黒表紙の日記帳をランドリューの顔に叩き付けたクローディアは、憤然として立ち上がり、キッと睨み据えた。
ランドリューは眉を寄せて高い鼻筋を押さえ、痛みに呻いている。
「な、なんという……ことを……」
顔に本を投げつけるなどと。ランドリューにはあまりにも意想外のことであったのだろう。クローディアはしかし、フンと鼻を鳴らして。
「その程度で済んだことを幸運と思うべきよ、貴方。ランドリュー様」
ランドリューは、困惑したような顔で視線を上げるとクローディアを見上げた。
(あぁ、驚いてる……おとなしくて素直で弁えた歳下の妻、の態度が豹変したと思っているんだわ……)
クローディアは思いのほか冷静にそんなことを思う。
内心はぐつぐつと煮えたぎり、どうにかなってしまいそうなほどに哀しくて悔しいのに、そのくせしんしんと冷えていくような心地でもあった。
ただ喉が詰まり、ツンと鼻先が痛くなる。
震える拳を握りしめて、ぐっと奥歯を噛み締めなくては、やはりすぐにも涙が溢れ出てきそうで。
「……クローディア」
ランドリューは、なおも困惑を隠しきれない風情で、名を呼ぶその声は微かに揺れる。
「君を、……」
そこから先、ランドリューの言葉は続かなかった。果たして何を言おうと思ったのか、クローディアには推し量ることもできない。
そもそも、ランドリューを理解することがひどく困難だった。
クローディアもまた、混乱していたのだ。
――
話は少しだけ遡る。
せっかくの祭りだというのに、レイズワード伯家の使用人たちは皆ランドリューに休暇を許されず、屋敷は平常通りに動いていた。
しかし使用人たちの仕事ぶりは見るからに精彩を欠いており、それを注意すべき立場にある執事のルーグやメイド長らも、よほどでない限りは使用人たちの心情を慮ってか見て見ぬふりをした。
どうせランドリューは屋敷を留守がちで、そう隅々まで注意しては見ないのだ、という心算もあるだろう。
「お、奥様……ほ、本当に、なさるのですか……」
書斎で、濃い茶色の癖毛をふわふわと震わせながら、シオンは戸惑いや恐怖といった風情を乗せた声音で言った。
「やるわ」
対するクローディアは、決然として頷く。
「シオン、貴方には申し訳ないけれど……でも責任は全て私が取るから、なにも心配しなくていいのよ」
「は、はい……でも……いったい何を探せば?」
クローディアは少し考えるような顔で、書斎を見渡した。
頑丈そうで、さぞ高級であろうしつらえの書斎机と椅子。主に屋敷内でランドリューがいつも居るのがここであった。
それからソファとテーブルのセット、壁中を覆い尽くす書棚。仮眠や本をゆったりと読むための寝椅子。そうした調度品が並ぶ部屋。
「やっぱり……机、よね……」
鍵付きの引き出しまである。何か、人に見られたくないものを仕舞うのにはおあつらえ向きなようにクローディアには思える。
心を決め、クローディアはシオンにも手伝ってもらいながら書斎机を隅々まで探したのだった。
そうして見つけ出したのが、件の黒表紙の日記帳。
(これ、きっとこれだわ……ここに、もしも、あの人とのことなんて、あったら……私……)
どうすれば良いのか。
クローディアはなおも心を決めかねて、恐る恐るとページを繰っていったのだった。
日記には、日々の徒然としたことが短く綴られ、時に交流のある者たちについての覚え書きなどが記されている。所々では、クローディアとの会話内容や過ごしたことなども記されていた。
(……これ、もしかしたら、私の勘違いだった?)
捲れども捲れども怪しいものはなにもなく、なんとなればノルデン夫人どころかその他の女の影ももちろんひとつもない。
ふ、と息を吐き、クローディアは苦笑した。
(ダメね私。ランドリュー様を疑うなんて……そうよ、あの方に限って……グイード様とは違うのだもの)
クローディアはそこでページを捲る手をふと止めた。
(でも、それなら……なぜ、急にあんなによそよそしく……?)
クローディアは再びページを捲る。その手は素早く、ランドリューの態度が変わったあの日を探した。
そうして。
バサッ……!
「奥様……!? どうされました」
突然日記帳を取り落としたクローディアに、それまで様子を気にしつつも掃除や片付けをこなしていたシオンが気遣うような顔を向けた。
クローディアの顔は、青くなったり赤くなったりとせわしなく、ひどく動揺してもいて。
(なに……どうして……)
取り落とした日記帳を再び拾って、几帳面な文字がびっしりと並ぶそのページを読み直す。
そこには、クローディアの知らない、まるきり身に覚えのないクローディアの秘密が書き綴られていたのだ。
その内容はいかがわしく、淫らで、そうしてなによりも不名誉なこととしか言いようがなかった。
日記帳を持つクローディアの手に力がこもり、小刻みに震える。
「奥様……?」
「……。……シオン、えぇ、ありがとう。貴方の、おかげよ」
「お顔の色が優れませんよ、少しお部屋でお休みになってください。ここの始末は僕がしておきますから」
元よりシオンが命じられた仕事でもある。クローディアがいつまでも居ては邪魔にもなるだろう。そう思えば、クローディアはシオンの申し出をありがたく受け入れた。気を抜くと今にもその場にヘナヘナと崩れ落ちてしまいそうで、クローディアは必死に気を持ち直しながら書斎を後にしたのだった。
――
そうして今に至るのだが。
結局のところ、クローディアにはやはり理解できていなかった。
「貴方……それは……、どうしてそんなものを……? 貴方は」
クローディアは、口にするのも憚られる内容に口籠もり、深呼吸をひとつして。
「私が、誰にでも体を許す軽い女だと、そうお思いだったのですか……?」
クローディアの声は震えていた。顔は歪み、悔しさに歯噛みする。
あまりにも侮辱的過ぎる内容は、クローディアの自尊心を傷付けるには十分だった。
「それは……いや、そういうわけでは……」
ランドリューの答えは、しかしこの期に及んでいかにも煮え切らず、クローディアをますます傷付ける。
「では、どういうわけだと……!? 私は……私が……っ」
ふいに限界が訪れたように声が詰まった。
クローディアの視界で、苦悩したようにいつまでも険しいままのランドリューの顔がじわりと歪んでいく。
堪え切れなかった大粒の涙が、はらはらとこぼれ落ち、クローディアの頬を濡らしていった。
「く、クローディア……」
それにはランドリューも狼狽えたようだった。思わず立ち上がり、おろおろと、どうしたら良いのか決めあぐねたように手が宙を泳ぐ。
クローディアは自分で涙を拭き、キッとランドリューを睨み付けた。
「私が、哀しいのは……悔しいのは……、貴方が、ほんの一欠片でさえ、私を信じてくださらなかったこと……」
ランドリューはクローディアの眼差しに怯んでいるようだった。
クローディアは構わず続ける。
「私が……どれだけ貴方を想っていても、貴方はそれを少しも信じてはくださっていなかった。受け取ってはくださらなかった。それが……わかってしまった……」
「クローディア……そ、そのような、ことは……私は君を」
「好いてくださったのですよね。貴方の眼差しも、声も、手も、私を好きだと伝えてくれたから。私も信じていたんです。嬉しかった、幸せだった。……だから、哀しいの」
一度口を閉じ、クローディアは目を伏せる。
「私はいつも、貴方にとって良き妻でありたいと思っていました。貴方に相応しい女であろう、と……。でも、もう……ごめんなさい」
ふいに、どうしようもない失望に襲われて、クローディアは空虚を感じた。
ランドリューを見つめる。その眼差しにもやはりただ狼狽えるだけの夫、に。
「さようなら、貴方」
それだけを告げて、出て行こうとした。
「く、クローディア……待て! 待つのだ、それは……それは、なんだ……まさか……り、離縁しようと、言っているのか? 君は……」
クローディアは眉を顰めた。
苦笑が浮かぶ。
「少し、考えさせてください……」
この期に及んでなお、ランドリューを嫌えない、見限れない己に呆れながら、クローディアは追い縋るようなその声を無視して書斎を出て行った。
「どうせ、追ってなどこないのよ……」
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