腰まである、波打つ艶やかな黒髪。
ガウンを羽織ったその下は、柔らかな生地のナイトドレスが美しい体に添って、特に豊満な胸を強調している。
「く、クローディア……?」
ランドリューは、狼狽え、驚き、震える声でその名を呼んだ。
「はい、貴方……。……ごめんなさい、私ったら……あんなことで怒って……貴方を、こんなにも悲しませるなんて……」
長い睫毛に縁取られた、濃く深い漆黒の瞳が潤みを帯びながらランドリューを見つめた。
赤い唇が、ゆっくりと弧を描く。微笑み。
「嗚呼……クローディア……戻ってきてくれたのか……」
ランドリューは立ち上がり、否、そうしようとしてふらつきよろけ、手を突いた。
「まぁ、貴方。もう随分と寝ていないのでしょう? 今は、眠った方がいいわ。私は……もう、どこにも行きませんから」
クローディアが駆け寄り、よろけたランドリューの手を取って心配そうにその顔を覗き込む。
すっかりやつれた頬を撫で、無精髭の顎筋を辿り、目の下の濃い隈に隠れたほくろをなぞって。
「ね。貴方」
微笑みを深くする。
「あぁ、クローディア……」
ランドリューもまた、つられたように表情を緩めた。
ふ、と体から力が抜け、猛烈な疲労感と眠気とに襲われて、ランドリューは、しかしどこか安心したような顔でそのまま眠りに付いた。
――
「お、奥様!? い、いつの間にお戻りに?」
書斎の寝椅子で横たわり、こんこんと眠るランドリューの傍に椅子を置いて座るクローディアの姿に、様子を見にきた執事のルーグが驚きの声を上げる。
クローディアは、そっと人差し指を唇の前に立てて、静かにというジェスチャーをした。
「は、……ぁ、これは……失礼……」
ルーグはこの時になって眠る自分の主人に気付いたようだった。
「ついさっきよ。何も言わずにいてごめんなさいね……ルーグさん……。旦那様のことは、しばらく私に任せてくださる?」
ランドリューの高い鼻筋を撫でながら、クローディアが言った。
ルーグは。
「……。……畏まりました。では、何かあれば、いつなりとお呼びください……」
物言いたげな間を挟みはしたものの、一礼して下がる。
「あ、奥様……一緒に連れて行かれた侍女のフェザーさんは?」
「彼女なら……しばらく暇を出したわ。振り回してしまって悪いことをしたから、ね」
左様ですか、と呟いてルーグは今度こそ退室する。
その表情はどうにも苦々しく、奇妙な胸騒ぎを覚えたかのように険しいものだった。
――
それがいつなのか、今が朝なのか夜なのかすら判然としない中、ランドリューはうっすらと目を開けた。
その傍に、椅子に座っているクローディアが見える。
ほ、と安堵の息を吐く。
「クローディア……」
「はい、貴方。お目覚めになられたのね……? スープを召し上がる? ……それとも」
寝椅子に横たわるランドリューの肩に、クローディアの手がかかる。ガウンを脱ぎ去り、薄手のナイトドレス一枚の姿で、クローディアはランドリューの上に跨った。
「く、クローディア!?」
「貴方は……こちらの方が、お望みではありませんか……ランドリュー様。……ねぇ? もう、私たち、随分と長いこと……」
してないわ、と。赤い唇が艶然と弧を描き、白くしなやかな指がランドリューのシャツのボタンを外していく。
上気した肌は桃色に染まり、黒い瞳は淫らな光を宿してランドリューを見つめている。
ゴクリ、と喉仏が上下して、ランドリューは大きく唾を飲み込んだ。
「私は……貴方のことを思うだけで、もう、こんなにも……濡れているのよ……ランドリュー様」
クローディアがランドリューの手を取り、導いて行く。
絹の下着の内側に指が届き、ぬるりと滲み出る蜜に触れた。
「あっ……、ん……旦那様……」
クローディアが官能の声を漏らす。
取ったままのランドリューの手をゆっくりと動かして、自らの秘部を夫の指に擦り付けた。
クチュ、クチュ、と淫靡な音が暗く静まり返った書斎に響く。
「あん……貴方……あなたぁ……」
少しずつ蕩け、舌足らずになるクローディアの声。
ランドリューは。
「クローディア……、嗚呼……クローディアっ……!」
堪らず、というように身を起こし、柔らかいクローディアの体を抱き締めた。
股間に確かな熱の高まりを感じながら、ランドリューは、クローディアの赤い唇に口付けをする。
「ん……」
その瞬間。
ぞわぁ、ぁ、あ……。
書斎の中を一気に膨れ上がる、濃く、暗い、闇の蠢動。
「! っ……!」
怖気の走るような鮮烈なまでの邪気に、ランドリューは我に返ったように体を離した。
「ふ、ふふ、ははは!」
クローディアは、ひどくおかしそうに笑い出していた。
「あっはっはっは! やった、やった! とうとう捉えたぞ、ランドリュー・ローデン。魔導の天才と謳われた男も、なんということはない。所詮はヒトの子だったな!」
クローディア。否、クローディアの姿を象った何者かが笑いながら言った。
ランドリューは、口を開き、閉じ、また開く。
「……!」
声が出ない。
目の前で、闇のうつろう形なき悪意が、ニタリと笑う顔を作り出す。
「晩節を汚したなぁランドリュー。恋に狂って穴を開くとはぁ」
ケタケタと嘲弄が、さざなみのように闇を震わせる。
(わ、私は……まんまと悪魔のまやかしに……? こんな、子供騙しのような罠に……)
悔いたところでどうにもならないのが現状だった。
声を封じられては、魔導の術の行使はできない。
ゆえに魔導師は常に身辺には細心の注意を払うものであり、風邪の予防にも余念はないものだった。
それが。
まさに悪魔の言う通りであった。
恋に狂い、正常な判断力も失い、みすみす屋敷の中に悪魔を招き入れた。
(……いや、まて。いつからだ!?)
この悪魔の、クローディアへの擬態。昨日今日のことではないはずだ。
不意に、脳裏で何かが音を立てて繋がっていく。
領内で起こった魔獣騒動。
フィーリスの法師による大規模な儀式。
それらが全て、ただの陽動に過ぎなかったのだとしたら……?
あの大掛かりな儀式すら、最初から対処されることを念頭において、屋敷に潜り込んだ何者かが機を見計らっていたとしたら。
ランドリューとクローディアのすれ違いそのものは偶然だとしても。
「今更……気付いても、あとのまつり」
ランドリューの思考を読んだかのように、悪魔はまた笑った。それはどこか憐れむような。
「仕上げは上々、あとは結果をご覧じろ!」
しゅうっ! と悪魔の姿が形を変えていく。確かな質量を持ったそれは。
(こ、この子は……ルーグの預かった……)
シオン、だった。
濃い茶色の癖毛、そばかすの浮くまだまだあどけない少年の顔立ち。
しかしその瞳は、魔性の光を強く宿して赤く煌めく。
いつの時点か。この屋敷に来た最初からか。シオンはすっかり悪魔に魅入られ、取り込まれていたのだろう。
悪魔たちは直接には人界に干渉することはできない。しかし時折、波長の合う者に取り入り、意のままに操り、虎視眈々と門を開く時を狙っているのだ。
ランドリューは、己の甘さ、愚かさを悔いた。
ルーグの紹介だからとろくに精査もせず、結果屋敷の中を自由に悪魔の息のかかった者に動き回らせ、そうして今、自らの失態で窮地に陥っている。
「さぁ、門よ、今度こそ開かれる時!」
シオンの体を借りた悪魔が、興奮気味に腕を広げ言った。
「∮∮∬¢⌘〻⊿§∮∮∮」
魔力を乗せた特殊な発声。元よりそれは魔族たちの言語そのものとも言える。
その力ある声に呼応し。
ドッッッ……ォォオン――!
屋敷が震えた。
書斎に渦巻く闇、のみならず。
屋敷のあちらこちらに施された悪魔の直伝の呪詛が力を得る。
恐るべき魔性の力が屋敷全体を覆い、大きく震わせ、空気を邪気で染め上げていった。
――
「きゃあ!?」
「な、なに、急になんなの!?」
「落ち着いて、すぐに外へ……」
使用人たちは突如起きた地鳴りと音に、そしてゾッとするような寒気の走る空気の変化に恐怖し混乱していた。
メイド長が落ち着かせ、使用人たちを外に誘導する。
「あぁ、君たちは無事か……!」
「ルーグさん、そちらは?」
「厨房の方も皆外に……しかしシオンが……それに旦那様たちも……」
「旦那様なら大丈夫でしょう、それよりシオンは心配ね」
「とにかく君たちは皆外へ……私は旦那様たちとシオンを探してくるから」
ルーグが再び階上へと向かおうとした時、更なる地鳴りが起きた。
「いけませんルーグさん! はやく外に出ないと……こんな、こんな恐ろしいこと……門が開こうとしているのよ、私たちじゃ何もできない!」
メイド長が悲痛な声を上げる。
彼女の言う通りだった。
門が開けば、恐ろしい魔獣がすぐさま屋敷を覆い尽くし、そこに居る人間を喰らっていくだろう。
上階から充満して使用人たちの居る下階まで押し寄せてくるその暗黒の瘴気は、吸ってしまえば常人など簡単に死に至らしめられてしまうものでもあった。
ルーグは歯噛みし、しかしメイド長が言う通り外へ出て行くしかできなかった。
「旦那様……」
せめて頼りにできるのは、魔導に精通した主人のみ。
祈るようにそうこぼして。
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