はじまり
「嗚呼っ……!」
夜の閨でのことだった。
男は、ふいに嘆くような力なき声をこぼした。
「きゃっ。ど、どうなさいましたの貴方? そのようなお声……なにか、虫でも見まして? それともおばけ? ふふ」
男の腕の中で、美しい妻が気遣わしげな眼差しで夫を見上げ、冗談めかして微笑む。
しかし、その愛らしい顔を見ながらなお男は狼狽えがちに目を泳がせた。じわりと浮かんだ汗を手首で拭うと、抱き寄せていた妻の体を離して身を起こす。
「す、すまない。急いで片付けてしまわねばならん仕事があったのを思い出した……今夜は失礼する」
「え……!? そんな、貴方、もう深夜も回っておりますのよ」
目を丸くした妻の視線から逃れるように男はガウンを羽織り、妻の寝室をそそくさと出て行った。
裸のままの彼女を残して……。
ーー
男は、レイズワード伯爵。正式にはレイズワード伯 ランドリュー・ローデンという。
歳は今年の冬で四十となる壮年で、この歳まで仕事一筋に王宮で働き浮いた噂ひとつなく、執政官として王の右腕よろしく名を挙げた。
しかし王が代替わりしたのを契機に、宮仕えを退き、領地の統治の仕事に精を出すことにしたのが一年前のこと。
そうとなれば奥方が必要だろう、と知人の紹介で出会った妻クローディアに一目で心を奪われた。
彼女は、ローデン卿から見れば驚くほどに若く瑞々しく美しかった。事実、彼より十五も下である。どう考えても不相応で、これは振られるに違いないと心が引き裂けるような苦しみに苛まれたものである。
「初めまして、レイズワード伯爵閣下。クローディア・サイレスと申します。不束な女ですが、もし貴方様さえよろしければ、どうか私をおそばに置いてくださいな」
クローディアは黒曜石のようにきらめく瞳で、一心にランドリューを見上げてそう言った。
「……な、……な、に……?」
ランドリューの口からこぼれ落ちた呟きは、感嘆とも疑心とも取れる声音だった。
器量も良い若い娘が、四十がらみの仕事一筋に生きてきたつまらぬ男にそうも気軽に心を許すだろうか。
ランドリューは分別ある理性的な男であった。先王からの信任厚く、右腕として彼の持つ知識と知見を大いに役立て国庫を豊かにし法を整え治安を良くした。
ランドリューはこれまで数々の不法者を見てきたのだ。小悪党から知能犯、実に様々に。
女とは男を騙したぶらかし、男は女を利用し搾取する。とにかく男女とは一筋縄ではいかず、人の好意にはいつでもなんらかの裏があると、すっかり猜疑心の塊のような男に、ランドリュー自身も気付かぬうちになっていた。
彼の地位を狙う者、脅かさんとする者が送り込んできた刺客の中には、色恋を武器に罠に嵌めようとする女も居たものである。
ゆえに、ランドリューは訝しみ、疑い、それでいてなお目を離せぬほどにクローディアの美貌に心を掻き乱された。
「閣下には寝耳に水のことで、さぞや困惑のことでありましょう。私を、財産目当ての婢女だとお思いになっても仕方ないとも思います。けれど……」
クローディアはそこで言葉を途切れさせた。陶器のように美しい肌にほんのりと朱が差して頬を薔薇色に染めている。長いまつ毛が影を作り、その向こうから揺れて潤む瞳が窺うようにランドリューを見上げていた。
ランドリューは……。
「うっ……ぐぅ!」
胸を抑えて膝をつき、激しく打ち付ける心臓の痛みに脂汗を滲ませ呻いた。
「た、大変! 顔色が真っ青に……だ、誰か、誰かお医者様を!」
クローディアが声を張り上げ人を呼び、医者が駆け付けるまでのその間、柔らかく温かい手がずっとランドリューの背中を撫でていた。
ランドリューは息苦しさに霞む思考で思ったのだ。
(騙されても良い……結婚しよう……)
そうしてランドリュー・ローデン卿とクローディア・サイレスは晴れて婚姻の運びとなり、領地の皆や先王含む宮廷からの列席者たちからも祝福され夫婦となった。
それが半年前の話。
つまるところ、彼らはまだまだ新婚ほやほやと言える関係であり、そして誰から見ても仲睦まじいこと確かであった。
レイズワード伯爵邸は、長らく当主不在のまま長年仕える執事とメイド長の采配によって屋敷の隅々まで整えられていた。
しかし当主不在の屋敷など、火の入っていない暖炉のように冷え冷えとしたものでもある。どれほど美しく調え、従僕やメイドを教育し、庭を綺麗にしても、迎えもてなすべき相手が居なかったのだ。
そこにきて王都から舞い戻った当主が、若く美しく明朗な奥方をも伴ってきたとなって使用人たちは活気付いた。
クローディアは闊達でさっぱりした気性の持ち主で、使用人たちの些細な仕事ぶりでも良く気付きよく褒めた。たちまちに皆がこの若く気立の良い奥方を気に入り、歓迎した。
当主はといえば、彼は気難しく偏屈なきらいがあったので、当初屋敷の中は随分とぎくしゃくしたものである。それもいつの間にかクローディアが取りなし、すっかり噛み合って回るようになったのだ。
ランドリューも、半年の間にすっかりクローディアへの疑念が消え失せ、身も心も虜になっていた。
よほど忙しい時以外は、ランドリューはいつも妻の寝室で朝まで共に眠るのが常だった。
ランドリューの領地は豊かで、彼の統治能力は国家の中枢で辣腕を奮っていた時同様完璧に近く、憂いはひとつも無いと言えた。
時折先王が訪ねて来て屋敷はもてなしにおおわらわとなったが、それも良い刺激となる。
ランドリューの元には王宮からの相談の便りや使者、また懇意の他領の主からの領地運営の助言を求める親書や招待が届き、宮仕えを辞しても身辺の忙しさそのものは変わることがなかった。
そして話はこの夜のことに戻る。
その夜は、ランドリューが是非にと請われて赴いた他領への視察から三週間ぶりに帰ってきた日であった。夫婦の夜も実に三週間ぶりだった。
ランドリューはクローディアを求めて逸る心に、年甲斐のなさを感じて恥じつつも、しかし愛しい妻をようやく抱けるという事実にすっかり浮き立っていた。
いたのだが、しかし。
(あっ、あぁ! どうしたことだ、なぜ……なぜ……)
お互い気分も高まりさあここぞ! というところで、ランドリューの方が折れた。途中で。突然に。
そして思わずこぼれたのが、
「嗚呼っ……!」
という嘆きであった。
(もう四十だ……決して若くない……しかし、初めて愛した女を、私は満足に抱くこともできずに老いていくのか……)
ランドリューはクローディアの部屋を出てふらふらと失意のままに自室に戻ると、秘蔵の蒸留酒を開けた。
(いや、それよりもクローディアだ。彼女はまだ若い。これからますます花開くはずだ。私のような年寄りの夫で、彼女が満足することなどできようか……嗚呼!)
ランドリューの心に薄暗い思いが沸々と芽生えていく。
(そうだ、元より無理のある結婚だったのだ……。私のような年寄りに、あんな若い女が嫁ぐなど。どうすれば良い、この邸には若い男もたくさん居るのに!)
グラスに次々と酒を注いでは、それをグビリと飲み干して。酔いが回ると共に不安な思いもより巡る。ランドリューの胸中は、いつしか妻と彼女を取り巻く男たちのことでいっぱいになっていくのだった。
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