長雨の続いていた日々が嘘のように、その日は快晴だった。
邸の使用人たちは、ようやく訪れた気持ちの良い晴れ間にここぞとばかりに洗濯や掃除に精を出し、朝からおおわらわで、庭には洗い立てのリネンやクロスが干され、風に揺れながら日差しを受けて輝いて見える。
しかしそんな爽やかな天気とはうらはらに、ランドリューとクローディアの仲はあれからますますギクシャクして噛み合わないまま、暗雲の垂れ込める気配ばかりが深まっていた。
「貴方、ランドリュー様! 今日は本当に良い天気よ。せっかくだから薔薇を観に行きましょうよ!」
クローディアが、意を決したように、けれど殊更に明るく振る舞いながらランドリューを誘う。
新聞に目を通していたランドリューは、ちらりと彼の美しく若い妻を見ると、すぐに目を逸らした。
「すまない、クローディア。ようやく晴れた今日を逃すのは惜しいのだ。道の整備、それから増水した川の治水工事を手配せねばならん。……忙しいんだ、わかってくれ」
ランドリューの物言いは、冷たく突き放すような響きをすら持ってクローディアの胸を突き刺した。
気丈なたちのクローディアの柳眉が歪み、一瞬泣きそうな顔をする。
「……ごめんなさい、貴方。私、……」
何かを言いかけて、ぐっと唇を噛むと、パッと表情を明るくさせてクローディアは微笑んだ。
「そうね。雨が続いていたのですものね。道を綺麗にしたら、馬車が溝にはまることもなくなって移動も快適でしょうね! でも、あまり根を詰めないでくださいね」
その様子に、ランドリューの胸はヂクヂクと痛む。膿むような気すらする。なんら瑕疵のないクローディアを、振り返れば責め苛むような態度ばかり取ってしまう。その自覚はあれど、ランドリューにはそれをどうにかするうまい立ち回りが思い付かない。
遣り手の切れ者として王宮では辣腕を奮ってきたというのに、もはやその面影は遠く、ランドリューにあるのは自己嫌悪と自己卑下ばかり。かつての自信は喪失されていた。
ーー
「快晴の日々がいつまで続くかわからんからな、とにかく次の雨が来るまでに喫緊の治水の工事と、土砂の崩れそうな道の整備を頼む。……農地の方はどうだ、雨続きで例年より気温が低いようだが、作物の出来は」
「これからの天候次第では、なんとでも挽回はなるでしょうが……」
「ならん場合も充分にあり得るということだな。よろしい。ルーグ、もしもに備えておくに越したことはあるまい。倉の開放の手筈、食い詰め者に支給するリネンなど、冬になる前にできる限りを」
「は、畏まりました」
広大な伯爵領においては、各町や村に置いた代表の者が基本的な農作物などの収穫管理や税管理をすることにはなっている。
そうした代表者から陳情書が上げられ、それを精査して決裁する、のが普段のレイズワード伯爵の仕事であった。
元々国庫の管理を担っていたランドリューにとって、自領のみとなればそれ自体は容易い。
国の規模に比べれば広大とはいえ微々たるものである。
その分細かいところにまで目が行き届き、下々の声も聞き取りやすくなり、仕事量は宮仕えの頃に比べて減ったとは言い切れないところもある。
執事のルーグに指示を伝え、ランドリューは近場の治水工事と街道整備の様子を視察に行くために立ち上がった。
外套を着込みながら、ふいにクローディアの顔が脳裏に浮かぶ。
今朝、彼女の誘いをにべもなく断ったとき、物分かりのよく素直な妻がほんの微かに泣きそうな顔をしたように思う。
十五も下の若い女に、いくらなんでもおとなげのなさすぎる態度を続けている。ランドリューは再びチリチリと胸が苦しくなった。
(いったい、私は……)
なにをしているのか。
誰よりなにより愛するひとを、苦しめ哀しませている。
忙しいというのも、今日やっておきたい仕事があるのも嘘ではなかった。なかったが、ほんの少し薔薇を観に行くくらいの時間が取れない訳もない。
(薔薇、か……)
ーー
「薔薇の枝に髪を取られてしまってね、貴方もご存知でしょう? 私ったら不器用なものだから。なかなか解けなくて……」
庭師の見習いの人に解いてもらったのよ、とクローディアはささやかな自らの失敗を楽しそうな笑い話にして、ランドリューに聞かせてくれたものだった。
そうして妻の手を取れば、薔薇の棘で傷付いたのだろう指にいくつもの絆創膏が貼られていて。
「よく晴れた青空みたいに綺麗な目をしていたの、その庭師の方。ちょっとだけ見惚れてしまったわ、ふふ」
屈託なく笑う妻の黒い瞳は、無数の星を散りばめたようにきらきらと輝いていた。
ランドリューは、妻の絆創膏だらけの指を取り口付けながら、その夜、昏くヂリヂリと燃えるような悍ましい妄想に囚われたのだ。
美しい瞳の青年庭師。
妻とも歳は近いだろう。
自分には到底敵わない、そこにあるのは若さだ。
ランドリューは嫉妬を覚えた。
己よりずっと身分も低い、人生経験とて無いであろう何も持たざる若者に。
生まれて初めて、他者への嫉妬という情を抱いたのだ。
それはランドリュー自身が思うよりも早く、一瞬で大きく膨れ上がり、ごうごうと燃え滾り、今なお昏い情念に身を焦がされている思いがする。
(クローディア……このような浅ましく情けない、私の本性を知れば……きっと、君は……)
書斎の窓から見下ろす庭に、クローディアが見える。
ハタハタと風に揺れる白く輝く洗濯物の向こうに。日を浴びて艶やかにきらめくクローディアの黒髪は光沢を帯び、さながら神秘的な紫の絹織のようにも見えた。
ランドリューは眩しげに鳶色の目を細め、燻る複雑な想いを募らせていった。
ーー
「奥様、今日も薔薇を観にいらしてくださったのですね。旦那様は……?」
今日の快晴の空をそのまま映しとったような青い瞳の青年が、薔薇の園に佇むクローディアに声を掛ける。
物思いに耽るように睫毛を伏せていたクローディアは、花開くように微笑んで青年に星空のような黒い瞳を向けた。
「今日も見事に綺麗に咲き誇っていること。思わず見惚れてしまうわ。……旦那様は、お忙しいのですって。……もう、ずっと」
クローディアの声音は少しずつ落ち込んで、寂しげに薔薇へと視線が移された。
その憂う横顔に、青年が心傷めたように哀しげに眉を下げる。
「奥様……」
庭仕事で日に焼けた手が、クローディアの陶器のように白い肩に触れて。逞しい腕の中に力強く抱き寄せた。
「っあ、……だ、だめ、よ……もう、あんなこと、は……」
弱々しく抵抗を示すクローディアの華奢な手首を掴み、青年は澄んだ青空のような瞳を切なげに曇らせて彼女を覗き込む。
「でも、旦那様はお忙しいのでしょう? 奥様をこんなにも寂しがらせて……。僕なら……」
「あ……」
薔薇の園の一隅で、若い男女の影が重なり合った。
鮮やかな芝の上に、庭師のコートが無造作に敷かれしわくちゃになっていく。
「あっ! ぁんっ! はっ、ぁあ!」
「奥様っ……奥様っ……!」
晴れ渡る空の真下で、組み敷かれたクローディアが庭師の益荒男を咥え込み、甘く切ない声をこぼした。
パンパンと打ち合う素肌のぶつかる音、青年から滴り落ちる汗。
花開き、欲を持て余した若い体は、グチュグチュと抜き差しされる剛直に絡み付きうねりながら奥へ奥へと誘うように腰を揺らす。
二人分の息遣いと官能の声が、爽やかな晴れ間の薔薇の園に沁み込んでいった。
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