。やがて眼球が飛び出すのではないかと思うほど目を剥き、顎先が完全に天井に上向くと紗夜は動かなくなった。
ソファーの上で紗夜が力尽きたことを確認すると男はロープから手を離した。紗夜は人形のように肢体を投げ出し、左の頬が左肩に触れていた。首を絞めている間に頸椎が完全に砕けて首が自由になったようだった。男はソファー正面に廻り込み、紗夜の死体を抱き起こして階段を探した。階段はリビングの隅にあった。男は次にリビングの壁掛け時計を確認した。紗夜の双子の妹・日菜が帰宅するまでもう時間がなかった。
ガチャリという音に反応して男は額を上げた。
それは遠くから鳴る音だった。間もなくして「お姉ちゃん?」という姉を探し呼ぶ声が聞こえた。やはり遠くからだった。声の主は紗夜の妹、日菜だった。
男は氷川家二階の紗夜の自室のベッドに座っていた。室内の照明は消してあった。それはこの氷川家全体と同様だった。男はベッドの上でただ聴覚を研ぎ澄まし、日菜の挙動を観察していた。「なんで電気消してるのー?」と声は続いた。現在、この氷川家のあらゆる照明は消えていた。それは男の仕業だった。紗夜を絞殺した後に死体を持って二階に上がり、紗夜の部屋で妹の帰宅を待っていた。リビングの照明がスイッチによって灯る気配がした。「お姉ちゃん……?」と日菜の声が遠くで聞こえた。居るはずの姉の存在がないため少々不安がっているようだった。
男はベッドから立ち上がり室内隅に向かった。そこにはギターが置かれていた。専用のスタンドに立てかけられている、青色のボディのものだった。男はギターを持ち上げた。男にギターの心得はなかった。それでもこの弦と呼ばれる部分を指で弾けば音が出ることぐらいは知っていた。男は紗夜が常用しているであろうこのギターに適当に指を添えて弦を弾いた。演奏などと呼べない複数の音が響き、すぐに階段を駆け上がる足音が迫ってきた。
ギターを戻した男は所定の位置に潜んだ。位置とは扉のすぐ近くで、男はその位置にてしゃがみの体勢を取り息を殺した。足音がさらに接近し、扉一枚の向こう側に人の気配が漂いはじめた。コンコンコンという三度のノックが響いた。「お姉ちゃん、居る?」と日菜の声がし、数秒後に慎重な所作で扉が開いていった。
「お姉ちゃん……?」
すぐ近くで日菜の声が聞こえていた。開いてゆく扉の影になる位置に男は潜んでいた。日菜の声色は震えていた。また室内が薄暗いため様子が詳しくわからないらしく、日菜は慎重な動作で室内に入って照明スイッチに指を伸ばした。軽い音と共にスイッチが入力され、室内の暗闇が一瞬で消え去った。同時に日菜の悲鳴が上がった。日菜は室内中央を視ていた。用意された椅子に座る紗夜の身体には十センチほどの切り傷が多く付けられており、今もだらだらと流血が続いていた。軽く開かれた股には何本ものボールペンや定規が強引に挿入され、砕けた下顎が胸元に垂れていた。
「な、何これ、なんでっ……」
日菜はがくがくと震えていた。眼前に映るそれが実姉の成れの果ての姿という事実をまだ上手く認識できていないようだった。男はその背後でそろそろと立ち上がった。右手にナイフを構え、左腕を日菜へ伸ばした。
「なっ、誰っ……!?」
寸前のところで日菜は男に気付いたが遅かった。男は腕一本で女子高校生アイドルを抱き留め、その胸元にすかさずナイフを振り下ろした。姉より柔らかい感触がした。紗夜に使用した後、すぐに手入れをした鋭利な刃は日菜の腹部を制服ごと貫いた。「ぐふっ!」という日菜の湿った声が響き、男の腕の中で日菜の身体が跳ねた。男は勢いよくナイフを引き抜いた。傷口から真っ赤な飛沫が上がった。男はもう一度ナイフを振り下ろした。一度目とは異なる箇所だった。すぐに引き抜くと今度は日菜は口から血を噴き出した。男の攻撃はそれで終わらなかった。二度の攻撃により何かたがが外れたかのように右手を激しく動かした。瀕死の日菜の身体に鋭い刃は次々と打ち下ろされた。十回ほど刺した後に男は腕を止めた。日菜はとっくに絶命し、男に抱き締められたまま項垂れていた。男は日菜をベッドに仰向けに寝かせ、その様相を眺めた。灰色だった制服は血液をたっぷり吸って変色しており、ブレザーもワイシャツもびりびりに切り裂かれていた。
スカートのまだ濡れていない部分でナイフを拭い、男はベッドに乗り上げた。馬乗りになり、日菜の左頬の適当な位置に刃を添えて一気に押し込んだ。五センチ程度の傷がすぐにぱっくり開いた。男はナイフの刃をさらに沈ませた。ナイフは肉と皮膚のちょうど間の位置に上手く入り込み、腕を揺さぶるだけですいすい進んだ。
それは切断というより削ぎ落すという感覚だった。男は本のページを捲るように日菜の顔面の皮を摘まみ上げた。
氷川姉妹殺人事件はメディアによって大々的に取り上げられた。
姉・紗夜の死因は首を強く絞められたことによる窒息死だった。妹・日菜の死因は大量出血で、これは身体に付けられた無数の傷からのものだった。死後、紗夜は身体のあらゆる箇所に傷を刻まれ、日菜は顔面の皮を剥ぎ取られた。事件発覚当時、室内は清掃されており二人の死体はベッドの上に並べられていた。日菜の顔面の皮は紗夜の腟内にねじ込まれた状態で、日菜の膣には犯行に使用したとされるナイフがねじ込まれていた。
この、死後の扱いがメディアにとって衝撃的だった。まさしくメディアが連想する『猟奇殺人』のそれであり、あらゆるニュース番組や情報番組は事件概要を何度も報道した。『倫理観の欠如』や『道徳心のない蛮行』あるいは『悪質そのもの』などという文言をよく使った。とある犯罪心理学者は情報番組にゲスト出演し、『完全な気違い』と犯人像からその生い立ちまで勝手に語ってみせた。
男が若宮イヴのことを『認知』したのはそれから数週間後のことだった。
ガールズバンド『Pastel*Palettes』が解散になった。原因はメンバーの一人、氷川日菜の死亡だった。パスパレの最期を締めくくるいわゆる卒業ライブやそのテのイベントは開催されず、ただ解散の理由や経緯を説明した文書がインターネット上に投降されてあらゆる活動は終了した。イヴはパスパレのメンバーの一人だった。またそれと同時にイヴは、男がバイトとして勤務する羽沢珈琲店に同じく勤めるバイトの一人だった。
男より先にバイトとして仕事をしていたため、男からすると先輩に該当するがイヴは十代だった。丁寧な口調で礼儀正しく、仕事に関しても淀みなく教え方も上手かった。透き通った肌や柔らかい白髪、藍色の瞳にどこか日本人離れした雰囲気を感じたが男は血縁について訊ねなかった。バイトとしての日々は進み、イヴとも会話を重ねることが多かったが血縁について訊ねるほど深い交流ではないためだった。
男はもちろんイヴのことをバイト初日から認知していた。しかしそれはバイトの先輩としての認知だった。男はイヴが、メンバーの死によって意気消沈したアイドルであることを今さら知った。それはありえないことのように思えた。パスパレとは売れているアイドルだった。そのメンバーの一人が身近なところで仕事をしていれば気付くように思われた。しかし男は気付かなかった。男は、その事実に気付けないほど周囲に関心を向けていないということだった。
イヴを認知してからさらに数週間後、男は仕事終わりにイヴに接触した。
話題はもちろん日菜のことだった。世間で氷川日菜といえば姉と共に殺害されたアイドルだった。男は日菜が死亡したという周知の事実を真っ向から否定した。途端にイヴの額が持ち上がった。それは光明を得たというよりは、単純にその考えが理解できないという態度だった。男は意気揚々と『日菜生存説』を語った。
「ど、どういうことですか……?」
男はイヴにさらに嘘を重ねた。実は探偵まがいの活動をしている、などと呟くとイヴの表情が好転した。それまで鉛のような印象だった頬が引き締まり、瞳の奥から光が差した。イヴの中で、日菜はまだ死んでいないという失踪ではないという与太話にも似た考えたが明確な可能性へ変化し、男のことが最後の希望に思えているようだった。
「お、教えていただけませんかっ、ヒナさんのこと!」
針のような甲高い、いつものイヴの声だった。
男は二種類の『特製スナッフビデオ』を白鷺千聖に視聴させた。
最初のビデオに登場したのは丸山彩だった。薄暗い空間の中、桃色のアイドルや桃色の髪型が浮き出るように目立っていた。かつてパスパレのセンターを張ったその表情は今は引きつっていた。アイドル衣装を着衣し、ただ直立することさえ他者から強要されているかのようにぎこちなかった。
彩は両手を持ち上げた。彩は手斧を持っていた。木製の細い持ち手に黒色の小ぶりな刃がついたものだった。「千聖ちゃん、ごめんね……」という彩の震えた声がした。強張った喉からどうにかひねり出した声だった。やがて画面が移動した。彩の上半身を映していた画面は下向きに移動し、彩の足元が映った。
「な――」
映像を視ている千聖はそこで絶句した。男は映像を停止させなかった。千聖がどれだけ動揺しても映像の再生を続けるつもりだった。千聖は半開きの口を右手で覆った。次の瞬間ドシャッ、という音が鳴った。映像の中で彩が、足元にすり寄る千聖の飼い犬・レオンの首を叩き切っていた。
映像はそこで終了した。
男は映像の再生を行っていたスマートフォンを一度下げた。液晶画面のX型のマークをタップして動画を終了した。千聖はそのすぐ隣で言葉を失っていた。
ここは千聖や彩、日菜やイヴに麻弥たち『Pastel*Palettes』が所属していたアイドル事務所の駐車場だった。日はすでに暮れており、果てしなく広い敷地内のあちこちに乗用車が停車していた。
事務所から帰宅する千聖を待ち伏せし、出てきたところを男は呼び止めて映像をみせていた。男は白色のシャツの上に空色の長いものを羽織り、黒の長ズボンに大きなスポーツバッグという身なりだった。千聖は簡素だが質のいい橙色のワンピースを着ていた。
スマートフォンを操作する男の横で千聖は細々と泣いていた。それは男にとって意外な反応だった。男はアイドルや女優について詳しくなかった。だからこそ男は千聖について調べ尽くした。千聖に関するあらゆる情報をネットや図書館で頭に入れた。その膨大な情報によると白鷺千聖とは冷静沈着な女性だった。幼い頃より芸能界で活動しているため、その年齢にそぐわない度胸を持ち常に一定の精神状態にあった。発言や態度がぶれることはなく、どんな状況においても自我を貫く強さを持っている女性だった。しかし千聖は泣いていた。口元を覆ったまま、丸まった背と肩を揺らして嗚咽を漏らしていた。声を出さぬよう必死に力んでいるようだったが、むしろそんな様子が、千聖という堅牢な人の崩壊を物語っているように思えた。
「なんで、そんなっ……」
鼻を啜る千聖に男はスマートフォンを差し出した。まだ終わりではなかった。液晶画面には次の動画が用意されていた。男は千聖にみせつけるように左手を持ち出し、人差し指で再生を開始した。それは先ほどと同じような映像だった。薄闇の中にアイドル衣装の彩が直立し、その表情は怯えていた。少し間があり、彩が両腕を持ち上げた。同時に映像を視る千聖が息を飲んだ。喉が鋭く弾む音がした。彩の両腕は赤色に染まっていた。左右のどちらも真っ赤だった。五本の指や手のひらが濡れ、肘付近でようやく肌色が視えた。赤色の汚れは肩には触れていなかった。
レオンから噴き出た血液だった。
「わ、私が殺しました。つ、次は私が殺されますっ……」
薄闇の中で彩が呟いた。用意された台詞をどうにか発しているようだったが、その口ぶりはたどたどしく稀に噛んでいた。上下の歯列が男を立てながら何度も激突し、肩幅が特別に強張っていた。彩の両腕が降り、次に映像の中に人影が浮かんだ。それは男だった。男は右手にとんかちを握っていた。彩の視線はそのとんかちに向かっていた。男はとんかちを振り上げた。彩は棒立ちのまま動かなかった。目を閉じていたが、その瞼が一瞬だけ開き画面の向こう側を視た。桃色の瞳だった。男は彩の頭部にとんかちを振り落とした。
「彩ちゃんっ……!」
ドカッ、という鈍い音と共に画面の中で彩が倒れた。すぐに画面の角度が変わった。映像の中で男が下方向に動かしていた。仰向けに倒れた彩や男の下半身が映った。男は馬乗りになり、彩の頭部に向かってとんかちを振るった。
男にとってアイドルとは『究極の女子』のことだった。
スポーツを極めた存在をスポーツ選手と呼び、芸術を極めた存在を芸術家と呼称するように『女子』を極めた存在がアイドルだった。全てのアイドル志望がステージに立てるわけではなかった。まずアイドルには生まれ持った素質が必須だった。しかしそれだではなかった。素質を持っていることを当たり前とし、その素質を磨くことも当然の条件だった。本人の向上心や努力を、素質に練り込むことでようやく到達できる女子の境地こそがアイドルだった。
男はアイドル丸山彩をとんかちで強く殴っていた。
黒色の円柱が激突すると彩は呻き声を漏らした。とんかちはちょうど鼻の部分を叩いており、骨が砕けたようだった。鼻血を流す彩の真上で男はとんかちを持ち上げ、また一方的に振り下ろした。ゴキッ、という硬い音が鳴った。とんかちが彩の顎へめり込み、その骨を粉砕していた。現役アイドルの悲痛な叫び声が響いた。男は血液で濡れたとんかちでさらに思い切り彩を殴った。とんかちは彩の前頭骨を砕いた。脳漿が混ざった血潮が噴き出し、それから彩はもう何も喋らなくなった。
「やめて……」
撲殺される彩を目の当たりにし、千聖は小さく声を発した。ほぼ無意識に漏れ出たようだった。千聖の視線は映像に釘付けだった。死亡してなお、その顔面をとんかちで叩き続ける男が流れ続けていた。
数分後に映像は終わった。液晶画面を消し、男はスマートフォンをポケットに戻した。千聖は茫然としていた。飼い犬の死だけでなく、見知った同僚の無残な最期に対しどのような顔をしてればいいのかわからないようだった。男はスポーツバッグを持ち出した。長いジッパーを開き、右手を突っ込むと適当に握って引き上げた。千聖が悲鳴を上げた。男が最初にバッグから持ち上げたのは千聖の飼い犬・レオンの死骸だった。
「あぁっ、ああっ……!」
レオンは大型犬だった。健康的な体格をしていたが、現在のレオンには首の部分に深い亀裂が入っていた。それはあの映像の中で彩が手斧を使用し刻んだ亀裂で、レオンの身体は亀裂を起点にしてぱっくり裂けていた。男は持ち上げたレオンの死骸を千聖の足元に投げ捨てた。千聖はレオン、レオン、と叫びながら死骸に縋り付いた。胴体を擦り、顔を覗き込んだが死骸が動くわけがなかった。男はもう一度スポーツバッグに手を突っ込んだ。右手はすぐに頭髪に触れた。男は頭部そのものではなく、彩の髪を握り締めてその頭部を引っ張り出した。
彩の顔面は崩壊していた。とんかちによる無数の殴打によって全体的に腫れ上がり、肌の色が赤黒く変色していた。特に左瞼は眼球より肥大化しており、薄紫に変色していた。右瞼は眼窩の中にめり込んでおり、眼球はまた眼窩の中で潰れていた。額、というか前頭骨は大きくひしゃげており、少量の脳漿がこびり付いていた。頬の皮膚は大部分が引き裂かれ、捲れ上がっている部分もいくつかあった。崩れた下顎はかろうじて顔面に引っ付いているが、歯列はもう噛み合っていなかった。舌は左方向に飛び出ているが、歪んだ歯がいくつか食い込んで血が垂れていた。
男は彩の頭部を千聖に投げつけた。ドシュッ、という湿った音が鳴り、千聖は悲鳴を上げながら勢いよく後ずさった。彩の頭部が、すでに元メンバーの顔面が顔面ではなく何か不潔な物体に視えているようだった。彩の頭部は千聖の右肩を通り過ぎ、一メートル先の暗闇の中に落下した。男はポケットからナイフを取り出して千聖に歩み寄った。千聖はその場に犬の死骸を放置して後ずさった。恐怖によってすでに腰が抜けているようだった。上下の歯列が高速で激突し、かちかちと音を立てていた。男はナイフを握り締めたまま千聖に接近した。
「やめて、いやよ……」
千聖は男に背を向けて地面を這った。しかしその身体は思うように動いていなかった。千聖は瀕死の状態だった。飼い犬の死、元メンバーの死が脳裡に強い重圧としてのしかかり、精神的な負担となっていた。それでも千聖は逃げようと必死だった。操縦不能となった両手足を酷使し、蛞蝓のように這っていた。スカートの中で股が大きく開き、手のひらは擦り傷からの流血で真っ赤だった。周囲は薄暗かった。千聖がビデオを視ている間に夕暮れは完全に溶け、夜がはじまっているようだった。周囲に漂う薄闇は、ビデオの中で彩が居たあの場所に似ていた。
けたたましい低音に千聖は額を上げた。自然と身体が完全に動かなくなっていた。音とは野生動物の雄叫びのような音だった。千聖は目を凝らした。すでに音の正体と目が合っていた。
それは閃光だった。
駐車場にあらかじめ停車しておいた乗用車に乗り込んだ男は足を引きずる千聖を座席から視ていた。
乗用車はじわじわと千聖に接近した。象に似た速度だった。千聖は茫然としていた。身体は動かなかった。乗用車接近とは今の千聖にとって確実な死だった。確実な死を前にして、ただの若い女優ができることなどなかった。つまり今の千聖の身を包むものとは圧倒的な無力感だった。それもヤリキッタという達成感由来のものではなく、モウムリダというあらゆる思考を放棄した感覚だった。
「なんで……」
低いエンジン音が鳴り響き、やがてヘッドライトが千聖の全身を包んだ。乗用車は千聖に構わず前進し続けた。アスファルトの地面と前輪の隙間に巻き込まれた千聖の頭部は音を立てながら崩壊した。間もなく脳漿が我慢ならないといった具合に周囲に飛び散り、左右の眼球がせり上がるように突出して轢き潰された。瞳は淡い、透明感のある桃色だった。野太い千聖の叫び声が響いていたが、低いエンジン音が叱るように全てかき消した。
男は乗用車を停め、頭部のない千聖の身体を乗せて再度発進した。
男は三種類の『特製スナッフビデオ』を若宮イヴに視聴させた。
最初のビデオは彩が大型犬を殺害するビデオだった。大型犬とは千聖が飼っているレオンという名の犬であり、彩はレオンの首元に手斧を下ろして惨殺した。重たい刃がレオンの身体に差し込まれると同時に爆ぜたかのように血潮が噴き出し、レオンの湿った鳴き声が響いた。次のビデオは男が彩をとんかちで撲殺する映像だった。男は彩に馬乗りになってとんかちを次々と下ろした。彩の顔面をめちゃくちゃにぶっ叩き続けているところで映像は途切れており、実際に彩がどれだけの回数の殴打を受けたのか視聴者にはわからないようになっていた。
最後のビデオは、二種類のビデオを視聴した千聖を男が駐車場で轢き殺す映像だった。
千聖は恐怖で全身の機能を半ば喪失しているようだった。そこに車がのろのろと接近し、前輪が頭部を破壊した。身体だけになった千聖を男は拾い上げ、後部座席に押し込むと出発した。ビデオはそれから数秒後に終了した。
深夜の花咲川女子学園剣道場にイヴは拘束されていた。
イヴは剣道で使用する防具のための飾台に拘束されていた。剣道場中央に設置された飾台はいくつかの支柱で構成されており、正座をして両手を後ろ手に縛られたイヴは飾台の適当な箇所に接続されていた。男はイヴの眼前に直立していた。正座するイヴを見下ろす体勢で、胸元にスマートフォンを掲げることでイヴに映像を視聴させていた。傍らには木刀と竹刀が置かれており、また持参したスポーツバッグを室内隅に置いていた。
「どうしてっ、アヤさんっ、チサトさんっ……」
甲高い声が薄暗い剣道場に響き渡った。それは男にとって思ったより鋭い声だった。バイトとして共に仕事をしている中で、イヴの声は平均より高いと男は感じていた。それが煩いだとか嫌いということではなく、ただそういう個性として認識していたがこれほど大声で聞かされると流石に鼓膜が心配になった。
男はスマートフォンをポケットに戻し、傍らに置いた木刀を拾い上げた。イヴの背後に立ち、中段に構えると水平に勢いよく振った。木刀がイヴの腕の肉を打つ音が鳴った。イヴは身を縮ませて叫んでいた。木刀が打った箇所はすでに赤く腫れはじめていた。男は木刀をまた中断に構えて振り被った。次に木刀はイヴの腕の骨を砕いた。かなりの痛みらしくイヴは前のめりに垂れながら絶叫した。あの二束の三つ編みが揺れ、鼻先からぽたぽたと涙や汗が垂れていた。男は構わず木刀をイヴに叩き込んだ。右腕を砕き終えると次は左腕だった。構え方を変え、色白の肌が変色するまで滅多打ちにした。
「もうやめてっ、やめてくださいっ!」
やがてイヴの両腕は蛸になった。
後ろ手に縛られたまま、何度も何度も木刀によって叩かれたため皮膚は千切れた。肉が歪み骨は複雑に折れ曲がった。皮膚は赤色や薄紫色に変色した。妙な箇所が腫れ、逆に奇妙に陥没している箇所もあった。何をせずとも激痛が通っているらしくイヴの声色は常にざらついていた。どういうわけか呼吸困難に陥っているらしく、狭まった肩が大きく上下していた。それでも酸素が足りていないらしく喉元からカヒュー、カヒューと鳴り続けた。男は木刀を右手で持ち、先端部分でイヴの腕を突いた。軽く触れる程度だったが今のイヴにとっては何より強い刺激らしく途端に絶叫した。男はイヴの正面に戻り、木刀を床に置いた。すかさずイヴの顔が持ち上がった。男を見上げ、「お願いしますっ、お願いしますっ、許して、もうやめてください!」と涙を流した。侍マニアの必死な命乞いだった。男はイヴを無視して剣道場の隅に向かった。そこには男が持参したスポーツバッグが置かれていた。男はスポーツバッグを持ち上げてイヴの近くに戻った。一メートルもない距離まで近づくと、直立したままスポーツバッグのジッパーを開いて中に右腕を突っ込んだ。中に押し込んだものを右手で握ると、左手で皮を剥くようにスポーツバッグを下ろした。
「え――」
ドシャ、という音と共にスポーツバッグがイヴの眼前に落ちた。イヴはそれを視ていなかった。イヴは男が握るものを視ていた。男は潰れたスポーツバッグの上に、彩の頭部を千聖の身体に縫合したそれを落とした。
ズシャ、という音と共に肢体は転がった。ちょうど額がイヴの方向に垂れた。彩の打撲痕だらけの顔面を視たイヴは泣き叫んだ。それはもはや慟哭だった、剣道場が割れてしまうほどの鋭い声だった。男は竹刀を持ち上げた。木刀と比べると竹刀はほぼ棒だった。持ち手から先端部分まで輪郭に抑揚がなく、鍔があることで一応刀の一種類だと認識できる程度だった。男は竹刀を握りながらイヴを視た。すかさずイヴは「ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!」と叫んだ。次は竹刀で殴られると思い込んでいるようだった。これ以上の激痛はどうしても避けたいようだった。男はイヴの謝罪を無視して歩み寄った。手を伸ばせば頭部に触れることができるほど接近し、左手でイヴの下顎を握った。大量の涙や汗や鼻水、唾液でぬめめっていたが素肌はやはり白色だった。それはイヴが純粋な日本人ではなく北欧の血をその遺伝子に保有しているからだった。
「あの、あの、お願いしますっ、どうか――」
男は左手でイヴを強引に開口させた。右手で竹刀を持ち上げ、その先端をイヴの口腔内部にねじ込んだ。
「あがっ、ごががっ……!」
途端にイヴの声が落ち着いた。あの強烈な高音は消え、代わりにくぐもった声に変化した。それはうがいに似た声だった。男は両手で竹刀を握り、腰を力んだ。イヴは上向いており、大きく開かれた口には竹刀が突き刺さっていた。男は竹刀の持ち手を握り、下に向かって強く押し込んだ。竹刀はイヴの身体を内側から猛烈に押し開いた。鍔と口の距離が少しずつだが狭まっていった。男は両腕を引き締めて竹刀を押し込んだ。イヴは両足両足をばたばたと慌てさせていたが拘束が解かれることはなかった。声色はざらついたものへ変化し、口角から大量の唾液がだらだらと垂れ続けていた。目元に涙が溢れ、鼻孔から透明な粘液が流れ続けていた。
「ごはごおっ……」
最後に打ち上げるような声が鳴った。眼球の瞳が、瞼の裏に隠れるほど上向くと同時にイヴの四肢は動きを停止させた。正座の体勢のまま力が抜けていった。男は竹刀から手を離した。イヴの顎先はピンと天井に向いており、喉元に竹刀の形がぼっこりと浮き出ていた。
ガールズバンド『Pastel*Palettes』は大和麻耶を残し元メンバー全員が死亡した。
アイドル事務所からの正式な告知がメディアを駆け巡ったのは、男がイヴを殺害して一週間後だった。
死亡した四人への追悼がメディアの多くを占めたが、追悼の次に目立ったのは麻弥へのバッシングだった。唯一生存している麻弥こそが犯人だという陰謀論じみた推測がインターネットで当たり前のように語られ、麻弥は間もなくメディアから完全に姿を消した。それは目に余る誹謗中傷から心身を守るための退却だったがメディアはそのように判断せず、『大和麻耶アダルト堕ち説』はネットのアイドル界隈を賑わせるいわゆる『ミーム(meme)』となった。
歩道を左に曲がると周囲が唐突に薄暗くなった。
それは大きく生え連なる木々が、頭上の陽光を遮っているからだった。
そこは道というよりそこはほぼ森林だった。街から外れた鬱蒼と生い茂る森の中を男は歩いていた。五分もすると左手側が開けて敷地が視えた。人工的な黒色の柵が続き、入り口部分から敷地内に男は入っていった。すぐに視えるのは寺のような建物だった。木造建築には力強さがあり、瓦の屋根には静かな存在感があった。しかし男はこの建物がどんな役割を持つ建物なのか知らなかった。用もないため通り過ぎ、砂利で造られたこの白色の通路を進んだ。通路は学校の廊下を二つ並べた程度の横幅だった。変わらない速度で歩いてゆくと、男は次第に寒気を感じた。男は長ズボンに長袖といういつもの服装だったが、衣類を貫通する寒気を感じたような気がした。男はそれでも歩いた。やがて通路が終わり、灰色の景色が視界に広がった。空間は広く、その空間の中に等間隔で設置物があった。設置物とはどれも石造りだった。稀に豪華なものがあるが基本的には小ぢんまりとしており、黒色のものも稀に置かれていた。視たところ人は一人も居なかった。男は砂利を蹴るようにして、この墓地敷地内からつぐみの墓石を探しはじめた。
男がつぐみの墓参りに行こうと決起したのは早朝のことだった。
それは一種の衝動だった。衝動であり欲求だった。欲求はまるで尿意のようにざわざわと腹部を満たし、男を精神的に揺るがした。ちょうど羽沢珈琲店のバイトは休みで、店の一人娘に相応の挨拶をしておくのも悪くないと男は考えた行動に移すことにした。墓地の場所を調べ、支度を整えると車に乗り込み出発した。走行時間は三十分もかからなかった。最寄りの駐車場に車を止めてそれからはスマートフォンの地図に頼った。墓というものに馴染みのない男は、墓地の場所を意識したことがなかったが何事もなく到着した。
男は墓地敷地内で迷っていた。
つぐみの墓石の場所がわからなかった。敷地内には無数の墓石があった。それはどれも同じように男には視えた。墓石には名前が刻まれているが、その部分を隠してしまえばどれが誰の墓石か完璧にわからなくなるだろうと男は思った。
そうして敷地内をさ迷っていると男は一人の娘とすれ違った。
男はそれを凝視した。
男が視ていたものとは娘ではなかった。娘の容姿や髪型ではなかった。もちろんそれも確認したがそんなことすぐにどうでもよくなった。娘の服装ではなかった。服装も確かに観察したがそんなものすぐに興味なくなった。娘、つまり女性という生き物であるのなら絶対に備わる胸部のそれを男はじっとりと視ていた。
黒色長髪の娘はとびきりの巨乳だった。
若々しい身体の中で胸元だけが大胆に突出していた。衣服で隠すことのできないほど恵まれた柔肉であり、そのなだらかな造りは男にとって魅力的だった。ただ視ているだけで鼓動が高鳴り、全身の血流が勢いよく加速した。男は喉を固く下した。それでも荒々しい鼻息を抑えることはできなかった。煙たいほどの恍惚が身を包んでいた。心臓の周辺がもはや苦しかった。
男は娘の歩く先を眺めた。紺色の落ち着いたワンピースを着る娘は、整えられた黒髪を揺らして淀みなく進んだ。男はその所作について驚いていた。墓地敷地内には墓石が多く設置されていた。墓石とはどれも似た様相で、今まさに男がその酷使した軍勢に苦戦しているところだった。しかし娘は迷いなく足先を進めた。一歩、一歩と進む度に胸元の豊満なものが揺れていた。娘はこの墓地に訪れることが初回ではないようだった。
やがて娘はひとつの墓石の前で立ち止まった。男は敷地を歩くふりをして娘に背後から近づいた。
娘が手を合わせている墓石には『氷川』と刻まれていた。男は適当な別の墓石を遮蔽物とし、その様子をじっと観察した。数秒の沈黙が流れ、顔を上げると娘は手を下ろした。いくつか言葉を発しているようだったが男には聞こえなかった。
それから娘は墓石の簡単な清掃をし、最後に線香を添えると墓石の前から立ち去った。男はその後を娘の背後につくのではなく、娘と平行の位置になるよう常に意識した。歩く最中、男はずっと娘の巨乳を視ていた。というより視線が勝手にその位置に吸収されていた。視ているだけで満足感があっ娘の身体の中で、その太ましい肉厚の部分だけが格別だった。
男は娘から五メートルほどの距離を常に保って尾行しはじめた。
歩きながら男は鞄からナイフを取り出した。
それは小型のものだった。もし職務質問をされたとしても問題がない程度のものだったが殺人には十分だった。男は周囲を見渡した。すでに墓地敷地内から出ており、男の五メートル先に娘が歩いていた。周囲は鬱蒼とした木々が生え、完全に人の目がなかった。通行人がやってくる気配もなかった。それは男にとって好機でしかなかった。この瞬間にこの薄暗い道は、墓地から続く湿った一本道ではなく男の狩場となった。そして男が狙う獲物は眼前の巨乳の娘だけだった。男は歩行速度を上げ、ナイフを逆手に構えると背後から娘に飛び掛かった。
「きゃっ?!」
男が抱き着くと娘は肩を縮ませて悲鳴を上げた。後方に首を廻し、すぐに知らない男が抱き着いてきたことを認識すると表情が引きつった。瞳は紫色で、宝石のような美しさを持っていた。肌も艶やかで優しい白色をしていた。年齢は十代だと予想していたが、それにしては大人びた容姿だった。そんな容姿が理不尽な強襲による恐怖心と、この年代の娘が最も嫌悪する年上の知らない男に対する嫌悪感で歪んでいた。男は娘が悲鳴を上げるより先に口元を左手で塞いだ。その際、内側で指の適当な箇所が娘の唇に激突した。娘はそれでも男から逃れようと暴れた。男は右腕を娘の胸部に廻して強く拘束した。
その瞬間、男の脳裡に『柔肉』という単語が浮かび上がった。
現在、男は後方から娘に抱き着いていた。両腕で動きを支配しつつ、身体の表面を押し付けて固定していた。娘は柔らかかった。胸だけではない、肩や腹部に太腿や腰周りまであらゆる部分がむっちりと我が儘に仕上がっていた。さらに体臭も香しいものだった。生き物らしい芳醇な深々しさの中にほんのり甘いものが漂っていた。それは男では絶対に漂わせることのできない魅力的なものであり、この娘が女性として高い質を発揮していることの証拠だった。
男は右手に持ったナイフを娘の喉に突き出した。一撃必殺だった。男の腕の中で最期に娘は一瞬だけ大きく唸り、すぐに四肢の動きが停止した。
白金燐子という名前を男は燐子の所持品から知った。
道の中で殺害した燐子を男は森林の深い位置に運んだ。適当な位置に仰向けで設置し、ナイフを使用して衣類を裂いた。燐子は紺色のワンピースだったが、それは具体的には紺一色ではなかった。首元やスカート部分に白色の装飾がある簡素なものだった。男は切開するようにワンピースを裂き、次に出てきた下着もナイフで破いた。燐子の下着は白色だった。ショーツは一般的に十代女子が使用するような大きさだったが、なんといってもブラジャーは巨大だった。視ると、留めるための金具が谷間の位置にあった。男はその金具を無視し、ナイフを使って燐子のブラジャーを剥ぎ取った。プチ、という小さな完食と共に布が千切れ、するといよいよ乳肉が解き放たれた。
だるんっ、という大きななだれを描いたそれはやはり巨大なものだった。心なしか、着衣時のものより脱衣した後の胸のほうが大きく視えていた。着衣時は衣類によって胸が押し付けられ、正確な大きさではなかったようだった。逆にいうと今まさに披露されている全裸の燐子の胸こそが正確な大きさであり、それは立派なものだった。鎖骨部分のすぐ下からはじまる柔肉はめいっぱいに膨れ上がり、その質量を知らしめていた。腹部周辺に特異な影が浮かぶほどであり、女子高校生という段階でこれほどのものを拵えるその血統が不思議で魅力的だった。
また、燐子は乳房だけが異様に発達しているわけではなかった。巨大な胸に対抗するように腰部分もふっくらと成長しており、そんな大人びた身体だからこそ容姿にも『少女』ではなく『女性』が香っているのだと男は納得した。生前、墓参りをしている際の燐子は何か控えめな所作をしていた。必要以上におとなしい様子が窺えたが、それも急成長した大人の余裕なのかもしれないと勝手に考えた。
燐子の裸体をじろじろ眺めた男はナイフを取り出した。地面に寝転ぶ燐子に馬乗りになり、腹部に無遠慮に腰を落とした。燐子の座り心地は悪くなかった。男は燐子に完全に体重を預けた。自身の身体が燐子の肌や肉を圧迫し、内部の臓器を潰す心地がした。男は燐子の喉を視た。先ほど掻き切った喉で、そこには赤黒い大きな傷が開いていた。血液は止まっていたが、その傷口を起点に燐子の首は妙な方向に垂れていた。左頬と左肩がほぼ触れるほどだった。
男は燐子の顔を無視して乳房を握った。まずは右乳房だった。左手でぎゅっと握り締め、乳房の麓というか付け根のような部分にナイフを押し当てた。刃先は乳房の皮膚をぱっくりと裂き、男はその隙間に入り込んでゆくようにナイフを擦り進めた。銀色の刃渡りの上に赤色のものがだらだらと垂れた。燐子の乳房から流れる血液だった。小さな刃渡りはすぐに完全に乳房の中に入った。半分まで切り込むと男は乳房を強く持ち上げた。刃は変わらない速度で乳房の残り部分を切断し、男が引っ張ると血潮を上げながら完全に分離した。
燐子の乳房は片手で持つことが困難だった。
五指をめいっぱい広げ、こぼれ落ちないようにしているがとろとろと溢れてしまい安定しなかった。乳房に元々備わる柔らかい質感の他に、切断したことで漏れ出た血液や脂肪が影響して常に滑っているようだった。
女性の乳房とはつまり脂肪の塊だった。
男は切断した燐子の乳房を詳しく持ち上げ、その断面を視た。流血や肉の赤色が多かったがその中には黄色い脂肪の色も含まれていた。大量の脂肪はぶよついており、ねっとりとしつこい質感が窺えた。男はナイフを置き、乳房を両手で握るとハンバーガーを食べるようにさっそく食らい付いた。なんの処理もしていない肉は柔らかく、血液の味がガツンと脳の奥まで響いて目眩がするほどだった。咀嚼していると舌先に粘っこいものが触れた。それは脂肪だった。目で視た時と同様にやはりしつこい質感だった。どれだけ噛み締めても拭えない粘つきがあったが男は全て飲み下した。
男はその調子で燐子の左乳房を完食した。三分もかかっていなかった。男は燐子のワンピースを使って両手を拭いた。血液の赤色はすぐに消えたが脂の質感はどれだけ拭っても薄く残った。仕方がないことだった。男はナイフを持ち出し、燐子の右乳房を切断しようと前のめりになった。しかしそこで停止した。男はナイフを置き、燐子の肩を両手で握った。現在の燐子は左乳房だけを欠損していた。元々柔らかい肉があった場所は千切れており、赤黒い肉や黄色い脂肪が視えていた。男はそれらを眺めた後にまだ残っている右乳房へ顔面を突っ伏した。まず感じたのは柔らかさだった。乳房が持つ無限とも呼べる包容力を男は口元で独占した。燐子は死亡した直後であるため熱気も十分にあり、たとえばこのまま眠れと命じられたとしても問題なく熟睡できると確信した。男は少し顔を上げ、口を開いた。眼前には燐子の乳輪があった。乳輪は肌より少し濃い色をしていた。また乳輪の中心部分には乳首があった。乳首も乳輪と同じ色をしており、少々硬いことが視ているだけで察せられた。
口を大きく開いた男は燐子の乳輪を頬張った。
勢いよく歯を立て、燐子の胸元に深くめり込んでいった。歯列は乳房の皮膚を裂き、肉に食い込むと口の中に血液の味が広がった。男は顎を力んだ。燐子の乳房の血の味だった。男は乳房を両手で持ち、その場に固定しながら顔だけを上げた。流血が乳房の上を筋のように下っていた。歯列は猛烈に乳房に食い込み、ぶちぶちと音を立てながら引き裂かれていった。
男は口の中の乳房を咀嚼した。それはちょうど燐子の乳輪の部分だった。舌先に何か硬いものが触れた。それは燐子の乳首だった。乳房の肉とは少し異なるコリッとした質感だった。男は肉も乳房も乳輪も全てごちゃ混ぜにして飲み込んだ。濃厚な血液と脂肪の味だった。
男の口元は真っ赤だった。ところどころに肉の粒が浮き、脂肪の塊がべっとり付着している箇所もあった。男は燐子のワンピースの適当な箇所でそれらを拭った。そして燐子の胸元を眺めた。燐子の右乳房は乳輪の部分だけが乱雑に毟り取られていた。男の歯型が肌色の上に刻まれており、内側の肉や脂肪はえぐれていた。
男は燐子の肩をぎゅっと握り、食べかけの胸元にまた突っ伏した。
燐子を『完食』した後に男は後片付けを開始した。
まず燐子のあらゆる衣類を没収し燃やした。衣類には燐子の血や脂肪だけでなく、男の痕跡も残っているため滅却は必須だった。燐子の身体は解体して埋めたのだが、これがかなりの重労働だった。男の使用できる道具は小さなナイフだけだった。その一本を駆使して燐子を解体することとは不可能のように思えた。しかし解体しなければ燐子の身体に刻まれた歯型から個人が特定される可能性があるため、男はできるだけ燐子をばらした。部位ごとに解体し終えると燐子を埋めた。それはある意味で埋葬のように思えた。この森林のすぐ近くには墓地があった。燐子とはその墓地で出会い乳房をご馳走になった。その燐子を墓地近くに埋めることとは何か当然のことのように思えた。輪廻、というように何か巡って満ちているように思えた。また、燐子はあの墓地で『氷川』という墓石に手を合わせていた。男は燐子という個人と氷川の関係性について知らなかった。しかし墓参りをするほどの間柄であるのなら、それが具体的にどういうものであれ近くに埋められるのはいいことだろうと思った。
燐子埋葬作業を完了させた男は土汚れを拭い、周囲を確認すると森林を出た。道があった。それは街から墓地へ続く道だった。男が街から歩いてきた道だった。燐子を追い、襲った道だった。男はふと疑問に思った。自分はなぜこの道を歩いて墓地に向かったのだろうと不思議に思った。男は自分が誰の墓参りきたのか完全に忘れて帰路についた。
喉元にまだ残る燐子の乳房の味を、男はいつまでも咀嚼していた。
男はガールズバンド『ハロー、ハッピーワールド!』のライブを観た。いわゆる現地参加というものであり観客席は満員だった。
開演を知らせるブザー音が響き、幕が上がると五人の若い娘たちがにこやかに登場した。全員が統一感のある赤色の衣装を身に着けており、妙に大きな帽子と膝上にまで至る長いブーツが特徴的だった。挨拶もなく楽曲がはじまった。黄色や赤色、暖色のライトで彩られたステージの上で、ボーカルの娘がマイクも持たずよく目立っていた。橙色の短髪の娘もよく飛び跳ね、紫色の背の高い娘は妙に気取った態度だった。唯一、空のような色の髪をした娘だけが控えめにドラムを演奏していたがそこにネガティブな雰囲気は皆無だった。ボーカルの娘がほほ笑みかけるとドラムの娘も柔らかく笑っていた。観客席の連中はそんなメンバー同士のやり取りにも熱狂していた。そこで男は思い知った。ハロハピとは奇抜な音楽体験のことであり、演奏するサーカス集団のことだった。
しかしそんなことより男はひとつ気になることがあった。
ガールズバンド『ハロー、ハッピーワールド!』にはDJが居た。桃色の巨体の熊がメンバーとしてDJを行っていた。ボーカルの娘をはじめとする全てのメンバーもそれを当たり前の存在として認識し、また観客もそれが普通という態度で音に乗っていた。男は困惑した。イマドキのガールズバンドとはそんなものが普通なのかと疑心に思った。そのように訝しむ態度を示す観客が他に居ないため、男は自分がこの場で唯一の異端者であるような気がして仕方がなかった。ハロハピのライブパフォーマンスは続いた。「ラッキー、ハッピー、スマイル、イェーイ!」などという独特な音頭によりメンバー全員も観客も湧き上がっていた。これが一体感か、と男は呆然と立ち尽くしていた。ミッシェルと紹介された熊のDJを眺めていた。
ガールズバンドであるのなら、あのキグルミの中身も娘なのだろうかと男は思った。
ライブ終了後、まず男が注目したのはライブ関係のスタッフ連中だった。
演奏終了直後にハロハピメンバーは退場しているため、残りのスタッフの動きを視て舞台裏への通路を検討した。進入ルートを確保するといよいよ動き出した。大勢の観客にまぎれて舞台裏へ通じる出入り口扉に向かい、何か無関心そうな顔のまま小さく開いて滑り込むように入った。舞台裏といってもそこはただの廊下だった。学校や病院などでよく目にする、あの長い一直線を男はスタッフのふりをして歩いた。何度か本物のスタッフとすれ違ったが特に声をかけられることはなく、男は女子更衣室の出入り口扉の前に到着した。男は女子更衣室の出入り口扉を開いた。中には熊が居た。巨大な太ましい体躯はいちご牛乳のような淡い桃色だった。眼球に相当する部分は黒色で、瞳に相当する部分は星のような形の黄色だった。男は後ろ手で扉を閉じた。ガチャンという音が室内に響いた。熊の鼻先が跳ね上がるように男に向いた。
「えっ、ちょっとなんですかあなた」
動揺した声がミッシェルの中から聞こえた。それはつい先ほどライブで聞いたものと同じものだったが、ライブの時より抑揚ががあるように聞こえた。女子更衣室とはあるいみで聖域だった。安全地帯であり、油断していい部分だった。そんな場所に男という完全な異物が紛れ込んでいた。男からするとそれは一種の背徳感に繋がり、女子からするとそれは何より警戒すべき事案だった。男は無表情のまま肩からリュックサックを降ろした。黒色のものだった。ジッパーを開き、中から手斧を取り出すとリュックサックを壁際に投げ捨てた。
「え――」
右手に手斧を装備し、男はすたすたとミッシェルに向かった。ミッシェルは男に向いたまま後退した。頭でっかちな体躯がよろめいていた。「え、え?」と語尾が震えていた。「いやだって……」と怯えていた。その声色は若い娘のものに聞こえた。男は歩みを止めなかった。室内壁際にミッシェルの背が触れた。
「なんでっ」
男はミッシェルの左肩に向かって手斧を振り下ろした。肉や骨を打つ鈍い音が鳴り、鋭い悲鳴が上がった。それはキグルミを着ている中の人物の声だった。激痛によりざらついているが、鮮やかで若々しい声だった。手斧の刃はミッシェルの体躯に深々と食い込んでいた。崩れた肩から血液が漏れていた。血液はキグルミに素早く染み込み、桃色だった体表が次々と赤色に染まった。男は手斧を引き抜いた。瞬時に赤黒い亀裂から大量の血液が噴き上がった。十分な推進力によって手斧はミッシェルを破壊するだけでなく、中の娘の鎖骨を割って筋肉を断ち頸動脈も引き裂いたようだった。男は間髪入れずに手斧をまた叩き下ろした。亀裂が差に深々と広がった。溢れ出る血液の量も一気に増えた。男はその温度を頬で感じながら手斧をミッシェルから引き抜いた。ぐちゃりと湿った音が鳴り、ミッシェルは床に尻を落として項垂れた。
男は力尽きたミッシェルを見下ろした。
両足を投げ出し、両腕にも一切の力が通っていないミッシェルはそういう大きな人形のように思えた。左肩が荒々しく損壊し、流血によって淡い桃色の体毛は赤色に湿っていた。男はミッシェルの頭部を外そうとした。こんな熊のキグルミを着てまでライブパフォーマンスを行う娘とは、いったいどのような娘なのか気になった。もしかしたら娘というのは声色からの勘違いであり、実際は女性ですらないかもしれないなどと男は思った。しかしそれでもよかった。男は別にミッシェルの中身にオンナを期待していなかった。ただ隠された部分への好奇心が堪えきれず、確かめたいだけだった。
男は手斧を壁に立てかけて抱きかかえるようにミッシェルの頭部を外そうとした。
「美咲ちゃん、大丈夫? は、入ってもいいかな……?」
後方から声がした。怯えを含んだ小さい声だった。男は全ての動作を中断し素早く動いた。間もなく更衣室の出入り口扉が開かれた。
更衣室に入室したのはハロハピのメンバーの一人だった。
「あれ、美咲ちゃん……?」
空のような青色の頭髪を持つ娘は、慎重な足取りで室内に入ってきた。大らかな目つきだったが視線は安定しておらず、あちこちに気を配りながら足取りも躊躇が窺えた。この室内が、何か異様な事態に陥っていることを肌で感じ取っているようだった。ライブの熱気がまだ全身に残っており、額には汗が浮かんでいた。衣装を着衣したままであり、楽器の類は持っていなかった。
「美咲ちゃん、ど、どこにいるのっ……?」
娘の視線が室内壁際の血だまりを視た時、ミッシェルを着て扉の死角に隠れていた男は一斉に飛び掛かった。娘が悲鳴を上げながら振り向いた。左側にまとめられた長髪が揺れた。男は両腕で娘の頭部を掴んだ。十本の指先は娘の頭蓋をめきめきと快調に砕き、やがて卵の殻が割れるような音と共に頭部は男の腕の中で完全にひしゃげた。
男は手を離した。ドシャ、という音と共に絶命した娘が床に落下した。男は娘を見下ろした。頭蓋はめちゃくちゃに崩れており、内側から赤黒い脳漿が垂れていた。眼窩から外れた眼球が足元に転がっていた。男はそれを拾い上げた。ぬらぬらと光沢を含む白色の球体だったが、よく視るとその表面には細い血管が通っていた。瞳の部分だけが淡い紫色を湛えていた。男は娘の眼球をその場にポイと捨て、キグルミを着たまま更衣室から退室した。
ミッシェルの中の娘は奥沢美咲というようだった。
血まみれのミッシェルから美咲を取り出し、男はその様子を視た。黒色の髪は短かった。前髪は目元に差し掛かるほどだったがそれは左側だけであり、右側はヘアピンによって額が視えていた。美咲の表情は張り詰めていた。淡い青色の瞳の中に光はなく、激痛による絶望と共に壊死したのだと察することができた。
男は美咲からミッシェルを奪った。美咲の死体からミッシェルを剥ぎ取り、代わりに自分がそのキグルミを着た。そして男は驚いた。美咲が着ていたミッシェルはふくよかだった。よくあるキグルミと同じ巨体のはずだった。しかし男が強奪し、自ら装備したミッシェルは引き締まっていた。普通の衣類のように身体にぴったりと密着し、桃色の体毛は男の体躯を忠実に再現した。男がミッシェルを手斧で攻撃し、左肩が大きく損壊したことで本来のサイズ感が壊滅したようだった。
ミッシェルを装備した男は手斧を持って廊下を歩いた。周囲に人は居なかった。すでにライブ後の片付けもひと通り終わり、喧騒は過ぎ去った後のようだった。だがそれでも手斧という武器をそのまま持ち歩くのは危険行為のように思えた。そのため男は道中で手に入れた適当な布で手斧を包み、握るのではなく脇に挟んで抱え込むように運搬した。やがて男は扉の前で立ち止まった。そこは控室への出入り口扉だった。控室とはハロハピの他のメンバーが待機している個室のことだった。
「よし、私が視てこよう」
男が扉を開けるより先に扉が動いた。「おや……」と低い声が続いた。男は顔を上げた。開かれた扉の前にハロハピのメンバーの一人が立っていた。
「やぁミッシェル。少し遅いから心配したよ。花音がそっちに行ったと思うけれど、もしかして、入れ違ってしまったのかな?」
それはあの背の高い娘だった。紫色の髪を持ち、鋭い目つきで妖しい声色だった。先ほど男が頭蓋を潰したあの娘、松原花音と同じくライブ衣装を着衣しておりスレンダーな体型だった。
男はライブの合間にあったメンバー紹介を思い出し、この娘の名前が瀬田薫だと改めて認識した。
「ミッシェル……?」
薫の表情に怪訝なものが浮かんだ。次の瞬間、男はミッシェルとして薫の腹を右手で殴った。湿ったものが弾ける音がし、薫は腹を抱えて身体をくの字に曲げた。その場にうずくまり、それから細々と悶絶しながら動かなくなった。
薫がやられたことにより室内は異様な雰囲気に包まれた。男は扉を後ろ手で閉じ、布で包んだ手斧を立てかけると奥で絶句する二人を睨んだ。
橙色の短髪の娘は北沢はぐみ、金髪の娘は弦巻こころだった。
最初に動いたのははぐみだった。「ミッシェル……?」と小さな声で男に歩み寄った。その所作は恐怖にまみれていた。細い両足は、がたがたと震えていた。表情は、もはや同じバンドメンバーを視る目ではなかった。よく知るキグルミが唐突にメンバーに暴行を働いたため、思考回路が完全に混乱しているようだった。男ははぐみに歩み寄った。男ははぐみに向かって右手を差し出した。するとはぐみは表情を和やかにした。眼前のキグルミは、やはりよく知る『ミッシェル』なのだと認識し直したようだった。
男ははぐみの頬を平手打ちした。パシッ、と乾いた音が鳴り、控室に悲鳴が響き渡った。激昂した猫が出す鋭い鳴き声に似た絶叫だった。
「はぐみ!」
こころが叫んだ。男ははぐみの首を右手で掴み、左手をその口の中にねじ込んだ。はぐみの変化はすぐだった。赤色の瞳がぎゅるりと上向き、悲鳴がもごもごと煙たく鳴り響いた。男はそれでもはぐみの喉奥に左手を押し込んだ。ミッシェルを着る男の拳は普段よりいくらか太く、またキグルミの表面ははぐみの口腔内部の水分を吸い取りながらぐいぐいとめり込んだ。はぐみは男の両腕を掴んで抵抗していた。太腿が内側に向き、つま先は外側へびくびくと混乱していた。男の腕を掴む両手も忙しなく、かっくりと曲げられた肘が羽のように空中を掻き続けていたが、その力は男に少しも及んでいなかった。
「はぐみっ、駄目っ……」
間もなく、はぐみは口角から大量の白色の泡を音を立てながら吐き散らかした。鼻孔から透明な粘液が垂れ、瞳は上向いたまま涙を流して四肢から力がくたりと抜けた。男が手を離すとはぐみはその場にぱたりと倒れ落ちた。
はぐみを殺害した男は次にこころに向かった。
一歩を踏み出した時、足の部分に違和感が通った。男は後方を視た。腹部に殴打を受けたはずの薫が額を上げ、ミッシェルの右足を摘まんでいた。
「待つんだ……」
男は右足を大げさに動かした。キグルミに触れていた、薫の指先は簡単に外れた。男は薫に向き直り、つま先でその身体を仰向けにして馬乗りになった。薫の表情が引きつった。他のハロハピメンバーと比較するとやはり歳上に思えるその顔つきが、途端に他のメンバーと同世代のように視えてきた。細く角ばった目元に恐怖が浮かび、瞳の部分が痙攣して視線はもう外れなかった。自らの死、というより殺害方法を悟ったようだった。
男は素早く息を吸い、右手を握り締めると薫の顔面をぶん殴った。鈍い音が響いた。力強い握り拳が薫の顔面に激突し容姿を揺るがしていた。男は薫から右手を上げた。薫の口元から飛び出た血液が付着しており、べっとり糸を引いていた。男は次に左手を握り締め、薫に向かって叩き込んだ。軽い、砕けるような音が鳴った。それは薫の鼻の骨が粉砕された音だった。瓜実顔が妙にボコッと変形していた。
「や、やめてっ……」
こころの声が跳ね上がった。男は声を無視して薫を殴った。右拳だった。右が終わると次は左だった。男は左拳で薫の顔面を殴った。男は左手を上げた。左が終わると次は右だった。男はミッシェルを着たまま薫の顔面を拳だけで粉砕した。両腕の動きは素早く、洗練された筋力が一直線に生かされていた。顔面の内部にまで、拳の形や質感を刻み付けるような殴打だった。
「や、やめてっ、薫っ、薫が死んじゃう……」
男の拳が激突すると、薫の身体はその衝撃によって少し震えた。両手足がびくりと跳ね、肉と骨が激突しひしゃげる音が続いた。男は拳を振るう手を止めた。数十の打撃を受けた薫の顔面はもう取り返しのつかないところまで陥没していた。鼻の骨や顎の骨、歯列などが粉々に砕け、逆に頬肉や目元の部分は赤く腫れ上がっていた。
薫から離れた男はこころを視た。こころは床に倒れるはぐみに駆け寄って背中を保持していた。介抱しているように視えるがそれは違った。こころの素手は震えていた。バンドにおけるマスコットのような存在が唐突に暴力衝動に身を任せ、メンバーを次々と殺害する様子に恐怖を感じているようだった。男は入室時に放置した手斧を持ち上げた。誤魔化すために巻き付けていた布を落とすと、銀色の広い刃が視えた。男は木製の持ち手を右手で握り、こころを視た。こころは逃げるように後ずさった。床にはぐみを落としてまで後退し、やがてその背は控室壁際にとすんと触れた。
「ミッシェル、どうしてっ。う、嘘よね、こんなこと……」
男はこころの怯え切った表情を見下ろしていた。つい先ほどのライブパフォーマンスにおいて、こころは他の誰より前線に立ち誰より目立って誰より笑顔だった。しかし今、眼前で二人のメンバーの死を目撃したエンターテイナーのその表情に、笑顔などというものは感じられなかった。
「美咲、助けて……」
潤んだ瞳がミッシェルを視ていた。男は手斧を素早く振り下ろした。まるで金属を叩き割ったかのような鋭い音が鳴った。こころは一度だけ身体を跳ね上げさせ、それから悲鳴も上げずに左右の瞳をぐりゅりと上向かせた。間もなく、音を立てながら鼻孔から太い赤黒い血が垂れた。鼻血は糸を引いて衣装を汚した。手斧ははの半分以上がこころの頭頂部に突き刺さり、最も重要な脳の部分を一撃で破壊したようだった。
ライブ会場にはまだ観客が残っていた。
バンドによる全てのパフォーマンスは終了していた。観客は自由に喋りながら帰宅のための準備をしており、会場を後にした者も多かった。周囲には淡い照明が灯っており、ステージは垂れ下がった幕によって視えなかった。全体的に穏やかというか、余裕のある雰囲気で少しざわついていた。
ブザー音と同時に全ての照明が消えた。周囲はあっという間に暗闇に包まれ、観客のざわめきも唐突に落ち着いた。その中でブザー音は続いていた。それは異常なことだった。開演を知らせるブザー音とは短いものだった。しかし今、全てが終わったはずのライブ会場には他の音の存在を許さないほど巨大で長いブザー音が鳴り響き続けていた。
次の瞬間に幕が動き出した。ブザー音は続いていた。観客たちはまたどよめいた。ほぼ全ての観客が、今からハロハピのサプライズアンコールがはじまるのだと固唾を飲んで見守っていた。動揺が期待となって膨れ上がり、視線も意識もステージの上に集中した。幕は完全に開いた。しかし観客の中でその様子を正確に視認した者は居なかった。ライブ会場そのものがほぼ真っ暗で何も視えなかった。ブザー音が鳴り止み、数秒するとスポットライトが点灯してステージ中央を派手に映し出した。
「え――」
奥沢美咲、松原花音、瀬田薫、北沢はぐみ、弦巻こころの死体は等間隔で吊り下げられており、観客たちが全てを視認するとハズレを意味するようにブザー音がブッブーと鳴った。
三日後、『ハロハピ皆殺し事件』は世論を駆け巡った。
ニュース番組をはじめとするあらゆるメディアが事件を取り上げた。メンバー全員の殺害方法はどれも派手で、何より全員殺害後の『パフォーマンス』はメディアとしては絶対に取り上げなければならない『ネタ』だった。また、メディアは犯人像にも注目した。ライブ終了直後の犯行であることと、ライブ関係スタッフの身元に不審な点がひとつもないことから犯人は観客として紛れ込んでいたと推測した。速やかな手順で更衣室や控室に進入し目撃者を出さず犯行の全てを成功させた点から少なくとも衝動的な犯行ではないと語られたが、その推測によって浮かび上がるのは犯人の中に渦巻く計り知れない狂気だけだった。本件はこの数か月で発生したやまぶきベーカリー殺人事件』や『パスパレ麻弥以外殺人事件』などの狂気的殺人事件と同一犯とみなされ、とある犯罪心理学者は『理性を持った狂った獣』と語った。流石に大げさな表現だとメディアは発言を冷笑したが、ハロハピファンだけはこの発言に強く頷いた。
ガールズバンドとして異色の世界観を持つハロハピだったが、その活動がまさか『皆殺し』と『死体お披露目』で完結したことにファン連中は戦慄し、いわゆる『大ガールズバンド時代』などと語られる一連のムーブメントは萎縮の雰囲気に包まれた。
新品のM4自動小銃を装備した男は羽丘女子学園に進入した。
自動小銃は全長約850ミリ、重量約2500グラムの黒一色だった。ずっしり重たく、両手で構えると身体そのものによく馴染んだ。特殊な光学機器の類は装備していなかった。ただひとつ専用の帯を接続しているだけだった。それは男の首から垂れ下がる頑丈なものであり、緊急時に両手を離しても自動小銃本体は落下しない仕様になっていた。
門を入ってすぐに男は一人の女子生徒を発見した。女子生徒はまだ状況が理解できていないらしく、自動小銃を両手で堅牢に構える男を視てもぼんやりしていた。男は女子生徒の胸元に狙いを定めた。円形の照門と簡素だが頑丈な照星が、男の視界の中でぴたりと噛み合い女子生徒を狙っていた。男は引金を引いた。瞬時に火薬の炸裂音が響き、肩周辺に衝撃を受けた。それは射撃による反動だった。自動小銃から弾丸が発射された弾丸は人が認識できるどんな僅かな時間よりも短い時間で女子生徒の胸元に着弾し肉体を貫いた。どこかから悲鳴が響き渡った。それはひとつではなかった。この羽丘女子学園に居る大勢の女子生徒たちが、今まさに男という進入者の存在を認知した。自動小銃を構える男は足を進めた。今しがた射殺した、濃い茶色い短髪に紫色の瞳を持つ女子生徒の死体を踏み抜いて向かった。玄関口から校舎内に入った。靴を脱がず廊下に進入した。無数の悲鳴と、床を蹴り駆けてゆく女子生徒の上履きの足音が乱雑に響き渡っていた。まだまだ幼気な本能だが、男の有害性について素早く察知し生存することだけを考えているようだった。羽丘女子学園の制服は灰色のブレザーだった。スカートの色は三種類あった。それは学年による差異で、一年生は緑色だった。二年生は青色だった。三年生は焦げ茶色だった。男は自動小銃を構え、照準器越しに女子生徒の灰色の細い背を視た。ひらひら舞うスカートの輪郭を視た。今、逃げるしかない女子生徒と圧倒的な武力を持った男による戦争が校舎内にてはじまった。
照星の先で赤黒いものが弾けた。それは狙い撃った女子生徒の身体から爆ぜ出る血液だった。被弾した箇所は右肩で、女子生徒はのけ反るように倒れてそれからもう動かなくなった。男は女子生徒の死体を無視して次の女子生徒を撃った。ドカッ、という強烈な火薬の炸裂音は途切れることなく続いた。音が鳴ると同時に女子生徒はその場で倒れた。一人、二人、三人と連続で撃った。女子生徒たちは誰でも男に背を向けて逃げていた。悲鳴を上げ、もたつく足を悲惨なまでに激しく動かしていた。男の射撃からどうにか逃げようと必死だったが、特別な訓練も受けていない女子生徒の逃げ足が自動小銃の有効射程距離から逃れることなど不可能だった。さらにこの場は廊下だった。学校の廊下とは一直線に造られており射撃に最適だった。
男は女子生徒を射撃しながら廊下を練り歩いた。照準器の中に灰色の背が視え、それが十分に射撃できる距離だった場合躊躇せず引金を引いた。一発一発撃つ度に男は反動を受けた。反動は強烈だった。しかしその刺激がむしろ爽快感だった。男は女子生徒を追うより女子生徒の背を正確に狙うことに重点を置き射撃した。耳をつんざく銃声が連続し、逃げ惑う女子生徒たちが次々と倒れた。それはドミノのように思えた。男に対し背を向け、一目散に逃げる女子生徒を男は狙って撃ち殺し続けた。やがて自動小銃が動作停止した。弾切れだった。男は自動小銃側部にある弾倉取り外し釦を右手人差し指で押した。弾倉は自重で落下した。男は弾嚢から新しい弾倉を取り出して自動小銃の底部に差し入れ、遊底止めを押し込んだ。ガシャン、という金属音と共に遊底が勢いよく前進し薬室内に初弾が装填された。男は安全装置を動かした。『単発』から『連射』に切り替えると適当な教室に入室した。
教室に入ると悲鳴が響いた。それは教室内に取り残され、身動きが取れない女子生徒たちのものだった。女子生徒たちは入り口付近に立つ男からできるだけ距離を取っていた。壁際に集合し、逃げることもできず怯えた顔で男を視ていた。男は自動小銃を腰の位置で構えると発砲した。それは乱射だった。男は銃口で女子生徒たちを舐め廻すようにまんべんなく撃ちまくった。間もなく弾切れになり、男は銃を下ろした。空の薬莢がぱらぱら散る音が少し鳴り、すぐに終わって静寂に包まれた。
硝煙香る教室内を男は眺めた。金属製の弾丸の威力は凄まじかった。視認できる全ての女子生徒は男の射撃によって死亡していた。下顎を大きく損壊し赤色の舌が垂れているものがあった。腹部に大きな穴が開いて腸が露出しているものがあった。何か互いを庇うように折り重なり、そのまま脳漿を噴出しながら息絶えているものがあった。
女子生徒の死体の山を眺めながら男は弾倉を取り替えた。親指で遊底止めを押すと、機関部の中で遊底が勢いよく前進し初弾が装填された。男は教室の窓から廊下を確認しつつ、まず安全装置を『連射』から『安全』に切り替えた。そして自動小銃後部にある装填柄を左手で摘まんだ。軽く後退させると遊底も後退し、排莢口との隙間から金色が覗いた。装填された初弾だった。男は装填柄を手放し、安全装置を『安全』から『連射』に切り替えると次に向かった。
別の教室に突撃すると数人が怯えていた。
岩を退かして下虫をみつけた時のような高揚感に包まれた。
男はさっそく引金を引いた。橙色の火焔が立て続けに炸裂し窓硝子に反射した。瞬く間に全弾を撃ち尽くし、硝煙混ざる血潮の香りを嗅ぎながら男は教室から出た。男にはひとつ目的地があった。それは特別教室棟だった。生徒が基本的な授業を受けるため、日常的に使用する教室とは異なるたとえば理科室や音楽室などがある別館を男は目指していた。
黒い銃口を向けるだけで女子生徒は叫びながら逃げ出した。男はその背を撃った。
ちょうど階段付近で被弾した女子生徒は均衡を崩し、そのまま頭から階段に落下した。女子生徒はぐしゃりぐしゃりと重たい音を連続で立てながら転がり落ち、二階でも一階でもない場所でくたびれた。腕や足が男の知らない方向に曲がりくねり、銃弾を受けた腹部から薄い赤色の腸が垂れていた。男は階段を上がった。すると眼前に長い廊下が視えた。それは渡り廊下だった。特別教室棟へ繋がる一直線だった。男は自動小銃の安全装置を切り替え、弾倉を取り替えながら渡り廊下を歩いた。
渡り廊下は右手側にも左手側にも窓が連なっていた。男は左手側を眺めた。空が少し赤色だった。男が校舎に入った瞬間は青空だった。女子生徒を射殺している間に時間が経過し、そろそろ暮れがやってくるようだった。また、窓からは中庭が視えた。中庭には教師らしき人物が立っていた。教師連中はまだ生存している女子生徒たちの避難誘導をしていた。
特別教室棟に到着した男はまず家庭科室に入った。
「イヤァッ!」
がらがらと煩い扉を開き一歩を進めると右手側から突進が繰り出された。男はそれをひらりと回避した。すぐさま身体を持ち直して自動小銃を構えた。照準器越しに前を視た。娘が居た。赤色の長髪で背が高く、スカートの色は青色だった。
長身の娘はすぐに体勢を立て直し、鋭利な目つきで男を警戒していた。
「あ、あこに近づくなっ!」
長髪の娘の背後にはもう一人別の娘が居た。紫色のツインテールを持つ娘のスカートは緑色だった。長髪の娘と雰囲気が異なっていた。丸っこい印象の目元に、赤色の瞳は大きかった。顔つきも高校生にしては童顔に思え、さらにツインテールの影響で男は娘が本当に高校生なのか少し疑った。長髪の娘はそんなツインテールの娘を庇っているように思えた。しかしその体勢は男から視ると隙だらけだった。どこからでも攻撃が通り、どこからでも背後の娘を奪い取ることができると男は確信した。しかし慢心はしなかった。娘は確かに素人の構えだったが威勢はよく、「ヤアァッ!」という雄叫びのような声と共に男に向かって突進してきた。それは捨て身の攻撃に思えた。実力を行使して男を排除するのではなく、どうにか男を外へ追い出そうとする必死の抵抗に思えた。
男は向かってくる娘に自動小銃を振った。銃床が頬に激突し、娘は一瞬ひるんだが男に突撃する勢いは途絶えなかった。羽丘女子学園に進入した時から男は逃げる女子生徒を殺害するだけだった。そこに拮抗したやり取りはなかった。ただ男の優位性だけが一方向に流れているだけだった。しかしこの娘は違った。自動小銃という圧倒的な武力を前にして娘は怯えていなかった。命乞いをするわけでもなかった。それは天晴れなことだと男は思った。十代女子とは思えない胆力であり、まさしく豪傑だった。豪傑な娘の瞳には確かな意志が宿っていた。人とは己のために動くことで全力を発揮することができるが、他者のために動けばそれはそれで異なる力を発揮するものだった。そしてこの娘の場合、他者とは背後にあの娘のようだった。あこと呼ぶツインテールの娘を何がなんでも守り抜きたいようだった。
しかしそんな精神論より金属製の銃弾のほうが確かな強さを持っていた。
「あこっ……。逃げろ!」
男は娘に向かって引金を引いた。瞬時に硬い炸裂音が轟き、いくつもの弾丸が娘に向かって発射された。男の中に急所を狙うだとかそういう考えはあまりなかった。男は弾倉ひとつをあっという間に撃ち尽くした。銃口を下げ、素早く弾倉を交換した。初弾を装填すると男はすかさず銃口を持ち上げた。銃床を肩部分に強くめり込ませ、身体そのものを使って自動小銃を構えた。
男が次に狙うのはツインテールの娘、あこだった。男は照準器越しにあこを視た。あこは怯えていた。引きつった口元は痙攣し、死に対する明確な恐怖心が目元に浮かび上がっていた。今まで自分を守ってくれた相手があっという間に殺害されたことに対し強く混乱しているようだった。男は引金を引いた。赤色の火焔がけたたましい音と共に連続した。自動小銃は轟音を立てながら荒々しく動作していた。その強い反動を男は身体そのもので受け止め、無数の銃弾はあこの肉体を簡単に散らした。
二人の娘を殺害した男は自動小銃を背に廻し、この家庭科室を見渡した。家庭科室は広かった。普通教室を二つ繋げた程度の空間であり、専用の作業台が六つ設置してあった。壁際に棚があり、棚の中には大小さまざまな形の鍋、玉杓子に包丁、それから泡立て器などの調理道具がぎっしりと置かれていた。男は棚の中から適当な調理道具を選び、それら全てを鍋の中に入れて作業台についた。鍋は巨大だった。カレーや、ラーメンのスープを造るために造られたものらしく底が深かった。男は作業台のコンロの上に鍋を置き、道具を取り出して並べた。そして二つの死体を作業台の近くに引きずった。
紫色のツインテールの娘の名前は宇田川あこで、赤い長髪の娘の名前は宇田川巴というようだった。
男は二人の名前を、二人が所有する生徒手帳から知った。姉妹のようだったが二人は似ていなかった。男は二人の死体を順番に引きずって運んだ。巴は髪が長くて運びやすかった。あこのツインテールという髪型も運搬に適していた。二つの死体はどちらも妙に重たかった。二人は姉妹で、その身体には身長差がそれなりにあったが死体として重さに差異はないように思えた。巴もあこも銃創によって血まみれになっており、少しの距離を引きずるだけで床が真っ赤に汚れた。
準備を終えると男は死体の処理に取り掛かった。最初は巴の死体だった。無数の銃創は巴の身体のあらゆる箇所を乱雑に破壊していたが、唯一頭部だけは少しも崩れていなかった。それは男が射撃の最中に意識したことだった。乱射によって死亡した巴の顔面が視たかった。男は巴の髪を引っ張り、その表情を視た。巴は焦点を失い、霞んだ色彩は何も映していなかった。半開きの口と鼻孔から血を垂らし、首部分には筋力を感じることができなかった。絶命しているためか、頬や額の皮膚からも熱が抜けて色白に視えた。男は巴を仰向けのまま床に預け、その左腕を掴み上げた。腕は複雑に骨折しており、肉がえぐれていたが男はがっしりと握り込んだ。次に男は娘の胸元に左足を落とした。巴の身体を踵で強く固定し、両腕を上方向に力むとまず皮膚が引き千切れた。中途半端に裂けていた箇所が完全に剥がれ、全く安全だった箇所も強引に敗れた。男はそれでも巴の腕を引っ張った。左足を力み、上半身そのものを使って引っ張った。どうにか巴から巴の上を引き離そうとした。皮膚が千切れた腕は次に肉が崩壊した。人間の筋肉とは細い糸の集合体だった。その集合体が引き伸ばされながら離れ離れになり、周囲に血を噴き出しながら巴の腕は身体から完全に分離した。
巴の腕を男は鍋に投げ入れた。左腕はガコンと音を立てながら鍋の底に収まった。
次は右腕だった。男は先ほどと同じように足で巴の胴体を踏み、右腕を握って上向きに力んだ。皮膚が裂け、肉が千切れて骨が砕けた。どこからともなく鮮血が飛沫を上げ、男は巴の右腕をねじった。右腕は間もなく完全に分離した。男はそれも鍋に向かって投げた。娘の右腕はガコンと音を立てながら鍋の底に収まった。
両腕を完全に失った巴の身体はどこか縮んだように視えた。肩の位置が荒々しく損壊し、折れた骨が中途半端に露出していた。男はそんな娘の身体をさらに分解した。肩から飛びえた左右の骨をそれぞれ握り、骨をほじくり出して鍋に投げ入れた。肋骨を踏み潰して中に腕を突っ込み、臓物をひとつひとつ取り出した。肺や胃袋は血液や皮下脂肪によってぬらぬらとしており、男は握り潰しながら鍋に入れた。身体が損壊するとその度に死体から血潮が噴き出た。血は家庭科室の床や作業台、鍋や男の身体を濡らした。最後に頭皮ごと剥がした赤色の長髪を添え、男は娘一人の処理を終えた。巴は長身だったが、工夫して部位ごとに分割すれば簡単に鍋に収まった。次は巴の妹のあこの処理だった。
あこの身体の損壊は巴のそれより激しかった。
男はあこを仰向けにし、胸元を踏んで固定した。頭部から左右に伸びるツインテールを同時に握った。男が腕を上向きに力むと、ツインテールがピンと張って後頭部が床から浮いた。顎と鎖骨が激突し、それでも男は両腕を力んだ。やがてあこの首元の皮膚が引き裂かれ、奥から無数の流血を散らして勢いよく損壊した。
男は片手でツインテールを握っていた。頭部をぶら下げているような恰好だった。鍋の中に巴が収まっていた。男はそこに追加であこの頭部を押し込み、いよいよコンロを点火した。煮込み作業の開始だった。
二人の娘が完全に沸騰するまで男は清掃作業をした。作業台には四つのコンロがあり、男はその中のひとつに鍋を設置していた。作業台には他に流し台も設置されており、流し台の中にはたらいが置かれていた。それは調理に使用する食材や調理道具、素手を洗うためのものだった。男はそれらを使用して自らの両腕を清掃した。両腕には二人の娘から飛び散った血液がべっとり貼り付いているだけでなく、細かい肉の破片や臓器の破片、内臓脂肪の塊が多く付着していた。男はそれら全てを入念に洗い流した。
煮込み作業は十分程度で完了した。男はコンロの火を止め、ぐつぐつと蠢き続ける鍋の中を覗いた。『宇田川鍋』は完成していた。広い円形のその中で、娘たちの部位は完全に溶け合っていた。血や脂のにおいを薄らと漂わせながら完成していた。男は玉杓子を使用して鍋の中を掬ってみた。どろどろに仕上がったそれは元々が人だと信じられないほどだった。男は玉杓子を置き、食事用のお椀を持ち上げた。同時にどこかで異音が鳴った。
それは明らかにこの家庭科室のどこかから鳴った音だった。男は玉杓子もお椀も置き、自動小銃を構えてゆっくりと歩き出した。宇田川姉妹解体による返り血により、男の全身は血液と脂で粘っこく汚れていた。男はそれでも自動小銃をしっかり握って前傾姿勢になり、家庭科室で隠れることのできそうな場所をひとつひとつ確認していった。
赤色の眼鏡をかけた娘は男が使用した作業台から最も遠い位置に隠れていた。
「ひいっ!」
男と目が合った途端にその娘は声を上げ、肩を飛び上がらせた。怯えきった鋭い所作だった。男は娘の顔を視て真っ先に娘の名前を思い浮かべていた。娘の名前は麻弥だった。かつて、男が日菜からはじまり千聖に彩、そしてイヴと順番に殺害したあのガールズバンド『Pastel*Palettes』の最後の生き残りだった。
麻弥は本来椅子が収納されている空間に身体を縮めて押し込んでいた。男は自動小銃を背に廻し、麻弥を引っ張り出した。麻弥は「やめてください!」と抵抗した。銃殺されると思い込んでいるらしく、それをどうにか回避しようと迫真の声だったが麻弥は実に非力だった。男は麻弥の左腕をがっしり掴み、言葉もなく立たせて鍋の元に連行した。片手でスプーンを持ち、鍋からひとつ掬い取って麻弥の口元に強引に向けた。
麻弥は男のスープを拒絶した。ミルクティーのような淡い茶色は肩に触れる程度に短く、控えめな目つきがさらにさらに怯えていた。男は素手を握り締め、麻弥に対しスープを嚥下することを強要した。それでも麻弥は「い、嫌ですっ!」とある意味で強かな態度を続けた。男はスプーンの先端で強引に麻弥の唇を開き、その中にスープを流した。スプーンを捨て、麻弥が吐いてしまわないように右手で頬を挟んで少し揉んだが次の瞬間に麻弥はスープを吐き出した。
「ぶっ――」
そもそも熱湯したばかりのスープは口腔粘膜にとって相当に熱く、人体を煮込んだその味はいいものではなかった。正常な人間の舌先が本能で拒絶する味わいであり、麻弥は潮を噴くように前方向に液体を吐き捨てた。男は麻弥の両肩を両手で持ち、すぐ横の流し台に設置したたらいに向かってその頭部を突っ込んだ。たらいには冷水が溜まったままであり、頭部だけが水中に入った麻弥はその場でまず慌てた。両腕を振り、男の拘束から逃れようとした。男はあえて麻弥を水中から上げた。しかしすぐに水中に突っ込んだ。大量の水の飛沫が周囲に散り、バシャバシャと音が続いた。麻弥は当然制服姿だった。灰色ブレザーの襟部分だけが濡れ、色が濃くなっていた。
男は麻弥を水中に強引に留めながら、周囲に視線を巡らせた。作業台に適当に並べた調理道具を視ていた。最初に包丁が目に入った。次にアイスピックが目に入った。肉叩きが目に入った。最後に泡立て器が目に入った。男は泡立て器を手に取った。自動小銃の握把に似た持ち手を掴み、引金のような箇所を押し込むと回転機構が起動した。回転機構とは泡立て器の先端部分のことだった。銀色のワイヤーを束ねた独特の二つの部位は電球に似た形で、引金を引いている時だけ蝿の羽音に似た重低音を放ち駆動した。男は麻弥の短髪を握って麻弥の顔面を水中から出した。キュコーッ、という声が喉から鳴った。長い時間水中に居たため酸素が欠乏し、その欠乏のツケを払うかのように猛烈に酸素を吸引しているようだった。眼鏡のレンズに大粒の水滴がいくつも付着していた。男は泡立て器を駆動させたまま、回転する先端部分を目元に押し込んでいった。
「ぶべべっ!」
高速回転する先端部分は麻弥の眼鏡のレンズを割りながら眼窩にめり込んでいった。あの電球のような形のワイヤーが硝子体をなめらかに崩しながら最奥までめり込み、眼窩の粘膜を内側から削ってかき混ぜた。泡立て器の回転に呼応するように麻弥は四肢をびくびくと痙攣させていたが間もなく力尽き、男は泡立て器をゆっくりと引き抜いた。
潰れた眼球が先端部分にべっとり絡み付いており、少しするとその一部がどちゃりと床に落ちた。
家庭科室から出た男はさらに階段を上がった。
家庭科室があったのは二階で、男はそこから一気に最上階まで登った。普通教室はないため、女子生徒と遭遇することはなかった。このまま屋上まで行こう、と男は意気込み自動小銃を構えていた。弾倉は新しいものに取り換え済みであり、装填も完了していつでも発砲することができた。
やがて男はひとつの扉の前まで到着した。それは屋上に続く扉だった。無機質で白色の扉だった。男は扉を開き、慎重に一歩を踏み出した。途端に男の視界を光が差した。それは橙色だった。それは夕暮れだった。屋上世界に煌びやかな橙色が広がっていた。男が女子生徒を射撃している間に空はすっかり暮れたようだった。
果てなき向こう側に視える太陽は溶けかけており、情熱的な光は雲を通過して全てを染め上げていた。
そんな屋上には娘が二人居た。一人は短い黒髪の娘だった。左側にひとつ赤色の娘メッシュを差していた。もう一人はハムのような桃色の髪を持つ娘だった。髪は綺麗に二束に分けており、その結びめは胸元に垂れていた。巨乳だった。この橙色に光り輝く屋上世界のその中で、娘の突出した胸部の輪郭ははっきりと現れていた。
二人とも灰色のブレザーを着ており、スカートの色は青色だった。
男は自動小銃を構えて二人に接近した。五メートル、二メートルと距離はどんどん狭まった。そ一メートルを越えたところで巨乳の娘が動いた。何より機敏だった。短いスカートを揺らし、地面に対して両膝を落とすと自主的に頭を下げ手を添えた。
「ごめんなさいっ! 許してくださいっ!」
それは土下座だった。正真正銘の降参の意思表示だった。胸が大きいためか、どこか太ましく思える身体がその大きささえ詫びるように必死に頭を下げていた。すると隣で黒髪の娘も動いた。巨乳の娘と同じく土下座をするようだったが、その挙動はぎこちなかった。土下座を自ら行うこと自体にまだ躊躇があるような雰囲気がひしひしと伝わってきた。しかしそれでも娘は土下座をした。がたがたと震える膝を地面に落とし、腰を曲げてどうにか顔面を伏せた。「許してください……」と小さな低い声が聞こえてきた。砂利を擦り合わせた際の音に似た声だった。一時的な屈辱感と生への執着が、同じ大きさで胸中に差し迫っているようだった。巨乳の娘が追加で「殺さないでください」と懇願した。それは非の打ち所のない命乞いだった。
男は自動小銃を娘たちに向けて構えた。夕暮れの光が縮こまった二つの土下座を照らしていた。男は引金を引こうとした。その瞬間に娘が動いた。
「アアアッ!」
黒髪の娘は叫び声を上げながら男に突進した。不意を突いたように思えたがそれは無駄な抵抗だった。自動小銃を構え、照門を覗く男は冷静に娘の太腿を狙うと引金を引いた。瞬時にズダンッ、と力強い轟音が鳴り娘は前のめりに倒れた。男は銃口を娘に向けたまま冷静に観察した。
「うう、ぐう……」
床に倒れる娘は太腿を負傷していた。肌色の中に人差し指程度の穴が開き、だらだらと広がる流血は光り輝いて視えた。「蘭っ……」という尖った声がした。巨乳の娘のものだった。男はそこで今まさに一発撃ち込んだこの娘の名前が蘭であることを知った。男は自動小銃の銃口を巨乳の娘に向けた。蘭に駆け寄ったり、こちらに向かってきたら問答無用で射撃するつもりだった。しかし巨乳の娘は喉を強張らせるだけでその場から動かなかった。十秒程度時間が過ぎ、男はこの娘が本格的な意気消沈にあるらしいことを知った。
男は銃口を娘から外し、つま先で蘭を仰向けにした。その瞬間にも巨乳の娘は悲鳴に似た声を上げるだけだった。蘭の身体は床の上で転がり、男はその消耗した瞳を照星越しに視た。
「くそ……」
蘭と目と目を合わせると男は途端に何か驚愕した。背筋が一気にぞわりと波立ち、どうにもならない寒気が皮膚と筋肉の間の部分を通り抜けた。原因は蘭の瞳だった。蘭の目つきは鋭かった。足を負傷し、もうなんの抵抗もできないというのに瞳の中には闘魂が宿っていた。たとえばどれだけの辱めを受けたとしてもこの光は消えないと男は思った。そして男はなぜこの程度の年齢の娘がそれほど巨大な眼光を宿しているのかわからなかった。
「ひまり、逃げて……」
蘭が呟いた。同時に男は引金を引いた。引金を押し込んでいた。男は蘭の顔面を撃っていなかった。男は蘭の顔面を掻き消していた。炸裂する無数の火薬の音と共に、大量の血潮が夕暮れに向かって噴き上がった。血液は蘭を射撃する男の頬にまで細かく飛び散り、やがて銃声が途絶えた。男は一瞬で弾倉を使い切っていた。硝煙が白く薄らと漂う中、男は照星越しに蘭を視ていた。大量の弾丸を受け、赤黒く潰れた蘭は当然もう動いていなかった。
男は蘭から銃口を外した。そしてすぐに隣を視た。ひまり、と呼ばれていた娘は絶句したままだった。
「ら、らん……」
ひまりは動いていなかった。口を半開きにぽかんと垂らし、見開かれた瞼の奥で瞳だけが少し痙攣していた。男はひまりの前で仁王立ちをし、そのまま弾倉を交換した。それは悠々自適な所作だった。空の弾倉を見守りながらゆっくり外し、新しい弾倉を余裕を持って取り出した。自動小銃の底部を覗き込みながら弾倉を差し込み、何か確認するように遊底を前進させた。また装填が終わった後、男は装填柄を軽く引っ張って薬室を確認した。そこには金色の弾丸がしっかり装填されていた。男は夕暮れの彩りを眺めながら、装填柄を手放して額を上げた。
ひまりは先ほどと変わらない様子でそこに居た。
「あ、ああ、そんな……」
ひまりは何もしていなかった。男が仁王立ちをした時と何も変わっていなかった。今まさに友人を殺害した銃口が、十分に弾丸を装填して自らに向いているというのに愕然とするばかりだった。土下座の体勢から胴体だけを持ち上げ、その場に座り込んだように停止していた。
絶望しているようだった。
平穏だった学園生活が一瞬にして崩れ去り、友人さえ射殺されたことによる深い絶望がひまりを襲っているようだった。絶望は真水に広がる墨のようにじわりじわりと浸透し、もはや逃げることさえ不可能な思考停止に陥っているようだった。男は引金を引かなかった。自動小銃を胸元から降ろし、銃口と真反対の銃床を用意した。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
ひまりは震える喉で声を上げた。男は手を止めた。ひまりは引きつった声でまた「ごめんなさいっ」と謝罪した。素早く土下座をして命乞いをした。
別にひまりは悪くなかった。友人である蘭も悪くなかった。この学校に悪い女子生徒など一人も居なかった。悪いのは男だった。勝手に進入し勝手に自動小銃を乱射する男のほうが明らかに悪人だった。しかしひまりは自らへりくだり、ないはずの罪さえ認めて命乞いを叫んでいた。
「ゆ、許してくださいっ、なんでもしますっ、なんでも、だから――」
男はひまりに向かって銃床を振り下ろした。ゴッ、という鈍い音が響いた。黒色の銃床はひまりの頭頂部を打った。ひまりの身体が揺れた。強い衝撃によって脳震盪のような症状が出ているようだった。男は自動小銃を持ち上げ、つま先を使用しその身体を仰向けに転がした。巨大な乳房が灰色のブレザーを伴いながら大げさに揺蕩い、その輪郭を舐めるように橙色の光が通過して輝きだけを付与していった。男は自動小銃の被筒を握り、ひまりに向かって押し込んだ。それはトイレ清掃で、それは吸引器を使用し便器に詰まった糞を押し流すような動作だっ。銃床がひまりの頭蓋を砕き、脳漿が垂れ出ると男は自動小銃を持ち上げた。
太い鼻血を垂らし、緑色の瞳を上向かせるひまりはとっくに絶命していた。
屋上で二人を殺害した後、男は校舎からの撤退を開始した。
歩いてきた道を戻った。渡り廊下を歩いて普通教室の棟に戻った。廊下はもう騒がしくなかった。それは無人ということではなかった。狭い廊下には大量の女子生徒が倒れていた。灰色の制服を着た若々しい女の死体は床を隠すように折り重なっており、廊下や壁に血液がへばりついていた。男は女子生徒たちの死体を踏み抜きながら歩いた。次の一歩を落とす場所を意識しておかなければ、死体に足を取られてしまうほど女子生徒たちは大量だった。
いくつか階段を下り、玄関口から校舎を出た男は空を見上げた。夕暮れの橙色に藍色が差し掛かっていた。それは夜だった。男は闇夜に紛れてしまえば簡単に警察から逃れられると思っていなかった。しかし闇夜を上手く利用し、警察組織の捜索を常に意識すれば逃亡は不可能ではないと確信していた。男は校門に向かった。門を越える間際、男はもう一度振り返った。羽丘女子学園の校舎は全体的に静まっていた。連なる窓はところどころが割れており、無事な部分にも鮮血が飛び散っていた。
遠くからサイレンが聞こえた。男は自動小銃の安全装置を『安全』に切り替え、サイレンから遠ざかるように歩き出した。
男は周囲を眺めた。
現在は夜だった。この場は一軒家に備わった、とある庭だった。男のすぐ背後に縁側があり、窓は開けられていた。リビング照明は灯っていた。しかしリビング内には誰も居なかった。男はこのモダンな雰囲気の一軒家に住んでいる人間の顔を、たったひとつも知らなかった。
リビングから差し込む光を背に、男は兎を眺めていた。
羽丘女子学園から逃走した男は街中に潜んだ。ひと目だけを気にして身を隠した。空が夜の色に完全に飲まれた後に動き出した。まず気になるのは空腹だった。どこか店に入ることを考えたが食べたいものなど思いつかなかった。夜道をよろよろと歩いていると一軒家が目に入った。その一軒家は巨大だった。近代的な造りで設備も十分に整っており、手入れの行き届いた庭があった。男は道具を駆使して玄関扉を開き家の中に進入した。外観と同様に室内も清潔だった。男は靴を脱がずに三和土を越え、廊下を歩いた。できるだけ物音を立てぬよう気を配った。廊下の先に扉があった。それはリビングに繋がる扉だった。男は腰を低くし、リビング室内の気配を探った。照明が灯っていることは扉の曇り硝子からよく視えていた。そのため中に人が居ると男は警戒していたが室内には誰も居ないようだった。男は鼻先を上げた。道具を駆使してリビングに入室した。
リビングは広かった。食事のためのダイニングテーブルの上にコンロが置かれていた。それは専用のボンベを必須とするいわゆるカセットコンロだった。ダイニングテーブルとは別にリラックスできるスペースもリビング内に確保されており、キッチンを含む水場も広々と艶めいていた。男は横断するようにリビングを歩いた。コツコツと靴の音が続いていた。照明も灯っており、生活感もあった。それでも人が一人も居ないことが不思議だった。
ダイニングテーブルの横を通り過ぎて男は縁側に到達した。窓硝子は開けられており、庭が視えた。先ほど外から確認したあの庭だった。男は庭に降りた。そして驚愕した。庭には大量の兎が居た。それは本当にありえない数だった。壮観を通り越して絶句するほどだった。正確な数はわからないが二十羽は居た。さらに兎は一種類ではなかった。白色の体毛を持つ兎が居たかと思えば、茶色い体毛を持つ兎も居た。灰色の体毛の兎もおり、瞳の色も個体によって異なっていた。このテの哺乳類特有の感情を感じさせない無機質な顔立ちは皆同様で、丸っこい口元だけが細かく揺れて草を食んでいた。
足元の違和感が触れた。男は下を視た。白色の兎がすり寄っていた。男は足を振り上げた。ごつごつとした黒色ブーツを履く男のつま先が兎の頭部に勢いよく激突した。鈍い音が鳴り、頭蓋ごと破裂した兎の脳漿が血液と混ざって周囲に飛び散った。男が踏み抜いたのは白色の兎の頭部だった。頭部を欠損した兎は当然のように生命活動を停止し、その場に力なく倒れた。
リビングから差し込む光を背に、男は兎を眺めていた。男は自分が兎だけの不思議な世界に到達してしまったのではないかと疑った。疑いながら男は庭に居る全ての兎を殺害した。兎の頭部を潰し兎の腹を潰し兎の尻を潰した。兎の腹に腕を突っ込んで臓物を引きずり出した。兎の首の位置を軽く踏んでその場に留め、長い長い耳を握って一気に引き千切った。体毛や皮膚がぶちぶちと音を立てながら損壊し、脊髄が砕ける軽い音と共に兎の身体は完全に分裂した。
庭に居た全ての兎を男は殺害した。庭はすっかり血みどろに飾られていた。決して広いわけではない庭のあちこちに兎の死骸があり、それらは全て大胆に破壊されていた。頭部が割れ、腹部が破裂し、頭蓋は崩れて四肢は折れ曲がっていた。血液や臓物がとろとろと垂れ、平面だった庭に赤色の湿った情報量が増えていた。
「だ、誰……?」
立ち尽くす男は声によって振り返った。リビングの光の中から一人の娘がやってきた。この民家に住む人間のようだった。男はまるで娘など視えていないという佇まいで居た。娘は一羽の兎を抱き締めていた。薄い茶色の体毛で、よく視ると左右で瞳の色が異なっていた。赤色の瞳と青色の瞳を持つ兎は娘に強く抱き締められており、兎は腕の中で無表情に首を廻していた。
「え――」
縁側から庭を覗く娘の喉から次の瞬間悲鳴が打ち上がった。愛する兎が全て殺害され、その死骸が派手に庭を汚していることを娘の脳は正確に認識しているようだった。男は娘を眺めながらリビングに入り、ダイニングテーブルの上のカセットコンロを手に取った。カセットコンロは準備万端のようだった。ツマミを捻れば通常通り使用できるようだった。次の瞬間に男の腹からグーと音が鳴った。それは空腹による危険信号だった。男はカセットコンロのツマミを捻った。一度、二度と勢いよく酷使するとやがて火炎が灯った。青白い小さな炎が点のように連なり、円を造ってゆらゆら熱を放っていた。男はカセットコンロを握りながら庭に戻った。
「な、なんでっ、な、みんなあっ……!」
娘はすっかりくたびれた様子だった。庭に腰を落し、声にならない悲鳴を上げ続けていた。強烈な恐怖心と防衛本能が正常に働いているようだった。しかし圧倒的な恐怖心のせいで身動きが取れず、娘はただ最後の一羽になった兎を執拗に抱き締めるだけだった。男は娘のことを縁側から眺めていた。娘は十代後半に思えたが、その年齢にしては背丈が高いように視えた。それでいて細身で、長い黒髪はさらさらと癖がなかった。男は縁側から降り、娘のすぐ背後に立った。男の背丈がリビングの照明を遮るように娘に影を差した。すると娘は大きく振り向いた。男はカセットコンロを着火したまま娘へ投げ落とした。小さかった火炎は行き場をみつけたかのように一斉に広がり、スレンダーな体型を赤く包み込んだ。引きつった悲鳴は一瞬にして絶叫に変化した。
「ああっ、あヅい、熱いいぃっ!」
横たわり、転がって慌てふためく娘はそれでも両腕に抱える兎を手放さなかった。
男は兎を食った。
火達磨になった娘はすぐに動かなくなり、その身体から立ち上がる火炎を男は利用した。庭のあちこちに散らばる兎をひとつひとつ手掴みで拾い上げ、娘から上がる火炎で焼いた。兎の肉は男にとって旨かった。焼き加減を変えていくつか楽しみ、それも飽きるとキッチンに保管してあった調味料を使って男は庭で殺害した全ての兎を食らった。唯一、娘が最期まで抱き締めていた兎だけは食べることができなかった。火炎が落ち着き、丸焦げになった娘の胸元に同じく焦げた兎の死骸はべったり張り付いていた。もはやどこからどこまでが娘で、どこからどこまでが兎の身体なのか区別がわからなくなるほどだった。一心同体といっていい、と男は思った。
インターホンの音を男が耳にしたのはそれから数分後のことだった。
ちょうど最後の兎を咀嚼し飲み込んだ後だった。縁側に腰を下ろしていた男はただその場で停止した。招かれざる客について男は、この一軒家に進入した時から警戒していた。そのため兎を食べはじめた時からリビングの照明を消し、丸焦げの娘の死体も隅に放置してできるだけ派手にならないよう気を配った。インターホンは少しの間の後にまだ鳴った。無音で光のない家の中に甲高い音だけが響いて溶けた。男は腰を上げた。靴のままリビングに入り、月光を頼りに玄関まで向かった。そこで三度目のインターホンが鳴った。男は息を殺して三和土に立ち、玄関扉の覗き穴から外を視た。
外には娘が立っていた。先ほど焼いたあの娘と同年代に視えた。金髪でツインテールにしており、黒色の長袖シャツが豊かな胸元の形を描いていた。
娘は直立のまま、視線をあちこちに飛ばしていた。その目元は不安定だった。希薄だが明確な恐怖心があるように視え、ところどころに落ち着きがなかった。男は覗き穴からその様子を眺めていた。先ほど焼き殺したあの娘は、この娘との約束か何かをすっぽかしたのかもしれないと男は勝手に予想した。
やがて娘はスマートフォンを取り出し少し操作した。右手で持ったそれを耳に当てるとそのまま停止した。数十秒後に娘はスマートフォンを耳から離した。別の操作をし、また耳に当てると今度は数秒後に口を開いた。
「あ、香澄か?」
娘の声が聞こえた。それは言葉として聞き取れる程度には鮮明だったが、扉越しのため少しぼやけた質感だった。
「なぁ、そっちにおたえ行ってるか?」何か縋るように語尾が震えた。「いや、今おたえの家に居るんだけど、インターホンを鳴らしても、誰も出てくれなくて……」
それから娘は電話口で相手と会話した。「ああ」という複数回の相槌が続き、「大丈夫」と声が続いた。それは電話口の相手を安心させるというよりは、発言している自分の心地を落ち着かせるために呟いたように聞こえた。
「わかった、一旦蔵に戻る」という娘の声を最後に通話は終了した。娘はスマートフォンをポケットに戻し、最後に扉を眺めて立ち去った。男は覗きき穴からその顔をじいっと眺めていた。目と目は合っていなかった。娘はくるりと背を向けて歩いていった。だが最後に一瞬だけ左側を視た。それはきっと庭の方向に視線を送ったのだと男は思った。玄関から右手に歩くと庭が視えてくるため間違いなかった。しかし娘は少し目で意識しただけで実際に庭に向かうことなく、さっさと帰っていった。
娘が完全に視えなくなった後、男は素早く身支度を整えて後を追った。
娘が向かう先は典型的な日本家屋だった。
敷地が十分に取られており、巨大で力強い建築で蔵も建っていた。そして娘は一直線にその蔵に向かった。門を通って左手側に建つ蔵はこぢんまりとしており、白色の扉を開いて娘は中に入った。蔵の中は薄暗かった。それなりに物が置かれており、娘はまた一直線に室内隅に向かった。
扉の影から娘の背を視る男は忍び足で蔵に入った。娘は室内の一か所でしゃがんでいた。手を伸ばし、取っ手を握って持ち上げた。蔵の一部分を扉のように開閉できるという部分で男は驚かなかった。しかし、開いた扉の先に階段が造られおり、その先にしっかりとした地下室が存在しているらしいことを知って男は驚いた。
光が差していた。地下室で照明が灯り、中にすでに二人の別の娘が居るようだった。
この金髪ツインテールの娘は、あの丸焦げになった娘を迎えにきたようだった。しかしインターホンを三度押しても応答せず、そのため一旦仲間たちが居るこの秘密基地に帰還したようだった。
男は娘が降りてゆくより先に動いた。室内を見渡し、鋭利な鉄パイプをみつけるとさっそく手に取った。そして今まさに階段を下ってゆく娘の、そのむき出しのうなじ部分を狙った。
「悪い、遅く――」
ズシャッ、という軽い音が鳴った。それは男が突き出した鉄パイプの先端が娘を背後から貫き、頸椎を破壊しながら貫通する音だった。男は鉄パイプから手を離した。娘はすでに絶命しており、立つこともできなくなったため前方に倒れた。娘は階段へ一歩を踏み出す直前だった。娘は穴に落ちるように音を立てながら階段を下っていった。
「あ、有咲……?」
数秒後に下から声がした。娘のものだった。声色は最初は困惑していたがすぐに悲鳴に変化した。唐突に落下してきたそれが、よく知る仲間の死体だと気付いたようだった。「有咲っ!?」「有咲ちゃん?!」と名前を連呼し死体に駆け寄った。男はその様子を上方向から視ていた。階段には一歩も踏み出ていなかった。
有咲は階段の行き止まりの位置にくたびれていた。その狭い空間の床部分に鉄パイプの先端が突き刺さり、鉄パイプはほぼ垂直に自立していた。鉄パイプに貫かれた有咲の死体は、頭部や首筋や肩の部分が十分に床に影を造るほど浮きつつ、上半身から少しずつなだらかに垂れて両手は投げ出されていた。階段の終点という広さのない場所であるが故に、両足は妙な方向に曲がりくねっていた。男はゆっくりと階段を降りた。古びた木造を踏むギシリという音が鳴った。二人の娘のうちの一人が額を上げた。黒い短髪で赤色の瞳を持つ娘だった。男はポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。娘たちにみせびらかすように刃を展開した。どちらを狙うか、という思考は男になかった。ここは地下室だった。そして地下から脱するための階段はたったひとつのようだった。つまり娘たちはとっくに追い詰められているということであり、どれだけ悲鳴を上げても無駄だった。
「香澄ちゃんっ、逃げてっ!」
黒髪の娘が叫んだ。もう一人、香澄と呼ぶ娘を逃がそうと突き飛ばした。男は構わず黒髪の娘に腕を伸ばした。背を向け、自らも逃げようとしたその娘に左腕を廻して刃先を娘の首元に添えた。
「お姉ちゃ――」
男の刃は娘の皮膚と肉を裂き、喉元に赤い亀裂がぱっくり開いた。それはよくある瞳のような楕円形だった。途端に娘の声色が変化した。機能不全に陥った娘はもうまともに発音することができず、亀裂から大量の血を流しながら空気を引っ掻くような擦れた音を吐き散らした。
「かひゅ、く、こひ、こはっ……!」
男は娘を蹴飛ばした。娘は喉元を両手で押さえていた。溢れ出る流血に蓋をするように素手を押し込んでいた。素肌は長袖の白色、薄桃色のスカートが上から徐々に赤色に染まり、娘は萎むようにその場に倒れてやがて動かなくなった。男は顔を上げた。最後の娘、香澄と目が合った。香澄は不思議な髪型をしていた。猫耳を再現したような尖った髪型で、紫色の瞳が小さくピクピク震えていた。圧倒的な恐怖心に苛まれているようだった。
「なんで、ありさ、りみりんまで……」
男は香澄に歩み寄った。香澄は壁に背を落とし、それから動いていなかった。逃げることも抵抗することもなかった。胸元で轟く鼓動が急速に肥大化し、すでに自分で抑えたり制御することができない状況にあるようだった。男は視界を揺らした。この地下室には生活感が漂っていた。中央にテーブルが置かれているだけでなく、クッションや椅子などが散見していた。また、気になることとして不思議なスペースがあった。テーブルが置かれている箇所がリラックスのためのスペースであるのなら、奥に位置するそのスペースはステージだと男は思った。そして今、最後に残された香澄は後ずさってそのステージに立っていた。男はステージの隅を視たそこにはギターがあった。専用のスタンドに立てかけられたギターを手に取り、バットをそうするように香澄へ振り被った。
「やめてっ……」
殴打の鈍い音が旋律のように聴こえた。
床に横たわり絶命した牛込りみは冷たかった。
小さい印象だった目元は強引にそういう手術を施したかのように見開かれており、瞳の中には死に対する拒絶が視えた。口も大きく開けており、気泡の混ざった鮮血を垂らしていた。血液とはりみの体温そのものであり、傷口から流れてゆくそれらをりみは当然防ぐことができていなかった。倒れたりみを中心に、花開いてゆくように鮮血は歪な円を描いて繁茂していた。この地下室の床は絨毯のようにふかふかと造られており、血液はよく染み込んでいた。
戸山香澄の『飾り付け』を終えた男はステージから降りた。
ステージ中央に香澄があった。男はテーブルの上に座った。文房具や菓子類の袋を尻で退かし、空間を造りながら腰を下ろして自分の『作品』を眺めた。
衣類を脱がされた香澄は膝立ちのまま顎先を上向かせていた。天井に向かった両瞼は限界まで開かれており、くすんだ瞳はその上瞼に隠れてしまうほど反っていた。しかし最も特徴的な部分は目元の様子ではなかった。口だった。瞼と同じように限界まで開いた口腔にギターがねじ込まれていた。通常、右利きの演奏者が左手で握って操作するあのネックという部分が口から強引に挿入されており、先端のヘッドの部分が体内の深い位置にめり込んでいた。長いネックが突き刺さったことで香澄の身体はある意味安定感を得ていた。そのため膝立ちという死体には不可能な体勢を維持できていた。また、特徴的なのはギターのボディ部分だった。香澄のギターは赤色で星のような形をしていた。よくある五芒星ともまた異なった、従来のギターに添った星の形だった。ネック部分が全て体内に突き刺さっているため、香澄が天を仰ぎ口から星を吐き出しているような様相になっていた。
完成した香澄をひと通り視て満足すると、男はこの地下室に付着した全ての自分の痕跡を徹底的に拭き取った。最後に鉄パイプの指紋を拭いた。鉄パイプに貫かれて死亡した娘は、市ヶ谷有咲というようだった。相変わらず、床に突っ伏しているような様相だったがうなじから頸椎に喉元を貫く鉄パイプのせいで額は浮いていた。しかし男が作業をしている間に有咲の頭部は自重で少しずり落ちたらしく、鉄パイプ部分に赤色べっとりとした肉片がこびり付いていた。それでも額は触れていなかったが、胸元の巨大な柔肉は少し触れて潰れていた。
全ての処理を終えた後、男は蔵から立ち去った。
あの羽丘女子学園銃乱射事件は大々的にメディアに取り上げられた。
ニュース番組や情報番組は連日、この事件の犯人像やそもそも銃を用いた乱射事件発生のメカニズムについて放送した。多くの場合、番組には犯罪に詳しい学者や現役を引退した刑事に現役の刑事や政治家が登場しそれらしく語った。犯罪小説を多く執筆、などと紹介され登場した小説家が妙に偉そうな態度で苦笑していた。芸能タレントの女性が事件について冷笑し、アナウンサーの女性がそれを批判した。どこかの企業の社長という男性が何度も頷いていたが、どちらの女性の意見に賛同しているのかわからなかった。
また、乱射事件ほどではないが大きな事件として女子生徒四名の惨殺事件も報道された。最初の被害者である花園たえはたまたま自宅に一人で過ごしていたところを犯人に狙われた。犯人はたえが飼っていた兎と共にたえを殺害後、花園家にたえを迎えにきた市ヶ谷有咲を尾行。たえや有咲が所属するガールズバンド『Poppin'Party』が練習場としている蔵に進入し、有咲の他に牛込りみと戸山香澄の二名も殺害した。こちらの事件では高い残虐性がよく語られた。たえの飼っていた約二十羽の兎を同時に殺害した点、香澄殺害後に香澄のギターを用いた猟奇的な死体損壊に及んだことがメディアにとって高い話題性を含んでいるようだった。
学園銃乱射事件は死者十八名、負傷者二十五名の大事件だった。男はその数字だけを確認するとテレビを消し、羽沢珈琲店のバイトに向かった。
羽沢珈琲店は閉店を決定したようだった。
いつものようにバイトとして出勤した男は仕事に入る前にそれを聞いた。閉店理由は羽沢夫妻の精神的不調のようだった。閉店の告知と共に男は謝罪を受けた。しっかり働いてくれているのに申し訳ない、とつぐみの母親は男に頭を下げた。男は当然謙遜した。つぐみの母親はそれでも申し訳なさそうな顔をしていた。まだ若い男の収入源を、自ら断つことに相応の罪悪を得ているようだった。また、その表情は明らかにやつれていた。頬は萎み、目元は弱弱しく瞳に光が灯っていなかった。一人娘だけでなく、その一人娘と仲のよかったバイトの娘を失ったことによる精神的疲労は確かに深刻なようだった。
最後の出勤を終えた男は帰路についた。すっかり夜だった。つぐみを殺害してから、男は可能な限り時間をバイトに使っており今日も同じだった。薄暗い道を歩く中、男は小腹が空いたとふと思った。その空腹感はすぐさま肥大化しやがて我慢ができなくなった。薄闇の中に光があった。それはコンビニエンスストアの店内照明が、窓を通過して闇夜に差し込む様子だった。男はそういう飛ぶ虫のようにコンビニエンスストアに入店した。
いらっしゃいませ、という女性店員の声がした。店内に他の客は居なかった。店員も、女性店員一人だけのようだった。男は陳列棚を無視しレジカウンターに向かった。肉まんを注文すると女性店員は「かしこまりました」と囁いた。男は何気なく女性店員の名札を視た。若干の膨らみを持つ胸元に名札はクリップで留められており、黒い太字で『今井』と書かれていた。
今井は茶髪だった。緩く波打つそれは後部に複雑にまとめられており、本人の動きに合わせて機敏に揺れ動いていた。今井の肌は艶めいていた。若々しさに起因する遺伝子の艶だった。そのみずみずしい頬に店内照明が反射し、口元にも独特の潤いがあった。唇は男性のそれと比較すると肉厚で、視るからに柔らかそうだった。まつ毛や眉にも繊細な手入れが行き届いており、高度な化粧技術が窺えたが瞳だけが死んでいた。
今井の瞳の中には気力が浮かんでいなかった。彩度が乏しく、意気消沈しているように思えた。つぐみの母と同じだ、と男は思った。今井も何か精神的に大きな喪失を経験し、それを理由に生きる気力が枯れ果ててしまったようだった。
しかしそんな陰った部分がわからなくなるほど今井の容姿は整っていたし、その容姿を活かす化粧技術も卓越していた。
「あ、すみませんお客様……」
今井の声に男は額を上げた。今井と目が合った。やはり淡い緑色の瞳だけに潤いがなかった。男は洞窟の中から出口の光を視るようにぼんやり今井の瞳を視た。
「あの、肉まんなんですけどもう売り切れてて……」
男は不安げに揺れ動く今井の頬を視てあんまんを注文した。
男は手斧を持って湊友希那の自宅に進入した。
手斧とは男がいつも使用しているものだった。木製の持ち手部分はつるりと細く、両手で十分に握り込むことができるほどだった。先端部分の刃は意外にもこじんまりとしていたが、十分な重さがあり黒色だった。持ち手を握っているとむしろ頼りがいを感じるほどだった。
湊家は薄暗かった。それは現在の時間帯がすっかり夜で、家の住人は全員就寝しているからだった。家の中には友希那以外に友希那の父親と母親が居た。
玄関扉を道具を使って開いた男は、窓から差し込む月光を頼りに音を立てぬよう歩いた。湊家は二階建てだった。一階はリビングやキッチンに風呂場、二階が家族それぞれの部屋のようだった。友希那は一人で部屋を持っていたが両親二人は同じ部屋だった。よくある『夫婦の寝室』らしく、男は手斧を構えて進入した。寝室の中で夫婦は仰向けだった。流石に寝具共用までではないが、ベッドどころか毛布まで同じものを使用しているところから夫婦仲は良好だと窺えた。
夫は黒髪で肩幅が大きかった。瞼を閉じているため詳しくはわからないが精悍な目つきをしているように思えた。隣の妻は穏やかな顔つきだった。夫同様に眠っているため瞳の色はわからなかった。しかし鼻筋や頬の輪郭、何より頭髪の色が一人娘の友希那に少し似ていた。
男は手斧を両手で構えた。まずは妻だった。仰向けの首を狙って一気に打ち下ろした。ドシュッ、という鈍い音が一瞬鳴り、妻の身体が跳ねた。手斧は喉の深い位置にまで食い込み、中の咽頭を断ち切っていた。男は手斧を持ち上げ、すぐさま妻の顔面を狙って打ち込んだ。強靭な刃が妻の顎の骨を砕き、顔面が適当にひしゃげた。口角から赤黒いものが垂れた。逆流した血液だった。男はもう一度手斧を持ち上げて振り下ろした。最後の一撃だった。重たい刃は妻の頸椎を叩き割り、身体と頭部が完全に分離した。
赤色に湿った枕の上で妻の頭部がころんと垂れていた。男の攻撃は一撃必殺だった。つまり最初に食らわせた手斧の攻撃で首元は一気に損壊し、妻はまともな声をひとつも上げず絶命した。その後に続いた二回攻撃はただの死体損壊でしかなく、内側から血潮が爆ぜるように飛び出て寝具を濡らしていた。
妻の次は夫だった。
男は妻が使っていた毛布で手斧の刃を拭い、夫の隣に移動し手斧を振り上げた。
「お父さん? お母さん?」
廊下から声が聞こえた。眠っている夫を視ていた男は顔を上げた。声とは友希那のものだった。この寝室の出入り口扉の前に立ち、両親の様子を窺っているようだった。
男は数日前、コンビニエンスストアで今井リサを知ってからリサについて調べた。リサは高校三年生で、ガールズバンドに加入しベースを弾いているようだった。同じバンドに幼馴染がおり、それが友希那だった。というより友希那が立ち上げたガールズバンドにリサも加入した、というのが正確な流れのようだった。バンドはまだアマチュアだがその実力はプロ並みと評判のようだった。男も一部ライブ映像を視聴した。男に音楽的な教養は皆無だったが、それでも圧倒されるような気質をRoseliaから感じないわけではなかった。
「変な音がしたけれど、大丈夫?」
友希那が再度訊ねてきた。男は手斧を振り上げたまま喉を鳴らした。咳払いのふりをすると、「お父さん?」と友希那の声色が淀みを増した。男はさらに咳払いの演技を続けた。次第に友希那の態度は訝しむものから不安がるものへ変化し、間もなく「は、入るわっ……」と声を緊迫させて扉を開いた。
室内に友希那の姿が視えると同時に男は手斧を友希那の父親に振り下ろした。
ドチャッ、という湿った音が響いた。友希那の父親は声も上げず絶命した。手斧は父親の喉元に深々とめり込んでいた。血が溢れており、友希那は悲鳴を上げた。甲高く、猛烈に震えた絶叫だった。寝室出入り口付近で立ち尽くす友希那と、赤い鮮血を噴水のように首から漏らす父親を男は交互に視た。友希那は薄紫でワンピース型のパジャマを着ていた。男は手斧を振り上げると父親に向かって振り被った。それを視ていた友希那はドタドタと音を立てて尻をついた。腰が抜けたようだった。両親の惨殺現場を目撃したことによる圧倒的恐怖心は孤高の歌姫の精神を簡単に貫いたようだった。男は友希那を無視して手斧を引き抜いた。父親から飛び出る血液は友希那の頬にも付着した。
温かいものを顔面で受けた友希那は間もなく絶叫し逃げ出した。手負いの獣のように四肢を大きくかき乱して一階に降りていった。男は友希那を追って一階に降りた。リビングには照明が灯っておらず薄暗かった。月光が照らす中、友希那は真っ先に固定電話に手を伸ばした。急いで番号を入力しようと焦っていた。男はその手元を狙って手斧を突き出した。
「あああっ!」
強靭な刃は友希那の右手を電話機ごと切断した。友希那は唐突に右手が重たくなったかのように、右手を左手で握ってその場から離れていった。その足取りは先ほどまでとは比べものにならないほどぎこちなかった。五指を負傷したことによる激痛が逃げ足を疎かにしているようだった。男は友希那の背を追った。友希那の右手は親指以外の全ての指が欠損し、断面から血液がぼたぼたと垂れていた。男は余裕を保ちながら友希那の背を追いかけていた。駆け出せば簡単に追いつけるし、そのまま手斧で背後から殺害することもできたが男はそれを行わなかった。生まれたばかりの四足歩行動物のように不安定に前進する友希那のことを男は後ろから眺めていた。
「リサっ……!」
友希那は玄関扉を開いて外に出た。どこまで逃げるのかと危惧しているとすぐ隣の家に入った。湊家の隣といえば今井家であり、それはつまりリサの自宅だった。友希那は玄関扉を叩き「助けてっ、お願いっ!」と何度も叫んだ。友希那にとっては警察より今井家、というよりリサのほうが頼りになるようだった。または大量の流血による精神的な混乱によって、もう正常な判断ができなくなっているようだった。
「えっ、ちょ、友希那?!」
玄関扉を開けたのはリサだった。友希那は何か説明するより先に、隙間のようなその扉の向こう側に入っていった。扉はガシャンと閉まった。中から鍵をかけた音はしなかった。男は湊家の玄関口に隠れるようにしてそれらを確認していた。
おそらく友希那は三和土に倒れるだろうと男は思っていた。物理的な消耗によって脂を含んだ汗をかいた友希那は状況説明をする体力もなく、その場で力尽きるはずだった。そしてあれだけの流血では、間もなく身体をまともに動かせなくなることが予見された。そしてリサはその容態や、指を欠損していることに驚くはずだった。幼馴染にして同じ音楽仲間が指を欠損して駆け込んでくるなど、どんなロックバンドを視ても前例はないと男は思った。今井家にはおそらくリサの両親が居た。友希那の容態や友希那の証言を聞いて警察に通報するリサの両親はやはり男にとって邪魔な存在でしかなかった。
男は手斧を布で拭った。それは湊家の中で勝手に奪ったものだった。男は手斧を握り直し、今井家のインターホンを押して扉に手をかけた。
木製の椅子に拘束した友希那に男は冷水をぶっかけた。
それは目覚めの一杯だった。意識不明状態から一気に覚醒した友希那は、鼻孔や喉元が一時的に塞がれたことによる激痛で喉をへこませ、引きつった声を上げて酸素を吸引した。冷たい感覚がトゲのように全身を這っているらしく、パジャマ姿のままだったが震えていた。木製の椅子の上、両手両足をそれぞれ肘掛けと前足に黒色のテープで拘束されていた。テープは口元にもべっとり貼り付いており、ンフーッ、ンフーッという鼻息が悲鳴や罵詈雑言の代わりに続いていた。
椅子の前に立つ男はバケツを足元に置いた。それは冷水が入っていたものだった。男は右手で友希那の顎を握った。強引に上向かせてその顔を観察した。この年齢の娘にしては精悍な顔つきだった。それはこの友希那が、今までいくつもの音楽的な修羅場をくぐり抜けてきた『猛者』である証拠のように思えた。肌の色艶はリサに負けていなかったが、リサのように人工的な『化粧っ気』は窺えなかった。重たい質感の瞳には意志の光が宿っていた。椅子に拘束され、冷水を浴びせられているというのに少しも屈辱的ではないようだった。それよりも、拘束に冷水ぶっかけなどという不道徳的な行為に及んだ男のことを友希那は瞳だけで強く批判していた。
男は友希那から手を離し左手側に歩いた。
この空間は男が特別に用意した場所だった。大昔、男が個人的に買い取った土地の地下で、この場所は無数にある部屋のひとつだった。学校の教室ひとつ程度の広さがあり、床も壁も天井も灰色のコンクリートだった。天井中央部分に電球が設けられており、友希那はその真下に置かれた椅子に拘束されていた。友希那の背後の壁に出入り口扉が設置されており、扉の上に赤色のランプがあった。ランプのほうが光量が強く、室内は血のように薄ら赤色に染まっていた。出入り口扉から視て、左右の壁際には長机が設置されていた。机の上には『道具』が多かった。それは男が普段から使用する道具たちだった。とんかち、鉈、ペンチ、ネジ専用ドリル、包丁、ニッパー、鋏、無数のホチキスの芯、丸く曲げられた針金、たくさんの釘などが乱雑に置かれていた。
道具に囲まれたこの部屋とはつまり単純な地下施設ではなかった。男専用の『拷問部屋』であり、友希那とはそんな拷問部屋に連れ込まれた『獲物』の一人のことだった。
そして男が連れ込んだ『獲物』とは友希那だけではなかった。
長机から糸鋸を選んだ男はもう一人の『獲物』へ歩いていった。
着席する友希那の前方、出入り口扉から最も遠い真正面にはビニールシートがあった。それはただ敷かれているわけではなかった。天井から二本の鎖が伸び、その鎖が吊り下げる『獲物』はビニールシートで覆われていた。『獲物』の横に立つと男はビニールシートを勢いよく剥がした。全裸で逆さ吊りにされているリサを視て友希那は絶叫した。リサも、椅子に拘束されている友希那を視て唸り声を上げた。しかりリサも、友希那同様に口元をテープで覆われているため二人は言葉で通じ合うことはなかった。
リサは全裸だった。衣類から下着まで全て脱がされており、両腕は背にまとめて拘束されていた。天井から伸びる鎖は二本で、それらはリサの足首の足枷に接続されていた。つまりリサは現在Yの字のような形にあり、頭頂部は床から数センチ浮いていた。男はリサの腹部に左手で触れた。指先で文字を書くように素早く擦るとカシャリと小さい音が鳴った。それはリサを吊り下げる鎖の音だった。男の硬い指が素肌に触れると、リサはそれだけで敏感に反応して身体を揺らした。身体が揺れると頭髪も揺れた。リサの今の頭髪は何も施されていなかった。あのハーフアップというものでもなければ、ポニーテールや三つ編みでもなかった。リサの長髪は下向きに崩れながら床に垂れ、そのクセのある毛並みは床の埃やゴミを巻き込んでいた。それはいわゆる『ギャル』と呼ばれる女子にとって苦痛のはずだった。リサは生粋のギャルだった。ギャルもまた女子の最終形態のひとつだと男は考えていた。鎖によって両足を肩幅程度に開くことを強要されている今の体勢だって、リサにとって十分に屈辱的のはずだった。しかしこの緊急事態において、リサはそんな自らの事情を二の次だと思っているようだった。それより友希那だった。自らの身体の安全より、少し遠くで椅子に縛られている友希那を心配した目つきをしているように男には視えた。
流石に幼馴染か、と男は感心した。感心しながら男は右手に握った糸鋸を持ち上げた。リサとそれから友希那は糸鋸を凝視していた。すぐにこの後何が起こるのか理解したらしく、人の言葉として聞き取れないほど激しい悲鳴が鳴り響いた。糸鋸は不思議な形をしていた。持ち手の先にコの字型の部品が接続されており、その離れた上下部分を繋ぐように細い刃が張っていた。刃は糸のように細くて銀色だった。細かいがぎさぎさと鋭利に造られており、まだなんの汚れも付着していなかった。
男は糸鋸をリサの股間に当てた。それは膣口だった。リサの女性としての入り口に男は糸鋸を押し付け、そのまま右手を引き締め揺らしはじめた。瞬時に赤色の血が散った。それはリサの身体から溢れる血液だった。糸鋸の尖った刃はリサの皮膚や肉を切り裂いており、激痛によってリサは悲鳴を上げていた。友希那もまた野生動物のような声を上げていた。自分の宝物を取り上げられたかのように叫び散らしていた。深い絶望に打ちひしがれ、その絶望による猛烈な怒りの声だった。それはリサの悲鳴より大きいように聞こえた。リサが殺害されることがどうしても嫌なようだった。糸鋸がリサの腹部に差し掛かった。男はもちろん手を止めなかった。糸鋸はリサの身体を縦方向にぎこぎこと降下し続けた。下腹部から肋骨まで一気に押し進めると腹に亀裂が開いた。リサの身体そのものが激しく揺れ、鎖のカチャリカチャリという音が響いた。腹部から血液が首筋に垂れ、口元を覆うテープを濡らしていた。やがて亀裂の内側から何か重たいものが出てきた。それはリサの小腸だった。真っ赤な細い管状のそれは、べちょりと音を立てながら男の足元に落下した。男は流血によって真っ赤に染まってゆくリサの苦悶の表情と、前傾姿勢で暴れ続ける友希那の顔を交互に視た。糸鋸はリサの喉を通過し顎先を割って、顔面を降下し頭蓋に差し掛かっていた。小腸のように脳漿が溢れ出し、それでも揺さぶるとついに糸鋸はリサの身体を真っ二つに切断した。
「ンーッ、ンーッ!」
友希那は椅子の上で暴れていた。幼馴染が目の前で殺害されることなど、何より苦しい現実だった。友希那の強引な動きは実を結んだ。ベキッ、という左肘掛けが破損する音が鳴り友希那の腕は自由になった。急いで左手と両足の拘束をほどき、顔を上げると男と目が合った。口元のテープを勢いよく剥がして友希那は立ち上がり、右腕を大きく振り上げた。しかし男はその友希那の攻撃を糸鋸で弾いた。
「な、そんなっ……」
友希那は絶句した。渾身の抵抗が簡単に防がれていた。男は糸鋸を投げ捨て、友希那の頬を殴った。拳が柔らかい頬肉を打つ音が短く鳴り、友希那の身体はなぎ倒された。
友希那は額を上げ、男を視た。男は黒色のごつごつとしたブーツに黒色の長ズボン、黒色のシャツを着て上から白衣を羽織っていた。特徴的な部分として、両腕に装着した長いゴム手袋の中に白衣の裾をねじ込んでおり、その薄い肌色の手袋も白衣も粒のような血に濡れていた。リサの血液だった。
友希那には、その解剖医師のような立ち姿が恐ろしいほど巨大に視えた。静まった山々を連想させる怪物のように視えた。男は友希那に向かって右足を叩き込んだ。友希那はそれをほほ無防備のまま受けた。意識がブツリと強引に途切れていった。
腹から込み上げる鉄球のような重量により湊友希那は自らの満腹感を自覚した。
ベッドの上で覚醒した友希那は身体を起こさなかった。仰向けのまま天井を視ていた。
腹が、満たされていた。友希那が知らない程度にまで腹部は膨れ上がり、膨らんだその部分は限界まで何か知らないものが詰め込まれていた。そのため呼吸することさえ困難というか、煩わしいと感じた。しかし呼吸を止めることなど不可能だった。身体の中の肺がほぼ勝手に動いているのだが、その伸び縮みの動作が腹部を圧迫しているように思えて苦痛だった。
「うそ……」
ベッドの上で身体を起こしたことで友希那は自分が全裸であることを自覚した。
身体には毛布の類がかけられていなかった。そのため友希那は自分が全裸であると知っても、胸や股間を隠すことができなかった。しかし、それより友希那には気になることがあった。腹が膨れていた。覚醒してすぐに意識したあの妙な満腹感というか、下から圧迫されるような心地の正体が視てわかった。友希那の腹部は前方向に大きく突出し、肌肉はなだらかな球体のような形を造っていた。
強姦された、と友希那はまるで他人事のように思った。
それはありえない展開だった。意識を失っている間に強姦され、腹部がこれほど巨大化するまで目覚めないことなどありえなかった。しかし今の友希那はそのように、冷静にアリエナイと思えなかった。それは一種の錯乱状態というか催眠状態のようなものだった。『知らない個室で全裸』や『不自然に膨れた腹』という要素、さらに友希那が思い出せる最後の記憶であるリサ惨殺とその犯人である男の狂気から考えると『無理やりの膣内射精から妊娠まで意識不明』という明らかな非現実的体験がアルカモシレナイという方向に際立った。
友希那はベッドの上から室内を眺めた。
ここは個室だった。六畳程度の空間には簡素なベッド、壁際に洗面台が設置されていた。洗面台は白く清潔であるように視えた。ベッドとは友希那が覚醒した場所のことであり、それは本当に簡素だった。鉄パイプで造られた枠組みの中にマットレスがはめ込まれており、毛布もないため寝具というよりそういう台だった。友希那は自分がベッドに寝かされたのではなく、そういうちょうどいい台に放置されただけのように思えた。
「う……」
ふと、友希那は違和感を得た。それは身体の内側から唐突に込み上げてくるものだった。友希那は慌てた。詳しくないが、妊娠による症状のひとつがさっそく発症したのだと悟った。それは理不尽なことのように思えた。知らない相手との妊娠によって、どうして自分が症状に苦しまなければならないのか友希那にはわからなかった。しかし身体の中で症状は続いた。呼吸が狭まり、肌が萎縮して脂っぽい汗が染み出た。ベッドの上で身体がよろめき、肢体をどれだけ力んでも違和感は消えなかった。友希那はたまらずベッドから立ち上がった。視界が薄れていた。強烈で太ましい感覚は噴火のように猛烈に腹から喉に上がっていた。友希那の視界の中に洗面台が映った。友希那は飛び込むように洗面台に両手を置き、首を伸ばして大きく口を開いた。
「おえ――」
勢い付いたものたちが喉を圧迫しながら奥からせり出てきた。友希那はざらついた声を上げながらそれを洗面台の中に吐き出した。唾液か、何かぬめめったものを纏うそれはビチャリと音を立てながら洗面台の中心部分に落下した。途端に友希那は何か爽快感を得た。腹に溜まっていた重たいものたちが一斉に消え、自由になったことでいくらでも呼吸ができた。友希那はようやく自分が『起床した』のだと納得しながら肩を上下に揺らして呼吸した。ふと、洗面台の中のものと目が合った。
「にゃあ」
大量の胃液や唾液を纏う仔猫の透明な瞳を友希那は視た。
男はバケツに入った冷水を友希那にぶっかけた。
冷水は友希那の顔面に勢いよく激突し、周囲に音を立てながら散っていった。覚醒した友希那は途端に悲鳴を上げた。冷たいだけではなく、冷水によって口元や鼻孔が一時的に塞がれたらしく尖った声が一瞬だけ響いた。猛烈に酸素を求める声だった。左右の瞼がカッと開き、肩幅が一瞬だけ台から持ち上がった。横幅100センチ、横幅155センチのステンレス製の台は男が友希那に用意した友希那の新しい『座席』だった。友希那は台の上に全裸で仰向けだった。頭頂部は台からぎりぎりせり出ない位置にあり、他になんの拘束具もなかった。
「え……」
台の上で友希那は言葉を失っていた。じわじわと、今の自分について認識しはじめているようだった。男はその認識の速度を上げたかった。そのため右手に手鏡を持ち、友希那の眼前に掲げてみせた。角度や位置を調節すると反射する面の中に友希那の肌色が浮かび上がった。台に寝転ぶ友希那もそれを視たらしく、表情が青ざめて硬直した。目に視えるそれが理解不能のようだった。しかし友希那はぶっきらぼうに否定することもしなかった。それは鏡に映る光景を、友希那が自らの肉体として意識しているからだった。つまり『視覚』ではなく『触覚』で、友希那は自らの四肢がすでに切断された後であると意識していた。
友希那の四肢はそれぞれ適当な位置で切断されていた。腕は二の腕の中間地点で切断されていた。足は太腿の真ん中部分で切断されていた。断面はすでに処理されており、腕の断端には荒々しい縫いめが浮かんでいた。少し太いミミズが皮膚と肉の隙間に入りこんで這いずっているように視えた。両足の断端は焦げていた。縫合ではなく、皮膚や肉を焼き焦がすことで強引に閉じたようだった。
「な、なによこれ……」
友希那は鏡の中の自分を一分ほど眺め、それからやっと口ずさんだ。悲鳴は上げていなかった。あまりにも非現実的な光景を前に明確な恐怖心もなく、ただ絶句しているようだった。
男と友希那が居る部屋は、男がリサを殺害した部屋の隣の部屋だった。
間取りはほぼ同じだったが別の部屋だった。室内中央に椅子ではなく台が置かれ、台を取り囲むように長机が設置されていた。友希那の足が向く方向の壁にだけ長机はなく、中央部分に扉が設置されていた。友希那が乗せられた台とは友希那のための台であるため、つまりこの部屋は今は友希那専用ということだった。長机の上には『道具』が置かれていた。糸鋸やとんかち、鞭や手錠など男が使用する『道具』だった。基本的には市販の工具か工具を改造したものだったが、鍵なしで玄関扉を開ける道具や音を立てずに硝子を破壊できる特別な道具もあった。天井にはぶっきらぼうな電球がひとつ備わっているだけだった。
男は友希那から離れ、室内左側に位置する長机に向かった。そこにはもちろん『道具』が揃っているのだが、室内左側に位置するそれらは男が医者になるための特別なものだった。ステンレス製の銀色トレイの中に医療用メス、試験管、ビーカー、何も入っていない硝子瓶、注射器、鉗子、開腹鈎が置かれていた。男はゴム手袋を装着した指先で道具を選び、医療用メスを摘まんで友希那に戻った。医療用メスは小さかったが先端が鋭利に造られていた。また、照明の光を反射してぎらついた輝きを放っていた。
黒色のズボンに同色のシャツ、その上から白衣を羽織る男の両腕はゴム手袋が装備されていた。白衣の裾を手袋の中に突っ込んで留めているため、腕は男の本来の太さより少し大きかった。
男は医療用メスを右手に持ち、左手で友希那の腹部を擦った。途端に友希那が反応した。なんの説明もなくはじまろうとしている、男だけの切開手術に友希那は戸惑っていた。しかし男は左手を止めなかった。左手指先で友希那の腹部のちょうど中心部分、つまり正中線の部分を撫でた。肋骨の下部から股間部分のすぐ上までを、一直線を引くかのようにスーッと触れた。それは最後の合図だった。執刀医として患者に、今から行う施術の説明をすることなど当たり前の義務だった。そして今から男が友希那に行う施術とは、麻酔も開腹鈎の用意もない独自の開腹手術だった。
「やだ、やめて……」
腹部を撫でられた友希那は震えた声を出した。男の指先の動きと、それから医療用メスという道具の登場だけで友希那は全てを察知したようだった。しかしもう拒否は不可能だった。男から視て友希那という患者は緊急事態だった。患者の意向を汲み取る余地はなく、もやは問答無用の施術執行に映らなければいけなかった。
「お願いっ……」
男は泣き震える友希那を無視して両手を添えた。左手を友希那の腹部に下ろし、医療用メスの先端を皮膚に突き刺した。途端に友希那の喉から悲鳴が上がった。友希那の若く弱弱しい皮膚を医療用メスが切り分けていた。男は左手を強く押し込んだ。四肢を欠損しているとはいえ、激痛によって暴れる友希那は驚異だった。しかし逆にいえばその驚異とは、片手で簡単に抑えることができる程度のものだった。男は左手で友希那を固定し、医療用メスを一直線に動かした。真白い肌はなんの抵抗もなく切り裂かれ、ぱっくりと外方向に開いていった。奥から視えるのは黄色いものだった。それは皮下脂肪であり、またどこからともなく赤黒い血が滲み出ていた。男は医療用メスを友希那の股間の上の位置で止め、刃を持ち上げた。そして、最初に刃を入れた箇所に再び刃を入れて一直線をなぞっていった。皮膚の下に隠れていた黄色い脂肪も、皮膚と同様に少しずつだがぱっくり裂けて肉が視えてきた。男は肉も切開していった。何度も何度も、なぞってなぞってなぞり続けると肉の中にもぱっくり亀裂が刻まれてゆき、やがてプツリとひとつ硬いものを断ち切る感触が触れた。すると同時に友希那の身体の奥の位置から、知らないこんもりとした桃色のものが露出した。それは小腸だった。男の切開によって友希那の小腸が体外に放出していた。管状の小腸は桃色で薄い粘液を纏っていた。そのため微細だが光沢が浮いており、照明の光を反射しててらてらと輝いていた。
「ああ、ああっ……」
腹部を切開され、小腸が露出する友希那はどうしていればいいのかわからないようだった。そもそも身体にこれほどの損壊が発生しても意識を保っていることに不思議がっているようだった。男は友希那の小腸を左手で握った。小腸は柔らかいだけでなく温かかった。それは友希那の体温だった。友希那の内側で常に生み出される、友希那の生き物としての熱気がこの小腸にもムワリと纏わりついていた。男は友希那の小腸に齧りついた。素手で感じた熱が味として口に広がった。男はその調子で小腸を食い進んだ。管状に絡まる小腸を強引に噛み千切り、大量に頬張って嚥下した。
友希那はぼやけた視界の中で男を視ていた。
男は友希那の身体から伸び出る小腸を両手で握って咀嚼していた。男は両手ともゴム手袋を装着しており、その薄い皮膚のような表面は小腸に付着する血で赤く濡れていた。血液には光沢があり、天井からの照明をよく反射して輝いていた。男は自らの口で小腸の中を掘り進むように咀嚼し続けていた。時おり覗く歯列には、細かい肉片がへばりついているのが視えた。
「リサ……」
もうろうとする意識の中で、友希那はリサを想った。あの日、男から逃げた際に家に駆け込まなければよかったと強く後悔していた。警察にでも向かっていれば少なくともリサの両親は死ななかった。しかし死んだ。つまり自分のせいだった。友希那は後悔した。それを覆すことができないという事実がより強い後悔となって友希那の脳裡を震わせた。しかし震えているのは脳漿だけだった。今の友希那にはもう怒りでわなわなと震える両腕などなかった。怒りに任せて蹴り出す両足などなかった。友希那はこの台の上でただ、ひたすら謝るだけだった。
「ごめんなさい、リサ……」
小腸を咀嚼し続ける男を横に、友希那は幼馴染へ謝罪した。男が歯列を小腸に落とし、肉片が噛み千切られてゆく度に周囲に血が噴き出ていた。友希那は最期に、自分の中のあらゆる意識が男に敗北するように途絶えてゆくことを意識した。
友希那絶命後、男は友希那のあらゆる箇所を食べた。
残りの小腸や大腸をはじめとする内臓はそのまま食らった。全てに血の濃厚な味がしたが同じ味ではなかった。部位ごとに少しずつ異なっており、甘い部分や苦い部分、薄味に濃厚な鉄分の味と十分に楽しめた。脳漿に関してはもはや液体だったためスープとして啜った。腕や足、乳房などの肌色の部位は基本的に焼いて食べた。味はどれも同じだったが舌触りや噛み応えが全て異なった。乳房は柔らかく、太腿や指の肉はコリコリと硬かった。
特に絶品だったのは舌だった。半分をナマで、もう半分を唐揚げにしたがどちらも美味で採点は不可能だった。友希那の舌の唐揚げの断面から香る香ばしい風味は忘れられないだろうと思った。もし自分が死刑囚となり、最期の食事を聞かれたとしたら友希那の舌の肉をナマのままほしいと注文するだろうと思った。
メディアが湊友希那の死亡を報道したのは男が友希那を完食して数か月後だった。
男が破棄した骨が発見されたことで死亡が確定したようだった。友希那の母親や父親、幼馴染の今井リサとその両親の死亡も同時に報道された。一連の犯行はかつて世論を騒がせた。あの『ハロハピ皆殺し事件』や『パスパレ皆殺し事件』と同一犯あるいは模倣犯であると推測された。『羽丘女子学園銃乱射事件』などの女子高校生を狙った他の殺人事件との関連性についても徹底的に捜査され、全ては『殺人事件史上最も狂気的な殺人』としてどこまでも追求された。
メディアが全ての殺人事件を忘れた後、男は友希那の墓参りに訪れた。
山吹、青葉、羽沢、氷川、丸山、白鷺、若宮、白金、奥沢、松原、北沢、瀬田、弦巻、宇田川、大和、美竹、上原、花園、市ヶ谷、牛込、戸山、今井、などの名前を眺めながら男は墓地敷地内を歩いた。最後に湊の苗字を発見した。男はさっそく墓石の前に立ち、手を合わせて目を閉じた。
数秒後、男はさっさと目を開いて墓石を視た。すぐ隣に別の墓石があった。男はその墓石と友希那の墓石を比較した。どちらの墓石も灰色で角張っていた。やはり、刻まれた名前以外の差異を感じられなかった。男はもう立ち去ろうと思った。膝を力んで歩き出そうとした。しかしその途端に男は股間の位置に違和感を意識した。それは尿意だった。男は無視して歩き出そうとしたが尿意は瞬く間に肥大化し、やがて我慢できない程度のものに急成長を遂げた。男は周囲を見渡した。周囲には誰も居なかった。男は極度の緊張状態に唐突に陥った。心臓部分が猛烈な熱を発揮し、全身を巡る血潮のその勢いが増した。男はその自分の衝動を丁寧に抑えつつ、ズボンとパンツを下ろした。陰茎を摘まみ上げ、その先端を友希那の墓石に向けた。今までのどの殺人より所作が強張っていた。男は墓石に刻まれた湊友希那の文字をみつめながら膀胱を一気に解き放った。途端に爽快感が打ち上がった。それは放尿による快感だった。身体の中の不要な力みが溶けてゆく心地だった。
膀胱に溜まったものたちはじょろじょろと音を立てながら放物線を描き、友希那の墓石に触れた。細かい飛沫を散らして周囲に染み渡った。男は摘まんだ陰茎を操作した。友希那の墓石の全てを尿で濡らしておきたかった。男が放つ透明な黄色い尿は友希那の香炉を濡らし、花立に注がれていった。水鉢にもたっぷり溜まり、最後に竿石を濡らした。灰色の外観は少し色が暗くなり、線香も花もしとどに濡れた。尿が途切れ、男はパンツを戻しズボンのチャックを上げた。周囲に誰も居ないことを確認し、立ち去ろうとすると腹の底からグゥと音が鳴った。地響きのような音だった。男は自らの空腹を自覚しながら歩き出した。