※この作品はR-18です。

ある伯爵の懊悩   作:無能な葦

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ふれあう手

 探査の網を広げてから数日。

 

 ランドリューは借りた宿の一室で、各地から寄せられた情報を精査する作業をしていた。

 

 そうして見ると、魔獣のみならず不穏な噂は各地にあるのが知れた。思わず溜息が漏れる。

 

「しばらく仕事はないと申し渡しておいてなんだが、こうなると広く探査の目は必要だな」

 

 ランドリューは渋面のまま便箋とペンを取ると、数通の手紙をしたため封をする。それを宿の主人に朝一番の速達便の手配を頼んで部屋に戻ろうとした、その時。

 

(掛かった……!)

 

 ピリ、とこめかみに走る、自分の神経の末端に何かが触れたような鋭く不快な痛み。

 

「ご領主様、こんなお時間にどちらへ!?」

 

 突然踵を返し宿を出て行くランドリューの背に、宿の主人の驚いた声が飛ぶ。

 

「戸締りをよくして、もう休むことだ。帰りは日が昇ってからとなるだろう」

 

 そう言ってランドリューは厩に走り、馬子から馬を引き取ると旧街道へと駆け出して行った。

 

 

 

 夜も更けた時刻。街を囲う隔壁の門を抜ければ、やがて街灯もない暗い世界が広がっている。

 

 わずかな月明かりが浮かび上がらせる整備された街道を逸れ、今は久しく使われていない旧街道へとランドリューは馬を走らせた。

 

 しかしすぐに馬は怯えたように足を止める。

 

「リオレス、感じたか。……だが、もう少し頑張ってくれ」

 

 馬首を撫で、落ち着かせるように宥めて声を掛ける。

 

 辺りは黒い靄が立ち込め、息が詰まった。眩い月明かりがいつしか闇に閉ざされ光は遠くなる。

 

 グル、グルル、フシュゥウウ……。

 

 確かな敵意と、腐臭にも似た障気の臭い。ざり、と地を踏み削る鋭い爪の音。

 まさしくそれは、魔獣の気配だった。

 

「あの法師の話は、本当だったか……。だが、一匹か? どこかに綻びが生じつつあるのは確かなようだが」

 

 ランドリューは顎に手を添え、思考を巡らせる。

 

 呑気ともいえるその様は、はたから見れば隙だらけでもあった。

 

 ゾワリ! 障気が空気の流れと共に揺れ、魔獣の気配が一層濃くなる。

 

『ぎゃおおおおおあ!!』

 

 おぞましい雄叫びを上げ、暗闇に光る紅い眼を光らせて魔獣がランドリューへと飛びかかった。

 

 その瞬間。

 

 ドドドドドド! 無数の槍が地より伸び、魔獣の体を串刺しにしていく。

 

 ランドリューは、その場で微動だにもせず、槍に貫かれ苦鳴を漏らす魔獣を見た。

 

 黒い剛毛に覆われ、鋭い牙と爪を持つ、馬より大きな獣。背中にはトゲのような突起が並び、爬虫類めいた鱗の肌が毛並みの隙間から覗く。

 

 吐き出される息は生臭く、一息ごとに眩暈のするような障気が振り撒かれる。

 

「これは……身篭っているな……厄介な」

 

 串刺しにされながらなおももがき、抜け出そうとする獣の体から、ぼたりぼたりと溢れる血のような体液は、地に落ちてシュウシュウと煙を発し、大地を穢していった。

 

 ランドリューは眉を寄せ、片手で鼻と口を覆い隠しながら、もう片手で印を切る。

 

 バシュッ! その手振りひとつで、魔獣はその身を貫く槍と共に跡形もなく消し飛んだ。

 

「子を産む前に対処できたのは、良かったが……番で居るなら、……もう一仕事だな。リオレス」

 

 そう馬に語り、ランドリューは暗澹と立ち込める靄の中を進んでいった。

 

――

 

 夜が明けてすっかり明るくなったころ、ランドリューは宿へと戻って来ていた。

 

「ご領主様、ご無事で!?」

 

 一睡もせず夜通し待っていたらしい店主がそれを出迎える。ランドリューはかすかに眉を寄せて。

 

「無用の心配を……いや、まぁ良い。世話を掛けたな。昼には引き上げる。手紙は出したな?」

「は、はい。もちろんお言いつけ通りに。あの、朝食は……?」

「これから仮眠する。昼食の用意を」

 

 そう言い置くと、ランドリューは馬を預け借りた部屋へと戻って行った。

 

 夜通しの旧街道の探査と魔獣二匹の討伐は、四十路前の身にはいささか堪えるものだった。

 

 

 

 夕刻前、ランドリューは数日振りに自分の屋敷に戻っていた。

 

 先に湯を浴びて身を清め、書斎で一息ついていると、パタパタと慌てたような足音が近付きノックの音が響く。ランドリューは目を落としていた本から顔を上げ、不機嫌そうに顔を顰めながら返事をした。

 

「失礼致します、お帰りになられたと聞いて……」

「クローディア!」

 

 そっと扉を開いて顔を覗かせたのは、ランドリューの愛する妻クローディアであった。不機嫌に顰められた顔も一変し、ランドリューの表情が穏やかに緩む。

 

「申し訳ありません、貴方。せっかくのお戻りに、お迎えもできなくて……」

「いや、明確に予定の立たぬ外出であったからな。私こそ、報せも出さずに……」

 

 ふと、親密で穏やかな空気が室内を満たしつつあることにランドリューは気付いた。ここしばらくギクシャクしていたクローディアとの関係も、いつの間にか元に戻っているように思う。

 

 なおもまだ窺うようなクローディアの視線に、ランドリューが改めて微笑を浮かべて見せた。それに安心したのか、クローディアは書斎に入るとランドリューの腰掛けるソファの隣に腰を下ろす。

 

「旦那様、お疲れでしょう? 私、自分にできることがなんなのか、なにをしたら貴方が喜んで安らいでくださるか、よく考えてみたんです」

 

 クローディアがそう言いながら、ランドリューの手を取った。

 黒い瞳がじっとひたむきにランドリューを見つめている。

 

「く、クローディア……君が、私を? あぁ、いや。そうか。……いらぬ心配を、掛けてしまったか」

 

 クローディアの瞳には、かすかな不安の揺らぎのようなものが浮かんでいた。最近の夫の態度にクローディアも思い悩んでいたのだ、と今更にランドリューも気付かされた。

 

 彼女の白くしなやかな指が、ランドリューの筋張った手の甲に添えられる。そうしてその指先は、労るようにランドリューの手を撫でていく。

 

「クローディア……?」

「夕食の前に、簡単なマッサージを。……お嫌ですか? 貴方……」

 

 きゅ、とランドリューの手を両手に握りしめ、黒い瞳を上目遣いに見つめられると、ランドリューの心臓はドクンと強く打ちつけ跳ねた。

 

(嗚呼……クローディア……! そんな熱い眼差しで私を見るな……! く、苦しいッ)

 

 彼女と出会ったその日から、ランドリューには持病のごとき心臓の痛みが生じていた。医者は「恋の病です。年も年なので不整脈にだけ気をつけなされ」と呆れたように診断した。

 

 半年の結婚生活ですっかり落ち着いたように思えたこの痛みは、こうしてじっくりと見つめ合うことも久しぶりのためか再びぶり返したようだ。

 

「貴方……?」

 

 なにも答えず、ぐっと奥歯を噛んで苦悶を堪えるようなランドリューの表情に、クローディアがまた不安そうに瞳を翳らせる。

 

「ぐっ……! うっ。……い、いや。大丈夫だ、なんでもない。あぁ。なんでも。……それで、なんの話だったか。マッサージだったか? ウム。せっかくの君の心遣いだ、ありがたく受けよう」

 

 取り繕うようにまた微笑むと、クローディアもまた安堵したように顔を綻ばせた。

 

「はい、お任せくださいな、貴方!」

 

 クローディアは持参した小さなバスケットの中から、幾つかの小瓶や柔らかそうな布巾を取り出して準備をしていく。

 ランドリューはそれらをただ物珍しげに眺めているばかりだった。

 

 小瓶からはふわりと、心が落ち着くような優しく甘い香りが昇る。

 

 それはどこかで嗅いだことのあるような気もしたが、ランドリューにはすぐには思い出すことができなかった。

 

「さ、手を出して」

 

 小瓶から垂らされたオイルがクローディアの掌に小さく水溜りを作る。

 

 言われるままに甲側を出したランドリューの、その手をひょいとひっくり返して、クローディアのオイルの沁みたしっとりと柔らかい掌がランドリューの掌と重ねられた。

 

 二人分の掌の体温に、オイルからはより濃厚な香りが立ち昇る。

 

「この香りには、心身の緊張を解きほぐす効果があるのですって……。それで、手に馴染ませながら、優しく一本ずつ指先まで広げて。指の股の間も。優しく、撫でて擦るように……」

 

 クローディアが口で説明をしながら、その通りにランドリューの手にオイルを染み込ませていく。小指の根本から、凝りを解すように擦りながら爪の先まで。それを丁寧に丹念に一本ずつ繰り返す。

 

「クローディア……」

「わかりますか、貴方。指先からほかほかと熱が……。それに、しっとりとしてきたでしょう?」

「あ、あぁ。そう、だな……」

 

 クローディアの言う通り、脂気の少なくかさつきがちのランドリューの手指はしっとりと潤った。

 指先から温められ、それは手首、肘と伝ってやがて全身に広がっていくかのように感じられた。

 

 クローディアのよく整えられた爪がオイルに濡れて艶めく。五本の指がランドリューの手の指と絡められ、ぎゅうと握り締めていく。

 

 ランドリューは、この何日も心身を支配していた奇妙な恐れや緊張が、ゆっくりと解きほぐされ溶けて消えていくような心地良さを覚えていた。

 

「貴方……ランドリュー様……」

 

 クローディアが両手でランドリューの手を包み込み、鳶色の瞳を覗き込むように見つめる。

 

 ランドリューは再び心臓がギュウと締め付けられるような鼓動の早まりを感じながら、潤む黒い瞳と艶めく唇に目を奪われた。

 

「クローディア……」

 

 クローディアがそっと目を閉じる。ランドリューもそれを合図に、抱き寄せて唇を重ねた。

 

(嗚呼……私はなんと愚かだったのか……! ただ愛おしい者を抱きしめ口付けする、それだけでこうも満たされていくとは……)

 

 クローディアの柔らかな唇の感触に、ランドリューは身も心も満たされ、そしてより深くクローディアを求める欲もまた芽生えつつあるのを自覚した。

 

「……そろそろ、夕食の時間だ」

「……そう、ですね」

 

 惜しむように唇を離して、ランドリューは言った。

 クローディアの長い睫毛が伏せられる。

 

「今夜は、寝室に行きたいと、思うが……良いか、な」

「! えぇ、そんなこと。もちろんですとも、聞くまでもなく」

 

 クローディアの顔がぱっと明るく輝いてランドリューを見上げる。頬を薔薇色に染めたその表情に、ランドリューはほっと安堵の息を吐いた。

 

「そろそろ着替えてこなくては。貴方、また夕食で」

 

 オイルの小瓶を片付けながら立ち上がるクローディアに、ランドリューも頷いて。

 

「そういえば、君に、こんな特技があったとは知らなかったな……」

「まぁ、特技だなんて。いいえ、私も最近教えて頂いたんです。ほら、あの例のフィーリス教の法師様に。このオイルもあの方から……頂いて……、貴方、どうかして?」

 

 なんの気なしに尋ねたランドリューは、クローディアのその言葉にすっと顔色を失くした。眉がキリキリと寄っていく。

 

「……いや、そうか。私の、ために。ありがとう、クローディア……」

「? ……え、えぇ。それでは、また夕食で、貴方」

 

 訝しげにクローディアも眉をかすかに寄せながら、オイルを入れたバスケットを抱え書斎を出て行った。

 

 その背を見送りながら、ランドリューは額を抑える。

 

「嗚呼……クローディア……」

 

 その胸中は複雑で、ランドリューはただ低く呻いた。

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