聖暦2060年、冬。
世界統合連合(Union)首都圏、第1管区。
かつて文明の中心であったこの巨大都市は、今は鉛色の低い雲と、凍てつくビル風に支配されていた。
その中心にそびえ立つ白亜の巨塔「聖セントラル上級学院」は、未来の支配者層を育成するための温室であり、同時に、来るべき選別の日を待つ若者たちの、残酷な見本市会場でもあった。
最上級クラス、3年A組。
最新鋭の空調システムが奏でる微かなハム音が響く教室は、窓の外に広がる氷点下の極寒の世界とは無縁の、完璧に管理された室温に保たれている。
昼休み、生徒たちの多くは軍から支給される銀色の真空パックに入った「高栄養ゼリー」を無機質に啜っていた。味気ないが、カロリー計算とエネルギー変換効率は極限まで最適化されている。それが、この世界の「効率」という正義だった。
だが、窓際の一角だけは、別世界の空気が流れていた。
「あら、久我山くん。またそんな『燃料』を補給しているの? 味覚が退化してしまいましてよ」
鈴を転がすような、しかし明確な嘲りと優越感を含んだ声。西園寺レイカだ。
完璧にプレスされた制服に、塵一つない漆黒の長い髪。冬の弱い陽射しを受けて輝く白磁の肌と、黒曜石のように強い意志を宿した瞳。彼女はこの殺伐とした見本市会場に咲いた、唯一の、そして絶対的な「女王」だった。
彼女はアンティークの磁器カップを優雅に傾けていた。ふわりと立ち上る湯気からは、ベルガモットの芳醇な香りが漂う。本物の茶葉を使ったアールグレイ。その一杯の市場価格だけで、下層市民の一ヶ月分の給与が吹き飛ぶ代物だった。
久我山 ジンは口元のゼリーを拭いながら、静かに肩をすくめた。
「俺たち任官間近の士官候補生には、これが一番合ってるんだよ。それに、君のその紅茶一杯で、俺の偵察用ドローンの予備バッテリーが半年分買える」
「これだから『現場主義』の殿方は困るわ」
レイカは呆れたように長く美しい睫毛を伏せ、ソーサーにカップを戻した。カチャン、と硬質な音が静寂に響く。冬の弱い陽射しが、彼女の漆黒の髪と白磁の肌、そして黒曜石のような瞳を際立たせていた。
「文化と教養、そして余裕。それこそが、人間と、ただ消費されるだけの『生体部品(アセット)』を分ける境界線なのよ?」
彼女はそう言いながら、手元の最新型携帯端末をタップした。その眉間に、わずかな皺が寄る。
「……おかしいわね」
「どうした、彼氏から連絡なしか?」
ジンの問いに、レイカは気丈に顔を上げ、誇らしげに答えた。
「失礼ね。父様よ。議会の決算期でお忙しいのよ。昨夜から連絡がつかないけれど……きっと、連合の未来のために奔走なさっているのね。私がこの学院を首席で卒業すれば、父様にとっても最高の労いになるはずだわ」
彼女はそう信じて疑わなかった。だが、ジンの手元にある軍用回線の端末には、全く別の情報が表示されていた。
『西園寺派閥、昨夜未明に一斉拘束。反逆罪の容疑で資産凍結準備中』
ジンは端末の画面を伏せ、薄く笑った。彼女の言う「奔走」とは、尋問室で命乞いをすることだったらしい。戦術情報部の候補生である彼にとって、この種の情報は「予兆」に過ぎなかった。
その時、教室前方の大型ホログラム・モニターに、緊急ニュース速報が流れた。
『連邦治安維持局発表:軍需産業における大規模な不正取引を摘発。主犯格は”粛清”対象へ――』
画面には、モザイクのかかった連行される男たちの映像。それを見たレイカは、軽蔑の色を露わにして吐き捨てた。
「嘆かわしいわね。私欲のために連合を裏切るなんて」
彼女はソーサーを指先で弾き、凛とした声で続ける。
「私たち『選ばれた人間』の責務は、高貴なる義務(ノブレス・オブリージュ)を果たすことよ。裏切り者は、その身をアセットに堕として、肉体ですべての罪を償うべきだわ。……そう思わない、久我山くん?」
レイカの瞳は、一点の曇りもない純粋な正義感で輝いていた。自分が断罪しているその「裏切り者」こそが敬愛する父であり、その報いが数日後の自分の身に降りかかる運命であるとも知らずに。
ジンは肩をすくめ、彼女のその無垢な残酷さに同意した。
「ああ、同感だ。罪人は、最も効率的な方法で社会に貢献させるべきだな」
その言葉を、二度と忘れるなよ。ジンは内心で冷たく毒づいた。
レイカは満足げに頷くと、席を立ち、コツコツとヒールの音を響かせてジンの机に歩み寄った。彼女の制服は塵一つなくプレスされ、漆黒の長い髪は光沢を放っている。
彼女はジンの目の前で立ち止まると、躊躇なく手を伸ばした。不意に距離が詰まり、白檀と薔薇の混ざった高貴な香水の匂いが鼻孔をくすぐる。
彼女の白く細い指先が、ジンの制服の襟元に触れた。
「襟が曲がっていてよ、久我山 ジン」
まるで聞き分けのない弟を諭すように、あるいは出来の悪いペットを躾けるように、彼女はジンの襟をきゅっと引き締め、正した。
「将来、将校になるなら身だしなみは完璧になさい。……私たちが司令部から貴方たちを動かす時、駒が汚れていては指揮官の恥になるもの」
彼女自身も首席候補。自分は選ばれる側――「A区分市民」になり、安全な後方から、泥にまみれる兵士たちを管理する人間だと信じて疑っていないのだ。
ジンは彼女の指の残像が残る襟元に触れながら、皮肉な笑みを浮かべた。
「手先が器用だな、西園寺。……その几帳面さ、意外と『現場』向きかもしれないぞ」
「冗談はおよしなさい。私が汗とオイルにまみれるなんて、あり得ないわ」
レイカは高らかに笑い、翻るスカートの裾と共に優雅に席へと戻っていった。
彼女はまだ知らない。
その「完璧な美貌」と「他者を管理しようとする強い自我」こそが、彼女を最高級の「家具」へと導く、最大の評価項目(スペック)であることを。