再会した二人は、国家の陰謀が渦巻く廃工場へと潜入する。戦闘の最中、レオンは彼女の背中に刻まれた凄惨な過去の傷痕を知り、一方のスヴェトラーナもまた、レオンの瞳の奥にある孤独に共鳴していく。
再会した二人は、国家の陰謀が渦巻く廃工場へと潜入する。戦闘の最中、レオンは彼女の背中に刻まれた凄惨な過去の傷痕を知り、一方のスヴェトラーナもまた、レオンの瞳の奥にある孤独に共鳴していく。
東スラブ共和国
かつて存在したその国は、地図からも記録からも静かに消えていた。
内戦の終結と共に、強権的だった政権は瓦解し、大統領スヴェトラーナ・ベリコバの名前も「冷徹な独裁者」として過去の遺物となった。
しかし、彼女は生きていた。
北欧に近いある小国、白夜の続く季節。
古びた修道院の一室で、ベリコバは慎重に書類を燃やしていた。
燃え残った紙の端には、ある生物兵器企業のロゴ。
かつての東スラブで彼女が関与していた研究の残骸。
そして今、それを狙う者たちの気配が彼女の周囲に迫っている。
彼女の亡命は、「沈黙と情報提供」を条件に西側の一部機関により守られていた。
だが、その沈黙が破られる時が近づいていた。
「任務内容は、非公開だ」
レオン・S・ケネディは、ブリーフィングルームを出ると同時に、それだけを口にした。
ヨーロッパ某国、NATO非加盟国の港町。
彼の目的は、武装組織によって持ち出されたB.O.W.関連資料の奪還と、背後にある国家級の関与を洗うこと。
ただし、それ以上の詳細は彼自身にも知らされていなかった。
任務は、政治的に非常にセンシティブ。
それだけは、上層部の重苦しい口調から察せられた。
「……また、腐った外交の後始末か」
レオンは皮肉気に息を吐き、暗がりに消える。
翌朝、情報提供者との接触場所として指定されたのは、旧市街の書店跡。
レオンが薄暗い階段を降り、地下の書庫に足を踏み入れたその時だった
「……変わらないわね。相変わらず、銃の構えが雑。」
その声に、レオンの指が一瞬止まる。
すぐさま身を翻し、銃口をその方向へ
だが、そこにいたのは、黒いコートの女だった。
冷ややかな目、整った輪郭。
そして、どこか懐かしさを伴うその威圧感。
「……ベリコバ?」
「正確には、『元』大統領。今はただの亡命者よ、レオン・S・ケネディ。」
火花が散るような静寂。
レオンの手が僅かに震えたのは、寒さのせいではなかった。
[newpage]
地下書庫の薄明かりの中、レオンとスヴェトラーナは対峙していた。
銃はまだ構えられたままだったが、引き金にかけた指はすでに緩んでいた。
「……死んだと思ってた」
レオンの声は低く、何かを押し殺していた。
「その方が、世界にとっては都合がよかったわ」
スヴェトラーナは肩をすくめ、ゆっくりとフードを外す。
鋭く整った顔立ちは、かつて東スラブの人々を震えさせた"鉄の女王"のままだった。
「あなたがここにいるってことは、NATO側が私を利用しようとしてるのね。あるいは、処理するつもりかしら」
「まだ判断中だ」
レオンは銃を下ろした。そして一歩、彼女に近づく。
「……けど、何かがおかしい。あんたがこうしてわざわざ俺に接触してきたってことは、普通じゃない」
「普通?」
スヴェトラーナは微かに笑った。だがそれは笑みとは呼べない。
「あなたはまだ、国家をを信じているのね」
言葉が刺さった。
その瞬間、レオンの手が動いた。
「そうだな。信じた分だけ裏切られてきた。だから……一つ、確かめたいんだよ」
彼は拳を握りしめ、スヴェトラーナとの距離を詰める。
「……何を?」
「あんたがまだ『戦える女』かどうかだ」
彼の拳が、真っ直ぐにスヴェトラーナの顔を狙って放たれる。
瞬間、彼女は身体を反らし、返すように掌底を放つ。空気が割れるような音。
次の瞬間、二人は無言のまま狭い書庫の中でぶつかり合っていた。
容赦はない。
木製の机にレオンの背が叩きつけられる。
彼は痛みを堪えながら、スヴェトラーナの腕を取って転倒技を仕掛けるが、彼女はそれを逆に利用して身を翻す。
「……本気で殺すつもりか」
「そうでもしなければ、あなたは私の言葉を信じないでしょう?」
レオンの目が鋭くなる。
次の一撃は、回し蹴り。
スヴェトラーナの太腿にかすめ、彼女の姿勢が一瞬崩れる。
そこを狙い、レオンは背後に回り、腕を取って拘束にかかるが
「遅い」
その耳元で囁かれた声と同時に、彼は床に投げられていた。
息が詰まる衝撃。
だが、痛みよりも先に、思わず吹き出しそうになる。
「……なあ、なんでこんなことになってるんだ?」
スヴェトラーナは立ったまま、呼吸を整えていた。
頬には赤い痕。
レオンの拳がかすめた跡だ。
「私が『女』としてあなたに接近してきたとでも?」
冷たく言い放ち、だがその目の奥には、わずかな色が揺れていた。
レオンは床に倒れたまま、彼女を見上げる。
そして、静かに呟いた。
「違う。俺が『男』として反応したんだ。……それが癪でな」
しばしの沈黙。
やがてスヴェトラーナは視線を逸らし、まるで風のように言った。
「……今夜、話すわ。全部じゃないけど。あなたにだけ。」
その声に、確かな震えがあった。
[newpage]
郊外の古い洋館に仮設された隠れ家の一室。
レオンはテーブルに肘をついていた。
部屋は古びた灯りに照らされ、二人の影が壁に揺れている。
対面の椅子には、スヴェトラーナ・ベリコバ。
グラスの中で琥珀色の液体が揺れていたが、誰も手をつけていなかった。
「……で? あんたは今、何を知っていて、何を俺に隠してる?」
レオンの問いに、スヴェトラーナはゆっくりと脚を組み替える。
姿勢は女王のように優雅で、声には相変わらず一切の感情がない。
「その前に、あなたはどこまで『信じる』のかしら。私の言葉を、私という存在を」
「俺は証拠で動く。言葉だけなら誰だって正義を語れる。」
「だからこそ、あなたを呼んだのよ。……レオン・S・ケネディという男を」
その名を呼ぶ時、彼女の声色が僅かに変わった気がした。
だがレオンは表情を動かさない。ただ、言葉を重ねる。
「じゃあ見せてくれよ。あんたが何を背負ってるか。」
レオンの言葉に、スヴェトラーナは一拍置いてから立ち上がった。
無言のまま背を向け、ゆっくりと手を動かす。
コートのボタンを外し、滑らせるように床へ落とす。
次に、彼女は指先でブラウスのボタンに触れた。
その動きに、レオンの眉が僅かに動いた。
無言でブラウスの前を外し、細い肩を見せるその姿が、まるで何かを誘っているかのように見えたからだ。
(……なんだこれは)
警戒が走る。
この状況で、女が男の前で静かに服を脱ぎ始める。
しかもスヴェトラーナ・ベリコバ…国のかつての女大統領で、あらゆる手段で相手を操ってきた女。
(まさか……色仕掛け? いや、そんな単純な相手じゃない)
レオンの手が無意識に腰のホルスターへ向かう。
銃は抜かない。だが、身体は反応していた。
「……一つ忠告しておく。俺は色仕掛けには……あんまり免疫がない方だ」
低く、冗談のように言ったその言葉に、スヴェトラーナの口元がわずかに動いた。
だが彼女は振り向かず、静かに言う。
「安心して。そんな安い手は、必要ないわ」
そして…ブラウスの背を下ろすと、白い肌と、そこに刻まれた尋問の痕が露わになった。
レオンの呼吸が一瞬止まる。
焼け爛れたような痕、鋭利な刃物による切創。
それらが、まるで彼女の信念と屈辱の歴史を刻んでいた。
「……拷問を受けたのは、政権崩壊後。味方に売られ、ロシアの地下施設で、『話せるか試された』の」
その声に、色気も誘惑もなかった。ただ、痛みだけが、静かにそこにあった。
レオンはその瞬間、さっきの自分の考えが馬鹿らしく思えた。
色仕掛けなどではなかった。
この女は…自分の全てを、晒していた。
「……なぜ、それを俺に見せた」
「あなたが、どこまで『現実』を受け止められるか知りたかったのよ」
彼女はブラウスを直し、再び背筋を伸ばして立つ。
女王の姿に戻ったその背に、傷痕の記憶がまだ滲んでいるように見えた。
スヴェトラーナはブラウスの襟を戻しながら、鏡越しに彼を見た。
「それでも私を『敵』と見るなら、あなたの選択は正しい。……けれど、『信じる価値がある』と思うなら、その判断もまた、あなた自身の責任になるわ。」
レオンはしばらく言葉を失っていた。
彼女は、自らの過去を『弱さ』としてではなく、『選択させるための証拠』として差し出してきた。
まるで、命令のように冷静で、それでいてどこか脆く…
レオンは、目を逸らさなかった。
「……この国に、正義なんてもう残ってないんだろうな」
「正義を欲しがるほど、人間はもう純粋じゃないもの」
どちらともなく笑った。だが、苦笑にもなりきらない。
「……あんたは、やっぱりずるい女だな。」
「ええ。私はいつだって、世界を手玉に取る女よ。」
二人の間にはまだ、触れ合いも優しさもなかった。
だがその夜、レオンの中で何かが静かに変わり始めていた。
スヴェトラーナ・ベリコバ。
この女を、ただの亡命者とも、ただの過去の亡霊とも、もう呼べなくなっていた。
[newpage]
東スラブ共和国、第9地区廃工場。
かつてウイルス実験の拠点だったその場所に、いま再び秘密裏に人の出入りがある。
その日の夜。
薄闇の中に、レオンのブーツの音が静かに響いていた。
片手にはサプレッサー付きのハンドガン、もう一方の手は壁際をなぞるようにして進む。
「ベリコバの情報が正しければ、この施設にまだ研究資料が残ってるはずだが……」
小声でつぶやいた直後
「ようこそ、“裏切者”」
暗闇から声とともに、閃光弾。
「クソッ──!」
視界が白く焼けた瞬間、レオンは反射で身を伏せ、転がるように物陰へ。
耳鳴りがする中、複数の足音が近づく。
(情報が漏れていた……? それとも……あいつが……)
スヴェトラーナの顔が脳裏をかすめる。
だがその思考を遮るように、銃撃。火花が鉄材を弾く。
「レオン・ケネディ。君の正義は、ここで終わる!」
銃声が止んだ。その代わり、足音が近づく。
レオンは身を起こし、片膝をつきながら敵の動きを読む。
――そこへ、もう一つの足音。ヒールの音。
「立てないの?」
聞き慣れた女の声が響いた瞬間、遮蔽物の裏からスモークが放たれた。
一瞬で視界が白濁する。
「おい、まさか──」
「貴方を殺すには、もっと面白い舞台を選ぶわ」
次の瞬間、スヴェトラーナが背後に現れ、短剣で敵の一人を沈黙させる。
その動きは流麗で、迷いがなかった。
「……裏切ったと思ったぞ」
レオンがスモークの中で言う。
スヴェトラーナは、淡々とした声で応じる。
「当然の推測ね。私も、あなたが先に私を撃つ覚悟でいたわ」
「……最低限、フェアだな」
互いに背を預けるように立ち位置を取る。
残る敵の気配が三人。だが、スモークと混乱で一瞬の隙ができていた。
「左から回り込んでくる。あなたが囮になりなさい」
「命令口調、健在だな」
「気に入ってるの。……生き残ってみせて」
レオンは走り出す。
スヴェトラーナはその背を見送りながら、わずかに笑った。
(…愚かで、まっすぐで、だからこそ扱いやすい男)
だが、その直後。
銃弾が彼女の肩をかすめ、咄嗟に身を低くした。
「油断は、禁物だったわね……」
彼女もまた、背中を誰かに預けるという行為に慣れていなかった。
それでも…この夜だけは、レオンに背を預けていたのだ。
銃撃戦が終わったのは、5分後。
二人とも傷は軽微。
だが緊張は、深く肌に刻まれていた。
「で? 信じる理由は増えたか?」
レオンの問いに、スヴェトラーナはふっと息を吐く。
「まだ足りないわ。命を預けるにはね」
「上等だ。俺もそう思ってた」
ふたりの間にはまだ、何も築かれていない。
だがその夜、共闘の火は、確かに灯った。
[newpage]
静まり返った部屋の中、裸電球の灯りが淡く揺れていた。
レオンとスヴェトラーナは、廃れたホテルの一室に身を潜めていた。
ソファは埃っぽく、カーテンは遮光もままならない。
だが二人には十分だった。
「お前の情報は正しかった。……って言えば、少しは信用するか?」
レオンがシャツの裾をめくりながら言う。
彼の脇腹には、弾がかすめた跡。
血がにじみ、Tシャツの繊維に赤黒く染み込んでいた。
「信用のためじゃない。必要だったから渡しただけ」
スヴェトラーナは冷静に言い、荷物から小さな救急キットを取り出した。
「座って。私がやる」
「いや、自分で...」
「傷の角度的に無理。……抵抗する気なら、もう一発もらう?」
ため息混じりにレオンはソファに腰を下ろす。
スヴェトラーナは膝をつき、無言でシャツの裾を持ち上げた。
布が肌から離れるたびに、ひやりとした空気が触れる。
そして、彼女の指が静かに肌に触れた。
(……冷たい手だ)
だがその手つきは、妙に慣れていた。
無駄がなく、丁寧で、まるで兵士に施すような応急処置。
「少し染みるわよ」
そう言って彼女が消毒液を滲ませた布を押し当てた瞬間、レオンは肩をすくめる。
「クッ……容赦ないな」
「殺すつもりなら、もう少し優しくしたかもね」
そんな冗談めいた返しに、レオンは鼻で笑う。
だが、彼女の顔が近づいたとき...ほんのわずかに、視線が逸れた。
(……近い)
スヴェトラーナの顔が、ふと傾き、髪がレオンの肩に落ちる。
香水ではない、シャンプーのような微かな香りが鼻先をかすめた。
胸元からのぞく肌。
シャツの隙間から見えた、しなやかな白い鎖骨。
下着は菫色だ。
それらが『自然に』視界に入り、レオンはあからさまに目線の置き所に困った。
(ちょっと待て……これは仕事中だ。落ち着け。色気じゃない。絶対ちが…)
「……赤くなってるわよ、顔」
スヴェトラーナが一言。
レオンは咳払いしながら目をそらす。
「いや、熱があるかもな。そっちの殺菌液のせいだ」
「そう。……じゃあ、すぐ終わらせるわ」
冷たい布、絆創膏、包帯。
全ての処置を終えたとき、スヴェトラーナは手を拭きながら立ち上がった。
「……ありがとう。手慣れてるんだな」
レオンが言うと、スヴェトラーナは一瞬だけ動きを止めた。
「必要だったのよ。誰かに縋れる立場じゃなかったから」
その言葉の裏に、彼女の過去がほんのわずか滲む。
だが、すぐにいつもの冷静な声に戻った。
「あなたのターンよ。情報をくれる?」
「交渉に来たのか?」
「違うわ。……この国が崩れ落ちる前に、少しでもマシな終わらせ方を探しているだけ」
レオンは黙ったまま、水を一口飲んだ。
そしてゆっくりとスヴェトラーナのほうを見て、静かに言う。
「……あんたが本当にそれを望んでるなら、俺は付き合う」
「私を信じる?」
「……信用してるわけじゃない。けど、戦場で背中を預けた。それ以上に信用できる根拠なんて、案外ないもんだ」
ふたりの間に、また少し沈黙が落ちる。
だがその沈黙は、冷たいものではなかった。
それは、互いに『信じない』まま、『共に歩く』ことを選んだ者同士の、奇妙な同盟の証だった。
[newpage]
東スラブ共和国、旧実験区域の地下施設。
排水の音、錆びたパイプ、崩れかけた煉瓦の壁がレオンとスヴェトラーナの侵入を飲み込んでいく。
「まるでゾンビ映画のワンシーンだな。これ、何年放置された施設だ?」
「六年。正式には閉鎖されたはずだったけど、実験は続いてた。予算は消えたことになってるわ」
「腐ってやがるな」
二人は警戒しながら進み、数名の警備兵を静かに排除していく。
だが、最後の一室を抜けるとき、後方からの銃撃が響いた。
パンッ!
レオンがスヴェトラーナを引き寄せると同時に、彼女の肩をかすめるように弾が掠めた。
反撃は一瞬だった。敵の姿が床に崩れると、スヴェトラーナは無言で肩を押さえた。
「……行くわよ。まだルートは残ってる」
「動くな。血が出てる。お前、撃たれて」
「掠っただけよ。致命傷じゃない」
だがレオンは黙って彼女の腕を取った。
そして、静かに言う。
「……一度退こう。無理は利かないはずだ。そうだったよな、『元』大統領」
スヴェトラーナは一瞬、鋭い目で彼を見たが
そのあと、かすかに息を吐いて、無言で頷いた。
ふたりは再び廃ホテルの部屋に戻っていた。
レオンがランタンを灯し、医療道具を手に取ると、スヴェトラーナは椅子に座り、シャツのボタンに手をかけた。
「私がやるわ。見られて嬉しいような身体じゃないの」
「かまわない。仕事の一環だ」
レオンは苦笑いを浮かべながら、彼女の肩口をゆっくりと脱がせていく。
そして再び、言葉を失う。
彼女の背中には、幾重にも重なった古い傷痕が走っていた。
焼け焦げたような線。鋭利な刃で引かれた無数の切り傷。
そして拘束痕のように、同じ位置に食い込んだ傷が、左右対称に残っていた。
「……ロシアか?」
レオンが低く問いかけると、スヴェトラーナは声を出さずに頷いた。
「軟禁された最初の三日間は、話すな・叫ぶな・拒むな、の三拍子。
四日目からは、別の目的に変わったみたいね。何をされれば、どう壊れるか、試してた」
レオンは無言でガーゼをあてながら、目を伏せる。
「驚いた? 大統領って呼ばれる人間の背中が、こんなに酷く焼かれてたなんて」
「……いや。逆に、何でお前が壊れてないのかの方が驚きだ」
スヴェトラーナはふっと息を吐き、首をすくめた。
「壊れたわよ。だから今ここにいる。祖国を守るより、復讐に手を貸してるほうが、ずっと簡単だから」
「違うな」
レオンは、包帯を巻きながらゆっくりと顔を上げる。
「お前は壊れてない。壊れてたら、あのとき俺を見捨ててただろ。俺を引き上げて、敵の懐に入る手間を惜しまなかった。それって、まだ捨ててない証拠だ」
「……うるさいわね。そういうの、アメリカ男の悪い癖よ」
「正論が嫌いなだけだろ」
彼女はわずかに肩をすくめたあと、包帯の上からシャツを直す。
「……ありがとう。あなたけっこう優しいのね」
「意外だったか?」
「ええ。銃が似合う男だから」
レオンは黙って立ち上がる。
窓の外には、夜の霧が再び濃く広がり始めていた。
「……明日は、正面から行くことになりそうだな。時間もない。休めるうちに休んどけ」
「あなたも」
ふたりの視線が一瞬、交錯する。
それはまだ、信頼ではない。だが
明日、命を預けるに足る静かな“協定”だった。
[newpage]
冷たい夜の空気が、ひときわ強く窓の隙間から吹き込む。
裸の背中に包帯を巻き終えたレオンは、無言のまま一歩引いた。
「……着るか?シャツ」
ベッドの端に置いた白いシャツ。
だが、スヴェトラーナは手を伸ばさず、そのまま背筋をまっすぐにして座っていた。
「少し、待って。風が気持ちいいの」
「……強がるな。寒いだけだ」
「……かもね。でも、今はこのままでいたい。
……久しぶりに、傷じゃないものを見られてる気がするから」
レオンは黙って視線をそらした。
ランタンの淡い光が、彼女の素肌に静かな陰影を落としていた。
焼け焦げた傷と、滑らかに残る女の輪郭。
戦士と女性、そのどちらもを宿した身体。
「……なんでそこまでして国に固執した」
レオンが、静かに、だが鋭く言った。
「女王様みたいに上から睨みつけて……民を犠牲にしてまで王座を守った。
お前は一体、何が欲しかったんだ?」
スヴェトラーナの目が、ゆっくりとレオンに向く。
「……何が欲しかったか。ふふ、聞くのね、今さら」
「俺はまだ、お前を信じてない。それでも一緒に地獄に潜る以上、腹の底ぐらい、知っときたい」
沈黙が落ちる。
しばし、スヴェトラーナは目を閉じ、肩をわずかに揺らす。
まるで何か、遠い記憶に触れたように。
「……拷問されたの。ロシアの暗い部屋で。彼らは私が女であることに喜びを感じてた。自分たちの支配が、どれだけ私の尊厳を踏みにじれるか…それだけを試してたわ」
「……」
「裸にされて、殴られて、縄で縛られて……名前じゃなく、“雌犬”と呼ばれた。指一本動かせないまま、父が信じた『革命』を、彼らの足の下で笑われた」
言葉の端々に、ひどく冷たい静けさが宿っていた。
怒りでも涙でもなく、それは冷たい誇り…すでに何度も凍てついて砕けたもの。
「私の父は地下新聞を作ってた。民衆に真実を伝えようとして、殺されたわ。母も『彼の志を継げ』と言って、子どもの私に銃を教えた」
レオンはじっとスヴェトラーナを見つめていた。
傷を負いながらも背筋を伸ばし、誇りだけは手放していないその姿に、何か抗えないものを感じていた。
「私は女であることを捨ててでも、国を変えたかった。ドレスを捨てて軍服を着て、スピーチを捨てて銃を持った。でも……最後に残ったのは、皮肉よね」
彼女はうっすらと笑う。
「女であることを捨てたはずの私が、女であるというだけで辱められ、女であるという理由で、その国に見捨てられた」
その場を静寂が支配した。
それを破ったのは、レオンの低い声だった。
「……それでも、守ろうとしたのか。あんな腐った国を」
「ええ。あれでも、私の父が命を懸けた国だから。何度壊れても……私はまだ、何かを信じていたのよ」
スヴェトラーナはそのまま、ようやくシャツに手を伸ばす。
「……ありがとう。こうして話したの、初めてかも」
「聞かされたこっちが、まともに寝られるか心配だ」
レオンの言葉に、彼女は笑みを浮かべた。
「私は眠れるわ。もう何も残ってないから。あなたは……どう?」
その視線に、レオンはわずかに眉をしかめた。
「……俺は、まだ捨てきれてないみたいだ」
静かに、少しずつ──
二人の距離が変わり始めていた。
まだ疑いはある。まだ意地は張っている。
それでも、互いの「過去」と「痛み」を知った今、
生まれたのは信頼ではない…共鳴だった。
[newpage]
部屋の中には、夜のざわめきだけがあった。
外では遠くに犬の吠える声、風に揺れる葉の音、どこかの家の扉が閉まる音。
まるでこの空間だけが時間から切り離されているような、張りつめた静けさ。
スヴェトラーナは椅子に腰かけたまま、レオンをじっと見ていた。
シャツのボタンにかかる彼女の手の指先は、まるで誰かを裁くために整えられたナイフのように冷ややかだった。
「命を助けられて、恩を感じているわけじゃないの」
「……だろうな」
レオンは壁にもたれて腕を組み、彼女の意図を読みきれずにいた。
冷たいはずのその声の奥に、どこか焦がすような熱が潜んでいるのを感じる。
「ただ、借りは返す。それだけ」
彼女の指が、すっとシャツのボタンを外していく。
一つ、また一つ。
肌が覗くたびに、レオンの視線はそこから逸れて戻ってくる。
「……お前、何してる」
「見るからにわかるでしょう」
「まさか色仕掛けのつもりじゃ……」
「バカね」
と彼女は鼻で笑った。
「私がそんなもの、使えると思うの?」
その声はあくまで冷ややかだった。
だが、そこには笑えない何かがあった。
女としての武器を、過去に踏み潰された者だけが持つ、苦い自嘲。
レオンは、ふと目を伏せた。
前にこの女と素手でやり合った時。
組み伏せられ、肩を抑えられ、倒されたその瞬間に、自分の体が一瞬、男として反応してしまったことを思い出していた。
(……こんな状況で、何を思い出してるんだ、俺は)
「悪いが、そういう『義務』なら受け取れない」
「義務? そうじゃない。……これは、『選択』よ」
スヴェトラーナが立ち上がり、目の前に来る。
「私は自分の意思で脱ぐ。それを、あなたがどうするかも、あなたの自由」
目の前に立った彼女は、シャツのボタンを外しきったところで、レオンの手首を取った。
レオンは、彼女の目を見つめ返す。
その奥にあるものは、色ではない。
温もりでもない。
冷たい湖面のような、凍てついた誇り。
(……こいつは、自分の強さを壊したくないだけだ)
(傷つけられて、それでも『女』として見られたくないと抗ってきたのか)
ふと、レオンは言った。
「……自分で脱ぐな。そんなに全部、自分で抱えるな」
スヴェトラーナが、わずかに目を見開いた。
「俺の手で脱がせる。そっちのほうが、お前の誇りを守れるだろ」
彼女は返事をしなかった。ただ、まぶたを閉じた。
レオンの手が、そっと彼女のシャツの端に触れる。
冷たい生地と、さらに冷たい肌。
その下に、どれだけの痛みが刻まれているのだろう。
布がするすると肩から滑り落ち、背中の皮膚があらわになる。
そこには、まるで焼きごてのような古傷が、淡く赤黒く、交差していた。
レオンは息を呑み、思わず指を止める。
「……ロシア軍か?」
「拷問官たち。彼らの仕事は丁寧だったわ」
スヴェトラーナは笑いながらも、その笑みに血の気はなかった。
「女として辱められ、スパイだと罵られ、……女、という概念ごと壊されて帰ってきた。それでも私は、東スラブを生かす国を創るって言い張ったのよ。笑えるでしょう?」
「……いや、笑えない」
「でも、あなたは笑ったわ。あの時。私に蹴られて、倒れながら」
「……笑ってない。たぶん、痛みと、衝撃と」
「そして少しの興奮?」
レオンは言葉に詰まった。
スヴェトラーナはその沈黙に、答えを見たようにふっと目を細めた。
「私はあの時、思ったの。『こいつ、男ね』って」
「……悪かったな、健康体で」
「いいえ。私も、あなたの、男を試してみたくなっただけ」
スリップを脱がせて足元に落とす。
菫色のブラもうまく外せた。
男として恥をかかずに済んだ。
目の前に現れた、小ぶりだが形のいい乳房から思わず目をそらす。
彼女は体中の色素が薄いらしく、胸の先端も白に近いような桃色で、じっと見つめているとすべての服を脱がす前に男として粗相をしてしまいそうだ。
スカートのホックを外すと、そのままスカートは床に滑り落ちた。
菫色のガーターで吊り上げたレースのストッキングに目眩がした。
あと一枚。
レオンはこれも、目を逸らしながら脱がせた。
年上の女だからだろうか?
まるでティーンエージャーに戻った気分だった。
スヴェトラーナが、静かにベッドに腰を下ろす。
裸のまま、静かに。
「だから……貸し借りではないのよ。これは、確認。私がまだ女であるということを、そしてあなたが、それに応じるかどうかを」
彼女の瞳が、ようやく一度だけ揺れた。
誇りと、痛みと、どこかの哀しみを映したまま。
レオンは、口を開く。
「……俺は多分、お前のことをわかってない。でも」
ベッドに腰を下ろし、彼女に手を伸ばす。
「受け取るっていうのは、戦場で必要なことだろ?」
スヴェトラーナは答えないまま、彼の手に身体を預けた。
…この夜、交わされたものは、感情ではなかった。
ただ、互いに背負ってきた「孤独」と「誇り」を、静かに、痛みのように確認するためのものだった。
[newpage]
レオンの手が、彼女の腰にそっと触れたとき
スヴェトラーナは一瞬、身を固くした。
それに気づいた彼の手が止まりかけたその瞬間、彼女が低く言った。
「……慰めなら、いらない。情けをかけられるほど、私は壊れていない」
その声は凛としていた。だが、どこかに震えがあった。
レオンは目を細め、答える代わりにそっと身を起こすと、彼女の身体を下から見つめた。
「……そうじゃない」
彼の声は低く、少しだけかすれていた。
「俺は、あんたを……綺麗だと思ってる。強くて、意地っ張りで、傷だらけで……それでも、こうして目の前にいる。そんなあんたが、今、俺の手の中にいてくれることがたまらない…」
その言葉に、スヴェトラーナの視線が揺れた。
「……馬鹿ね。男って、どうしてそんなふうに言えるの。この身体が、どれだけ踏みにじられたか……知ってて言ってるの?」
「だから言ってる」
レオンは彼女の頬に手を添えた。
「踏みにじられても、まだここにいる。誰にも屈してない。そんなあんたを抱けることを、俺は光栄だと……本気でそう思ってる」
それは慰めではなく、男としてのまっすぐな本能だった。
彼は、スヴェトラーナを「かわいそうな女」ではなく、「惹かれる女」として見ていた。
そしてそのまま、彼は彼女の肩に手をかけると、ゆっくりと身体を覆い被せていく。
彼女はもう何も言わなかった。
ただ静かに目を閉じ、彼の動きを受け入れる。
肌が触れ合い、熱が重なるたび、彼女の中で何かがほどけていった。
レオンの視線には、同情も哀れみもない。
ただ、純粋な欲望と、敬意があった。
「……俺は、欲しかったんだよ。あの時から。あんたが俺を投げ飛ばして、足で踏みつけたとき……馬鹿みたいに、興奮してた。
だから今も、欲しいと思ってる。何ひとつ、無理にしてない」
吐息混じりにそう囁かれた瞬間、スヴェトラーナの胸がふるえた。
彼女は自分でも気づかぬまま、小さく笑っていた。
「……最低ね、あなた。でも……そういう男に、少し……救われた気がする」
その夜、スヴェトラーナは初めて、自分の傷を見られてもいいと思えた。
それは弱さの許容ではなく、傷の上からでも抱かれるほどの「価値」を、誰かに認められたということだった。
彼女の中に、長く閉ざされていた感情が、ひとつ、そっと呼吸を始めていた。
「ほら…」
レオンはスヴェトラーナの手を取って、自分の中心に導く。
そこには熱く張りつめた欲望の証があった。
同情でもない。
慰めでもない。
ただひたすら、スヴェトラーナ・ベリコバという女に対する純粋な欲望。
彼女を抱き締めて、触れて、舐めて、噛んで、鳴かせ喘がしたい。
彼女が自分の腕の中で、よがり、もだえ、快楽に苦しむ姿が見たい。
スヴェトラーナはレオンのそこに触れると、少し安心したかのようで小さく息を零した。
レオンはキスを求めたかったが、それはおそらく彼女が許してくれないだろう。
代わりに首筋に唇を這わせ、舌で舐めあげた。
スヴェトラーナの口から熱い溜息がもれる。
乳房に振れ軽く手のひらで愛撫していたが、彼女の果実が色づくにつれ、舌を這わして吸い上げた。
スヴェトラーナが肩を震わせて、レオンの頭に手をやる。
首が左右に振れた。
もしかしたら愛撫されることに慣れていないのかもしれない。
快楽に弱いようにも苦手なようにも見える。
恐らく素直に感じることが出来ないのだろう。
プライドが邪魔している。
そして体に触れられる事への恐怖とが。
レオンは彼女を無理に攻め立てるのをやめた。
代わりに
「もういいな…俺に感じさせてくれ…」
すでに熱くぬかるんでいたスヴェトラーナのそこにレオンは自分をあてがい、ゆっくりと体を沈めて行った。
スヴェトラーナの瞼が震え、小さく声が漏れた。
痛さではない、快楽でもない。
ただ、硬く燃え上がる男の欲望を自分の中で感じる純粋な喜びの声だった。
レオンは彼女の中で動くたびに何度も喘ぎ、呻き、歓喜の声をあげた。
ふだんは女性に聞かせることは無いが、彼女は別だった。
自分が声をあげるたびに、彼女の体は震え目が潤む。
レオンは彼女の耳元で何度もささやいた。
気持ちいい。たまらない。最高だ。おかしくなりそうだ、止まらない。君はきれいだ。
そして自分が息を荒げ呻くたびに中が締まって、スヴェトラーナは溜息を零した。
たとえ肉体的な快楽を感じていなくても、きっと彼女はこの声を何より悦ぶだろうことがレオンにはわかっていた。
侮辱され貶められ、傷つけられた彼女の体に、これだけの欲望をぶつける男がいるのだから。
やがて感極まった声をあげると、レオンは彼女の中でゆっくりと果てた。
その時のスヴェトラーナの幸福そうな顔を薄目で確認しながら。
レオンの手が、スヴェトラーナの頬に添えられた。
彼女はまだ何も言わなかった。
抱かれた後も、目を閉じたまま、静かに呼吸を整えている。
その静けさの奥にあるもの…
レオンは、それがただの無表情ではないことに気づいていた。
「……ありがとう、って言いたいけれど」
レオンがそう呟くと、スヴェトラーナの睫毛が、わずかに動いた。
「あんたは、取引として体を差し出したのかもしれない。でも、俺にとっては違った。少なくとも、今は…」
彼女がゆっくりと目を開ける。
その視線は、冷たくもなく、拒絶でもなく、ただ、静かだった。
レオンは、躊躇いながらも、その額にそっと唇を寄せた。
「これは……借りじゃない。感謝でも、報酬でもない」
彼女が何かを言おうとした、その瞬間。
レオンはもう一歩だけ、感情の方へと踏み出した。
「でも、これは俺にくれ」
彼女の唇に、静かに、柔らかく、自分の唇を重ねた。
スヴェトラーナの身体が一瞬、驚いたようにこわばる。
だが、レオンは強くは押さない。ただ、触れるだけのキスだった。
言葉よりも、なによりも、この一瞬が、すべてを語っていた。
やがて彼女は、ゆっくりと目を閉じる。
拒絶ではなく、ほんのひととき、それを受け入れるように。
長いキスではなかった。
愛の告白でも、未来の約束でもなかった。
けれどそこには、確かな「ぬくもり」があった。
誰にも言わないで済ませる、けれど二度と忘れられない、そんなキスだった。
ふたりはそのまま、腕を重ねて横になった。
夜が静かに流れ、風が窓の隙間を優しく撫でる。
スヴェトラーナは、ただ黙ってレオンの胸元に顔を預けた。
その横顔には、少しだけ力の抜けた安堵と、
言葉にはしない幸福の気配が、確かに宿っていた。
翌朝
朝靄が差し込む部屋の中で、スヴェトラーナは静かに服を整えていた。
レオンもまた、背中越しに彼女の動きを見ながら、ブーツの紐を締める。
昨夜のことを言葉にする者はいない。
けれど、ふたりの間に流れる空気が、何かを変えていた。
「行くぞ」とレオンが言い、
「ええ」とスヴェトラーナが応える。
目が合う。
そこにあったのは、昨日までの張りつめた緊張ではなく、
互いに寄りかかることはなくとも、背中を預け合える静かな信頼だった。
ふたりは扉を開け、
再び、戦いの地へと歩き出した。
夜の静寂に交わされたキスと、温もりの余韻を胸に。
[newpage]
夜明けの薄光が、東スラブの廃工場跡に差し込んでいた。
そこは旧ロシア軍の物資輸送ルート、今や、占拠された残党の拠点となっている。
レオンとスヴェトラーナは、身を低くして倉庫の影から様子を伺っていた。
「四人、銃持ち。中央に通信端末。あと……あいつ」
スヴェトラーナの声が低く、しかしどこか震えていた。
レオンが視線を向ける先に、男がいた。
制服の胸には、ロシアの将校章。
灰色の髪に浅黒い肌、鋭い眼光
その顔に、スヴェトラーナの身体がわずかに硬直したのを、レオンは見逃さなかった。
「知ってる顔か?」
「……あれは、イワン・フェドロフ。ロシアの内務軍にいた男。私が『拷問』と呼ぶのも生ぬるいほど、彼は……」
言葉を継がず、彼女は唇を噛み締めた。
レオンの拳に力が入る。
「奴は、あんたに何を?」
スヴェトラーナは黙っていた。
だがその沈黙が、答え以上にすべてを物語っていた。
「計画を変更する」
レオンがすっと立ち上がり、ナイフを構えた。
「レオン……あなたひとりで?」
「これは俺の問題でもある。あんたを女として辱めたその口を、黙らせるのは……俺だ」
潜入は計画的で、無駄のない動きだった。
倉庫内の敵兵はレオンとスヴェトラーナの連携で、ひとりずつ沈められた。
だがフェドロフだけは、最後まで立っていた。
そして、彼は見つけた瞬間にスヴェトラーナに向かって嘲るように言った。
「なんだ、あの時の犬が戻ってきたか? お前が女王気取りとは、笑えるな。あの夜、お前が俺の靴を舐めて」
パンッ!
乾いた音と共に、フェドロフの顎が横に弾けた。
殴ったのは、レオンだった。
「黙れ、クソ野郎」
レオンの目には怒りが宿っていた。
だが、その怒りは激情ではなく、冷たい火のように研ぎ澄まされていた。
フェドロフはナイフを抜き、襲いかかってきた。
レオンもまた、それに応じた、これは銃の戦いではない。誇りと記憶の決着だ。
一進一退の格闘の末、レオンはフェドロフの喉元にナイフを突きつけた。
「女を、二度と見下すな」
そのまま、彼の手からナイフをはじき飛ばし、
フェドロフは呻き声を上げて床に倒れ込んだ。
スヴェトラーナが近づく。
見下ろすその目には、かつての恐怖はなかった。
「……あなたはもう、過去の亡霊。私は、あの時の少女ではない」
彼女は背を向け、レオンと共にその場を去った。
ふたりは再び、隠れ家へ戻った。
戦いの疲労の中で、スヴェトラーナはいつになく静かだった。
「……助けてくれて、ありがとう」それは、彼女が初めて口にした、真の「礼」の言葉だった。
「あんたを傷つけた奴が、ああいう形でまだのさばってるのが、我慢ならなかった」
レオンは軽く肩をすくめて見せた。
「俺には……あんたがどんな理由で国を背負おうとしたのか、今なら少しだけ分かる気がする」
スヴェトラーナの瞳に、ほのかな安堵の色が灯った。
その夜、ふたりは身体を重ねることはなかった。
だが、それ以上に深いもの。
戦友としての信頼と、静かな感情の芽生えが、確かにそこにあった。
[newpage]
東スラブ共和国、郊外の軍用滑走路。
かすかに明け始めた空の下、レオンは燃料音の鳴る小型機のそばに立っていた。
薄い煙と油の匂いのなかに、ヒールの音が静かに混じる。
振り返れば、そこにいたのは、黒いトレンチを羽織ったスヴェトラーナだった。
「来てくれるとは思ってなかった」
レオンが軽く笑うと、彼女は無言のまま近づいてくる。
「警護はつけてないのか?」
「この滑走路を知っている者は、もう誰も生きていないわ」
あくまで淡々とした声。その内側にある決意を、レオンは感じ取った。
「…あんたも、逃げるべきだ」
「いいえ」
スヴェトラーナは静かに首を振る。
「私は、国を捨てない」
レオンが見つめると、彼女はわずかに口角を上げた。
「皮肉ね。私はあの部屋で、国家に使い捨てられた道具だった。でも……あの夜、あなたが言ったことを覚えている。それでも女として綺麗だって。あの瞬間、私は女であることも、人間であることも捨ててなかったって思えたの」
レオンは何も言わなかった。ただ彼女の言葉を、息を呑んで聞いていた。
「これから私は、表舞台には戻らないわ。政界の亡霊として、東スラブを裏から支える」
「…1人で?」
「いいえ。もう私には、人がいる。動いてくれる仲間が、少しだけ」
レオンの目が細くなる。
「あんたには、その力がある」
沈黙が流れる。
やがて、スヴェトラーナがふっと目を伏せた。
「……あなたには感謝しているのよ、レオン。だけど、それ以上は……」
「わかってる」
彼女が見上げた瞬間、レオンがゆっくりと歩み寄る。
そして、彼女の頬に、そっと唇を落とした。
驚いたように瞬きをしたスヴェトラーナが、わずかに息を呑む。
「この国を救えるのは、きっとあんただ。俺じゃない」
「……なら、あなたは?」
レオンは笑って肩をすくめた。
「次の地獄へ。あいにく休暇は短くてさ」
彼女の目が少しだけ柔らかくなり、
「…気をつけて」
と、ようやく別れの言葉を告げる。
レオンは何も答えず、背を向け、タラップを上る。
エンジン音が再び高まり、機体が動き出す。
滑走路の端に立つ彼女の姿が、小さく遠ざかっていく。
夜明けの光が彼女の横顔を照らす。
その目には涙はなかった。
けれど、心の奥で、確かに何かが始まっていた。
彼女は国家を選んだ。けれど、もう一度『人としての人生』を生きると決めた。
彼女だけの、静かな革命が始まった。
[newpage]
半年後…ワシントンD.C. 郊外の射撃場
射撃音が静かに鳴る。
標的の中心を正確に撃ち抜いたレオンは、ヘッドセットを外しながら、肩を軽く回す。
「最近、少し集中力が落ちてるぞ、ケネディ」
隣で監視していた上官が冷やかす。
レオンは乾いた笑みで返す。
「平和な時期が長いと、腕も鈍る」
けれど、それは嘘だった。
彼のポケットには、いつも折りたたまれた新聞の切り抜きが入っている。
表向きは「東スラブ共和国の農業改革」や「新設された教育庁」。
どれも政治の裏側を知っていなければ見過ごすような、地味な記事。
だが、レオンにはわかっていた。
その改革のどれもが、ある“亡霊”の手によるものだと。
同時刻:東スラブ共和国 政府庁舎・地下文書室
暗い部屋で、一人の女が資料に目を通していた。
黒のスーツ、落ち着いた口紅、眼鏡の奥の目は鋭く、それでいて疲れを帯びている。
秘書が扉の前に立つ。
「大統領顧問、例の書簡が届きました」
「ありがとう」
彼女、スヴェトラーナ・ベリコバは小さくうなずく。
受け取った封筒には差出人の名はなかった。けれど、差出人はわかっていた。
封を切ると、中には短い手紙と1枚の写真。
『相変わらず賢くて、美しい国家の亡霊へ。
俺は次の地獄で、また誰かを守ってる。』
写真には、どこかの国の子供たちと並んで笑うレオンの姿があった。
スヴェトラーナはそれを静かに見つめ、唇の端を少しだけ上げる。
「……馬鹿ね」
誰に聞かせるでもなく、優しい声でつぶやいた。
彼らは、国を越えて共に生きることはなかった。
けれど、互いに一夜の記憶を心の奥にしまい、
それぞれの地で、『誰かのために』戦い続けている。
あの夜の炎は、静かに心の奥で、まだ灯り続けている。