レイズワード伯邸は、まるで火が消えたように暗かった。
「奥様が出ていかれたって……」
「あら、ご旅行でしょ? 古い友人の結婚式に向かわれたと聞いたわよ」
「それは表向きのことよ! 本当は旦那様が追い出したって……」
「えぇ~!? アタシは奥様が怒って出てったって聞いた!」
「やっぱりねぇ、いつかこうなると思ってたよあたしゃ。歳が離れすぎてるし、あの旦那様だもの……」
「ご領主様にはいいけれど……ねぇ」
「ふふ……」
使用人たちの食堂では、さざめくようにヒソヒソと噂話が花を咲かせる。
あの後すぐ、クローディアは朝を待って屋敷を出て行ったのだった。
――
「旦那様……」
それはまだ早い時刻。
クローディアと言い合いにもならない言い合いをしてからほんの数刻。
ランドリューは書斎のソファに座り込み、茫然として過ごしていた。
手も付けずそのままだったホットワインはすっかり冷めて、放り出されたままの黒表紙の本もそのまま。
そこに執事のルーグが深刻な表情と共にやって来て、低い声で囁くようにランドリューに呼び掛けた。
「……なんだ」
頭痛でも堪えるような険しい顔で応えたランドリューに、ルーグはひどく痛まし気な顔をする。
「こちらを……」
言葉少なく差し出す一枚の便箋。ランドリューは顰め面のままそれを受け取り開いて、目を見開いた。
「……! ま、まことか。これは……」
そこには、クローディアからの暇乞いの言葉が綴られていた。
「今朝早く、夜も明けぬ内に……とのことにございます」
「侍女と御者はグルか!」
「旦那様……」
主人の怒りが使用人に向くのを咎めるようなルーグの声音に、ランドリューはぐっと呻いて堪えた。
「……そうか。……そう、か」
ランドリューはそう言うと、ソファに座ったまま軽く目を閉じる。
「わかった……。クローディアはしばらく旅行に行ったということに。今は……」
「畏まりました……。なにか、お飲み物は?」
ランドリューは力なく首を横に振るばかりだった。
――
祭りの飾りがまだ残る街の一角。
クローディアは、簡素なドレスの上からすっぽりと体を覆う外套を着込み、帽子をやや目深に被った旅装姿。伴うのは侍女のフェザーひとり。
「奥様……これからどちらへ行かれるおつもりですの?」
トランクを手に後を続くフェザーが、クローディアに尋ねる。クローディアの足取りは、まったく当てのあるものとは言えないものだった。
「そうね……そこなのよね、問題は……」
「何も決めずに出てこられたのですか?」
あからさまに呆れたような声音と溜息にクローディアは振り返って言った。
「だって……! 仕方ないじゃないの。もう頭がどうにかなりそうだったんだもの! あのままお屋敷に留まっていたら、私……私……思い余って旦那様を張り倒してしまったかもしれないわ。わかるでしょう!?」
クローディアの飾らない物言いに、フェザーはまたもや溜息を吐いた。
「途中までは共感も致しますが……張り倒すとなると……」
わかりませんわ、と淑女然として微笑むその侍女の顔に、クローディアは口を噤んだ。
(これじゃあ、どっちが主人だかわからないじゃないの)
こほん、と空咳をひとつ。クローディアは外套の裾を捌いて。
「とにかく、どこか落ち着く為に宿を取りましょう。……考えが纏まったら、その時はまた言うわ」
クローディアの選択肢は、そう多くはない。
このまま屋敷に戻り仲直りをするか、はたまた実家に帰るか、それとも。
(王都……)
ひとりで生きていくのなら、仕事の多い王都に行くのが一番ではあるだろう。
そうした考えもよぎりはしたが、それは同時に心が切り刻まれるような痛みも伴った。
――
「旦那様は、今日も食事はいらないと……」
「えぇ!? またかい!? そんなこと言ってもう三日目だよ、若くないんだから。このままじゃぶっ倒れちまうわ」
「それは……そうだが……」
厨房。執事のルーグと厨房を取り仕切るコックのハボンとの遣り取りだ。
「せめてスープくらいはお召し上がりになられないと。あぁ、奥様がいらっしゃらないだけでみんなヤル気をなくしちまってまぁ~!」
コックのハボンは嘆くように両手を上げひらひらと手を振る。大仰な仕草ではあったが、素直な気持ちの表れとも言えたろう。
ルーグも弱り果てたような渋面で。
「できるだけ栄養豊富なスープを頼む……」
「胃にも優しくしておこうかね」
「あぁ、それが……良い……」
厨房でそうした話がなされている、その通りに。
クローディアが暇乞いの手紙を残して出て行ってから三日、ランドリューはずっと書斎に篭りきりで、飲まず食わずで過ごしていた。
見兼ねてルーグが何度か食事や飲み物を運びもしたが、一切見向きもせずもちろん手もつけられることなくそのまま。
髪はボサボサと乱れ張りも艶も失われ、放置した三日分で髭も伸びて顔付きは一層険しく病的ですらあった。
目の周りを濃い隈に縁取られ、そうして何をするでもなく。
たまに本を開いたり、手紙を読み返して整理をしたり、領地の地図を開いて眺めてみたりとその行動には脈絡もなかった。
「旦那様……どうか少しだけでも……」
コックが精魂込めて作った栄養豊富で澄み渡るスープが、湯気と共に鼻孔をくすぐる良い香りを漂わせる。
「いらぬ」
しかしランドリューの返答はにべもない。
「しかし……旦那様……」
なおも言い募るルーグに、しかしランドリューはもう返事もしなかった。
ルーグは諦め、テーブルにスープを置いて書斎を出て行く。
埃を被ったような陰気な書斎に、温かいスープの香りが混ざっていった。
「クローディア……」
ランドリューはふと、痛切に思い出す。
あれはいつだったか、子供の頃のちょっとした病の話になった時のことだった。
「うちでは、風邪を引いたときだけ食べられる特別のデザートというものがあったんですよ」
「特別のデザート……? ほう、それは……どのような?」
「卵とミルクと、野苺のソースを使った……。でも、私は風邪なんてほとんど引かなくて。兄弟の中で一番元気だったんです。だから……」
ちっとも食べられなかったの、と笑うクローディアの顔。腕の中に抱き締めながら、とりとめもない話をする時間を、ランドリューは気に入っていた。
昔ならば考えられない。意味のないやりとり、つまらない話など時間の無駄と断じていた男が、クローディアとはそうしたささやかな話を随分と楽しんだものだった。
「クローディア……あぁ、私は……私は……」
なぜそんなことを思い出したのか。
おそらくはこのスープだったろう。体を壊したとき、コックが作る特製スープ。それはレイズワード伯家に脈々と受け継がれるレシピに寄るものだ。曽祖父の代の奥方が、病弱な我が子を案じて考案したとも伝わる。
ランドリューも小さな頃から寝込むたびにこのスープを飲んできた。
「クローディアも、一度食べてみたいと……言っていたな……」
ランドリューも大人になってからは殆ど体を壊すことがなくなり、クローディアも健康そのものであったので特製スープの出番はこれまで無かったのだが。
「クローディア……クローディア……クローディア……」
ランドリューはその場に座り込み、頭を抱えて蹲る。
酷く胸が苦しく呼吸がし辛い。
繰り返し名を呼ぼうとも、戻って来るはずのないことを頭の隅では理解しながら。
「どうすれば良い……クローディア……私はどうすれば……」
どうしたら許してくれるのか。
答えのない問いを空に投げかける。
返ってくるのは狂おしいほどの沈黙。
無音だけがランドリューに突き付けられる。
「嗚呼……!」
終わりだ。と、袋小路に迷い込んだ思考は正常な判断ができないまま。
ふいに。
コン、コン、と控えめなノックの音がした。
ランドリューは身を起こし扉を振り返る。
ゆっくりと開かれた扉の隙間から、そろりと入り込んできた人影に、ランドリューはそのまま大きく目を見開いた。
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