時刻はそろそろ深夜を回ろうという頃、クローディアの寝室をノックする音が響く。
「は、はい!?」
ベッドに身を預け、本を読んでいたクローディアはよほど驚いたのか上擦った声で返事をした。
「クローディア……、私だ。……もう寝るところだろうが……少し良いか」
遠慮がちなランドリューの声が扉越しに聞こえてくる。
クローディアは本に栞を挟むとベッドサイドに置き、身を起こして鏡の前に立った。
シンプルなレースのナイトドレスにガウンを纏い、すっかり解いた長い髪を軽く整える。
「クローディア? もう寝てしまったか?」
「あ! いいえ!? いいえ、ごめんなさい、大丈夫です。はい、あ、でもちょっとだけお待ちになって!」
ランドリューの訝しむような声音に慌てて返事をしながら、リップグロスを塗り、簡単に白粉をはたく。それから頬紅を少し。
はぁ、と深呼吸をして、クローディアはゆっくりと扉に向かうとそっとそれを開いた。
「ど、どうぞ」
寝室にランドリューが来るのは随分と久しぶりのことだった。
否、まともに顔を合わせるのすら、ここ最近では珍しくなりつつある。
開かれた扉の前には、ナイトガウンを纏ったランドリューが、どこか所在なさげに佇んでいた。
鳶色の瞳はゆらゆらと泳ぎ焦点を明確にせず、クローディアに真っ直ぐ向けられることはない。
「貴方、旦那様? どう、なさいました? もう、こんな夜更けに……」
クローディアはいつまでも視線の交わらない夫の様子に微かに焦れたように、そっとガウンのあわせの襟を摘んで引っ張った。
その黒い瞳は一心にひたむきにランドリューに向けられているのだ。
「あぁ、……その。……先程は。いや、それ以前も。キツく言い過ぎた、ことをな、詫びに……」
それでもなおランドリューの視線はクローディアと交わらぬまま、どことなく要領を得ない物言いがクローディアの頭上に降ってくる。
ランドリューという男は、伯爵家に生まれた嫡男としていつなんどきも下にも置かぬ丁重な扱いで育った。
彼にとって多くの他人は目下のものでしかなく、遥かな高みから労いの言葉を稀に与えることはあっても、過ちを認め謝罪するということなどあり得ないことだった。
それは妻であるクローディアを相手にしてなお、厳然として揺るがない性質ともいえる。
あまりにも不慣れを極めたその言葉は、謝罪と呼べるものかも怪しかった。
が。
「貴方……私のことを少しでも気にかけてくださったのなら嬉しいわ。……きっと、なにか行き違いがあったのでしょう? もう仲直りよね」
クローディアにはそれで十分だった。
この稚拙な謝罪を受け入れて元の円満な夫婦に戻る、それがクローディアのなによりの望みでもあった。
クローディアの言葉に、ランドリューの視線がようやく落ち着き、これまた久しぶりに彼女に向けられる。
「貴方のお耳に入れておきたい話もあるの、ねぇ、だから……その、……あ、あの」
一緒に寝ましょう、と。ただ一言がしかしなかなか口には出せなかった。
(はしたない女だと思われない? お疲れの旦那様に変な気を使わせない? そんなの私から言わなくともそのおつもりではないの!? だとしたら女からお誘いしては面目を潰してしまうかしら……)
クローディアは躊躇い、悩み、恥じらい、慎みについて思考し、結局声に出せぬままじっとランドリューを見詰めることしかできない。
「く、クローディア……」
その黒く深い瞳に見つめられ、ランドリューもまた狼狽えたようだった。再び視線が泳ぎ出し、名を呼ぶ声は振り絞るように震えて掠れる。
ランドリューの手が、クローディアの肩に触れた。
「……クローディア、私は、……」
「貴方……ランドリュー様……」
その手も微かに震えている。クローディアの手がランドリューの手に触れた。こうして触れ合うこともまた、久しぶりだった。
「……クローディア。私の、不心得だった。君に、今までずいぶんと嫌な態度を……」
クローディアは何も言わずに小さく首を振り、重ねた手を引いて導くように寝室へとランドリューを誘う。
パタン、と扉が閉まる音を合図のように、ランドリューの手がクローディアの腰を抱き寄せ、二人はごく自然に唇を重ね合わせた。
ーー
深く、濃密に口付けを交わし合うと、久しぶりにランドリューの目元が和らぎ、クローディアを見つめる瞳もいつもの優しいものへと戻っていた。
(あぁ、良かった……)
クローディアはその鳶色の瞳に見つめられて、心からの安堵の息を吐き出した。
「もう、寝るところだったろう……クローディア」
ランドリューの指がこめかみに触れ、長い黒髪をクローディアの耳に掛けるように動く。慈しむようなその手に、クローディアもうっとりと微笑む。
ほんの微かなボタンの掛け違いめいたすれちがいは、これで元に戻る。クローディアにはそう思えた。
「しばらく、また忙しくなりそうでな。このままではならぬと、グイードにも……」
「そう、ですか。グイード様が……」
近頃の夫の態度がおかしい、とクローディアは彼に相談していた。それがなくとも、ランドリューとクローディアのぎくしゃくと不自然な様子は誰の目にも明らかではあったろう。
ランドリューに対等に意見や助言をできるグイードが訪れたのは、クローディアにとっては有り難く行幸なことだった。
「忙しい、とは? また、どちらへか視察に?」
「うむ……。……いや、君が知るべきようなことではない。ただ、しばらくは留守にすることも増えるだろうから、その間わからないことがあればルーグに聞くように」
ランドリューは言葉を濁す。その物言いは、妻のクローディアよりも執事のルーグの方に信を置いているようにも聞こえる。
執事のルーグは長年伯爵家に仕える、ランドリューよりも年長の実によくできた優秀な執事だ。十五も下の若い妻より頼りにされるのは仕方のないこととクローディアも頭では理解している。
いたが、胸の奥がチクンと痛むのも事実で。
眉を下げ表情を曇らせたが、ランドリューはクローディアのその様子には気付いていないようだった。
「そうですか、……はい、わかりました。お留守の間のことは、どうかお任せくださいな。……あ、それなら、やはり早くお耳に入れないと!」
気を取り直すようにパンと手を合わせる。ランドリューが眉を顰めて訝しむ顔をクローディアに向けた。
「これは、さる法師様にお聞きしたことで……その、……旧街道を行く途上で、恐ろしい魔獣の声を聞いた、と」
クローディアは、このようなことを言ったらまた夫が怒るのではないかとやや恐々と窺うように口にする。ランドリューは、僅かに目をみはり、更に眉を寄せた。
「どこの法師だ、そのようなことを。まさか、いたずらに吹聴して人心を惑わす手合いではなかろうな」
「そんな! いいえ、とんでもない、違います! 最近街の方にいらしたフィーリス教の法師様で……この事もほかのご婦人方を慮って私にだけこっそりと……。私から、貴方のお耳に入れて欲しい、と言われたのです。とても思慮深いまっとうな宣教師様ですわ」
ランドリューの剣呑な猜疑の視線に猛然と抗議するように、クローディアは熱弁を振るった。
ランドリューが宗教、特に友愛を奉じるフィーリス教を快く思っていないことは有名なことだったのだ。
「……そうか。……君が、そこまで言うのなら、そう、なのだろうな。……旧街道」
なお疑念の残る声音ながら、ランドリューは不承不承に頷くと、その思考は甘い夫婦の空気と時間を飛び越えて現実的な義務の方へと大きく傾いていく気配。
「あ、あの、貴方!? 今夜は、もう遅いわ!」
クローディアが慌ててその思考を引き戻すように声を掛け、ガウンの袖を引っ張る。
「あぁ……! ……そうだったな、クローディア。そうだった。もう遅い。……今夜は、もう寝るとしよう。明日も早い。……おやすみ」
ランドリューはなおも心ここに在らずという風情で、クローディアの額に口付けするとそそくさと踵を返した。
「え……」
そのままクローディアが何かを言う間もなく、寝室を出て行く。
「……そんな……。……やっぱり……私では、駄目なの?」
ひとり残されたクローディアは、淡く化粧をのせた顔を鏡に映し、落胆の声音が絨毯の上に落ちて吸い込まれていった。
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