黒い靄が濃く深く、小さな村を覆い尽くしている。
屋敷から速馬を乗り継ぎ走らせること一昼夜。小さな村を一望できる丘の上に突貫工事で作られたのだろう簡素な掘立て小屋に、ランドリューは居た。
「早かったな、ランディ。風の魔法でも使ったかい」
「かもしれんな。……グイード、具合は」
明るい橙色の髪に顎髭、右目に刀疵走らせた伊達男は、肩から腹までを包帯に覆われた姿でランドリューを出迎えたのであった。
「なに、擦り傷さ。……しかし、ちょいと意想外なことだったよ。予想じゃもっと東の方の国境近くだろうと踏んでいたんだがな」
グイードはかすかに眉を寄せ、苦々しげに溜息を吐いた。
「にわかに魔獣の群れが沸き出し、村を襲う……か。代替わり直後は多少……封印の力も不安定なものではあるのかもしれんが」
ランドリューもまた、苦々しく険しい顔をした。
話は少しばかり遡る。
昨夜のことだ。クローディアとのささやかな交流を得てなんとか気を持ち直し、いよいよ奮起しいざ寝室へ! と心を決めたランドリューのもとに、普段は沈着冷静な執事のルーグが大慌てで駆け付けてきた。
「旦那様! 旦那様!」
「なにごとだ騒々しい……」
これから寝室へ、というところで出鼻を挫かれた形になったランドリューは、たいそう不機嫌な顔で執事に鋭い眼光を向けた。ただの使用人程度なら震え上がり失神すらしかねない眼差しであったが、執事は怯むことなく報せを告げた。
「大変なことにございます、チサナ村が魔獣の群れの襲来を受けシーヴス様がお怪我をなされたと……!」
「なに……!」
それは、ランドリューも予想だにせず、そして思った以上に重大な事態の急報であった。
「それで、グイードは無事なのか。馬の用意は?」
「報せの入ったと同時に万事言い付けております、すぐにもお出になれるかと……」
「……。そうか。クローディアには、君から伝えておいてくれ」
「お会いにならないのですか……?」
魔導師のローブマントを身に纏い、宝玉をあしらった杖をベルトに吊るした出立ちで支度を整えたランドリューは、ルーグの問いに複雑そうな顔をした。
「後のことは頼んだ」
言葉少なに告げると、ランドリューは馬を駆り、広い領地をほぼ横断するような形でグイードの元に辿り着いたのであった。
(嗚呼……なんと間の悪いことだ。おのれ、こうしている間にも、あのおぞましい友愛の法師がクローディアに毒牙を向けようとしているやもしれぬのに……!)
一昼夜馬を走らせる間、ランドリューの心中はクローディアとそれにまつわる不安で覆い尽くされていた。
「それで……魔獣の群れとはどの程度のものだ。まさか、おまえが遅れをとるなどとはにわかには信じ難いことだがな、グイード」
小屋の小さな窓から外を覗く。眼下に見える村があった場所は、いまやおぞましい黒い靄に覆われて、肉眼ではなにも見えない状態だった。
グイードはわしゃわしゃと明るい橙色の髪を掻くと。
「いや、ま。なにぶん突然のことでな。いくら俺とて、剣の代わりに女を抱いていては……なぁ?」
ランドリューの眉間の皺が深くなった。鳶色の瞳は絶対零度の冷たさをもってグイードに向けられる。
それを軽く肩を竦めて受け流しながら、
「だが、俺を引き留めるほどの女があったればこそ、この村は死者も出さずに逃げ延びられたのだぜ。こいつはまさに天空神バークスの思し召しだろう。はっは!」
グイードはあっけらかんと言い放った。
なんとも呆れるような物言いではあったが、事実でもあったろう。予定ではグイードはこの村を一昨日には発って、もっと辺境の方へ足を伸ばしているはずであった。もしその予定通りであったなら、この村は魔獣の襲撃を受けて村人ごと壊滅していたに違いない。更にそれを報せるものもなく、魔獣の被害はもっと広がることになっただろう。
ランドリューは溜息を吐くとともに目頭を揉み解した。
「ともかく、数は多いが俺とアンタの敵じゃあないさ。……だが」
「穴を塞がんことには、いまある分を叩き潰したとしても……。小さな綻び程度であれば私ひとりでもどうとでもなろう」
「そうだな。さっさと終わらせて……あ、そうだそうだ。奥方と仲直りはできたのか?」
服を着て鎧を着けながら、グイードはふいに思い出したようにランドリューを見る。ピクリとランドリューの眉が片方だけ吊り上がった。
「……まぁ、な」
仲直り、したといえばしたのだろう。久しぶりに良い雰囲気だった。この魔獣騒動がなければ、きっと昨夜は……。
(だが、本当に、そうか……?)
ランドリューの心に掛かるのは、やはりフィーリス教の法師のことであった。
クローディアが施してくれたアロマオイルによる手のマッサージ。あれは確かに快く、ただ手が触れ合い指先を絡めているだけだというのに、穏やかな心地とそれとは裏腹な官能めいた感覚を呼び起こされた。
それを、クローディアは法師に教わったという。では、あの親密に手指を重ね合わせ絡み合わせる行為を、法師にされたということなのではないか? そう考えると、どうしようもなく心がざわめき、冷静ではいられなくなる。
庭師や御者との妄想など、所詮有り得ない空想でしかない。だが法師は? もしもクローディアが、まだ若い妻が友愛などというたわけた教えに惑わされ、感化され、流されるようなことがあったら……。
「ランディ? おぉいランディ。ランドリュー。レイズワード伯爵!」
「! な、なんだ、人の耳元で大きな声を……!」
グイードの大声に、ハッとしながらランドリューは耳を押さえた。グイードはやや呆れたような顔をしてしいる。
「随分と恐い顔で心ここに在らずだったからよ。どうも心配事が尽きんようだな、伯爵殿は。ほら、ならばなおのこと、さっさと片付けて奥方の元へ戻るがいいさ」
だから働けよ、と言外に含ませてグイードはニヤリと笑った。
――
丘の上に佇むランドリューは、宝玉をあしらった杖を地に突き立て片手を添えて、黒い靄に覆われた村であった場所を見下ろした。
片手を掲げ手のひらを靄に向ける。
「ℵ℥ℜℋℛℛℌ℟ℭ℟℟ℶℷℸℷ」
ほとんど口を開くことなく発されるのは言葉とも音声ともつかぬ、不可思議な空気の振動のような音。
魔導師が使う魔術の発動はこの独特の音声言語によってのみ行うことができるのである。
突き立てた杖の先端から光が亀裂のように迸り黒い靄の中に伸びていく。その光の筋は瞬く間に黒い靄全体を縛り上げるような網の目状になって、「ガァァア!」「ギャワン!」と獣めいたおぞましい苦鳴の声が聞こえてきた。
「相変わらず地味だが見事な手並みだな。それじゃ、俺は取りこぼしを頂くとしよう!」
脇でそれを見ていたグイードが気楽に言うと、ざぁっと滑り降りるように丘を下り、靄の中に突っ込んでいく。魔法の網にとらえられ、光の鋭い槍に貫かれた魔獣の姿があちこちに横たわる中、辛くも難を逃れた何頭かが怒り狂いながら靄の中に入ってきた異物たるグイードに襲い掛かる。
剣を引き抜き様に右からの魔獣を切り捨て、返す刃で左の魔獣を切り捨て、更に背後から飛びかかる魔獣をターンしながら切り捨てていく。グイードの剣の腕は国一番と評されるほどのものであった。
恐るべき魔獣の群れは、たったふたりの魔導師と剣士によってあっという間に鎮圧された。
「やぁ~終わった終わった。さすがに数が多いからな、俺ひとりではさぞかし取りこぼすことだったろう」
黒い靄は魔獣の絶命と共に更に濃く深くなる。魔獣の穢れた魂は、死してなお不浄を振り撒く厄介な性質を持っていた。それゆえに鎮圧後にもランドリューにはまだ仕事が残る。
「グイード、まだ元気があるなら、このまま綻びを見つけ穴を塞いで来い」
靄を払い、大地を浄化するためには時間がかかる。放っておけば旧街道のように荒廃し長らく人も野生の獣も住めない土地になってしまうのだ。
ランドリューには領民の生活を守る義務があった。今のうちに可能な限り村を浄化し、また新たな別の土地を与えて再建の目処を立たせる必要がある。
その為には魔獣の沸き出る魔界との繋がりを潰すことは不可欠でもあった。
「おいおい、本気か……? 俺はアンタの部下ではないんだぞ、ランディ」
「……私の所領で好き勝手しているのだろう? ならばこのくらい働いてもバチは当たるまい」
「好き勝手ってなぁ。ま、俺はどこでも好き勝手生きるタチだがな。うん。……わかったわかった! そう睨むなよ、乗り掛かった船だしな」
ランドリューの手がうっかり滑って痛烈な魔法の光を喰らう前に、グイードは請け負って頷いた。
――
「そう、旦那様はまだお戻りにはなられないの……」
屋敷では、ランドリューから急ぎ届けられた報せをクローディアが聞いていた。
魔獣の群れの襲撃とグイードの負傷という急報にランドリューが発ってから、早くも五日ほどが経とうとしていた。
クローディアは黒い瞳を翳らせ、溜息を吐く。
(法師様の言っていたのは本当なのね、国中のあちこちで少しずつ魔獣の被害が出始めているって……)
先王の時代に築かれた平和が、その退位と共に綻びを見せつつある。
(やっとお忙しい責務から解放されたというのに、旦那様……)
クローディアの眉根が寄る。
(私ったら、領民や国のことより、自分のことを心配してる。浅ましいこと。こんなだから、旦那様に嫌われてしまったの……?)
ランドリューの心も体も、少しずつ離れていくようで、クローディアは唇を噛んでその不安な想いを押し殺すのだった。
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