日もすっかり暮れたころ、ランドリューは屋敷へと戻った。
出迎えた執事のルーグが恭しく外套を取り、杖を受け取り、一礼して。
「何か、お飲み物をお持ちしましょうか」
「あぁ……そうだな……体が温まるものを」
そう告げて書斎へと向かう。
ランドリューは全身に重い倦怠感を覚えていた。
街全体を使った大掛かりな仕掛けに、ひとりで対処したのだから当然ではあったが。
(若い頃なら……この程度で……)
年齢を重ねていくごとに、できることも知識も経験も増えたが、それらを行使するための根本的な体力という点では衰えていくばかりだ。
(魔導を極めた者ほど、理を踏み外しがちなのも……理解はできる……)
強力な魔導師ほど、晩年は若返りや不老の術に傾倒し身を持ち崩す者が古来より少なくない。若い頃はそれを愚かなことだと冷笑すらしていたランドリューも、今やその愚かしくも悲壮な願望に理解と共感を抱きつつあった。それがまたひどく気分を落ち込ませもする。
これもまた大掛かりな魔術の行使のあと特有のものとも言える。魔導を扱うということは精神も大きく消耗するのである。
(……あぁ、クローディアは、まだ怒っているのだろうか)
昨夜、祭りへの参加を頭ごなしに禁じたことで随分と怒らせてしまった。
ランドリューの帰宅に顔も見せない。そのことを思うとランドリューの疲労感はますます募り、眉間の皺も更に増えていった。
「おかえりなさい、貴方」
「! く、クローディア……なぜここに」
書斎の扉を開くと、本来そこには居るはずのない妻の姿があった。
にこりともしない硬質な表情と声音で、クローディアはランドリューを迎えた。
「ここで待っているのが、一番確実だと思ったの。貴方と話すためには」
そう言って目を伏せるクローディアの手には無地の黒表紙の本。そのしなやかな白い指がなにも書かれていない表面を無感情に撫でていた。
「そ、それは……な、なぜ君がそれを……!?」
ランドリューは目を瞠り、息を呑んだ。ドッと冷や汗が吹き出して指先が冷えていく。軽い目眩すら覚えて、ソファに座るクローディアへ足早に近づく。
「ま、まさか……」
続けるべき言葉を、ランドリューは決めあぐねたように呻いた。クローディアは目を伏せたまま、ランドリューを見ることもしない。
「ごめんなさい貴方……。レイズワード伯夫人としてあるまじき、盗人のような真似を致したことは謝罪します」
クローディアの言葉に、ランドリューは再び呻いた。責めるべき点を先制で封じられたような心地だ。
「み、見たのか……」
ようやく絞り出したランドリューの言葉に、クローディアはこくりと頷いた。無言。重苦しく気まずい沈黙が落ちる。
コンコン、とそれを破るノックの音にランドリューはひどく狼狽えた。
(あぁ、ルーグか……しかし……)
飲み物を持ってきたのであろう執事の入室を許可すべきか否か、逡巡する。いつまでも黙っているのを見兼ねたのか、クローディアがランドリューを見上げて軽く小首を傾げた。
「ルーグさんでしょう? 早く迎えてあげないと可哀想よ」
もう遅いのだから、と。クローディアの言葉は至極真っ当でなんのおかしなところもなかった。ランドリューは頷き、ルーグに入室を許可する。
入ってきたルーグは、室内の妙に緊張した空気とクローディアの存在に面食らったようだった。しかし彼は経験豊かな、実に心得た執事であったので、すぐさま彼の仕事を遂行すると何事もないかのように静かに退室していった。
仄かに香るスパイスの滋味豊かなホットワインを残して。
「お疲れでしょうから、長話にはいたしません。ね、貴方、お座りになってはいかが?」
いつまでも突っ立ったまま、としか言いようのない状態だったランドリューに、クローディアはそう言って向かいのソファを示す。その声音はやはり硬質で、ひどく儀礼的な、どことなく空虚な響きをしているようにランドリューには聞こえた。
筆舌に尽くし難い複雑極まる心境で、しばらく躊躇したあと、しかしランドリューはゆっくりと腰を下ろす。
クローディアの視線はずっと伏せられたまま。ランドリューの視線も落ち着きどころを失って泳ぎ続け、とうとう夫婦の視線は交わることがなかった。
――
その永遠にも続くかのように思われた沈黙を、先に破ったのはクローディアだった。
「貴方……ランドリュー様……」
テーブルの上に黒表紙の本を置き、ずっと伏せられていた目がランドリューを見据える。その黒い眼差しは、まるで深淵のように濃く深く、何を思い考えているのかランドリューには推し量ることも難しかった。
「……」
ランドリューは沈黙していた。
置かれた黒表紙の本を一瞥し、ひどく顔色を失くしていく。
「見た、のか……」
中を、と。ようやく言った。ランドリューのその言葉に、クローディアは頷いた。
「く、クローディア、違うのだ……それは……!」
「違うって、なにが?」
クローディアはまた首を傾げた。その顔はいかにも不思議そうだ。
「貴方のことですもの、もっと私をお責めになるのかと思いました。……勝手に書斎を漁って、人の日記を見るなどと……」
クローディアの言葉に、ランドリューは虚を突かれたような思いがした。言われてみれば全くその通りである。そもそもなぜクローディアはそんな真似をしたのか。ランドリューの顔は険しいものになっていった。
「……。……クローディア。まさか、君は……やはり……そう、なのか」
「そう、って?」
クローディアは更に不思議そうな、困惑した様子を見せる。
「君が……、まだ若く、美しい君のようなひとが……なぜ私の元に嫁いでくれたのか。……地位、財産……でなければ、……あとは、諜報」
ランドリューの声は徐々に震え、消え入るようなものになった。
その立場からランドリューにはこれまでも縁談や、そこまでには至らずとも火遊びの誘いのようなものは少なからずあった。その中には色恋を使っての諜報を企てた誘いもあったろう。
しかしランドリューは慎重で冷静で、尚且つ色恋に対して常に冷笑的態度を取っていた。それが功を奏してか、ハニートラップのようなものに引っかかることもなくこれまでやっても来た。
クローディアを紹介された時も、実のところそれが地位や財産目当てならそれでも構わないと思ってはいたのだ。貴族の婚姻に必要なのは愛や情ではなく、政略と打算、血統である。そう思っていたのに、ランドリューは一目で恋に堕ちた。
それが判断を誤らせ思考を鈍らせたのではないか、と悔いすらある。
(だが、ならば納得もいく……こんな歳上の男にわざわざ嫁ぐのは……)
打算でもなければおかしいではないか。とひどく納得もできる。
(しかし、これが諜報活動というのならば……)
ことは自分ひとりの問題ではなく、場合によっては国の根幹を揺るがすことにもなりかねない。
深刻に沈思していくランドリューは、この時気付いてはいなかった。
テーブルを挟んだ向こう側で、クローディアの表情が怒りに震えていることに。
「も、もう……いいかげんにして……!」
バシン!
黒い表紙の本が舞う。それは強かにランドリューの顔に叩きつけられ、そうしてバサリと開いて落ちたのだった。
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