ド、ド、ド、と屋敷は鳴動する。
溢れ出る暗黒の障気は、空に渦巻き今や屋敷全体を覆い尽くしていた。
庭に逃れた使用人たちは皆、なす術なくそこに立ち尽くしおぞましい黒い空を見上げて。
「お、おい、いつまでもここにいちゃ危ないんじゃないか?」
「もっと遠くまで逃げた方が……」
やがて誰かがそう言うと、少しずつ伝播する狂想と共に彼らは駆け出そうとする。
「待ちなさい……! 闇雲に逃げ回っても、どうなるか……馬と馬車を支度して、みんな乗って行くんだ」
「ルーグさん……でも、それじゃ旦那様たちは」
「今はそれどころではない……だが、旦那様がきっと、なんとか……して下さるはずだ……だが、逃げたい者は逃げなさい。できるだけまとまって、協力して……」
と、ルーグがいつも通りの低く威厳ある声音で、今にもパニックを起こしそうな使用人たちを宥めつつ言う。
「きゃあ!」
しかしそれも、恐ろしげな唸り声と悲鳴に断ち切られた。
『グルルルルル……』
屋敷から溢れ出た障気が広がり、そこから生じたおぞましい魔獣が一頭、使用人たちの方へと向かってきていた。
「嗚呼……! もうおしまいだ!」
「いやぁ、助けて……!」
あっという間に詰められていく距離に、逃げようにも竦んだ者たちの足は思うように動くことすら出来ず、ある者は立ち尽くしある者は尻餅を付く。
魔獣はタンッと飛び上がると、一番若い女の使用人に飛び掛かっていった。
――
ドッ……! ガシャァン!
ランドリューの体が大きく弧を描いて空を飛び、テーブルの上のスープ皿や水差しなどを薙ぎ倒しながら床に転がっていく。
ビュッと風を切る黒い無数の触腕のようなモノが、暗黒の障気に満ちた書斎の中で蠢いていた。
「ランドリュー、心配しなくていいぞ。すぐには殺さん。……じっくりと痛振りながら、じわじわと魂を侵してやるのだからなぁ……クックック」
シオンを取り込んだあの悪魔は、今やすっかりと本性を曝け出し、無数の触腕を操るおぞましい怪物となっていた。
ずるり、ずるり、と足代わりの無数の触腕を蠢かしながら、投げ飛ばして転がしたランドリューの元へ近づく。
本体よりも先に、長い触腕の方が再びランドリューを捉え、キリキリと締め付けながら持ち上げた。
「……!」
声をすっかり封じられたランドリューには、呻き声すら発することができない。ただ、ミシミシと軋む全身の骨に、苦悶に顔を歪めるばかりだった。
「無様だなぁ……護国の要の魔導師様もかたなしだ……つまらん女にうつつを抜かしてこのザマとは……これだから人間は……ククッ……憐れよな」
悪魔のゆらめく黒い霧のような姿が、形を作り、嘲弄する顔を作り出す。
苦悶に歪むランドリューの顔にぐっと顔を近づけて、悪魔は瘴気を吐き出すその口から吐息を吐きかけた。
「だが、甘露。……貴様の潤沢な魔力、魔導の知見、記憶、なぁにもかもが最高の馳走なのは間違いない……幸運だったなぁ。見ものだったぞ? 貴様らの愚かなすれ違いっぷりなどなぁ。ククッ」
(おのれ……声が、声さえ出せれば……この程度の小物……!)
ランドリューはギリと歯噛みした。
声さえ、とは言えど、その声を封じられるほどまでに敵の接近を許したという時点で勝敗は決しているといって過言ではなかった。
魔導師の戦いとは、呪文を発する時には既に決していることがほとんどなのである。
敵に知られぬように入念な下準備を行い、仕掛けを施し、機の熟した時を見計らって発動させる。だからこそ常に油断は大敵であり、本来ならば誰のことも疑ってかかるべきであった。
(この私が……)
まさに失態極まる状況であり、そしてもはや挽回の余地すら無いかのように思えた。
おぞましい悪魔の無数に蠢く触腕が、ぞろりとシャツの裾から入り込み、ランドリューの背中を撫で上げて行く。ゾッと肌が粟立つ。
「……!」
ランドリューは嫌悪と怒りと驚きに目を瞠り、眼前の悪魔を睨み付けた。
「恐れるなよランドリュー……。痛みと快楽は同根なのさ。吾とひとつになるのだ、身も心も魂も」
悪魔の狙いは、ランドリューそのものである。シオンをそうしたように、否、それ以上の強固さを持ってこの悪魔はランドリューを取り込もうというのだ。
そうして名高い魔導師の、栄えあるレイズワード伯の地位と名誉を根こそぎ奪い、この領地を拠点として魔界の地脈を広げようという魂胆であろう。
それはランドリューにも既に予測できていたことである。あったが。
(冗談では……ない……!)
というのが正直な気持ちだった。
しかし、身を捩って逃れようとしても、凄まじい力で体を締め上げられた状態では如何ともし難い。
ゾワゾワと肌を這い回る無数の触腕のなすがままを許すしかできず、そんな我が身が厭わしくすらあった。
(いっそ……舌を噛み切って……)
ランドリューには、まだひとつだけ秘中の秘ともいえる策があった。
自分の命と引き換えに発動する魔術。
発動キーは音声ではなく、心臓の停止によるもの。
どんな魔導師も、いざという時のためにそうした秘術を施しているものだった。
しかし、確実な心臓の停止、それを決して悟られず、即座に行うには舌を噛み切る方法では悠長に過ぎるのが実際である。
思惑を気付かれ、延命措置をされればより一層の危機を招くだけだった。
(やはり……)
万事休す、だった。
――
ザンッ!
飛び掛かる魔獣の鋭い爪が、若い使用人の柔肌に突き立たんとしたその時だった。
『ギャンっ……!』
魔獣の苦鳴が短く漏れたかと思うと、その体が斬り捨てられ地に落ちる。
「!?」
誰もが驚きに目を見開き、言葉を失った。
「無事ね? 旦那様はどこ!」
颯爽と馬を駆ってやって来たクローディアが、剣一閃で魔獣を斬り捨てながら使用人たちを振り返り言った。
「あ、……あぁ、まさか……お、奥様……?」
茫然としてルーグが呟く。
「しっかりしなさい! 旦那様はどこ!」
「あ、お、おそらく、まだ……書斎、に」
狼狽えながら述べるルーグに、クローディアは頷くと馬を降りた。
「この子をよろしく。もうすぐグイード様が到着するわ、貴方たちは彼の指示に従って」
グイードが来る。その言葉に皆が一斉に安堵した様子を見せた。
「奥様……どちらへ!?」
しかし、クローディアが屋敷の方へ走り出すのを見てルーグが慌てて声を投げる。
「中は既に魔獣と瘴気で溢れかえっております、危険です、あまりにも無謀な……!」
必死のルーグの声を背に、クローディアはなおもその足を緩めることなく屋敷の中に飛び込んで行く。
「奥様……!!」
使用人たちの、悲鳴にも似た声が重なった。
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