ランドリューの体を、無数の黒い触腕が這い回る。
肌蹴られたシャツがその触腕に絡め取られ、緩められたベルトからズボンと下履きが引き摺り下ろされていく。
封じられたせいで声もなく、ランドリューはその状況を奥歯を噛み締め必死に耐えることしかできなかった。
障気の中に、時折見えるのはすっかり取り込まれた少年のまだあどけない顔。
今はシオンの身体を媒介にこの世にしがみつく悪魔は、より強力な身体を求めてランドリューに文字通りの魔の手を伸ばしていた。
「クック……少しは力を抜いたらどうだ?……もう手遅れなのだ、それならいっそ楽しんだ方が得だぞ? あぁ、それとも……“こっちの方が”具合がいいか?」
嘲るようなその声と共に、悪魔の姿が変わって行く。
波打つ黒い髪に瞳の、女の姿。
(クローディア……!)
ランドリューは更に歯噛みした。
クローディアの姿を模した、しかし彼女とは似ても似つかない醜悪な化け物は、なおも無遠慮に無数の触腕でランドリューの身体を撫で回していく。
すり、すりり、と。それは、いつかクローディアが施してくれたマッサージとよく似た動きではあった。だがそれでいて、似ても似つかぬ不快感を齎す。
「まぁ、貴方……そんな怖い顔なさらないで。ねぇ? 私が、よくしてあげる。本当はずっと、そうして欲しかったのでしょう? 旦那様……」
クローディアの顔と声で、悪魔は語る。触腕ではなく、人の手の形を取ったそれが、四肢を締め上げられまるで自由にならないランドリューの体に触れて、その胸板をツツと撫でていった。
「……!」
ゾワリ、とランドリューの体に不快感と、それだけとは言い切れない何かが走り抜ける。
捕らえられたまま、微かにびくりと震えた体に、クローディアの顔がにこりと微笑んだ。
「やっぱり、私でないとダメなのね……貴方」
クローディアの顔と声でそう言って、ペロリ、と舌先がランドリューの胸の飾りを舐める。
「……っ!!」
声が封じられていなかったら、或いは声が漏れたかもしれない。ランドリューの身体がびくりと跳ね、背が仰け反った。
ペロ、ペロ、チュウ……と、その舌は何度もそれを舐め、転がし、不意に吸い付く。再びゾワリと駆け抜けていく怖気にも似た痺れに、ランドリューは恐怖を覚えつつあった。
(嫌だ……嫌だ……! こんな……っ)
ただクローディアの姿を象っただけのものに、しかしどうしようもないほどに身体は反応を示す。
嫌悪と恐怖がランドリューの胸中を嵐のように吹き荒れて。
「怖がらないでくださいな、旦那様……。私がよくしてあげる……ねぇ、ひとつになるのよ……私たち」
恐れに揺れる鳶色の瞳を覗き込み、クローディアの顔と声が言った。
その手が、半端に勃ち上がりつつあるランドリューのソレに触れ、やわやわと撫でさすりながら握り込む。と同時に、蠢く触腕が身体を這い回り、ランドリューの脚に巻き付きながらその身体を割り開いていく。
「……!」
「大丈夫よ、旦那様……ふ、ふ、ふ」
ゾワゾワと後ろを這い回る触腕の先と、前を握り込みながらやわやわと扱き上げるしなやかな指の感触に、ランドリューは目を見開いた。
全身が粟立ち、総毛立ち、嫌悪感が爪先から頭の天辺まで貫いていく。
にも関わらず、身体はそうではなかった。
ぬる、と触腕の先が割り開いた脚の間から、後ろの穴を撫でていく。ゾクリとした感覚がそこから腰を貫いて、四肢を締め上げられた不自由な身体はビリッと痺れるように震えて跳ねる。
「これで、すっかり終わりにしてあげるわ……貴方……」
ぐ、と触腕の先が力を込めて。
クローディアの顔がランドリューの顔にぐっと近付き、唇が重ねられようとした。
その時だった。
ドッ……ガァン……!
書斎の扉が弾け飛び、魔獣の体が吹き飛ぶように部屋を横切って壁に叩きつけられる。
「な、なんだ!?」
突然の轟音と、ギャンっという苦鳴の声に驚いたように悪魔が振り返った。
「貴方……ランドリュー様……! ご無事ですか!?」
そこには。
すっかり解けた長い黒髪を振り乱し、破れたのか破ったのかビリビリに引き裂いたドレスを身に纏い剣を振り回す、クローディアの姿があった。
(な、なんだ……あれは……まさか……クローディア、なのか!?)
悪魔も、ランドリューもまた驚きに目を見開く。
「貴方……あぁ! なんということ……いま、お助けしますから!」
「ギャァァァア!!」
クローディアはランドリューの状況を見るや否や剣を構えて跳躍し、四肢を締め付ける触腕をスパンスパンと斬り伏せていく。
ふいに緩む力に、ランドリューの身体は支えを失って床の上に落ちていった。
悪魔は、痛みに苦悶の声を上げ、ブンブンと触腕を振り回す。クローディアの姿を維持することもできず、再び形なき闇が揺らめく姿を取った。
「なぜ……貴様がここにぃ!?」
悪魔は、突然現れたクローディアに動揺していた。
「たかが人間の女風情が……ここまでいったいどうやって……!?」
屋敷の中は既に障気で溢れ、魔獣たちが次々と生じて闊歩しているはずだ。そんな魔境とも化したところを、どうしてここまで来られたのか。
それはランドリューも同じく疑問であったらしい。剣を構えるクローディアを見ながら、その瞳は当惑していた。
「どうやってもなにも……いま見たでしょう。こうやって、よ……!」
ひゅん、と振るう剣が、背後からクローディアを貫こうと伸びていた触腕を斬り捨てた。
「……ぎっ!」
「……よくも。旦那様をあのような」
クローディアはランドリューを一瞥し、その黒い瞳に憤然と怒りを宿しながら悪魔を見据えた。
「……!」
ランドリューはようやく驚愕から我を取り戻し、クローディアに見られたあられもない姿になお再び動揺した。
「チッ……ランドリューの前に貴様を料理してやる……!」
悪魔は気を取り直したように、斬られた触腕を再生させながらしなる鞭のようにクローディアに襲い掛かる。無数のそれは自在に蠢き、四方八方からクローディアに向かっていった。
「その前に、私が貴様を屠る……!」
クローディアは、トンッと軽やかに床を蹴ると、流麗な舞でも踊るかのような身ごなしで剣を振るった。
切先から青く清浄の光を放つ剣閃が、鮮やかな光の尾を描きながら暗黒を切り裂き、触腕を斬り捨てていく。
「ぎっ、ギャァ……!? な、なぜだ、なぜ……貴様、いったい……!」
瞬く間に距離を詰めるクローディアに、悪魔は慄いたように声を上げた。
クローディアの剣が、悪魔の首を撥ね飛ばそうと翻る。
「お、奥様……! 助けて……!」
「……っシオン!?」
その瞬間、悪魔の顔はシオンの顔になった。
クローディアの剣が寸前で止まる。
「ククッ……甘ったれがぁ!」
その一瞬の隙を突き、ブワッと闇が凝縮したかと思うとパンッと弾けた。
悪魔の姿は忽然と消え去っていた。
「……っ、シオン……」
クローディアは、確かに甘かったのだろう。まだあどけなさの残る少年の顔と声は、剣を鈍らせるには十分だった。
おそらくどこかに身を潜め、機を窺うことにしたのだろう悪魔に歯噛みしつつ、クローディアはランドリューに振り返った。
「貴方……!」
――
床に座り込んだまま、悪魔とクローディアの瞬く間のやり取りを見ていたランドリューは、クローディアに呼び掛けられてハッと我に返る。
「……!」
なおも封じられた声では何も応えることもできず、ランドリューはせめて身を覆うものを探した。
今やすっかり衣類を剥ぎ取られていたのだ。
クローディアはそばに落ちていたガウンを拾い、ランドリューの元に向かうと肩からそれを被せて。
「ランドリュー様」
もう一度、今度は名前で呼びかけた。
ランドリューは狼狽えたように一瞬目を泳がせ、意を決したようにクローディアを見つめる。
(嗚呼……本当に、クローディアなのか……なぜここに……)
記憶の中のクローディアよりもやけに勇ましく猛々しいが、その黒い眼差しは確かにクローディアのものだった。
ランドリューの胸がギュッと締め付けられ、心臓が痛む。
声なき呻きと共に思わず胸を押さえた。
「ランドリュー様……もしや、お声を封じられて……? だからあのような小物にいいように……?」
いつまでも何も言わないランドリューに、クローディアもやっと思い至ったようだった。
クローディアは片膝をつき、改めてランドリューの顔を覗き込む。
黒い瞳に、すっかりやつれて無精髭のままのランドリューの顔が映し出された。
「ひどいお顔……」
クローディアの顔が歪む。伸ばされたしなやかな指が、そ、とランドリューの頬を撫でた。
「……っ」
ランドリューは口を開き、何も声が出ないことに歯噛みする。躊躇いがちにクローディアの手に手を重ね。
(クローディア……)
一心に、重ね合わせた指先から少しでも想いが伝わってくれまいかと祈るような心地で内心で呼び掛ける。
「貴方……ランドリュー様……。……もう、本当に、……」
クローディアは困ったように微笑んだ。
もう片方の手もランドリューの頬に添え、挟み込む。黒い瞳が鳶色の瞳を覗き込み、見つめて。
「貴方にしかできない、あの子を救うことも……この屋敷を浄化することも……。……あとで、ゆっくりお話ししましょうね?」
クローディアはそう言うと、ランドリューの唇に自らの唇を重ね合わせた。
「……!」
柔らかな唇が触れ、そこからランドリューの内側に流れ込む温かな感覚。
身体の内側に滞っていたおぞましい邪気が、一気に浄められていく。
「は……、ぁ……く、クローディア……」
ランドリューの喉を塞いでいた呪詛がとけ、声が戻ってきた。
「はい、貴方……」
クローディアが微笑む。
「クローディア……クローディア……っ、私は……」
必死に言葉を絞り出そうとするランドリューの口に人差し指を置いて、クローディアは言った。
「まずはあの悪魔を……」
「……あぁ、そうだな」
ランドリューは頷くと、ふらふらとよろけながら身を起こす。クローディアがそれを支え、辺りを見渡してランドリューの宝玉の嵌め込まれた杖を見つけて手渡した。
それを握ると、ランドリューの表情はすっと引き締まっていく。
トン、と杖を床に突き立てて。
「ℵ℥ℜℋℛℛℌ℟ℭ℟℟ℶℷℸℷ」
カッ――
屋敷が、またもや鳴動した。
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