クローディアは度々街へ出掛けることが増えていた。
夫のランドリューはあの夜、ふいに怒ったように出て行ってしまってから頻繁に外出している。
数日ほど留守にしたり、夜遅く帰宅して朝早くには出て行くというような生活で、クローディアと顔をあわせることはないままだった。
屋敷のことは主に執事によって取り仕切られ、クローディアのやることといえば厨房長と一週間の献立を相談する程度であったが、当主は留守がちで来客などの予定もないとなるとなんともやり甲斐を感じられないのだ。
街に出て婦人会の会合に参加したり、チャリティバザーや炊き出し、庶民のための祭りの計画などにささやかに口を出すくらいしか時間を潰す手立てもなく、なんとなく漫然として鬱屈した日々が続いていた。
(どうしてこんなことになってしまったのかしら……。旦那様にとって私はなんなのかしら……)
以前は、クローディアはランドリューからの情愛を感じられていた。不器用ながらも真摯に、慣れないぎこちなさで愛を紡ぐその声も眼差しも、クローディアの心を満たすには十分だった。
それがいまや、寝室に訪れることはなく、ようやく来たかと思っても興が削がれたとばかりに出て行かれてしまう。こうしたことの積み重ねは、クローディアの心にひどく堪えた。
「奥方様……どうなさいました、お顔の色が優れないようですが」
公民館の奥の一室、友愛を説くフィーリス教のささやかな祭壇の前でクローディアと若き法師ローリスは語らっていた。
「いいえ、なんでも。……それより法師様、今度の街のお祭りに出し物をされる、という話は本当?」
「えぇ。私はフィーリスの教えを説くために旅をしておりますが、友愛の教えとはなによりもその土地に馴染み溶け込むこと。お祭りはもってこいの催しですから」
「そうねぇ、たしかにそうだわ……」
ローリスの言葉に納得し、仄かに口元に笑みを浮かべる。
「それで、奥方様にはご許可を頂きたいと思いまして……」
クローディアは思案げに睫毛を伏せ、ローリスが入れてくれたお茶を飲む。フィーリス教。夫のランドリューはどうもこの教団を快く思ってはいないのはクローディアも察している。しかし、領主の個人的な好き嫌いを理由に、婦人会からの信頼も厚くローリスの参加を期待しているだろう多くの街の人々――特に女性陣――のことを思うと、却下も申し訳なく思える。
(難しい問題だわ……)
ふぅ、と一息ついて。
「少し考えさせて頂けますか、法師様。あなた方のことを否定するわけではありませんが……」
「いえ、構いませんよ。ただ、色好いお返事が頂けますことを祈っておりますね、奥方様」
ローリスもまた、クローディアの逡巡を察してくれたのだろう。その理由も。柔和に微笑む青年の蜂蜜色の瞳に、クローディアはほんの少し気持ちが和らぐような気がする。
「では、また……」
クローディアはそう言って立ち上がり、公民館を後にした。
夕暮れ色に染まる街のレンガ敷きの大通りを歩きながら、クローディアは賑わうその風景を眺める。
急ぎ足に家路を辿る者、これから飲みに行こうとパブを目指す男たちの集団、花束を抱えて緊張した面持ちの青年など。
活気に溢れた街で、クローディアは奇妙な寂しさを覚えてふと立ち止まった。
そこは小さな細い路地の入り口で、薄暗く、仄かな秘密の気配のようなものを感じられた。
それはもちろん、クローディアのただの空想に過ぎない。路地を覗き込んだとしても、見つかるのはせいぜい野良猫が良いところだろう。
事実、覗き込んだクローディアはそこで黒い猫の爛々と光る目と合った。猫は一瞬びくりと立ち止まり、それから逃げるように暗がりの奥へと逃げ去っていく。
「あっ……わるいことしちゃった。脅かすつもりなんて、なかったのよ」
眉を下げ、寂しい気持ちがより高められた気になりながら待たせている馬車に向かおうとしたその視界の隅に。
「……!?」
クローディアは思いもよらぬものが映ったような気がして、振り返った。
(うそ……ランドリュー様!?)
いつもの質の良い外套ではなく、粗末なフード付きのローブを身に纏ってはいたが、フードの下に僅かに見えたその顔は確かにランドリューのものだと思えた。
大通りの道路を挟んだ向こう側、路面に張り出したカフェテラスのような造りの店のテーブル席で。
(どうして……まるで、人目を憚るみたいに……)
向かいの席に座るのは、スカーフを頭に巻いた品の良い淑女風の女だった。
その光景にクローディアは衝撃を受けた。
信じられなかった。
何かの間違いだと思う。
それを確かめたくて、髪を崩しスカーフを巻いて頭巾のように顔を隠し足早に彼らのそばを通り過ぎていく。
ちら、と、フードの下の顔をもう一度確かめて、よく似た別人だと信じたかった。
(薄い茶色の髪……目の下のほくろ……あぁ、間違いないわ)
クローディアの心を、嵐が吹き付けた。
その足で公民館にとって返したクローディアは、ローリスに祭りで催しを開くことを許可した。
「例の話、許可します!」
「お、奥方様……!?」
扉を開けるなりものすごい剣幕で告げられたその言葉に、祭壇に向いて祈りを捧げていたローリスが面食らったように目を瞬かせる。
「あ、有り難いことですが、どうなさったのですか、突然」
「どうもなさいません! それでは。お祭り楽しみにしておきますね……!」
憤然と言い放つクローディアの様子に、ローリスはそれ以上何も言うことができず、深々と礼をして見送るばかりだった。
――
「信じられない……! あのランドリュー様が……! やっぱりグイード様と仲良くできるだけの器があったんだわ……!」
ワァっとベッドに突っ伏し枕に顔を埋めながら、クローディアは心の中を激しく渦巻く怒りとも哀しみともつかない感情に荒れた。
それはグイードには失礼な言いようでもあったが。
「どうして……やっぱり私じゃダメだったのかしら……。どんなに頑張っても、本当のお淑やかな慎しみ深い女にはなれなかったということ?」
ランドリューの向かいに座っていた女性からは、楚々とした、それでいて聡明で落ち着いた雰囲気があった。
クローディアは、自身がそうしたものとは遠い位置にあることを自覚している。
「それでもランドリュー様に相応しいレディたろうと頑張ってたのに~浮気なんてひどい!」
ボフッと枕を叩いて身を起こす。
と、そこに控えめなノックの音がした。
「あの、ぼ、僕のような者が直接奥様にお目通り願うのは、大それたこととはわかっているのですが……」
濃い茶色の癖毛にそばかす顔の少年が、緊張した顔で立っていた。
クローディアは黒い瞳を瞬かせ、辺りを軽く見渡してみる。誰もいない。執事のルーグやクローディアの侍女などの目を盗んできたのだろう。
「シオン、だったわね。どうしたの?」
本来なら叱責するべきことである。しかしクローディアには、そうする気は起こらなかった。
「あの、これ……!」
シオンはバサッと薔薇の花束を差し出して言った。
「花瓶のことを、ルーグさんや旦那様に内緒にして頂いて……なにか、お礼をしたくて……僕……」
クローディアはまた驚いたように目を見開き、表情が緩んでいくのを感じた。また同時に、荒れていた心までも、ほろほろと溶けていくように感じられて。
「まぁ、嬉しいわ。ありがとうシオン。……本当に、嬉しい」
クローディアは花束を抱きしめて、シオンに微笑むのだった。
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